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『宇治市・許波多神社(木幡)』

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 京都府宇治市木幡に鎮座する式内社「許波多(こわた)神社」の社頭である。
 宇治には許波多神社が2社鎮座し、こちらの神社はJR木幡駅と京阪電車の木幡駅の中間辺りの少し北にある。
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 鳥居を潜ると参道が社叢へと向かう。
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 参道が折れ曲がる右手には、「狐塚」と呼ばれる宇治陵が祀られている。
 藤原基経の墓と伝えられている。
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 宇治陵の向かいは2ノ鳥居である。
 鳥居を潜ると正面に舞台状の拝殿がある。
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 その向こうは本殿の拝所と本殿である。
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 本殿には、元々の祭神の天忍穂耳尊、田中神社の合祀による天照大御神、天津日子根命が祀られている。
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 尚、社伝によると古代大化の頃、皇極天皇が夢で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、藤原鎌足公に命じ木幡荘に社殿を造営させたと云われる。
 その後、壬申の乱の時、大海人皇子が近江宮から吉野に向かう際、社頭に柳の枝を挿して戦勝を祈願したと云われる。

 境内社として、毘沙門天石碑、春日神社、天照皇大神宮、八幡宮、愛宕・稲荷・市杵島神社が祀られている。
 また、境内には大楠の木があり、宇治名木百選に指定されている。
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『宇治市・縣神社』

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 京都府宇治市に鎮座する「縣(あがた)神社」の社頭である。
 場所は、世界遺産「平等院」の西で。一ノ鳥居は北の宇治橋の袂にある。
    (下図の左手が北である)
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 宇治橋から参道が南へと延びる。
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 参道の途中には、元宇治橋にあった橋姫神社が鎮座している。
 橋姫と云われる瀬織津姫(せおりつひめ)を祀り、宇治橋を守る神社である。
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 参道を進むと、左手に縣神社の西入り口の鳥居がある。
 そして神社の玉垣に沿って東へと折れると冒頭の正面の鳥居となる。
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 正面の鳥居を潜ると、その正面は拝殿であるが、その前には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿・本殿となる。
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 本殿の祭神は富士山浅間神社などに祀られる「木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」である。

 尚、縣神社は創建は古代で大和政権に関わる神社とされているが確証はない。
 平安時代には、藤原道長の別荘として造営された平等院の鎮守とされている。
 そして江戸時代を通して、近江の三井寺の管轄とされてきている。

 また拝殿前には左手に木の花桜、右手手前に椋木が植えられている。
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 境内社として、東位稲荷大神、天満社、梵天奉納所(ぼんてんほうのうしょ)が祀られている。
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 また神社社頭の鳥居の右手に大幣殿(たいへいでん)が祀られている。
 「疫病」を祓い宇治川に流す「大幣」を収める場所である。
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 元の一ノ鳥居、宇治橋の所まで戻り、南西に延びる商店街を辿ると、そこにはお茶の上林記念館がある。
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 家康の家来であった初代上林家の4男上林竹庵は、関ケ原役に際して、家康の恩に報いるために伏見城に籠って鳥居元忠らとともに奮戦し、城内にて戦死した。
 以降徳川家は上林家を重用し、お茶壷道などへと繋がったと云われている。

『和歌山市・竈山神社』

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 和歌山市和田に鎮座する式内社かつ旧官幣大社「竈山(かまやま)神社」の社頭の標柱と鳥居である。
 和歌山市では、この竈山神社と一之宮の2社の日前宮(にちぜんぐう)、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)を合わせて、3社参りとして知られる神社である。

 竈山神社の鳥居を潜ると、真っ直ぐな参道が北へと延びている。
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 そしてその参道の右手には神池と剣橋、左手には地域の子供たちのために少年野球場が開設されている。
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 そして参道には、狛犬や灯篭も配されている。
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 参道の突き当りは神門である。
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 神門の先、境内には正面に拝殿、本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は神武天皇の長兄の「彦五瀬命(ひこいつせのみこと)」である。
 彦五瀬命は、神武東征に先頭を切って孔舎衛坂(くさえざか)で長髄彦の軍と戦ったが負傷し、紀伊半島の外周に沿って迂回を試み紀伊国までたど着いたが、怪我が悪化し、この地で没し葬られたものである。
 その墓は古墳「竈山墓(かまやまのはか)」と云われ、本殿の背後に祀られている。

 本殿の瑞垣の外には、境内社3社(合祀社、結社、子安社)や、他の社殿が祀られている。
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『西宮市・越木岩神社』

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 兵庫県西宮市甑岩町に鎮座する「越木岩神社」の社頭である。
 越木岩神社は、延喜式神名帳記載の式内社「大国主西神社」の論社である。
 
 神社は、西宮の町の北部丘陵地帯、夙川右岸の兵庫県指定の天然記念物の社叢にある。
 神社へは阪急甲東園駅が最寄りで、一旦、夙川縁まで降り、越木岩橋を渡り、住宅街の中を登り、暫く行くと冒頭の社頭(下図の最下部)に達する。
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 大鳥居を潜ると、参道が北へと続く。
 右手に赤ちゃんの泣き相撲を催す土俵もある。
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 更に石段を登ると拝殿本殿である。
 本殿には蛭児(ひるこ)大神、即ち戎神が祀られている。
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 蛭児大人は、江戸時代の初期、本殿の祭神は西宮神社から勧請されたものである。

 しかし元々は、本殿の裏にある「甑岩」などからなるの磐座を祀ったもので、古代からの自然崇拝の神社であった。
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 またこの辺りは、御影石の産地としても知られる。
 徳川大阪城修築の際に各大名に普請が要求された。
 その時の石垣の残石が残されている。
 左側、鍋島信濃守勝茂、右側、池田備中守長幸の刻印がみられる。 
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 境内には稲荷社他、幾つかの境内社が祀られている。
 また、裏参道も設けられている越木岩神社である。
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『吹田市・伊射奈岐神社(山田)』

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 大阪府吹田市山田東の千里丘陵の一角に鎮座する式内社「伊射奈岐神社」の参道入り口の鳥居である。
 鳥居を潜り、山田川に架かる朱塗りの神橋を渡ると、その先は一直線の参道である。
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 その先、参道は石段となる。
 石段を登り詰めるとその正面は、拝殿・本殿である。
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 本殿の主祭神は伊射奈美命(いざなみのみこと)、相殿には4神が祀られている。
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 この神社は、雄略天皇の時代に、伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命が五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国に求め、ついにこの山田の地に祀ったと云われる。
 また山田という地名が、伊勢山田から名を移したものであるとも伝えられている。
 この神社は俗に姫神社とも云われ、江戸時代には五社宮とも称されている。

 拝殿の隣には御祓所がある。
 そして御祓所には一対の武者像も祀られている。
 また境内社として、重守大明神が祀られている。
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 伊射奈岐神社への最寄り駅は阪急電鉄千里線の山田駅であるが、歩くとかなり遠い。
 幸いにバス便があるので、利用するのが賢明である。
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 尚、延喜式神名帳には、島下郡の条に「伊射奈岐神社」が二座となっている。
 もう一社は佐井寺に鎮座する「伊射奈岐神社」である。

『大阪市・サムハラ神社』

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 大阪市西区立売堀(いたちぼり)に鎮座するサムハラ神社の裏参道口である。
 サムハラの正式文字はこの写真のごとくであるが、パソコンでは該当する漢字が拾えないので、カタカナ表記とする。

 神社正面の社頭には、標柱、鳥居が祀られている。
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 鳥居を潜ると正面が拝殿である。
 そして背後に本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)の3神である。
 この3神を総称してサムハラ神と云う。

 神社の創建は昭和10年で、田中富三郎の手により、岡山の津山市加茂というところに建てられたと云われる。
 しかし特高から撤去を求められ、戦後になって、大阪市中之島の豊国神社の隣に再建され、その後、現在地に遷宮されたものである。

 サムハラ神社は、無傷無病、延命長寿の神として知られる。
 サムハラとは、不思議の4文字で、身を守ると言われている。
 神社のお守り指輪は大人気で、品切れ状態であるといわれる。

 神社社頭の玉垣には、女優浜木綿子が舞台で事故に遭遇したが、無傷だったのはサムハラ神社のお守りのお陰との記述、さらに、総理大臣宇野宗佑に関する祈願文などが掲げられている。
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 神社の北隣には、大阪府警の第一方面機動警ら隊の基地がある。
 そして、道路を挟んで、どてらい男の「もーやん」のモデル会社であり、以前は工具会社、現在はジェネリック家電会社である「(株)山善」の本社もある。
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 尚、蛇足であるが、立売堀(いたちぼり)とは、大坂の陣の時、仙台藩の伊達氏が陣を築いたことから、イダチ堀と云われ、その後材木の立売りの場所とされたことから、読みは「いたち」、漢字は「立売」とされて、現在に至っている。

『大阪の恩人五代友厚の軌跡・阿倍野墓地』

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 明治18年1月に中之島の現日本銀行大阪支店の地に居宅を構えた五代友厚は、8月東京にて病に倒れ、療養生活を余儀なくされたが、9月25日に帰らぬ人となってしまった。

 五代の棺は横浜から船で神戸まで運ばれ、神戸から大阪まで鉄道で運ばれ、自宅で盛大な葬儀が行われた。
 その参列者は4000人以上と云われている。
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 そして葬送の列は大阪の街の真ん中を南へと向かう。
 淀屋橋を南へ渡り、心斎橋筋を南下、御堂筋を下り、五代が鉄材を集めて建設した高麗橋由来の高麗橋通りを東へ、そして堺筋を南下、阿倍野墓地へと向かったと云われる。
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               高麗橋(現在はコンクリート橋)

 阿倍野墓地の中央付近に、冒頭の墓がある。
 この鳥居は、鉱山管理会社「弘成会」の寄進である。
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 墓地から阿倍野筋を北に臨むと、日本一のビル「あべのハルカス」が五代友厚の墓所を見守り、「大阪は元気です。安心してお眠り下さい」と語っているようである。 
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                          (五代友厚の軌跡・完)

『大阪の恩人五代友厚の軌跡・北浜/天満/内本町』

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 中之島の公会堂から東へ行き、堂島川、土佐堀川の両川を跨いでいる難波橋、通称ライオン橋を南へ渡るとそこは北浜となり、大阪証券取引所がある。
 江戸時代の金相場会所にて大阪は金融取引の盛んなところであったが、それを引き継ぐような形で明治になって、五代や鴻池、三井、住友の発起により、株式取引所、後に証券取引所が設立されたものである。
 その五代の貢献を讃え、正面に五代友厚の像が建てられている。
 
 また、証券取引所から土佐堀通りを東へ進んだ左手の老舗料亭「花外楼(かがいろう)」の玄関に「大阪会議開催の地」の石碑が建てられている。
 五代や井上馨などの仲介により、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが我が国の立憲政治の在り方について議論や決め事をしたところである。
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 尚、この大阪会議の成功を記念して、木戸孝允が揮毫し、花外楼の名を贈り改名したもので、それまでは「加賀伊」と云う料亭であった。

 土佐堀通りを東へと進む。
 天神橋をやり過ごし天満橋を北へと渡り、天神橋筋商店街を北へと進むと、国道1号線である曽根崎通りへ出る。
 それを東へ進むと右手に造幣局の本館がある。
 その道を挟んだ北側に、旧造幣寮の「鋳造所正門」、そして造幣寮の応接所であった「泉布館」がある。
 両方とも国の重要文化財である。
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 造幣寮は、諸外国との交易が盛んになるにつれ日本の金銀通貨の質のバラツキが指摘されるようになったので、通貨を基準に基づいて製造するためのものである。
 五代友厚はイギリス商人トーマス・グラバーの仲介で、香港で遊休設備であった通貨製造機を英国政府から6万両と云う格安価格で購入し、この事業を始めたものである。 更に、五代は造幣寮に良質の金・銀を供給すべく金銀分析所なる会社を設立し、その収益を次の事業に生かしたとのことである。

 大川を天神橋で南へ渡り返し少し行った右手に高麗橋が東横堀川に架かっている。

 この橋は、大阪で最初の鉄橋で、設計は本木昌造、鉄材を集めたのは五代と云われている。
 橋の袂に、「里程元標跡」の石碑が建っている。
 大阪へ出入りする街道が集まる起点である。
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 東側の通りは松屋町筋である。
 少し下がった大阪城大手門へ向かう大手通との交差点の少し東へ行ったところに「大阪活版所跡」の石碑がある。
 五代が企画した英和辞典の活版印刷所を本木昌造に勧め、設立された跡地である。
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 松屋町筋に戻る。
 南へ進むとマイドーム大阪と云う展示場施設がある。
 その前に、五代とは関係ないと思われるが、西町奉行所跡碑や貿易専門学校、貿易館の跡碑がある。
 江戸時代と昭和時代の碑であるが、明治の初頭のこの地は初代大阪府庁が置かれた地で、その後大阪博物館となったところであり、五代友厚は大いに関係していると思われる。

 その南隣に大阪商工会議所がある。
 五代友厚が、大阪の商売の興隆を願い、信用第一主義を信条に設立した大阪商法会議所の後継である。
 五代はその初代の会頭を務めていて、その銅像が、以降の会頭像と共に会議所の脇に建てられている。
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 尚、大阪商工会議所の地は本町橋と云う。
 本町橋といえば、すぐ前の某公共放送の大河で、大坂冬の陣の時、城方の塙(ばん)団右衛門と云う武将が阿波から来ている蜂須賀隊を襲い、木札を撒く場面が仕立てられていたその場所である。 
 この団右衛門の支援に後藤又兵衛や真田幸村までもが加わっていたようであるが、どうなのであろうか?

『大阪の恩人五代友厚の軌跡・靭/堂島/中之島』

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 当初、新政府の仕事をしていた五代友厚は、慶応4年に大阪勤務となり住居を大阪に移した。
 3年間は居を転々としていたが、明治4年に四つ橋筋に面した現「靭(うつぼ)公園」の東北角、写真の右手の科学技術センターのところに居を構え、約13年間過ごし、その後中之島の現日本銀行大阪支店の所に引っ越したのであった。
 この居宅には、大阪会議の時に盟友である大久保利通が泊まり込み、作戦会議はもちろんのこと、囲碁などを楽しんだと云われる。

 自宅から北へ、土佐堀川と堂島川を渡った西の現在のNTTテレパークの南端に「五代友厚精藍所 西朝陽館跡」の石碑がある。
 国産藍が舶来のインジゴーに制圧されるのを憂え、300人規模の精藍工場を建設したところである。
 しかし事業は上手行かず、数年で廃業したと云われる。
 この西朝陽館にも明治天皇が行幸したとの碑も建っている。
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 この西朝陽館跡から堂島川縁を西へ進み、2つ目の橋の玉江橋を中之島側へ渡り返したところの右手が大阪製銅会社の跡であるが、遺跡碑はなどは見つからない。

 今度は堂島川の左岸を東へと進む。
 大阪大学の中之島キャンパス前、そして朝日新聞のツインのフェスティバルタワーを過ぎると日本銀行大阪支店に近付く。
 そこに堂島川に架かる歩行者専用橋のガーデンブリッジが架かっているので、それを堂島側に渡ると橋の袂に「堂島米市場跡」の碑がある。
 江戸時代の大坂は、諸藩の蔵が100程度もあり、現地から送られてくる年貢米の売買取引が行われ、その実権者は淀屋であった。

 明治になって、これも叶わなくなったが、五代達は米取引所の再開を目指し、米会所を開設し、そして米商会所会社を設立している。
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 橋を渡り返し日本銀行大阪支店前へと行く。
 この場所に五代友厚の邸宅があった。靭の邸宅から移転したものである。
 しかながら五代は、この邸宅に一年間も住むことはなく、東京にて糖尿病が原因で49歳にて帰らぬ人になったと云われている。
 尚、この邸宅の近くには、五代達が開発した鉱山を管理・運用するための弘成館があったとのことでもある。
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 日本銀行の向いは御堂筋を挟んで大阪市役所である。
 その後ろは大阪府立の図書館で、更に後ろは中之島公会堂である。
 その公会堂の南西隅に「大阪通商会社 為替会社跡」の碑がある。
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 明治政府は、江戸時代に各藩が行っていた外国貿易や・商品流通を国家主導にすべく、東京大阪など開港場に通商司を設置した。
 大阪では五代が豪商達に為替会社や通商会社の設立を働きかけ設立となったものである。
 為替会社は今で云う銀行業務を、通商会社は交易管理や商社統括などを行った。
 しかし、通商司が廃止されると衰退し、解散を余儀なくされたのであった。

『大阪の恩人五代友厚の軌跡・阿波座駅周辺』

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 幕末から明治維新の激動の時代において、大阪経済の再構築に大いに貢献した五代友厚は大阪の恩人の一人として知られている。
 昨年の某公共放送の朝ドラにおいて、主人公広岡浅子との関わりにおいては装飾があるものの、その活躍が描かれていたことは記憶に新しい。

 その五代友厚の大阪での活躍舞台は、大川、堂島川、土佐堀川、安治川、木津川のいわゆる大川筋であった。
 出身の薩摩藩の蔵屋敷があったことも大きいが、当時の商売の中心地で、大店が集中していた場所である。
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 今回はその活躍舞台の西部である「阿波座駅」周辺を探索してみる。

 阿波座駅の西側には、安治川、木津川がある。
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 上図は明治期の地図で、左側が北である。
 現在の阿波座駅は図の上方向(方向は東)にある。
 尚、上図の最上部に描かれている百間堀川は埋め立てられ今はない。

 阿波座駅から西方向を目指すと、先ずは木津川大橋を渡るが、その橋の手前にかつての大阪府庁の跡、そしてその跡に設立された大阪府立産業技術研究所があったが、現在は手前に津波・高潮ステーション、その奥に高層マンションが既に出来上がり、道路沿いに現在、病院が建設中である。
 木津川大橋の上から北を見ると、中之島の西端のランドマーク「NCB」の白い建物がよく見える。 
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 木津川大橋を渡ると川口というところである。
 安治川の河口という名づけである。
 尚、今でこそ新淀川が開削されているが、明治の時代には新淀川はなく、淀川の出口が安治川であった。
 
 橋を渡り、南へ少し下がると、国の登録有形文化財の川口基督教会がある。
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 教会の西の「みなと通り」との交差点に「川口居留地跡」の石柱と記念碑が建てられている。
 この川口は外国人の居留地として、多くの外国人が住むことになったところであり、教会も必要となったものであろう。
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 みなと通りを渡り、少し西へ行くと、安治川の左岸に出る。
 対岸の右岸は、大阪市の中央卸売市場の本場である。
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 下流に向かって少し歩いたところのフェンスと土手の間に3本の標柱が建っている。
 左から、「明治天皇聖躅(川口運上所跡、冨島外務局跡)」、「大阪開港の地」、「大阪電信発祥の地」である。
 運上所とは税関や外国事務を取り扱う役所で、五代友厚は大阪港開港時の所長を務めたことで知られている。
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 少し離れた処に、冨島天主堂跡碑がある。
 後ろの教会状の建物は川口聖マリア幼稚園とのことである。
 この辺りは、外国人の雑居地で、中国人日本人が雑居していたと云われ、中華料理店や理髪店が人気を博していたとのことである。
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 川口はここまでとし、今度は阿波座駅の東側へと行く。
 少し行くと、明治小学校がある。
 その南に阿波座南公園があり、その一角に「大阪商業講習所」の石碑がある。
 五代は、商業教育の必要性を説き、設立されたものである。
 現在の大阪市立大学や天王寺商業高校の前身である。
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『大阪駅・天空の農園』

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 JR大阪駅の駅ビルの一つのノースゲートビルの低層階の屋上に「天空の農園」がある。
 階数で云えば14階であるが、周りには倍ほどの高さのビルがあるので、ビルの谷間のような感覚でもある。

 天空の農園へは、大阪駅の電車発着のホームの上、5階の時空の広場へ行き、さらにエスカレーターで、11階の風の広場まで登る。
 風の広場から見上げる屋上が天空の農園である。
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 広場には登り口がある。
 11階であるので、階段を13階の屋上、すなわち14階まで登ることになる。
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 階段の側面には、植物プランターがはめ込まれていて、小さなカラフルな実を結んでいる。
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 屋上まで上がると、農園へのアプローチに今度はコスモスである。
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 コスモスの通りを過ぎると、冒頭の天空の農園入り口である。
 区割りsれた畑は、殆どの作物が白いネットでおおわれていて、わずかに黒豆などを見ることができるくらいである。
 やはり時節なのであろう。
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 その分代わり周辺の樹木が、実を付けている。
 カリンやアケビ類のムベである。
         IMG_6964.jpg  アケビ科ムベ

 天空の農園からは一か所だけ地上を見下ろすことができる。
 現在工事中の、梅田貨物駅の第二期工事の部分である。
 現在は土色がむき出しであるが、緑地へと変貌を遂げると聞いているが、さていつの頃になるのであろうか?
 待ち遠しい。
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『京都市・菅原道真の母』

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 京都市の北野天満宮の参道脇の寺院「東向(ひがいむかい)観音寺」の境内に祀られている菅原道真公の母の廟、「伴氏(ともうじ)廟」である。
 元々は北野天満宮の三ノ鳥居の西側に祀られていて、洛中洛外図などにも描かれているが、明治の廃仏毀釈の際に、この寺院に移されたものである。
 廟は石造五輪塔で、4メートルを超える巨大なものである。

 東向観音寺は洛陽三十三観音霊場三十一番で、真言宗泉涌寺派の準別格本山である。
 寺門を潜ると、正面に本堂、左側に行者堂、そしてその奥に伴氏廟が祀られている。
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 本堂に祀られている本尊は十一面観世音菩薩で、この像は道真公自作の尊像を筑紫の観世音寺より招来したものである。
 
 寺院境内には、白衣観世音、延命地蔵大菩薩も祀られている。
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 先に述べた北野天満宮の三ノ鳥居の西側には道真公の母を祀る「伴氏社」が鎮座する。
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 この神社の鳥居は変わっていて、京都三珍鳥居の一つに数えられている。
 何が「珍」かと云うと、額束(がくづか)が島木にめり込んでいること、そして下部の台座には蓮の花が刻まれているが、逆さであることである。
 この鳥居は鎌倉時代の造りで、重要文化財に指定されているとのことである。
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 いずれにせよ、菅公の母君は、北野天満宮の表参道の西側に祀られているのである。

『京都市・上七軒』

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 京都の六花街(かがい)の一、上七軒(かみひちけん)の紋章「五つ団子」である。
 
 上七軒は室町時代、北野天満宮の修復の際に残った用材で、神社の東側に七軒のお茶屋を建て、七軒茶屋と称したことに始まる。
 その後、秀吉の北野大茶会の折、名物の御手洗団子を太閤に献上し、大いに満足を得たとのことで、以来これを紋章としている。

 上七軒は場所柄、西陣との結びつきが強く、西陣の盛衰により左右されてきた。
 近年は、お茶屋10軒、芸妓、舞妓合わせて31名とのことで、飲食店舗も数多く並んでいる状況である。
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 北野天満宮の鳥居の東の横道を少し上ったところに上七軒歌舞練場がある。
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 歌舞練場そのものの全容は見えないが、周を回ってみる。
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 歌舞練場の東側の通りには、趣のある町屋商家がある。
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 また芸妓組合のオフィスもある。
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 北へ進むと、上七軒通である。
 お茶屋の他に多くの食事処が並ぶ石畳の通りである。
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 通りの途中には、上七軒の石柱も建っている。
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 通りを西へと進むと北野天満宮の東門へと到達する。
 振り返ると、「京都市 上京北野界わい景観整備地区」の標柱が建っていて、上七軒の入り口となっている。
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『陸奥国一之宮・八槻都都古和氣神社』

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 福島県東白川郡棚倉町八槻(やつき)字大宮に鎮座する式内社で陸奥国一之宮の「八槻都都古和氣神社」である。
 棚倉町には2社の一之宮があり、近くの石川町の一之宮と合わせれば3社となる。
 この3社は同名の「都都古和氣(つつこわけ)神社」であり、3社とも独立した神社として祀られているのは、極めて珍しい形である。

 社頭の鳥居を潜り、石畳の参道を進むと左手に、幹が2本の夫婦杉が縁結び・長寿の神として祀られ、その先に一対の狛犬が祀られている。
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 その先は随身門である。
 門には「奥州一宮」の扁額が掲げられている。
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 また門には、狛犬の彫刻が掲げられ、武者像も祀られている。
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 門を潜ると正面は拝殿である。
 拝殿前には菊が飾られ、「都々古和氣神社」の扁額が掲げられている。
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 その背後、瑞垣の中には本殿が祀られている。
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 本殿の主祭神は、先の馬場都都古和氣神社と同じで、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)、日本武尊である。

 本殿の周囲には境内社が祀られている。
 皇朝工祖神社、熊野神社、そして社名不明の1社である。
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 神苑には、灯篭の列、そして瓢箪池がある。
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 神苑から社殿を眺めると以下の様である。(いずれも右が本殿)
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 尚、地名「八槻(やつき)」と神社の謂れであるが、日本武尊が八溝山の「東夷」の大将を討った際、守護として示現した三神が建鉾山より箭(や)を放ち、箭の着いた場所を「箭津幾(やつき)」とし、都都古和氣神社を創建したとのことである。

『陸奥国一之宮・馬場都都古和氣神社』

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 福島県東白川郡棚倉町(たなぐらまち)棚倉に鎮座する式内社で陸奥国一之宮である「馬場都都古和氣(ばばつつこわけ)神社」の一ノ鳥居である。

 鳥居から見える奥の杜が鎮座地で、長い参道が続く。
 そして、杜の入り口には二ノ鳥居がある。
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 鳥居を潜り、参道石段を登ると随神門に到達する。
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 広い境内であるが、直進すると三ノ鳥居があり、垣の中に拝殿、本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと) 、そして相殿に日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られている。

 神社の創建は平安時代の初期で、元々は棚倉の街中の棚倉城跡に鎮座していたと云われる。
 そして、江戸時代の初期、丹羽長重が棚倉城を築城するに際して、現在地に遷座されたと云われている。

 境内社も数多く祀られている。
 先ずは、寅卯神社、甲山天満宮、稲荷神社である。
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 そして、厳島神社、鹿島神社、神明宮である。
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 更に本殿の裏にも境内社が祀られている。
 熊野神社、日枝神社、そして東照宮である。
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 東照宮の辺りまで来ると、丘の頂上状になっている。
 ここには馬場古墳があったとされている。
 
 尚、垣根の横には、神社供養塔である板碑が建てられている。
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 更に明治維新後にはこの神社の宮司に、会津藩家老西郷頼母が3年間就任したと云われている。

『陸奥国一之宮・石都々古和氣神社』

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 福島県石川郡石川町に鎮座する式内社、陸奥国一之宮の「石都々古和氣(いわつつこわけ)神社」の一ノ鳥居である。
 神社が鎮座する八幡山は、磐境が多数あり、古代から祭祀の地とされていて、大国主命の子で、穀物の神である味秬高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)を祀る神社があったと云われる。
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 神社へは冒頭の鳥居を潜り、長い参道石段を登る。
 鳥居脇には、県の文化財に指定されている一対の飛翔狛犬が祀られている。
 左側は雌獅子で、3頭の子獅子を抱えている。右は雄獅子である。
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 石段を登り詰めると、二ノ鳥居となり、緩やかな参道となる。
 参道左手には、天狗石、亀石、屏風岩がある。
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 その先は石門である。
 石門の先、右手には勾玉岩がある。
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 その先は再び参道石段であり、境内への鳥居がある。
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 正面は拝殿、その奥は覆屋を被った本殿である。
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 本殿には、味秬高彦根命の他に親の大国主命、京都石清水八幡宮から勧請されたと云われる誉田別命(ほんだわけのみこと)が祀られている。

 境内右手には、清楚な額殿、石の五重塔、そしてこの場所に城が築かれていたことから城跡碑も建てられている。
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 本殿の周囲には、境内社が祀られている。
 左から祖霊社、多賀神社、諏訪神社である。
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 社殿の周りも紅葉が始まっている。
 境内を後にして石段を降りると、途中から石川の町が良く見える。
 町は、JR水郡線の磐城石川駅にある。
 正面は、川を挟んで高校野球で有名な学法石川である。
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 一ノ鳥居まで戻り、再度八幡山を見返してみる。50m程度の比高である。
 鳥居の根元には、コムラサキシキブも綺麗に咲いていたのであった。
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『福島県・白河関跡』

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 福島県白河市の国の史跡に指定されている「白河関(しらかわのせき)跡」である。
 古代より、都から陸奥国へ至る関所は3ヵ所あったと云われる。
 日本海側の新潟と山形の県境にあった「鼠ヶ関(ねずがせき)」太平洋側の「勿来関(なこそのせき)」そしてこの白河関であり、奥州三関と云われる。

 この白河関は、古代より和歌の歌枕として知られ、多くの歌人に親しまれているが、江戸時代の松尾芭蕉の紀行「奥の細道」にて広く知られているようになったものである。

 白河関跡は、白河市の中心部から県道を南へ10数kmいったところの山間にある。
 関跡は小高い丘であるが、その南に白河関の森公園が整備され、レストランを始め、各種の施設が整備され、広い駐車場も完備されている。

 またその公園の正面に、芭蕉、曾良の奥の細道の旅姿の像が建てられ、白河の関を訪れた時の曾良の句が彫られている。
   「卯の花をかざしに関の晴着かな 曾良」である。
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 関跡へは、丘の麓を北西へと回り込む。
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 入り口には、「式内 白河神社」の社名柱や「おくのほそ道」と彫られた石柱が建っている。
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 入り口を奥へと進むと冒頭の風景となる。
 一対の狛犬は神社のものである。
 左手には趣のある手水舎、正面には注連縄が掛けられた鳥居がある。
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 白河関の芭蕉については、論議があったが、江戸時代、白河藩主、且つ寛政の改革で知られる老中、松平定信による文献考証の結果、この白河神社の場所を白河の関跡であるとされ、古関蹟碑が建てられたとのことである。
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 白河関跡の丘は概ね神社の境内である。
 鳥居を潜り参道石段を進む。
 途中左手に矢立の松の表示がある。
 源義経が平家討伐のために平泉を出立しこの白河関にて神社に戦勝祈願し、松の木に矢を射たとの言い伝えがある。
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 その先、一対の古色豊かな狛犬も祀られている。
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 丘を登り詰めると神社の社殿が並ぶ。
 拝殿本殿である。
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 本殿の祭神は、白河国造命(鹽伊乃己自直命、しおいのこじのあたいのみこと)、天太玉命(あめのふとたまのみこと)、 中筒男命、衣通姫命(そとおりひめのみこと)の4柱である。

 また幾つかの境内社が祀られている。
 先ずは本殿の両側に八雲神社、稲荷神社である。
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 そして、大山祇神社、連なる社の雷神社、若木神社、愛宕神社、神明神社、大山祇神社、熊野神社、天神神社である。
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 また境内には平安時代に、白河関を歌枕に詠われた古歌碑がある。
     「便りあらば いかで都へ告げやらむ 今日白河の関はこえぬと 平兼盛(拾遺和歌集)」
     「都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞふく白河の関 能因法師(後拾遺和歌集)」
     「秋風に 草木の露をはらわせて 君が越ゆれば関守もなし 梶原景季(吾妻鏡)」
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 また、神社の外周に堀切や土塁の看板がある。
 これらは侵入する敵から守るための造りであり、この神社の地には、軍事部隊が駐留していた所謂「城」であったのであろうか?
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『福島県・石川城跡』

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 福島県石川郡石川町下泉、阿武隈川の支流今出川 の西岸に張り出した八幡山(比高50m)に築かれた平山城「石川城」別名「三芦(みよし)城」本郭跡の標柱である。
 
 平安時代末期、前九年の役にて功があった奥州石川氏の祖の源有光が奥州仙道(中通り)の地を賜り、築城したものと云われている。
 本郭跡は、山頂にあるが、そこは陸奥一之宮「石都都古別(いわつつこわけ)神社」の境内であり、神社参拝と同時に城跡の見学をすることができる。

 神社・城跡へは川沿いの参道石段を登る。
 登り詰めると、石門がある。
 神社の鳥居兼城の本郭虎口である。
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 神社の境内はそう広くはない。
 そして境内・本郭には土塁が設けていたのが見られる。
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 境内の中には冒頭の標柱が立てられ、その付近に狼煙台跡、見張台跡がある。
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 石川城は概ね、本郭と西館で構成されていた。
 神社境内の本郭を離れ、西館方向へ向かう。
 途中、かえでの紅葉が見られるのも季節である。
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 本郭の下から、本郭を眺めると、高台となっていることが分かる。
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 西館との間に大きな堀切がある。
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 堀切を過ぎると、西館である。
 大規模ではないが、少しの高台の削平地である。
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 他にも曲輪跡が見られるが、探索はこの程度にして、神社の参道を降りる。
 参道石段の途中から、石川の街並みが眺められる。
 右奥の学校は、高校野球でよく知られている「学法石川」である。
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 尚、石川城は豊臣秀吉の奥州仕置にて、石川氏が改易処分となった際に廃城になったと云われている。


『福島県・棚倉城跡』

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 福島県東白川郡棚倉町(たなぐらまち)の中央にある棚倉城(亀ヶ城)跡の案内図である。
 現在は内濠とその内部の土塁とそれに囲まれた本丸跡地がほぼ完全な形で残っている。

 城跡へは南の内濠と東の内濠の間から入城する。
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 濠に造られた土橋を渡ると追手桝形となる。
 亀ヶ城址との石標が建てられている。
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 桝形の右手にはは土塁に囲まれた本丸跡が広がる。
 この本丸土塁は強固なもので、築城以来数百年経過しているが、そのままの形を維持しているとのことで、その土木技術が高く評価される。
 土塁に上がり、周回してみる。
 西側の内濠も見える。
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 北側からもう一度本丸跡を俯瞰する。
 そして、土塁の濠側斜面に遊歩道が造られているのでそれを辿ってみるが、道はしっかりとしていることがよく分かる。
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 また、紅葉も楽しむことができる。
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 本丸土塁を一周して、もとの追手口に戻ると、そこには樹齢600年の大ケヤキが見事である。
 こぶの周囲は9mもあるとのことである。
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 棚倉城は江戸時代、将軍秀忠の命にて、棚倉藩主に指名された丹羽長重が築城したものである。
 この場所には近津神社が鎮座していたが、北西方向の丘に遷座させての築城である。
 
 長重は築城後、白河藩10万石へと移封され小峰城を改修した。
 棚倉藩は、その後は譜代の大名が入れ替わり立ち代わり、江戸末期まで治めたとのことである。

 しかし、戊辰戦争で、板垣退助の軍に攻められ、城郭は焼失したと云う経緯を辿っている。

『福島県白河市・小峰城』

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 福島県白河市のJR東北本線白河駅の北、その北の阿武隈川の南にある「小峰城」である。
 この城は南北朝の頃、鎌倉幕府倒幕で功をなした結城親朝(ちかとも)が建武の新政で奥州白河の地を与えられて、小峰城を築城したと云われる。
 小峰城は奥州への入り口の白河の関の北側にあり、奥州の関門の城であった。

 その後、豊臣時代になって結城氏は改易され、蒲生氏、上杉氏、再び蒲生氏が治めるところとなったが、江戸時代になって、丹羽長重が城主となり、3年間かけて改修したと云われる。
 その後、親藩の大名が順次城主となったとの経緯がある。

 江戸末期の戊辰戦争で奥州側の拠点となったが、迫りくる薩長軍に建物はことごとく焼かれたと云われる。

 平成の時代になって、天守にあたる御三階櫓などが再建された。
 その結果、当時の雰囲気は出たが、5年前の東北大震災により石垣が10ヵ所、7000個に渡って崩れ、現在は修復中である。

 先ずは、御三階櫓と云われる三重櫓である。
 三重櫓は本丸の隅に建っているが、その本丸の石垣も大きく崩れた。
 現在までにその南面の修復が完了している。
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 南西面はまだ手付かずであり、石垣を保護した状態のままである。
 その横に本丸の周りの濠が見える。
 土塁や濠には地震の影響は少ないようである。
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 本丸の南は二ノ丸である。
 二ノ丸茶屋が建てられている。
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 二ノ丸の濠の外の西側に集古苑と云うのがある。
 築城主の結城氏や最後の城主の阿部氏に関する資料が展示されているところである。
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 尚、小峰城は国の史跡に指定され、日本100名城の一つでもある。

『大津市・近江神宮』

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 滋賀県大津市神宮町に鎮座し、昭和15年に祀紀され、天智天皇を祀る近江神宮である。

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 神社へは京阪電車坂本線の近江神宮前駅から、北にある参道の神宮道へ出て、西へと進むと冒頭の一ノ鳥居へと到達する。
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 参道は木立の中を進む。
 石段が設けられ、それを登ると二ノ鳥居を潜る。
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 参道は右へと曲がり、少し行くと石段の上に楼門が聳えている。
 そしてその先が境内である。
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 正面には、石段の上に外拝殿、そして内拝殿、本殿と並んでいる。
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 天智天皇は漏刻を宮殿に設置したことで良く知られている。
 神社境内左には、その漏刻の再現がなされている。
 銘板を見ると、スイスのオメガ社からの寄贈であるとのことである。
 また、その前には日時計も設けられている。
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 駅への帰り道は、京阪電車線路の西側を通る。
 その辺りは天智天皇が遷宮した大津京の跡地である。
 部分的にしか残っていないが、都の跡を訪れた柿本人麻呂の歌碑が設置されている。
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 大津京は、良く知られるように、天智天皇亡き後の、百済系であり天皇の子である大友皇子と、新羅系の天皇の弟である大海人皇子(天武天皇)との代理戦争のような壬申の乱で焼失してしまっている。

 尚、近江神宮では、小倉百人一首の一番目の歌を詠じた天智天皇に因み、毎年正月に、かるた選手権が開催されている。

『近江国・天孫神社』

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 滋賀県大津市京町に鎮座する近江国四ノ宮の「天孫神社」の社頭である。
 場所は、JR大津駅の琵琶湖側で、県庁と旧東海道との間にある。
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 鳥居を潜ると、正面に舞殿、拝殿と続く。
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 その背後は本殿である。
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 本殿には、彦火々出見命( ひこほほでのみこと )、大名牟遅命 (おおなむちのみこと )、国常立命( くにとこたちのみこと )、帯中津日子命( たらしなかつひこのみこと)の4柱が祀られている。

 この神社は、国の重要無形民俗文化財に指定され、絢爛豪華な曳山で知られる大津まつりの元宮である。
 拝殿から舞殿を振り返ると、大津まつりの曳山を模した飾りがなされている。
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 境内には幾つかの社が祀られている。
 福富稲荷、他である。
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 神社の北の旧東海道へ出てみると、趣のある建物も見られる。
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『近江国・多賀大社』

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 滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する近江国三ノ宮、式内社の「多賀大社」の社頭の標柱、鳥居である。
 この神社の創建は古く、かつてこの一帯を支配した豪族犬上氏の祖神を祀ったのが始まりとされている。
 その犬上氏の一族に犬上御田鍬(みたすき)がいる。
 小野妹子の後を受け、遣隋使、遣唐使で活躍した人物と云われている。

 鳥居を潜ると、石の太鼓橋がある。
 多賀大社への信仰が篤く、母親の延命を祈願した豊臣秀吉に因み「太閤橋」とも云われる。
 その先は神門である。
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 神門を潜ると広大な境内である。
 そして正面に拝殿・本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、天照大神の親神の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)の2柱である。
 このことから、「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」、「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」
などの俗謡も生まれている。

 拝殿の右手には能舞台、また拝殿に対面には文庫や大釜が祀られている。
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 境内には多くの摂末社が祀られているが、今回は割愛する。
 神輿庫には、多賀まつりの「御神輿」「御鳳輦(ごほうれん)」が展示されている。
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『近江国・日吉大社』

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 滋賀県の琵琶湖畔の明智光秀が築城した坂本城の跡地に建立されている日吉大社の山王(さんのう)鳥居である。
 近江国二ノ宮で名神大社二十二社の一社、且つ式内社の日吉大社は、山王権現と呼ばれ、全国に約2,000社ある日吉、日枝、山王神社の総本社である。
 
 日吉大社へはJR湖西線の比叡山坂本駅で下車し、比叡山に向かう参道を進む。
 門前町坂本の中を進む参道には、一ノ鳥居、二ノ鳥居、そして神社標柱が建てられている。
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 比叡山東麓の日吉大社の境内は広い。
 先ずは参道を右手へと取り、東本宮へ向かい、二宮橋を過ぎる。
 かつての東本宮は二宮と呼ばれたため、この名称がある。
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 東本宮の手前に猿の顔に似たりの「猿の霊石」が祀られていて、その先は楼門である。
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 東本宮の境内には、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る拝殿本殿が祀られている。
 しかし国宝の本殿は修復中で見ることはできない。
 本宮拝殿に直行して鴨玉依姫神を祀る樹下(じゅげ)神社の拝殿本殿も祀られている。
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 次に西本殿に向かう。
 参道途中には幾つかの境内社が祀られているが、その一つ宇佐宮である。
 また、祇󠄀園石が祀られている。牛頭天王が宿る磐座である。
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 そして西本宮の楼門である。
 その先、拝殿と国宝本殿である。
 西本宮には大己貴命(おほなむちのみこと、大国主命)が祀られ、かつては大宮と云われていたものである。
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 西本宮を退出し、参道を戻る。
 途中で山王鳥居を潜り、大宮橋を過ぎる。
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 次に末社の東照宮に向かう。
 途中穴太積みの石垣を見て、石の鳥居に到着する。
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 石段の上は唐門を正面に、透塀で囲まれた権現造りの社殿が祀られている。
 この日吉東照宮は、日光を造営した天海僧正の手により、将軍家光の時代に創建されたと云われる。
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 その天海僧正の廟が近くにある。恵日院慈眼堂である。
 明智光秀の化身とも云われ、初期徳川幕府の顧問であった慈眼大師南光坊天海大僧正の廟である。
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 また、近くに滋賀院門跡がある。
 比叡山延暦寺の本坊で、これも天海僧正の創建によるものである。
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 日吉大社は、かつては「ひえ大社」と呼ばれた。
 社殿はほとんどのものが重要文化財に指定され、境内も国の史跡に指定されている。

 坂本と云えば蕎麦処でもある。
 叡山の千日回峰修行には五穀絶ちが必須であるが、蕎麦はその五穀には含まれていないことからも、蕎麦の文化が出来上がった考えられる。
 門前町には大きな構えの店がある。
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『京都市・天穂日命神社』

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 京都市伏見区石田森西町に鎮座する式内社「天穂日命(あめのほひのみこと)神社」の社頭である。
 鎮座地は万葉集にも詠われた石田杜(いわたのもり)で、山科盆地を南北に通り抜ける旧奈良街道にその参道入口はある。
 旧奈良街道は、現在の京都外環状線であり、道路の下を地下鉄が走っていて、その石田駅の南が石田杜である。
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 参道を進むと、冒頭の鳥居に到着する。
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 鳥居の右に2枚の石板歌碑が設置されている。
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 左は、「山科の 石田の小野の 柞(ははそ)原 見つつや君が 山道越ゆらむ 宇合卿 」と彫られている藤原不比等の子「宇合(うまかい)」の歌碑である。
 右は、「ひぐらしの 涙やよそに 余るらん 秋と石田の 森の下風 順徳院」とあり、鎌倉時代の天皇である順徳天皇の歌碑である。

 杜の中の境内へと進み、小川に架かる石の神橋を渡ると、左側に苗塚、そして拝殿が祀られている。
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 拝殿の向かいの右手が本殿である。
 本殿は京都市登録有形文化財で、現在は覆屋に包まれている。
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 主祭神は天穗日命で、相殿に天照大神、大山咋命が祀られている。

 本殿の周囲にいくつかの境内社が祀られている。
 先ずは左手に、春日神社、大黒大明神、籠守神社である。
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 右手には、八幡神社、天満宮が祀られている。
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 天穂日命神社は、かつては石田集落の東の台地上にあり、その後現地に遷宮されたと云われている。
 元は石田社とも田中明神とも云われたが、明治になって京都府はこの神社を延喜式神名帳に書かれた天穂日命神社と比定して現在に至っているものである。

 参拝を終え、石田杜を北側から眺めて見ると、このようである。
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『京都市・折上稲荷神社』

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 京都市山科区西野山中臣町に鎮座する「折上(おりがみ)稲荷神社」の拝殿本殿である。
 場所は、京都地下鉄東西線の山科区内の「椥辻(なぎつじ)駅」の西方で、駅を降りて新十条通りを西へ進み、山科川を渡り、少し進み、右側へ少し入ったところである。
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 神社入り口は路地にあり、一の鳥居を潜る。
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 正面に冒頭写真の拝本殿が祀られている。
 拝殿前には、一対の狛犬も祀られている。
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 拝殿本殿の主祭神は倉稲魂神 (うかのみたまのかみ) 、保食神 (うけもちのかみ) 、稚産霊神 (わくむすびのかみ) の三稲荷神である。
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 この折上神社は、今から1500年前、境内の稲荷塚に稲荷神が降下したのが始まりと伝えられている 、
 伏見稲荷と同時期で、共に最古の稲荷神と云われている。
 そして伏見稲荷と折上神社の聖地同士が一直線上で結ばれていて、折上神社は伏見稲荷の奥の宮とも云われている。

 稲荷塚の周囲には多くの境内社が祀られている。
 そしてその稲荷塚を周りながら参拝すると、大いなるご利益が得られると云われている。

 入り口の鳥居を入ったところに「寶大神」が祀られている。
 株、宝くじ、賭け事にご利益があるとのことである。
 そして稲荷塚頂上への参拝である。
 頂上には五社稲荷大神が祀られている。
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 その先には、幾つかの境内社が祀られているが、三九郎稲荷神社が祀られている。
 稲荷神の使である三頭の白狐が祀られていて、苦労してやっとこの地にたどり着いたことから三頭の苦労した稲荷狐(三苦労稲荷)と云われ、人間の三大苦労(人間関係・健康・お金)を除いてくれる神として信仰されている。
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 三九郎神社の横を入ると、江戸末期、宮中の女官の長橋御局様が参拝時に座った石がある。
 後にモルガンお雪さんも座ったと云われ、女性が幸せになる御利益があると云われている。
 更に、稲荷塚の裏まで来ると、裏参りの御座がある。
 この場所にも参らないとご利益は少ないと云われている。
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 稲荷塚の一周を終え、裏参道から退出したのであった。
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『重要文化財・奈良女子大学旧本館』

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 奈良市北魚屋東町の国立大学法人奈良女子大学の重要文化財を見学した。
 通称「奈良女」は、近鉄奈良駅から北に延びる東向(ひがしむき)北商店街を行き、角を2度曲がると正門に出る。
 奈良女は明治の終り頃に設立された奈良女子高等師範学校を母体とし、100年以上の歴史を有する大学である。
 もう少し前の江戸時代にはこの地に奈良奉行所があったところでもある。
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 正門、その右隣りの守衛室、そして正面の旧本館(現記念館)が国の重要文化財に指定されている。
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 重要文化財ではないが、正門の左側に「奉安殿」が残されている。
 昭和の初期に造られ、天皇・皇后の御影や教育勅語を納めていた建物であったが、戦後、教員が遺伝の研究のためのショウジョウバエの飼育室として活用しているとのことで、取り壊しを免れたという建物である。
 また、本館の右方向には広い運動場と講堂があるが、この場所は、かつては付属の高等女学校などがあったところである。
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 さて、旧本館である。
 玄関を入ると一階は廊下を挟んで7つの部屋に別れていて、現在は展示室として利用されている。
 一階廊下の両脇に2階への階段もある。
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 階段の脇に、珍しいものがある。
 昭和9年の台風で春日山の杉の大木が倒れたその大木の年輪である。樹齢約350年、長径は2m強である。
 年輪にその年代の出来事が貼られている。
 最内周には「島原の乱」、そして右へ行くほど現代に近くなっている。
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 階段を上がると2階は講堂である。
 入り口の壁面には時計も置かれている。
 講堂内部は、当時のままの長椅子が綺麗に整列されている。
 現在も特別な行事には利用されているとのことである。
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 講堂の正面に「百年ピアノ」が置かれている。
 学校創立時に装備されたのもので、その後倉庫に眠っていたが、100年近くたって発見され、修復されたものとのことである。
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 旧本館の建物は木造で、北欧のハーフティンバーと云う様式である。
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  屋根には頂塔(ランタン)と6つの明り取りが設けられている。
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 旧本館の裏側へと回ってみると、池に映りこんだ独特の風景が見られる。
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『大阪中之島バラ園Ⅴ・アメリカ品種』

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 大阪市中之島公園のバラ園、最終回はアメリカ品種である。
 上の写真は、フレンチ レースと云う。

 ホワイト系は、左から単輪のフレンチレース、ムーン スプライト、ホワイト クリスマスである。
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 次にピンク、オレンジ系、左から、マ パーキンス、ブラス バンド、ダイアナ プリンセス オブ ウェールズである。
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 更に、薄紫系、濃い赤紫系、そしてイエロー系である。
 左から、スターリング シルバー、イントゥリーグ、サン フレアーである。
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 最後にレッド系、左から、アパッチ ティアーズ、ラブである。
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 バラ園の先の上流の中之島は、東の天神橋まで伸びている。
 しかし天神橋は、大正のころまでは下に中之島は無かったが、以降、大川の浚渫で土砂が積み上げられ、現在の中之島となっている。
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 天神橋に纏わる話しで、江戸天保年間の天神祭の時、橋上から「だんじり」が大川へ転落して溺死者多数を出す事故が起こっている。
 「天神橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた大川でも一番長い橋であった。

『大阪中之島バラ園Ⅳ・フランス品種』

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 大阪市の中之島バラ園、品種はフランスが最も多いようである。
 中でも、ピンク系の品種の数を誇っている。
 冒頭の品種はマリア カラスと云う。

 ピンク系を挙げてみる。
 下の左から、カリンカ、マガリ、ザ マッカートニー ローズである。
    IMG_5882.jpg  IMG_5886.jpg  IMG_5898.jpg

 更に下左から、マヌウ メイアン、プリンセス マーガレット オブ イングランド、スヴニール ドゥ ルイアマードである。
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 最後の2枚は左から、フランシス ブレード、シャンテ ロゼ ミサトである。
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 次はイエロー系、左から、ミケランジェロ、マダム シャルル ソバージュ、ジーナ ロロブリジーダである。
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 その次はホワイト系、純白ではないが左から、チャイコフスキー、ピース、マダム フィガロである。
    IMG_5933.jpg  IMG_5962.jpg  IMG_5973.jpg

 フランス品種では薄紫系は少ない。
 唯一がシャルル ドゥ ゴールである。
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 最後はレッド系である。
 レッドは、左から、アンリ マティス、タマンゴ、フランソワール ゴジャールである。
    IMG_5877.jpg  IMG_5884.jpg  IMG_6042.jpg

 やはりバラと云えばフランスなのであろうか?

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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