『山城国・笠置山城』
奈良の柳生と境界を接する京都府南部の笠置山288mに笠置山城はあった。
戦国時代の城ではなく、鎌倉時代末期に後醍醐天皇が立て籠もった城である。
後醍醐天皇は皇位継承問題の縺れから鎌倉幕府を討幕しようと計画し挙兵した。
しかしながら勢力優位な幕府方に京を追われることになった。
そして京都の南部の、笠置山へと逃げ、当時あった白鳳時代からの古刹笠置寺を城郭化し、攻め寄せる幕府軍と戦ったのであった。
約一か月の戦いの後、城に火が放たれ落城、天皇は捕らえられ、隠岐の島へと流されたのであった。
笠置山城跡は笠置寺の境内にある。
笠置寺は天武天皇の開基によると云われ、奈良東大寺と関係が深い寺である。
境内には看板が設けられ、境内や城跡散策の道も明示されている。
途中には巨大な石塊に、光背だけしかない弥勒磨崖仏、虚空蔵菩薩磨崖仏がある。
また正月堂は弥勒磨崖仏の礼堂として建てられたものである。
東大寺の二月堂、三月堂へとお堂が連続していると云われる。
寺の住職の話によると、後醍醐天皇はこの正月堂を常日頃の住まい(御殿)としたとのことであった。
境内を一周する道に入る。
太鼓石、ゆるぎ石と云うのがある。
又、眼下に木津川と谷が見える。北の方向である。
頂上へ近づくと少しの広場にでる。
休憩所もあり、二ノ丸跡と説明されている。
更に進む。
行在所遺址の石柱と石段がある。
登ると玉垣が設置されている行在所である。
横から回り込んでみると、草木に覆われているが、広い場所となっている。
本丸の部分であろう。
後醍醐天皇は隠岐島に流されていたが、その間に楠木正成が挙兵し、鎌倉幕府北条軍を大坂南部金剛山麓の千早に引き付けている間に、新田義貞が鎌倉を襲い幕府を滅ぼした。
そして島から帰ってきた天皇の建武の新政へと続いて行くのであった。