当初、新政府の仕事をしていた五代友厚は、慶応4年に大阪勤務となり住居を大阪に移した。
3年間は居を転々としていたが、明治4年に四つ橋筋に面した現「靭(うつぼ)公園」の東北角、写真の右手の科学技術センターのところに居を構え、約13年間過ごし、その後中之島の現日本銀行大阪支店の所に引っ越したのであった。
この居宅には、大阪会議の時に盟友である大久保利通が泊まり込み、作戦会議はもちろんのこと、囲碁などを楽しんだと云われる。
自宅から北へ、土佐堀川と堂島川を渡った西の現在のNTTテレパークの南端に「五代友厚精藍所 西朝陽館跡」の石碑がある。
国産藍が舶来のインジゴーに制圧されるのを憂え、300人規模の精藍工場を建設したところである。
しかし事業は上手行かず、数年で廃業したと云われる。
この西朝陽館にも明治天皇が行幸したとの碑も建っている。
この西朝陽館跡から堂島川縁を西へ進み、2つ目の橋の玉江橋を中之島側へ渡り返したところの右手が大阪製銅会社の跡であるが、遺跡碑はなどは見つからない。
今度は堂島川の左岸を東へと進む。
大阪大学の中之島キャンパス前、そして朝日新聞のツインのフェスティバルタワーを過ぎると日本銀行大阪支店に近付く。
そこに堂島川に架かる歩行者専用橋のガーデンブリッジが架かっているので、それを堂島側に渡ると橋の袂に「堂島米市場跡」の碑がある。
江戸時代の大坂は、諸藩の蔵が100程度もあり、現地から送られてくる年貢米の売買取引が行われ、その実権者は淀屋であった。
明治になって、これも叶わなくなったが、五代達は米取引所の再開を目指し、米会所を開設し、そして米商会所会社を設立している。
橋を渡り返し日本銀行大阪支店前へと行く。
この場所に五代友厚の邸宅があった。靭の邸宅から移転したものである。
しかながら五代は、この邸宅に一年間も住むことはなく、東京にて糖尿病が原因で49歳にて帰らぬ人になったと云われている。
尚、この邸宅の近くには、五代達が開発した鉱山を管理・運用するための弘成館があったとのことでもある。
日本銀行の向いは御堂筋を挟んで大阪市役所である。
その後ろは大阪府立の図書館で、更に後ろは中之島公会堂である。
その公会堂の南西隅に「大阪通商会社 為替会社跡」の碑がある。
明治政府は、江戸時代に各藩が行っていた外国貿易や・商品流通を国家主導にすべく、東京大阪など開港場に通商司を設置した。
大阪では五代が豪商達に為替会社や通商会社の設立を働きかけ設立となったものである。
為替会社は今で云う銀行業務を、通商会社は交易管理や商社統括などを行った。
しかし、通商司が廃止されると衰退し、解散を余儀なくされたのであった。