京阪電鉄本線 野江駅:野江水神社への訪問
関西の鉄道駅で思い付きの気ままな途中下車をして、近隣のミニ探索を実施している。
今回は、大阪市城東区の「京阪電鉄本線」の「野江駅」で下車し、駅の西方向に鎮座する「野江水(のえすい)神社」を訪ねることにしている。
「野江駅」で下車する。
駅ホームは地上で、通過線2本を挟む2面2線の相対式である。
そして、駅の西口より出る。
西方向へと進む。
少しの西方向に「JR野江駅」がある。
駅を潜り、線路沿いに北方向へと進む。
少し広い道路と交差する。
これを西方向へと進むと、右手に神社の鳥居が見えて来る。
「野江水神社」の社頭である。
社頭には「鳥居」、「社号柱」が建ち、右手には、明治の淀川洪水の際に流されて、この地に漂着したとされる「水流地蔵尊」と「白杉大明神」が祀られている。
「鳥居」を潜ると、右手に「御神水」の井戸と「手水舎」が祀られ、そして参道の正面は「拝殿」である。
正面の「拝殿」には手前両側に一対の「狛犬」が祀られている。
「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
祭神は、「 水波女大神」とされている。
この神社は、「応仁の乱」で知られる「細川晴元」の家臣の「三好政長」が水害の多いこの地に「榎並城」を築城した時、その際、城を水害から護るために、城内に水神である「水波女大神」を祀ったのが始まりとされている。
その後、「大坂城」を築城した「豊臣」秀吉が、水火除難の守護神として当社を篤く崇敬して社殿を修築したとされる。
また、その後、度々の水害に襲われたが、難を免れた。
しかし、明治の淀川大洪水にて倒壊し、再建されたとされる。
そして、大阪大空襲では、この野江地区の辺りはその被害を逃れたとのことでもある。
「本殿」の左手に境内社が祀られている。
「野江稲荷大明神」である。
神社の北隣には「榎並小学校」がある。
グラウンドに裏門があるが、そこに「榎並城跡伝承地」「榎並猿楽発祥の地」の石碑が建てられている。
「榎並猿楽」は「丹波猿楽」の新座として隆盛したが、「応仁の乱」の影響を受けたこともあり、「大和猿楽」の観世に譲り渡したとされている。
そしてこの地点で、「野江駅」を下車しての、「野江水神社」とその近隣のミニ探索を終了したのであった。
今回は、大阪市城東区の「京阪電鉄本線」の「野江駅」で下車し、駅の西方向に鎮座する「野江水(のえすい)神社」を訪ねることにしている。
「野江駅」で下車する。
駅ホームは地上で、通過線2本を挟む2面2線の相対式である。
そして、駅の西口より出る。
西方向へと進む。
少しの西方向に「JR野江駅」がある。
駅を潜り、線路沿いに北方向へと進む。
少し広い道路と交差する。
これを西方向へと進むと、右手に神社の鳥居が見えて来る。
「野江水神社」の社頭である。
社頭には「鳥居」、「社号柱」が建ち、右手には、明治の淀川洪水の際に流されて、この地に漂着したとされる「水流地蔵尊」と「白杉大明神」が祀られている。
「鳥居」を潜ると、右手に「御神水」の井戸と「手水舎」が祀られ、そして参道の正面は「拝殿」である。
正面の「拝殿」には手前両側に一対の「狛犬」が祀られている。
「拝殿」の背後には「本殿」が祀られている。
祭神は、「 水波女大神」とされている。
この神社は、「応仁の乱」で知られる「細川晴元」の家臣の「三好政長」が水害の多いこの地に「榎並城」を築城した時、その際、城を水害から護るために、城内に水神である「水波女大神」を祀ったのが始まりとされている。
その後、「大坂城」を築城した「豊臣」秀吉が、水火除難の守護神として当社を篤く崇敬して社殿を修築したとされる。
また、その後、度々の水害に襲われたが、難を免れた。
しかし、明治の淀川大洪水にて倒壊し、再建されたとされる。
そして、大阪大空襲では、この野江地区の辺りはその被害を逃れたとのことでもある。
「本殿」の左手に境内社が祀られている。
「野江稲荷大明神」である。
神社の北隣には「榎並小学校」がある。
グラウンドに裏門があるが、そこに「榎並城跡伝承地」「榎並猿楽発祥の地」の石碑が建てられている。
「榎並猿楽」は「丹波猿楽」の新座として隆盛したが、「応仁の乱」の影響を受けたこともあり、「大和猿楽」の観世に譲り渡したとされている。
そしてこの地点で、「野江駅」を下車しての、「野江水神社」とその近隣のミニ探索を終了したのであった。