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『大阪・誉田八幡宮』

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 大阪府羽曳野市古市古墳群の中心にある応神天皇陵の後円部分に繋がって鎮座する誉田(こんだ)八幡宮である。
 八幡神社であるから、勿論のこと応神天皇を祀っている。
  
 第15代の天皇である応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)とも云い、神功皇后が生んだ子で、仁徳天皇の父でもあり、全国の八幡神社で祭神として祀られている。

 この誉田八幡宮は当初天皇陵に祠が建てられたことから日本最古の八幡宮と云われ、八幡信仰が盛んになったころ、少し南の現在の地に遷座されたものである。
 この神社から放生川に架かる放生橋を渡って天皇陵に行くことができる。
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 南北朝時代から、幾つかの戦火に見舞われ、都度改修を繰り返されてきている。
  
 応神天皇陵は正式には誉田御廟山古墳と呼ばれ、その大きさは仁徳陵に次ぐもので全国2位、全長は約420mである。
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『珍しいもの…』

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 東京の杉並区のある街角を歩いていて、珍しいものを見つけた。
 あるお家の門柱にこのような写真のものが取り付けられていたのであった。

 何かと云えば、アマチュア無線、通称「ハム」のコールサインを記したプレートである。
 アマチュア無線を楽しむ場合は、総務省で資格の免許を得て、連盟から無線局を運用するコールサインを手に入れなけれはならない。

 無線局の歴史は戦前は紆余曲折してきたが、それはそれとして戦後、明快にエリアごとにコールサインが決められたのである。
 関東・信越がJA1,東海・北陸はJA2という風に、北海道JA8まで決められた。
 恐らくその一号コールサインがこのJA1AAであろう。

 後に、関東から信越が切り離されJA0(ゼロ)に、東海から北陸が切り離されJA9となって、現在は10地域でコールサーインが付与されている。
 そしてJAが満杯になったので、その次はJH、JR、…、という風に進んできている。

 我が国の高度成長期には、無線で遠方と交信したり、会話を楽しんだりが流行したが、携帯電話やパソコンWEBが身近になってくるとファンが減ってきたのもやむを得ないことと思われる。

『菜の花』

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 道を歩いていると菜の花の咲いている風景が見られる。
 いよいよの春という季節が近づいた。

 菅原道真公が九州へ下向する途中、大坂の道明寺に立ち寄った時、辺り一面に菜の花が咲いていたそうである。
 流された後、叔母君である覚寿尼(かくじゅに)は、その菜の花を思い、それを模した黄色の団子を陰膳として供えていた。
 それを参拝者にも分け与えたところ、病気平癒の効ありとして、たちまちに広まったとされている。
 この逸話に基づき、道明寺天満宮では神殿に菜の花を供える「河内の春ごと」という神事が3月に行われる。

  「菜の花畠に 入り日薄れ
   見わたす山の端 霞ふかし
   春風そよふく 空を見れば
   夕月かかりて におい淡し」
 
 菜の花、春を感じさせる花である。

『大阪・道明寺の梅』

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 大阪府藤井寺市道明寺にある道明寺の楼門である。
 梅の花は七分咲きぐらいであろうか。

 寺院に梅は珍しいが、実はこの寺、菅原道真に大いにかかわる寺院であるからであろう。
 この地は、菅原氏の祖先土師(はじ)氏、そのまた祖先に当たる野見宿禰の所領であった。
 そして野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。
 その後、仏教伝来に合わせ聖徳太子の発願により土師氏の氏寺である土師寺が建立され、道真の叔母覚寿尼が住まいしたと云われている。

 土師寺は五重塔とともに大伽藍を持った大規模なものであったと云われる。
 また本尊は道真が刻んだと云われる十一面観世音菩薩(国宝)である。

 大宰府に左遷される途中の道真が、この寺へ立ち寄り叔母の覚寿尼を訪ね、
「鳴けばこそ 別れも憂けれ 鶏の音の なからん里の 暁もかな」
 と詠み、別れを惜しんだと伝えられている。
 この場面は人形浄瑠璃や歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』に描かれている。

 道真の死後、寺名は道真の号である「道明」に因んで改められ、また神社も道真を偲び「道明寺天満宮」と改められた。
 この天満宮には、道真そして叔母の覚寿尼、それに元々の祭神である天穂日命が祀られている。
 またこの天満宮には道真の遺品が数多く保存されていて、そのうち6点が国宝に指定されている。

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 当時は道明寺と天満宮は南北に配置されていたが、明治の神仏分離により、現在は東高野街道を挟んで寺院を移し、東西の位置関係になっている。

『大阪天満宮の梅』

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 大阪の天神橋筋にある大阪天満宮にも梅が咲きだした。
 境内の西側の高いところに植えられている枝垂れ梅も一つ二つと花を付け始めた。

 訪れた日は梅酒の利き酒会のようなイベントが行われていて、とても賑やかであった。

 大阪天満宮は、菅原道真が九州大宰府へ左遷させられた時、赴任途中でこの地にあった大将軍社に参詣した。
 菅原道真が亡くなった後、この大将軍社の参道に松が生え、そして霊光を放ったと都に伝えられた。
 それを聞いた時の村上天皇は、道真の霊を恐れ、天満宮創建の勅命を発した。
 そしてこの地に建立されたのが大阪天満宮であると云われている。

 境内には沢山の梅の木があるが、参集殿前庭の梅がほぼ花をしっかり付けていて見応えがある。
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『大和・国宝長弓寺』

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 奈良県生駒市真弓にある長弓寺本堂である。
 長弓寺は奈良時代に、聖武天皇と狩りに出ていた小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)が息子の誤って放った矢に撃たれ亡くなったため、聖武天皇がそれを悼み、僧行基に命じお堂を建立させたものと云われる。
 その後鎌倉時代に、僧叡尊が入母屋造・檜皮葺のこの本堂を建立し、真言律宗の寺として再興したと云われている。

 また境内には、伊弉諾神社(いざなぎじんじゃ)、かつての牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)も祀られ、神仏混交の寺である。

 現在は塔頭が4寺あるが、過去には20寺もあったそうである。
 寺院の境内は富雄(とみお)川の東の小高い山麓に佇み、趣のあるところである。

『雪の大阪城』

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 雪が霙に変わるころ大阪城を見に行った。
 遠目からは天守の大屋根に雪が見られる。
 早速、工事中の青屋門を潜り城内へ入ってみる。
 しかし道はシャーベット状で歩きにくい。
 公園整備の方々が多く出て除雪をしてくれているのは嬉しい。
 何とか天守前の本丸広場まで到着した。
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 現在の大阪城天守は秀吉の築城から数えて3代目である。
 昭和初期、当時の大阪市長の關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により昭和6年に竣工した。
 この市民の寄付は約半年で目標額の150万円が集まったと云われる。

 太平洋戦争の空襲は一部損傷があったものの何とかのがれ、その後改修され現在の姿となっている。
 尚、昭和以降、各地で復興天守が建てられたが、その第1号である。

『三河吉田城』

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 東海道の城の3つ目、愛知県豊橋市今橋にある吉田城である。
 写真は模擬再建された隅櫓「鉄櫓」である。
 この城は大きく2重に蛇行する豊川の畔に今川勢が築城した城で今橋城と呼ばれたが、義元が吉田城と改名したと云われる。

 信長の勝利に終わった桶狭間の戦いの後、今川を離反した家康に攻略され、以降徳川の城となった。
 当初、酒井忠次が入城し、武田への護りの城とした。
 その後池田輝政が入城し、豊川大橋「豊橋」を大改修したと云われる。
 その後は三河吉田藩として徳川の譜代大名が次々と入城して出世したため、出世城と云われる。

 明治時代になってこの地が豊橋と改められた。
 そして城も軍部に接収された。
 現在城跡は大部分が豊橋公園となっていてスポーツ施設なども設けられている。
 また、高層の豊橋市役所、豊城高校なども建てられている。

 城跡からは蛇行する豊川の向こうに、三河国一之宮砥鹿(とが)神社奥宮が鎮座する本宮山789mが見える。
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『遠州浜松城』

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 浜松市にある浜松城の再建された鉄筋コンクリート製の天守である。 
 浜松城は、徳川家康が武田信玄の侵攻に備えるために本拠地をこの地に移したことで良く知られている。
 当時はこの地は「曳馬」と呼ばれてたが、敗戦に繋がり縁起が悪いということから、この地にあった荘園「浜松荘」に因んで命名されたのが地名の起こりである。
 城の遺構としては野面積の石垣や曲輪が残っている。

 武田信玄の挑発を受け、家康が出陣した城の北方の三方ヶ原の戦いでは家康方は惨敗し、命からがら逃げ帰った話も有名である。

 浜松城に家康は17年間住み、以後駿府、江戸へと移って行く。
 以後浜松城では、江戸年間で藩主が22人も交代している。
 浜松城主になると幕府の要職に出世した例が多いことから出世城とも呼ばれる。

 天守の南には、2代将軍秀忠の母西郷の局が勧請した五社神社、開基となった心造寺という大きな寺社がある。
 また、東方向には秀忠が産湯を使った井戸もある。

 心造寺の梅CIMG0074_convert_20140216202417.jpg

『遠州掛川城』

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 東海道掛川宿(現静岡県掛川市)にある復元された掛川城天守である。
 木造構造で復元されていて、現在の城下のコンセプトも木造である。
 公衆電話ボックスや公衆トイレなども木造となっている。

 掛川城と云えば、家康が関東に移封された時、豊臣の家臣であった山内一豊が居住し、関ヶ原の功により土佐一国を与えられるまで10年間居住した城である。
 その功とは、家康が江戸から関ヶ原に向かう時、真っ先に城を差し出し、東軍の結束を盛り上げたと云うものである。

 掛川城は幕末の安政東海地震により天守を含む大半の建物が倒壊した。
 その後、天守は再建されず、政務所である二ノ丸御殿が再建された。
 当時から現存するのは、この二ノ丸御殿と太鼓櫓、大手門番所のみである。

二ノ丸御殿CIMG0032_convert_20140218075510.jpg
太鼓櫓  CIMG0036_convert_20140216202140.jpg
大手門番所CIMG0041_convert_20140218075609.jpg

『宇治・槇島城跡』

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 京都府宇治市槙島町にある槇島城跡である。

 戦国時代、足利15代将軍義昭が織田信長に都から追われ、家臣真木島氏の城であったこの槇島城に立て籠もって再起を期したが、織田軍に滅ぼされ事実上室町幕府が消滅した槇島城の戦いがあったところである。

 当時はこの場所は宇治川の中島でその先下流は大きな巨椋池(おぐらいけ)があり、水路による要害となっていた。
 その後、城は秀吉に廃城とされ、更に宇治川の改修にて建物は破却、土塁等も破壊され現在では遺構は残ってはいない。

 この石柱は、当時の本丸跡と比定される場所に建てられている。
 住宅団地の中の児童公園のようなところであり、見つけるのに多少の苦労を要した。

『仙台・晩翠草堂』

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 仙台市の青葉通りでバスに乗っていると「バンスイソウドウ」という停留所アナウンスが聞こえる。
 なんだろうと思って途中下車してみたらビルの間の古風な敷地に「晩翠草堂」という木造平屋が建っていた。
 説明看板には、仙台空襲で旧居と蔵書3万冊を失うという苦境に陥った際、教え子などの晩翠会の人々が発案して、この建物が建てられたとある。
 場所は仙台駅から仙台城址に向かい広瀬川に出る手前右側である。

 玄関を開けてみると、説明してくれる方がいて、内部を案内してくれた。
 晩翠が亡くなられた時のベッドがそのまま置かれているのにはビックリもし、感動もした。

 晩翠は、二高、東北大の先生で英文学者であり翻訳は多数ある。
 しかし庶民になじみがあるのは仙台城を詠った作詞「荒城の月」であろう。
 それに全国の学校の校歌の作詞を数多くし、そのリストも展示されていた。
 忙しい中、校歌を頼まれれば作ったということでもある。

『福島・古関裕而像』

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 JR福島駅の新幹線ホームに降りた時、あの歌高校野球の「栄冠は君に輝く」が流れていた。
 どうしてだろう? 甲子園でこちらの学校が優勝したのかな? と思っていたが、駅の東口から外に出て納得した。
 駅前にオルガンを弾く古関裕而像があったのである。

 福島出身の古関裕而は、アメリカのマーチ王スーザに因んで和製スーザと云われ親しまれている。
 戦前戦中は、破産した実家の生活費を稼ぐため軍歌が多かったが、阪神タイガーズの「六甲颪」なども作っている。

 戦後は、歌謡曲に行進曲にと多彩な才能を発揮した。
 古い方ならご存知の「君の名は」「長崎の鐘」「高原列車は行く」など…。
 そして夏の甲子園「栄冠は君に輝く」、「東京オリンピックマーチ」である。
 
 庶民に親しまれ、その楽曲も今を盛りと生きている。

『高松・水原三原像』

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 香川県高松市中央公園に建つ野球の名選手でプロ野球の名監督であった(左)水原茂氏、(右)三原脩氏の像である。
 どちらも香川県の出身で水原の方が2歳の年上である。
 水原は旧高松商業、三原は旧高松中学であり、このころからのライバルである。

 そして大学野球でも慶應と早稲田に分かれ、競い合った。
 さらに両方とも巨人に入団して選手として活躍したのであった。

 しかし2人の最高の名勝負は、1958年の日本シリーズであろう。
 対戦した巨人と西鉄、巨人の監督は水原、西鉄の監督は三原である。
 第3戦を終え、3戦全勝と巨人が王手をかけていた。
 西鉄には鉄腕稲尾と云う名ピッチャーかいる。
 この稲尾が後の4戦を連投し4連勝して、西鉄が日本一となったのである。
 以降「神様、仏様、稲尾様」と語り継がれることになったドラマを生み出した2人であった。

 この像が建っている中央公園は元高松球場の跡地である。
 この公園にはもう一つ、香川が生んだ文豪菊池寛の像も建っている。
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『天満宮梅だよりⅢ』

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 京都市下京区にある「文子(あやこ)天満宮」に一つ二つ咲いていた花である。
 文子天満宮は天神信仰発祥の神社である。
 多治比文子(たじひのあやこ)は菅原道真の乳母であった。
 大宰府で道真が亡くなり都が道真の怨霊で悩まされている時に、自宅の庭に小さな祠を建てて、怨霊を鎮めたと云われている。
 これが天神信仰の始まりで、後に道真神のお告げにより、北野の地に天満宮として移したと云われている。
 
 境内には文子像も祀られている。
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『天満宮梅だよりⅡ』

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 天満宮の梅、次は讃岐の滝宮天満宮である。
 香川県綾歌郡綾川町にあり、この地は菅原道真がかつて4年間讃岐守として赴任していたが、その時の国司の官舎があった場所と云われている。

 道真が讃岐守の時、大旱魃に見舞われた。
 その時道真は人々を救う為に七日間の断食をして祈雨の願文を捧げて祈祷したと云う逸話がある。
 これが滝宮の念仏踊りの始まりと云われている。
 そして道真が九州大宰府で亡くなった後、道真を偲び、この地に天満宮が創建されたものである。

 境内や門前に梅林があるが、ちらほらと咲き始めたころである。

 滝宮天満宮CIMG0010_convert_20140212071332.jpg

『天満宮梅だよりⅠ』

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 この時期になると、ちらほらと梅の開花便りが聞こえてくる。
 梅と云えば天神さん。
 菅原道真を祀る天満宮を訪ねて様子を見てみることにする。

 まずは東京都国立市にある「谷保(やぼ)天満宮」である。
 梅園の咲き具合はまだ1割ぐらいであろうか?
 咲いている木を見つけての写真である。

 3月には梅祭りが開催される。
 かつてはこの梅林で、元東京都知事で作家である石原慎太郎氏がこの近くの一橋大学の学生であったころ、下駄履きで一升瓶をさげて飲んでいたという逸話もある。

 甲州街道に面したこの天満宮は、東日本で最初に創建された天満宮と云われている。
 道真の三男である道武がこの地に流され、父の訃報を聞き廟を建てたことに始まると云われる。
  谷保天満宮境内 右手の石段が参道で登ると甲州街道に出る。

 谷保天満宮は亀戸天神、湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれるている。

『何のビル?』

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 東京で見かけた変わったビルである。
 移動体通信の最大手N社の代々木ビルと云い、総武線の信濃町付近の跨線橋から見たものである。

 エンパイヤー・ステート・ビルを模したような特徴的な形であり、遠目にも分かり易い。
 最頂部は272mもあるそうで、アンテナ部を除くと東京都ではミッドタウン、都庁に次いで3番目の高さだそうである。

 エンパイヤー・ステート・ビルもこれくらいの高さなのかと思い調べてみると、何と最頂部で443mもあるそうで、比べるのもおこがましい。

 このビル、中ほどの階までは部屋の体をなしているが、それより上はアンテナなどの設置用途であり、中は空洞だそうである。
 
 昨今、いろいろな形のビルができ、街のシンボルになって行くのは楽しいものである。

『美濃岐阜城』

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 岐阜市金華山稲葉山にある岐阜城再建天守である。
 元々は鎌倉時代に築かれたものが原型であるが、室町時代の末期に守護代の斎藤氏が居城とした。
 そののち、国盗物語で知られる斎藤道三が居城とした。

 道三亡きあと、子の義龍、孫の龍興と城主が受け継がれた。
 日々酒色に溺れる龍興を目覚めさせようと、家臣竹中半兵衛や安藤守就が少数で城を襲い奪取した。
 そして信長から引き渡しの要求を受けたが、目的は違うと龍興に返したと云われている。

 その後、信長が攻め取り、小牧から本拠をこの城に移し、この地を岐阜と改名した。
 そして「天下布武」の号令を掛けたことで良く知られている。

 その後岐阜城は織田信孝、池田輝政、豊臣秀勝と目まぐるしく城主が変わり、最終的には三法師織田秀信が城主となった。
 関ヶ原の時秀信は西軍に与したため滅ぼされ、家康が岐阜城を廃城とした。

 現在の再建天守は昭和31年に再建されたもので、その後隅櫓も再建されている。

『美濃墨俣城』

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 長良川の右岸、現在の岐阜県大垣市墨俣町にある墨俣城(すのまたじょう)模擬天守である。
 織田信長の岐阜侵攻の時に、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎が一晩で築いたとされ、「一夜城」として世に語り継がれている城である。
 当時、藤吉郎の配下には海運業の親分である蜂須賀小六がいたことから、かなりの速さでの築城が可能であったと思うが、一夜は少し云いすぎであろう。
  司馬遼太郎氏の本によると『藤吉郎は3日で、・・・』と書かれていることから、藤吉郎や小六は急遽木材を集め、砦を完成したのであろうと思われる。

 現在、一夜城址公園となっていて、公園内にはこの大垣城を模した天守博物館、白髭神社などがあり、神社境内には豊臣秀吉を祀る豊国神社もある。
 城の前には犀川が流れていて、写真にある太閤出世橋を渡ると行くことができる。
 また春にはソメイヨシノの桜並木が見ごたえがある。

『尾張犬山城』

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 愛知県犬山市の木曽川畔の小高い山の上にある犬山城である。
 国宝に指定されていて、現存する天守では最も古い。
 築城は織田信長の叔父の信康と云われている。

 信康が斎藤道三との戦いで戦死して子の信清が城主となったが、織田家内の抗争により信長が奪い取り、池田恒興が城主となった。
 本能寺事件の後は、織田信雄が城主となったが、恒興が奪い返した。
 この件がもとで、家康と信雄連合軍と恒興が属する秀吉軍との間で、小牧長久手の戦いが起こったと云われている。

 関ヶ原の後、小笠原吉次、平岩親吉が城主となったが、最終的には尾張藩付家老の成瀬正成が城主となり、明治に至るまで成瀬氏の居城となったものである。

『尾張清洲城』

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 愛知県清須市にある清洲城(清須城)址に建つ模擬天守である。
 尾張の守護の斯波氏により築城され、尾張4郡を支配する大和織田家の守護代所として機能した。

 その後、織田家の内紛により信長が大和織田家を追放し、向こう10年間、信長方の居城となった。
 この清州城では、信長は桶狭間への出陣や、徳川家康との清洲同盟が結ばれた。
 信長はその後、岐阜への進出のため小牧山城へ移り、以後は番城となった。

 信長が本能寺事件で自刃した後に、織田家の跡目を決める清州会議が行われた。
 その結果、城は織田信雄の居城となり、紆余曲折があって福島正則の城となった。

 関ヶ原の折には東軍の後方拠点となった。
 その後尾張清州藩の本拠となり、後の尾張藩主、徳川義直が入城した。

 大坂の陣の前に家康は名古屋への遷府を行う。
 清洲城は廃城となり、建築資材の一部として利用され、名古屋城が築城された。

 尚、「きよす」という漢字であるが、信長公記では清洲、三河物語では清須となっていて、どちらも使われている。

『尾張勝幡城址』

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 愛知県稲沢市平和町と愛西市勝幡町に跨る戦国時代の城跡「勝幡(しょばた)城址」である。
 信長の祖父信定が築城したと伝えられ、信長も父信秀の下、天文年間にこの城で生まれたと云われている。

 この地域は元々は塩畑と呼ばれていたが、縁起が悪いとのことで勝幡と改められたと云われる。

 信秀は今川氏豊から那古野城を攻め取り、この勝幡に城代を置いた。
 そしてそのあと信長は主家の大和守家を滅ぼし、清洲城を奪い、移った。
 信長の戦国の始まりである。

『金沢駅鼓門』

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 金沢駅東口の正面玄関にある「鼓(つづみ)門」である。
 駅の正面にこのようなモニュメントがあるのは珍しい。
 金沢の伝統芸能である加賀宝生の鼓をデザインして、木材を組み合わせて建築されている。

 手前には雪吊り、後ろには「もてなしドーム」という金属とガラスで出来た大ドームがあり、駅の構内へと続く。
 ドーム正面には「北陸新幹線 金沢開業 2015年春 金沢⇔東京2時間半」の垂れ幕も下がっている。

 もう一つ珍しいもの、  
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 この鼓門と駅前の道路との間に、電光掲示板ならぬ、噴水方式の表示板がある。

『加賀国一之宮・白山比咩神社』

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 石川県白山市にある加賀一ノ宮「白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)」である。
 霊峰白山を御神体とする。
 祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)である。

 創建は崇神天皇の時代とされる。
 室町時代に火災で焼失し、以降、末社三ノ宮の場所に遷座された。
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 北陸鉄道鶴来駅で下車し、鶴来の街外れにあり、趣のある街道を歩くと到達する。
 街道沿いには古くからの著名な造り酒屋、糀屋などが店を構えている。
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 かつては鉄道は加賀一ノ宮駅まで来ていたが、現在は廃線となっているのは残念である。
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 神社から下ったところには白山山中を源流とする手取川が流れている。
 治水も進み、河原は近代的な風景を醸し出している。

『重伝建・金沢市寺町台』

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 金沢市の金沢城の南方向、香林坊の向こうの犀川の左岸に広がっている重伝建「寺町台」である。
 保存地区内には約70の寺院があると云われる。

 上の写真と下の写真は、その中心付近にある妙立寺(みょうりゅうじ)、通称忍者寺である。
 本堂の頂上にあるのは望楼で、周囲の状況を見ることができる天守台のような役目を果たしていたと云う。        
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 この寺町台も含め金沢の寺院は、浅野川の右岸の卯辰山山麓、浅野川と犀川の上流の小立野とそしてこの寺町台に三代藩主利常公の時に集められた。
 その目的は金沢城が攻められたことを想定し、その第一段の守備にあたることである。
 それほど徳川家は前田家を疑っていたという証拠でもある。
 また一向宗の寺は一切、寺町には集めなかったそうである。
 散在させ、纏まるのを防ぐと云う意味もあったと云われる。

 妙立寺の隣に、願念寺という寺がある。
 松尾芭蕉の弟子で、金沢の蕉風の第一人者「小杉一笑」の菩提寺でもある。
 門前には、芭蕉が一笑の死を知って詠んだ句「塚もうごけ我が泣く声は秋の風」 が掲げられている。
 また境内には、一笑塚も建てられている。
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 保存地区外になるが、保存地区の西隣に「にし茶屋街」がある。
 ひがし茶屋街と同様に加賀藩の公許を得て栄えてきたところである。
 元々は上町と下町に分かれていたと云われるが、現在見られるのは上町の部分である。

 もちろん現在も茶屋の営業は続けられていて、芸妓さんも二十数名と金沢では最も多い。
 「ひがし」に比べ観光客は少ないので、ゆったりと眺めることができる。
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 この北には、前田利家公の四女で宇喜多秀家の正室豪姫の菩提寺大蓮寺がある。
 そしてその隣に、金沢五社参りで知られる神明宮も鎮座している。
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 犀川に向かうと川との間に、室生犀星が養子となり二十歳まで過ごした金比羅大権現を祀る雨宝院、そして犀川を渡り、繁華街の片町、香林坊へと続いて行く。
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『重伝建・金沢ひがし茶屋街』

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 金沢市に四地区ある重要伝統的建造物群保存地区の一つ「ひがし茶屋街」であろ。
 卯辰山の西麓、浅野川の畔から広がる金沢では最も格式の高い茶屋街である。
 現在、芸妓さんは十数人いると云われており、営業している茶屋は勿論のこと一見さんお断りだそうである。
 
 茶屋街の外れには江戸時代に藩祖前田利家公を密かに祀っていた「宇多須神社」もあり、節分には豆まき行事が行われるとのことである。
 この神社から北側には、卯辰山山麓の寺院群が広がっていて、これも重要伝統的建造物群保存地区となっている。
 これら寺院群を訪ねる道は「心の道」と呼ばれている。CIMG0057_convert_20140131221812.jpg

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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