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『紀州九度山真田庵跡』

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 天下分け目の関ヶ原の戦いの時、信州の真田氏は二股を掛けた。
 親昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に、長男信幸は東軍へと付いた。
 ご存じのように東軍が勝利し、信幸はそれまでの所領を引き続き与えられた。
 そして上田藩を立藩し、真田氏としては目的を達成した。

 一方敗れた昌幸・信繁の方はと云うと紀州高野山へ蟄居を申し付けられ、高野山の麓九度山の地に真田庵を構え住むことになった。
 高野山への蟄居なのになぜ九度山にという疑問が残るが、それは高野山は寒くて耐えられなかったからとか、妻を連れていたため女人禁制の高野山に入れなかったとかの説がある。

 昌幸はこの蟄居中に亡くなった。
 信繁の方は大坂の陣を迎えた豊臣軍に乞われ、子幸昌を連れて大坂城に入城したのであった。
 しかし信繁らの奮闘も虚しく、豊臣方は敗れ、信繁は討ち取られ、豊臣家も滅亡したのであった。

 その後、江戸時代中期に大安上人が真田庵の跡地に一堂を建立し、後に現在の形の善名称院(ぜんみょうしょういん)となったのである。
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 真田庵は白い塀と2つの寺門、そして長屋門に囲まれている。
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 寺門には六文銭の旗印が彫刻されている。
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 境内には幾つかの堂宇がある。
 真田三代を祀る真田地主大権現、そして昌幸の墓もある。
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 更に境内には信繁が真田庵に落ちた雷を井戸に封じ込め、里の人たちを救ったと云う伝説がある雷封じの井もある。
 また境内から一歩外へ出ると隣には幸村庵という信州そば処もある。
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『紀伊国・太田城』

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 JR和歌山駅の東5~6分のところの住宅街の中に太田城跡がある。
 太田城は250m四方の堀に囲まれた環濠の城であった。
 しかし紀州に侵攻した羽柴秀吉軍にて、根来寺、雑賀荘とともに滅ぼされた。

 秀吉軍が築いた堤防の中に紀ノ川の水を引きこんだ水攻めが行われ、城方は万策尽き、太田左近以下主だったものが自害させられ開城された。
 この水攻めは清水宗治の備中高松城、映画のぼうの城で知られる忍城の水攻めとともに日本三大水攻めと呼ばれる。

 城跡碑は浄土宗来迎寺の境内にある。
 この場所に本丸があったと云われている。
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 城跡から西方向、海に近いところに和歌山城跡がある。
 再建された天守に登って、和歌山平野を眺めてみた。
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 先ずは東方向、眼下向こうは太田城のあったところである。
 その奥の山の麓には根来寺がある。
 中の写真は北西方向である。紀ノ川の河口が見える。
 右は南西方向、右奥が雑賀荘のあたりである。
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『紀伊国・和歌山城』

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 和歌山市の中心部、虎伏山を主郭とする紀伊和歌山城の再建天守である。
 
 和歌山には室町時代の終盤頃に築城された太田城があったが、豊臣秀吉の何万という大軍に水攻めで滅ぼされた。
 その後の秀吉の時代に太田城からずっと西の現在の地に、和泉・紀伊を治める豊臣秀長の城として、藤堂高虎を奉行にして築城されたものである。

 関ヶ原の戦いの後、桑山一晴が入城、その後浅野幸長が紀州藩主となり入城した。
 その後、浅野氏は広島藩に加増転封となったため、最終的には徳川家康の十男である頼宣が入城し、御三家の一として明治まで続いた。
 その時の紀州藩の石高は55万5千石である。南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立した。

 明治には廃城になり、大部分の建物は取り壊わされた。
 残されていた天守も太平洋戦争の空襲で破壊され、昭和の時代に再建されたものである。
 城跡は住宅地のほか、公共の建造物や公園などに利用されている。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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