京都市営地下鉄烏丸線 丸太町駅:①下御霊神社への訪問
関西の鉄道駅で思い付きの気ままな途中下車をして、近隣のミニ探索を実施して行く。
今回は、京都市の「京都市営地下鉄烏丸線」の「丸太町駅」で下車し、その1回目として、駅の東方向に鎮座する「下御霊神社」を訪ねることにしている。
「丸太町駅」で下車する。
駅ホームは地下で、1面2線の島式である。
そして、地上へと出る。
地上へと出て、「丸太町通」を東進する。
左手(北側)は「京都御苑」で、京都三大祭の「葵祭」、「時代祭」の行列が市中へと出る「堺町御門」がある。
進んで行くと、右手(南側)には、「京都地方裁判所」が建っている。
そしてその先で「寺町通」と交差すると、右斜め前に神社の杜が現れる。
「下御霊神社」の西向きの社頭である。
社頭には、「鳥居」、「社号柱」、そして少し奥まって「正門」が建っている。
「鳥居」・「正門」を潜り、境内へと入る。
右手(南側)には、境内社の「天満宮」、左手には「手水舎」、そして境内社の「猿田彦社」が祀られている。
そして「猿田彦社」の右隣り(北側)には「稲荷社」が祀られ、そのずっと奥に「宗像社」が祀られている。
境内の正面には舞台式の「拝殿」が祀られ、その背後は「本殿拝所」である。
「拝所」手前には一対の「狛犬」が祀られている。
そして正面を向くと、これも一対の「随身像」が配されている。
その背後には「本殿」が祀られている。
「本殿」は覆屋に包まれているので、見えないのは残念である。
尚、祭神は「御霊神社」であることから、「吉備聖霊(吉備真備)」、「崇道天皇(早良親王)」など、合わせて8柱とされている。
この「下御霊神社」は、「桓武天皇」の時代に、流行中の疫病は御霊の祟りであるとして、平安京の神泉苑で「御霊会」が催された。
この「御霊会」をきっかけとして「下御霊神社」と「上御霊神社」が創建されたとされる。
その後、この「下御霊神社」は「豊臣秀吉」の政策により、現在の「寺町通」に移設されたとされる。
境内社である。
「本殿」の左手後ろに、左から「春日社」、「神明社(内宮、外宮の社)」、「八幡社」が並んでいる。
次に「本殿・拝殿」の右手である。
「五座相殿社」が祀られている。
社名は、「日吉社」、「愛宕社」、「高知穂社・大将軍社」、「斎部社」である。
そしてその右隣に「大国主社」が祀られている。
その他境内には、「神庫」などが設置されている。
境内を一巡したところで、ご朱印を頂き、「下御霊神社」を退出したのであった。
今回は、京都市の「京都市営地下鉄烏丸線」の「丸太町駅」で下車し、その1回目として、駅の東方向に鎮座する「下御霊神社」を訪ねることにしている。
「丸太町駅」で下車する。
駅ホームは地下で、1面2線の島式である。
そして、地上へと出る。
地上へと出て、「丸太町通」を東進する。
左手(北側)は「京都御苑」で、京都三大祭の「葵祭」、「時代祭」の行列が市中へと出る「堺町御門」がある。
進んで行くと、右手(南側)には、「京都地方裁判所」が建っている。
そしてその先で「寺町通」と交差すると、右斜め前に神社の杜が現れる。
「下御霊神社」の西向きの社頭である。
社頭には、「鳥居」、「社号柱」、そして少し奥まって「正門」が建っている。
「鳥居」・「正門」を潜り、境内へと入る。
右手(南側)には、境内社の「天満宮」、左手には「手水舎」、そして境内社の「猿田彦社」が祀られている。
そして「猿田彦社」の右隣り(北側)には「稲荷社」が祀られ、そのずっと奥に「宗像社」が祀られている。
境内の正面には舞台式の「拝殿」が祀られ、その背後は「本殿拝所」である。
「拝所」手前には一対の「狛犬」が祀られている。
そして正面を向くと、これも一対の「随身像」が配されている。
その背後には「本殿」が祀られている。
「本殿」は覆屋に包まれているので、見えないのは残念である。
尚、祭神は「御霊神社」であることから、「吉備聖霊(吉備真備)」、「崇道天皇(早良親王)」など、合わせて8柱とされている。
この「下御霊神社」は、「桓武天皇」の時代に、流行中の疫病は御霊の祟りであるとして、平安京の神泉苑で「御霊会」が催された。
この「御霊会」をきっかけとして「下御霊神社」と「上御霊神社」が創建されたとされる。
その後、この「下御霊神社」は「豊臣秀吉」の政策により、現在の「寺町通」に移設されたとされる。
境内社である。
「本殿」の左手後ろに、左から「春日社」、「神明社(内宮、外宮の社)」、「八幡社」が並んでいる。
次に「本殿・拝殿」の右手である。
「五座相殿社」が祀られている。
社名は、「日吉社」、「愛宕社」、「高知穂社・大将軍社」、「斎部社」である。
そしてその右隣に「大国主社」が祀られている。
その他境内には、「神庫」などが設置されている。
境内を一巡したところで、ご朱印を頂き、「下御霊神社」を退出したのであった。