fc2ブログ

『会津若松Ⅴ・神明神社』

IMG_4025.jpg

 福島県会津若松市中町、鶴ヶ城の北の神明通りに面して鎮座する「神明神社」の社頭である。
 神明神社は南北朝時代、神道流槍刀術の祖の飯篠家直の勧請により創建したと云われている。

 その後、会津蘆名氏が深く信仰し、それ以降も松平家までの歴代会津領主から深く崇敬されている。
 戊辰戦争にてすべてを焼失したが、明治2年に現在地に遷座され、社号を「伊勢宮」から、現在の「神明神社」に改められている。

 神社参道には神明鳥居、その先の右に、かつての標柱であろう「天照皇大神宮」が祀られている。
         IMG_4026.jpg  IMG_4024.jpg

 更には「慶応」と刻まれた木製の灯篭、そしてその後ろに、稲荷社の祠が祀られている。
    IMG_4021.jpg  IMG_4020.jpg  IMG_4018.jpg

 参道は直角に折れるが、その左手に緑屋根の神楽殿がある。
               IMG_4019.jpg

 その先は拝殿、本殿である。
    IMG_4014.jpg  IMG_4017.jpg  IMG_4016.jpg
 祭神は、天照大神、応神天皇、倉稲魂命(うかのみたまの命)である。

『会津若松Ⅳ・蒲生氏郷公墓所』

IMG_4027.jpg

 福島県会津若松市栄町興徳寺境内にある蒲生氏郷公の墓所である。
 鶴ヶ城の北方向、神明通りの東へ少し入ったところにある。

 織田信長の家臣であった蒲生氏郷は、近江国の日野の中野城主であったが、信長亡き後、秀吉に従い松坂城主を任じられ城下町を整備した後、奥州仕置として、仙台伊達氏の抑えとして会津黒川城主となり、城の構築、城下の整備を行ったことで知られている。

 氏郷は、会津黒川の名を廃し会津若松と名付けた人物でもあり、また城も蒲生家の家紋「舞鶴」と氏郷の幼名「鶴千代」に因み、鶴ヶ城と名付けたことでも知られる。
 その若松とは、氏郷の故郷の蒲生家が崇敬していた日野の綿向神社の参道の「若松の森」に因み名付けられてと云われる。
 下写真はその日野の綿向神社の風景である。
         CIMG0361.jpg  CIMG0377.jpg

 尚、会津とは、崇神天皇の時代に、四道将軍の一人として諸国平定の任務を終え た大彦命とその子の建沼河別命がこの地で合流したことに由来 すると云われる。

 冒頭の門には葵紋、そして門を入ると墓所の標柱が建っている。
 そして右手には、江戸末期の藩主松平容保公の歌碑がある。
    IMG_4039.jpg  IMG_4028.jpg  IMG_4036.jpg

 正面は墓である五輪の塔である。
 元々は御霊屋があったそうであるが、戊辰戦争にて焼失したとのことである。
    IMG_4031.jpg  IMG_4030.jpg  IMG_4033.jpg

 五輪の塔には、空、風、火、水、地と刻まれている。
 また近くには、氏郷公の詩碑も設置されている。
         IMG_4034.jpg  IMG_4032.jpg

 尚、墓所の裏手、興徳寺の正面に回ると、虚空蔵大菩薩の標柱が掲げられている。
               IMG_4040.jpg

『会津若松Ⅲ・会津武家屋敷』

IMG_4152.jpg

 福島県会津若松市の城下の東部、東山にある観光名所「会津武家屋敷」の入り口石段である。
 この武家屋敷は、鶴ヶ城の北にあった家老屋敷、即ち西郷頼母(たのも)の屋敷をこの場所に再建するとともに、旧中畑陣屋を移築して構成されている。

 IMG_4153.jpg

 石段を上がり屋敷の門を潜ると正面に旧中畑陣屋がある。
 左側は家老屋敷の門に繋がる長屋であり、長屋に沿って進む。
    IMG_4126.jpg  IMG_4127.jpg  IMG_4128.jpg

 長屋は片長屋と云い、その先に表門がある。
 そして表門を潜ると、表玄関の正面となる。
               IMG_4130.jpg

 表玄関を回り込むと、藩主専用の御成り御殿である。
    IMG_4131.jpg  IMG_4134.jpg  IMG_4135.jpg

 御殿を回り込むと、家老屋敷の部分となる。
 奥方や子女の生活場面が再現されている。
               IMG_4136.jpg

 更に屋敷の裏の部分まで回り込むと、そこには精米所、そして蔵がある。
         IMG_4139.jpg  IMG_4141.jpg

 そして正面に戻ると、片長屋の屋敷側である。
 この場所には、家老妻子の自刃の場面が再建されている。
               IMG_4142.jpg

 屋敷の前方へ出ると、そこには家老頼母が祀った天満宮が鎮座している家老屋敷である。
    IMG_4146.jpg  IMG_4148.jpg  IMG_4149.jpg

『会津若松Ⅱ・飯盛山』

IMG_4174.jpg

 福島県の会津若松駅から東方の飯盛山に向け道路が真っ直ぐに伸びている。
 この通りを白虎通りと云い、この道の先は飯盛山へ登る参道となる。
    IMG_3951.jpg  飯盛山  IMG_4155.jpg

 参道を少し行くと、右手にスロープコンベアという動く坂道が2段階あり、最後は少々の石段となるが、楽に登ることができる。
    IMG_4190.jpg  IMG_4156.jpg  IMG_4157.jpg

 石段の上は広い場所である。
 奥に、狛犬に護られた冒頭写真の白虎隊士19名の墓が祀られている。
         IMG_4175.jpg  IMG_4176.jpg

 またその横に、戊辰戦争で殉死した会津の婦女子200名の霊を弔う碑、当時の藩主松平容保公の弔歌碑もある。
 弔歌碑には「幾人の 涙は石に そそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思う」と刻まれている。
         IMG_4177.jpg  IMG_4173.jpg

 戊辰戦争における白虎隊については、良く知られている。
 会津を護るべく四神に因む「白虎」「青龍」「玄武」「朱雀」の4隊が結成された。

 白虎隊は総勢343名と推定されているが、そのうち戸の口原十六橋へ二番隊の37名が向かった。 
 しかし戦況悪く、今度は城の防備へと向かうが、内20名は飯盛山で城の方向に煙が上がっていることから、既に落城と思い、飯盛山で自刃したと云われている。
 自刃の地は少し下がったところにあり、鶴ヶ城を遠望することができる。
    IMG_4164.jpg  IMG_4162.jpg  IMG_4166.jpg

 ただ一人飯沼貞吉少年が蘇生されたが、貞吉は生き残ってしまった自分を責め、会津の地から離れ二度と戻ることはなかったのであるが、白虎隊の自刃に至るまでの詳細を語ったことで、白虎隊の物語が世に知られることになったのである。
 成人した飯沼氏は逓信省の技師となり、我が国の通信事業の発展に大いに貢献したとも云われ、死後に、仲間たちと一緒のこの場所に弔われている。
         IMG_4170.jpg  IMG_4167.jpg

 隊士の墓所から城と反対側へと少し下がったところに、寺社が祀られている。
 先ずは通称「さざえ堂」の重要文化財「円通三匝堂(えんつうさんそうどう)である。
 六角三層で、内部は螺旋状に一方通行で上下することができる構造である。
 また内部には西国三十三ヵ所観音菩薩を安置していたが、神仏分離で撤去されているとのことである。
 また、その対面には宇賀神堂が祀られている。
    IMG_4182.jpg  IMG_4179.jpg  IMG_4180.jpg

 さらに下には、厳島神社が鎮座する。
 そして天保年間に会津平野の灌漑用に猪苗代湖より通水した戸の口堰洞穴がある。
  白虎隊が鶴ヶ城の情勢を確認するため飯盛山に向かう際、この洞穴を潜ったとも云われている。
    IMG_4186.jpg  IMG_4183.jpg  IMG_4185.jpg

『会津若松Ⅰ・蚕養国神社』

IMG_4207.jpg

 福島県会津若松市の市街地に鎮座する式内社「蚕養国(こがいくに)神社」の大鳥居扁額である。
 蚕養国神社は、会津若松駅と白虎隊の自刃の地として知られる飯盛山麓とを東西に結ぶ直線道路「白虎通り」の駅寄りの南側にある。
    IMG_3949.jpg  IMG_4194.jpg  IMG_4192.jpg

 正面参道は南側からである。
 コスモスの咲く参道から、神橋を渡る。
    IMG_4200.jpg  IMG_4202.jpg  IMG_4204.jpg

 橋を渡ると大鳥居である。
 冒頭の扁額が掛かっている。
 その先は朱色の鳥居である。
         IMG_4206.jpg  IMG_4208.jpg

 鳥居の先の左手は社務所、右手に神楽殿、そして平安中期に植えられた樹齢1000年以上の峰張桜がある。
 品種はエドヒガンである。
         IMG_4209.jpg  IMG_4211.jpg

 そして正面には一対の狛犬、そして神紋が付けられた提灯が下がっている。
 紋は徳川葵ならぬ会津葵である。
 初代藩主保科正之公から神紋とすることを許されたと云われているもので、フタバアオイを図案化したものである。
    IMG_4220.jpg  IMG_4219.jpg  IMG_4216.jpg

 そして、拝殿本殿である。
    IMG_4218.jpg  IMG_4217.jpg  IMG_4223.jpg
 本殿の祭神は、保食大神 (うけもちのおおかみ)、稚産霊大神 (わくむすびのおおかみ)、天照大御神である。

 この蚕養国神社は平安初期嵯峨天皇の時代の創建と云われている。
 会津で養蚕をと、先進地域から技術者が派遣されたと云われ、興隆を願い神社が創建されたと云われる。
 そしてこの名の神社は、全国にも無いとされている。

 その後、保科正之公の崇敬を受け社殿が造営されたが、火災により焼失、現在の社殿は江戸時代で、藩主松平容敬公の保科公の社殿を写した再建と云われている。
 社殿は手前の拝殿から神撰所など一列に並んでいる。
               IMG_4221.jpg

 神社には裏参道もあるので、そこから退出する。
 この辺りの住所表示は蚕養町(こがいまち)とのことであった。
         IMG_4196.jpg  IMG_4224.jpg

『大阪市・大塩の乱 槐跡』

2205j槐


 大阪市の北部を東西に通る国道一号線は愛称「曽根崎通」と云うが、その沿線の桜の通り抜けで知られる造幣局の前に「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」と云う石柱が建っている。
 云わずと知れた、大塩平八郎が江戸末期に起こした大塩の乱の跡地である。
         P1070524.jpg  造幣局

 石柱の所は正確に云うと、造幣局西側の官舎である。
 その塀に、造幣局が設けた説明板が掲げられている。
地図

setumei.jpg
 
 槐跡の石柱の前の官舎の敷地の中に、与力で陽明学者の大塩平八郎の居宅と数十人の塾生が居た私塾「洗心洞」の跡がある。
 そしてその裏手に、移築修築された中嶋家の与力宅がある。
    官舎  DSC_0012.jpg  与力宅

 大塩の乱は、江戸時代の末期、世の中が飢饉になったにも関わらず、幕府や大坂奉行所、そして米を買い占める豪商たちの市民を顧みない専横と不正を、陽明学の師であり良識派の平八郎から見れば怒り心頭であったろうが、先ずは私財を擲って人々を救おうとした。

 しかしそれには限界があった。
 それに対し、平八郎のその振る舞いを人気取り、そして犯罪として既定する幕府や奉行所に対して、堪忍袋の緒が切れたのが、大塩の乱であった。

 賛同する人達は、塾生と市民を合わせて約300人、現在は滝川小学校となっている川崎東照宮の境内を決起場所としていたが、事前に発覚したので、洗心洞付近からの進攻となった。
    DSC_0002.jpg  DSC_0005.jpg  DSC_0008.jpg

 大塩隊の大砲の第一発目が当たったのは、樹齢200年の槐(えんじゅ)の大木、2つに割れたと云われ、その記念碑が冒頭の石柱である。

 そして、大塩たちは大川を渡り、豪商達の町家を襲い、蓄えられていた金銀を奪って、市民に分け与えたと云われる。
 しかし兵火は付き物である。
 大坂の5分1の地域は「大塩焼け」と云われる火災となったと云われる。

 そうこうしているうちに、大坂城から地鎮圧軍約2000が出動した。
 淡路町辺りで戦闘となったが、プロの多勢に素人の無勢、戦いは決起から半日で終結したと云われる。

 討ち取られた大塩隊であるが、平八郎と養子の格之助は大坂の街に身を隠した。
 約40日間逃げまわったが、靭油掛町付近の町家に隠れていたところを通報され、そして囲まれたため火薬を使って自害したと云われている。
 その場所に、石碑が建てられている。
         P1070529.jpg  P1070528.jpg
 
 平八郎、格之助の墓は大塩家の菩提寺である天満の成正寺(じょうしょうじ)に設けられるのが普通であるが、罪人としての扱いであるため、江戸時代はご法度で、明治になってから墓が建てられたとのことである。
         P1070497.jpg  P1070494.jpg
 同時にその隣に一段と大きい、乱の殉職者の碑も建てられている。
                 P1070495.jpg

 尚、この大塩の乱が、後の明治維新の導火線になったと云う説もある。

『西宮市・西宮神社』

P1040275.jpg

 兵庫県西宮市の通称「えべっさん」で知られる「西宮神社」の東面する鳥居である。
 鳥居の向こうは表大門、毎年10日戎の日に福男を目指す人達のスタートラインでもある。

P1040283.jpg
 
 重要文化財の東大門、通称「赤門」から入ったランナー達は、参道を西進し、南からの参道の交差点(天秤カーブと呼ばれる)で右折、「福男道」と云われる石畳の道を拝本殿に向けて走る。
    P1040277.jpg  P1040278.jpg  P1040284.jpg

 参道の左手には祈祷殿、右手の祓所の前で今度は左折、拝殿へと向かう。
         P1040287.jpg  P1040286.jpg
 左折を終えたところに大きな楠木がある。
 「審判の楠」と云う。

 これを過ぎると拝殿前で右折、「魔物の角」と呼ばれる。
 これを曲がると拝殿へと登る木製のスロープである。
 「えびす坂」と呼ばれるものであるが、常時は石段である。
 その両側には一対の狛犬が祀られているがランナーたちの目には入らない。
 そして順次拝殿へと到着するのである。
    P1040288.jpg  P1040294.jpg  P1040295.jpg

 拝殿の背後は本殿である。
 三連春日造で、元は江戸時代初期に将軍家綱の寄進より祀られたもので国宝であったが、太平洋戦争の空爆により焼失、銅板葺で再建されたものである。
 3つの本殿の第一本殿にはえびす大神、第二本殿には天照大御神 と大国主大神 、第三本殿には須佐之男大神が祀られている。  
    P1040290.jpg  P1040291.jpg  P1040296.jpg

 拝殿前には、神池があり「瑞寶橋」が架かっている。
 白鷹酒造の辰馬氏の寄進によるものであり、中島には宇賀魂神社、市杵島神社が祀られている。
               P1040289.jpg
 
 西宮神社には南門もある。
 南門を入ったところに「あらえびす」と云われる沖恵美酒神社、廣田神社の摂社である南宮神社が祀られている。
         P1040280.jpg  P1040282.jpg
 この西宮のえべっさんは、元々は、廣田神社の浜南宮の内に鎮座していたとの由緒歴史を語るものである。

 もう一つ、神社を取り巻く東側と南側の塀の主要部は大練塀と云われる重要文化財である。
 熱田神宮の信長塀、三十三間堂の太閤塀と共に、日本三大塀と呼ばれるものである。
         P1040272.jpg  P1040274.jpg

『洲本市・厳島神社』

P1060637.jpg

 兵庫県淡路島の洲本市本町の市街地に鎮座する、通称「淡路の弁天さん」の「厳島神社」の注連縄柱である。
 背後の山は洲本城が築かれていた三熊山で、この神社は山の北麓に位置する。

 正面には拝殿本殿が祀られていて、祭神は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」である。
    P1060625.jpg  P1060627.jpg  P1060630.jpg

 境内社として、出世稲荷社、荒神社、稲基神社が祀られている。
    P1060636.jpg  P1060640.jpg  P1060633.jpg
 稲基(いなもと)神社とは、淡路徳島藩の洲本城代家老「稲田氏」が守護神とした神社である。

 この稲田氏には庚牛事変といういわゆる稲田事件がある。
 明治維新後、徳島藩本藩の家臣は士族とされたが、徳島藩ではあるが、洲本の稲田氏の家臣は卒族とされた。
 その事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけたが、本藩家臣の逆襲に遭い、稲田家や家臣が襲われ、死者まで出した大事件である。
 顛末は複雑であるが、この事件は、淡路が兵庫県に編入された主要因と考えられている。

 そのほか境内には、芭蕉の句碑、稲田事件を小説の題材とした船山馨の小説「お登勢」の碑、更には洲本八狸の一匹で、戸締りの悪い家に鍵を掛けて回った「武左衛門」の像もある。
    P1060642.jpg  P1060635.jpg  P1060641.jpg
 句碑には、「雲折々人を休むる月見哉」 はせを とある。
 蕉門十哲の一人、服部嵐雪の生まれが淡路島であるとのことで、淡路島では江戸時代から俳句が盛んである。

『淡路市・石屋神社』

P1060718.jpg

 兵庫県の淡路島の北端付近の淡路市岩屋に鎮座する式内社「石屋(いわや)神社」の社頭である。
 鳥居と門守殿は国道28号線を介し、東の大阪湾に向いて建っている。
               P1060719.jpg

 この石屋神社は元々は三対山の山上にあり、神功皇后が三韓征伐の際、暴風雨に遭い難渋し、風待ちのため、この岩屋に着岸し、しました。石屋明神に参拝し、戦勝を祈願したと云う謂れがある。

 石段を2段階登ると玉垣の境内で、拝本殿が祀られている。
 その入り口に「石原プロモーション 渡哲也」と彫られた石灯籠がある。
 渡哲也氏は、この地の出身とのことである。
         P1060720.jpg  P1060723.jpg

 拝殿背後の本殿には、國常立尊、伊弉諾尊、伊弉冉尊が祀られている。
               P1060725.jpg

 また境内社として、八百萬神社、稲荷大明神が祀られている。
         P1060722.jpg  P1060724.jpg

 この神社の北、淡路島の北端の岩屋港には絵島がある。
 この島は、古事記に云われる国生み神話のひとつで、日本最初の国土である「 おのころ島」としての伝承地の一つである。
              P1060717.jpg

『大阪市・杭全神社』

DSC_0004.jpg

 大阪市平野区平野宮町に鎮座する「杭全(くまた)神社の参道入り口の石の鳥居である。
 JR関西本線平野駅から南下し、国道25号線を東へ進んだところにある。
         IMG_4290.jpg  IMG_4289.jpg

 また左手の神池の中島には宇賀神社、そして池の右手に天満宮が祀られている。
 更には満願寺という寺院もある。
    DSC_0009.jpg  DSC_0010.jpg  満願寺

 参道を更に進むと、社名柱と注連縄柱がある。
 この先、まだ参道が続く。
         IMG_4288.jpg  IMG_4287.jpg

 参道を進むと右手には2本の灯篭、そして平野環濠跡の碑がある。
 左手には大楠が祀られている。
    IMG_4286.jpg  IMG_4285.jpg  DSC_0015.jpg

 その先は大門、そして境内である。
         IMG_4283.jpg  IMG_4282.jpg

DSC_0007.jpg

 境内正面には一対の狛犬と拝殿が祀られている。
    IMG_4277.jpg  IMG_4276.jpg  IMG_4278.jpg

 境内右手には社務所の左奥に、日本で唯一の連歌所が残っている。
 この連歌所では現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。
               IMG_4279.jpg

 境内左側には、恵比須神社、田村社、十柱神社が祀られている。
    IMG_4280.jpg  IMG_4274.jpg  IMG_4265.jpg

 境内右側には鎮守社、そして神輿庫が祀られている。
         IMG_4272.jpg  IMG_4270.jpg

 拝殿の背後は本殿である。
 左から第一本殿から第三本殿で、それぞれ中門を介して3つの本殿が祀られている。
 尚、本殿は国の重要文化財に指定されている。
               IMG_4268.jpg

    IMG_4269.jpg  IMG_4273.jpg  IMG_4271.jpg
 祭神は、第一本殿が牛頭天王(素戔嗚尊)、第二本殿は熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)、第三本殿には熊野證誠権現(伊弉諾尊)が祀られている。

 本殿を見てみようと、横からと後ろからとチャレンジしたが、中々難しい。
         IMG_4263.jpg  IMG_4262.jpg

 尚、この杭全神社は9世紀に、征夷大将軍坂上田村麻呂の孫の坂上当道が、自らの荘園内に素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と云われている。

 本殿の左横に稲荷神社も祀られているのでお参りし、西門から退出したのであった。
         IMG_4267.jpg  IMG_4264.jpg

 神社の裏手は児童公園となっていて、道路を挟んでJRの線路がある。
 その公園の一角には、平野環濠の水路、また近くには帰郷の花が綺麗である。
    IMG_4260.jpg  IMG_4261.jpg  DSC_0042.jpg

『宮城県名取市・熊野神社』

IMG_3910.jpg

 宮城県名取市には、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して、平安時代末期に紀州熊野から熊野三山である本宮・新宮・那智の三社が勧請され、東北地方の熊野信仰の拠点となっていた。

 その信仰の中心、熊野神社へはJR南仙台駅からバスで向かう。
 熊野堂と云うバス停が最寄りである。
 バス停前には真言宗智山派の新宮寺がある。
    IMG_3860.jpg  IMG_3862.jpg  IMG_3866.jpg
 明治の神仏分離にて寺院として確立されたものと思われる。
 熊野神社の仏教色の文化財などは全てこの寺に収蔵されているとのことである。

 道路の対面に冒頭写真の熊野神社への入り口がある。
 参道を進むと社名標柱、鳥居、灯篭がある。
    IMG_3870.jpg  IMG_3871.jpg  IMG_3872.jpg

 境内へは神橋を渡るが、その手前の左手に文殊堂が祀られている。
 現在は新宮寺の所管で、神社境内からこの場所に移動させられたものであるとのことである。
 しかしながら鐘堂は神社の境内左隅にある。
         IMG_3874.jpg  IMG_3878.jpg

 境内正面は御手洗池を介して拝殿である。
 また、池の左手には、源頼朝の腰掛石が置かれている。
    IMG_3881.jpg  IMG_3896.jpg  IMG_3884.jpg

 また、池の中には熊野堂舞楽という舞楽が催される神楽殿、そして弁財天堂が祀られている。
 尚、舞楽の時には、水上に臨時舞台が設けられるとのことである。
         IMG_3897.jpg  IMG_3898.jpg

 拝殿の前には一対の狛犬、そして参集殿から長い渡り廊下が伸びている。
 渡り廊下の向こうに本殿の瑞垣が見えている。
    IMG_3888.jpg  IMG_3889.jpg  IMG_3893.jpg

 いよいよ本殿である。
 本殿は4棟が祀られている。
 左から、名取老女宮、本宮十二社権現社、新宮社証誠殿、那智飛龍権現社が祀られている。
         IMG_3899.jpg  IMG_3904.jpg
 これら本殿には、速玉男尊、伊弉冉尊、事解男尊、菊理媛神と名取老女が祀られている。

 熊野神社は、奥州藤原氏の崇敬を受け、熊野信仰の中心地となり、源頼朝軍との戦いの拠点ともなった。
 藤原氏滅亡後も、この名取熊野三社は信仰を集め、多くの宿坊を擁する一大聖地として隆盛を誇ったと云われる。
 
 伊達氏の時代においても、歴代の仙台藩藩主の寄進、奉納を受け伊達家と深い結びつきを持った。
 そして特に熊野新宮社が信仰の中心であったため、新宮社に本宮社と那智社が合祀され、新宮社は熊野神社と称するようになって現在に至っている。


『仙台市・中田神社』

IMG_3857.jpg

 宮城県仙台市太白区西中田に鎮座する「中田神社」の社頭入り口の鳥居扁額である。
 中田神社はJR東北本線「南仙台駅」の西、徒歩5分位のところに鎮座する。
 鳥居を潜ると、長い参道と境内が広がる。
    IMG_3828.jpg  IMG_3829.jpg  IMG_3854.jpg

 参道の先には大きな拝殿が見えていて、鳥居と瑞垣に囲まれている。
         IMG_3856.jpg  IMG_3846.jpg

 鳥居の手前には一対の狛犬が祀られている。
         IMG_3833.jpg  IMG_3834.jpg

 鳥居・参道の先は拝殿本殿である。
    IMG_3847.jpg  IMG_3848.jpg  IMG_3850.jpg

 本殿の主祭神は伊賀津智(いかづち)命である。
 平安時代末期、気候不順にして五穀が稔らず人々が困窮しているのを、時の陸奥守であった藤原秀衡が大い憂い、山城の国より賀茂大神(賀茂別雷命)の分霊を名取川の上流の清水峠に勧請し、雷神社と称して五穀豊穣を祈願したところ豊作が続いた。
 その後、豪雨にて社殿は名取川を流れ、柳生(やなぎう)の里に流れ着いたので、里人たちが産土神として祀ったのが始まりである。

 明治になって近隣の村との神社の統合が進み、この神社にも四ヶ村の神社が合祀された。
 その石柱が本殿の東側に祀られている。
         IMG_3841.jpg  IMG_3844.jpg
 また、この石の鳥居前には、古い狛犬も祀られている。
         IMG_3843.jpg  IMG_3842.jpg

 そして、その翌年、四ヶ村全ての利便性を考慮し、現在地に遷座され中田村神社と名付けられ、そして平成になって、中田神社と名付けられたという経緯を有する。

 また神社には裏参道もあり、鳥居が祀られている。
               IMG_3852.jpg

『福岡市・香椎宮』

P1050531.jpg
 福岡県福岡市の東部、東区香椎に鎮座する「香椎(かしい)宮」の社頭の一ノ鳥居である。

 参道を進むと左手に弁財天、更に進むと二ノ鳥居を潜る。
    P1050532.jpg  P1050533.jpg  P1050535.jpg

 P1050534.jpg

 そして石段上の楼門を潜ると境内である。
 境内正面には新古今和歌集に詠われた「綾杉」が佇んでいる。
 その奥には、境内社の稲荷神社、鶏石神社が祀られている。
    P1050537.jpg  P1050538.jpg  P1050543.jpg  

 綾杉の左手には、鷹の像、そして朱塗りの神門、回廊には奉献酒が祀られている。
    P1050544.jpg  P1050540.jpg  P1050542.jpg

 神門を潜ると拝殿、そして本殿である。
 本殿には現在、主祭神として仲哀天皇、神功皇后、そして配祀神として応神天皇、住吉三神が祀られている。
    P1050552.jpg  P1050551.jpg  P1050550.jpg

 香椎宮が神社となったのは明治以降である。
 それまでは仲哀天皇、神功皇后を祀る霊廟であった。
 従って式内社でもない。
 仲哀天皇が熊襲退治のためにこの地に滞在し、病没した後、神功皇后が廟を祀ったのがこの神社の前身である。

 その廟は古宮と云い、本殿右手の神門から向かったところに廟が祀られている。
    P1050547.jpg  P1050554.jpg  P1050555.jpg

 境内には、奏楽殿、境内社の巻尾神社が祀られている。
         P1050545.jpg  P1050553.jpg

 そして神社の前庭には時節柄、曼珠沙華が咲き始めている。
               P1050560.jpg

『北九州市・和布刈神社』

P1050499.jpg

 北九州市門司区に鎮座する「和布刈(めかり)神社」の社名標柱である。
 和布刈神社は九州の最北端にある。

 対岸は山口県下関市で、その間に関門海峡大橋が架かっていて、神社の一ノ鳥居とのコントラストが楽しめる。
         P1050495.jpg  P1050498.jpg

 境内に進むと2ノ鳥居、その先は拝殿、本殿である。
    P1050500.jpg  P1050503.jpg  P1050508.jpg

 この神社の創建は、神功皇后の三韓征伐の後で、祭神は比賣大神、日子穂々手見命、鵜葺不合命(うがやふきあえずのみこと)、豊玉日賣命、安曇磯良神の五柱の神で、古くは速戸社あるいは隼人社と呼ばれた。

 和布刈神社は大晦日に行われる和布刈神事で良く知られている。
 神職が松明・手桶・鎌を持って海に入り、ワカメを刈り取り、神前に供える行事である。
 松本清張氏の小説「時間の習俗」にも登場することで知られる。
         P1050501.jpg  P1050502.jpg

 境内には、細川忠興が寄進したと云う灯篭もある。
 また、対岸の山「火の山」や麓の源平合戦の終結地「壇ノ浦」も眺めることができる。
         P1050506.jpg  P1050496.jpg

 対岸下関へは歩行者用の海底トンネルが設けられている。
 「人道トンネル」と云う。
 真ん中あたりには県境の表示もあり、トンネルの終着のところのエレベーターを上がると、山口県である。
    P1050490.jpg  P1050493.jpg  P1050487.jpg

『門真市・堤根神社(ひえ島)』

IMG_4247.jpg

 大阪府門真(かどま)市ひえ島に鎮座する堤根(つつみね)神社の社頭の鳥居である。
 扁額、社名柱の拡大は下写真である。
         IMG_4248.jpg  IMG_4249.jpg

 堤根神社は、近くを流れる古川の堤防の鎮守として祀られたもので、祭神は天照皇大神、 素盞嗚神、大己貴神である。
 明治時代の神社合祀の影響を受け、近くの三島神社に合祀されたが、戦後元の神社に復帰したと云う謂れがある。
               IMG_4245.jpg

 鳥居を潜ると長い参道が続き、その先の玉垣の中に先ずは狛犬が祀られている。
    IMG_4250.jpg  IMG_4254.jpg  IMG_4255.jpg

 そして拝殿、本殿である。
         IMG_4252.jpg  IMG_4257.jpg

 境内には唯一、白竜大神が祀られている。
               IMG_4253.jpg

 尚、社頭の前の街道は「枝切街道」と云う。
 道標が建てられていて、右「さた」、左「とくあん」と読める。
               IMG_4259.jpg

『箕面市・為那都比古神社』

P1040127.jpg

 大阪府箕面市石丸に鎮座する式内社「為那都比古(いなつひこ)神社」の西参道の標柱である。
 
 石丸地区は阪急電鉄箕面線の終点「箕面駅」からバスで東方向に行ったところにある。
 神社最寄りのバス停からは、西参道の鳥居が直ぐである。
         P1040125.jpg  P1040126.jpg

 この神社の神域は南北に長く、一ノ鳥居は南端にある。
 鳥居を潜り参道を進むと石段がありその上は神門である。
         P1040143.jpg  P1040142.jpg

 神門を潜ると境内である。
 境内正面には拝殿、その奥に本殿が祀られている。
 更にその奥は長い社叢である。
    P1040141.jpg  P1040133.jpg  P1040138.jpg

 本殿には主祭神として、為那都比古大神、為那都比売大神が祀られている。
 神社の創建については不詳であるが、式内社であることから平安初期かそれ以前、奉斎者は物部氏あるいは秦氏の支族との説がある。
 また戦国時代には、一時的には祭神を牛頭天王とし、神社自体も「天王社」と称したと云われる。
 これは、織田信長の摂津国侵攻に対し、やむを得ず改名し、難を逃れたものであろう。

 本拝殿の右隣りには、菅原道真公の天満宮が祀られている。
    P1040130.jpg  P1040134.jpg  P1040136.jpg

 その他、境内には石盤の神社由緒書き、英霊奉安殿も祀られている。
    P1040128.jpg  P1040139.jpg  P1040140.jpg  

 尚、明治時代の近隣の神社の合祀により、天照皇大神、大山咋神、木花咲耶姫神、天児屋根命、火之迦具土神も祀られている。

『箕面市・阿比太神社』

P1040098.jpg

 大阪府箕面市の阪急電鉄牧落(まきおち)駅から西方向の桜ケ丘地域に鎮座する式内社「阿比太(あびた)神社」の拝所扁額である。
               P1040113.jpg

 阿比太神社には3本の参道がある。
 正面の半町参道、斜めの桜参道、横の新稲参道である。
    P1040097.jpg  P1040095.jpg  P1040108.jpg

 これら3本の参道は拝殿前で合流する。
         P1040102.jpg  P1040109.jpg

 拝殿、狛犬、本殿である。
    P1040101.jpg  P1040106.jpg  P1040105.jpg
 
 阿比太神社の創建は応神天皇3年と云われ、素盞嗚尊が祭神である。
 江戸時代には牛頭天王と呼ばれていたとのことで、かつての社殿の鎮座地は阪急箕面駅の北側であったと云われる。

 拝殿から「無事通り抜け参道」が境内社の大杉稲荷社との間を結んでいる。
 この稲荷社は京都伏見稲荷からの勧請したものである。
         P1040099.jpg  P1040104.jpg

 尚、神社の近隣には、女優・漫才師の「ミヤコ蝶々記念館」がある。
 自宅を開放する形の記念館であるが、訪問した時は休館であった。
               P1040093.jpg

『泉佐野市・蟻通神社』

IMG_3732.jpg

 大阪府泉佐野市のJR阪和線長滝駅の北西に鎮座する蟻通(ありとおし)神社の社頭の鳥居と社名標柱である。
               IMG_3690.jpg

 蟻通神社はかつて海側の熊野街道沿いに広大な社領を有していたが、第二次世界大戦中、陸軍飛行学校佐野分教場建設のため現在地に移転させられたものである。

 冒頭の鳥居は南参道と云う。
 灯篭が並ぶ参道を辿ると、一対の狛犬が祀られていて、その先は神門である。   
    IMG_3729.jpg  IMG_3720.jpg  IMG_3721.jpg
 
 神門を潜るとその先には注連縄柱、そして神楽殿がある。
         IMG_3719.jpg  IMG_3705.jpg

 神楽殿の向こうには、登録有形文化財の拝殿、そして本殿が祀られている。
         IMG_3718.jpg  IMG_3717.jpg
 本殿の祭神は大国主命である。

 境内には、幾つかの境内社が祀られている。
 奥から、知恵神社、愛宕神社、多賀神社である。
    IMG_3709.jpg  IMG_3710.jpg  IMG_3711.jpg

 更に、住吉神社、和泉五社、そして市杵嶋姫命神社である。
    IMG_3712.jpg  IMG_3713.jpg  IMG_3722.jpg

 もう一つ足神神社がある。
 仏足石も祀られている。
         IMG_3724.jpg  IMG_3726.jpg

 最後に一つ、蟻通神社には紀貫之の「冠の渕」というのがあり、境内に再現されている。
 紀貫之が和泉の国を旅する途中、蟻通神社の神域に騎馬のまま乗り込んで罰を受けたと云われる。
 馬が倒れたのを見て神の怒りを悟った貫之はとっさに次の歌を詠んだ。
    「かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしを おもふべしやは」
 無知ゆえに神の怒りを買ったことを謝罪を詠み、神は心を和らげて馬を復活させたと云われる。
         IMG_3739.jpg  IMG_3735.jpg

『阪南市・波太神社』

P1050218.jpg

 大阪府南部の阪南市石田に鎮座する式内社「波太(はた)神社」の社頭の社名標柱である。
 波太神社は古代、この地方の豪族鳥取氏が、祖神である角凝(つのこりの)命を、現在の鎮座地の東北方向の桑畑地区に祀ったのが創建とされ、桑畑の「畑」から「波太神社」と名付けられた云われている。

 神社へは、JR阪和線和泉鳥取駅が最寄りであるが、かなりの距離がある。
 尚、南海本線尾崎駅からはバス便があるので、これを利用する手もある。
         P1050216.jpg  P1050230.jpg

 参道を進むと鳥居があり、更に参道は続く。
 神社境内には、庁殿、能舞台がある。
    P1050219.jpg  P1050228.jpg  P1050229.jpg

その先は拝本殿である。
拝殿前の中央にある灯篭は、片桐且元寄進のものである。
そして拝本殿は二階建ての珍しいもので国の重要文化財に指定されている。
         P1050224.jpg  P1050227.jpg


 拝本殿は角凝命を主祭神とする波太宮と、その後に勧請した応神天皇を祭る八幡宮の二宮となっている。
 そして本殿の左には末社三神社本殿があり、神功皇后、武内宿彌、天湯河板挙命(あめのゆかわたなのみこと)が祀られている。

 また、摂社として、鳥取戎神社、鳥取神社、そして厳島神社が祀られている。
    P1050221.jpg  P1050222.jpg  P1050223.jpg

 尚この神社には織田信長の紀州雑賀攻めの際、本陣が置かれたと「信長公記」に書かれている。

『堺市・華表神社』

IMG_3226.jpg

 大阪府堺市北区宮本町に鎮座する「華表(かひょう)神社」の社頭の鳥居・社名柱である。
 鉄道駅の最寄りは大阪地下鉄の「北花田駅」である。
 駅から少し南下し、住宅街の中にこの神社は鎮座する。

 華表とは中国にて、宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱・標柱を表す言葉である。
 この神社の神名もそれに因んでいるとは思われるが、定かな由来は見当たらない。

 冒頭の鳥居に華表の扁額が、そしてその先の石の鳥居を潜り、神門を潜ると境内であり、その先には注連縄柱がある。
    IMG_3227.jpg  IMG_3228.jpg  IMG_3237.jpg

 その先の拝殿前には一対の狛犬が祀られている。
         IMG_3231.jpg  IMG_3232.jpg

 拝殿、本殿、そして拝殿の右には仏式建築のような参集殿がある。
    IMG_3236.jpg  IMG_3245.jpg  参集殿

 華表神社の創建は、神功皇后が三韓征伐から帰った時に、素戔嗚命を祀ったのが創建とされる。
 その後、平安時代になって宇賀之御魂命を、南北朝時代に京都の八幡神、即ち誉田別命(応神天皇)を祀ったとされ、現在の主祭神もこの3柱である。
 神宮寺も7坊あり栄えたが、織田信長により供料は没収されたと云われる。

 境内社として、廣田神社、太神社、玉屋神社が祀られている。
    IMG_3243.jpg  太神社  玉屋神社

 更には、天満宮も祀られている。
               天満宮

 社頭の鳥居の向かい側は、神社の松並木の参道となっている。
               IMG_3258.jpg

 参道の行きつく先には長尾街道と交差し、そこには愛染院と云う神社がある。 
 そして愛染院境内には、付近の人々にて架けられた石橋が置かれている。
         IMG_3259.jpg  IMG_3263.jpg

『堺市・金岡神社』

IMG_3593.jpg

 堺市北区金岡町に鎮座する「金岡神社」の社名標柱である。

 金岡神社は、平安時代初期の創建で、住吉三神、素戔嗚命、大山咋命に加えて、平安時代の初期の画家である巨勢(こせ)金岡を祀る神社である。
 奈良時代以前に造られた難波と飛鳥を結ぶ我が国最初の官道「竹ノ内街道」沿いに創建された神社である。
 下図の緑の道が竹ノ内街道である。
         IMG_3587.jpg  IMG_3607.jpg

 神社正面は西の方向を向いている。
 社頭には鳥居、そして狛犬が祀られている。
    IMG_3589.jpg  IMG_3590.jpg  IMG_3591.jpg

 鳥居を潜り正面には拝本殿が祀られている。
         IMG_3604.jpg  IMG_3597.jpg

 また境内社として稲荷神社、そして楠木白龍神社が祀られている。
    IMG_3595.jpg  IMG_3599.jpg  IMG_3600.jpg

『堺市・美多彌神社』

IMG_3615.jpg

 大阪府堺市南区鴨谷台に鎮座する式内社「美多彌(みたみ)神社」の社頭の一ノ鳥居である。
 美多彌神社は、石津川に合流する和田川左岸の小高い丘に鎮座し、古代、当地の氏族「民直(みたみのあたい)」が祖神である天児屋根命を祀ったのが創建とされている。
 その後、南北朝時代には楠木正成の守護神とされている。
 戦国時代、織田信長の雑賀攻めにより焼かれたが、当地の豪族で楠木一族の和田(にぎたorみきた)氏により再建されている。

 神社へは、泉北高速鉄道の光明池駅が最寄りである。
 ニュータウンの居住区を抜けると、和田川の谷に到着し、社頭となる。
    IMG_3650.jpg  IMG_3616.jpg  IMG_3617.jpg

 参道を進むと、2ノ鳥居、そして3ノ鳥居からは石段となる。
 鳥居の右手には、かつての社名柱も立てられている。
    IMG_3622.jpg  IMG_3626.jpg  IMG_3625.jpg

 また鳥居の左手には境内社の金刀比羅宮、そして一対の狛犬も祀られている。
    IMG_3623.jpg  IMG_3628.jpg  IMG_3627.jpg

 石段を登ると拝殿、そして本殿である。
 神紋は木瓜紋で、素戔嗚尊も本殿に合祀されている。
    IMG_3638.jpg  IMG_3634.jpg  木瓜紋

 神社の杜には、大阪府の天然記念物「シリブカガシ(尻深樫)」が生い茂っている。
               IMG_3631.jpg

 神社の隣には城山公園がある。
 和田氏の城があった可能性もあるとのことで訪れてみたが、面影はない。
 今後の調査に期待される。
    IMG_3652.jpg  IMG_3645.jpg  IMG_3646.jpg

 尚、この地は和田氏が支配したことから、かつては和田(みきた)庄と云われたが、明治の中頃に詠み通りの「美木多」が充てられている。

『堺市・鉢峯山法道寺』

IMG_3757.jpg

 大阪府堺市の古代からの歴史を支えた石津川遡行のミニ旅、最終点は上流の鉢ヶ峰である。
 この場所へもバス便があるので、「鉢ヶ峰(はちがみね)」バス停で下車、先ずは高野山真言宗の法道寺(ほうどうじ)へと向かう。
               IMG_3754.jpg

 正面の参道石段を登ると中門である。
 楼門形式の仁王門であり、左右に鎌倉時代作の金剛力士像が配されている。
    IMG_3801.jpg  IMG_3762.jpg  IMG_3761.jpg

 中門を潜ると境内である。
IMG_3810.jpg

 正面には本堂、右手には太子堂を構えている。
         IMG_3764.jpg  IMG_3772.jpg

 そして左手には、鎌倉後期の食堂(じきどう)、南北朝中期の多宝塔が建っている。
 これらはいずれも重要文化財に指定されている。
         IMG_3811.jpg  IMG_3768.jpg

 法道寺は奈良時代になる前の白鳳時代に、法道仙人が開いたとされ、本尊は薬師如来である。
 当初から長福寺と云う寺号で、沢山の寺坊があったと云われている。
 そして平安時代には空海や最澄、円仁らが参篭したと云われている。
 江戸時代の半ば、将軍吉宗の嫡男長福丸が次代の将軍となったため、寺号を法道寺と改めたものである。

 尚、鉢ヶ峯 の地名であるが、この法道仙人が大切にしていた鉢を、周辺の山に埋めたことに由来するとのことである。

 法道寺の道路を挟んで前に国神社がある。
 古代、鳳凰に姿を変えた天照大神が、この地に降臨したことから、社殿を築いたのが始まりとされる神社である。
 そして神鳳は、その後、石津川左岸の現在の大鳥大社へと遷座されたと云われている。
    IMG_3786.jpg  IMG_3787.jpg  IMG_3788.jpg
 
 もう一つ、鉢ヶ峯では山全体が霊園として活用されている。
 自然地形を壊すことなく、多くの墓地が作られているのは見事である。
    IMG_3815.jpg  IMG_3816.jpg  IMG_3793.jpg

『堺市・櫻井神社』

IMG_3482.jpg

 前回の多治速比売神社から石津川沿いを溯ること約2kmで、同じ右岸には式内社「櫻井神社」が鎮座する。
 住所地は堺市南区片蔵で、幸いにもバス便があり、片蔵での下車が最寄りである。
 バス停より数分歩くと神社の神門に到達する。
         IMG_3490.jpg  IMG_3441.jpg

 この神社には鳥居は無く、神門を潜ると境内である。
 正面の拝殿の手前には、一対の狛犬が祀られている。
    IMG_3443.jpg  IMG_3447.jpg  IMG_3450.jpg

 拝殿は割拝式で、二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょうかえるまた)という建築法である。
 鎌倉時代の建築で、国宝に指定されている。
    IMG_3472.jpg  IMG_3451.jpg  IMG_3454.jpg

 拝殿の中を潜ると、内拝殿そしてその向こうに本殿である。
 本殿瑞垣の中には、本殿の両側に、右「国神社」、左「山井神社」が祀られている。
    IMG_3466.jpg  IMG_3460.jpg  IMG_3458.jpg

 櫻井神社は古代、この地の豪族であった桜井朝臣の一族が、その祖先である武内宿禰命を奉斎したのが創建である。
 その後、武内宿禰に関係が深かった八幡神、即ち応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を合祀して、八幡神が現在の主祭神となっていて、通称、上神谷(にわだに)の八幡さんと呼ばれている。
 また、国神社には天照大神、山井神社には美豆波乃女命(みずはのひめのみこと)が祀られている。

 拝本殿の右には保食神を祀る稲荷神社、そしてその隣に上神谷戎社が祀られ、その手前に絵馬殿がある。
    IMG_3455.jpg  IMG_3456.jpg  IMG_3445.jpg

 更にその手前の神門に近いところに神輿庫がある。
 この中には、僧形八幡神功皇后が奉安されている神輿が格納されている。
    IMG_3479.jpg  IMG_3478.jpg  IMG_3476.jpg

 尚、かつての櫻井神社の社領はかなり広かったようであるが、現在は石津川に流れ込む妙見川を背後とする狭い社領となっている。
               IMG_3486.jpg

『堺市・多治速比売神社』

IMG_3396.jpg

 大阪府堺市の石津川右岸の南区宮山台2丁に鎮座する式内社「多治速比売(たじはやひめ)神社・荒山宮(こうぜんのみや)」の社名標柱である。
 前回の家原寺から約1里(4km)石津川を溯ったところである。
 この辺りからの堺市は、旧村と新興の居住ビル群がMIXした泉北ニュータウンとなる。

 神社へは、泉北高速鉄道の泉ヶ丘駅で下車してバスに乗り、宮山台2丁と云うところで下車すると、そこが神社への入り口となる。
    IMG_3440.jpg  IMG_3388.jpg  IMG_3389.jpg

 参道を辿ると、周辺は荒山公園である。梅の名所だそうである。
 そして神社の脇門に到着する。
         IMG_3436.jpg  IMG_3391.jpg

 脇門から入らずに正面の方に移動し、そちらから神社へ参拝することとする。
 正面の石段脇に水天宮が鎮座している。
 石段を登ると正面が鳥居であり、そのわきに冒頭の標柱がある。
    IMG_3434.jpg  IMG_3429.jpg  IMG_3395.jpg

 境内は広い。
 境内の案内図も立てられている。
               IMG_3393.jpg

IMG_3400.jpg

 左手には福石社が祀られている。
         IMG_3399.jpg  IMG_3427.jpg

 福石社の隣は脇門、その隣に稲荷社が祀られ、その近くに弁天社が祀られている。
         IMG_3401.jpg  IMG_3403.jpg

 さて、中央の参道である。
 拝本殿が正面に祀られているが、その手前には狛犬が祀られている。
         IMG_3410.jpg  IMG_3408.jpg

 正面の拝殿である。
 神紋は桜である。
         IMG_3417.jpg  IMG_3414.jpg

 拝殿正面には、素戔嗚尊、多治速比賈命、菅原道真命の扁額が掲げられている。
 これらの神々は主祭神である。
 尚、多治速比賈命とは、日本武尊の妃で、日本武尊とともに東征の途中に遠州灘にて嵐に遭い、身を海中に投げて、日本武尊を護った神とされている。
    IMG_3416.jpg  IMG_3413.jpg  IMG_3415.jpg

 その背後は本殿である。
 本殿は三間社入母屋造で国の重要文化財である。
               IMG_3405.jpg

 本殿の左に、三連社の白山社、熊野社、春日社が祀られている。
 また右手には、八幡社が祀られている。
 尚、本殿の周囲には他の社も祀られているが、良くは見えない。
         IMG_3404.jpg  IMG_3406.jpg

 神社の参拝者休憩室には、このような多治速比売の画像が掲げられている。
 また、荒山公園の神社の南側には大池もある。
         IMG_3419.jpg  IMG_3437.jpg

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR