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『堺市・一乗山家原寺』

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 大阪府堺市西区家原寺町の高野山真言宗「家原寺(えばらじ)」の山門(仁王門)である。

 先の踞尾(つくの)八幡神社から石津川を南へ遡ること数百mで家原大池に到達し、その東に家原寺の境内があり、上掲の山門に至る。
               家原大池

 山門を潜ると正面に本堂がある。
 本堂およびその周囲には、多くの祈願ハンカチが並べられているのがこの寺の特徴である。
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 家原寺の本尊は文殊菩薩で、知恵の文殊さんとして、お参りの多い寺院である。

 家原寺の創建は白鳳時代と云われている。
 開祖は僧行基で、この場所は行基の生まれたところであると云われる。

 境内には、地蔵堂、弘法大師のかがみ井戸などがある。
         地蔵堂  CIMG0575.jpg  

 また境内には、小高い所に三重塔、そして西国薬師霊場第十五番の薬師堂などもあり、多彩な姿を保っている寺院である。
         CIMG0576.jpg  薬師堂

 尚、家原寺は石津川の右岸(東側)であるが、左岸(西側)には和泉国一之宮大鳥神社、式内社の大鳥美波比(みはひ)神社が鎮座するが、既に一之宮として触れているので、今回は詳細は割愛する。
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『堺市・踞尾八幡神社』

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 大阪府堺市西区津久野町に鎮座する「踞尾(つくの)八幡神社」の参道石段と鳥居である。

 石津川は石津神社の辺りから流れてくる方向を南へと変える。
 石津川の右岸に沿って石津神社から数百m遡ると、東から流れ込む百済川と合流する。
 その両川に挟まれたところは小高い段丘となっていて、その頂上付近に踞尾八幡神社が鎮座している。
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 踞尾八幡神社は、神功皇后が三韓征伐より凱旋した際に、この地に立ち寄ったと伝えられ、その記念の地に応神天皇を祀る社殿が建てられたのが創建とされる。
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 祭神は、応神天皇の他、神功皇后、そして朝鮮にて活躍した家来の武内宿禰(たけのうちのすくね)である。

 時代は降って、 源義経が讃岐屋島に渡る途中に暴風に遭い、武蔵坊弁慶などを連れて踞尾に避難したと云われる。
 もちろんのこと神社には武運長久を祈願したのであるが、その時に義経が腰をかけたといわれる「義経腰かけ石」が、境内に残されている。
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 義経一行が付近の邸宅に泊まり世話を受けたことの礼状が、古文書として保存されているとのことである。

 神社の丘一帯は住宅街や寺院などがあるが、それを反対側へ下るとJR津久野駅へと到達する。
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 現在用いられている 「津久野」と云う地名は「踞尾」が起源であるが、「踞尾」は神社名にしか残されていないとのことでもある。

『堺市・石津神社』

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 前出の石津太神社から、石津川沿いに東へ6~700m程度東へ行ったところに鎮座する式内社「石津神社」の社頭の鳥居である。
 住所は大阪府堺市堺区石津町で、鳥居は国道26号線に面していて、バス停もある。
 この国道26号線は、熊野街道であるとの石柱が建っている。
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 鳥居を潜ると、両側に社名標柱がある。
 左の石柱には「石津太神社」、右には「日本笑姿初石津神社」と刻まれてる。
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 石津神社は石津太神社に比定されるが、この神社と石津太神社とでは、どちらかが本社でどちらかが御旅所であったのではと云う説もある。
 また、「笑姿」は「えびす」と読むので、日本初の戎社であることを表している。

 尚、この神社の創建についても、石津太神社と同様、孝昭天皇の勅願によるものであるとされている。
 また、垂仁天皇の時代に野見宿禰が神主を務めたとも云われる。

 正面は、拝殿本殿である。
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 本殿には、八重事代主神(戎神)、大己貴神、野見宿禰の先祖の天穂日神が祀られている。

 本殿の横には戎神に願いを届ける時に叩く「祈願板」が設けられている。
 これは戎神は耳が遠かったという逸話に基づくものである。
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 本殿の横裏には「行者堂」、その手前に「猿田彦大神」を祀る祠が設けられている。
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 他に境内社としては、参道に沿った北側に、野見宿禰公とその子孫の菅原道真公を祀る神社が設けられている。
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『堺市・石津太神社』

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 堺市西区浜寺石津町中4丁に鎮座する式内社「石津太(いわつた)神社」社頭の社名標柱と鳥居である。
 この石津太神社は、古代に、伊奘諾命、伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、携えてきた五色の神石を置いたと云われ、石津の地名の起源となった。
 後に、孝昭天皇の勅命により蛭子命を祀る社殿が造営され、八重事代主命並びに天穂日命を合祀したのがこの神社の創建である。

 石津太神社へは、南海本線の石津川駅が最寄りである。
 駅から東へ歩き、旧紀州街道と交わるところを南に進むと冒頭の入り口に到達する。
 鳥居前には、紀州街道の石柱、そして蛭子命が五色の神石を置いたところが表示されている。
 ただし、実際の神石はこの下に埋められているとのことである。
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 鳥居を潜り神社境内へと進む。
 しかし、残念ながら正面の拝殿はリニューアルの工事中である。

 臨時の拝所の手前に一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の中を工事用の入り口から覗いてみる。
 そしてその背後の本殿は2殿祀られているが、かろうじて北側の本殿を横から望むことができる。
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 拝殿と対面して蛭子像が祀られている。
 その横には蛭子神が腰掛けた石が祀られている。
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 そのほかにも境内社が祀られている。
 白蛇社、八幡宮、磐山稲荷社である。
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 蛭子命が上陸したのは石津川の河口である。
 その石津川は直ぐの南を流れているので、紀州街道を辿って行ってみる。

 石津川に架かる橋は太陽橋と云う。
 川には阪堺線の鉄橋も架かっていて、丁度チンチン電車が渡っていた。
 そして左岸の橋の袂には、南北朝時代の堺浦の戦いにて、足利の高師直(こおのもろなお)軍と死闘を繰り広げた北畠顕家(あきいえ)が討ち死にした場所の供養塔が建てられている。
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 石津川を少し遡ると、チンチン電車阪堺線の「石津駅」がある。
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 この石津川流域は、古代から文化が栄え、多くの人々が農業に勤しみ、神々を信仰したところである。
 少しづつ遡り、その崇敬を受けた神社を訪ねてみることにする。

『堺市・田守神社』

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 大阪府堺市堺区松屋町に鎮座する田守神社の境内正面の鳥居である。
 江戸時代に付け替えられた大和川の左岸に、屋号を松屋と云う竹中作右衛門が新田を開発し、その鎮守として創建されたのがこの田守神社である。

 創建時からごく最近までもっと川に近いところにあったが、川沿いに阪神高速道路大和川線が建設されることになり、少し南のこの地に2年前に遷座されたもので、社殿は極めて新しい。

 この地域は三宝と呼ばれ、宝暦年間に開発された三箇村の新田地の名付けであるが、その海に近い方を氏地とするのがこの田守神社、そして陸側を数百m東に鎮座する月洲神社が氏地としている。

 尚、大和川河口の新田開発は、川向こうの大阪市でも同時期に行われ、同様に鎮守の神社として、高砂神社、高崎神社が祀られている。

 社頭の鳥居の脇手前に一対の狛犬が祀られている。
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 そして正面は拝殿本殿である。
 ただし、本殿は覆屋に護られている。
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 祭神として天照皇大神、生國魂大神、八幡大神、春日大神、住吉大神、猿田彦大神、豊受比売大神が祀られている。

 境内社には、拝本殿の左隣に若松稲荷神社、その隣の鳥居の奥に波除不動尊社、さらにその左に、籠守宮社、厳島社、茅淳宮社、龍巻宮社の4社が並んで祀られている。
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 神社には東にも、鳥居、狛犬が祀られている参道がある。
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『堺市・月洲神社』

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 大阪府堺市堺区南島町に鎮座する月洲(つきす)神社の社頭の鳥居である。
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 鎮座地は鉄砲の試射場があったと云われる鉄砲町の西である。
 江戸時代までは、鉄砲町までが陸で、その先は海であった。
 大和川が宝永元年にこの地の北に付け替えられた後、この付近一帯に流砂が堆積して砂州が形成された。
 この砂州を新田にしようと試みがなされたが、たびたび災害が発生し、事業は進展しなかった。
 そこで事業の完工を祈念し、施主土橋弥五郎により、月洲神社が創建されたと云う経緯である。

 石畳の参道の先に一対の狛犬が祀られている。
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 その先、数段の石段を登ると拝殿本殿が祀られている。
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 祭神は、生國魂大神、住吉大神、水分(みくまり)大神である。

 境内社は、小宮社、幸高・子安稲荷社、そして下段は水神社、祖霊社で、4社である。
         小宮社  幸高・子安稲荷社

         水神社  祖霊社

 尚、月洲神社は、江戸時代の終わりごろに、深井の大地主外山定五郎及び外山ふんの寄進により再建され、今日に至るまでこの地の氏神として信仰を集めている。

『堺市・高須神社』

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 大阪府堺市堺区、旧堺環濠都市の北部に鎮座する高須神社の境内入り口の鳥居である。
 最寄駅は阪堺電車「高須神社前」で、すぐ近くにある。
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 高須神社は江戸時代の初め、当地の鉄砲鍛冶の芝辻理右衛門(しばつじりえもん)が徳川家康の命により、我が国初の大砲を造ったこと、更には、大坂冬の陣の時にも急遽1000挺の鉄砲製造を命ぜられ、それに応えたことにより、高須の地を賜った。
 そして理右衛門は、この地に鉄砲鍛冶の繁栄を願い、稲荷神社を勧請し、高須神社を創建したと云われる。
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 祭神は、豊受大神、猿田彦命、大宮姫命、大物主命である。

 理右衛門達が鉄砲を造っていた鉄砲鍛冶の町は神社の西に在り、その間には紀州街道が通っている。
 この辺りの現在の町名は北旅籠町と云う。
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 現在は水野精錬所と云うの工場家屋の辺りが、理右衛門の製造所であったと云われる石碑が建っている。
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『富田林市・美具久留御魂神社』

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 大阪府富田林市宮町に鎮座する式内社「美具久留御魂(みくくるみたま)神社」の注連縄柱と神社社名柱である。

 美具久留御魂神社は崇神天皇の時代に、この地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」として大国主命を祀らせたのが創始である。
 平安時代には朝廷の崇敬も厚く、神社神名帳に記載されるとともに、河内国二ノ宮、石川郡総社とも称された。

 南北朝時代には楠木正成の崇敬が厚く、社殿造営したと云われる。
 当時は千早赤坂村の建水分神社を上水分神社と称し、この神社を下水分神社と云われた。
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 その後豊臣秀吉の根来攻めで社殿は焼失したが、江戸時代の早い時期に再建されたと云われている。

 神社は、山全体をご神体とする。
 その山頂付近を一ノ宮とし、下図に見られるように本殿瑞垣の奥の山に向けて一ノ宮参拝道が設けられている。
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 冒頭の注連縄柱を潜ると正面に鳥居、そして下拝殿がある。
 下拝殿の右横に、金色の獅子頭を飾った参集殿がある。
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 下拝殿の両脇には狛犬も祀られている。
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 下拝殿の先は石段である。
 直登石段と迂回石段の2つの参道がある。
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 参道石段の終点は上拝殿である。
 拝殿の先は狛犬に護られた本殿瑞垣である。
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 瑞垣の中には、左から末社の熊野貴平神社、南木神社、そして本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は美具久留御魂大神即ち大国主命、その他である。

 本殿の右側は、皇大神社、天満宮、利雁(とかり)神社が祀られている。
 尚、利雁神社は式内社で、旧地からこの境内に遷座されたものである。
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 そして瑞垣の外の右手奥に白雲宮、更に右手に参道があり、支子(きし)稲荷神社が祀られている。
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 ご神体山への参道には、井戸が、そして登って行くと注連縄の禁足地となる。
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 この禁足地は古墳跡との看板もあり、石柱も建っている。
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 参拝を終え、麓に降りると宮山とその反対方向東側に大和の二上山が見える。
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 尚、上の右の写真のように、切妻屋根に庇が見られるのは、この辺りの南河内の住居の特徴であろうか、よく見かける。

『河内長野市・千代田神社』

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 大阪府河内長野市市町に鎮座する千代田神社の参道入り口の社名標柱である。
 千代田神社へは、近鉄長野線の汐ノ宮駅を下車し、西側の小高い丘へと登る道を進むと、上写真の神社参道入り口に達する。
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 参道の先は鳥居である。
 そして鳥居の奥に神社の杜が広がる。
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 正面には左右に「大神宮」「天満宮」の石灯籠と天満宮の「神牛」が祀られている。
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 この千代田神社は、平安時代に彫られた菅原道真公像を祀る天満宮で、江戸時代を通して「天神宮」あるいは「天満宮」と云われていた。
 明治の終り頃に近隣の神社を合祀したため、祭神は菅原道真公、天児屋根命、底筒男命、蛭子命、足仲津彦命、気長足姫命、稲田姫命となり、現在に至っている。
 
 正面には石段があり、両脇に狛犬が祀られている。
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 そして石段を登ると割拝式の拝殿があり、その先は本殿である。
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 そして本殿の両脇には境内社の戎神社、八幡神社、皇大神社が祀られている。
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 この神社、昭和の後半に千代田神社と改称されたとのことである。
 そのためか標柱も鳥居扁額も新しいものである。

『河内長野市・高野街道』

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 平安時代の平安京から高野山への参詣道である東高野街道、難波の平野や四天王寺から高野山へ向かう中高野街道と下高野街道、そして堺からの西高野街道が、途中で合流もしながら、最終的にはこの河内長野で一本に合流し、高野街道となった。

 その合流点は南海近鉄河内長野駅の少し北であるが、駅の南に冒頭の標柱と説明石板が建てられている。
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 そして説明板の向こうは河内鋳物師(いもじ)の流れを汲む吹屋吉年邸と云い、20mもあるクスノキが天然記念物に指定されている。
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 その南は長野神社である。
 神社の塀の前に右に下がるカラー舗装された道がある。
 道は二手に分かれるが、家々の玄関には、「高野街道」と記された木製の灯篭が置かれている。
 また家によっては酒蔵の杉玉が吊るされている。
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 二手の道が合流すると酒蔵の通りとなる。
 両側に酒銘「天野酒」の酒蔵「西條合資会社」の建物が並んでいる。
 北側は、現在の事務所と販売所、そして酒蔵である。
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 南側は、幕末から明治初期の建物で、「サカミセ」と呼ばれる虫籠窓を伴った旧店舗で、付属して土蔵がある。
 そしてこの建物は登録有形文化財に指定されている。
 新旧の間の道となる高野街道は酒蔵通りとも呼ばれ、横断幕が掲げられている。
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 酒蔵通りを過ぎると道は左に直角に曲がり、石川に架けられた橋「旧西條橋」を渡る。
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 橋を渡ると急坂となり国道を渡ると烏帽子形山の麓に出る。
 この山には、重要文化財の烏帽子形八幡神社が鎮座する。
 そして山頂付近は、南北朝時代に楠木正成が築いたと云われる烏帽子形山城址である。
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 そして高野街道は南へと進み、三日市宿に入って行く。

『河内長野市・西代神社』

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 大阪府河内長野市西代町に鎮座する「西代(にしんだい)神社」の正面鳥居である。
 
 創建年代は不明であるが、南北朝時代には一般の人々の崇敬に加えて、南方諸将の崇敬も篤かった。
 神社の記録によれば、楠木正成の河内七城の一として築かれた金胎寺城の鎮守として篤く崇敬されたと云われている。

 祭神は元々、国常立尊(くにのとこたちのみこと)のみであったが、他神社の神々が合祀された結果、現在の祭神は、素盞嗚尊、足仲彦命(仲哀天皇)、息長足比売姫命(神功皇后)、品陀別命(応神天皇)、武内宿禰命、菅原道真公となっている。

 西代神社は南海近鉄河内長野駅の西方約500mの国道170号線に面して上掲の鳥居が建っている。
 鳥居の手前には一対の狛犬が祀られている。
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 鳥居を潜ると正面に舞殿がある。
 そしてその奥は拝殿本殿である。
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 江戸時代、西代神社の境内の一部を利用して本多忠恒が西代陣屋を築き、領地河内国錦部郡を治めていた。
 陣屋の遺構はないが、隣の長野小学校の校門は陣屋門を模したものとされている。
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『河内長野市・長野神社』

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 大阪府河内長野市の南海電車高野線河内長野駅の南側の近いところに鎮座する長野神社の参道石段と社名標柱である。
 尚、河内長野駅は南海電車だけでなく、近鉄長野線も乗り入れている接続駅でもある。
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 長野神社境内は、上下段に別れて、上段の石造りの瑞垣の中に社殿が祀られている。
 瑞垣の中の樹木は立派で、カヤの木は大阪府の天然記念物に指定されている。
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 上の写真の鳥居を潜り石段を登ると正面に本殿が祀られている。
 本殿は一間社流造で、正面千鳥破風と軒唐破風の檜皮葺で、室町時代末期の造営と考えられ、国の重要文化財に指定されている。
 本殿には牛頭天王の素戔嗚大神が祀られている。
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 本殿の左には、事代主大神と祀る恵美須社が、右には五社宮が鎮座する。
 五社宮とは、熊野宮、多賀宮、八幡宮、春日宮、高良宮である。
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 更に右端には中央の方を向いて菅原道真公の天神宮が鎮座している。
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 この神社は、江戸時代には木屋堂宮(こやどうのみや)あるいは牛頭天王宮(ごずてんのうのみや)と呼ばれていたが、明治になって長野神社と改称されたとのことである。

『藤井寺市・伴林氏神社』

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 大阪府藤井寺市の林地区に鎮座する式内社「伴林氏(ともはやしのうじ)神社」の入り口社名標柱である。
 この神社は、近鉄南大阪線「土師(はじ)の里駅」の北西500mのところにある。

 土師の里は、古代、土師氏が本拠地としていた所で、駅の南にある道明寺は土師氏の氏寺として知られる。
 尚、土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を祖先とする士族で、後裔に菅原道真公を輩出している。

 土師の里駅から神社へ向かうが、駅のすぐ北に御陵がある。允恭天皇(いんぎょうてんのう)陵である。
 允恭天皇は仁徳天皇の子達の末弟で、兄は履中天皇、反正天皇である。
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 天皇陵から西へ5分ほど歩くと、冒頭標柱が建っている伴林氏神社の入り口に達する。
 神社境内は北側である。参道の先に鳥居が建っていてる。
 またその鳥居の左手前の石盤に神社の由緒書きがしたためられている。
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 由緒書きによると、神武東征の折、この地で大軍をまとめ、その先導役を務めた大伴連の祖先神である道臣命(みちのおみのみこと)、そしてその祖先の天押日命(あめのおしひのみこと)、その更に祖先である高御産巣日神(たかむすびのかみ)の三神を、のちこの地に住んだ後裔の大伴氏が、祖先を祀る神社として創建したのが伴林氏神社である。
 大伴氏は、万葉歌人として知られる大伴旅人、大伴家持なども輩出した家柄でもある。

 鳥居を潜ると正面は拝殿である。
 そしてその奥は本殿で、上記の三神が祀られている。
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 神社は、戦国時代には焼失したが、その後この地の人々により産土神として再建された。
 そして、昭和の時代になって、道臣命を祀る全国で唯一の神社であることから西の靖国神社とも称えられた。
 戦後は荒廃したが、氏子の努力により、神社は維持され現在に至っている。

『藤井寺市・辛国神社』

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 大阪府藤井寺市藤井寺に鎮座する式内社「辛国(からくに)神社」の社名標柱である。
 場所は近鉄南大阪線藤井寺駅の南200mのところで、神社地東側の参道入り口に上掲の標柱と木造一ノ鳥居が配されている。
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 長い参道を進むと途中に石造りの鳥居がある。
 この鳥居は、明治末に式内村社長野神社を合祀した時のもので、元禄十七年 牛頭天王の文字がある。
 そしてこの二ノ鳥居の先に拝殿が見える。
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 拝殿・本殿には物部氏の祖神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」、奈良春日大社から勧請した 「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」、明治時代に合祀された長野神社の祭神「素盞嗚命」、そして相殿に「品陀別命(ほんだわけのみこと)」、 「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」が祀られている。
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 辛国神社は今から1500年ほど前の雄略天皇の時代に、物部氏が祖神を祀ったのが創建と云われている。
 その後、室町時代に河内国守護の畠山基国がこの地に神社を遷座造営して、春日大社から天児屋根命を勧請したと云われている。

 拝本殿の右手には境内社の春日天満宮が祀られている。
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 本殿の両サイドには、動物の神画が描かれている。
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 辛国神社の南側200m程度のところに御陵がある。
 仲哀天皇陵に比定される岡ミサンザイ古墳である。
 そして御陵の東に、藤井寺市の生涯学習センター「アイセル シュラ ホール」である。
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『松原市・布忍神社』

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 大阪府松原市の近鉄南大阪線「布忍(ぬのせ)駅」の北西300m程度のところに鎮座する布忍神社の東南参道の鳥居である。
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 駅を出て北東方向の西除(にしよけ)川に架かる宮橋を渡ると、社地は北西方向に広がり、その入り口に冒頭の参道がある。
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 正面参道は西からである。
 神門を潜ると、注連縄柱、一対の狛犬、そして拝殿、大阪府指定の有形文化財の本殿が祀られている。
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 本殿には、速須佐男之尊(はやすさのおのみこと)、八重事代主之尊(やえことしろぬしのみこと)、建甕槌雄之尊(たてみかづちおのみこと)の3柱が祀られている。

 尚、布忍(ぬのせ)と云う名の起こりであるが、かつて2km北方の天見丘から、祭神を白布を敷いて迎えたので布忍と云うようになったと云う説、また、日本書紀には日本武尊の娘の「布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)」にかかわるとい説かある。

『羽曳野市・大津神社』

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 大阪府羽曳野市の高鷲に鎮座する式内社「大津神社」の正面鳥居である。
 
 大津神社は、渡来系氏族の津氏が先祖を祀った神社が創建である。
 津氏一族が朝廷に召されて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には大津神社はこ地域の丹下9ヶ村の氏神として崇敬され、素戔嗚尊と奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)、天日鷲命(あめのひわしのみこと)、大山咋命(おおやまくいのみこと)、菅原道真公を祭神とする神社となった。

 大津神社の最寄りは、近鉄南大阪線「高鷲駅」である。
 駅から南へ少し歩けば神社の冒頭の入り口に到達する。
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 参道を辿ると、右手に摂社の平和の社、そして弁天宮が祀られている。
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 正面には先ずは狛犬が祀られている
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 そして拝殿、覆屋に護られた本殿である。
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 他の境内社は、大宮戎社、大宮稲荷社である。
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 この大津神社、今日では、羽曳野市西部、南西部の広域の氏神として崇敬されている。

『羽曳野市・杜本神社』

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 大阪府羽曳野市駒ヶ谷の宮山に鎮座する「杜本(もりもと)神社」の参道入り口の石柱である。
 杜本神社は、延喜式に記載された式内社並名神大社「杜本神社」の論社で、経津主命(ふつぬしのみこと)とその妻の経津主姫命(ふつぬしのひめのみこと)を祭神としているが、平安初期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀(まつ)る神社であったと云われている。

 神社へは近鉄電車南大阪線の駒ヶ谷駅が最寄りである。
 駅から東進すると、この地を流れる飛鳥川に沿って古代の官道である竹ノ内街道が通っている。
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 駒ヶ谷の住宅街を進むと、趣のある民家が数多く見られる。
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 民家が連なる一角に冒頭の石柱が建ち、参道となる。
 参道の先は石段となり、一ノ鳥居が建っている。
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 鳥居の左手には、かつての神宮寺金剛輪寺(こんごうりんじ)の仏堂がある。
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 神社参道は右手の坂道である。
 社務所の前を通過すると二ノ鳥居を潜り、摂社が並ぶ境内へと達する。
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 一段と高いところに狛犬、拝殿、本殿が祀られている。
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 拝殿の右手前奥には若宮神社、その横に大楠公の首塚、そして手前に藤原長手公の墓が祀られている。
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 杜本神社は戦国時代、織田信長の高屋城攻めの兵火により焼失し、さらに豊臣秀吉のときには所領を没収されるなど衰退したが、江戸時代に再興されて現在に至っている。

『富田林市・錦織神社』

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 大阪府富田林市宮甲田町に鎮座する錦織(にしこおり)神社の参道入り口の大鳥居である。
 神社の創建は、本殿修理の際に発見された瓦の年代から、平安時代中期と云われる。

 神社のこの地は、かつて百済より織物の技術を持つ一族が渡来し住みついていたとされている。
 そしてこの神社は、その「錦部(にしごり)部」の氏神であったと云われる。

 鎌倉時代の末期に本殿、そして室町時代に本殿両側の摂社が建築され、これら3棟は国の重要文化財に指定されている。
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 神社参道は、冒頭の鳥居から100m以上も続く。
 参道の左手に、江戸末期に活躍した天誅組河内勢顕彰碑が建てられている。
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 参道の先は割拝式の拝殿である。
 そしてその先は本殿を祀る瑞垣である。
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 左に天神社本殿、中央に本殿、右に春日社本殿であり、主祭神として建速素戔嗚命、品陀別命、菅原道真が祀られている。
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 錦織神社の鎮座地は、近鉄電車川西駅の西方5分程度のところであり、付近からは西南方向にPLの塔が見える。
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『松原市・柴籬神社』

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 大阪府松原市上田町に鎮座する柴籬(しばがき)神社の正面神門である。
 神門の左手には、「反正(はんじょう)天皇柴籬宮阯」の石柱が建てられている。
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 その石柱の通り、この場所は「古事記」や「日本書紀」に書かれているように、5世紀の前半、大和王権が大和を離れ、この河内国において丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)を築き、反正天皇がこの宮にて即位したとされている。 
 そしてその後、この宮阯に仁賢天皇の勅命により、祭神を反正天皇(瑞歯別命:みずはわけのみこと)とする柴籬神社が創建されたものである。

 神社は近鉄南大阪線の河内松原駅の南側の近いところにある。
 南面している神門を潜ると石畳の参道となる。
 その先には鳥居、そして拝殿が祀られている。
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 拝殿の右手前には、珍しい歯神社、歯磨き面が祀られている。
 反正天皇の瑞歯別命に由来するもので、歯の健康を願うものである。
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 また参道の西脇には、井原西鶴の句碑が建てられている。
 句は、西鶴がこの神社を参詣した折のもので、境内に咲いていたムクゲの木を詠んだものとのことで、
      「柴籬宮 むくけうへてゆふ 柴垣の都哉」
 が彫られている。
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『新宿区・花園神社』

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 JR新宿駅東口のスタジオアルタの裏の通りを靖国通りと云うが、その通りを少し東に行ったところに花園神社の南側の参道口があり、鳥居と社名柱が建っていて、奥へと辿ると境内へと至る。
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 また、参道口の鳥居のすぐ後ろ側に金網に護られた一対の銅造の唐獅子像があり、新宿区の文化財に指定されている。
 さらに、少し進んだ参道脇にはかつての社名標柱である花園稲荷神社と書かれた石柱も建っている。
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 境内に出る参道の左手には宝物庫、右手には山車庫があり、その先、拝殿石段下へと出る。
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 石段の上には拝殿が祀られている。
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 拝殿には三種の扁額が掲げられている。
 これは、大鳥神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)、花園神社はお稲荷さんの倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、雷電神社は食物の神である受持神(うけもちのかみ)の三柱が主祭神であることを示している。
 そして拝殿の背後には本殿が祀られている。
 そして本殿の横裏は西側の参道石段である。
 その参道の向こうは、新宿コールデン街となっている。
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 境内に戻り、拝殿から正面入り口を望んだ左手に、古札と古熊手を納める納大明神、その背後に雷電稲荷神社の跡碑、そして石段を降りたところに神楽殿と社殿が並ぶ。
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 その先には成徳稲荷神社が境内社として祀られている。
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 成徳稲荷神社の参道を挟んだ向かい側は、長屋状の町会神輿庫がある。
 そしてその先は大鳥居である。
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 そして大鳥居と入り口の間に一対の狛犬が祀られ、神社標柱が建ち、明治通りとなる。
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 花園神社は、徳川家康が江戸に入った頃には既に存在していたと云われる。
 その鎮座地は現在の伊勢丹デパートのあたりであったと云われる。
 その後大名屋敷ができる中、現在の地に遷座し、花園稲荷神社と呼ばれた。
 
 そして明治になり花園神社と、大正期には花園稲荷神社と元に戻り、昭和40年に現在のコンクリート製の社殿を造営し、同時に末社であった大鳥神社を合祀して、花園神社と改名し、以降その社名が引き継がれている。

 正面の大鳥居の少し右手には、境内社の芸能浅間神社が鎮座する。
 芸能の守り神であり、芸能人の参拝奉納も多いと云われている。
 神社内には、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞碑も建てられている。
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 余談であるが、大鳥居の前の明治通りの向こう側に「花園万頭」の本店がある。
 花園万頭は、元々金沢にて天保年間に創業した石川屋本舗が原点である。

 明治時代に東京へ進出し、青山、赤坂へ出店したが工場火災などに遭い、困難の連続であったと云われる。
 負けてばかりいられない店主石川弥一郎氏は、昭和になってこの花園神社前に店舗を移し、「万頭と共に寝て、万頭と共に起きよ」を自ら実践し、試行錯誤の末に完成させた万頭に神社の名を、屋号も「花園万頭」としたとのことである。
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『新宿区・鎧神社』

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 北新宿に鎮座する鎧(よろい)神社は、珍しい社名である。
 鎧神社と云うからには鎧に関係ある神社であることは間違いがないのであろう。

 神社の由緒書を見てみると、日本武尊命の東征の折にその武具をこの地に埋めたことに起源すると云われている。

 更に関東に威を称えていた平将門公が下総にて没した時、将門を追ってきた藤原秀郷が重病となり、その原因が将門公の神霊であると恐れ、将門公の鎧をこの地に埋めて一祠を建立すると、病はたちまち癒えたとの伝承もある。

 鎧神社は、新宿区北部のJR大久保駅西の中央線の線路に近い北新宿に鎮座する。
 冒頭の正面鳥居を潜ると、先ずは左手に菅原道真公を祀る天神社がある。
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 そして参道に戻ると、両側には狛犬が祀られている。
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 その先は拝殿本殿である。
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 本殿には祭神として、日本武尊命、大巳貴命、少彦名命、平将門公が祀られている。

 そして境内右手には神楽殿、本殿左手には稲荷神社が祀られ、裏参道へと通じている鎧神社である。
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『武蔵国一之宮・秩父神社』

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 埼玉県西部の山間部の秩父市に鎮座する秩父神社の大鳥居である。
 鳥居の前には左右2体の狛犬が神社を護っている。
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 一之宮である秩父神社の創建は、紀元前の崇神天皇の時代に、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の子孫である知知夫彦命が、祖神を祀ったことに始まる。
 そして、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っている一之宮神社である。
 
 主祭神は、上記の2神の他に、鎌倉時代に合祀された天之御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、そして昭和天皇の弟君の秩父宮雍仁(やすひと)親王の4柱である。

 神社へは西武鉄道秩父駅や秩父鉄道御花畑駅から西へと向かい、石畳の参道を北へと辿った突き当りが冒頭の大鳥居である。
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 大鳥居を潜ると左手には神楽殿がある。
 神楽殿には衣料の虫干であろうか? カラフルに並べられている。
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 また右手には平成殿、そして正面に神門がある。
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 神門の正面は拝殿である。
 そしてその先に本殿が祀られている。
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 本拝殿の周りには見事な彫刻が施されている。
 先ずは正面の「子育ての虎」、右側面の「つなぎの龍」、どちらも名工左甚五郎の作と云われる。
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 そして、左側面の「お元気三猿」、背面の「北辰の梟」である。
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 また、境内の裏手の回廊状は天神地祇社で、全国一之宮の神々とそれに準ずる神々が祀られている。
 そして左手前には伊勢神宮外宮の豊受大御神、右手前には内宮の天照大御神が祀られている。
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 その他にも多数の境内社がある。
 境内右手には、東照宮、天満天神社、禍津日神(まがつひのかみ)が祀られている。
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 境内左手には、ははそ稲荷神社、諏訪神社と御柱が祀られている。
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 更には、素戔嗚尊を祀る日御碕宮、そして倒壊した灯篭も並べられている。
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 神社の西側の玉垣の外は、ははそ通りと云う。
 その通りに面して三峰神社が祀られている。
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『埼玉県・秩父の街並み』

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 埼玉県西部の山間部に位置する秩父は、古くから大宮郷・大宮町と呼ばれ、山間の門前町、市場町、宿場町として発展し、江戸時代には行田に藩庁を置く忍(おし)藩領地であり、陣屋がおかれていた。
 そしてこの大宮郷の町場の形成は絹取引とともに栄えた。
 特に、明治中期から昭和初期にかけては「秩父銘仙」として、秩父の絹織物が全国的な人気を博し、この時代に建築された建物は、現在でもカフェや飲食店などとして往時の姿そのままに残されていて、登録有形文化財に指定されている建物が数多くある。

 秩父へは、西武鉄道の池袋線・秩父線で行くことができる。
 また、新幹線の熊谷駅から秩父鉄道で行くこともできる。
 街の中心駅はそれぞれ西武秩父駅、御花畑駅である。
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 駅の近くには、秩父市役所、また秩父札所の一つである慈眼寺がある。
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 秩父の街の街中のメイン通りは秩父神社への参道である石畳の番場通りである。
 この通りには洋館風の建物がいくつかある。
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 そして注連縄が飾られた天保年間に建設された社家薗田家の前を過ぎると秩父神社の大鳥居に達する。
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 参道から西の通りまでの間に、諏訪さんが祀られ、その場所から、和風、洋風の建物が並んでいるのが見える。
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 お諏訪さんのすぐ西は黒門通りである。
 登録有形文化財の家屋が並んでいる。
 冒頭の写真もこの黒門通りの風景である。
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 更に西は買継商通りがある。
 買継商とは、絹織物を全国の問屋へ出荷する仲買商の店のことである。
 染めた糸を高いところに並べてた店があり、その雰囲気を盛り上げている。
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 もう一本西の道は広い自動車道であり、本町という交差点がある。
 その交差点にある「ちちぶふるさと館」は大正時代の銘仙問屋の主屋である。
 またその南には、引き家の文化財の建物もある。
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 更にその南にいくつかの商店がある。
 新しいのやら古いのやら…、それぞれに伝統を守っている。
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 他にも伝統的な建物があるとのことであるが、探索はここまでとする。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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