『伊勢路の城・鳥羽城』
伊勢路の城跡を訪ねて、最後は伊勢神宮の東で、海に面した鳥羽城である。
旧の国名でいえば志摩の国に入る。
この城は織田信長に与した水軍の武将、九鬼嘉隆(くきよしたか)が秀吉の時代に豊臣大名となり、築城したものである。
場所は今の近鉄鳥羽駅の南側すぐ近く、鳥羽湾に隣接したところに築城されたもので平山城である。
海水を周囲に引き込んでいたことから水城、浮城とも云われる。
九鬼水軍は織田軍の石山本願寺との戦いで、毛利や村上の水軍を討ち破るために燃えない鉄甲船を造り、大坂湾木津川口の戦いで勝利し、織田軍の戦況を有利に導いたことで知られている。
表紙の写真は三の丸跡に設けられた観光用モニュメントである。
写真の撮影側背後には大手水門があった。
現在は近鉄線路、国道、鳥羽水族館、そして海へと繋がる。
整備された階段を登りながら、左手山肌に棚田のような石垣を見る。
階段を登りつめたところに整備された広場がある。
何らかの曲輪があったところであろう。
本丸跡を目指してさらに登って行く。
途中に本丸石垣、天守の石垣が見られる。
頂上が本丸跡地である。
海面から40m程度のところである。ここも広い。
じつはこの本丸跡、すぐ南に校舎がある旧鳥羽小学校の運動場となっていたところである。
風化はしているが、その名残のものも残されている。
本丸跡からの眺めである。
少々見にくいが眼下に鳥羽湾が見える。九鬼水軍の船溜まりであったところであろう。
目を遠くに移すと、真ん中に御木本(みきもと)真珠島、左手遠くに答志(とうし)島が見える。
答志島には嘉隆の首塚、胴塚がある。
関ヶ原の戦いで、家名存続のため嘉隆が西軍に、子の守隆が東軍に与して戦った。
敗れた嘉隆はこの島に逃れた。
そして守隆の懇願で嘉隆は許されたが、それを知らないまま自刃したのであった。
水軍の勇将の切ない最期である。