『徳川大坂城・北外堀』
大坂の陣が集結し、徳川氏が大坂をも支配する時代になって、将軍秀忠は秀吉の築いた大坂城の跡に各大名に使役を課す天下普請にて新大坂城を築城した。
その工程は、城跡に10m近くの盛り土をし、石垣や堀を再構築するとともに、西国への備えとして威圧感を持つ天守や御殿、そして多くの櫓を構築したものであった。
その結果、豊臣当時の城との比較では、内堀・外堀だけのかなり狭くなった大坂城が出来上がった。
城主は置かず、城代や城番の屋敷も城内に構えたのであった。
城を取り囲む外堀は、北、西、南、東の4本の堀に分かれている。
そしてその堀を分けるのは4つの入口の、青屋口、京橋口、大手口、玉造口である。
今回はその外堀の周囲を訪ねてみた。
先ずは、北外堀である。
北外堀は青屋口と京橋口の間である。
この外堀の外側はかつての三ノ丸、現在は主として桃園である。一部大阪城ホールへの道もある。
また外堀の内側の石垣の上に伏見櫓の跡も見られる。
青屋口の門、青屋門から外堀の内側へと入る。
京橋口へ向かうが、内堀の途中に極楽橋が架かっている。
この橋を渡ると山里丸を経て、本丸天守へ行くことができるが、今回は不要である。
橋の少し西に遊覧船の発着場があり、豊臣の軍旗も雰囲気を醸し出している。
更に西へ行くと、外堀石垣の上の伏見櫓の跡地に出る。
跡地は少しの広場であるが、礎石であろうか、一部残っている。
北外堀は伏見櫓跡の所で直角に曲がっている。
青屋口方向には、堀の向こうにOBPのビル群が見える。
また、時折、伊丹空港への着陸機も重なる。
京橋口方向はもう間近である。
京橋口までの間に先ずは京橋口定番屋敷跡がある。
京橋口から入ってくる道に出会うと、そこには一対の中国・明の時代の狛犬がある。
日中戦争の時に日本軍が持ち帰ったものであるが、その後、中国から正式に寄贈され、日中両国の友好を促進する記念物となっている。
また狛犬の間の内堀の向こうに天守閣が良く見える。
北外堀はここまでである。
京橋口から退出するが、この口の桝形の石垣には肥後石という大きな石が積まれている。
表面33畳あり、大坂城石垣の中では2番目の大きさとなっている。
加藤清正が選んで運んだとの逸話から肥後石と名付けられているが、大坂の陣の時は清正公は既に亡く、本当は岡山藩の池田公が運んだと云われている。