奈良県高市郡高取町高取山583mの山頂に石垣などが現存する高取城址である。
高取城は日本百名城の一つ、そして三大山城の一つに数えられる。
城跡の石柱の後ろに見えているのは本丸、天守の高石垣で見事なものである。
高取城は当時の城下で
「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ 土佐の城」
と謡われていたように高取山の山頂に白壁の城郭が構えられていた。
明治になって廃城となり、建物は移築あるいは取り壊されたが、その破却前の写真が残されている。
先ずは高石垣の上の本丸部分である。
本丸への虎口門を通過すると広い本丸跡地が現れる。
そこからは現在の町並みが遥か眼下に見渡すことができる。
本丸の北西隅には天守台がある。
天守の跡の中央には測量用の三角点が埋められている。
本丸の西の一段低いところは二ノ丸であるが、その本丸二ノ丸の間に2基の櫓が建っていた。
一つは「太鼓櫓」もう一つは「新御櫓」である。
その石垣が残っている。
左の写真は本丸側から見たもの、右の2つは二ノ丸側から見たものである。
二ノ丸跡地もかなりの広さである。
二ノ丸の入り口には大手門跡がある。
その北は三ノ丸である。
大手門からは西国札所壺阪寺へ下る道と高取城下へ下る道に分かれる。
壷阪寺方面へ下ると、壺阪口門跡を経て、登城口の県道へと出る。
その場所には、高取城の城郭図が設置されている。
城下の子島寺には、二ノ門が移築され、遺構建造物の確認ができた次第である。
高取城は南北朝時代に南朝に与した大和の国人越智氏が築いた城である。
その後大和に侵攻した証如率いる本願寺軍が攻めたが、筒井軍に背後を襲われ敗退した。
信長が大和を支配した時は高取城は不要とされ一旦廃城となったが、信長横死のあと筒井順慶は高取城を支城の一つとして整備した。
筒井定次の時に伊賀上野に移封となり、大和は豊臣秀長が治め、高取には脇坂安治が入った。
そしてその後、本多氏に引き継がれた。
関ヶ原の前哨戦で石田三成が高取城を攻めたと云うが、三成には城を落とす能力もなく、当然のことながら敗退した。
本多氏は江戸時代になって高取藩初代となったが、無嫡子でお家断絶となった。
その後植村氏が城主となり明治まで続いたという歴史を辿っている。