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『大和国・高田城跡』

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 奈良県大和高田市の市内中心部にある高田城跡である。
 南北朝時代に興福寺一乗院方の衆徒である高田氏が築城したと云われる。

 この場所は城跡の小さな公園として守られている。    
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 城跡はこの公園の北と東にある片塩小学校や幼稚園の校地が相当し、その東には堀の役目であろうか、常光寺池がある。
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 戦国時代になって、松永久秀と筒井順慶が争う中、高田氏は久秀に与したが、久秀が滅ぼされた時、高田氏も城も滅ぼされてしまったのであった。
 公園の直ぐ南には城主菩提寺として常光寺があり、境内には城主の墓がある。
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 そして常光寺の直ぐ南には古代からある大坂堺と奈良飛鳥を結ぶ竹内街道が通っている。
 虫籠窓の商家民家もあり、また伊勢参りの旅人の道しるべである高燈籠も立っている。
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『山城国・今里城跡』

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 京都府長岡京市の中心部から少し北の今里2丁目にある今里城跡である。
 築城者は足利将軍家に近侍した北摂能勢の豪族の能勢氏である。
 最後の室町将軍足利義昭が織田信長に挙兵した時、能勢頼広は義昭に与した。
 そして義昭が追放されると、能勢氏も没落したと云われている。

 今里城は風呂川の右岸の少しの高台にあった。
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 城跡の現在は住宅地となっていて、マンション建設の時に発掘調査が行われ、遺構などが見つかったが、埋め戻されていて見ることはできない。

 尚、能勢氏の一族は今もこの地に住まいされている。
 何軒かの能勢氏の邸宅が見られ、歴史を実感できる。
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『山城国・開田城跡』

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 京都府長岡京市の阪急電車長岡天神駅の直ぐ西にある開田(かいでん)城の跡である。
 上掲の写真は、城跡の発掘調査に基づいて模型が造られたもので、城跡に建設されたマンションのロビーに展示されているものである。
 マンション施主NEL社の好意であろうか、模型展示とともに、周辺の土塁も遺構として存続されている。
 城跡のこのような例は稀有のことで、拍手ものである。

 まずは、マンションの西側にある土塁である。
 公園化されている。
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 マンションの東南隅の土塁である。
 壊されないようにであろうか、フェンスで覆われている。
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 開田城は、国人で長岡天満宮の神職の中小路氏が勢力を持ち、室町時代末期に築城したもので、リーダーとして近在の土豪達をまとめ、土地を守るために機能させたものである。
 城は、近くの勝龍寺城とともに山名弾正に攻められたと云われるが、その後どうなったのかは定かではない。
 尚、中小路氏は現在も長岡天満宮の宮司を務められている。

『山城国・神足城跡』

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 京都府長岡京市のJR長岡京駅の南にある神足(こうたり)城跡である。
 地元の豪族神足氏が神足神社周辺に築城したものであった。
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 現在は神社の南西側に土塁と堀、東側に土塁が残っている。
 表紙の写真は神社南西側のもので、発掘調査が終了し、当時の形に埋戻しを行う工事の最中のものである。

 下の写真は堀の発掘後、右は東側の保存されている土塁である。
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 神足を含む乙訓の地域は、織田信長が京都に侵攻した時に細川藤孝に与えられ、神足氏は藤孝に仕えた。
 そして藤孝は神足城の直ぐ南に勝竜寺城を築き、神足城を城域の東北の神足屋敷として取り込み、土塁や堀に改修を加え、小畑川からの侵攻に対する守りとしたと云われている。
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『摂津国・摩耶山城跡』

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 神戸市灘区の摩耶(まや)山中にある摩耶山城である。
 摩耶山は六甲山系の中央部に位置する700m程度の山で、瀬戸内海国立公園の一部でもある。
 摩耶山には登山のためのケーブルとロープウエイが通っていて、城はその乗換駅「虹の駅」450mと、その上600mにあり、昭和51年の火災で焼失した旧天上寺跡地(上掲)との間にあった。

 城は鎌倉末期から南北朝時代に築かれたもので、築城者は播磨の猛将の赤松円心則村である。
 この旧天上寺跡地の奥に円心の供養塔が建てられている。
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 その後、摂津に進出した三好長慶など、戦国時代にも活用されたとも云われるが、かなりな高度にあるため価値は薄く、真偽のほどは定かではない。

 天上寺は「忉利天上寺(とうりてんじょうじ)」と云い、弘法大師が釈迦の生母摩耶夫人像を祀った寺である。
 山の名もそれに因んで、摩耶山と名付けられたものである。

 旧天上寺であるが、火災では仁王門が免れていて、修復中である。
 そしてそこからは長い石段が続く。
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 旧天上寺の参道両側に摩耶山城があったと云われている。 
 城の遺構として竪堀らしきや曲輪跡や石垣が残っているが、天上寺にも多くの塔頭があり、それと交錯していると思われ、定かではない。
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 摩耶山の山頂700mを訪れてみる。
 そこには三等三角点、そして天狗岩大神が祀られている。
 また山頂付近には、放送の送信アンテナやマイクロウエーブのアンテナが林立している。
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 山頂の向こう側北側へ行って見る。
 現在の忉利天上寺がある。
 そして百万ドルの夜景を見ることができる掬星台(きくせいだい)の広場がある。
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 またこの辺りからは、六甲最高峰と手前の別荘群、摩耶山頂のアンテナ群、少し遠いがポートアイランドと神戸空港が見える。
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 天上寺の住職に城の話を伺った。
 城の位置は間違いないが、戦闘のために一時的に寺を利用したような形で、領地を治めるためのものではなく、戦いが終結して不要となり廃城になったとのでは、とのことであった。

『この時節の野路の花』

 近くの野路を散歩すると、路端に小さな花達が咲いているのに出合う。
 雑草と云われ、見向きもされない花達であるが、それなりに趣のあるものである。

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  名前も良く知らない花達であるが、カラフルでもあり、楽しませてくれる。

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 そして所々に柿がたわわに実っている。
 これもこの時期の田園風景の一つである。

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『京都洛西・竹の径』

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 京都府向日市(むこうし)西ノ岡丘陵には「竹の径(たけのみち)」と云われる道がある。
 この辺りは孟宗竹と筍の産地で、9.8haの竹林を貫く1.8kmの散策路が整備されている。

 道に沿って、色んな形の竹垣を楽しむことができる。
 左の写真は「竹穂垣」、中央は大塚古墳に沿った「古墳垣」、右は「寺戸垣」である。
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 道が緩やかに曲がっているのも趣がある。
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 引き続いて、「物集女(もずめ)垣」、「来迎寺垣」である。
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 更に、「かぐや垣」、「海道垣」と続く。
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 竹の径の真ん中あたりの屈曲箇所には「竹の資料館」が設置されている。
 そこには「キッコウチク」という亀の甲羅模様の竹が植えられていて、大変珍しいものである。
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『山城国・鹿背山城跡』

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 京都府木津川市木津にある鹿背山(かせやま)城跡である。
 木津川市木津は奈良県との府県境にある市で、どちらかと云うと奈良とは地続き、京都とは木津川を挟んでいる。
 この木津は京都と奈良との間の山背(やましろ)古道の陸路と、木津川の水運とが交差する交通の要衝であった。

 木津には前回の応仁の乱の時に築かれた木津城、そしてその木津城の北東、木津川に近いところに、もっと古くからあった鹿背山城があった。

 鹿背山城は元々は奈良興福寺配下の寺院「鹿山寺」がベースとなっている。
 寺から城への移行は、興福寺の衆徒である木津執行が南北朝時代、室町時代を通して城郭化していったものと考えられている。

 転機は松永久秀が大和に侵入し、興福寺を屈し、多聞山城を主城として大和の支配をした時、この鹿背山城も久秀に奪われた。
 久秀は城郭に改造を加え、現在の城郭遺構となっている形を造ったと云われる。
 その後、久秀が信長軍により没されると、この鹿背山城も廃城となったという歴史を辿っている。

 鹿背山城跡には、鹿背山の集落から登る。
 集落から城山を眺め、石標に従って登る。
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 西念寺の門前から大手道が始まる。
 大手道の途中には堅堀が下ってきた終着点があり、水が溜まっている。
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 大手道をひたすら登る。
 途中、曲輪が階段状に築かれていた所を登る。
 そろそろと思ったころ、主郭への虎口に達する。
 比高は約90mである。
 主郭には上掲の鹿背山城跡と墨書された木柱が建てられている。
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 主郭の周りには、櫓台がある。
 そして主郭を取り囲むように土塁が設けられている。
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 櫓台付近からは下界の木津の町を望むことができる。
 左の写真は木津川付近で、真ん中の鉄橋のすぐ向こうが古代の木津の渡し跡である。
 また右の写真は、奈良と大阪の境に聳える生駒山である。
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 主郭から尾根伝いに東南方向に向かう。
 先ずは2郭である。
 3等基準点も配備されている。
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 次に3郭に向かうが、その間に竪堀、土塁がしっかりと造られている。
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 3郭である。
 この場所にも城跡の標柱が建てられている。
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 次に本郭の北である。
 少し降りたところに水の手と云われる井戸がある。
 今でも水が湧き出ている。
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 最後は本郭の西側である。
 出曲輪との間に堅堀が左右に設けられ、土橋が渡されている。
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 出曲輪と、さらにもう一つ土橋があり、下から眺めたものである。
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 畝条の空堀群を見ながら下山する。
 敵は攻め登るとき、一列になって来るので対応がし易いという発想である。
 空堀は下から眺めると、結構長く見える。
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『京都木津・城址公園』

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 京都府木津川市に、この度整備された城址公園である。
 ここの城は木津城、正確には木津上之山城があったところと云われる。
 当地の豪族木津氏が、木津の村の東の丘100m程度の小高い丘の上に築城したもので、応仁の乱の時、京都から押し寄せる軍団を監視したものと云われる。
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 時代は降って、戦国時代には大和の守りを固める筒井氏の城となった。
 しかし、筒井氏が織田信長の配下になってからは、不要となり廃城となったと云われる。

 丘の頂上には本郭があった。
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 本郭の周りは土塁で固められている。
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 そして本郭の周囲に張り出した尾根には出郭が構えられているが、それとの間には堀割が設けられ、土橋が架けられている。
 先ずは北側の掘割と土橋である。
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 次に南側の掘割と土橋である。
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 丘の上からは、西側に木津の町、そして北側に京都府立木津高校、東北方向に鹿背山(かせやま)が見える。
 鹿背山には別途、鹿背山城があったが、こちらは後日の訪問としてみたい。
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『大和国・西方院山城』

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 前回の大乗院境内への「鬼薗山城」(現在は奈良ホテル)の築城が遅々として進まない中、道路を挟んですぐ東隣の丘に築城開始されたのがこの「西方院山城」である。
 間に合わせとは云え、本丸や幾つかの曲輪、堀切を備えた城として築城され始めた。
 しかし、鬼薗山城が完成したため、西方院の方は未完のままで入城したと云われる。
 築城主は越智氏方の古市氏である。

 鬼薗山城の完成の直後、筒井方に両城とも攻められ、落城した。
 この西方院山城はその後放置されていて、手も加えられていないため、遺構が良く残されている。

 西側の道路側には曲輪跡がある。
 そして堀切があり、土橋で本丸曲輪と結ばれている。
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 本丸跡はかなりの広さである。
 そして本丸跡の北側には2重の堀切、また本丸の一部には土塁が築かれている。
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 またその他にも、周辺には曲輪跡、時代は不明であるが石垣の一部も見られる。
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 筒井氏の城になってから、松永久秀の多聞城を攻めるためにこの城に陣が敷かれた。
 しかし、逆に久秀軍に攻められ開城、そして廃城となった。

『大和国・鬼薗山城跡』

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 奈良公園内にある鬼薗山(きおんざん)城跡である。
 手前の池は荒池、その向こうに奈良ホテルが見えている。
 鬼薗山城跡には現在奈良ホテルが建てられている。
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 この城は15世紀の半ばに越智氏方の大乗院衆徒の古市氏が築城したものである。
 興福寺の塔頭大乗院の境内に建てようとしたもので、建設は難航した。
 目的は越智氏に対抗する筒井氏の南都奪還を阻止すると云う狙いであった。 
 
 築城が中々進まない中、古市氏は東隣の山に西方院山城を建て、先に完成を見た。
 鬼薗山城も完成を見たが、すぐに筒井方に攻められ落城した。

 越智氏は大和の南部を中心に支配していたもので、大和北部にそこまでの執着は無かったものと思われる。
 敗戦した越智や古市は南部に撤退し、鬼薗城は廃城となったと云われる。

 跡地には遺構と云われるものは何も残っていない。
 ただ当時の大乗院を偲ぶものとして、奈良ホテルの南に庭園が整備され残されている。
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『大和国・高取城址』

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 奈良県高市郡高取町高取山583mの山頂に石垣などが現存する高取城址である。
 高取城は日本百名城の一つ、そして三大山城の一つに数えられる。
 城跡の石柱の後ろに見えているのは本丸、天守の高石垣で見事なものである。
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 高取城は当時の城下で
「巽高取 雪かと見れば 雪ではござらぬ 土佐の城」
 と謡われていたように高取山の山頂に白壁の城郭が構えられていた。
 明治になって廃城となり、建物は移築あるいは取り壊されたが、その破却前の写真が残されている。
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 先ずは高石垣の上の本丸部分である。
 本丸への虎口門を通過すると広い本丸跡地が現れる。
 そこからは現在の町並みが遥か眼下に見渡すことができる。
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 本丸の北西隅には天守台がある。
 天守の跡の中央には測量用の三角点が埋められている。
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 本丸の西の一段低いところは二ノ丸であるが、その本丸二ノ丸の間に2基の櫓が建っていた。
 一つは「太鼓櫓」もう一つは「新御櫓」である。
 その石垣が残っている。
 左の写真は本丸側から見たもの、右の2つは二ノ丸側から見たものである。
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 二ノ丸跡地もかなりの広さである。
 二ノ丸の入り口には大手門跡がある。
 その北は三ノ丸である。
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 大手門からは西国札所壺阪寺へ下る道と高取城下へ下る道に分かれる。
 壷阪寺方面へ下ると、壺阪口門跡を経て、登城口の県道へと出る。
 その場所には、高取城の城郭図が設置されている。
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 城下の子島寺には、二ノ門が移築され、遺構建造物の確認ができた次第である。
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 高取城は南北朝時代に南朝に与した大和の国人越智氏が築いた城である。
 その後大和に侵攻した証如率いる本願寺軍が攻めたが、筒井軍に背後を襲われ敗退した。

 信長が大和を支配した時は高取城は不要とされ一旦廃城となったが、信長横死のあと筒井順慶は高取城を支城の一つとして整備した。
 筒井定次の時に伊賀上野に移封となり、大和は豊臣秀長が治め、高取には脇坂安治が入った。
 そしてその後、本多氏に引き継がれた。

 関ヶ原の前哨戦で石田三成が高取城を攻めたと云うが、三成には城を落とす能力もなく、当然のことながら敗退した。
 本多氏は江戸時代になって高取藩初代となったが、無嫡子でお家断絶となった。
 その後植村氏が城主となり明治まで続いたという歴史を辿っている。

『淡路北淡・野島断層』

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 兵庫県淡路島北淡(ほくだん)町の野島断層の断面である。
 今から20年近く前、六甲・淡路島断層帯が北淡地区で断層活動が活発化し、マグニチュード7.2の兵庫県南部地震の主要因となった。
 その活動の跡が「北淡震災記念公園」内の「野島断層保存館」に保存されている。
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 断層は10kmの長さにおよび、縦ずれ横ずれとも約1mに及んだと云われ、その様子が当時のまま残されている。
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 また館外には、断層上にあって被災した住宅が「メモリーハウス」として、これもそのままの形で残されている。
 当時の上空からの写真も添えられている。
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 更に公園内には「神戸の壁」と呼ばれる太平洋戦争の空爆でも、今回の地震でも倒壊しなかった神戸市長田区の市場の防災壁が移転され展示もされている。
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 余談であるが、歴史好きな方にはお馴染みの江戸時代になる前の秀吉の時代に慶長大地震と云うのが起きたのもこの同じ活断層であると云われている。
 その当時は京都の伏見で大地震が起き、伏見城が倒壊し、千人もの死者を出したと云われている。

『奈良・唐古鍵遺跡』

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 奈良盆地の中央部、田原本町の国道24号線沿いにある唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡である。
 弥生時代の遺跡で、佐賀県の吉野ケ里遺跡に次いで日本では2番目の大きさである。

 明治時代から発掘調査が行われていて、その出土物は木製農具や炭化米に加え、青銅器の鋳造所跡なども発見されていて、この場所が奈良盆地の中心地的役割をしていたのではないかと推測されている。

 冒頭のコスモス畑の向こうに見える楼閣は、出土した土器に描かれていたものを再現したものである。
 楼閣は長方形をした唐古池の中に建てられている。
 池は残念ながら江戸時代に灌漑用として開削されたものであるが、遺跡の雰囲気を損なってはいない。
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 また出土物の中には葬られた遺骨があった。
 その頭蓋骨から当時の人物の顔の復元もされている。
 渡来系の弥生人で、その顔つきは現在人の顔とよく似ている。
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 遺跡内の唐古池を巡る歩道上に誰が置いたか、コスモスの冠が置かれていた。
 また、池の周辺では発掘調査が継続されているようで、更地の部分が広がっている。
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 コスモス畑を見てみると、多くの花達がきれいに咲いていて、今や真っ盛りの光景である。
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『大和国・十市城跡』

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 奈良県橿原市十市町にある十市城跡である。
 場所は近鉄電車の笠縫(かさぬい)駅と新ノ口(にのくち)駅の中間あたりの東方の田園地帯の中にある。
 興福寺大乗院方の十市氏が築いた城であるが、遺構は何もない。
 後世に田圃の中の少しの高台に碑が建てられていて、周辺が城跡とわかる程度である。
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 十市氏は筒井氏に与し、松永氏に城を奪われたりしたが、筒井氏の勢力挽回によりこの地での城主として生きた。
 筒井定次の時に、筒井氏は伊賀上野へ転封となったが十市氏はこれに従わず、そのあとに大和国主となった豊臣秀長の家臣になったと云う歴史を辿っている。

 城跡近隣には、古民家もあり、歴史ある場所であることを醸し出している。
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『大和国・今市城跡』

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 奈良の平城京を囲む南部の奈良市今市町にある今市城跡である。
 この辺りには有名な帯解(おびとけ)寺がある。
 この寺院は文徳天皇の妃染殿皇后が祈願をし、清和天皇を出産した謂れの安産祈願の寺である。 
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 寺の少し西にガマ池という池があり、その池を南の堀として築城されたのが今市城である。
 木々が生い茂っている辺りと、住宅がある辺りが本郭であった。
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 今市城は戦国時代に至る前の応仁の乱が戦われた時代に、興福寺大乗院衆徒の今市氏が築城した。
 今市氏は筒井氏に与したが、筒井氏は越智氏に敗れ、城も越智氏のものとなった。
 その後筒井氏が勢力を盛り返し、この東にあった古市城も含め筒井氏が奪回した。

 城跡の西には池の畔に稲荷大神が祀られている。
 また、堀跡のように思われる堀もある。
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 道路を挟んだ北側には遊歩道があり、周辺は公園化されている。
 北側の堀跡である。
 城跡の説明板も掲げられている。
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 北の堀跡の北側は一部の畑と空き地、そして住宅地である。
 遊歩道を歩いている時、大きな声の号令の合唱が聞こえてきた。
 城跡の探索も終わって、なんだろうと思って行って見ると、北側には奈良県警察学校があり、納得した次第である。
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『大和国・辰市城跡』

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 奈良市の南部、東九条(とうくじょう)町にある辰市城跡である。
 主郭の部分は現在は奈良市立辰市幼稚園の園舎となっている。

 辰市城は戦国時代、大和の実力者筒井順慶が配下の井戸良弘に築城させたものである。
 遺構は何も見られないが、とりあえず周辺を観察してみる。

 まずは幼稚園の北側である。
 少しの空き地と住宅地である。
 空き地に沿って水路が見られるが、堀の遺構かもしれない。
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 西側は広い田園部分となっている。
 また東側、南側は若干の畑と住宅地となっていて、探索も困難である。
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 辰市城は1571年、松永久秀と筒井順慶との間で行われた大和決戦「辰市城の戦い」の舞台として知られている。
 最初は久秀方が優勢であったが、 順慶方に大和国中から増援が寄せられ、久秀側は占領していた筒井城を放棄して、 多聞城へ敗走したという順慶が勢力を挽回したという戦いであった。
 この戦いを契機に、信長は順慶を支援し、最後は久秀を信貴山に追い詰め、大和は順慶が支配するところとなったのである。

 余談であるが、大和は興福寺が守護として治めていた土地であった。
 知行地要所に国人の武人を配置し衆徒と云う名目で城を築かせ治めていた。
 塔頭一乗院方は筒井氏、大乗院側は古市氏がリーダーであったが、筒井側の勢力が強くなってきたところに、国外から信長の威をかる松永久秀が入り、ややこしくなっていたのがその経緯である。
 しかし最後は筒井氏が信長に恭順して大和も落ち着いたのであった。

 辰市城の場所は、前述の通り東九条町で、平城京の九条大路の名残の所である。
 大和の諸城は平城京の碁盤の目を囲むように建てられていたのも興味深い。
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『大和国・窪之庄城跡』

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 奈良市の窪之庄町にある戦国時代に窪之庄城があった城跡の森である。
 窪之庄城は東大寺の荘官で興福寺大乗院衆徒の窪城氏が築き居館としたものである。

 窪城氏は応仁の乱の後、北に古市城を構える実力者古市氏に従ったが、筒井氏に城を焼かれ、それを機に筒井氏に従った。
 しかし筒井氏を敵とする松永久秀に攻められ、またもや落城した。
 再度城郭を構築したところまたもや久秀に攻められたが、今度は撃退し、筒井方に大いに貢献した。

 窪之庄城の主郭は東西に2つの館があったと云われる。
 東殿は現在の牛頭天王社の境内である。
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 また西殿は雑木林のまま放置されている。
 東殿、西殿の間の掘割、両殿の北側の掘割が遺構として残っている。
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 掘割の外側周囲にも曲輪跡と思われる箇所もある。
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 松永久秀と筒井氏の西方で行われた辰市の戦いにおいて、窪城氏はこの城を拠点に筒井氏の大いなる戦力となり勝利に導いた。
 そして筒井方は見事、本城である郡山筒井城を奪還したのであった。

『大和国・古市城跡』

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 奈良市古市町にある古市城跡である。
 城跡を示すこの石碑は奈良市立東市(とういち)小学校の運動場の外れに建っている。
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 この小学校と幼稚園のところが古市城の本丸跡と云われている。
 古市城は、14世紀ごろ興福寺大乗院の衆徒であった古市氏が築城したものである。
 本丸跡の小学校の北側には二ノ丸、東側にも曲輪があったと考えられている。
 また小学校敷地の東側には水路があり、堀跡と考えられる。
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 また南側には堀池がありその西には土塁跡がある。
 池の南側は現在は雑木林であるが、覗いて見ると堀切跡と思われる個所もある。
 この雑木林は独立した森となっていて、城を想像させるものとなっている。
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 古市氏は、大和国で筒井氏と勢力を分けるほどの実力者であった。
 当初は筒井氏に対して優位に立っていたが、筒井氏が勢力を盛り返して敗れることとなった。
 その後、松永久秀に従うが、久秀が織田軍に敗れると、古市氏も古市城も滅亡したと云われる。

『摂津国・新庄城跡』

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 大阪市東淀川区下新庄、阪急電車千里線下新庄駅近くにある新庄城跡の真宗本願寺派明教寺である。
 山号に「城地山」とあることから、この寺に新庄城の本郭があった。
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 新庄城は戦国時代、茨木城主であった中川清秀が、神崎川左岸のこの地に支城として新城を築城し、新庄城と呼ばれた。
 しかし、清秀が賤ヶ岳の戦いで秀吉方であったが、柴田勝家方の佐久間盛政に敗れ死去したことから、茨木の地は片桐氏が治めることになり、この新庄城は不要、廃城になったと云われる。

 その城跡に、先の明教寺そして同じ本願寺派の覚林寺が建てられた。
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 現在は新旧織り交ぜた住宅地となっているが、歴史がありそうな長屋門のある大きな民家も見られる下新庄である。
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『時節の花・コスモス』

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 コスモスが畑や空き地の一角で見られる季節となった。
 コスモスは明治のころにやってきた外来種であるが、この季節にはもっとも似つかわしい。

 一輪のコスモスも良いが、複数でまた集団で咲くコスモスも良し。
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『河内国・三箇城址』

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 大阪府の東部、大東市三箇(さんが)にある三箇城址である。
 江戸時代になるまでは、この辺りは付替え前の大和川が流れていて、そして大和川の度重なる氾濫により作られた深野(ふこの)池があった。
 三箇と云う地名は、この深野池に大きな島が三つあったことから生まれたと云われる。

 その島のうちの最も大きな島に、元大和の国人三箇頼照が下の写真のように東の山にあった三好長慶の飯盛山城の支城として三箇城を築いたのが始まりである。
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 後に頼照はキリスト教信者となり、洗礼名をサンチェと称し、河内のキリシタンの拠点ともなった。
 そしてこの三箇城には、京都で政乱があった時、有名な宣教師フロイスが半年間程避難滞在したとも云われる。
 その間にフロイスは「三箇城は水に囲まれた小さい島にある」とローマに書簡をしたためている。

 三箇城は教会も備えた城であった。
 三好が信長に滅ぼされた後、信長の信頼を得、大いに発展した。
 しかし頼照の子の頼連は、信長横死の本能寺事件の後、明智光秀に与したため、秀吉軍の攻撃を受け、三箇城と教会も焼き払われて三箇氏は滅亡、多くの信者たちも拠り所をなくしてしまったのであった。

 城と教会は大東市総社三箇菅原神社に鞍替えしていて、その神社の鳥居の脇に上掲の標柱がある。
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 しかし城の遺構と思われるものは何も見当たらない。
 三箇城を偲ぶものは大きく改修されているが深野池跡の深北緑地である。
 この案内図の左上辺りで、寝屋川の氾濫を防ぐための水門のずっと左手に三箇城址菅原神社が鎮座している。
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 また一部池の部分が残されていて、ミニチュアのようであるが島とも見える部分がある。
 そして子供たちのための遊具広場「ロケット広場」も造られている。
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『河内国・榎並城跡』

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 大阪市の城東区野江にある榎並城の伝承地である。
 上掲の石碑は、大阪市立榎並小学校の運動場門に建っている。
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 野江の地は現淀川の南にある地域で、かつては旧大和川が南に流れていて、この2つの大河川に挟まれた地域であった。
 かつて野江では菜種を栽培し、菜種油を天皇に献上したことから「油江村」と名付けられ、そして訛って「野江村」になったと云われる。

 また野江の地は榎並猿楽発祥の地で、鎌倉時代末期に丹波猿楽の新座として、このあたりに座を構え、南北朝時代には榎並座と呼ばれ、丹波猿楽の楽頭として活躍した。
 その後、猿楽は観阿弥や世阿弥らによって能楽へと引き継がれたという伝統を有する。

 野江に榎並城が築城されたのは戦国初期、三好長慶の仇である三好政長が築いたと云われる。
 政長はこの川に挟まれた洪水に脅かされる城を守るため、水波女大神(みずはのめのおおかみ)を城内に祀り、野江水(のえすい)神社が成立した。
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 そして野江水神社境内には御神水、そして水流地蔵尊が鳥居横に祀られている。
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 この辺りは、大坂から京へ向かう京街道である。
 街道筋には説明板そして榎並地蔵も祀られている。
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 さて榎並城であるが、三好長慶が江口の戦いに連動してこの城も滅ぼし、廃城となった。
 その後石山本願寺が信長との戦いの時この城も使用したと云われるが、信長に敗れた後、真に廃城となったという歴史を持っている。

『摂津国・堀城跡』

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 大阪市淀川区十三(じゅうそう)にあった堀城の跡である。別名中嶋城とも云われる。
 この辺りは、かつては中津川、神崎川が大坂湾に注ぐ中州で、摂津国の中心であり、西国と京を結ぶ水路、陸路の要衝であった。
 室町時代に細川氏の一族がこの地に堀城を構えたと云われる。
 現在での場所は、阪急電車十三駅を降りてアーケード街を抜けた十三公園の周辺と云われている。
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 公園の南側の道路淀川通りを挟んだ「府立北野高校」、また淀川通りと十三バイパスの交差点「北野高校前」も城跡の一部と云われている。
 余談であるが、北野高校は最近に新しい校舎に建て替えられている。
 コンクリート打ちっ放しの超近代的な校舎に生まれ変わっている。
         CIMG6408_convert_20141007071358.jpg  CIMG6417_convert_20141007071505.jpg

 残念ながら公園とそれらしき辺りを見回しても城の遺構は見当たらない。
 大都会十三である。道路と建物そして公園に埋没してしまっているようである。
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 堀城は、細川氏同士の戦いを経た後、本願寺の一揆衆が立て籠もったり、三好長慶の江口の戦いの砦となったりした。
 
 また、石山本願寺の戦いではその時の城主細川信良は信長側に付き、野田・福島城に対抗したと云われる。
 
 その後、信長により京を追われた足利将軍義昭が立て籠もったが敗れ、以後廃城になったと云われている。

『摂津国・柴島城址』

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 大阪市東淀川区柴島(くにじま)にある柴島城址である。
 最初は戦国時代初期に、三好長慶の弟の讃岐の十河一存が畿内制圧の一助として築いた戦闘用の城であった。

 柴島と云うところは淀川の右岸で、今は無き中津川とに囲まれた中州であり、大坂湾と京を結ぶ要衝であった。
 そしてこの大坂湾を取り巻く地方は、これら2つの川に加えて更に北方に神崎川が流れており、先に訪れた大和田城、江口城、この柴島城、中嶋城、榎並城など多くの城が築かれ、応仁の乱から戦国、江戸初期に至るまで戦乱の絶えないところであった。

 三好長慶が畿内制圧後、今度は織田信長がやってきて滅ぼされ、以降織田方の支配するところとなった。
 そして関ヶ原以降は、徳川大名中島藩主稲葉氏の城となったが、稲葉氏が福知山藩に移封されてから廃城となった。

 柴島は阪急電車の千里線が街中を通っている。
 駅で下車し、そう広くない街路を辿って行くと上掲の標柱の場所に到達するが、極めて分かりにくい。
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 柴島と云う住所地は居住区域は淀川に沿って全体の4分の1くらいで、残りの大部分は公共施設である。
 先ずは大阪市の柴島浄水場と水道記念館、そして淀川キリスト教病院(略して淀キリ)、府立柴島高校である。
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 柴島城の標柱があるところは城の中郭があったところと考えられるが、城域の北端はその北にある柴島神社と思われる。
 神社の境内には城とは関係ないが「柴島晒ゆかりの地」の標柱がある。
 江戸時代には大坂近辺で栽培された綿花を利用して晒業が盛んで、淀川河川敷に晒を並べ乾していたとのことである。
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 西は国分尼寺跡の法華寺であろう。
 聖武天皇創建とのことであり、柴島は奈良時代には開けていたと思われる。
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 東はもちろん淀川、南は現在の柴島中学校であろう。
 中学校は少しの高台となっていて、おそらくは淀川に出入りする船溜り、武者溜りなどがあったものと思われる。
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 船溜まりも面影はないが、現在はそこには淀川大堰が設けられている。
 上流は淡水、下流は海水混じりだそうである。
 この堰は河川の水量の制御とともに、阪神地区の水道水、工業用水の取水口でもある。
 また川向うは大阪の中央部を流れる大川の入り口であり、ここには重要文化財の毛馬(けま)の水門も設けられている。

 柴島は中世は戦略上の拠点、今は水利の拠点となっている。

『摂津国・江口城跡』

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 大阪市東淀川区には戦国時代まで江口城という城があったがその場所は特定されていない。
 しかし様々な状況から、上掲の南江口の「江口の君堂」と云われる寂光寺あたりから、大桐北部の逆巻き地蔵尊や大隅神社辺りまでが城域であったと考えられる。

 先ずは江口の君堂の辺りには幾つかの寺院があることから、城跡の北端の可能性があると考えられる。
 江口の君堂は、平清盛の孫の平資盛(すけもり)の子で平家没落により遊女となり出家した妙尼を祀った寺である。
 当時出家して諸国を巡っていた西行法師が旅の途中で立ち寄り、歌で問答し当時遊女の妙が法師をやり込めたと云う逸話が残っている。
 寺は後年、地元の人々が妙を祀ったものであり、境内に両人の塚もある。
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 次に南端と考えられる逆巻き地蔵尊と大隅神社である。
 坂巻地蔵尊は付近の淀川の航行の安全を祈願したものであるが、近代にこの場所に移されたものである。
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 また大隅神社には江口城内にあったと云われる幾つか狛犬が祀られているのがその考えである。
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 江口城は、戦国時代前期に細川晴元軍と三好長慶軍が大激突をした舞台となった城である。
 当時では天下分け目の戦いであった。
 晴元側は六角を頼み援軍の到着を待っていたところに長慶の弟十河一存や水軍を有する安宅冬康が晴元軍を襲い大勝利をを収めたものである。
 この戦いにより長慶は畿内全体を制圧し、当時では天下の覇者と云うことになったのである。

 江口城は淀川と神崎川と当時あった中津川に挟まれた水路で防御された城であった。
 現在町中には、観光のために関連する歩道にはカラー舗装と標板が嵌められていて分かりやすくされている。
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 江口城のその後であるが、長慶が信長に滅ぼされた後、茨木城の中川重清・清秀の支城となった。
 そして賤ヶ岳の戦いで清秀が戦死した後、城は廃城となったものと思われる。

『摂津国・大和田城趾』

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 大阪市西淀川区の神崎川左岸大和田地区にあった大和田城趾である。

 大和田城は石山本願寺の出城として大阪湾の入り口であるこの地に築かれた。
 織田信長による石山本願寺戦で信長傘下の荒木村重軍に攻められ落城し、以降は村重の家臣である安倍仁右衛門が城主となり、毛利水軍による石山本願寺への補給路を監視する重要な拠点となった。

 その後荒木村重は本願寺に与したが、大和田城は信長方に与し、本願寺を攻める拠点として継続した。

 時代は下がって、大坂の陣では大坂側の砦として機能したが、結局は徳川方の池田隊に攻められ落城し、そのまま廃城となった。

 上掲の石碑は大和田4丁目の大和田小学校の運動場への通用門の中にある。
 通用門の脇には説明看板も掲げられている。
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 大和田城はこの小学校と西方の神崎川との間を城域としていたものと思われる。
 現在の大和田五丁目の地域に相当する。

 残念ながら大和田城の遺構はない。
 しかし築城に先立ってこの地には住吉神社が鎌倉時代末期に海の安全を祈願する神社として創建されている。
 その住吉神社と横の安養寺の辺りを主郭として大和田城が築かれていたのであろうと思われる。
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 この大和田の地は古代万葉集の時代から開けていた。
 歌も詠まれている。
 「濱清み 浦うるわしみ 神代より  千船の泊まる 大和田の浜」(詠み人知らず)
 また平安時代末期に活躍した源義経の「判官松の碑」もある。
 義経が平家討伐のため西国へ下向する際に嵐に遭いこの地に逗留し松を手植えしたとの言い伝えがある。
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 また神社の周囲は公園となっていて、季節の花、桔梗、キバナコスモスも咲いている。
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『摂津国・瓦林城址』

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 兵庫県西宮市の阪急線沿いの武庫川に近いところにある日野神社の境内にある瓦林(かわらばやし)城址である。
 瓦林城は南北朝時代にこの地の豪族で赤松氏の家臣であった貴志氏が足利高氏の九州からの上陸を阻止しようと武庫川沿いに砦化したのがこの城の始まりである。

 南朝方が敗れ、その後菅原道真の子を始祖とする河原林氏が城主となり、併せて西の高台に越水城を築き、瓦林の方を支城としたのであった。
 またその頃、地域にあった鎮守社を城の守護神として城内に日野神社を祀ったと云われる。
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 日野神社境内は広く、県指定天然記念物の4000坪の社叢を伴っている。
 参道に城址の石碑が建っており、また鳥居前の燈籠の頂部は入母屋の屋根の形をしているのも珍しい。
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 瓦林城は戦国時代になって河原林(瓦林)氏は織田信長方について阿波から侵略してきた三好長慶と戦ったが敗れ、城主以下女子供も含め百数十人が討死したと云われ、そして三好氏により城は廃城とされたと云われている。

 城の周りを見てみると森の外側には堀跡と思われる水路がある。
 近くの交差点は瓦林北であり、瓦林地域は城から南には広い城下があったものと思われる。
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『摂津国・淡河城跡』

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 兵庫県神戸市北区淡河(おうご)町の小高い山150m/比高30mにある淡河城趾である。
 東側にある道路から見上げると、上掲の櫓風の建物が見え、それと良くわかる。

 東側は搦め手口であろうと思われるが、登城の案内板があるので、そこから登ってみる。
 細かい石で積まれた石垣があるが、近代の造りであろうか?
 登城道は木階段が整備されていて登り易い。
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 登り詰めると櫓風の建物の横を通り、本丸跡に出る。
 その場所からの下界が良く見える。
 本丸跡の右手の一層高い部分が天守台跡である。
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 本丸跡を通り抜けるとそこは本丸門のあった正面の虎口である。
 案内版が設置されている。
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 天守台跡は広場となっていて奥に稲荷神社、そして西側に城趾の碑がある。
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 本丸門の西、そして南に回り込んだ堀跡である。
 夏草が生い茂っていて水の存在は確認できていない。
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 堀の南は二ノ丸跡である。
 現在は田圃となっていて、この時期、稲が実ってたり刈取りが済んでいたりしている。
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 二ノ丸跡の東側に寺院風の白壁瓦葺きの塀が見える。
 当初の城主であった淡河氏の菩提寺跡竹慶寺廃寺である。
 塀の中には淡河氏歴代の墓がある。
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 淡河城は南北朝時代に北条氏の直系である淡河氏によって築かれた城である。
 その後、赤松氏そして戦国時代には三木の別所氏の配下となった。
 そして秀吉により三木城とともに攻め滅ぼされ、その後は秀吉配下の有馬氏が城主となった。
 関ヶ原の後、有馬氏が三田藩に移封されたため、淡河城は廃城となった。

『淡路国・湊城跡』

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 兵庫県淡路島南あわじ市にある湊城跡である。
 石柱に戦国時代史跡とあるように、その時代に淡路水軍安宅(あたぎ)氏が築城した城であった。
 海上の抑えに寄与した城であったが、秀吉の淡路攻めで湊安宅氏は無条件降伏し、湊城は廃城となったと云われている。

 城跡には城主の一族の菊川氏が住み、江戸時代は庄屋を務め、現在もこの地に居住している。
 また家臣たちは湊の里に住み、現在もその子孫が住み続けている。

 城跡は小高い丘の東斜面となっている。
 最上段に湊小学校があり、田圃を介して本郭の森が東に見える。
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 田圃の左手には城跡の碑がある。
 また安宅明神の小さな祠もあり説明板も設けられている。
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 城跡の主要部は現在も菊川氏の邸宅となっているので内部の探訪はできない。
 周囲を一周するだけに留める。

 北側の堀切の隙間から覗いてみると、曲輪があったと思われる広い空き地が見られるが立ち入り禁止である。
 東側へ回ると菊川家の玄関となる。
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 南側は民家との間に堀跡が見える。
 また西側も林と田圃の間が堀跡となっている。
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 この城跡、菊川氏を始め多くの子孫の方々が護っている姿勢に感心した次第であった。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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