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『茨木市・郡山宿』

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 大阪府茨木市の江戸時代の西国街道に設けられた郡山宿である。

 西国街道は京都と西宮を結ぶ街道で、その間に5か所の宿場があった。
 京都から山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽(こや)であり、西国大名一行が参勤交代の途中に宿泊したと云われる。

 郡山宿は、当時と新しい家屋が共存する街並みである。
 珍しい妻入りの町家も存在する。
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 郡山宿の中心は本陣である。
 正門の脇に大きな椿の木があったことから「椿の本陣」と呼ばれる。
 この本陣は、江戸中期の火災により類焼したが、享保年間に西国大名たちの寄付により再建されたと云われている。
 また、郡山宿は国の史跡にも指定されている。
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 本陣の他にも、当時を偲ぶ町家や改修された町家が見られる。
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 道路の標柱石が建っている場所がある。
 「右 かつをじ」とか「すぐかちをじ」とかあり、箕面の勝尾寺が近いことを示している。
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 郡山宿の住所地は「宿川原町」、街道を進むと鍛治屋橋という新しい橋が架かっていて、渡って進むと、現在の西国街道である黒糖171号線(通称:いないち)に出る。
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『柏原市・白坂神社』

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 大阪府柏原市の大和川の右岸、JR関西本線「高井田駅」の道路を挟んで鎮座する「白坂神社」の境内である。
 白坂神社は延喜式神名帳には「宿奈川田(すくなかわた)神社」と記入された式内社である。
 駅から神社に向かうと上の写真の様であり、奥に拝殿本殿が並んでいる。
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 大和川に向かって石の鳥居が祀られている。
 そしてその鳥居の正面が社務所の様な拝殿、その背後が本殿である。
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 本殿の祭神として、宿奈彦根命(たかなひこねのみこと)で一般的には少彦名命と呼ばれる神に加えて、その父神である高皇産霊命(たかむすびのみこと)、そして風の神である級戸辺命(しなとべのみこと)が祀られている。
 中世には白坂大明神と云われ、この「神社は諸病を祓い、風水の難を除く」と云われている。

 境内社は1社である。
 鳥居を潜った左手の会館前に、稲荷大神が祀られている。
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 またこの神社には、万葉歌人柿本人麻呂の歌、
 「朝な朝な 立秋霧の 寒幾鴨 竹原山の 紅葉そめけむ」
 である。

『柏原市・天湯川田神社』

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 大阪府柏原(かしわら)市の大和川右岸に鎮座する式内社「天湯川田(あめのゆかわだ)神社」の社頭の社名標柱である。
 神社は柏原市役所から大和川の右岸を溯った小高い丘の上にあり、下から参道石段が延びている。
 登りつめた所に鳥居が建っていて、丘上の削平地が境内である。
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 境内正面には、比較的新しい狛犬が一対祀られている。
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 その先、拝殿、本殿である。
 本殿の祭神は、当地の豪族鳥取氏の祖神の天湯川桁命(あまゆかわたけのみこと)、春日神の天児屋根命、天照大神と同一とされる天日霊貴命(おおひるむめむちのみこと)で、鎮座は景行天皇の時代と云われている。
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 本殿右手に境内社が3社祀られている。
 左から、古野明神社、山王権現社、平戸明神社である。
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 また本殿左手には2層の慰霊塔が建てられている。
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 但し、この場所は飛鳥時代に建立されたとされる鳥坂寺(とさかじ)の跡とも云われる。
 説明板によると、塔心礎が残っていて、約20mの三重塔があったともされる写真が掲げられている。
 神仏関係の微妙な時期であったのかも知れない。
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『河内国・大和川付替え』

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 旧河内国、現大阪府の藤井寺市と柏原市の間を流れ、現八尾市から東大阪市そして大阪市を流れ大阪湾に注いでいた大和川は今から300年と少し前に、付替えられた。
 その流れは、従来は北へと向かっていたが、そのまま西へと、現八尾市と松原市の境を流れ、大阪市と堺市の境を流れ、大阪湾へ注ぐという風に替えられたのである。
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 付替えの起点の藤井寺市側の堤防には、冒頭の少し朽ちた記念の柱が建ち、近くにはJR柏原駅と近鉄南大阪線道明寺駅を結ぶ近鉄道明寺線の鉄橋、対岸には柏原市の市役所や文化ホールがある。
 また、柏原市の堤防側から南を望めば、左二上山から、中央に大和葛城山、右端に金剛山が見える。
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 この付替えには賛否両論があったようであるが、最終的に江戸幕府が承認することとなり、8か月の間に二百数十万人を動員し、見事工事を竣工させたのであった。

 その手法は、川土手を積み上げ、天井川とする方法であった。
 当初は、川底となった田地のトラブルや左岸の浸水被害、河口への土砂の堆積による堺港の移設などがあったが、旧河川の流域では洪水が無くなると云う効果に加え、新田開発や綿花栽培などが盛んになると云う付随効果もあったと云われている。

 柏原市側の堤防は国道25号線になっているが、国道に沿って細長い大和川治水公園がある。
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 また、公園の中には、付替えの功労者である中甚兵衛氏の像も建てられている。
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 旧大和川は、現在も細い流れと変わり残されている。
 平野川、久宝寺川・長瀬川、菱江川・玉串川などである。
 その取水口が幾つか川岸に設けられている。
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 また堤防の反対側から、川が始まっている。
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 この付替え地点のすぐ上流には、南の奥河内金剛山の辺りからの石川が合流している。
 また、合流地点の直近の駅は近鉄大阪線の安堂(あんどう)駅であり、柏原市役所の裏にある。
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『藤井寺市・国府遺跡』

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 大阪府藤井寺市国府にある河内国国府(こう)遺跡の航空写真である(左手が北方向、現地説明板より)。
 左上隅の川は奈良から大阪湾に流れ込む「大和川」、右から左へ流れるのは奥河内河内長野から写真の左手で大和川と合流する「石川」である。
 下部中央の木が茂っている部分が河内国府遺跡址である。

 下に掲げた現地の説明板の地図は、遺跡の部分を示したもので、説明のためにABCの区域に分けたものである。
 地図には、縄文や弥生時代の人骨が発見された場所の表示がある。
 また土器なども発掘されている。
国府地図

 この地図の左手(西方向)にはすぐ近くに河内国惣社と云われる「志貴縣主神社」鎮座していて、神社境内に河内国府址の石柱もある。

 先ずはC地区である。
 中央の道路から眺めると田圃の向うに城の天守の様なものが見えるが、これは単なる老健施設である。
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 中央の道路の交差点付近から南方向のB地区を眺めたものである。
 石柱には「国府遺蹟之碑」と彫られている。
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 石碑の右手は民家なので全体が見えない。
 遺蹟址の南西の隅まで回り込んだ写真である。
 ここはグラウンド状になっている。
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 次はA地区である。
 中央の道路の交差部から南方向を眺めたものである。
 石柱には、「石器時代遺跡地」と彫られている。
 そして石碑の左には石列も見られる。
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 A地区を南方向へ中ほどまで進む。
 説明板があり、上に示した航空写真、地図以外に発掘された人骨等の写真も示されている。
 説明文によると、この地は2万年も前から人々が集落を作り生活していた旧石器時代からの遺跡であるとのことである。
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 この場所にも大きな石碑があり、「義侠熊日氏之碑」と彫られている。
 その前に、古代の寺院の塔心礎の様なものがあり、飛鳥時代建立の衣縫(いぬい)廃寺が推定されるとのことである。
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 この碑の裏の木の周りや地面に、その寺院の関係なのか石の並びが見られる。
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 旧石器時代から縄文弥生と集落が形成されてきたその上に、河内国の国府が築かれたことから、この遺跡は国府(こう)遺跡と呼ばれ、国の史跡に指定されている。
 尚、旧石器時代の発掘物は、二上山で採れるサヌカイトを加工した「国府型ナイフ形石器」等である。

『藤井寺市・志貴縣主神社』

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 大阪府藤井寺市総社に鎮座する式内社「志貴縣主(しきあがたぬし)神社」の社頭の標柱である。
 神社の場所は、近鉄電車「土師の里(はじのさと)駅」の北方で、まずは駅の北側の国府という住所地には允恭天皇陵の前方後円墳がある。
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 そしてその北の住宅街の中に神社は祀られている。
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 志貴縣主神社の社頭には、冒頭の社名柱の他、惣社宮の灯篭や、河内国府址の標柱が建てられている。
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 古代、現在の羽曳野から藤井寺の辺りは、志貴県と云われる朝廷の直轄地で、その志貴県主が祖神「神八井耳命かんやいみみのみこと)」を祀ったのがこの神社の創建とされている。
 また、河内国の国府でもあったことから、惣社宮も別に祀られていたが、それも習合され、このようになっているものと思われる。

 境内を進むと、一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、本殿である。
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 尚、境内社として本殿の横に式下大神が祀られている。
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『広島府中町・多家神社』

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 広島県の広島駅の東、周囲は全て広島市である安芸郡府中町に鎮座する式内社名神大社「多家(たけ)神社」の社名標柱である。

 多家神社は紆余曲折があり、現在は府中川の分流の榎川畔の「誰曽廼森(たれそのもり)」に鎮座している。
 社頭の鳥居を潜ると、右手に冒頭の標柱、そしてその標柱の側面には神武天皇の東征の折この地に居留したとも刻まれている。
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 鳥居の先は綺麗な石段である。
 石段を登り詰めると、二ノ鳥居があり、その先に社殿が広がる。
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 右手には、神楽殿そして広島城の稲荷神社の遺構とされる宝蔵がある。
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 正面には注連縄柱、そして一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、本殿である。
 本殿の主祭神は「神武天皇」と安芸国の開祖神とされる「安芸津彦命」、そして相殿神は神功皇后、応神天皇、大己貴命である。
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 また境内には「おもいで石」という子供たちの身長を計測する石板が祀られているのは珍しい。
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 石段の下の左脇に貴船神社が祀られている。
 祭神は、高竜神(たかおかみのかみ)、別雷神(わけいかづちのかみ)、大山津見神(おおやまづみのかみ)である。
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 古代に創建された式内多家神社は、神武天皇が東征の折に7年間滞在した阿岐国の「多祁理(たけりの)宮」あるいは「埃(えの)宮」の跡に創祀されたものとされている。
 しかし、中世には武士達の抗争により衰退し、その所在が分からなくなったと云われる。

 江戸時代になって、安芸国総社である「総社」と「松崎八幡宮」が多家神社の後継を主張し論争となった。
 その結果、明治になって両社は廃止され、現地「誰曽廼森」に両社祭神を合祀した「多家神社」が創建されたという歴史を辿っている。

 尚、「誰曽廼森」とは、神武天皇がこの土地の者に「曽は誰そ?」と尋ねたことから名付けられたと云われている。

 また、神社前の榎川を挟んで「府中町歴史民俗資料館」もある。
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『広島廿日市市・速谷神社』

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 広島県の厳島神社が安芸の海の上なら、この「速谷神社」は向かい側の陸の山麓にある安芸国の国造りの神社である。

 神社の創建は1800年前と云われ、厳島神社と並び称される神社で、厳島が宗像三女神を祀り、国家鎮護・海上安全の神であるのに対し、この速谷神社は、広く国土開拓を行い、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固めた安芸建国の祖神である飽速玉男命(あきはやたまおのみこと)を祀っている。

 共に名神大社であり、厳島神社は一之宮、速谷神社は二之宮とされている。

 速谷神社へは、廿日市市の中心部から山麓に向けて国道を進むと、正面に鳥居が見えてくる。
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 鳥居脇には、冒頭の社名標柱が建てられ、鳥居の先は注連縄柱、そして広い参道が延びる。
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 正面は楼門である。
 そして楼門の横には、もう一つの社名柱が建てられている。
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 楼門を潜ると右手には神楽殿・斎館、左手には儀式殿と神池がある。
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 そして正面は神門である。
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 門の左側には車祓所があり、現地では「車を買ったら速谷さん」と云われる。
 また右脇には延喜式名神大社の石碑が建てられている。
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 神門を潜ると一対の狛犬が祀られている。
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 そして中央に拝殿が祀られている。
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 拝殿左翼には直会殿と安岐国造の石碑、右翼には祓殿が備えられている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 そして、本殿の右には「笑う狛犬」が祀られている。
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 そして、本殿の周囲に境内社2社が祀られている。
 左横に岩木神社、右後ろに稲荷神社である。
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 尚、延喜式神名帳によれば、速谷神社は名神大社(官幣)に列せられ、延喜式記載の安芸国三社、即ち速谷神社、厳島神社、多家神社の中でも格別の待遇を受けたと云われている。

『安芸宮島・厳島神社天神社』

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 菅原道真公ゆかりの聖蹟二十五拝の第20番は安芸の宮島の厳島神社の社殿の一つである摂社「天神社」である。
 この社は、朱塗りの厳島神社の中にあって、能舞台と共に素木造の建築であるが、能舞台のように板壁でなく漆喰壁であり、国の重要文化財となっている。

 厳島神社へは、JR宮島口駅で下車し、連絡フェリーに乗船することになる。
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 海上の大鳥居を眺め、宮島に降り立ち海岸に沿って歩いて行くと石造りの鳥居を潜る。
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 参道を進むと社殿全体を望むことができる。
 そして注連縄柱を潜り海上の廻廊を進む。
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 廻廊を何度か折れ、本殿前を通り抜ける。
 本殿右手の大国神社の西に天神社は佇んでいる。
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 天神社の内部は広い座敷風になっていて、奥に祭神道真公が祀られている。
 この場所では、明治時代まで連歌の会が催されていて、別名連歌堂とも呼ばれている。
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 天神社の隣の西廻廊からの風景である。
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 天神社に続いて太鼓橋が鮮やかである。
 また目を海上沖に移すと、大鳥居も見える。
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 尚、この厳島神社には、道真公が九州大宰府に左遷される道行にて立ち寄ったかどうかは定かではないが、それはそれとして、戦国時代の厳島合戦により、神社の社地を穢したという反省から、毛利元就の指示で、嫡男の毛利隆元によって天神社が創建されたと云われている。

『福岡市・櫛田神社』

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 福岡市の地下鉄祇園駅の西、中州方向に行った所に鎮座する「博多祇園山笠」や「博多どんたく」で知られる博多の総鎮守「櫛田神社の社名標柱である。
 社頭の鳥居の先には見事な楼門が備えられている。 
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 楼門を潜り境内側から見てみる。
 奉献酒も祀られている。
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 境内は結構広い。
 山笠入りも挙行される広さである。
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 境内には神牛が祀られている。
 そしてその先は中神門である。
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 中神門の手前には、境内図が完備されている。
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 そして、一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の手前には「霊泉鶴の井戸」、そして拝殿、本殿である。
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 本殿の祭神は、正殿に大幡主神(櫛田大神)、左殿に天照皇大神、右殿に素盞嗚大神(祇園大神)が祀られている。
 
 本殿の囲い塀の左外には、祇園山笠の飾り山が常置されている。
 色彩豊かな見事なものである。
 また力石も並べられている。
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 境内社も豊富である。
 拝殿本殿の左から、反時計回りに参拝してみる。
 一番左手前の児安社、白龍権現社である。
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 その右隣は恵比須神社である。
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 その右隣には、花本大神が祀られている。
 花本大神とは松尾芭蕉に下賜された神号のことである。
 この場所には、芭蕉の句「蓬菜に 聞かばや伊勢の 初便」が掲げられている。
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 その隣は南神門である。
 鳥居、狛犬、神門が揃っている。
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 引き続き境内社である。
 石堂神社、二十二社、そして合祀八社である。
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 そして、注連掛稲荷神社と宇賀神社の合祀社、その右は社ではないが大正天皇行幸殿である。
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 退出は神社の北神門とする。
 神門を潜って北方向へ進むと、中州川端の駅へ到着となる。
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『福岡市・水鏡神社』

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 福岡県福岡市の繁華街「天神」の名称の由来となった「水鏡神社」社頭の標柱である。
 この水鏡神社の鎮座地は福岡市中央区天神1丁目で、西鉄天神駅の近くである。

 この神社は「水鏡天満宮」あるいは「容見天神(すがたみてんじん)」と呼ばれる。
 由緒は、かつて菅原道真公が京の都から大宰府に左遷され赴任の途中に博多に上陸し、付近の今泉の四十川の川面に自分の姿を映した場所に創建されたものである。
 その後、江戸時代初期に福岡藩初代藩主の黒田長政によって福岡城の鬼門にあたる現在の地に移転されたものである。

 神社は天神界隈の大通りに面している。
 鳥居を潜ると神門がある。
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 そして石造りの神橋、中門となる。
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 中門前には、4頭の神牛が祀られている。
 夫々時代が異なるのであろう。体形も表情も異なる。
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 その先は拝殿、本殿である。
 本殿の祭神は勿論のこと菅原道真公である。
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 本殿の左横には荒木田稲荷社が祀られている。
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 稲荷社の前には宇賀神社、恵比須神社が祀られている。
 その他に、合祀社も祀られ、左から大黒社、秋葉社、金刀比羅社、宮地嶽社である。
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『久留米市・五穀神社』

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 福岡県久留米市の街の中心部、西鉄久留米駅の近くの通外町に鎮座する「五穀神社の社頭鳥居の扁額である。
 五穀神社は、江戸時代中期、久留米藩の7代藩主有馬頼徸(よりゆき)の創建によるとされている。

 その背景として、その前には農民騒動があり、それを解決したのは家老の稲次因幡正誠(いなつぎいなばまさざねこう)であったが、
藩主や家中の怒りが後年になって募り、家老は幽閉されそのまま悲痛の内に亡くなったと云われる。
 功労者の死に際し農民の不満も再び勃発する気配に、藩主としては悲運の死を遂げた元重臣の怨霊に対する恐れも加わり、神社創建となったものと思われる。

 社頭の鳥居を潜ると注連縄柱である。
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 その先は石造りの太鼓橋が架かっていて、神池を渡る。
 その先は「郷学の森」と云われ、森の中には久留米市出身の著名人6名の胸像が建てられている。
 中でも有名なのは、東芝の創始者田中久重氏、ブリジストンの創始者石橋正二郎氏である。

 特に田中久重氏については、幼いころからこの神社を遊び場とし、青年になっては神社祭礼に纏わる新しいからくりを発明し「からくり儀右衛門」と呼ばれたり、また「懐中燭台」や「万年自鳴鐘」なども発明し、「東洋のエジソン」とも呼ばれた人物である。
 そして、長じて東京に移り、東芝の前身の田中製造所を設立したと云われている。
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 社殿は境内の左手に祀られている。
 先ずは一対の狛犬である。
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 そして拝殿、本殿である。
 本殿には食物の神である豊宇気比売神(とようけひめのかみ)を主祭神に、そして相殿に相殿に稲次因幡正誠公が祀られている。
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 その他ゆったりとした境内には、境内社が祀られている。
 秋葉神社と天満社である。
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 話を東芝の田中氏とブリジストンの石橋氏に戻すが、記念碑としてJRの久留米駅前にからくり時計と直径4mもある世界最大のタイヤが設置されている。
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『肥前国一之宮・千栗八幡宮』

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 佐賀県三養基郡みやき町に鎮座する肥前国一之宮「千栗(ちりく)八幡宮」の社頭の社名標柱である。

 千栗八幡宮は、奈良時代の頃、肥前国養父郡司であった壬生春成が八幡神の神託を受けて千根(ちこん)の栗が生えているこの地「知利久」に社を建て、八幡神を祀ったのが創始と云われている。
 社名は千根の栗ということから「千栗」とし、読みは地名の「ちりく」を当て嵌めたものと思われる。

 神社は筑後川の右岸の久留米駅から出ているバス停の所の小高い杜に祀られている。
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 正面の一ノ鳥居を潜ると直登の参道石段である。
 鳥居は江戸時代初期、肥前藩主鍋島直茂公奉納の肥前鳥居である。
 また、余談であるが、この石段は「栄光への石段」と呼ばれている。
 オリンピック金メダリストの柔道家古賀稔彦氏が少年の日、この石段を駆け上がり駆け下り鍛錬したものである。
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 また、鳥居の両側には一対の狛犬が祀られている。
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 石段を登り詰めると、二ノ鳥居を潜りその先は拝殿である。
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 背後の本殿には、主祭神として応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、配神として難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰が祀られている。
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 境内には武雄神社が祀られている。
 祭神は、武雄心命を始めとする諸神である。
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 境内中央には「お粥堂」がある。
 お粥試という例祭の一つを執り行うところで、お粥を炊いて神器に盛り、箸を十文字に渡し東西南北に分け、そのカビの生え具合から1年間の天候や農作物の出来具合、その他地震・台風等の吉凶などを占うものとのことである。
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 他に境内社として、鳩森稲荷神社が祀られている。
 そして境内から、久留米方向の景色も望めるところである。
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 尚、南北朝時代には神社の西に千栗城が築かれ、そして戦国時代には神社は戦乱に巻き込まれ、幾度か焼失したと云われる。
 その後、領主の龍造寺氏そして鍋島氏によって社殿の再興、社領の寄進が行われて来ている。

『筑後国・久留米城跡』

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 福岡県久留米市の市街地の北西部、筑後川に面して久留米城が築城されていたその跡地である。

 久留米城は、室町時代の終り頃、この土地の土豪が筑後川の畔の小高い丘に砦を築いたのが最初とされる。
 秀吉の時代になっての九州征伐の後、小早川隆景久留米城は、最初は永正年間に土豪によって築かれた砦程度の城であった。

 本格的な築城は、天正15年の豊臣秀吉によの九州征伐後、毛利元就の末子の小早川秀包が久留米へ入城して、城を近世城郭へと改修したと云われる。

 関ヶ原で西軍に加わった秀包は改易され、三河岡崎より田中吉政が筑後領主となり、本拠地は柳川、久留米は支城とした。
 しかし、大坂の陣の後、田中氏は嫡子が無いという理由で改易され、戦功のあった丹波福知山城主の有馬豊氏が、任じられ城主となった。
 豊氏は、筑前城主の黒田長政の指導の下、城の修築や城下町の整備を行い、以後は有馬氏が居城して明治を迎えたとの経緯を辿っている。

 城跡の二ノ丸、三ノ丸は現在は久留米市発祥のブリジストンの工場になっていて、本丸址のみが残っている。
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 ブリジストン工場への道路に、二ノ丸跡の石柱が建っている。
 灯篭もあるが、これは本丸跡地に祀られている神社の参道としてのものであろう。
 この道を進むと、本丸跡へと近づく。
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 本丸への入口は両側に堀のある土橋である。
 土橋からは、東に隣接している久留米大学病院が望める。
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 土橋を渡ると桝形門の石垣がある。「冠木御門」と云う。
 その先に「本丸址」の標柱がある。
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 本丸址の案内図があるが、少々見にくい。
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 四隅には櫓跡、中央部は神社で「篠山神社」と云い、現在も市民の信仰の厚い神社である。

 先ずはその篠山神社である。
 祭神は、初代藩主有馬豊氏(とようじ)、第7代藩主有馬頼撞(よりゆき)、第十代藩主有馬頼永(よりとう)の3氏である。
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 南東には巽(たつみ)櫓跡がある。
 久留米の市中に向けての三層の櫓で、威容があったと云われている。
 再建計画もあるそうであるが、未だ手付かずとなっている。
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 北東には艮(うしとら)櫓跡である。
 背後には微かに筑後川が見える。
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 北西の乾櫓跡、南西には太鼓櫓跡である。
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 その他、本丸跡地内には、有馬家ゆかりの展示を行う有馬記念館、そして東郷平八郎の旧書斎も移築されている。
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 城の東側では高石垣を見上げることができる。
 そして石垣の下に蜜柑丸と云う腰曲輪の跡もある。
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『筑後国・吉見嶽城址』

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 福岡県久留米市の高良山から延びる北西の支尾根の吉見岳157mに築城されていた「吉見嶽城址」の案内図である。
 吉見嶽城は戦国時代、八尋式部が築城したと云われている。

 城跡へは、高良大社の二ノ鳥居の所の高樹神社の横手から川沿いに登る。
 途中に灯篭があるが、これは城跡に祀られた琴平神社のものであろう。
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 右手に曲輪跡とも思われる削平地が階段状に並んでいるのが見られる。
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 本郭に近づくと高く積み上げられた土盛の横を進むことになる。
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 そして本郭に付随した曲輪の跡らしきも見られる。
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 本曲輪への登り口の大手口である。
 石段を登ると鳥居があり、琴平宮となっている。
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 本曲輪跡は境内である。
 奥に社殿が設けられている。
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 社殿の横を進むと、高良山側からの虎口である。
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 少し進んでみると堀切なども見られ、城の防備であったことが分かる。
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 吉見嶽城は、肥前・肥後から豊後に抜ける軍事上の要地であった。
 この城には豊臣秀吉が九州征伐の折、陣を張ったと云われている。

『筑後国一之宮・高良大社』

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 福岡県久留米市の高良山に鎮座する筑後国一之宮「高良大社」の一ノ鳥居横の社名標柱である。

 高良神社は、JRや西鉄久留米駅の東方にある。
 街中の通りに近い所には案内塔が建てられ、そこからの参道を進んでゆくと、重要文化財の一ノ鳥居と冒頭の標柱に達する。
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 参道を進むと、町石道の参道となる。
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 そして御手洗池(放生池)に達し、石橋を渡る。
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 その先に二ノ鳥居が建っている。
 この場所からの参道は自然石の石段の登りである。
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 鳥居横には案内板があり、神社全体図が示されている。
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 高良山の標高は312m、高良大社は230m位の所にある。

 参道石段途中には、馬蹄形と云う石が祀られている。
 飛鳥時代に造られた山城の史跡と云われる「高良山神籠石(こうごいし)」の一つである。
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 更に石段を登ってゆくと、左手に式内社の「伊勢天照御祖神社」が祀られている。
 また高良大社は神仏習合であったため、本坊の寺門などが見られる。
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 また多くの僧坊があったことを示す標柱も示されている。
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 そして更に参道を進むと、右手に石の鳥居がある。
 脇参道と思われるので、更に進む。
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 赤い鳥居が建っている。 
 この場所から石段参道が一直線に登っている。
 脇には、標石も建っている。
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 石段を登ると正面は中門であり、両側には一対の狛犬が祀られている。
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 中門を潜ると本殿となる筈であるが、現在は修復工事中であり、拝見することはできないのは残念である。
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 本殿を取り囲む回廊と本殿の正面写真が設けられているので、それにて我慢することになる。
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 本殿には、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)、八幡大神、住吉大神が祀られている。
 
 かつて神功皇后が西下し異国の兵と戦った時、筑前国四王子嶺に登り神に戦勝を祈願したところ、高良玉垂命と住吉神が現れ、それを祀ったのが神社の創建とされている。
 それ以前、高良山には高木神(高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座していたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったと云う経緯があるとも云われている。
 そして高木神は二ノ鳥居横の高樹神社に鎮座しているとされている。

 また神社の展望所から久留米の町を見下ろすことができる。
 右端には筑後川、遠くに見える山は肥前国佐賀県である。
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 退出は北側の山道を降りる。
 途中には吉見嶽城跡がある。
 そして、こちらにも僧坊跡があり、更に下って行くと、二ノ鳥居脇の高木神が祀られている「高樹神社」前へと出て、参拝は終了である。
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『八尾市・御野縣主神社』

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 八尾市上之島町に鎮座する式内社「御野縣主(みのあがたぬし)神社」の社頭の社名標柱である。
 場所は河内山本駅から北(下図の左方向)へ玉串川沿いを進み、バス停「美好橋」を東へ入った辺りである。
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 玉串川は現在でこそ5m位であるが、元と云えば旧大和川の分流で、当時は200m程度の川幅があったと云われる。
 また川沿いの歩道にある、マンホールには河内木綿の糸を紡いでいる絵が八尾に因んだ八角形の中に描かれている。 
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 神社は東を向いている。
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 社殿の南には南北に細長い御野縣池がある。
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 さて、神社の社頭である。
 冒頭の社名柱と鳥居が建てられている。
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 参道を進むと、両側に一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿本殿である。
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 本殿には、角凝魂命(つのこりのみこと)、天湯川田奈命(あめのゆかわたなのみこと)が祀られている。
 これらの神々は、この地を支配した美努連(みぬのむらじ)、即ち三野縣主の祖神である。

 本殿の裏には末社がまとめられている。
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 左側は合祀社で、右から日吉大神、春日大神、菅原大神、天照皇大神、八幡大神、厳島大神である。
 右側は稲荷大神の単独である。
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 社殿の左奥に南北に長い土塁がある。
 旧大和川の遺構であり、現在残っているのは唯一とのことである。
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『八尾市・長柄神社址』

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 大阪府八尾市東本町にある式内社「長柄神社」の跡地の石碑である。
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 長柄神社は、八重事代主命を祀る神社として、この地に明治時代の終り頃まで祀られていたが、明治政府の命にて、前回にアップした矢作神社に合祀されたという経緯を有している。

 現在は社地とともに、正面の鳥居が残されているが、このような形の神社址は極めて珍しい。
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 更に狛犬も残されている。
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 神社の横には、豊川稲荷社が祀られている。
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 また、神社前の道は旧信貴道と云う。
 道標と共に、町家などもかつてを偲ばせるものがある。
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『八尾市・矢作神社』

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 大阪府八尾市南本町に鎮座する式内社「矢作(やはぎ)神社」の参道入り口の標柱であるが、草木に隠れれいて全ては見えない。
 場所は旧大和川の右岸で且つその分流の楠根川の左岸である。
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 この地は、古代において物部氏が勢力を奮った地で、その一族の矢作連が住み着き戦闘用の矢を造っていたと云われる。
 そして物部氏の隆盛に伴い、矢作連の祖神の経津主命(ふっつぬしのみこと)を祀ったのがこの神社の始まりとされる。

 参道を進むと注連縄柱の左に樹齢600年と云われる大銀杏がある。
 その先は広い境内である。
 境内の中央に一基の灯篭があり、八幡宮と刻されている。
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 平安時代の終り頃、この地は京都の石清水八幡宮の荘園となった。
 そのため、八幡神が合祀され、八尾八幡掃部別宮とも云われたとのことである。

 正面は拝殿そして本殿である。
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 本殿の祭神は、経津主命、品陀別気命(ほむだわけのみこと、応神天皇)、住吉三神、そしてこの北に祀られていた式内社「長柄神社」を合祀したことによる八重事代主命である。

 拝本殿の左手前には境内社が並び祀られている。
 順に、琴平神社、白山神社、八坂神社である。
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 また境内社の前には、白梅、紅梅が咲き始めている。
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 その他、境内には7ヵ所にある「弁慶の七ッ石」、奉献酒などが祀られている。
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『八尾市・弓削神社Ⅱ』

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 大阪府八尾市東弓削に鎮座するもう一つの式内社で河内大社の「弓削神社」の社頭の標柱である。
 河内大社とは、一之宮の枚岡神社、恩地神社に匹敵する神社であったと云われる。

 この弓削神社はJR志紀駅の東方向、長瀬川(旧大和川)を渡って少し行った所に鎮座する。
 すなわち大和川の右岸に鎮座していることになる。
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 こちらの弓削神社の境内はそう広くはない。
 社頭の鳥居を潜ると、一対の狛犬、そして割拝式の拝殿、そして本殿である。
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 本殿の祭神は、物部氏弓削氏の祖神の饒速日命(にぎはやひのみこと)、宇麻志摩治命(うましまぢのみこと)、弥加布都命(みかふつのみこと)、天日鷲翔矢命(あめのひわしかけるやのみこと)、比古左自彦命(ひこさじひこのみこと)、それに加えて品陀和気命(ほむだわけのみこと)、菅原道真公の七神であり、多彩である。

 この神社境内には、摂社は見当たらない。
 しかし、境内を取り巻く塀の中に外側に向けて稲荷神社が祀られている。
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 神社の周辺は、文化的な町家や太鼓楼の寺院が見られ、かつての雰囲気を醸し出している。
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『八尾市・弓削神社Ⅰ』

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 大阪府八尾市弓削(ゆげ)町に鎮座する式内社弓削神社二座の内の一座「弓削神社」の社名標柱である。
 
 古代から中世には、大和川は現在の八尾市の真ん中を東南から西北に幾つかの分流も従えながら流れていた。
 東南は主にJR関西本線に沿って、そして八尾の中心付近で今度は近鉄大阪線に鞍替えして流れていたようで、その名残が長瀬川であり、分流の玉串川である。

 古代は農業社会であるので、人々は洪水覚悟で川に沿って住まいした。
 八尾の辺りには、古代の有力一族であった物部氏が人々の生活を束ねていて、この神社の付近はその物部氏の一族の弓削氏が住まいし、弓削氏が祖神を祀ったのがこの神社の創建と云われている。

 この弓削神社は大和川の左岸に鎮座していた。
 もう一つの弓削神社は右岸である。
 その間に現在は長瀬川やJRの線路と駅がある。
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 駅の西の住宅街が神社の入り口である。
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 鳥居を潜って進むと、右手に神楽殿、正面に一対の狛犬がある。
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 そして拝殿、本殿である。
 本殿には、物部氏、弓削氏の祖神である饒速日命(にぎはやひのみこと)と宇麻志麻治命(うましまじのみこと)、そして天照皇大神である。
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 境内社が本拝殿の左に並んでいる。
 先ずは天満宮、金刀比羅神社である。
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 続いて猿田彦神社、稲荷神社である。
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 他にも境内右手には、延命水や若林南山の句碑「物部の 格式いまに 除夜神楽」の石碑も祀られている。
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『八尾市・許麻神社』

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 大阪府八尾市久宝寺に鎮座する式内社「許麻(こま)神社』の社名柱である。

 許麻神社は、JR関西本線の久宝寺駅の少し北の久宝寺5丁目に鎮座する。
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 久宝寺と云えば中世に於いては本願寺を核とする寺内町として良く知られているが、この神社はそれ以上に古く、聖徳太子が創建した久宝寺観音院に牛頭天王を祀ったのが創建とされている。

 この地は、巨麻荘と呼ばれ、半島の高麗からの渡来民族が多く住み着いていたことからその名がある。
 そして彼らが祀ったのが祖神の牛頭天王で、高麗王霊神、許麻大神と云われ、後年、素戔嗚尊と同一神とも云われる。

 神社社頭は東に向いている。
 鳥居を潜ると広い境内である。
 直ぐにある手洗所は明治に廃寺となった久宝寺の鐘楼と云われている。
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 また境内は梅の季節となっていて、五分咲き位となって、華やかである。
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 正面は拝殿であるが、その手前に一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿本殿である。
 現在の本殿は昭和後半の建築であり、鉄筋コンクリートとなっている。
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 境内社として、金刀比羅宮、そして三社同一棟の稲荷宮、秋葉宮、天満宮、独立の八幡宮が祀られている。
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 更に厳島神社も祀られている。
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『八尾市・跡部神社』

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 大阪府八尾市亀井町に鎮座する式内社「跡部神社」の社名中である。
 鎮座場所は、JR関西本線「久宝寺駅」の西南方向、そして何かと話題がある「シャープ㈱」の事業場の少し南側である。
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 この地は、古代、跡部郷と云い物部氏の一族の阿刀連が支配した地で、その祖神を祀ったのがこの神社の始まりとされている。

 社頭には鳥居、そして少し奥まったところに冒頭の標柱がある。
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 境内正面の両側には、一対の狛犬、そして右手に大楠が祀られている。
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 そして拝殿本殿である。
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 祭神は、阿刀連の祖神と云われる饒速日命(にぎはやひのみこと)、そして天照皇大神、八王子大神である。


『八尾市・八尾神社』

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 大阪府八尾市本町、近鉄八尾駅の南西方向、河内音頭で良く知られる常光寺と八尾駅の間に鎮座する式内社「八尾神社」社頭である。
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 八尾神社は旧社名を「栗栖神社」と云った。
 現在の八尾市一帯は、古代、物部氏の支配する土地であった。
 この場所は、付け替え前の旧大和川(現長瀬川)の右岸にあたり、物部氏の同族の栗栖連が祖神を祀ったのが神社の始まりと云われる。
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 境内を進むと拝殿となるがその手前に一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、本殿である。
 本殿の祭神は、宇麻志麻治命(うましまぢのみこと)、明治になって合祀された品陀和気命である。
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 境内社に、鶯神社、そして菅原神社が祀られている。
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 また境内には「矢尾(八尾)城址」の石碑も建てられている。
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 南北朝時代、この神社と常光寺を城塞化したのは常光寺の別当八尾顕幸と云われている。
 そして南朝側に与したが、略奪され北朝の河内における重要拠点となり、他の南朝方と対峙したと云われる。
 しかし最終的には南朝方は敗れ戦いは終結、城は荒廃したままになっていた。

 戦国時代になって八尾城は再建され、織田信長の家臣でキリシタン武将の池田教正の居城となった。
 城下には多くのキリシタンが居住したと云われる。
 秀吉の時代になって池田教正は美濃に移封となり、城は廃城となったと云われる。

『八尾市・澁川神社』

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 大阪府八尾市植松町、JR八尾駅の南東直近に鎮座する式内社「澁川神社」の社頭の標柱である。
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 古代から江戸前期にかけて、大和川が神社現在地の北側を流れていた。
 澁川神社は、室町時代後期になるまでは大和川の北に鎮座していたが、洪水で流されたため、現在地に再建されたと云わている。
 澁川神社の旧社地には、物部氏の澁川屋敷があって、大和川右岸の護りを固めていたと云われる。
 現在は、大和川は八尾市の南部に付け替えられているので、この辺りにはその名残の水路を残すのみではあるが…。

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 神社の鳥居を潜ると広い境内である。
 注連縄柱の両側に一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、本殿である。
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 本殿の祭神は、この地を支配した物部氏の祖神と云われている天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、饒速日命(にぎはやひのみこと)、加えて國狹槌命(くにさつちのみこと)、日高大神、菅原道真公である。

 境内には幾つかの境内社が祀られている。
 先ずは左手にある五つの社、手前から厳島社、琴平社、浮島社、春日社、皇大神宮である。
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 そして、稲荷社、楠社、竜王大神である。
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 また境内には、大阪府天然記念物で樹齢1000年とされる大楠もある。
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 神社のすぐ北側には、大和川付替えによって開発された安中新田の会所跡である旧植田家住宅もある。
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『河内国・稲城址』

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 大阪府八尾市木の本の、浄土真宗本願寺派若江山光蓮寺、の寺門前に立っている「稲城址」の石碑である。
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 石碑の横の説明石板には、下記の説明文が書かれている。
  「聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集め
   て、この地に稲城を構えて抗戦したという。
   稲城は稲で囲った城とか、稲積の城であったとか伝えられる。」

 また、この稲城は、時代から、我が国最古の城の一つであろうと云われている。

 光蓮寺は、この辺りでは大きな寺である。
 聖徳太子が物部氏を滅し、守屋の館を跡に仏寺を創建したのがこの寺の始まりである。
 当初は寶積寺と号し、その後若江郡若江村に転じて山号も若江山となり、更に後に兵火に遭ったため、この旧地に復したものと云われている。

 境内には、本堂、鐘楼、親鸞聖人像がある。
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 また、太鼓楼も設けられ、門前の通りからは蔵や5本の筋塀など、格式の高い寺院であることが分かる。
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 光蓮寺の周りにもいくつかの寺院がある。
 夫々の寺院が太鼓楼を備えているのも、この地域の特徴であろう。

 先ずは浄土真宗大谷派佛念寺である。
    IMG_0207.jpg  IMG_0209.jpg  太鼓楼

 そして、真宗本願寺派の西光寺の太鼓楼である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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