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『和泉国・真鍋城址』

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 大阪府泉大津市神明町にある戦国時代の真鍋氏の居城であった真鍋城址である。
 真鍋氏は瀬戸内海笠岡市の真鍋島から和泉の国の淡輪に渡り居住したが、現地の淡輪氏と争いこの泉大津のこの地に逃れ城を構えたと云う説と、南北朝時代の楠木正成の家臣侍大将で戦国時代にはこの地に城を構えていたという説がある。

 当時の城主真鍋貞友は石山本願寺合戦で信長方の戦力として戦った。
 木津川河口の戦いにて戦死し、その子貞成の時代には秀吉に仕え、馬廻り役を命じられ大坂城内に居住したため城は不要となり破却された。
 城址には秀吉の命により一向宗の長泉寺が建立され、その後南溟寺(なんめいじ)と改名され現在に至っている。
 上掲の石碑は本堂の正面脇に建てられているものである。
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 また南溟寺の外観は二層建ての櫓風な建物があり、建物と塀の間には水路が巡っている。
 城郭の名残のようにも見ることができる。
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 境内には梅の花が咲き始め、綺麗である。
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 さて、この真鍋城址の南溟寺を訪れるには、南海電車の泉大津駅が最寄である。
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 駅の正面を西に歩くと大津神社が鎮座する。
 境内には「陰陽五行厄除桃方位盤」と云われる大きな桃が置かれている。
 また本殿の龍や獅子の彫り物も見事である。
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 神社を過ぎると浜街道に出る。
 この先は城址の神明町である。
 城の遺構なのか水路も見られる。
 街道を辿って行くと左手に真鍋城址南溟寺があるが、街道には江戸期の建物であろうか伝統的な町屋も見られる。
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『和泉国宇多大津城跡』

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 大阪府泉大津市にあった宇多大津城跡である。
 場所は泉大津市の南限を西下する大津川の右岸(北岸)で、右写真に橋が架かる紀州街道の東側である。 
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 城跡には、南北朝時代の城主であり以来この地に住む藤林氏の館の前に上掲の石碑が建てられている。
 館の前には府道が通っていて、この館だけが一風古風な趣を見せている。
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 南朝、楠木正成の生誕地であり本拠である現千早赤阪村水分(すいぶん)地区に重臣藤林民部大輔と云う武将がいたが、南朝が支配する和泉のこの地に移り住み城郭を構え、北朝方と対峙した城がこの宇多大津城である。

 余談であるが、藤林氏の出身の水分地区には、崇神天皇の時代に創建された建水分神社(たけみくまりじんじゃ)が鎮座する。
 そして境内には楠木正成を祀る南木神社も鎮座している。
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『和泉国・観音寺城』

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 大阪府和泉市弥生町にある観音寺城跡である。
 JR阪和線和泉府中駅の東部、観音寺町バス停の前の弥生4号公園という小さな公園内に石碑が建てられている。
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 そしてその場所は、下流で合流して大津川となる槙尾川と牛滝川に挟まれた小高い丘となっている。

 観音寺城は南北朝の時代に南朝に与する勇将北畠顕家(あきいえ)が築いた城である。
 当初、顕家は父の北畠親房と共に奥州を治めた。
 そして奥州兵を率い、関東、鎌倉そして京都と足利高氏軍の掃討を行い、高氏を九州まで追いやった戦いは良く知られている。
 この顕家は高氏が最も恐れた人物とされている。

 しかしその後、高氏が上京し、北朝を建てたことから事態は一変した。
 この観音寺城で兵を立て直した顕家は北朝軍の高師直と堺の石津川で戦ったが敗れ、その後楠木正行も師直に敗れ、南朝は壊滅へと向かったのであった。

 尚、北畠顕家の子孫は、その後足利将軍家に憚って北畠の白を取って北田と改姓し、現大阪府交野市にあった交野城の安見氏の重臣となった。
 安見氏が織田信長に滅ぼされた後は、旗本畠山氏が築いた交野代官所にて代官を務めた。
 その北田住宅は、主屋が重要文化財、長屋門は55mもある珍しいものでもある。
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『和泉国・貝吹山城跡』

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 大阪府岸和田市池尻町にあった貝吹山城の跡である。
 この城は戦国時代に三好長慶の次弟の三好義賢(よしかた)が、橘諸兄(もろえ)塚、又の名を貝吹山古墳と云われる前方後円墳上に築かれたものである。

 場所は、JR阪和線の久米田駅の東方の大阪府最大の溜池である久米田池の西岸である。
 久米田池は奈良時代の初めに灌漑用として僧行基や橘諸兄などが10数年の歳月を要して開削したものである。
 同時に池を護る隆池院久米田寺を西岸に創建した。
 久米田池から東方に、大阪府最高峰の頂上が冠雪している金剛山が望める。
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 久米田寺は現在は高野山真言宗の大寺院で、何度かの戦火に焼かれたが今なお健在である。
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 寺の西に隣接して古墳がある。
 先ずは光明皇后を祀る円墳の光明塚があり、道路を挟んで前方後円墳である冒頭写真の諸兄塚がある。
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 さて城跡の諸兄塚であるが、濠に囲まれた後円部には土橋が架けられていて登ることができる。
 前方部の堀は埋められていて周辺の土地と繋がっている。
 そして前方部は削平されている。
 館群が建てられていたものと思われる。
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 諸兄塚に隣接して円墳の無名塚古墳、風吹山古墳がある。
 綺麗に整備されていて、無名塚には埴輪も置かれている。
 そして一帯が久米田古墳公園となっている。
 古墳群が取り巻いている公園も少年野球ができそうなくらいで、かなりの広さである。
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 三好長慶であるが、兄弟たちと力を合わせ一時期、四国を制覇し、摂津国、河内国、和泉国をも制覇し、畿内の覇者となった。
 しかしいつまでも続く訳ではない。  
 細川、畠山などの逆襲に合い、四国を護っていた三好義賢が駆けつけたが、この久米田の地において畠山、根来寺の連合軍に鉄砲の力で敗れたと云われる。
 それを契機として長慶は力を削がれ、三好一族は没落していくことになった。
 尚、三好氏の墓は、長慶が親元長の菩提を弔うために建立した堺の南宗寺にある。

『和泉国・伯太陣屋跡』

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 江戸時代には大阪府南部の和泉国に伯太藩が存在し、その陣屋御殿があった。
 その跡地は現在の和泉市伯太町の3丁目4丁目辺りで、JR阪和線信太山駅の東方の高台一帯である。

 伯太陣屋跡へは信太山駅で下車し、駅前から東への道を辿る。
 途中右手に式内社「博多神社」で、現在社名「伯太神社」が鎮座する。
 祭神は伯太比古命、伯太比売命の他、合祀による計10柱である。
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 この神社辺りから登りとなり、同時に陣屋の領域となる。
 神社横の道を登って行くと左手が4丁目となる。
 一本北にある4丁目の街中の道を登るとフェンスで覆われた空き地に行き当たる。
 冒頭の石碑が建ってられていて、陣屋御殿跡と云われている。
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 伯太陣屋の藩主は徳川家康に仕えた渡辺氏の分家である。
 渡辺氏の古くを辿ると、嵯峨源氏源融の子孫の大江山の酒呑童子退治で有名な源綱(みなもと の つな)の流れである。
 渡辺氏は、大坂の陣の以降、大坂定番となり、当初は武蔵国野本陣屋、そして大坂の大鳥郡大庭寺陣屋、そしてこの伯太陣屋へと移動した。
 そして明治以降は伯太藩は伯太県となったが、最終的に大阪府に編入された。

 陣屋跡の近くの公園には白梅がしっかりと咲いている。
 尚、この陣屋の裏門が堺市の小谷城郷土館に移築されている。
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『和泉国・小谷城跡』

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 大阪府堺市南区豊田にある小谷城跡である。
 交通機関の場所で云うと、泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅と栂・美木多駅の中間あたりの線路の少し北東側にある。

 小谷城はこの辺りでは最も古い城と云われている。
 平安から鎌倉時代にかけて、平家の係累の小谷氏が、小谷城、東の城、西の城の三つの城を築いたのが始まりである。

 小谷城は南北朝時代には南朝方として戦った。
 また戦国時代は、紀州根来寺に与した根来党であったため、織田信長の軍に攻められ、三つの城(鼎城ともいう)は落城したと云われている。
 その後に小谷氏は大坂夏の陣に徳川方として参戦し、武功をたて郷士となった。
 そして江戸時代は、伯太藩主渡辺家に仕えるとともに庄屋も務めたと云われる。

 その後も小谷氏はこの場所に住み続け現在に至っていて、住宅を小谷城郷土館として開設している。
 館正面の長屋門は藩主渡辺氏の伯太陣屋のものを移築したものである。
 小谷城の跡地の大部分は、阪和泉北第一病院の敷地となっており、本丸の跡地は病院の手で史跡として保存されている。
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 郷土館を西に回ったところにも小谷氏の御殿の石碑と登城口がある。
 こちらは西小谷氏の居館であったと云われる。
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『和泉国・陶器城跡』

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 大阪府堺市中区陶器北の、現在は東陶器公園となっている陶器城跡である。
 城跡のおおよその場所は、南海電車高野線北野田駅と高野線から中百舌鳥で別れる泉北鉄道深井駅を結ぶ線の中間付近にある。
 また城跡の北に隣接して東陶器小学校がある。
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 陶器城は鎌倉末期には北条方の陶器左衛門尉の居城であったとされるが、南朝の楠木正成一族に滅ぼされた。
 その後も北朝の拠るところであったが、再び南朝方の和田(にぎた)助氏・助重に攻められたと云われる。
 その後、戦国の拠点の城として改修、活用されたが、詳細は不明である。
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 公園の南側には、金網に囲まれていて、城の遺構である土塁や武者走りが保存されている。
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 陶器城跡の南側は低地となっていて、陶器川が流れている。
 その川の向こう側の段丘に、国の登録有形文化財の兒山(こやま)家住宅が健在である。
 兒山氏は中世からの家系で、江戸時代には庄屋、代官を務めたと云われ、この地域の歴史の深さを偲ばせている。
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『京都・北野天満宮』

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 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第二十五番目の北野天満宮である。
 かつての平安京の西大宮通、現在の御前通を北上すると今出川通と交差する所で天満宮に突き当たる。
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 鳥居を潜り暫く行くと右手に豊臣秀吉が開いた北野大茶会とその時の太閤井戸、そして左手に道真公の母君を祀る伴氏社が鎮座する。
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 神門である楼門を潜り、左手に絵馬殿を見て北に進むと、日月星の彫刻が掲げられている三光門と云われる重文の中門に至る。
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 中門を潜ると冒頭の本殿に至る。
 本殿は桃山時代建築による権現造りで、国宝となっている。
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 北野天満宮は、道真公が大宰府で亡くなってから都に落雷などの災害が多発したため、時の朝廷が道真公の左遷を撤回し正二位を贈ったが、それでもおさまらなかった。
 道真公の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)に託宣があり、そして近江国比良宮の神官らにも同様の託宣があったことから、朝廷によりこの北野の地に道真公を祀る神社が創建された。
 その後、一条天皇から「北野天満宮天神」の称が贈られ、更に道真公には正一位・右大臣・太政大臣が追贈されたとの経緯を辿っている。
 北野天満宮は、道真公墓所の大宰府天満宮と共に、天満宮の総帥とされている。

 北野大茶会に茶菓を提供した境内にある長五郎餅店を見て重文の東門から退出する。
 そこには上七軒歌舞練場があり、その背後に室町以来の茶屋街が広がっている。
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『高槻市・上宮天満宮』

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 大阪府高槻市に鎮座する上宮(じょうぐう)天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第二十四番目である。
 この本殿は広い境内竹林から採集された竹で構成されていて、竹の本殿と云われる。

 この上宮天満宮は京都の北野天満宮よりも古く、日本で二番目に古い天満宮と云われている。
 その創建の経緯は、元々この地には道真公の先祖である野見宿禰の墳墓があり、宿禰を祀る神社「野身神社」が鎮座していた。
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 道真公が大宰府で死去してから、勅使・菅原為理が太宰府に下向し、道真公の墓に参拝し、贈左大臣正一位の詔を伝えての帰り道、この地、摂津国三島郡で牛車が動かなくなった。
 それに恐れを感じ、この日神山(ひるがみやま)山上に道真公の自画像を祀ったのが始まりである。

 上宮天満宮はJR高槻駅の西側の程近くにある。
 駅前の通りを歩くと大鳥居、そして天満宮への参道階段となり、境内へ至る。
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 境内直ぐ右手は宿禰塚古墳となっていて、そこには上記の野身神社が鎮座する。
 奥への参道は、正面に割拝殿、拝殿、そして本殿へと連なっている。
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 この上宮天満宮の境内には、別の古墳も存在する。
 昼神車塚古墳といい、境内は府道で分割されているが、埴輪の模型も並べられていて、その雰囲気を偲ぶことができる。
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『尼崎・長洲天満宮』

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 兵庫県尼崎市、JR尼崎駅の南近所に鎮座する長洲天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十三番にあたる。

 大宰府へ赴任するする道真公は京から船で大坂まで下り、大坂ではおばを始め関係者と別れを惜しんだ後、尼崎の大物浦からの船旅の頃合いを待っていた。
 潮が整うまでの間、長洲に向かいながら付近を散策していた時のこと、道真公の足元が砂で汚れているのを見て、村の老婆が池の水で足を洗い清めたと云われている。
 その池は「菅公足洗之池」と呼ばれ、現在も保存されている。
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 そのお礼にと道真公は自画像と歌を詠んで残したのであった。
 「人知れず 移る涙は 津の国の 長洲と見えて 袖とぞ朽ちぬる」
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 道真公が大宰府で亡くなった時、地元の人たちは自画像を祀る祠を建て、道真公を偲んだのであった。

 そして、江戸時代になって、その祠は天満宮として創建された。
 本殿は覆屋に覆われて見えないが、桃山建築様式を良く伝えていると云われ、市の文化財第一号に指定されている。
 横から眺めた写真の右が拝殿、左が本殿覆屋である。
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『大阪市・福島天満宮』

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 大阪市福島区福島に鎮座する福島天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十二番目である。

 道真公は大宰府に赴任する途中、大坂で名残を惜しんだ後、いよいよこの福島から瀬戸内海に船出をすることになった。
 道真公の左遷を惜しむ地元の人たちが集い、見送りの宴を開いたという。

 道真公が、「この地は何と云う地か?」と尋ねたところ、「餓鬼島」、「葭原島」との答えに、道真公は「地名はよろしくない。福島にせよ」と名付け、自画像を描き与えたのであった。
 この街の人たちは離れ行く道真公の船に播磨の国まで付き添い、見送ったと云われる。

 大宰府で道真が亡くなったと云う報に触れた街の人たちは、道真公の自画像を祀る祠を建てたのがこの天満宮の始まりである。

 福島天満宮はJRや阪神の福島駅、あるいは新福島駅から南下、ほたるまちの朝日放送の局舎に向かう右手にある。
 上掲の鳥居を潜り、神門を入ると拝殿に達する。 
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 神社の裏手には福島幼稚園がある。
 勿論のこと道真公の学識に幼児の時代からあやかろうとの考えである。
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 福島天満宮は、この上の社、中の社、下の社の3ヶ所で構成されていた。
 中の社は少し西に行った旧厚生年金病院、現独法の大阪病院のところにあった。
 現在は上の社に合祀され、その主旨の石碑が建てられているのみである。
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 中の社と更に西の下の社との間には広い下福島公園がある。
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 公園の向こうに下の社、現在の天神社が鎮座する。
 この天神社にも幼稚園が付属している。
 やはり上の社と同じように道真公にあやかろうと云うスタイルであろうと思われ、微笑ましい印象を受けた。
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『大阪市・露天神社』

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 大阪市北区曽根崎に鎮座する露天神社である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十一番目である。

 上掲の拝殿の両側には、左近の桜、右近の橘もある。
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 道真公は大宰府へ左遷される途中、西の福島にて船泊りし、この地の東にある嵯峨天皇、源融ゆかりの太融寺を訪れた。
 この露天神社の地には、当時難波八十島祭に由来する神社があり、この地にて、
「露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出ずれば」
 という歌を詠んだ。
 その歌がきっかけとなって、道真公の死後は、道真公を祀り、露天神社と称されるようになったと云う経緯がある。

 神社は商店街の中にあり、四方から境内に入ることができる。
 南からの表参道、曾根崎商店街に続く西参道である。
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 しかしこの神社は「お初天神」としての方がよく知られている。
 それは近松門左衛門の人形浄瑠璃「曾根崎心中」の舞台だからである。

 その物語はこうである。
 内本町の油屋平野屋の手代徳兵衛と、堂島遊郭の遊女お初は恋仲になっていた。
 悪党の九平次に金を騙し取られた徳兵衛は、いよい最後とお初の遊郭に現われ、心中道行の場面となる。

 近松の名調子は、
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、
 一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ 
 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、
 鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」

 時は六つ午前4時、人目に付かぬように北側を大きく迂回、今の大阪駅の辺りの荒地のぬかるみの中を手を取り合って露天神目指したのであった。
 神社の森へ到着した二人は、心中の場面を迎えた。

 この浄瑠璃、その時まで時代物主流の浄瑠璃を、世話物という新しい世界に変革する力となった。
 そして天神社はお初天神と呼ばれるようになったのである。 
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 境内にはその像が設けられている。

 余談であるが、先の戦争の終戦近くに、米軍機グラマンの機銃掃射を受けた弾痕が拝殿前の石柱に残されている。
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『大阪市・大阪天満宮』

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 大阪市北区の天神橋筋に鎮座する大阪天満宮である。
 大阪の中心街にあり、天満の天神さんとして親しまれている。
 シーズンにもなると多くの受験生で賑わうところでもある。
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 また、この神社の天神祭は大阪の夏の風物詩、日本三祭りの一つでもある。

 勿論のこと、この天満宮も菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十番目に位置づけされている。
 道真公が大宰府へ左遷赴任する時にこの地にあった大将軍社にお参りしたと云われる。
 道真公が大宰府で没した後、大将軍社の前に7本の松が生え霊光を放ったという話が都に伝わった。
 そして当時の村上天皇の勅命によって、この地に天満宮が創建されたのがこの天満宮の始まりである。

 梅の季節が近づいている。
 今年のものではないが、枝垂れ梅や紅白の梅が綺麗である。
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 境内の北側には、星合の池がある。
 星合茶屋があり、「すべらんうどん」が名物である。
 また池には、アオサギの像、そして本物の鷺がパフォーマンス中なのも微笑ましい。
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 また境内の外北側には、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」があり、ファンが詰めかけているのも似つかわしい光景である。
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『大阪守口・佐太天神宮』

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 大阪府守口市佐太中町に鎮座する佐太天神宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第九番目にあたる。

 道真公が大宰府へ左遷され赴任する途中に自らの荘園であったこの地を訪れた。
 この地で道真公は理解ある宇多上皇の計らいで左遷が取りやめになることを期待し、その「沙汰」を待った。
 しかし叶わず、赴任する覚悟を決めし、木像と自画像を残し大宰府へ旅立ったと云われる。

 道真の死後、この郷の人たちが木像と自画像を御神体として祀り、社名も沙汰に因み佐太天神社が創建されたのであった。
    CIMG9747_convert_20150211080232.jpg  CIMG9742_convert_20150211080054.jpg  CIMG9741_convert_20150211080028.jpg

 江戸時代には、淀城主の永井氏の一族がこの地を治めており、南隣に陣屋があった。
 南門を出ると、そこには守口から移転した来迎寺、そして陣屋跡の説明板がある。
 その永井氏や、淀屋が寄進し、拝殿などの改修が行われ、現在に至っていると云われる。
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 佐太天神社の境内には、道真公が自らの姿を写し自画像を描いたと云われる「菅公水鏡の池」がある。
 そして、天満宮のお決まりである筆塚もある。
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 江戸時代には、与謝蕪村も訪れていて、句碑「窓の灯の 佐太はまだ寝ぬ 時雨かな」と刻まれている。
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『大阪藤井寺・道明寺天満宮』

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 大阪府藤井寺市道明寺、近鉄電車南大阪線道明寺駅の近所に鎮座する道明寺天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第八番目となっている。

 この神社の鎮座地は、道真公の祖先とする土師氏そしてそのまた祖先である野見宿祢の所領地であった。
 土師氏はこの地に土師社と土師寺を建立していた。
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 道真公の頃、土師寺には道真公のおばである覚寿尼(かくじゅに)公が住まいしていた。
 道真公にとってはここが第二の故郷、子供のころから時々訪れていた。
 道真公が大宰府に左遷された時、道真公はこの寺に立ち寄り、おばと別れを惜しんだと云われる。

 道真公が大宰府で亡くなってから、道真公手掘りの木像を神社に祀り、寺は道明寺、神社は道明寺天満宮とした。
 この道明とは道真公のペンネームの一つであったものである。
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 訪れた時、能舞台では子供の合氣道のイベントが行われていた。
 また境内には梅も咲き始めている。
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 尚、道明寺天満宮には国宝の道真公の遺品6点が保存されている。

 次は隣にある道明寺である。
 楼門は見事である。
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 この寺には、道真公の作で萱の木の一本造り、檀像様(だんぞうよう)の十一面観音立像が祀られている。
 もちろん国宝である。
 また境内にはロウバイも花を付けていた。
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『奈良吉野・威徳天満宮』

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 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第七番目の威徳(いとく)天満宮である。
 奈良県吉野町の世界遺産金峯山寺(きんぷせんじ)の境内に鎮座する。
 金峯山寺は世界遺産で、仁王門、本堂は国宝でもある。
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 本堂に向かって左手前に天満宮がある。
 拝殿、本殿とも豊臣秀頼に改修され、桃山風の建築を保っていると云われている。
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 この威徳天満宮は創建の経過が変わっている。
 日蔵上人という僧が、大峯山中の「笙の窟」というところで修行中に、すでに没していた醍醐天皇が現れ、
「儂は、藤原時平の讒言によって菅原道真を大宰府に追いやり、殺してしまった。その罪により死後の苦しみを味わっている。上人よ!天満宮を建て、道真の霊を弔ってくれ」
 との言葉を残し去って行ったと云う。
 日蔵上人は修業が終わり吉野へ戻って直ぐに天満宮を建立した。
 それ故、この天満宮は最古の天満宮と云われている。

 金峯山寺へお参りするには近鉄吉野線の終点吉野駅がスタートである。
 駅から日本最古のロープウエイに乗って、吉野山まで行く。
 そして町内の細い道路を登る。
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 しばらく行くと、黒門、そして銅の鳥居がある。
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 そしてその先は上の写真にあった金峯山寺仁王門である。
 仁王門は残念ながら修理中であった。

 仁王門を潜り階段を上がると本堂の横に出る。
 実は仁王門と本堂はお互いに背中合わせに建っている。
 これは珍しい光景である。
 
 余談であるが、この金峯山寺の近くには、南北朝時代南朝の御所があった。
 当時の吉水院(きっすいいん)、現在の吉水神社の境内である。
 町中の道を少し降りたところであるが、後醍醐天皇のほか、源義経や豊臣秀吉ゆかりの地でもあり、世界遺産でもある。
 そして御座所は重要文化財ともなっている。
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『奈良・與喜天満神社』

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 奈良県桜井市初瀬の天照大神初降臨の地と云われる與喜山(天神山)に鎮座する日本最古の天神社、與喜(よき)天満神社である。
 菅原道真公を主祭神とし、道真公聖蹟二十五拝の第六番目とされている。

 鎮座地は西国三十三ヶ所で知られる長谷寺の初瀬川を挟んだ対岸の山、天然記念物暖帯林の與喜山中腹である。
 元々、この初瀬の出雲の地は、菅原道真公の先祖である野見宿祢が住まいしていた道真公の故郷である。
 道真公も時々は里帰りし、長谷寺にお参りしていたと云われる。

 ある時、道真公と思しき人物から土地の樵に、「この像を祀れ」と木像が渡された。
 そして祠を建てこの像を祀ったのが最初である。

 その後、道真公が大宰府で死去してから、この地に道真公の神霊が現れ、初瀬川で身を禊ぎ、「右大臣菅原道真である。この良き山に神となって鎮座しよう」と語り、この山に鎮まったと云われる。
 そして「良き山」から與喜(よき)天満神社と名付けられたとの謂れがある。

 天満神社へは、近鉄大阪線長谷寺駅で下車する。
 初瀬街道の谷を挟んで、初瀬の山々が見える。
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 一旦、谷の底の川沿いの初瀬街道まで降り、門前の通りとなっている街道筋を東へ進む。
 途中に伊勢街道への分岐点「伊勢辻」がある。
 そこには草餅の元祖の店が今も健在である。
    CIMG0090_convert_20150208093749.jpg  CIMG0092_convert_20150208093810.jpg  CIMG0141_convert_20150208094402.jpg

 真っ直ぐ行くと右手に與喜天満神社の御旅所がある。
 道真公の神霊が初めて現れ座られた所とのことである。
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 更に行くと右手に法起院という寺がある。
 西国三十三ヶ所礼拝の開基である徳道上人の墓所でもある。
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 ここで長谷寺への参道は左へ折れるが、そのまま行く正面は與喜天満神社への参道となる。
 初瀬川に架けられた天神橋を渡って登り参道となるが、橋の上から川の向こうの山腹に長谷寺の本堂が見える。
    CIMG0100_convert_20150208093925.jpg  CIMG0101_convert_20150208093947.jpg  CIMG0102_convert_20150208094011.jpg

 鳥居を潜ると参道石段となる。
 石段は古く苔むしている。
 参道の途中から参道商店街が綺麗に見える。
    CIMG0103_convert_20150208094034.jpg  CIMG0111_convert_20150208094121.jpg  CIMG0108_convert_20150208094058.jpg

 登りつめた所が冒頭の神社拝殿である。
 本殿は覆屋に覆われている。
 左手には幾つかの磐座が祀られている。
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 裏参道を降りる。
 降り切って川を渡るが、連歌橋という橋が架かっている。
 かつて長谷寺に集まった僧や貴族たちが與喜天満神社での連歌法楽のため、この橋を渡ったと云われる。
 少し下ったところに天満神社の「中の橋御旅所」が祀られている。
 神霊となった道真公が上述の如く初瀬川で禊をし休んだ所と云われている。
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『京都・長岡天満宮』

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 京都府長岡京市に鎮座する長岡天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第五番に位置づけされる。

 この地は菅原家の別荘地であった。
 道真公は在原業平ら友人たちと弦楽や詩歌を楽しんだところであった。

 道真公が左遷され九州へ赴く時、この地に友人たちが集まり別れを惜しんだと云われる。
 道真公の歌、
     「桜花  ぬしを忘れぬ ものならば 吹きこむ風  ことづてはせよ」
 そして道真公頌徳詩碑が掲げられている。
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 そして道真公の一族であった中小路宗則氏らが九州へ同行した。
 道真公没後に中小路氏は道真公自らが彫った木像を持ち帰り、この地に祀ったのがこの天満宮の始まりである。
    P1160395_convert_20150206204937.jpg  P1160402_convert_20150206205102.jpg  P1160406_convert_20150206205150.jpg  

 中小路氏はこの地の豪族一族である。
 戦国時代には開田城を築き、街を防備したと云われる。

 江戸時代になって、桂離宮の造営で知られるに八条宮智仁親王によって八条ヶ池が築造された。
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 また境内には三春滝桜や献酒、珍しい献ビールも見られる。
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 境内には中小路氏の像が建っている。
 明治になって神社を再興した宮司の宗城大人、そして昭和に平安神宮の社殿の移築に功があった宗康大人である。
 宮司の像が建っているのも珍しい光景である。

 尚余談であるが、長岡京市の現在の市長は中小路氏が務められている。

『京都・吉祥院天満宮』

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 京都市南区吉祥院に鎮座する吉祥院天満宮である。
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 この天満宮は菅原道真公の聖蹟二十五拝の第四番にあたる。

 この吉祥院の地に平安遷都に合わせて道真公の曽祖父・土師古人(はぜのふるひと)が大和から移って来て、邸宅を構えた。
 道真公の祖父の清公の時代に菅原の姓に改姓したと云われる。

 菅原清公公が遣唐使として唐からの帰りに嵐に巻き込まれたことがある。
 その時、吉祥天女の霊験により難を逃れたため、菅原家では道真公の父の時代に吉祥天女を祀ったと云われる。
 境内には、現在も吉祥天女社が祀られている。
 また吉祥院という地名の由来にもなっている。
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 一説には、道真公はこの屋敷で生まれ、成人するまでこの邸で育ったとも云われる。
 その証しとして道真公が書道の勉学や自らの顔を写した「鑑の井」もある。
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 道真公が大宰府で亡くなった後、公の怨霊鎮魂のために朱雀天皇勅願により、この地に天満宮が祀られたのが始まりである。

『京都市・菅大臣神社』

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 京都市下京区の西洞院仏光寺通りに住宅街の中にある菅大臣神社である。
 この場所は菅原道真公の白梅殿、紅梅殿と云われる屋敷や菅家廊下(かんけろうか)と呼ばれる学問所があったところである。
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 道真公の聖蹟二十五拝の第三番に位置づけされている。

 何度も戦火に遭遇しており、現在の本殿は明治時代に下鴨神社の社殿が移築されたものとされている。

 境内には道真公誕生の井戸が護られている。
 石碑には「天満宮誕生水」とされている。
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 道真公の歌「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」で良く知られる飛梅もある。
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 この境内は白梅殿と云われ、通りを挟んで北に紅梅殿跡に道真の父是善を祀る神社が建立されている。
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『京都市・錦天満宮』

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 京都市中心街の賑やかなところにある錦天満宮である。
 場所は四条河原町の北西方向、京の台所として知られる錦小路の東詰めで、寺町通りに面して上掲の鳥居が建っている。
 また参道には新京極通りが交差していて、およそ神社とは思えない雰囲気のところでもある。
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 この天満宮は、菅原道真公の聖蹟二十五拝の第二番である。
 この天満宮、元々は道真公の父親の菅原是善の旧邸菅原院が、源氏物語のモデルとされる嵯峨天皇の皇子の源融の邸宅六条河原院の跡地(現在の東本願寺渉成園)に移築され、その場所に寺院歓喜寺と鎮守社が創建されたのが始まりである。

 豊臣秀吉が京都を支配する時代になり、寺院と天満宮も現在の寺町に移動させられ、以降この場所に鎮座し続けている。
 しかし、明治時代になって、上述のように新京極通りが敷設され境内を通り抜け、付近は歓楽街となった。
 天満宮は境内の多くを供出し、現在は社殿の区画だけが健在である。
 そして場所柄、観光客も含め多くの参拝者が絶えない神社となっている。
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 参道の両側にもぎりぎりにビルが建てられ、鳥居の先端がビルの中に取り込まれると云う状況も起こっている。
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『京都市・菅原院天満宮神社』

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 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第一番の神社「菅原院天満宮神社」である。
 京都御苑の西の入り口下立売御門の烏丸通りを挟んで真向いに鎮座する。
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 この神社は菅原道真の一族が住んでいた邸宅跡に建立されたと云われる。
 神社には道真公の他、父、祖父、曽祖父も祀られている。
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 また境内には道真公が使ったと云われる産湯の井戸も祀られている。
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 邸宅は四方の通りに挟まれた広大な屋敷であったそうであるが、現在は主として平安女学院という学校の敷地となり、神社も狭い境内となってしまっているのは残念である。

『香川県・滝宮天満宮』

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 香川県の中央部、綾歌郡綾川町に鎮座する滝宮天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝、第十八番である。

 道真公は讃岐国の国司に任じられ、ここ讃岐国に赴任したことがある。
 ここ滝宮と高松市内の上天神町に官舎があり住まいしたと云う。

 当時に讃岐国が大旱魃に見舞われたことがある。
 その時道真公は、祈雨の願文を捧げて、断食しながら7日間祈祷したという。
 その功があり、住民は救われ、その喜びが滝宮の念仏踊りとして、今に伝えられている。

 道真公が九州大宰府に左遷され、現地で亡くなった後に住民たちは官舎跡に道真公を祀る天満宮を創建したのが滝宮天満宮の始まりである。
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 滝宮天満宮は付近の梅の名所でもある。
 紅梅、白梅など、梅林も見られる。
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 天満宮の隣には、天満宮よりも200年も前に、創建が行基菩薩と伝えられる素戔嗚尊を祀る滝宮神社が鎮座する。
 道真公はこの神社で祈りを捧げ、念仏踊りの起源の神社でもある。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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