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『奈良県・龍田大社』

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 奈良県生駒郡三郷(さんごう)町の信貴(しぎ)山東南麓に鎮座する龍田大社の鳥居である。
 
 龍田大社は、古代、大和朝廷を統一した初代天皇である崇神(すじん)天皇の時代に、国内に凶作や疫病が流行し騒然としているなか、天皇の夢に神が現れ「吾が宮を朝日の日向かう処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に定めまつりて…」という神託を受け、この地に祭祀したのが始まりである。
 すると作物は豊作、疫病は退散したと伝えられ、これが大社の創建とされている。

 冒頭の鳥居から境内を進むと正面に拝殿、瑞垣内に本殿などが祀られている。
 主祭神は、天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)、 国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)の二柱である。
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 これらの神々は天と地の間、即ち大気、生気、風力を司る神で「風の神」と云われ、この東に鎮座する「水の神」廣瀬大社と対比される。

 境内には多数の社が祀られているが、下記は明治に祀られた祖霊社「下照神社」である。
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『御所市・葛城一言主神社』

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 奈良県御所市の大和葛城山東麓に鎮座する式内社名神大社の「葛城一言主(ひとことぬし)神社」、通称「いちごんさん」の参道である。

 参道石段を登ると、そう広くない境内に達する。
 拝殿前に大銀杏の木がある。
 樹齢1200年とも云われ、健康な子供が授かり、お乳も良く出るとのことから乳銀杏と云われる。
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 銀杏の山側が本拝殿である。
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 古代、雄略天皇がこの地で狩りをした時、一言主大神が天皇と同じ姿で現われ、天皇と狩りを競ったと云われる。
 そして一言主大神は、「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と神力を示したと云われ、以後、一言主大神と幼武尊(雄略天皇)を葛城山中に神社として祀ったものである。

『御所市・高鴨神社』

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 奈良県御所(ごせ)市、大阪と奈良を隔てる金剛山系の東麓に鎮座する式内社並名神大社の「高鴨(たかかも)神社」の参道入口の鳥居である。
 この高鴨神社の鎮座する地域は鴨氏の発祥の地で、弥生時代中期この地にて稲作生活を始めた鴨氏は、守護神として神社を祀り、その頃から祭礼を始めた。
 
 鴨氏は、天皇家も巻き込み神武、綏靖、安寧の三帝などの葛城王朝として大和を始め畿内一帯を支配するとともに、その権力は安芸の国から東は三河、北は佐渡に至るまでに及んだとも云われている。
 それ故、この高鴨神社は全国賀茂社の総本社と云われている。

 しかしながら鴨氏は、奈良盆地の東の三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅ぼされたという経緯を辿っている。

 冒頭の鳥居から参道が続き、石の鳥居を潜ると拝殿、本殿である。
 祭神は阿遅志貴高日子根命(あじしきたかひこねのみこと)を含め5柱を祀っている。
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 尚、この神社は、現在は日本桜草の咲く神社としても有名である。

 参道途中左手に神池がある。
 神池の向こうにべんがら色の塗壁の建物があったので行ってみた。
 葛城の道歴史文化館であった。
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 尚、この地域の歴史には諸説ある。
 鴨氏は祭祀氏族で、実際には葛城氏が実権を奮ったという説である。
 特に根拠があるわけではないが、鴨氏、葛城氏の連係プレーで、葛城王朝を存立させたものであろうと推測する。

『桜井市・談山神社』

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 奈良県桜井市の南部の多武峰(とうのみね)と云う山間の地に「談山(たんざん)神社」が鎮座している。
 
 この談山神社は、元々は藤原氏の祖である藤原鎌足(中臣鎌足)の死後、菩提を弔うために長男がこの地に十三重塔を建立したのが始まりである。
 その後寺院としての体裁が整えられ、妙楽寺、そして後に聖霊院と名づけられた。
 
 神社の背後の山は談い山(かたらいやま)と名づけられている。
 それは、大化の改新の前、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足がこの場所で蘇我入鹿を倒すための作戦会議「談合」が行われたことに由来するもので、大化の改新の発祥地とも云われる。

 そして明治の廃仏毀釈の際に、寺を廃し神社のみとなったため山の名に因み「談山(たんざん)神社」と称されるようになった。
 この神社は当時の寺院建築がそのまま残っていて、一風変わった雰囲気を醸し出している。

 神社へは冒頭写真の城門のような神門が参道入り口である。
 少し登ると右手に後醍醐天皇寄進の石灯籠があり、もう少し行くと鳥居が設けられているので神社らしくなる。
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 鳥居を潜り、先ずは左へとそれてみる。
 右手の元々は妙楽寺の講堂として使われていた神廟拝所と左手の総社拝殿との間の広いところが、けまりの庭と呼ばれていて、十三重塔も見える。
 中大兄皇子と鎌足の出会いが飛鳥寺での蹴鞠であったことから、それを記念している。
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 けまりの庭の左手は総社拝殿と本殿である。
 我が国最古の総社と云われ、元々は神廟の本拝殿であり、この場所に移築されたものである。
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 総社の横山手には竜王が出現したと云われる井戸を囲む閼伽井屋、そしてその上に山王社比叡神社がある。
 また比叡神社の前には元々は常行堂であった権殿がある。
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 そして権殿の右手には十三重塔が聳えている。
 現在の塔は戦国時代の建築物と云われていて、木造の十三重塔としては世界で唯一現存するものである。
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 その右手は楼門を潜りいよいよ拝殿と本殿である。
 拝殿は舞台形式になっていて、下を見下ろすことができる。
 また拝殿と本殿との間に庭があるのも珍しい。
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 以上、気軽に述べてきたが、これらの建築物は全て国の重要文化財である。
 これらの他にも重文があるが、ここまでとする。

 尚、鎌足公の墓所は、談い山よりも一段と高い御破裂山607mに設けられている。

『天理市・石上神宮』

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 奈良県天理市布留町(ふるちょう)の「石上(いそのかみ)神宮」の参道入口である。
 奈良盆地の東の布留山の西麓の山の辺の道沿いに古代から鎮座する神社である。

 元々は物部氏が勢力を奮った大和政権の武器庫であり、ご神体は布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)に宿る神霊である布都御魂大神 (ふつのみたまのおおかみ) である。
 この武器庫の跡は明治時代になるまでは禁足地であったが、発掘により布都御魂剣や勾玉などが出たため、それを祀る社を建て、本殿としている。

 神社は鬱蒼とした森にある。
 参道を行くと、左手に廻廊が繋がり、その中央に重文の楼門がある。
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 そして楼門を潜ると国宝の拝殿、そして本殿が祀られている。
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 参道の右手は摂末社群である。
 摂末社の拝殿は、元は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守社の拝殿が移築されたもので国宝に指定されている。
 摂末社には出雲建雄(いずもたけお)神社、猿田彦(さるたひこ)神社などが鎮座している。
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 なお、東の山側から廻廊、楼門前を通過した山の辺の道は南へ折れ曲がり、摂社拝殿前を通っている。

『神戸市・本住吉神社』

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 神戸市東灘区住吉宮町に鎮座する「本住吉(もとすみよし)神社」の境内入口の鳥居である。
 場所はJR東海道本線住吉駅の南西側に隣接していて、鳥居の正面を旧西国街道が、神社右手に有馬街道が通っている交差点の北西角である。
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 この本住吉神社の創建であるが、神社の社伝では、三韓征伐からの帰途、神功皇后の船がこの地の沖で進まなくなり、神託により、陸のこの地に底筒男命、中筒男命、表筒男命の住吉三神を祀ったのが始まりである。
 そして本住吉と云われる由縁は、大阪の住吉大社はこの神社からの勧請であるとのことで、その後神功皇后も主祭神の1柱として、配祀として天兒屋根命、大山津見命が祀られている。

 鳥居を潜るとすぐに境内に至る。
 鳥居や拝殿は20年前の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、現在は立派に修復されている。
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 正面には拝殿が祀られている。
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 拝殿の後ろには本殿が祀られているが、少し見えにくい。
 周りは時節柄、紅葉が綺麗である。
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 また、本殿の瑞垣の横には境内社が一列に祀られている。
 稲荷神や天照大神などである。
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『三木市・大宮八幡宮』

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 兵庫県三木市本町に鎮座する大宮八幡宮の参道入り口である。
 大宮八幡宮は神戸電鉄三木駅で下車し、すぐ傍を流れる美嚢川(みのうがわ)を渡り、本町交差点を少し東に行くと上掲写真の参道入り口に至る。
 またこの場所は、秀吉に兵糧を断たれ攻め落とされたことで知られる別所長治の三木城の南側でもある。

 大宮八幡宮の創建は明らかではないが、三木城主別所氏の崇敬を受けたことは間違いがない。
 戦国時代には攻め落とされた三木城と共に焼失したが、三木城代となった豊臣方の中川氏、関ヶ原の後には姫路城主の池田輝政により再建されたと云う経過を辿る。

 参道を進むと屋台庫もある。
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 その先は長い石段である。
 石段の上には鳥居、そして鳥居の向こうは広い境内である。
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 正面には拝殿、そして本殿が祀られている。
 本殿の祭神は、応神天皇をはじめとして九柱が祀られている。
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 また、拝殿の右手前には客殿に繋がる祝門、拝殿の左手には大宮天満宮が祀られている。
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 境内広場の左手には、かつての割拝式の拝殿が移築され、その手前に能舞台もあるが、その前は観覧席が設えられている。
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 この広い境内は、町内の8つの屋台がと御神輿が町内巡幸と宮入りをする秋の例祭のための舞台となる。
 屋台は2トンもあるそうで、長い石段を登り、境内で練り合わす勇壮な風景がみられるとのことである。

 尚、時節がら、境内のそこここで紅葉の風景も見られる。
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『小野市・浄土寺八幡神社』

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 兵庫県小野市の浄谷町の浄土寺境内に鎮座する八幡神社の本殿である。

 浄土寺は、平重衡によって奈良の大仏殿・東大寺や興福寺が焼き討ちされた後、大仏殿再建のリーダーに任じられた僧重源が全国の東大寺の荘園7ヶ所に東大寺別所として、資金や資材を集めるために鎌倉時代に建てられた寺院の一つである。
 重源は八幡信仰が篤かったため、寺の境内の中央に八幡神社を創建したのがこの神社である。
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 八幡神社は国宝の浄土堂の前に鳥居があり、その先に割拝殿形式の拝殿、そして本殿が祀られていて、どちらも重要文化財である。
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 拝殿の前左右には狛犬も祀られている。
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 浄土寺の浄土堂は国宝である。(写真は正面と側面)
 そして内部には快慶作の国宝阿弥陀三尊像が祀られている。
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 また浄土堂に向かって東には、本堂である薬師堂が祀られている。 これも重文である。
 また浄土寺への参道入り口には、大標識も建てられている。
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『川西市・多田神社』

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 兵庫県川西市多田院に鎮座する源氏三神社の一つ「多田神社」の鳥居、神橋である。
 神社へは鳥居を潜り、神橋を渡り、石段参道を登ると南大門に達する。
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 南大門を潜ると、左手に六所宮、田尻稲荷神社が鎮座する。
 そして正面には随神門がある。
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 随神門を潜ると拝殿である。
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 拝殿の後ろは本殿、その後ろには源氏廟が祀られている。
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 本殿には、清和天皇の曾孫で六孫王源経基の子の源満仲を始め、源頼光、源頼信、源頼義、源義家の源氏の歴代の系統が祀られている。
 この神社は、平安時代の中期、源満仲が住んでいた邸跡に創建された天台宗の多田院と云う寺院であった。

 武士の時代には、源氏の流れを汲むと云われる足利氏や徳川氏の崇敬が厚く、現在の社殿は徳川家綱が再建したもので、本殿、拝殿、随神門は重要文化財である。

 しかし明治の廃仏毀釈で、寺院から神社へと変身し、多田神社と名付けられたという経緯を辿っている。

 神社参道には、東門、西門がある。
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 東門へは、能勢電鉄の多田駅から向かうことができる。
 多田院と云う住所地に達すると、この神社である。
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『京都市・御香宮神社』

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 京都市伏見区の大手筋に、上掲の神門を構える式内社「御香宮(ごこうのみや)神社」である。
 この神社は、平安時代に創建され、神功皇后を主祭神とし、家族の仲哀天皇、応神天皇、仁徳天皇など六神を祀る。
 当初は神社名「御諸神社」であったが、境内に香りの良い水が湧き出し、飲むと病気が平癒したことから、清和天皇から「御香宮」の名前を賜ったものである。

 豊臣秀吉の伏見城築城に際し、御香宮は城の鎮護として伏見城内に移された。
 しかし、徳川時代になり暫くしてから伏見城が廃城となり、神社は元の現在の場所に戻されたと云う経緯を辿っている。

 神社へは大手筋商店街の東にある大鳥居を潜り、冒頭掲載の左手にある伏見城の大手門が移築された神門を潜り、石の鳥居がある参道を進む。
 右手には桃山天満宮が鎮座しているが、前回触れたので今回はパスする。
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 正面は割拝殿の拝殿である。
 頭上には極彩色の彫刻が施されている。
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 回り込むと本殿である。
 家康の命令で建立されたものだそうで、極彩色の修飾は近年になされたものである。
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 拝殿の横には神社の名付けとなった名水御香水がある。
 持ち帰り自由となっている。
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 また境内には能舞台、絵馬殿もある。
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 境内には多くの摂末社が祀られている。
 先ずは東照宮、豊国神社、大神宮である。
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 他にも、弁財天、松尾社、愛宕神社も祀られている。
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 更に集合社として、左は春日・天満・熊野三山、右は八幡・恵美須・八坂・住吉である。
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 また、境内には物騒な石碑もある。
 「明治維新 伏見の戦跡」と書かれている。
 鳥羽伏見の戦いの時、神社には薩摩軍が陣取り、南の伏見奉行所に立て籠もる幕府側会津藩や新選組を洋式の大砲で攻撃し、奉行所を炎上させ、壊滅しさせたと云われるその記念碑であろうが…。
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『京都市・桃山天満宮』

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 京都市伏見区の御香宮(ごこうぐう)の境内の一角に鎮座する桃山天満宮である。 
 この神社は元々は、室町時代に御香宮の東にある蔵光寺にて、僧の学問の神として菅原道真公を祀ったのを起源とする。

 戦国時代も終わりに近づいて、豊臣秀吉が伏見城築城並びに城下町を整備するが、その時蔵光寺は遠く嵯峨に移された。
 しかし天満宮だけは、蔵光寺の隣にできた前田利家邸内に移された。
 前田家の先祖は菅原道真公であると云うのがその理由である。

 徳川の時代になって、伏見の人々には山の天神さんとして親しまれたのであったが、伏見城の廃城と共に天満宮も荒廃したのはやむを得ないことであった。

 江戸時代末期、天満宮を街中に移そうと、20年の歳月をかけ、現在の近鉄桃山御陵前のところに再建された。
 そして昭和の時代になって、伏見の区画整理により、御香宮の境内に遷宮されたと云う経緯を辿っている。

 冒頭の鳥居は御香宮の参道に面して建てられている。
 鳥居を潜ると正面に拝殿、本殿が祀られている。
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 拝殿左手前には、伏見城の残石が無動作に置かれている。
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 また右手には神牛、そして向井去来の歌碑が建てられている。
 歌碑には「梅の香に のっと日の出る 山路かな  ・・・・」とある。
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『大阪府三島郡・水無瀬神宮』

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 大阪府三島郡島本町に鎮座する水無瀬(みなせ)神宮の参道入り口である。
 水無瀬の地は京都山崎の地と隣接したところにある。

 この地は元々は後鳥羽上皇の離宮水無瀬殿があったところで、鎌倉時代に承久(じょうきゅう)の乱と云われる討幕の兵を挙げ敗れ、隠岐に配流された後鳥羽上皇、順徳天皇、土御門(つちみかど)天皇が祀られている。
 当初は御影堂が祀られた寺院であったとのことであるが、後に後土御門から水無瀬神宮の神号が与えられたとの経緯を辿っている。

 神宮へは鳥居から参道が続く。
 しばらく行くと神門を潜る。
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 広い境内には白砂が敷き詰められている。
 拝殿、本殿、客殿が祀られている。
 尚、客殿は豊臣秀吉の寄進によるもので、重要文化財でもある。
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 また境内には離宮の水という名水百選の水が湧き出ていて、これを目当ての参拝者も多い。
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『京都市・乃木神社』

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 京都市伏見区の明治天皇陵の隣、南西に鎮座する乃木神社の神門である。
 乃木神社は、明治天皇の崩御に際し自ら静子夫人と共に殉死した乃木希典氏と夫人を祀る神社である。

 この神社のは大正時代の初め、乃木希典氏の殉死に共感した薩摩出身の村野山人氏が私財を擲って天皇陵の傍のこの場所に創建したものである。

 神社は、天皇陵の参道に面した鳥居から参道が続く。
 参道を行くと冒頭の神門に達する。
 神門を潜り、境内を進むと正面向こうに拝殿が見える。
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 拝殿の手前両側には、希典氏の愛馬2頭の像が祀られている。
 敵軍ロシアの将軍ステッセルから贈られた壽号(左手)とその子馬璞号である。
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 拝殿、本殿またその右隣りには山城えびす神社が祀られている。
 えびす神社は以前は静魂七福社と云い、静子夫人と七福神が祀られていたが、静子夫人は本殿に合祀されたため、現在はえびす社と称されている。
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 境内には乃木希典氏に纏わるものも幾つか祀られている。
 先ずは満州旅順にて第三軍司令部として使われていた民家がそっくり移築されたものがある。
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 乃木希典氏が子供の頃、山口県の長府で住まいしていた旧宅が再現され、人物像も再現されている。
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 その他にも、伏見の名水の一つ勝水も湧き出ている。
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 余談であるが、かつて山口の長府を訪問した時、乃木神社を訪れたことがある。
 そこには、乃木少年の旧宅が保存されていたが、本物はもう少し大きめであった。
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『京都市・晴明神社』

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 京都市上京区晴明町に鎮座する晴明神社の一の鳥居である。
 一の鳥居は堀川通りに面していて、参道は西へ二の鳥居へと繋がる。
 鳥居の脇には、この地は晴明の屋敷跡であること、そして豊臣秀吉の時代には、千利休の屋敷があったことの標柱が建てられている。
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 本殿には、平安時代の中ごろに活躍した天文博士かつ陰陽博士として活躍した安倍晴明が祀られている。
 神社の創建は、晴明が最後に仕えた一条天皇の命によるものである。

 また神紋は五芒星の晴明桔梗である。
 そして境内には晴明井が祀られ、現在も水が湧き出ている。
 この晴明井を千利休は茶事に活用し、秀吉も味わったと云われている。
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 本殿の両側には晴明の像、そして厄除桃が祀られている。
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 尚、余談であるが、フィギュアスケートの羽生結弦選手が、フリーのプログラムを陰陽師とした時に、この神社に詣で、絵馬を奉納したとのことである。

『京都市・新日吉神宮』

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 京都市東山区の東山七条の東に鎮座する新日吉(いまひえ)神宮である。
 この神社は、後白河上皇が院政御殿を法住寺に定めた時に、比叡山の日吉神社を勧請したものである。
 参道石段の先には見事な楼門、そして拝殿が祀られている。
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 また本殿の祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)を始めとする日吉七柱である。
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 創建以来、場所は何度か変わっている。それはこの背後の山と付近に造られた豊臣秀吉の豊国廟と豊国神社との関係による。
 前後するが、後白河上皇は神宮の別当寺として叡山延暦寺から妙法院を移し門跡寺院とした。
 現在の三十三間堂もその支配下にあり、付近は上皇の城域のようになっていたとのことである。
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 新日吉神社の境内には境内社が祀られている。
 豊国神社が廃されたとき、密かに移された豊国神社(樹下社)と愛宕神社、それに天満宮などである。
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 境内には猿も祀られている。叡山の護り猿である。
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 また北側の馬場には、鳥居が単独で建っている。
 かつての豊国神社のものであろうか?
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『京都市・豊国神社』

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 京都市東山区の大和大路正面に鎮座する豊国(とよくに)神社である。
 勿論のこと豊臣秀吉を主祭神とする神社である。

 秀吉は伏見城で亡くなり、東山三十六峰の一つである阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された。
 その中腹に神社を祀ったが、秀吉の死は伏せられていたため、方広寺大仏の鎮守社として創建された。

 その後秀吉に神号「豊国乃大明神(とよくにのだいみょうじん)」が贈られ神社も豊国神社と称された。
 大坂の陣で豊臣家が滅亡してからは、徳川幕府によって全て廃絶されたが、北の政所(おね)の願いにより、破壊だけは免れ、そのままになってなっていたと云われる。

 時代は降って明治時代となり、明治天皇から豊国神社再興の布告が出され、方広寺大仏殿の跡地に再建されたのであった。

 神社は正面通りの東の突き当りにある。
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 鳥居を潜ると広い境内となり、その先に伏見城の遺構とも云われる国宝の唐門がある。
 唐門の先は拝殿そして本殿であるが、入ることはできない。
 神社の裏塀の外から、かろうじて本殿を望むことができる。
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 神社の北には方広寺の堂宇と鐘楼がある。
 問題の「国家安康」「君臣豊楽」の文字が分かり易くマーキングされている。
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『京都市・伏見稲荷大社』

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 京都市伏見区深草の稲荷山を神域とする伏見稲荷大社の一の鳥居である。
 京都の五条大橋付近から伏見に向かう伏見街道に面している。

 伏見稲荷は古代に大陸から渡来し、以来京都の開発に多大なる功績がある秦氏の一族である秦伊侶具(いろぐ)が創建した神社と云われている。
 云い伝えでは、伊侶具は白米で餅を作りそれを的にして矢を射たところ、命中した餅は白鳥に姿を変え、山の峰に降り立ったその場所に稲がたわわに実ったことから、その地(稲荷山)に神社を創建したものである。
 この神社は、宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)を始め、農業や食料の神である稲荷大神計5神を祀っている。

 表参道を辿ると、2の鳥居、そして見事な楼門が聳える。
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 楼門を潜ると、正面に外拝殿、その向こうに内拝殿、そして本殿が祀られている。
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 拝殿の右手には見落としがちであるが、神楽殿があり巫女舞が行われる所である。
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 本殿の横には権殿が祀られている。
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 権殿横の鳥居を潜り石段を登ると奥宮がある。
 その前を通過し更に石段を登ると、奥社への参道である千本鳥居に達する。
 千本鳥居を抜けると奥社拝殿、本殿へと到達する。
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 参拝はここまでとし、神社の入口付近へと戻る。
 稲荷山233mを見上げるが、残念ながら手前の一部が望めるぐらいである。
 尚この伏見稲荷、2年連続で外国人の観光スポット全国No.1とのことで、訪問した日も多くの観光客が来ていて、賑やかな外国語が絶える場面はなかった。
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『京都市・東西天王社』

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 京都市左京区には東天王社、西天王社と云われる神社がある。

 先ずは東天王社、現在の名称を岡崎神社と云う。
 鎮座地は丸太町通りを東に進み、南禅寺門前から上がってくる白川通りと交差する西側である。
 この神社は、平安遷都の時、東北の鎮護として創建されたものである。

 少し時代が経って、清和天皇の時代に姫路の廣峯神社から素戔嗚命を勧請し、后の奇稲田姫(くしなだひめ)命、そして8人の子である八柱御子神が祀られ。、現在に至っている。
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 この神社、兎を神の使いとしていて、提灯には兎の文様が示されている。
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 岡崎神社の西隣に、浄土真宗の開祖親鸞上人が比叡山を降り、庵を結んだと云われている岡崎御坊がある。
 親鸞上人はこの庵から法然上人のもとへ通ったと云われている。
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  尚、岡崎と云う地名であるが、 吉田神社の神楽岡や金戒光明寺の黒谷・栗原岡の南端に位置することから、岡の崎と云われるようになったと云われる。

 これらの寺社は丸太町通りに面しているが、一本北へ入った道を西へ行くと、西天王社と云われる須賀神社が鎮座する。
 この神社も素戔嗚命、奇稲田姫命に合わせて交通の神である久那斗神(くなどのかみ)など5柱を祀っている。
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 この神社は平安末期に現在の平安神宮の場所に祀らてたののであるが、その後、北の吉田神社の神楽岡に遷座、そして大正時代になってこの場所に遷座され、現在はこの聖護院地区の氏神となっている。

 道路を挟んで聖護院門跡、そしてその西に八ッ橋の老舗、SG院八ッ橋総本店、N尾八ッ橋老舗がある。
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『京都市・安井金比羅宮』

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 京都市東山区の安井バス停近くに鎮座する安井金比羅宮の東大路に面した鳥居である。
 鳥居を潜ると参道が続き、右に緩やかにカーブする辺りが絵馬の道と云われるところである。
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 安井金比羅宮は京都市内で唯一と云って良い金比羅宮である。
 古代からの歴史はあるが、金比羅宮となったのは、崇徳天皇が後白河天皇率いる平家や源氏の武士群との戦いに敗れ、讃岐に配流された、亡くなったことに大いに関係がある。

 崇徳天皇の祟りを恐れた後白河上皇が崇徳天皇を光明院観勝寺に祀り、それがこの神社の創紀となっている。
 しかしながら戦国時代に荒廃し、そのままになっていた。
 江戸時代になって、崇徳天皇に加えて金比羅大権現である大物主命、そして源頼政公を祀り、金比羅宮として再建されたと云われる。

 安井金比羅宮の拝殿、本殿である。
 桃山様である。
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 安井金比羅宮は悪縁を切り良縁を結ぶと云う パワースポットとしても良く知られている。
 形代(かたしろ)に書き込み、縁切り縁結び碑の穴を潜り碑に貼り付けるのだそうである。
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 また神社には、境内社として、厳島神社、稲荷神社、天満宮などが祀られている。
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『京都市・御霊神社』

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 京都市上京区の鞍馬口の近くに鎮座する御霊神社(ごりょうじんじゃ)の正面の鳥居である。

 この神社の創建は奈良時代の末期であるが、長岡京・平安京の桓武天皇の時代になって、都で重大な疫病が流行した。
 これは桓武天皇が、故無く排斥し死に至らしめた皇族の怨霊と祟りであるとして、それらの怨霊を鎮めるために新たに祀り直したものである。
 その祭神とは、先ずは早良親王(後に祟道天皇とおくり名された)や廃后された井上大皇后など、その後に祀られたものを合わせて八柱八座である。
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 南にも神門がある。
 また瑞垣には八幡宮、淡島神社などの複合の宮が祀られている。
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 境内社として、神明神社、厳島神社などが祀られている。
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 この御霊神社は、直ぐ南に同じ御霊神社が祀られていたので上御霊神社と云われ区別される。
 この神社は、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘に始まった応仁の乱の勃発地と云われる場所でもある。
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 門前には、この神社に纏わる銘菓「唐板」を販売する店もある。
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 南にあった下御霊神社であるが、豊臣秀吉の京都整備により、中京区の丸太町通りより南の寺町通りまで動かされていて、現存している。
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『京都市・六孫王神社』

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 JR京都駅の南口である八条口から西へ10分ぐらい歩くと六孫王神社に達する。
 あまり聞きなれない名前であるが「ろくそんのうじんじゃ」と読む。

 六孫王とは、清和天皇の六男の貞純親王の子供のこと、即ち天皇の孫で六男の子であるから六孫王と名乗り、母は源氏であったので、源経基(つねもと)と名乗った。
 六孫王は、源氏の祖と云われる源満仲の父で、満仲の子供たちはそれぞれ、河内源氏、摂津源氏と称し、河内源氏は義家、義朝、鎌倉幕府の頼朝、頼家へと続いて行く。
 また、別の枝分かれでは、室町幕府の足利尊氏の足利氏、新田義貞なども子孫である。
 この六孫王神社の地は元々は六孫王の屋敷「八条亭」であった。

 東の参道を行くと鳥居を潜る。
 そしてその先には唐門がある。
 その内部には拝殿があるが、そこまで立ち入ることができない。
 そして拝殿の後ろには本殿、その後ろに六孫王を祀る石積の廟がある。
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 経基は生前、「自分の霊は死んだら龍神となってこの池に住み、子孫繁栄を祈り続ける」と遺言を残していた。
 その池というのが、境内にある「神龍池(しんりゅういけ)」である。
 
 その池の畔に、子の満仲が生まれる時に六孫王は琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願したと云われる。
 その弁財天の後ろ側に新幹線の線路が設けられている。
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 六孫王神社は、大阪羽曳野の壷井八幡宮、兵庫川西の多田神社と合わせて源氏の三神社と云われている。
 
 

『京都市・熊野三神社』

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 京都市には、紀州の熊野三山を勧請した神社がある。

 上掲鳥居の熊野神社は、平安時代の初期に修験道の日圓上人が紀州熊野大神を現在の左京区聖護院に勧請したのが創建とされている。
 主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)、相殿(あいどの)に伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、天照大神、速玉男尊(はやたまのおのみこと)、事解男尊(ことさかのおのみこと)を祀っている。
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 平安時代の後期、熊野信仰が盛んとなり、その信仰に厚かった後白河上皇は、この熊野神社を整備するとともに、新たに二社を勧請したと云う経緯がある。
 この熊野神社は、熊野三山の内の熊野新宮大社にあたるものである。

 二つ目は東山区今熊野に鎮座する新熊野(いまくまの)神社である。
 この神社は、後白河上皇が院政を行った政庁である法住寺内に勧請したもので、熊野三山の内の熊野本宮大社にあたる。
 祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)を始め12神である。
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 境内には、上皇お手植えの樟や熊野古道を模した巡行コースがある。
 また、この神社では室町将軍の足利義満が大和猿楽結崎座の観阿弥、世阿弥を招いて猿楽を披露し、将軍に喝采を浴びたことから以降、能楽の礎となったとの舞台でもある。
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 三つ目は熊野若王子(にゃくおうじ)神社である。
 琵琶湖疏水の分流の哲学の道の南の端に鎮座し、熊野三山の内の熊野那智大社にあたる。
 後白河上皇が禅林寺永観堂の守護神として勧請したもので、祭神は国常立神(くにのとこたちのかみ)、伊弉冉尊、伊弉諸尊、天照大神の他に恵比須像を祀っている。
 この場所で、室町将軍の尊氏や義政が花見の宴を開いたとも云われている。
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『京都市・大石神社』

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 京都市山科区に鎮座する大石神社の一の鳥居である。
 勿論のこと、江戸時代の元禄赤穂事件(通称:忠臣蔵)のリーダーであった赤穂藩城代家老大石内蔵助良雄を祀る神社である。
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 ご存じのように、赤穂藩主浅野浅野内匠頭長矩が江戸城内松の廊下において吉良上野介義央に対し刃傷に及び、内匠頭は即日切腹、御家断絶、領地没収となり、大石内蔵助は城明け渡しの後、善後策を図るためにこの山科の地に隠棲した。
 この地にて、先ずはお家復興の動きをしたが受け入れられず、止む無く方針変更、吉良上野介に対し仇討をすべく謀議を計った場所である。
 この場所は、山一つ向こうが、祇園や伏見であるので、世間の目を欺くために遊興に興じる振りをするには便利な場所でもあった。

 この山科の大石神社は、昭和10年に大石内蔵助と赤穂の義士達の義挙を顕彰するために、京都府知事を会長とする大石神社建設 会等により、内蔵助の隠棲の地に創建されたものである。

 神社境内には、大石内蔵助の家紋の太鼓、そして内蔵助の石像、更には宝物館に内蔵助の坐像が展示されている。
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 その隠棲地はこの神社に隣接する岩屋寺の境内であった。
 岩屋寺への参道を登ってみる。
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 途中、内蔵助の遺髪塚がある。
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 寺の本堂、そして内蔵助が彫ったと云われる弁財天を祀るお堂がある。
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 岩屋寺は隣にある山科神社の神宮寺であった。
 内蔵助はこの山科神社に常々参詣し、本懐成就の願掛けを行ったと云われている。
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『京都市・今宮神社』

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 京都市北区紫野今宮町に鎮座する今宮神社の正面の楼門である。
 楼門を潜ると正面に舞殿、そして拝殿・本殿が鎮座している。
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 本殿には、大己貴命(おおなむちのみこと) 、 事代主命(ことしろぬしのみこと) 、 奇稲田姫命(くしなだひめのみこと) が祀られている。
 そして左側には疫神社があり、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が祀られている。
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 今宮神社は、平安遷都以前から、この地に疫神が祀られたのを起源とする。
 京に疫病が流行った時、神輿に神を乗せ船岡山に安置し祈願したと云われる。
 平安時代の中ごろに、疫神をこの地に降ろして、上述の主祭神と共に祀ったのが今宮神社の創建となっている。
 その経緯をベースにしたのが良く知られている「やすらい(夜須礼)まつり」である。

 その後、祭りの禁止令や応仁の乱などの戦乱で荒廃したが、江戸時代になって将軍綱吉の母、西陣出身の桂昌院によって再興された。
 桂昌院は、町の八百屋の娘「お玉」が将軍家光の側室となったことから、「玉の輿」の由来になったことでも知られている。
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 境内には多くの境内社がある。
 七夕に纏わる織姫神社、地主稲荷神社、八社神社などである。
 特に八社は全国の有名神社が祀られている。それぞれ大国社、蛭子社、八幡社、熱田社、住吉社、香取社、鏡作社、諏訪社である。
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 また境内には趣のある燈籠、更には、三度叩くと重くなり、三度撫でてると、軽くなって「願い」が叶うと言う石「阿呆賢(あほけん)さん」がある。
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 神社の東門を出ると参道に名物「あぶり餅」の店が両側にある。
 あぶり餅は、きな粉をまぶした親指大の餅を竹串に刺し、炭火であぶったあと白味噌のタレをぬった餅菓子である。
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『神戸市・弓弦羽神社』

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 神戸市東灘区御影(みかげ)に鎮座する弓弦羽(ゆずるは)神社の参道入り口の標柱である。
 阪神間を東西に貫く山手幹線に面したところに建てられている。
 神社へはこの入り口から六甲山へ向かっての参道を辿ることになる。
 途中で一の鳥居を潜ると拝殿の姿が見えてくる。
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 この神社には、古代の神功皇后の三韓征伐に関わる謂れがある。
 皇后が難波の地への帰路の船旅でこの地に差し掛かった時、忍熊王(おしくまのみこ)が兵を挙げたことを知り、皇后自らが当地で弓矢甲冑を納めて熊野大神を斎奉し祈念したところ、戦に大勝したとのことである。

 この故事により、神社背後の峰を弓弦羽嶽(弓矢)とも、六甲山(甲冑)とも言い、又、皇后がこの里の泉に、自らの姿を写したことから「御影」と呼ばれるようになったとのことでもある。

 平安時代になって、弓弦羽の森が神領地と定められ、社殿が造営され神社が創建されたとの経緯を持っている。
 以降、平安時代には熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を集め、江戸時代には灘の酒造家の崇敬を集め、今日に至っているとのことである。
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 したがって、祭神として、根本熊野三所大神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)が祀られている。

 また境内社として、酒の神の松尾社、それと12社が祀られている。
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 また最近ではこの神社はフィギュアスケートの羽生結弦選手ファンの聖地となっている。
 絵馬掛けには応援絵馬が多数掛けられている。
 羽生選手自身も、この神社へ何度かの必勝祈願をしたとの話も聞く。
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 また熊野大神と云えば三本足の八咫烏である。
 八咫烏と云えばサッカー、ご当地のINAC神戸レオネッサ、ヴィッセル神戸のチームが奉納した御影石のサッカーボールが奉納されている。
 選手たちも必勝祈願に訪れるとのことである。
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『大阪市・難波神社』

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 大阪市中央区博労(ばくろう)町の御堂筋の西に面して鎮座する難波(なんば)神社の正面の鳥居である。
 他にも御堂筋側の鳥居、本殿裏の北側の鳥居が建てられている。
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 難波神社は、反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮(しばがきのみや)を造営した時、父である仁徳天皇を祀った神社を近くに創建したのが始まりと云われる。
 その後、上本町に遷座され、豊臣秀吉の大阪城築城に伴って現在の場所に遷座されたものである。
 主祭神は仁徳天皇、配祀は素戔嗚尊である。
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 境内社には、船場の商家に崇敬された博労稲荷神社、そして金刀比羅神社がある。
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 他にも十四柱相殿(じゅうよんばしらあいどの)神社があり、お馴染みの武将たちも祀られている。
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 またこの神社には、植村文楽軒が人形浄瑠璃の小屋を開き、その後長きに渡り文楽軒の芝居として市民に愛されたところでもある。
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尚、難波神社は摂津国総社、難波大宮とも呼称される。

『大阪市・生國魂神社』

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 大阪市天王寺区生玉町に鎮座する難波大社(なにわのおおやしろ)と云われる生國魂神社(いくたまじんじゃ)の表参道の大鳥居である。

 生國魂神社は、神武天皇の東征の折り、現在の上町台地の北端に日本列島そのものの神である生島(いくしま)大神と足島(たるしま)大神を祀り、国家安泰を祈願したことが創建とされている。
 その場所は、現在の大阪城の天守閣の周辺であるとされる。
 その後、孝徳天皇が難波宮を神社の南隣に造営したことでも知られる。

 時代はずっと降って、戦国時代前期には、神社の一隅に一向宗の蓮如上人がのちに石山本願寺となる御坊草庵を設けた。
 しかし本願寺は、織田信長との石山戦争により焼失し、豊臣秀吉が大坂城を築城するに際して、ずっと南の現在の場所に移されたとされている。

 神社へは、冒頭の大鳥居を潜る。
 正面には拝殿、本殿が祀られている。
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 拝殿の手前右手には、手前から天満宮と住吉社が祀られ、そして上方落語発祥の地の米澤彦八の石碑が建てられている。
 また、その奥には井原西鶴の座像も建立されている。
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 本殿の右横には皇大神社、その奥には、稲荷神社、源九郎稲荷神社、鴫野神社などが鎮座している。
 うち、鴫野神社は淀君が篤く崇敬した神社である。元々は大坂城の東(現OBP)にあったものであるが、現在の地に遷座されたものである。
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 更に右奥の並びに、左から城方向(きたむき)八幡宮、鞴(ふいご)神社、家造祖神社、そして浄るり神社が祀られている。
 それぞれ、大坂城の鬼門の守護、鍛冶の神、建築の神、そして文楽の神である。
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 このように、摂社末社が数多く祀られていて、その右手は北門で、境外となる。
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 また、生國魂神社は近松門左衛門の浄瑠璃「曾根崎心中」、「生玉心中」の舞台となっていることでも良く知られている。
 
 
プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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