福島県の会津若松駅から東方の飯盛山に向け道路が真っ直ぐに伸びている。
この通りを白虎通りと云い、この道の先は飯盛山へ登る参道となる。
参道を少し行くと、右手にスロープコンベアという動く坂道が2段階あり、最後は少々の石段となるが、楽に登ることができる。
石段の上は広い場所である。
奥に、狛犬に護られた冒頭写真の白虎隊士19名の墓が祀られている。
またその横に、戊辰戦争で殉死した会津の婦女子200名の霊を弔う碑、当時の藩主松平容保公の弔歌碑もある。
弔歌碑には「幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う」と刻まれている。
戊辰戦争における白虎隊については、良く知られている。
会津を護るべく四神に因む「白虎」「青龍」「玄武」「朱雀」の4隊が結成された。
白虎隊は総勢343名と推定されているが、そのうち戸の口原十六橋へ二番隊の37名が向かった。
しかし戦況悪く、今度は城の防備へと向かうが、内20名は飯盛山で城の方向に煙が上がっていることから、既に落城と思い、飯盛山で自刃したと云われている。
自刃の地は少し下がったところにあり、鶴ヶ城を遠望することができる。
ただ一人飯沼貞吉少年が蘇生されたが、貞吉は生き残ってしまった自分を責め、会津の地から離れ二度と戻ることはなかったのであるが、白虎隊の自刃に至るまでの詳細を語ったことで、白虎隊の物語が世に知られることになったのである。
成人した飯沼氏は逓信省の技師となり、我が国の通信事業の発展に大いに貢献したとも云われ、死後に、仲間たちと一緒のこの場所に弔われている。
隊士の墓所から城と反対側へと少し下がったところに、寺社が祀られている。
先ずは通称「さざえ堂」の重要文化財「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)である。
六角三層で、内部は螺旋状に一方通行で上下することができる構造である。
また内部には西国三十三ヵ所観音菩薩を安置していたが、神仏分離で撤去されているとのことである。
また、その対面には宇賀神堂が祀られている。
さらに下には、厳島神社が鎮座する。
そして天保年間に会津平野の灌漑用に猪苗代湖より通水した戸の口堰洞穴がある。
白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴を潜ったとも云われている。