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『徳川大坂城・北外堀』

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 大坂の陣が集結し、徳川氏が大坂をも支配する時代になって、将軍秀忠は秀吉の築いた大坂城の跡に各大名に使役を課す天下普請にて新大坂城を築城した。
 その工程は、城跡に10m近くの盛り土をし、石垣や堀を再構築するとともに、西国への備えとして威圧感を持つ天守や御殿、そして多くの櫓を構築したものであった。

 その結果、豊臣当時の城との比較では、内堀・外堀だけのかなり狭くなった大坂城が出来上がった。
 城主は置かず、城代や城番の屋敷も城内に構えたのであった。

 城を取り囲む外堀は、北、西、南、東の4本の堀に分かれている。
 そしてその堀を分けるのは4つの入口の、青屋口、京橋口、大手口、玉造口である。

 今回はその外堀の周囲を訪ねてみた。
 先ずは、北外堀である。

 北外堀は青屋口と京橋口の間である。
 この外堀の外側はかつての三ノ丸、現在は主として桃園である。一部大阪城ホールへの道もある。
 また外堀の内側の石垣の上に伏見櫓の跡も見られる。
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 青屋口の門、青屋門から外堀の内側へと入る。
 京橋口へ向かうが、内堀の途中に極楽橋が架かっている。
 この橋を渡ると山里丸を経て、本丸天守へ行くことができるが、今回は不要である。
 橋の少し西に遊覧船の発着場があり、豊臣の軍旗も雰囲気を醸し出している。
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 更に西へ行くと、外堀石垣の上の伏見櫓の跡地に出る。
 跡地は少しの広場であるが、礎石であろうか、一部残っている。
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 北外堀は伏見櫓跡の所で直角に曲がっている。
 青屋口方向には、堀の向こうにOBPのビル群が見える。
 また、時折、伊丹空港への着陸機も重なる。
 京橋口方向はもう間近である。
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 京橋口までの間に先ずは京橋口定番屋敷跡がある。
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 京橋口から入ってくる道に出会うと、そこには一対の中国・明の時代の狛犬がある。
 日中戦争の時に日本軍が持ち帰ったものであるが、その後、中国から正式に寄贈され、日中両国の友好を促進する記念物となっている。
 また狛犬の間の内堀の向こうに天守閣が良く見える。
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 北外堀はここまでである。
 京橋口から退出するが、この口の桝形の石垣には肥後石という大きな石が積まれている。
 表面33畳あり、大坂城石垣の中では2番目の大きさとなっている。
 加藤清正が選んで運んだとの逸話から肥後石と名付けられているが、大坂の陣の時は清正公は既に亡く、本当は岡山藩の池田公が運んだと云われている。
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『京都市・妙音弁財天』

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 京都市上京区、賀茂川と高野川が合流する出町の出町橋の西詰にこの寺社がある。
 また、この寺社から直ぐ西の河原町通りを超えた商店街に、行列の京生菓子の豆餅で知られる「ふたば」と云う店がある。
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 入口には鳥居があるが、相国寺の塔頭である大光明寺の飛地境内だそうで、寺社の判別が難しい。
 神仏習合の寺社と云うのが妥当であり、明治維新以前は大方の所はこうであったと思われる。

 鳥居を潜ると右手に妙音堂といわれる参拝所がある。
 この拝所の裏側には蛇の絵が描かれた額が並べられている。
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 その先、神社であるならば本殿に当たる所に、白い建造物がある。
 その建物には妙音天の扁額がある。
 この中に、本尊である「青龍弁財天画像」が祀られている。
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 この画は鎌倉時代、西園寺安寧子(さいおんじねいし)が後伏見天皇女御に輿入れした際に、第二伝の念持仏として持参したものと云われる。
 そして更に南北朝時代、北朝の光厳天皇、光明天皇、崇光天皇に崇敬され、伏見離宮内に祀られてきた。
 江戸時代になって、伏見宮貞建(さだたて)親王により、伏見邸が出町に移転になり、付近に祀られた。

 東京遷都で一時東京へと移動したが、地元の信者の熱意で最終的にこの場所に祀られ、現在に至っている。
 尚このあたりの町名は、青竜町という。

 境内には稲荷神社も祀られている。
 豊川稲荷大明神と云う。
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 尚、この弁財天は京洛七福神の一つに数えられている。

『京田辺市・一休寺の青紅葉』

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 京田辺市にある「酬恩菴」も青紅葉の季節となった。
 この寺は通称「一休寺」と云われ、幼少のころは「とんちの一休さん」として知られる臨済宗大徳寺の高僧「一休宗純」が晩年を過ごしたところである。
 一休宗純は後小松天皇の落胤として知られ、大徳寺の塔頭「真珠庵」の開祖としても知られている。
 尚、この酬恩菴の地は、大徳寺から見て真南の方向にあたる甘南備山の麓である。

 冒頭の総門から一直線の上り坂が青紅葉の参道である。
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 石垣とのコントラストも映える。
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 参道の石垣の上に方丈の檜皮拭きの屋根が見える。
 その屋根と重なる青紅葉である。
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 天空に伸びる青紅葉、そして浴室まで進むと、一直線の参道は折れ曲がる。
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 総門の門前には2体の石碑がある。
 どちらも「薪能金春芝跡」とある。
 このあたりで金春禅竹が一休禅師に猿楽の能を演じた場所とされている。
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『京田辺市・棚倉孫神社』

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 京都府南部の京田辺市の中央部の天神の森に鎮座する棚倉孫(たなくらひこ)神社の参道の社名柱である。
 棚倉孫神社は、延喜式神名帳に記載されていた式内社であり、相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命(たかくらじのみこと)を勧請し祀っている。

 高倉下命は、神武天皇が熊野の地で荒振る神の毒気にあたり気絶していたところへ、天照大御神と建御雷神の意をうけて天下平定の霊剣である布都御魂(ふつのみたま)を献上し、神武天皇とその軍勢を救ったという神である。
 またの名を天香語山命(あめのかごやまのみこと)、あるいは手栗彦命(たなくりひこのみこと)と云い、高倉下命は手栗彦命が訛ったものとも云われている。

 天神の森は、平地より一段と高い丘にある。
 参道を登り詰めたところから眺めると、一旦下がり、そしてその先の石段を登ったところが神域である。
 石段の左手前には、かつての神宮寺であった松寿院跡で現在の社務所がある。
 この建物は、明治時代に小学校として活用されと云われている。
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 石段を登った正面が拝殿である。その背後に本殿が祀られている。
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 そして拝殿の左手には、かつての天神社の名残か、神牛が祀られている。
 さらに左手には、氏子の方々の米寿を祝うマスカケが数多く奉納されている。
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 また神輿庫には、大小の瑞饋(ずいき)神輿が展示されている。
 この神輿は、例祭巡行の折に製作されるとのことである。
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 神社の社名柱の所には、天津神(あまつかみ)川という天井川が流れている。
 この川を上流に少し遡った所に野生の藤が綺麗に花を付けていたのが印象的であった。
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『枚方市・楠葉台場跡』

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 大阪府枚方(ひらかたし)市の北端、楠葉中之芝にある楠葉(くずは)台場跡である。
 京都府八幡市橋本地区と隣接していて、楠葉台場は橋本台場とも云われた。

 楠葉台場は、江戸時代の末期、京都守護職の松平容保(かたもり)率いる会津藩から上申され、勝海舟を責任者として築かれた京都を鎮護する砲台である。
 誰から護るのか? 先ずは淀川を遡り京都に攻め入ると想定した外国船、そして徳川幕府を打倒せんと官軍を称して京都に迫る薩長軍からである。

 砲台は3ヶ所あったと云われる。
 そしてカノン砲3門が供えられていた。
 うち2門は台場跡の西、現在の京阪電車の線路の辺りである。
 線路の向こうは道路があり、その先は淀川、そしてその向こうは山崎で、天王山が見えている。
 そして、台場跡には土塁状のものも見られるが、現在は柵が取り付けられている。
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 手前に見えるブルーシートの中に台場跡を物語る石碑と説明板が包まれている。
 石碑には「戊辰役橋本砲台場跡」と記されている。
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 なぜ、このようになっているのか?
 この石碑は以前は、南に隣接する住宅街の桜並木の下に建てられていた。
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 実はこの台場跡は近年、国の史跡に指定された。
 そのため、現状での保存も含め、公園化しようとしている様相がある。
 従って、その工事は半ばであり、石碑も設置を待っているところであると思われる。

 尚、この砲台は、戊辰戦争の時、将軍慶喜が大阪への移動途中に立ち寄って、巻き返しを計ったが、淀川対岸の藤堂家が護る淀川の高浜砲台から砲弾を撃ち込まれ、応戦むなしく瓦解したとの経緯を辿っている。

『大阪市・長柄八幡宮』

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 大阪市北区長柄(ながら)中に鎮座する長柄八幡宮である。
 鎌倉時代の終わり頃、大阪を流れる大川の近くに、石清水八幡宮から八幡大神を勧請して創建された神社である。
 尚、八幡大神とは応神天皇、比咩大神、神宮皇后の三柱の総称である。
 そして創建より僧形八幡神像を祀っていて、神仏習合の神宮寺でもある。

 また、往時は本殿の左側に、本殿と同じように南面した薬師堂があった。
 この薬師堂が相殿の出雲神社であり、大己貴大神、少彦名大神を祭神としている。
 さらに住吉大神は、淀川の改修の影響を受けたため、大正時代に合祀されたものである。

 神社は冒頭の鳥居の左右に玉垣が連なる。
 そして鳥居を潜ると、正面に拝殿がある。
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 拝殿の背後に連なって、幣殿、そして本殿が祀られている。
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 また本殿右横には、稲荷大神が祀られている。
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 拝殿前の燈篭が変わった屋根である。切妻型の2段屋根の形をしている。
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 尚、この長柄八幡宮は江戸時代に、茨木藩主片桐市正且元により拝殿、幣殿、本殿が改築されたと云われている。

『大阪市・旧毛馬閘門』

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 大阪市北区と都島区の境目、淀川から分流する大川の入口にある旧毛馬閘門(けまこうこもん)の遺構である。
 明治の中頃に建設されたもので、現在は現役を引退しているが、重要文化財として保存されている。

 古代・中世・近世と明治の初めごろまでは、淀川は3本の川に分かれていた。
 北から神崎川、中津川、大川の3本で、大雨があれば洪水が絶えなかったと云われる。

 明治になって大阪の市街化が進み、川の流域にも都市化の波が押し寄せると、この洪水が街を脅かすことになっていた。
 一方治水技術の発達もあり、これらの川を一本化した新淀川を開削しようと云うことになり、年月を経て現在の形へと改修されたのであった。

 神崎川や大川は分流として残され、それぞれへの流量を制御する洗堰が設けられた。
 しかし、大川は従来、大阪の中心部から淀川を通る水運路として利用されているため、水位の差ができた両方の川の船の出入りを司る閘門も併せて設けられたのであった。

 冒頭の写真はその第一閘門の淀川側の制水扉である。
 そして約80m先の大川側の制水扉との間に水と船を閉じ込め、水面高さを調節するような仕掛けになっている。
 側壁の高さは約8m、水路の幅は約10mである。
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 制水扉はハンドルを人力で回し、アームで扉を動かしたと云われる。
 また側壁には、船を繋留するためのリングやチェーン設備も設けられている。
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 また、閘門の隣には水量を調整する洗堰の一部も保存されている。
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 旧閘門のあたりは公園となっている。
 公園内には、大坂城築城の時の伏見城から運ばれたが途中で川に落ち、淀川改修時に川底から発見された残念石が置かれている。
 また、同じように発見された地蔵像も毛馬北向地蔵として祀られている。
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 旧閘門の公園から、現在使用中の閘門が見えている。
 新しい閘門の場所で眺めてみるが、流石に造りは近代的である。
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 閘門の所から淀川を眺めると、淀川全体の水量を制御する淀川大堰が川を横切っている。
 さらにこの場所は俳人の与謝蕪村の生誕地だそうで、句碑が建てられている。
 句碑には「春風や 堤長うして 家遠し」とあり、蕪村の自筆だそうである。
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『大阪市・淀川の赤川鉄橋とワンド』

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 大阪市を流れる淀川の両岸の都島区と東淀川区の間に架かる淀川鉄橋、通称「赤川鉄橋」である。
 JR保有の鉄橋で城東貨物線という貨物専用線が通っていて、複線の広さがあるが単線の線路のみの使用であったので、残った下流側(手前側)は木製の歩道橋として利用されていた。

 この貨物線は、2年後位に乗客輸送用の「おおさか東線」の放出(はなてん)-新大阪間の複線線路として活用されるため、2年半ほど前に歩道は廃止され、現在は複線化工事が進捗している状況である。
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 赤川鉄橋から淀川南岸堤防を上流に向かって歩くと、河川敷に池が連なるような風景に出会う。
 ワンドである。漢字では湾処と書く。
 ワンドは、川中に水流をコントロールする水制と云う構造物を流れに垂直に設け、水流を和らげることから船の運航をスムーズにするためのものである。
 やがてこの水制には土砂が溜り、それが大きな水溜り状態になり、流が殆ど無いため、色んな水生生物の格好の棲家となる。
 この淀川のワンドでは、魚のイタセンバラが希少種で天然記念物となっているのが有名である。
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 淀川の堤防の南側眼下には、日吉神社というカラフルな社殿の神社がある。
 また、ワンドのあたりの外側には城北公園と云う花菖蒲で知られる公園がある。    
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 公園に行ってみると、花菖蒲は時期尚早、中央の大池の周りには八重桜が見られただけであった。
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『神戸市・諏訪神社』

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 神戸市の異人館で知られる北野地区の西の諏訪山に諏訪神社が鎮座する。
 諏訪神社は、古代仁徳天皇の時代に八田皇女の離宮鎮護神として信州諏訪大社から諏訪明神を勧請したのが始まりとされる1600有余年の歴史を持つ神社である。
 その後江戸時代の後半に京都の伏見大社から稲荷神を勧請し、稲荷神社ともなっている神社である。

 そして明治以降、神戸在留中の外国人や特に中国華僑の方々の大半の崇敬を集め、諏訪山明神として現在に至っている神社である。

 神社へは、北野から繋がる東西の山本通りに冒頭の一ノ鳥居がある。
 鳥居からは急坂や石段が続く。
 途中幾つかの鳥居を潜るが、諏訪神社の本来の鳥居と稲荷神社の赤い鳥居が重なった形になっている。
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 鳥居の先に楼門が見えて来るとそろそろ参道石段も終わりである。
 楼門には回廊が配されているが、すべて朱色である。
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 楼門の先に拝殿、本殿が祀られている。
 祭神は、建御名方大神(たけみなかたのおおかみ)、比売神(ひめのかみ)である。
 提灯に朱色の文字があるのは華僑式とのことである。
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 拝殿の右隣には稲荷神社である高義大明神、そして稲荷神社が祀られ、外国由来の企業名の寄進も見られる。
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 また、境内には華僑式の御札も数多く奉納されている。
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 神社から横の道を下ると諏訪山公園がある。
 公園内には、明治7年にフランス人天文学者が太陽面を通過する金星を観測したとのことから、金星台という記念碑も設けられている。
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『藤の花が下がる時節』

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 花は桜のソメイヨシノから、様々な主人公に代わってきている。

 公園や庭園の藤棚、あるいは寺社では、今が盛りと藤の紫の花が綺麗である。
 藤はマメ科の植物なので、花はマメの花と同様であるが、藤の花の紫は、独特である。
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 藤には白色のものもあり、藤棚のアクセントにもなっている。
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 この時節、見上げれば藤の花、また目を下に移せば、芝桜やサツキが咲いている。
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 そして牡丹やシャクナゲも時々見られる花の季節となっている。
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『舞台は里桜へと』

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 ソメイヨシノは花から葉へと変わったが、それを待つかのように、里桜が満開となっている。
 里桜とは、山野に自生する山桜に対して、平安時代から人々が観賞用に大島桜やエドヒガンなどを交配・改良した品種の総称で、主には八重桜が多くを占めている。

 ソメイヨシノは江戸時代に開発されたクローンで、明治時代から各地に植えられ始め、昭和になってから河川の堤防や公園そして学校などに大量に植えられ、今や桜の代名詞となっていて、春の気候の標準木ともなっているが、それはそれである。

 里桜の多い品種は、白い八重の花びらの中央に紅が注されているような「松月」、
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 そして、一番よく見かける薄紅色の「関山」であろうか。
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 これらの桜、今は盛りと街路や公園、あるいは住宅の庭先で見かけるこの時期の風物である。

 樹木と云えば青紅葉、その季節も確実にやって来ている。
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『摂津国・瀧山城阯』

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 神戸市中央区の新神戸駅の裏の城山328mにある「瀧山城」の跡碑である。
 六甲連山の一部で、生田川の源流である布引の滝で知られる布引渓谷の西上方の尾根筋にある。
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 瀧山城へは、新幹線新神戸駅のすぐ裏に登城口がある。
 この入り口は、城の大手口であったと云われている。
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 登城道はいきなり尾根筋に取付くので急坂である。
 すこし登ると、道の途中に曲輪があったと思われる削平地も見られる。
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 登城道は、布引ハーブ園へと向かうリフトの索道の下を登って行く。
 途中で三角屋根のホテルと同じような高さになる。
 そしてゴンドラが横に見えて来る。
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 そろそろ、城の主要部である。
 東曲輪の直下に出ると、道は平坦となる。
 右下の布引渓谷へ降りる道が分岐している。
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 東曲輪に登る道が見つからなかったので、斜面にある巻道を歩く。
 かなりな急斜面である。
 途中に石垣の残骸もいくつか見られる。
 この瀧山城の石垣の石は、兵庫城の築城の際に利用されたので、このような姿になっているとのことである。
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 東曲輪を巻くと本丸との間に出る。
 説明看板が設けられている。
 そして、堀切、土橋が設けられている。
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 説明坂には、城跡の説明図もある。
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 いよいよ本丸である。
 曲輪があったと思われる幾つかの削平地の間の道を抜けると虎口を登る。
 その先に、現在は東屋が設けられているた本丸跡がある。
 そして奥の一段と高い櫓台跡の所に城跡碑が見える。
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 本丸から更に西方向の西曲輪に向かう。
 西曲輪との間には二重の堀切と土橋がある。
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 西曲輪にも直接上がる道がないので、巻道を辿る。
 そして西側から西曲輪に上がってみたが、笹が生い茂った所であった。
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 この場所で、城跡の探索は終了である。
 この西曲輪まで、新神戸駅から1時間弱を要したのであった。

 さて、瀧山城であるが、南北朝の頃、この東の摩耶山山腹の500mの所の摩耶山城とともに播磨の雄であった赤松円心則村が築き、これらの城を拠点に南朝の楠木正成を援護したと云われる。
 南朝軍が不利な中、どうしても京都に入りたい円心は今度は足利高氏に味方し、無事に京入りを果たしたのであった。

 しかしながら自らが主人公となりたい円心は、その後南朝軍に力を貸したりの微妙な立場を取り、結局は鳴かず飛ばずで終わり、城も一旦廃城になったようである。

 その後、摂津に上陸し支配力を強めた三好長慶の城となり、家臣の松永久秀が居城し改修を加えた。
 しかし長慶が亡くなると、内部抗争が勃発し、久秀は三好三人衆に城を奪われた。

 これで落ち着くかに見えたが、そこに現れたのが織田信長である。
 信長軍の軍力により、信長の部下の荒木村重の管理する城となったものの、村重の謀反説により、村重の花隈城が信長から攻められる際の織田軍の拠点となった。
 そして村重の瓦解により、瀧山城も不要となり、廃城となったという歴史を辿っている。

『ハナミズキの道』

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 ソメイヨシノの季節も終わり、街路や公園ではハナミズキに交代した感がある。
 若葉を付け始めた緑の木とも合わせて、初夏へ向けてのコントラストを醸し出している。
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 ハナミズキの原産は北アメリカで、日本や中国に分布しているヤマボウシに似ていることから、アメリカヤマボウシとも云われる。

 明治時代の最後の年に東京市長の尾崎行雄がワシントン市に3000本のソメイヨシノを贈ったが、3年後にその返礼として、ハナミズキが贈られたのが日本での栽培の始まりである。

 ハナミズキには白系統の花と紅系統の花がある。先ずは白系統である。
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 次に紅系統である。
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 紅には、薄い濃いの2種類に分かれている。
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 また、変わったところでは、薄緑もある。
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 暫らくの間はハナミズキは街路や公園をカラフルに色付けてくれる季節である。

 余談であるが、この時期、モッコウバラ、八重山吹、シランの季節である。
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 それから、躑躅である。そろそろ咲き始めている。
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『北摂・能勢妙見山』

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 大阪府と兵庫県の府県境の妙見山660.1mには、日蓮宗霊場の能勢妙見山がある。
 参道入り口は兵庫県側にあり、正面には大鳥居がある。
 また鳥居右横には、関ヶ原の功により能勢の藩主に返り咲き、開基となった能勢頼次公の大きな像が祀られている。
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 妙見山は古代から僧行基がかかわった修験道の霊場であった。
 江戸末期までは神仏習合の神社仏閣であったが、明治政府の神仏分離令により、現在は妙見大菩薩を祀る寺院が主体となっている。
 しかし妙見宮ともいわれることから、現在も神仏の霊場である。

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   (上図の上は南方向である。また上図の上部1/3程度は兵庫県である)
 
 大鳥居を潜り参道石段を登ると、星嶺(せいれい)と云う近代的な建物に出る。
 信徒会館だそうで、色んなイベントが行われるところである。
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 この先は寺院の山門となる。
 山門を潜るとこの先は大阪府となる。その表示もなされている。
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 右に鐘楼を見て寺院の境内へと石段を下りる。
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 石畳の山側・谷側に堂宇が並んでいるが、山側の中央には本殿(本堂ではない)がある。
 妙見大菩薩が祀られ、開運殿とも云う。狛犬が両側に祀られている。
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 尚、この寺院は能勢町地黄(じおう)の眞如寺の飛び地境内となっていて、正式には「無漏山眞如寺 境外(けいがい)仏堂 能勢妙見山」と云う。

 寺院を後にして、妙見山のピークへ行ってみる。
 4等三角点が埋められている。
 またその横に、日清日露の戦争で犠牲になられた方の彰忠碑が建てられている。
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 山を下りながら桜を眺めてみる。
 山桜や河津桜が綺麗に花を付けている。
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『大阪市・造幣局桜の通り抜け』

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 大阪市北区天満にある独立行政法人造幣局は毎年のこの時期、桜の通り抜けで良く知られている。
 今年の通り抜けは先日終了したが、毎年100万人前後の人が観覧に訪れ、今年も大盛況であったと云われる。

 造幣局は大川の右岸べりにある。
 大川の左岸から、歩行者専用の橋「川崎橋」を渡ると、造幣局の南門に達し、そこから北門への一方通行で桜のトンネルの中を歩くことになる。
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 構内には、全国からやってきた桜が133品種、349本ある。
 そしてその内の8割程度が里桜すなわち八重桜である。

 ピンク色のものが多くある。
 最も多い品種は関山であるが、大手毬なども目立つ。
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 白や薄紫も綺麗である。
 下の右端は小手毬である。
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 緑の品種もある。
 御衣黄、鬱金 (うこん)である。
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 通り抜けでは、今年の桜が毎年選定されている。
 今年は「牡丹」である。
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 桜を順番に眺めながら進むと30分位で通り抜けとなる。

 なぜ造幣局に桜の園ができたのか?
 それは、この造幣局の場所は江戸時代には伊勢国の津藩主の藤堂家の大坂屋敷があり、多くの桜が植えられていた。
 造幣局の前身の造幣寮が出来てしばらくして、花見を職員だけでするのは勿体ないとのことから、当時の遠藤寮長が市民に期間を限って解放したのが始まりとのことである。

 さて、造幣局の北には国道一号線が通っている。
 その北側に、かつての造幣寮の接待所で重要文化財の泉水観(せんぷかん)がある。
 またその奥に、旧桜宮公会堂がある。
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 造幣局を後に、大川に架かる銀橋を渡り京橋駅方向に向かう。
 途中のマンションの前庭に、源平枝垂れ桜という紅白の八重枝垂れが植えられていたのは、微笑ましい風景であった。
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『摂津国・余野新城跡』

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 大阪府豊能(とよの)郡豊能町余野(よの)の余野城跡の小高い丘である。
 丘上の城のあったところは、現在は学校の建物が建っている。
 かつての大阪府立城山高校、現在は淀の水学院城山キャンパスとなっている。

 丘の手前には、国道423号線と余野川が流れていて、上の写真は余野古城側から眺めたものである。

 また、古城の南東の方からは、古城新城の両方を眺めることができる。
 左手が古城、右手が新城である。
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 城山の周囲を眺めてみるが、遺構らしきものは皆無である。
 恐らくは大手門であったと思われるのが、学校の正門であろう。
 その他通用口も2ヵ所あるが、良くはわからない。
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 校舎の裏手の丘続きには西山浄土宗の遊仙寺がある。
 寺の前にある校内のテニスコートも寂れ放題である。
 ただ、城山の東には府道を挟んでグラウンドがあるが、これは活用されているようである。
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 この新城は先の余野古城の築城者と同じ余野氏により、古城を廃し建てられたものである。

 何も無い城跡であるが、高山右近夫人に関する説明板が1枚設置されている。
 それによると、永禄年間の黒田氏が領主であった時、当時大和の城主であった高山右近の父の勧めにより、家臣も含めて53名がクリスチャンとして洗礼を受けた。
 黒田氏の娘も当時は3歳であったが洗礼を受け、ユスターと名乗ったという。
 その後、ユスターは13歳の時、高槻城主の右近の夫人となったと云われている説がある。

 高山右近の里は余野の南の高山という所である。
 右近と余野氏は当時親交が厚かったと云うが、何らかの理由があって余野氏は右近に滅ぼされ、その後に黒田氏が余野の城主になったと云う流れであろうと思われる。

『摂津国・余野古城跡』

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 大阪府豊能(とよの)郡豊能町余野(よの)の余野川の西の小山に、平安末期に余野城が築かれた。
 築城者は能勢氏を総帥とする同族、能勢三惣領の一人の余野氏である。

 この城は、鎌倉時代から室町時代にかけて余野氏の本城として機能したが、後に余野川を挟んだ東側の小山に城を築城したため、余野古城あるいは余野本城と云われる。

 余野古城へは、国道423号の切畑口交差点を西に折れ余野川を渡り、農林道に入ると右手に冒頭写真の風景が広がる。
 よく見ると山裾の住宅の庭先から登山道がありそうなので、そのお家の方にことわり山へと向かう。
 お家の方の話では、時々城見学者が訪れるとのことであった。
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 山道を進む。
 道は整備されていて歩き易い。
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 最初は山腹を行くが、途中で竪堀があったのでそこから鞍部へ登る。
 鞍部の右手、東の一段と高いところは出曲輪があったところなのであろう。
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 鞍部の道を左手の西へ進む。途中から空堀を歩くようになる。
 そして急な登りになったと思ったら広い場所に出る。主廓である。
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 本廓の脇には一段と高いところがある。見張り櫓があったところであろう。
 本廓から更に奥へと進む。
 虎口を降りると、堀切と土橋がある。
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 土橋を渡ると広い道と両側に広い場所がある。
 馬事か何かに使われた場所であろうと思われる。
 道が狭くなってきたところで、引き返すことにする。
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 引き返しで井戸跡を見つけ、その先は本廓へ上がる虎口である。
 本廓をもう一度見て、余野古城の探索は終了した。
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『摂津国・野間城跡』

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 大阪府の北摂地域、豊能郡能勢町野間中の集落の南側の比高100m強の山に中世の城「野間城」があった。
 
 築城者は野間氏で、摂津源氏多田源氏の流れの能勢氏を中心とする能勢三惣領の一である。
 築城時期は平安時代の終わり頃、能勢氏が丸山城を築いたのと同時期で、野間氏はその後も能勢氏に従って戦国時代まで活躍したと云われる。
 尚、野間の地域は丸山城や地黄城があった地黄地域に隣接した南側であり、東へ行くと妙見山へ登ることができる。

 野間城跡へは、野間集落の南部を流れる野間川が目印になる。
 川の北側の野間氏の菩提寺「円珠寺」の対岸の農地の奥の山が城跡である。
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 緩やかな上りの舗装道路を進み、左手の動物柵に沿って左手の山道へと向かう。
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 山裾を回り込んだところに、削平地や池がある。
 野間氏の城下の居館があったのでは、と思われる。
 その先の右手に鳥居がある。登城道である。
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 ここからは、林間の山道となる。
 途中、湧水井戸の跡のようなものがある。
 そして石燈籠が建っている。
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 石燈籠のところで道は左に折れ、山の斜面を登る。
 途中、階段状の削平地や広い曲輪跡もある。
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 そして更に虎口と思われる急勾配登ると、主郭跡地へと到着する。
 主郭跡はこの城跡域で最も広いところである。
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 主郭の周りにはそう高くはないが敵からの守りのための土塁が築かれている。
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 主郭の奥に石段があり、その先の一段と高いところには鳥居と石柱が祀られている。
 石柱には「白髭稲生御社跡」とある。
 この場所は、物見の櫓台であったのではないかと思われる。
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 この先は、背後の山と城域を断ち切る大規模な堀切である。
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 尚、野間氏についても、戦国時代、信長や秀吉に攻められ、総帥の能勢氏と共に城と領地を奪われ、以後流浪したものと思われる。

『摂津国・地黄城址』

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 大阪府豊能郡能勢町地黄(じおう)に江戸時代に存在した地黄城の跡である。
 能勢の領主が能勢頼次が築城したもので、地黄御陣屋とも丸山新城とも呼ばれた。

 戦国時代の最終段で、明智光秀に与した能勢氏は秀吉に滅ぼされ、居城の丸山城は廃城、能勢氏も当地を離れ流浪したと云われる。
 その後、徳川家康に見いだされた能勢氏の棟梁頼次は、関ヶ原の合戦で東軍として功をなし、家康により能勢の地の領主として一万石で返り咲き、この地黄城と城下町を整備したと云われる。
 そして能勢氏はその後江戸時代末まで続いたのであった。

 地黄城址は、この3月末まで町立東中学校となっていたが、小学校中学校が1ヶ所に統合されたため、現在は廃校となっている。

 地黄城址は丸山城跡の東で、間に集落を挟んで向かいの山裾にある。
 集落内を通る街道には城跡の標識があり、そこを入ると直ぐの突き当りに石垣や標柱、説明坂が見られる。
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 両方の石垣は桝形に配置されている。
 恐らくここが大手門であろう。
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 門跡から旧校内を少し見てみる。
 自由に入れるので、管理されていないのかと思い、近所の人に聞いてみたら上記の通り後でであった。
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 尚、地黄城址は明治期に、会議所、小学校、能勢郡役所、そして東中学校と順に活用されたとのことである。

『摂津国・丸山城跡』

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 大阪府豊能郡能勢町地黄(じおう)の比高約50mの丘に、中世から戦国時代に存在した城郭の丸山城跡である。
 
 丸山城は、説明板によると摂津国多田を領地とした源頼光の子の頼国が、摂津から丹波に抜ける要衝であるこの地に、平安時代の終わりごろに築城したものである。
 そして頼国は能勢氏を称したと云われる。

 丸山城跡は南北に楕円形の椀を臥せたような丘にある。
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 上図の左手の丘の南には冒頭写真のように、城跡の標識と説明坂、丘の斜面に枝垂れ桜が植えられている。
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 城跡へは、南西の大手口から登る。
 大手口には城跡の標柱と、鎌倉時代に造られた石造九重塔と宝篋印塔が建っている。
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 登城道を登ると尾根筋の広い場所にでる。三ノ丸である。
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 この三ノ丸から、能勢氏の徳川時代の居城である地黄(じおう)城跡の石垣が見える。
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 すぐ上が二ノ丸跡である。祠が設けられている。
 また二ノ丸から奥の一段と高い部分が本丸であるが、その両側に帯曲輪の跡が取り巻いている。
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 本丸に上がる。その先に隅櫓跡がある。
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 本丸の先には堀切がある。
 土橋を渡れば見張櫓跡であり、その先に狼煙台跡がある。
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 その奥の北には大堀切があり、土橋を渡ると一番北の曲輪の天王丸である。
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 天王丸から北側の下に道路が見える。
 この場所で城跡は終わりである。
 城跡を振り返ってみると、堀切の大きさが良く分かる。
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 尚、丸山城は、能勢氏が織田信長や羽柴秀吉との争いに巻き込まれ、最後は明智光秀側に与したため、秀吉により滅ぼされたと云われる。
 そして最後の城主であった能勢頼次は流浪したが、徳川家康にその価値を見出され、関ヶ原の活躍もあって能勢の領主に復帰したと云われる。

『京都市・本能寺』

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 京都市中京区の御池通りの南で、河原町通りと寺町通りに挟まれたところにある本能寺の寺門である。
 本能寺の寺号の「能」の文字が「火が去る」と云うことで、「ヒヒ」が「去」となっているのが特徴である。
 寺門は寺町通りに面している。
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 本能寺は織田信長の本能寺事件で良く知られた寺であるが、当時はこの場所には無かった。
 どこかと云うと、現在の二条城に近い堀川高校とその周辺である。
 それを示すように跡地には石碑が建てられている。
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 寺門を潜ると境内である。
 正面に本堂がある。
 そして右には塔頭寺院が並ぶ。
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 本堂の右奥には信長公の墓所がある。
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 その左隣には、事件で死亡した信長方一統の慰霊碑がある。
 また、立て看板には名簿が記載され、数えると90余名にも及ぶ。
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 この本能寺事件には謎が多いが、その後に支配した豊臣秀吉方が記した歴史が主流となっている。

『京都市・平安神宮』

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 京都市左京区岡崎に鎮座する平安神宮のお馴染みの大鳥居である。

 平安神宮は、明治28年の京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として建設されたもので、平安京遷都の桓武天皇と平安京の最後の天皇である孝明天皇を祀った神社として創紀されている。

 平安神宮へは、大鳥居から車道の参道を進む。
 右手に京都市美術館、左手に近代美術館、府立図書館を見て、二条通り渡ると今度は左手に京都会館、右手に岡崎グラウンドを見て、冷泉(れいせん)通りを渡ると、神門前に到る。
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 神門の左手には境内図、右手には奉献酒が設置されている。
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 応天門を潜ると境内である。
 正面には外拝殿、左には額殿、右には神楽殿が祀られている。
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 これらの社殿は、神門の応天門も含め、平安京の政庁である朝堂院を模したもので、8分の5の大きさで建築されている。
 明治の建造物ではあるが、応天門および外拝殿は重要文化財に指定されている。

 また、外拝殿の左手前には西歩廊で繋がって白虎楼、右手前には蒼龍楼が聳えている。
 蒼龍楼の東歩廊の屋根には枝垂れ桜が彩を添えている。
 尚、両方の楼と東西の歩廊も重文である。
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 外拝殿の両側には左近の桜、右近の橘がある。
 また拝殿の奥には本殿が祀られているが、屋根の一部が見えるだけである。
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 広い境内であるが、神楽殿では結婚式が行われていたようで、桜の花と合わせてこの時期には似つかわしい光景である。
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『京都岡崎・疎水の桜』

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 京都市左京区の岡崎公園の南縁を東西に山側から流れる琵琶湖疎水の土手の桜が満開である。

 琵琶湖疎水とは、明治の中頃に、天皇が居なくなり町機能が低下してきた京都の産業興隆活性化を目的として琵琶湖から山科を経由して開削された人工の水路で、現在も立派に活用されているものである。

 朱色の橋は左手の平安神宮の参道神橋、その奥が南禅寺の船溜まりで、現在は琵琶湖疎水記念館が設けられている。
 その船溜まりから、観桜遊覧船が出ている。
 そして桜並木の右手はこのほど改装された京都市動物園である。
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 西へ行くと、右手は京都市美術館となる。
 そして平安神宮の鳥居が見える。
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 参道神橋の上から東の来た方向、そしてこれから行く西方向を眺めてみる。
 西は、丁度遊覧船がすれ違っているところである。
 そして右手の桜並木の影の建物は国立近代美術館である。
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 疎水はしばらく行くと、直角に北へと方向を変える。
 やはり桜は見事である。
 冷泉橋まで行くと、右手にこの度改装された京都会館すなわちロームシアターが見える。
 そして疎水は左折れし、東大路を潜り、夷川(えびすがわ)発電所から鴨川へと向かう。
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 先ほどの冷泉橋から来た方向を振り返ってみる。
 左手の建物は京都市勧業館「みやこめっせ」である。
 そして川面にも桜が映える。
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『京都・インクラインの桜』

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 京都市左京区の東山山麓にある蹴上のインクライン傾斜鉄道の線路の両側に桜のトンネルができている。
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 インクラインとは琵琶湖疎水を京都から大津までの間の水運のために、下流の南禅寺船溜まり(下写真左)から上流の蹴上船溜まりの間の落差のあるこの場所で、船を台車に載せ、レールの上を巻き上げ式で運んだ鉄道のことを云う。
 そして線路の上には、その台車と船が再現されたものが展示されている。
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 インクラインへは京都市営地下鉄蹴上駅が最寄りである。
 駅を出て、少し下り、右手の「ねじりまんぼう」というインクラインの下のトンネルを潜り、インクラインに沿って少し登ると、線路の上に出る。
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 線路の上からは、桜を通して、我が国で最初の事業用水力発電所「蹴上発電所」も間近に見える。この発電電力を使って日本初の市電を走らせたことでも知られる。
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 尚、桜の木は多くはソメイヨシノであるが、中には大島桜も花を付けている。
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 インクラインから南禅寺方向へ行くと、最初に金地院崇伝で知られる金地院の境内を通過する。
 そして南禅寺の参道となり、その先は南禅寺境内である。
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 境内は、先ずは歌舞伎「楼門五三桐」の石川五右衛門で知られる三門である。
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 その先は本堂の法堂(はっとう)である。
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 法堂の右手に行くとテレビドラマでよく見る「水路閣」がある。
 疎水の分流水路で、南禅寺を迂回して、山沿いに哲学の道の傍を流れる疎水分線となる。
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『京都・半木の道の紅枝垂』

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 京都市を北から流れる賀茂川の北山大橋と北大路橋との間の左岸(東側)の土手の遊歩道を「半木(なからぎ)の道」という。
 冒頭の写真は、北山通りからの入口である。

 半木の道は、この道の東側にある植物園内に鎮座する半木神社から名付けられたものである。
 半木神社は、古代この地で養蚕などの産業の興隆を計った賀茂族と秦族によって、上賀茂神社の別社として天太玉命を勧請して祀ったものと云われる。
 半木の由来は何か? それはかつて流木(ながれぎ)が流れつき、流木の森と云われたが、洪水が絶えないため半木(なからぎ)と名称変更されたものである。

 現在の半木の道は紅枝垂の名所となっている。
 道は紅枝垂を挟んで、東側は歩道、西側は自転車走行可能な歩道になっている。
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 西側には賀茂川が流れているので、紅枝垂の枝は川方向に伸びる。
 従って川側には、藤棚ならぬ桜棚が設けられていて、開花は見事であり、花見の人も数多くいる。
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 桜の花に近づいてみると、まだ蕾のある7分咲きのものから満開までと云う風に分かれているが、全体としては満開と云っても良い。
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 南側の北大路橋の袂の出口まで、約800mの枝垂の並木が連続しているのも見事である。
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 半木の道の南の終点から半木の道を見返してみる。
 また、北大路橋の上から、賀茂川の北方向を眺めてみる。
 そして、橋を西に渡り、もう一度見返してみると、丁度比叡山が正面に見える。
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『京都・賀茂川の桜』

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 京都市の北区と左京区の境界を流れる「賀茂川」は高野川と出町柳で合流して「鴨川」となるが、「賀茂川」というのは合流までの上流部分である。
 賀茂川の左岸東側は下鴨、右岸西側は北大路や鞍馬口の地域であるが、その両岸の桜並木は見事である。

 冒頭写真は、地下鉄北大路駅で下車し、東にある北大路橋の袂を少し下流に下がった河原から眺めた下鴨堤の桜である。
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 目を少し北(左)に移すと、桜の向こうに如意ケ嶽、通称大文字山が見えている。
 もう少し左へ移すと、比叡山と重なる。
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 北大路側の右岸土手でも桜は満開である。
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 川面には鴨であろうか? 遊んでいる姿も見られる桜満開の賀茂川である。
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『淀川三川合流・背割の桜』

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 京都府八幡市にある木津川と宇治川の合流点の両川の間に作られた「背割堤」植えられているソメイヨシノが満開である。
 堤は約1.4km、桜の本数は約250本と云われる。

 桜の手前は三重県から流れてくる木津川の河川敷、桜の向こうは琵琶湖から流れる宇治川の河川敷、そしてその向こうには丹波から保津峡、嵐山を経由して流れる桂川である。
 この場所はから下流は淀川として1本化されるので、この場所を淀川三川合流と云う。
 また三川の向こうは京都府の大山崎町で、桜の上部に見えている山は、天下分け目の戦いで知られる「天王山」である。

 御幸橋の袂から、背割堤を歩いてみる。
 長い長い桜のトンネルである。
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 トンネルの隙間から、左手木津川の向こうに石清水八幡宮が鎮座する男山、右手宇治川の向こうに天王山が見える。
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 背割桜の先端にはなぜかソメイヨシノではなく、大島桜系が1本だけ植えられている。
 川の合流点に近づいてみるが、道はない。
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 帰路は桜を見上げながらの河川敷である。
 これも見事なものである。
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『金沢市・尾山神社』

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 石川県金沢市の金沢城跡のすぐ西側に隣接して鎮座する尾山(おやま)神社の神門である。
 祭神は加賀藩の始祖前田利家公と正室お松の方である。

 利家公は、江戸時代を通して東茶屋街に隣接する卯辰八幡宮(現、宇多須神社)に祀られていたが、明治になって新たに利家公を祀る神社を創建したのが、この尾山神社である。
 
 神社参道入り口は金沢一の繁華街である香林坊の北側にある。
 広い参道を行くと、正面に鳥居と、冒頭の神門がある。神門には前田家の梅鉢門が設けられている。
 尚、この神門は国の重要文化財に指定されている。
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 境内正面には、拝殿が祀られている。
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 その背後は本殿が鎮座する。
 瑞垣ならぬ瑞塀には、やはり梅鉢門が配されている。
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 拝殿隣には摂社の金谷神社が鎮座する。
 この神社には、2代目利長公以下の歴代の加賀藩主が祀られている。
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 また境内には、利家公の像、お松の方のレリーフ像が祀られている。
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 更に境内には神苑、そして「さし石」が祀られている。
 さし石は、若者たちが持ち上げ力比べをしたものと云われる。
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 神社の裏参道である東参道の神門は、旧金沢城の二ノ丸の唐門の移築とのことで、登録有形文化財である。
 この東神門を出ると、金沢城の玉泉院丸の石垣が正面に出現する。
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『但馬国・竹田城跡』

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 兵庫県朝来(あさご)市和田山町竹田にある竹田城跡である。
 写真は天守台の上から南千畳を望んだものである。

 竹田城跡は、周囲を高い山に囲まれた円山川沿いの独立峰虎臥山350mの頂上に築かれた城郭で、城下から見上げると山上に連なった石垣が見えることから天空の城と云われている。
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 竹田城へは城下町にあるJR播但線の竹田駅が最寄りである。
 城下町には、旧木村酒造場などの伝統的町屋もあり、屋根のはるか上に城跡の石垣を眺めることができる。
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 城下には案内板が幾つかあり、迷うことなく登城道に辿り着くことができる。
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 竹田城は、中世の山城である。
 但馬を制圧した山名氏が、南の播磨への備えとして築城したものと云われる。
 山名氏の家臣の太田垣氏が城主となり、戦国前半はその機能を果たしていたが、信長の西国侵攻により羽柴軍の秀長により攻められ落城、秀長が入城した。

 その後、秀吉の家臣の桑山氏、赤松氏が城主となり、赤松氏の時には現在の縄張りの形に修築されたと云われている。
 赤松氏は、関ヶ原で西軍に与したため、滅ぼされ、家康の命にて山名豊国が受取り入城したが、一国一城令により廃城となった、という経過を辿っている。

 竹田城へは、駅裏の登山道を行くことになる。
 少し行くと、広い屋敷跡がある。城主や家臣の屋敷があり、政治を行ったところと云われている。
 山頂の石垣が見えるが、まだまだ遠い。
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 ここから本格的な登山道で、結構な登りである。
 30分ほど歩いたところで、城跡の石垣の下に出る。
 史蹟竹田城址の標柱があり、そして入城料徴収の料金所がある。
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 先ずは虎口へと進み、登ると北千畳という広いところに出る。
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 北千畳からは北方向の和田山の街を望むことができる。
 また、本丸方向を見ると三ノ丸の石垣が見える。
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 三ノ丸に入ると正面に本丸、天守の石垣が見える。
 また、東方向を望むと中腹に立雲峡がある山が望める。
 この立雲峡が雲海の中の竹田城を写真に収めるベストポイントだそうである。
 次に、二ノ丸へと進む。
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 二ノ丸から天守の石垣を望むと、綺麗な曲線を描いている。
 また、天守の向こう側の連なる石垣が望める。
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 いよいよ本丸、天守である。
 天守台は10m四方ぐらいで、そう広くはないが、南方向が絶景である。
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 天守台を振り返りながら南へと進む。
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 大手の虎口を降りると、南千畳である。
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 南千畳一周すると、ここからは下城道となる。
 急峻な道を降りると、表米(ひょうまい)神社へと出て、城跡探索は終了である。

 尚、係員の方に伺うと、石垣の保全には、多くの労力を要しているとのことであった。

『但馬国・出石城跡』

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 兵庫県豊岡市出石(いずし)町の有子山山麓にある出石城跡の本丸西隅櫓である。

 出石は戦国から江戸時代にかけて但馬国の政治の中心地であり、但馬国では唯一の城下町であった。
 当初但馬の守護であった山名氏は、出石の北側の山に此隅山(このすみやま)城を築き支配していたが、織田信長の西国侵略により秀吉軍に攻め滅ぼされたが、最終的に信長には許され、領地は安堵されたので、今度は南の山上に有子山(ありこやま)城を築いた。

 しかし、毛利が台頭する中、山名氏は毛利方に付き信長と戦い敗れ、但馬山名氏は滅亡したのであった。
 その後、秀吉が天下を支配する時代となり、小出氏が領主となり、関ヶ原を経て有子山上の城を廃止し、山麓にあった館を整備し、出石藩の藩庁とし、出石城と名付けた。
 その後、小出氏から松平氏へ、その松平氏が信州上田へと改易されたのに代わって、上田から仙石氏が藩主となり、城下町を整備するとともに、信州から持ち込んだ蕎麦を広め、仙石氏は明治維新まで続いたという歴史がある。

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 出石城跡は城下の南の山麓にある。
 城下の大手通りから城に近づくと、三の丸の横に大手門があり、その隅櫓には明治時代の辰鼓楼と云うと時計台が建っている。
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 辰鼓楼の横を進むと、その先に登城橋、登城門があり、それを潜ると城内である。
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 冒頭の本丸西隅櫓が聳えている。
 本丸の地内にでは、西隅櫓、東隅櫓が再建されている。
 そして、本丸跡には感応殿という社が祀られている。
 この感応殿には、出石藩主仙石氏の祖である仙石秀久公が祀られている。
    IMG_1232_convert_20160401152705.jpg  IMG_1234_convert_20160401152752.jpg  IMG_1231_convert_20160401152638.jpg

 出石城の石垣は、本丸下、本丸上や本丸横の部分はそのままの形で現存してるのは見事である。
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 下まで降りて、も一度城跡を眺めてみる。
 石垣が幾重にも構成されている。
 また、遠く左奥の山上に有子山城の石垣を見ることができる。
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 石垣群の左手に稲荷神社の標柱と神橋、鳥居がある。
 参道石段に多くの鳥居が建っている中を進む。
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 石段を登り詰めたところに有子山城の跡の標柱がある。
 左手の山道を登ると城跡に行くことができる。
 右手は稲荷神社の境内である。丁度、本丸背後の石垣の上の部分である。
 拝殿本殿が祀られている。
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 城跡から城下に戻る。
 城跡から見て北西方向に家老屋敷がある。
 塀、長屋門、屋敷などがあり、辰鼓楼などと共に重要伝統的建造物群保存地区の一部である。
    IMG_1275_convert_20160401153814.jpg  IMG_1274_convert_20160401153409.jpg  IMG_1272_convert_20160401153338.jpg

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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