『新宿区・花園神社』
JR新宿駅東口のスタジオアルタの裏の通りを靖国通りと云うが、その通りを少し東に行ったところに花園神社の南側の参道口があり、鳥居と社名柱が建っていて、奥へと辿ると境内へと至る。
また、参道口の鳥居のすぐ後ろ側に金網に護られた一対の銅造の唐獅子像があり、新宿区の文化財に指定されている。
さらに、少し進んだ参道脇にはかつての社名標柱である花園稲荷神社と書かれた石柱も建っている。
境内に出る参道の左手には宝物庫、右手には山車庫があり、その先、拝殿石段下へと出る。
石段の上には拝殿が祀られている。
拝殿には三種の扁額が掲げられている。
これは、大鳥神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)、花園神社はお稲荷さんの倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、雷電神社は食物の神である受持神(うけもちのかみ)の三柱が主祭神であることを示している。
そして拝殿の背後には本殿が祀られている。
そして本殿の横裏は西側の参道石段である。
その参道の向こうは、新宿コールデン街となっている。
境内に戻り、拝殿から正面入り口を望んだ左手に、古札と古熊手を納める納大明神、その背後に雷電稲荷神社の跡碑、そして石段を降りたところに神楽殿と社殿が並ぶ。
その先には成徳稲荷神社が境内社として祀られている。
成徳稲荷神社の参道を挟んだ向かい側は、長屋状の町会神輿庫がある。
そしてその先は大鳥居である。
そして大鳥居と入り口の間に一対の狛犬が祀られ、神社標柱が建ち、明治通りとなる。
花園神社は、徳川家康が江戸に入った頃には既に存在していたと云われる。
その鎮座地は現在の伊勢丹デパートのあたりであったと云われる。
その後大名屋敷ができる中、現在の地に遷座し、花園稲荷神社と呼ばれた。
そして明治になり花園神社と、大正期には花園稲荷神社と元に戻り、昭和40年に現在のコンクリート製の社殿を造営し、同時に末社であった大鳥神社を合祀して、花園神社と改名し、以降その社名が引き継がれている。
正面の大鳥居の少し右手には、境内社の芸能浅間神社が鎮座する。
芸能の守り神であり、芸能人の参拝奉納も多いと云われている。
神社内には、藤圭子の「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞碑も建てられている。
余談であるが、大鳥居の前の明治通りの向こう側に「花園万頭」の本店がある。
花園万頭は、元々金沢にて天保年間に創業した石川屋本舗が原点である。
明治時代に東京へ進出し、青山、赤坂へ出店したが工場火災などに遭い、困難の連続であったと云われる。
負けてばかりいられない店主石川弥一郎氏は、昭和になってこの花園神社前に店舗を移し、「万頭と共に寝て、万頭と共に起きよ」を自ら実践し、試行錯誤の末に完成させた万頭に神社の名を、屋号も「花園万頭」としたとのことである。