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『筑後国・久留米城跡』

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 福岡県久留米市の市街地の北西部、筑後川に面して久留米城が築城されていたその跡地である。

 久留米城は、室町時代の終り頃、この土地の土豪が筑後川の畔の小高い丘に砦を築いたのが最初とされる。
 秀吉の時代になっての九州征伐の後、小早川隆景久留米城は、最初は永正年間に土豪によって築かれた砦程度の城であった。

 本格的な築城は、天正15年の豊臣秀吉によの九州征伐後、毛利元就の末子の小早川秀包が久留米へ入城して、城を近世城郭へと改修したと云われる。

 関ヶ原で西軍に加わった秀包は改易され、三河岡崎より田中吉政が筑後領主となり、本拠地は柳川、久留米は支城とした。
 しかし、大坂の陣の後、田中氏は嫡子が無いという理由で改易され、戦功のあった丹波福知山城主の有馬豊氏が、任じられ城主となった。
 豊氏は、筑前城主の黒田長政の指導の下、城の修築や城下町の整備を行い、以後は有馬氏が居城して明治を迎えたとの経緯を辿っている。

 城跡の二ノ丸、三ノ丸は現在は久留米市発祥のブリジストンの工場になっていて、本丸址のみが残っている。
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 ブリジストン工場への道路に、二ノ丸跡の石柱が建っている。
 灯篭もあるが、これは本丸跡地に祀られている神社の参道としてのものであろう。
 この道を進むと、本丸跡へと近づく。
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 本丸への入口は両側に堀のある土橋である。
 土橋からは、東に隣接している久留米大学病院が望める。
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 土橋を渡ると桝形門の石垣がある。「冠木御門」と云う。
 その先に「本丸址」の標柱がある。
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 本丸址の案内図があるが、少々見にくい。
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 四隅には櫓跡、中央部は神社で「篠山神社」と云い、現在も市民の信仰の厚い神社である。

 先ずはその篠山神社である。
 祭神は、初代藩主有馬豊氏(とようじ)、第7代藩主有馬頼撞(よりゆき)、第十代藩主有馬頼永(よりとう)の3氏である。
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 南東には巽(たつみ)櫓跡がある。
 久留米の市中に向けての三層の櫓で、威容があったと云われている。
 再建計画もあるそうであるが、未だ手付かずとなっている。
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 北東には艮(うしとら)櫓跡である。
 背後には微かに筑後川が見える。
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 北西の乾櫓跡、南西には太鼓櫓跡である。
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 その他、本丸跡地内には、有馬家ゆかりの展示を行う有馬記念館、そして東郷平八郎の旧書斎も移築されている。
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 城の東側では高石垣を見上げることができる。
 そして石垣の下に蜜柑丸と云う腰曲輪の跡もある。
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『筑後国・吉見嶽城址』

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 福岡県久留米市の高良山から延びる北西の支尾根の吉見岳157mに築城されていた「吉見嶽城址」の案内図である。
 吉見嶽城は戦国時代、八尋式部が築城したと云われている。

 城跡へは、高良大社の二ノ鳥居の所の高樹神社の横手から川沿いに登る。
 途中に灯篭があるが、これは城跡に祀られた琴平神社のものであろう。
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 右手に曲輪跡とも思われる削平地が階段状に並んでいるのが見られる。
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 本郭に近づくと高く積み上げられた土盛の横を進むことになる。
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 そして本郭に付随した曲輪の跡らしきも見られる。
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 本曲輪への登り口の大手口である。
 石段を登ると鳥居があり、琴平宮となっている。
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 本曲輪跡は境内である。
 奥に社殿が設けられている。
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 社殿の横を進むと、高良山側からの虎口である。
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 少し進んでみると堀切なども見られ、城の防備であったことが分かる。
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 吉見嶽城は、肥前・肥後から豊後に抜ける軍事上の要地であった。
 この城には豊臣秀吉が九州征伐の折、陣を張ったと云われている。

『肥前国・島原城天守』

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 長崎県島原市にある島原城の復元天守である。
 初代肥前日野江藩主の松倉重政によって江戸時代初期に築城された城である。
 
 松倉重政は元々は大和の筒井順慶の家臣であったが、その後大和大納言豊臣秀長に仕えた。
 関ヶ原の戦いや大坂の陣では徳川方に参戦し軍功を挙げ、大和五条藩主、そしてこの島原の藩主になった。

 しかし禄高に過ぎる城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うことになった。
 それが天草四郎で知られる島原の乱を誘発することになったのは有名である。
 その乱の責任を問われ松倉氏は改易、その後は譜代大名が交代で入府し明治まで続いた。

 明治の廃藩置県で島原県となったが、城は廃城となり建物は取り壊された。
 この天守は昭和39年に復元されたもので、内部は資料館となっている。
 そして城跡は島原市の史跡となっている。

『肥後国・熊本城』

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 熊本市にある熊本城の石垣と天守である。
 加藤清正が、元からあった千葉城、隈本城を取り込み、江戸時代初期に現在のような姿の熊本城に改修したものである。

 熊本城は、とりわけ石垣が見事である。
 下部は緩やかな勾配であるが、上部に行くにしたがって垂直に近くなっている。
 武者返しと呼ばれるもので難攻不落の城と云われる所以である。
 
 江戸幕府は薩摩藩を仮想敵国としていて、南側が非常に堅固、北側が手薄な構造になっているのもその特徴である。

 清正の後細川氏が藩主として入城し、明治期まで続いたが、西南戦争では薩摩藩などに攻められ、一部の建物を残して天守を含む主要な建物が焼失している。

 熊本城は日本三名城の一つとされていて、焼け残った宇土櫓、監物櫓など13点が国の重要文化財に指定されている。

『琉球国・首里城』

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 沖縄県那覇市の丘陵地にある首里城(スイグスク)の正殿である。 
 琉球王朝の王城で、戦前はこの正殿などが国宝であったが、沖縄戦とその後の琉球大学建設により完全に破壊されて、当時のものとしては城壁などが残っている。
 平成の時代になって復元が行われ、主要な建物が復元されている。

 城跡は公園として整備され、首里城跡として世界遺産に登録されている。
 また国の史跡でもある。
 
 この正殿へはこれも再建された守礼門を潜って丘を登り、奉神門を入って本殿前広場である御庭に至る。
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守礼門
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奉神門

 首里城は高台であるので、那覇市内の景観を楽しむことができる。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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