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『滋賀県守山市・馬路石邊神社』

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 滋賀県守山市吉身に鎮座する式内社「馬路石邊神社(うまじいそべじんじゃ)」の参道口の社名標柱である。

 鎮座場所は、JR東海道本線守山駅の北方、1km強の所である。
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 鳥居を潜り、住宅街を進むと神社の社域に到達する。
 檜皮葺きと思われる神門を潜ると境内である。
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 正面には舞台様の拝殿、そしてその先は唐様の中門である。
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 その両脇に一対の狛犬が祀られている。
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 中門・瑞垣の中には覆屋に囲まれている本殿が祀られている。
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 祭神は、 建速須佐之男命と大己貴命である。

 この神社は白鳳時代に創祀されたとされる。
 以来、馬道郷を拠点とする豪族であった石辺君氏が氏神として奉斎した神社である。

 そして戦国時代にはこの地を治めた六角氏の崇敬を受けたが、織田信長が侵入した元亀・天正の争乱により社殿等を失った。
 その後、江戸末期に再建され、現在の社殿はその時のものである。

 神社の右手に境内社群が祀られている。
 先ずは興福稲荷神社、そして5社である。
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 5社は左から、山王神社。八幡神社、事代主神社、住吉神社、神明神社である。

 また、その南側に、愛宕大神が2社祀られている。
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『滋賀県野洲市・兵主神社』

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 滋賀県野洲市五条に鎮座する式内社・名神大社の「兵主(ひょうず)大社」の社頭である。

 野洲市内での位置は、市内の北方向にあり、1.5km程度北へ行けば琵琶湖岸と云うところである。

 鳥居を潜ると県指定の有形文化財の楼門である。
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 楼門を潜って進むと、正面は拝殿翼楼である。
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 その瑞垣の中に本殿、そしてその右横に境内社の両大神宮が祀られている。
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 本殿の主祭神は、「八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)」で、相殿に「手名椎神」、「足名椎神」を配祀している。

 本殿横には名勝である平安時代後期の作庭と云われる庭園があり、園内築山に小さな社も祀られている。
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 境内社として他に、乙殿神社、そして旧護摩堂などが祀られている。
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『滋賀県栗東市・高野神社』

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 滋賀県栗東市高野に鎮座する「高野神社」の社頭の標柱である。

 高野神社は近江国栗太郡八座の一の式内社である。
 天智天皇の御代より、高野造なる人物がこの地一帯を開墾開発し高野郷と名付け、更に飛鳥時代の和銅年間(708~714)に我が国で最初の流通鋳造貨幣「和銅開珎(かいちん)」の鋳師高野宿禰道経一族が住み、その祖先を祀ったのがこの神社の創建と云われている。

 神社の社頭は南面している。
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 参道を進むと四脚門の神門へと到達する。
 この四脚門は、室町時代に京都御所から拝領移築したものと云われている。
 神門の手前には一対の狛犬が祀られている。
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 神門を潜ると正面は舞台状の拝殿である。
 拝殿の先は中門と瑞垣に囲まれた本殿エリアである。 
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 先ずは本殿である。
 本殿の祭神は、大名草彦命(おおなぐさひこのみこと)で開拓・農耕の神とされている。
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 本殿に並んで境内社が祀られている。
 左側に八重釜神社、右側に敏鎌神社と大神宮である。
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 その他境内の左手に森勝稲荷神社、右手に祖霊社が祀られている。
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 神社神域の周囲は公園である。
 高野公園と云う結構広さを感じる公園である。
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『滋賀県甲賀市・水口神社』

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 滋賀県甲賀市水口町宮の前に鎮座する式内社「水口神社」の社頭の標柱である。

 水口神社は、近江鉄道の水口城南駅の東南約200mの所にある。
 駅から水路沿いに歩くと、神社の裏辺りに花水木の花が盛りである。
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 また、神社の南西方向には、一年と少しの前に竣工された新しい甲賀市役所、甲賀警察署、滋賀県合同庁舎などが並ぶ官庁街となっている。
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 更に、駅の約100mの北には、徳川家光が築城した水口城跡がある。
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 さて、水口神社である。
 社頭は南向きである。
 この神社にも石造りの下馬橋が備えられている。
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 そして鳥居を潜ると舞殿である。
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 舞殿の先には神門があり、拝殿・本殿へと繋がっている。
 また拝殿の両脇には、一対の狛犬が祀られている。
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 本殿である。
 本殿の主祭神は「大水口宿禰命(おおみなくちのすくねのみこと)」で、相殿に「大己貴命」「素盞嗚尊」「稲田姫命「」が祀られている。
 大水口宿禰命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住されたと思われる土地開拓の祖神との説明がなされている。
 また、本殿の左側には境内社の玉津米神社、右手には武雄神社が祀られている。
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 他に境内社として、社殿の右手に、日枝神社、水口恵比須神社、社殿の右手に稲荷神社も祀られている。
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『滋賀県甲賀市・矢川神社』

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 滋賀県甲賀市甲南町森尻に鎮座する式内社「矢川神社」の社号柱である。

 神社はJR草津線の甲賀駅の北西方向で約1kmの所にある。
 甲賀駅は現在は仮駅舎で、あと一ヶ月もすれば建築中の新駅に生まれ変わる予定とのことである。
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 駅から15分強の歩きで、神社の社頭に達する。
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 鳥居の横には「勝手大明神元境内趾」の標柱が建っている。
 そして長い参道が北へと続く。
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 境内入り口には、石造りの太鼓橋(下馬橋)があり、茅葺の楼門が構えている。
 この楼門は室町時代の寄進によるものとされている。
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 楼門の先は舞台様の拝殿、そしてその先には一対の狛犬と本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)、 矢川枝姫命(やがわえひめのみこと)である。

 この神社の創建は、天平年間で聖武天皇の紫香楽宮造営の時と伝えられている。
 そして江戸時代には、水口藩の崇敬社であったとされている。

 神社に纏わる一揆騒動がある。
 江戸時代末期の天保13年の秋、幕府の検地に反対して神社の社頭に決起した天保一揆(甲賀騒動)を後世に伝えるために、そのメモリアルパークが神社入り口の直ぐの西、杣川の東詰めに設けられている。
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『滋賀県甲賀市・川田神社』

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 滋賀県甲賀市水口町北内貴に鎮座する式内社で並名神大社の川田神社の社頭の社号柱である。

 神社は、滋賀県内を走るJR琵琶湖線の草津駅を起点とする草津線の貴生川駅が最寄りである。
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 貴生川駅で下車し、県道を北方向へ辿ると、野洲川に出る手前に神社が北西向きに鎮座している。
 正面の一ノ鳥居を潜ると、右手に稲荷神社が祀られている。
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 更に参道を進むと二ノ鳥居、石段を上がると境内へと達する。
 また鳥居を潜った正面には神像を中心に杜が形成されている。
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 社殿は右手にある。
 先ずは舞台風の拝殿である。
 そして、拝所、本殿であり、参道からUターンする方向にある。
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 本殿の祭神は、天湯川桁命 天川田奈命で、配祀は天児屋根命、大己貴命である。
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 また拝の両脇には、一対の狛犬が祀られている。
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 この神社は、社伝によると、垂仁天皇の時代に創建されたと云われる。
 倭姫命が天照大神を奉じて、甲可の日雲宮に止まった時、甲可山直郷に景勝の地があり、鎮座せんと欲するとの神託があり、人を遣わして川田山に祀らせたのが起源であり、川田二所明神と号したと云われる。

 本殿の両脇には境内社が祀られている。
 左手には五社神社と天照皇大神、右手には天満宮である。
 また本殿の左手前には、神井戸が祀られている。
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 時節柄、神社境内には八重桜や紅葉、そして近所の花畑にはイチハツの花が綺麗である。
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『奈良市・ナラノヤエザクラ』

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 奈良県庁前の「八重櫻古蹟」と彫られた石碑である。
 石碑の横には若いナラノヤエザクラと説明の石板が設けられている。
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 県庁は、近鉄奈良線の終点奈良駅から東へ進み奈良公園に入ったところにある。
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 県庁の東側、国道369号線を挟んだ緑地の中に「ナラノヤエザクラ」を見ることができる。
 ナラノヤエザクラとは奈良で咲いている八重桜を指すのではなく、ソメイヨシノなどと同じサクラ属の品種名で。オクヤマザクラが重弁化したものとされている。
 そして、奈良時代に聖武天皇が三笠山の奥で八重桜を見つけ、宮中に持ち込んだのがその名の起こりとされている。

 伊勢大輔の詠んだ和歌、
     「いにしへの  奈良の都の 八重桜   けふ九重に  匂ひぬるかな」
 で、良く知られている。

 さて、ナラノヤエザクラである。
 開花が始まったばかりである。
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 次に北へと向かい、東大寺転害門から境内に入る。
 小学校の前のナラノヤエザクラも咲き始めである。
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 東側の正倉院の向こうの山手に「知足院」という塔頭がある。
 大正年間に東大の三好先生が発見し、天然記念物として「知足院ナラノヤエザクラ」と指定されたが、その後倒壊、現在は再生中とのことである。
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 大仏殿の西横へ進む。
 広い場所に、枝垂桜が満開である。
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 更に西方向に戒壇堂という塔頭がある。
 前の庭園にも、ナラノヤエザクラの開花が始まっている。
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 東大寺を離れ、もう少し東へ行く。
 春日野フォーラムがあり、建物の裏手の提案にもナラノヤエザクラが咲き始めである。
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 最後に奈良駅に戻る方向で、興福寺の境内である。
 ナラノヤエザクラはあるが、まだ花を付ける前であった。
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                    〔2019.4.21〕

『奈良県川西町・島の山古墳』

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 奈良県磯城郡川西町唐院にある前方後円墳「島の山古墳」を探索した。
 島の山古墳は馬見古墳群北群を構成する古墳の一つで、築造は4世紀末から5世紀初頭と云われている。

 古墳の場所は、近鉄橿原線の結崎駅の西方、約2kmで、川西町の町役場前を過ぎ、糸井神社前を通過し、寺川を渡り、唐院集落内の街道に沿ったところにあり、街道から前方部が覗いているのが見える。
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 島の山古墳の西側(左側)の周堤入り口には鳥居がある。
 鳥居を潜ると、墳丘の全景、そして前方部の周濠が望める。
 前方部の周濠には墳丘への渡り土手が設けられている。
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 島の山古墳の周濠は全周健全である。
 そして、周堤は前方部を除き道路になっていて、古墳の眺めを損なわないのが特徴である。
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 古墳の墳丘長は200mで、全国順位では36位の大きさである。

 周濠の西側には先ほどの鳥居の神社「比売久波(ひめくわ)神社」が祀られている。
 また、墳丘の中間あたりには造り出しがある。
 そして後円部付近から眺めた西側の周濠である。
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 次は後円部である。
 後円部の正面には、墳丘に渡るための土橋があったようであり、その名残が見られる。
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 続いて東側の周濠である。
 東側の中央辺りにも造り出しがあるとの様子である。
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 最後に東側から、前方部の周濠を確認して、一周は終了である。
 写真から、周濠沿いの民家は、周濠の中に張り出している様子が見える。
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 尚、途中の説明看板に古墳の航空写真が掲載されていた。
 ご参考に添付させていただくこととする。
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『奈良県河合町・大塚山古墳』

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 奈良県北葛城郡河合町川合にある馬見古墳群の北部にある大塚山古墳群の中で最大の大塚山古墳である。

 最寄りはJR王寺駅に隣接した新王寺駅から近鉄田原本線に乗り、その先の池部駅である。
 池部駅には隣接して河合町役場があり、駅の北、1kmぐらいの所に古墳はある。
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 古墳は前方後円墳で、前方部を南に向けている。
 先ずは南から見た墳丘の全景と左右から見た前方部と周濠である。
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 この古墳の周濠は全周に渡ってあり、現在は農地として活用されている。

 次に西側側面の周濠を南北それぞれから眺めたものである。
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 北側の後円部である。
 下の中央の写真は、少し離れて後円部全体を眺めたものである。
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 東側側面を北からと南から眺めたものである。
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 尚、東側側面には墳丘へと渡る渡り土手が設けられている。
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 前方部へ戻り、前方部全体を眺めてみる。
 また古墳の東側へと離れ、全体を眺めたものである。
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 大塚山古墳は5世紀後半の築造で、墳丘長は215mとされ、大きさの全国順位は27位である。

 
  中良塚古墳

 大塚山古墳の県道を挟んで西側に中良塚古墳がある。
 北向きの前方後円墳で、墳丘長は88mである。
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 後円部、前方部、そして前方から見た墳丘全体である。
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 そして西側には周濠跡が残っているが、東側は住宅が建てられ、周濠跡は見られない。      
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『神戸市・湊川神社』

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 神戸市中央区多聞通に鎮座する湊川神社の社頭の標柱である。

 湊川神社は、JR神戸駅の直ぐ西に見える神社で、南北朝の雄である楠木正成を祀る神社である。
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 この神社の社地は、関東の雄の足利高氏が一旦九州まで落ち延びた後、態勢を立て直し、この神戸湊川の地に上陸して、楠木正成との戦いに勝利した所である。
 神社の境内には、楠木正成の殉節地、即ち湊川の戦で自刃した戦没地が祀られている。
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 また、この楠木正成の後醍醐天皇への忠誠を称えた水戸藩水戸黄門(下部写真の右端)が墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」を建立し、現在は神社神門の直ぐの右手に祀られている。
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 神社へは正面の神門を潜る。
 そして鳥居を潜ると拝殿に達する。
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 拝殿前の左右にはには一対の狛犬が配されている。
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 その先、拝殿の背後は本殿である。
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 本殿には、主祭神の楠木正成の他、配祀神として子の楠木正行(まさつら)、弟の楠木正季(まさすえ)が祀られている。
 加えて正成の妻の滋子を祀る摂社甘南備神社も本殿に合祀されている。

 境内には、境内社も祀られている。
 先ずは、本殿の右手に道真公を祀る菊水天満神社 、そして正面参道の右手に楠本稲荷神社が祀られている。
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 神社には東門があり、それを退出すると左手には、レトロとモダンが融合した神戸地方裁判所がある。
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『奈良県橿原市・五条野城跡』

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 奈良県橿原市五条野町の「五条野城跡」がある丘陵である。

 場所は近鉄吉野線の岡寺駅の東300mの所で、周辺は住宅街である。
 この丘陵は現在は八咫烏大明神の境内となっている。
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                       (地図の上方向が南方向である)

 巨大古墳の丸山古墳の前を進むと、神社の鳥居に達し、奥へと神社が鎮座している。
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 神社の拝本殿は丘陵の頂点にあり、この場所が城郭の本郭であったとされている。

 神社の入り口から東側にかけて土塁や堀跡が見られる。
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 本殿の奥には副郭があったと思われるような削平地がある。
 また西側には、平坦地を伴った2段の土塁が見られる。
 この場所にも、副郭があったものと思われる。
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 尚、五条野城は、国民五条野氏の居城であったとされている。

『奈良県橿原市・丸山古墳』

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 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町にまたがる前方後円墳の丸山古墳である。
 場所は近鉄吉野線の岡寺駅の北東方向、2~300mの所である。
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 駅から住宅街の中を歩くと、先ずは墳丘後円部の頂点に辿り着く。
 墳丘の途中までは登ることができるが、その上の林の中は「畝傍陵墓参考地」として宮内庁の管理区域となっている。
 その被葬候補者は、天武天皇、持統天皇、その他にも欽明天皇や蘇我稲目などである。
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 古墳の説明板から航空写真、地形図を引用する。
 東側の周濠は明確だが、西側は道路や住宅地となっている。
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 古墳周囲を反時計回りに回って眺めてみる。
 先ずは後円部東側である。
 東側には周濠や周堤の跡がそのままの状態で残っている。
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 そして前方部の終端に至る。
 北方向に畝傍山が見える。
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 前方部には、それを横切る道路が付けられている。
 また道路から前方部の上部に登る道があり、途中に真言宗天上院がある。
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 前方部上部からの眺めである。
 後円部の眺め、そして西方遠くに葛城山・金剛山である。
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 墳丘の西側へ降りる。
 墳丘の傍は道路である。
 また周濠の跡も残っている。
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 この辺りからも墳丘に登れるので、もう一度後円部を眺めて、古墳探訪は終了とした。
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 この丸山古墳は6世紀後半の築造で、墳丘長は318mの大きさで、全国6位、奈良県内では最大の古墳である。

『京都府南部・桃と枝垂桜』

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 染井吉野や大島桜はピークを過ぎたが、桃園では桃の花、公園では枝垂桜が目を楽しませてくれる。

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 蕾の枝もありである。
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 枝垂桜、満開である。
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 そして名残を惜しむ大島桜である。
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                       〔2019年4月13日〕

『奈良県御所市・宮山古墳』

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 奈良県御所市室にある「宮山古墳」の説明看板である。
 「室宮山古墳」あるいは「室大墓」と云われる。
 5世紀初頭の築造の前方後円墳で、墳丘長は238m、大きさの全国順位では第18位である。

 古墳へは近鉄御所線の終点御所駅からバス便で南へと向かい、宮戸橋バス停が最寄りである。
                       (右下図の右手が北方向)
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 国道309号線の交差点からは西に金剛山・葛城山が良く見える。
 この交差点を東へと進むと古墳(古墳の右が前方部、西方向に向いている)が見えて来る。
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 東へ進むと後円部であるが、後円部と国道を挟んで北側に倍塚(ばいちょう)と云われているネコ塚古墳がある。
 また後円部の北側には溜池があり、桜も見ごろである。
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 そして後円部である。
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 後円部の頂点には応神天皇を祀る八幡神社が鎮座している。
 この神社から宮山古墳と名付けられてたと云われている。
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 また、この辺り一帯にはかつて孝安天皇の皇居「秋津島宮(あきつしまのみや)」があったとされ、八幡神社境内には「室秋津島宮阯」碑が建てられている。
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 神社の境内奥から後円部に登ることができる。
 頂上には墳丘があり、石積みの内部が覗いている。
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 次に古墳の南側の先ずは後円部、そして墳丘全体(右手が後円部)である。
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 古墳の南側に桜池公園があり、名の通り、今は桜が時期を迎えている。
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 最後に前方部である。
 前方部は民家などが建っているため、詳細は分からない。
 遠くから眺めて古墳探訪を終了した。
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 尚、この宮山古墳の被葬者であるが、武内宿禰(たけうちのすくね)の墓に比定する説が知られていたが、近年では葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)に比定する説が有力視されている。

『大阪府岬町・淡輪ニサンザイ古墳』

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 南海本線淡輪(たんのわ)駅の南に隣接する「淡輪ニサンザイ古墳を探訪した。

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 この古墳は先の「西陵古墳」の東にあり墳丘長は現存173mで、少し小さな前方後円墳であるが、宮内庁により「宇度墓」として垂仁天皇皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の墓に治定されていて、整備も綺麗になされている。

 前方部は西向きで、冒頭の案内板が建てられ拝所も設けられている。
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 拝所から時計回りに回って見る。
 先ずは前方部横から見た古墳の全景と前方部の周濠である。
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  引き続き、北側側面の周濠と、前方部・後円部の接合部に設けられた造り出しである。
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 そして後円部である。
 後円部には渡土堤も見られる。
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 続いて南側側面である。
 南側にも造り出しが見られる。
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 更に前方部の南端にも渡土堤が見られる。
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 尚この古墳は、5世紀の中・後期の築造とされ、大型古墳の最後と云われている。


『大阪府岬町・西陵古墳』

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 大阪府泉南郡岬町にある「西陵古墳」である。
 墳丘長は200mで、泉南では最大、全国では33位の大きさである。

 場所は、大阪難波から和歌山市へ向かう南海本線の淡輪(たんのわ)駅とみさき公園駅の中間あたりである。
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 みさき公園駅で下車し、国道を大阪方面へ向かい、しばらく歩くと古墳が見えて来る。
 最初に見えるのは後円部である。
 後円部を頼りに、古墳に近づいて行くと、南側の周濠の外堤に到着する。
 墳丘の後円部・前方部の接合点には造り出しも見られる。
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 周濠を見返しながら、前方部へと進む。
 前方部の周濠が見えて来る。
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 そして左側、右側に分けて撮影した前方部である。
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 前方部左には墳丘に出入りできる土橋が架かっている。
 この土橋を渡ると、墳丘内部に入ることができるが、今回はパスである。
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 北川の周濠に沿って進む。
 後円部まで来たところで、古墳を離れ、全体を眺めて、探索は終了である。
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 西陵古墳は、5世紀後半に天皇の命により新羅へ行き病没した「紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)」の墓ではないかとの説もある。

『大阪府岸和田市・摩湯山古墳』

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 大阪府岸和田市摩湯町にある国の史跡「摩湯山古墳」である

 場所はJR阪和線久米田駅の東方向で、駅前から和泉中央行きのバスに乗り「摩湯」での下車が最寄りで、バス停の目の前が目的の古墳である。
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 この古墳は4世紀後半の古墳時代前期後半の造営とされる。
 前方部が細い柄鏡式の前方後円墳で、前方部を北西部に向けている。
 また、前方部後円部のつなぎ目には渡土橋が設けられている。
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 丘陵部を削り造営されたためか、周濠は前方部を囲むように配置されている。
 
 先ずは後円部である。
 住宅街の中の道路を進むと、少しは望むことができる。
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 元に戻り、墳丘の北側面を眺める。
 周濠奥の終端部は渡土橋である。
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 次は前方部の周濠を両側からそれぞれ眺めたものである。
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 そして前方部正面である。
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 最後に、墳丘の南面を眺めたものである。
 造り出しも設けられているようである。
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 古墳の墳丘長は200mとされ、全国順位33位とのことである。

 古墳を少し離れ、全体を眺めてみる。
 間には大きな溜池(二ッ池)があり、それを通して見たものである。
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『奈良市・平城天皇陵』

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 奈良県奈良市佐紀町にある「平城(へいぜい)天皇楊梅陵(やまもものみささぎ)」の拝所の標柱である。

 場所は、近鉄大和西大寺駅の東方で、そして平城京跡の北側に隣接した所である。
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 西大寺駅から東へと進み、平城京大極殿前で左折、歌姫街道を少し北上して左折し、民家の前を進むと拝所入り口へと到達する。
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 拝所はへ北へと民家の間の参道を進む。
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 陵墓の形状は円墳のように見えるが、平城京造営にて前方部は破壊されたとされている。
 近年の発掘調査などで前方後円墳とされ、その墳丘長は250mあったとされ、全国14位の大きさとのことである。
 尚、古墳名称は「市庭古墳」と云われ、佐紀盾列古墳群の東群に属している。

 この古墳の造営年代は5世紀の筈なので、9世紀の平城天皇の墓とは矛盾を生じるが、旧古墳へ合祀されたと考えれば、宮内庁の治定も頷ける。

 古墳の側面を見てみる。
 東側であるが、住宅に遮られて、殆ど見えない。
 北に進むに従って、後円部の頂点が見えてくる。
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 真北まで回り込むと、後円部全体を眺めることができる。
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 西の側面へと回り込む。
 こちらも住宅街なので、中々近づくことができない。
 そして拝所が見えるところまで戻ってくると、一周は終了である。
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 尚、平城天皇は平安京遷都で知られる桓武天皇の子で、桓武天皇の次代の天皇である。
 しかし本人は奈良への郷愁・愛着があったようで、平城上皇となってから、奈良へと移り住んだとされる。
 また、薬子の変などでも知られている。

『奈良県明日香村・鬼の俎/鬼の雪隠』

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 奈良県高市郡明日香村の野口にある鬼の俎、平田にある鬼の雪隠の説明プレートである。

 説明にある様に、これらは花崗岩が加工されたもので、古墳の石室の一部であったとされている。
 俎は底石、雪隠は蓋石と云われ、元々は一体であったが、自然現象により分離されて残っているものである。

 場所は、欽明天皇陵の少し東で、俎・雪隠とも天皇陵の陪塚であったと説明されている。
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 山の斜面を通る道路の下側に雪隠、上の林の中に俎がある。
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 霧ヶ峰とと呼ばれるこの一帯にはに鬼が棲み、通行人に霧を降らせ、迷ったところを捕らえて「俎」の上で料理し、「雪隠」で用を足したという伝説がある。

『奈良県明日香村・欽明天皇陵』

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 奈良県高市郡明日香村にある「欽明天皇檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」に治定されている墳丘長140mの前方後円墳への参道入り口の標柱である。
 古墳名は別名「梅山古墳」とも云われる。

 場所は近鉄吉野線の飛鳥駅の北東方向で、そう遠くない距離である。
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 参道を登って下ると拝所へと至る。
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 前方部の周濠と右側面(南側)の周濠である。
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 側面には造り出しがある。
 またその付近で遊ぶ白鷺も見られる。
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 側面を進むと後円部へと達する。
 後円部には土橋が架けられ、墳丘へ行けるようになっているが、入ることはできない。
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 後円部から眺めた北側の側面である。
 こちらは空堀となっている。
 後円部の外邸には、丁度桜の花が満開でもある。
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 古墳全体を眺めてみようとするが、北側は住宅地である。
 南側は田圃であるので、全体を眺めることができる(右が後円部)。
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 また古墳の東側に陪塚(ばいちょう)もある。
 カナヅカ古墳そして鬼ノ俎板である。
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 欽明天皇の孫で斉明女帝の母、かつ天智天皇・天武天皇の祖母の吉備姫王の墓が前方部の西の高台にある。
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 また玉垣の中には以前は欽明陵にあったとされる猿石も置かれている。
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『奈良県桜井市・メスリ山古墳』

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 奈良県桜井市高田にあるメスり山古墳である。

 4世紀初頭の古墳時代前期の墓で、前方部が細い柄鏡式の前方後円墳で、その墳丘長は224mあったとされ、全国順位19位の大きさである。

 先ずは東側の後円部である。
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 側面北側は公園化され遊歩道も整備されている。
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 前方部は個人所有の様で、果樹園となっている。

 前方部の終端部である。
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 この手前は住宅地となって、前方部が切り取られた形となっている。

 南側面から古墳を眺めてみる。
 住宅地が配され、古墳は裏山の様相を呈している。
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 尚、この古墳からは多くの出土品が確認されている。
 数多くのものが重要文化財に指定されているとのことである。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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