JR東西線7・御幣島駅
大阪市内を地下鉄道にて京橋駅から尼崎駅の間を東西に走り抜けるJR東西線の京橋駅から数えて7番目の「御幣島(みてじま)駅」で下車してみる。
(上図の上は西方向)
御幣島駅は、東に淀川、西に神崎川に挟まれた西淀川区にあり、「国道2号線」、「淀川通り」、そして「みてじま筋」の五叉路交差点である「歌島橋」の地下にある。
駅ホームにあるシンボルマークは「渡し舟」である。
駅から地上に出て、「みてじま筋」を北上すると「御幣島公園」があり、その公園内に「住吉神社趾碑」がある。
この住吉神社は、御幣島の名前の起源に由来する。
古代、神功皇后が三韓征伐の帰途に島に上陸して住吉神を祀り、御幣(ごへい)を献げたとの謂れである。
御幣島駅の東側に、斜めに通る「大野川緑陰道路」がある。
この道路は、かつて地域の舟運や治水などに利用されてきた大野川であるが、工業化の波に押され工場排水によって河川の汚濁が目立つようになり、1970年代の初めに埋め立てられ、約4Kmの歩行者・自転車専用道路とされたものである。
今度は、現在の住吉神社を目指して、歌島橋から西へと進む。
その「大和田住吉神社」は神崎川に近い大和田地区の西に鎮座している。
大和田住吉神社は、1320年創建とされる。
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、気長足姫尊の住吉4神である。
正面には拝殿、その背後には本殿が祀られている。
この住吉神社には、境内に由緒ある石碑が設置されている。
先ずは万葉歌碑、
「濱清よく 浦なつかしき 神代より 千船の泊る 大和田の浦」
である。
この歌は、神戸市の大和田の泊を詠んだものとされる説もあるが、摂津名所図会にはこの地と記されているとのことである。
更に、「判官松之跡碑」である。
源義経が瀬戸内海へ向け平家討伐の軍を発した時、この地にて海上安全の祈願をし、松苗を手植えしたとの碑である。
その隣に、「新千舩橋」の親柱も置かれている。
また境内にはいくつかの境内社が祀られている。
その1社である「金比羅神社」である。
神社を後に神崎川の畔に出てみる。
上部は阪神高速道路の高架である。
そして阪神電車が川を渡り、川の向こうには「千船病院」が見える「佃島」である。
(上図の上は西方向)
御幣島駅は、東に淀川、西に神崎川に挟まれた西淀川区にあり、「国道2号線」、「淀川通り」、そして「みてじま筋」の五叉路交差点である「歌島橋」の地下にある。
駅ホームにあるシンボルマークは「渡し舟」である。
駅から地上に出て、「みてじま筋」を北上すると「御幣島公園」があり、その公園内に「住吉神社趾碑」がある。
この住吉神社は、御幣島の名前の起源に由来する。
古代、神功皇后が三韓征伐の帰途に島に上陸して住吉神を祀り、御幣(ごへい)を献げたとの謂れである。
御幣島駅の東側に、斜めに通る「大野川緑陰道路」がある。
この道路は、かつて地域の舟運や治水などに利用されてきた大野川であるが、工業化の波に押され工場排水によって河川の汚濁が目立つようになり、1970年代の初めに埋め立てられ、約4Kmの歩行者・自転車専用道路とされたものである。
今度は、現在の住吉神社を目指して、歌島橋から西へと進む。
その「大和田住吉神社」は神崎川に近い大和田地区の西に鎮座している。
大和田住吉神社は、1320年創建とされる。
祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、気長足姫尊の住吉4神である。
正面には拝殿、その背後には本殿が祀られている。
この住吉神社には、境内に由緒ある石碑が設置されている。
先ずは万葉歌碑、
「濱清よく 浦なつかしき 神代より 千船の泊る 大和田の浦」
である。
この歌は、神戸市の大和田の泊を詠んだものとされる説もあるが、摂津名所図会にはこの地と記されているとのことである。
更に、「判官松之跡碑」である。
源義経が瀬戸内海へ向け平家討伐の軍を発した時、この地にて海上安全の祈願をし、松苗を手植えしたとの碑である。
その隣に、「新千舩橋」の親柱も置かれている。
また境内にはいくつかの境内社が祀られている。
その1社である「金比羅神社」である。
神社を後に神崎川の畔に出てみる。
上部は阪神高速道路の高架である。
そして阪神電車が川を渡り、川の向こうには「千船病院」が見える「佃島」である。