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『柏原市・金山媛神社』

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 大阪府柏原市雁多尾畑(かりんどおばた)に鎮座する式内社「金山媛神社」の参道入り口の標柱である。
 神社は、金山彦神社から府道183号線を登り、堅上小学校を過ぎた上部の左手に鎮座する。
 この辺りは、標高160m程度となっている。

 入り口からの参道は、まずは平坦、そして石段となり、社頭へと至る。
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 鳥居を潜ると、一対の狛犬が配されている。
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 そして拝殿である。
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 その背後には本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は金山毘売(かなやまひめ)神で、渡来氏族で物部氏の下で製鉄、鉄工を司っていた上村主氏が祀ったものとされている。

 神社の一段と高い所に境内社群が祀られている。
 右手から、大神社、大将軍神社、素戔嗚神社、若宮神社、春日若宮神社、春日神社、天王神社の7社と、貴船神社、透神社である。
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 また境内には、かりんとの福神の至福堂も祀られている。
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『柏原市・金山彦神社』

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 大阪府柏原市青谷に鎮座する式内社「金山彦神社」の社頭の標柱である。

 神社は柏原市の大和川の右岸から信貴山方向へと至る府道183号線を少し登ったところの左側である。
 社頭には、冒頭の標柱の他、鳥居が建てられ、潜ると境内である。
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 境内正面の一段と高い所に拝殿と、その手前に一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 本殿の祭神は、金山毘古神で、古代における製鉄の神とされている。
 また、祭祀氏族は、当初は鳥捕獲や飼育など鳥に係わる氏族で、本来の姿が製鉄に係わる鳥取氏であると云われている。
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 また境内には、本殿横に古墳祭祀、そして廣光稲荷大明神、龍王神社が祀られている。
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『柏原市・石神社』

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 大阪府柏原市大平寺に鎮座する式内社「石(いわ)神社」の社頭の社号柱である。

 石神社は生駒山系高安山の西麓に鎮座する神社で、近鉄大阪線「安堂(あんどう)駅」が最寄りである。
 駅から街中を北東方向へ歩くと、古代、在原業平が大和から枚岡神社へ通ったといわれる「業平道」がある。
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 業平道は歴史の丘へと上り、その丘からかつての大寺院「知識寺」が建っていたとの風景が見え、案内看板によりそれとわかる。
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 業平道を降りると石神社の社頭へと達する。
 社頭には、冒頭の標柱の他、鳥居、旧の神社標柱、そして天然記念物の大楠が祀られている。
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 また、社頭の手前には、知識寺の跡であることの説明看板、そして玉垣の中に寺院の東塔の礎石が残されている。

 説明板には、
  『奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に柏原の地を訪れ、知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、 鳥坂寺の六寺に礼拝、礼仏されました。
 中でも知識寺にはおおきな盧舎那仏があり、それを見た聖武天皇は、その立派さに感動し、奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました。
 知識とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人のことであり、知識寺は、これら知識によって立てられた大規模な寺院でした。』
 と記されている。
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 神社へは鳥居を潜り石段参道を昇る。
 石段途中に境内で伐採された白樫で彫られた「みふく大黒」が祀られている。
 その先も石段が続く。
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 石段上部は拝殿であるが、その前に一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿本殿である。
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 本殿の祭神は石姫皇女(いしひめのひめみこ)、加えて石長姫命、熊野権現とされている。
 石姫皇女は宣化天皇の皇女で、欽明天皇の皇后とのことである。

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           (上手の左が北、業平道は東高野街道の一本東の道である)

 神社前の業平道を北へと辿る。
 しばらく行くと、河内ワインの葡萄園を見上げる風景となる。
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『柏原市・鐸比古鐸比賣神社』

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 住所:大阪府柏原市大県に鎮座する式内社の「鐸比古(ぬでひこ)神社」、「鐸比賣(ぬでひめ)神社」の2社が合祀された「鐸比古鐸比賣神社」の社頭の標柱である。
 鎮座地は、先の若倭彦神社から南の信貴山麓で、最寄り駅は近鉄大阪線「堅下駅」である。
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 元々の鐸比古神社は、神社背後の高尾山の頂上に祀られていたとのことで、また、鐸比賣神社は少し下の姫山に祀られていたと云われ、中世に合祀され、その後現在地に遷座されたと云われている。

 長い参道を辿ると、冒頭写真の社頭となる。
 社頭から石段参道となり、境内へと達する。
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 正面に木製の鳥居が建つ。
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 更に石段となり、昇ると一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿である。
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 拝殿の先には本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、鐸比古命(ぬでひこのみこと)、鐸比売命(ぬでひめのみこと)で、和気清麻呂、和気広虫の祖先と云われている神である。

 また拝殿の左部分には、春日神社が祀られている。
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 そして右部分には、猿田彦神社が祀られている。
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 その他、境内社には、石段の左手に昇龍大神、高倉稲荷大神、黒嶽稲荷大神が祀られている。
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『柏原市・若倭彦神社』

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 大阪府柏原市平野町に鎮座する式内社「若倭彦(わかやまとひこ)神社」の社名標柱である。
 前述の若倭姫神社と対をなす神社で、物部氏の氏族の若倭部連(わかやまとべのむらじ)が、その祖神を祀った神社とされている。

 場所は、若倭姫の少し南の住宅街の中で、同様に神名帳記載の「命」が除かれている神社である。

 神社社頭には冒頭の標柱、そして注連縄柱が祀られている。
 そしてその先は、一対の狛犬である。
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 そして拝殿である。
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 その背後に覆屋に囲まれた本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、若倭彦命で、若倭部連の祖神である。

 この神社、江戸時代には八幡宮と呼ばれ、八幡神等を祀っていたと云われる。
 そして明治の神仏分離で現在の若倭彦の社名となり、その後、神社統合により、若倭姫と同様に鐸比古鐸比売神社に合祀されたが、戦後になって復興したと云われている。

『柏原市・若倭姫神社』

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 大阪府柏原市の最北部で、信貴山麓の山ノ井町に鎮座する式内社「若倭姫(わかやまとひめ)神社」の社頭の社名標柱である。
 尚、延喜式神名帳には、若倭姫神社と記されている。

 神社への最寄り駅は近鉄大阪線の法善寺である。
 まずは北へ向かい、そして東へ向かう参道らしき道を辿る。
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 参道の突き当りには「医王山薬師院瑠璃光禅寺」という寺院が現れる。
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 そして境内の本堂の正面に神社の鳥居、標柱が建てられている。
 鳥居を潜り、2段構えの石段参道を昇ると境内である。
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 境内は細長く、拝殿が崖を背にして建てられている。
 そしてその背後に一対の狛犬が祀られている。
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 そして岩場を背にした本殿である。
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 祭神は、若倭姫命で、物部氏の氏族の若倭部連(わかやまとべのむらじ)が、その祖神を祀ったものとされている。
 この神社は、隣の瑠璃光禅寺の鎮守として、春日神が祀られていたという説もある。
 またこの神社は、明治の神社統合にて、この南の鐸比古鐸比売神社に合祀されたが、戦後に現地に復興したと云われている。 

 若倭部連が祖神を祀った神社はもう一つ、若倭彦命を祭神とする式内社「若倭彦神社」がこの南に鎮座している。

 その他境内社として、稲荷社が祀られている。
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『八尾市・常世岐姫神社』

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 大阪府八尾市神宮寺に鎮座する式内社「常世岐姫(とこよきひめ)神社」の社頭の標柱である。
 尚、江戸時代までは「八王子神社」と云われていて、現在もこの旧名称で呼ばれることが多い。

 場所は八尾市の東南部、信貴山麓であり、すぐ西側に東高野街道(国道170号線)が通っている。
 また、神社のすぐ南は大阪府柏原(かしわら)市であり、市境に鎮座する神社である。

 社頭から一段と高い所が境内となっている。
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 境内中央に、一対の狛犬が配されている。
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 そして拝殿である。
 拝殿には主祭神である「常世岐姫命」の画が掲げられている。
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 背後は本殿である。
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 尚、常世岐姫命は、渡来氏族で、茜染をしていた赤染氏、のちの常世連(とこよのむらじ)の祖神とされている。
 女神であることから、安産に御利益があるとされている。

 しかしながら、江戸時代まで八王子神社と呼ばれてきたのは、北にある恩智神社の祭神であった牛頭天王の八人の皇子を祀っていたのではないかとの説がある。
 江戸時代の歴史学者の並河誠所が延喜式神名帳に記載されている「常世岐姫神社」として、八王子神社を比定したことにより、
複雑になったものと考えられる。

 境内には、白玉姫大明神、峯近大明神、そして金刀毘羅大権現の祠が祀られている。
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『東大阪市・波牟許曽神社』

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 大阪府東大阪市長瀬町に鎮座する式内社「波牟許曽神社」の鳥居の扁額である。
 神社は近鉄大阪線の長瀬駅の近くに鎮座している。
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 社頭の鳥居を潜ると石畳の参道が延び、冒頭扁額の二ノ鳥居に到達する。
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 二ノ鳥居を潜ると一対の狛犬が祀られている。
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 その先は拝殿、本殿である。
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 本殿の祭神は、天照皇大神、伊弉那岐大神、伊弉那美大神である。

 神社名の「波牟」は蛇であり、「許曽」は社のことを云うので、古代は「蛇神」を祀っていた神社と云われている。
 そして、明治の神社合祀で近隣の神社8社と共に、長瀬神社が創建されている。
 そして昭和の終わりごろに、再び現在地に遷座されたという経緯を辿っている。
 
 境内には、参道の右側、本殿の周りに、多くの境内社、そして「おもかる石」も祀られている。
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『八尾市・都留美島神社』

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 大阪府八尾市都塚に鎮座する式内社「都留美島(つるみしま)神社」の社名標柱である。

 場所は、近鉄大阪線の恩智(おんぢ)駅の南方で、旧大和川の1つである玉串川を渡った都塚という住所地の土塁のような少しの高台である。
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 かつては、もう少しの南が鎮座地であったとのことで、鳥居と社殿がコンパクトに纏められて立地している。
 西の正面には鳥居、石段の上に拝殿、本殿が祀られている。
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 拝殿背後の本殿である。
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 本殿の祭神は、闇御津羽(くらみつは)大神とされている。

 この地は、かつて称徳天皇が弓削道鏡の故郷に離宮を建てた由義宮の中心部に近く、弓削氏の本拠地でもあったので、その関係が推察される。

 社殿の下には朱塗りの境内社の稲荷社が祀られている。
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『八尾市・加津良神社』

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 大阪府八尾市萱振町に鎮座する式内社「加津良(かづら)神社」の社名標柱である。

 場所は、近鉄八尾駅からバス便にて北上し、萱振バス停が最寄りである。
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 神社前には、旧河内街道が通っている。
 そして神社の少し南の西側には、かつて萱振城が築かれていた「恵光寺」がある。
 萱振城には、南北朝時代には北朝方がこの城に拠った。 
 また、畠山氏の内紛や、織田信長の石山本願寺攻めの際には付城の一つとされ、戦乱が絶えなかったと云われていて、神社も何度か焼かれたとの経緯がある。
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 社頭には、鳥居と冒頭の社名標柱が建てられている。
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 鳥居を潜ると、一対の狛犬が祀られ、そして拝殿である。
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 その背後は本殿であるが、覆屋の中である。
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 本殿の祭神は、素戔嗚尊であるが、近世までは牛頭天王であったと云われている。

 古代における創建については、縵連(かずらのむらじ)がその祖神を祀ったものとされている。
 尚、縵連とは、渡来系の氏族あるいは物部氏の氏族のいずれかと云われている。

 神社前の旧河内街道を挟んで公園がある。
 かつては神社の境内であったが、河内街道の敷設により分断されたものと云われている。
 公園内に、左に琴比羅社、右に水分社が祀られている。
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『八尾市・阪合神社』

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 大阪府八尾市小阪合町に鎮座する式内社「阪合(さかあい)神社」の社号柱である。

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 神社は、近鉄大阪線の河内山本駅で下車し、西方向へ数100m進んだところに鎮座している。
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 社頭には、鳥居と冒頭写真の標柱、そして旧の社号標柱が建てられている。
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 鳥居を潜ると正面に一対の狛犬が祀られている。
 そしてその先は拝殿である。
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 拝殿の背後には本殿が祀られている。
 本殿の祭神は、延喜式によると、瓊々杵命(ににぎのみこと)、彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)の二座である。

 尚、社頭の掲示には、『「三大実録」に元慶7年(883)「河内国正六位上堺神ニ従五位下ヲ授ク」とあり、古代は坂合部連(さかひべむらじ)の祖神を祀つていたと考えられる。坂合部連の祖は、「旧事本紀」に「火明命十六世孫」とある。』と書かれている。

 近世には、小阪合村の氏神として崇拝されていたが、明治の神社合祀で八尾市南本町の「矢作神社」に合祀された。
 そして、戦後に旧社地に復興されたとされている。

 境内には、豊玉姫命を祭神とする境内社「鳴戸神社」も祀られている。
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『八尾市・天照大神高座神社』

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 大阪府八尾市教興寺の山中に鎮座する式内社並大社の「天照大神高座(あまてらすおおみかみたかみくら)神社」の社頭の社名標柱である。

 この神社の創建は古く、5世紀に伊勢の国からこの地に遷座されたとも云われ、弘法大師がこの神社で修行中に神託を受け、隣に岩戸神社を創建したと云う謂れもある。

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 神社へは近鉄信貴線の終点の信貴山口駅が起点である。
 駅には信貴山へと登るケーブルもある。
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 駅から南へと向かうが、途中信貴山へ向かう古道や、大阪平野に「あべのハルカス」を望むことができる。
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 しばらく歩くと、天照大神高座神社の標柱、岩戸神社の鳥居が建っている参道入り口に到達する。
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 参道は車一台が通れるような広さである。
 昇って行くと、左手に岩戸神社の社頭があるが、後程にして、冒頭の標柱が建つ正面の高座神社へと向かう。
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 参道石段の両脇に一対の狛犬が祀られている。
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 石段を昇り詰めると、拝殿である。
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 そして拝殿の奥の高所岩盤の上に本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は天照大神である。

 境内には、旱魃の時でも涸れることのない「白飯の滝」が流れ落ちている。
 弘法大師の修行の滝でもある。
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 石段の左脇に白竜大権現が祀られている。
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 また、周りには多くの石碑や祠、不動像が祀られていて、賑やかである。
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 次は「岩戸神社」である。
 標柱の背後に参道石段が設けられ、昇ると鳥居である。
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 鳥居の先は石段であり、昇り詰めると拝殿となる。
 そして同様に背後の高所岩盤の上に本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は市杵島姫命である。

 岩戸神社では、かつては弁財天も併祀されていたが、 明治の神仏分離により、弁財天像は現在は近くの教興寺に移されているとのことである。

『八尾市・佐麻多度神社』

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 大阪府八尾市山畑に鎮座する式内社「佐麻多度(さまたど)神社」の社頭の社名柱である。
 神社へは、近鉄信貴線の服部川駅が最寄りである。
 駅から集落の中の複雑な道を進んで行くと社頭に達する。
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 鳥居を潜ると正面は拝殿である。
 そして、拝殿の背後には、一対の狛犬が祀られている。
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 その先は本殿である。
 本殿は覆屋が被せられている。
 本殿の祭神は佐麻多度大神とのことである。
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 境内の右手には境内社が並んでいる。
 右の社は天満宮で、菅原道真公を祀っている。
 神牛も祀られている。
 尚、天満宮の社殿は都夫久美神社の本殿を譲り受けたものとされている。
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 左手は山畑神社である。
 山畑神社は式内社の「春日戸社坐御子神社」であるとされている神社である。
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 神社の統合は、その経過が良くはわからないが、佐麻多度神社、山畑神社は別の地に祀られていたようであるが、最終的にこの地に集合され、現在となっているのは事実である。

『八尾市・都夫久美神社』

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 大阪府八尾市水越に鎮座する式内社「都夫久美(つぶくみ)神社」の跡地と云う標柱である。
 
 鎮座地は、東山麓の玉祖神社と、西に通る東高野街道との中間あたりで、近鉄バス停「大竹」から東へ行ったところである。
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 社頭の石板には、以下の様に説明されている。
 「古代の大豪族物部氏の祖宇摩志摩治命(うましまじのみこと)を祭神とする。ツブクミという社名は、物部氏の一族積組連(つぶくみのむらじ)に由来する。
 近世頃には香森大明神と呼ばれ社地を中の森と言っていた。
 この神社の西方には弥生時代の集落跡である水越遺跡が広がっておりその関連がうかがえる。」

 また、神社は明治の神社合祀で、玉祖神社に合祀されたが、大正時代に跡地碑が建てられ、昭和49年に社殿が再建されたとされている。

 社地は整備された平坦地である。
 正面に拝殿本殿が一体化した社殿が祀られている。
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 一対の狛犬も祀られている。
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 社殿の側面、そして太鼓台格納庫である。
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 尚、神社は玉祖神社へ合祀された際、神社の社殿は南の山畑の「佐麻多度神社」の境内社の天満宮の本殿として移築され、社地一帯は農地となったとのことである。

『八尾市・玉祖神社』

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 大阪府八尾市神立に鎮座する式内社「玉祖(たまおや)神社」の社号柱である。
 場所は八尾市東の生駒山の西麓で、直ぐの北には奈良の斑鳩町龍田へ超える十三街道が通っているところである。

 玉祖神社は、山口県周防国の一之宮である玉祖神社と同名で、この八尾市の方は奈良時代の初期に周防国から勧請された神社である。
 また玉祖とは、当時の玉造り、すなわち勾玉を造る一族が住んでいたとのことで、大阪の玉造とも交流があったと云われている。

 神社の社頭には、木彫りの社号柱も建てられている。
 石段参道を昇るとその先正面に鳥居、そして拝殿が建てられている。
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 そしてその先は本殿である。
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 祭神は天明玉命(あめのあかるたまのみこと)で、玉造部の祖神とされている神である。

 境内には数多くの境内社が祀られている。
 順不同であるが、先ずは津山神社、菅原道真公を祀る天神社、稲荷神社である。
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 そして、五社の神社で、左から蛭子神社、吉野権現、住吉神社、恩智神社、八王子神社である。
 更に、山口神社である。
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 また社名不明の2つの祠も祀られている。
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 その他、境内には高灯篭と、豊臣秀頼が寄進したという灯篭がある。
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 そして天然記念物の大楠、中には意味深な装飾が施されたものもある。
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 また山口県の玉祖神社から来たという「長鳴鶏」も飼われている。
 天岩戸の前で鳴かせた鶏とのことである。
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 神社社頭には太鼓台格納庫もある。
 また小高い場所であるため、大阪平野を見ハルカスことができる。
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 尚、後日の発見であるが、玉祖神社の一ノ鳥居が、神社鎮座地のずっと西の東高野街道に面して建てられていて、その場所から東の向かって参道が延びているのが分かった。
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『千早赤阪村・建水分神社』

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 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分に鎮座する式内社「建水分(たてみくまり)神社」の社名標柱である。
 この神社は水を司る神で、地元では「すいぶんさん」と呼ばれたりもする。
 また、「上水分社」とも云われる。
 富田林市に鎮座する「美具久留御魂神社」の「下水分社」との対比である。

 神社は金剛山の山麓に鎮座する。
 元々は、下方の水越川の畔にあったと云われるが、南北朝時代の兵火にて荒廃したため、楠木正成が後醍醐天皇の勅を受け、現在地に遷座したと云われている。

 そのため、神社は霊峰金剛山の総鎮守、また楠木氏の氏神として崇敬を受けてきたものである。

 神社下の広場には摂社の南木神社が祀られている。
 神号「南木明神」の楠木正成を祀る神社である。
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 そして石段下には鳥居、狛犬が祀られ、石段参道の上には拝殿、本殿が祀られている。
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 本殿は水分造りと云う、三殿連結建築で重要文化財であるが、拝見することはできない。
 尚、本殿の中殿には、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が祀られている。
 左殿には、天水分神(あめのみくまりのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)の2柱、右殿には、国水分神(くにのみくまりのかみ)、瀬織津媛神(せおりつひめのかみ)の2柱が祀られている。

 本殿の左脇には、天照皇大神を祭神とする末社、金峰神社が祀られている。
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 また、この神社の神紋の「菊水」は楠木氏の家紋としてもよく知られている。

『大阪府岬町・國玉神社』

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 大阪府泉南郡岬町深日に鎮座する式内社「國玉神社」の社頭鳥居の瓦製の扁額である。

 國玉神社へは、南海本線みさき公園駅から出ている支線の多奈川線の深日町駅が最寄りである。
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 駅から北へ歩くと千歳川に架かる橋から國玉神社が鎮座している杜が見える。
 橋を渡り、右手の住宅の間を抜けると社頭に達する。
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 社頭には上掲の扁額の鳥居、そして一対の狛犬が祀られ、鳥居の向こうは石段が昇っている。
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 石段の途中には、火を燈す部分が無い灯篭が幾つか設けられているのも珍しい。
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 石段を昇ると、二ノ鳥居があり、潜ると境内である。
 境内の左正面には拝殿が祀られている。
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 また、少し古い狛犬も祀られている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 本殿の祭神は、國魂命 (くにたまのみこと、大国主命)、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)である。
 元々深日荘は、京都賀茂神社の荘園であり、浜山の賀茂神社が繁栄していたが、明治になってその神社の本殿を遷座し、賀茂別雷命をこの神社に合祀したものとされている。
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 境内には、幾つかの境内社が祀られている。
 先ずは五社神社、戎社である。
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 五社神社とは、大神社、大鳥神社、出雲神社、住吉神社、大山積神社である。
 また戎神社の祭神は、言代主大神、譽田別神、大雀神である。

 そして抜戸社である。
 祭神は、瀬織津比賣大神 (せおりつひめおおかみ)、速秋津比賣大神 (はやあきつひめおおかみ)、伊吹戸主大神 (いふきどぬしおおかみ)、速佐須良比賣大神 (はやさすらひめおおかみ)の4神である。
 また抜戸社の前には社名不明の石の祠も祀られている。
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 神社の横には深日行宮跡の石碑が建っている。
 奈良時代に称徳天皇が深日行宮を造営した地に当たるとのものとされている。
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『泉佐野市・意賀美神社』

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 大阪府泉佐野市上之郷に鎮座する式内社「意賀美(おがみ)神社」の社名標柱である。

 意賀美神社へは、JR阪和線「長滝駅」から東方向へ直線的に向かう。
 かなり歩いたころ、この地区を流れる樫井川を意賀美橋で渡り、直ぐ先の天神川に架かる朱塗りの神橋を渡ると上掲の標柱が建つ社頭である。
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 社頭には一ノ鳥居、そして少しの石段となり二ノ鳥居となる。
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 二ノ鳥居を潜った右手は「檜皮の森」と云う。
 少し昇ったところには、境内社の猿田彦神社が祀られている。
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 こちら側の参道は神社の側面へと出る。
 
 先ずは拝殿の正面へと回る。
 横長の拝殿である。
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 拝殿の奥に本殿が祀られているので、行ってみる。
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 中央に意賀美神社の本殿が祀られている。
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 祭神は、水の神の高龗神(たかおかみのかみ)である。
 また本殿は室町時代の建築で、重要文化財である。

 本殿の下には、一対の狛犬も祀られている。
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 また、本殿の左手には若宮神社が祀られている。
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 そして右側には祇園神社が祀られている。
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 神社境内の正面から退出する。
 参道石段、鳥居が建っている。
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 また天神川を挟んで向かいの丘は「泉佐野丘陵緑地」と云う公園である。
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『泉佐野市・火走神社』

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 大阪府南部の泉佐野市大木地区に鎮座する式内社「火走(ひばしり)神社」の社頭の社名標柱である。
 火走神社へはJR阪和線日根野駅からバスにて犬鳴山方面へと樫井川を遡り、阪和高速道路を潜り、谷へ入ったところの中大木バス停下車が最寄りである。
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 この日根野地域は、今では関西国際空港への分岐点として知られるが、古代から中世は、五摂家の一つの九条家の荘園「日根荘」で、火走神社も含め国の史跡に指定されているところである。

 日根神社の社頭は、南の犬鳴山にある「七宝瀧寺」へ向かう道に面している。
 神域は狭く、鳥居脇に一対の狛犬も祀られている。
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 そして長門(撮影は内側から)を潜ると境内で、正面に拝殿が祀られている。
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 拝殿の奥には本殿が覆屋に護られた本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、軻遇突智(かぐつち)神、事代主神、天児屋根命、素戔嗚尊、大年神、稚日女尊(わかるひめのみこと)である。
 尚、軻遇突智神は、イザナギとイザナミの神の間に生まれた子で、火の神である。
 出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまうという謂れがある。

 本殿の左には丹生神社、右には幸神社が祀られている。
 このうち幸神社は国の重要文化財に指定されている。
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 火走神社の社号は、南北朝時代に、南朝方がこの谷に皇居を造営して、後村上天皇を迎えたが、北朝方の足利勢がこの皇居に攻め寄せ、丹生神社の社前で激烈な山岳戦となつた。
 この時、丹生明神の神殿の扉が開き、その中から火箭を手にした夥しい神兵がどつと繰り出し、北朝軍の頭上に火の矢の雨を降らしたので、攻め手は忽ち敗退したと伝えられている。
 このことにより後村上天皇は非常に喜び、「火走」の社名を奉ったとの説である。

 また別説では、かつては男巫が火の上を走り渡る神事から名づけられたともされている。


『泉佐野市・比賣神社』

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 大阪府泉佐野市日根野(ひねの)に鎮座する式内社で和泉五社の「日根神社」の神域に鎮座する式内社「比賣(ひめ)神社」の拝所である。

 比賣神社は、かつては日根神社の西隣に鎮座していたと云われている。
 日根神社付近の上之郷と日根野を開発した人達が大日靈貴尊(おおひるめのむちのみこと、天照大神)並びに素盞嗚命を祀り溝口大明神と称していたが、明治時代に最終的に現在地に遷座されたものである。

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 比賣神社は、日根神社の二ノ鳥居を潜った右手に鎮座する。
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 比賣神社の拝所の手前には鳥居が建てられ、そして瑞垣の向こうには一対の狛犬が祀られている。
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 そしてその先は本殿である。
 本殿は重要文化財に指定されている。
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 比賣神社の左並びには、近い方から丹生神社、恵毘須神社、そして岡前神社が祀られている。
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 本社の日根神社の拝殿、本殿である。
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 日根神社は当時、大井関明神と呼ばれていた。
 本殿の祭神は、鵜葺草葺不合尊(うかやふきあえずのみ こと、神武天皇の父 )、玉依比賣命である。

 また神社の隣は神宮寺であった慈眼院で、国宝の多宝塔を神社境内から眺めることができる。
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『京都市・隼神社』

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 京都市中京区壬生梛ノ宮町の「元祇園梛(なぎ)神社」の境内に鎮座する式内社大社の「隼神社」の社名標柱である。
 隼神社は、元々は三条と四条の間の朱雀大路の西にあった天皇の隠居所「朱雀院」の内に祀られていた神社と云われ、その後何度かの遷座の後、最終的には大正時代に現在地に鎮座したと云われている。

 神社は四条大宮駅の西の、四条通りと坊城通りの交差点の西南角に鎮座している。
 隼神社の拝殿本殿は梛神社本殿の北に境内社として隣接鎮座していて、主祭神は建甕槌神(たけみかづちのかみ)、配祀は経津主神(ふつぬしのかみ)である。
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 本社の元祇園梛神社であるが、入り口は東と北にある。
 東が正面で、鳥居を潜ると参道の正面に本社と隼神社の拝殿本殿が並んでいる。
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 左側(南側)が梛神社の拝殿本殿で、主祭神は素戔嗚尊、配祀は宇賀御魂命、伊弉冉命、誉田別尊などである。
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 元祇園と云われる由来は、京に疫病が流行した際、悪疫を払い病を鎮めるため、播磨国廣峰神社より牛頭天王を勧請し、その分霊を乗せた神輿を梛の林中に安置し祀ったことからである。
 また、牛頭天王の神霊を八坂に祀って祇園社を創建する際に、梛の住民が花飾りの風流傘を立て、神輿を八坂に送ったと云われる。
 これが現在の祇園祭、祇園会の起源であるとされている。

 境内には、神饌を供えたと云われる御供石(ごくいし)も祀られている。
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 神社の北の入り口である。
 標柱、鳥居、狛犬が祀られている。
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 境内には、境内社が祀られている。
 先ずは川上稲荷神社である。
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 そして、田中神社である。
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 神社東の坊城通りを南へ下がると、新撰組で知られる地域がある。
 屯所の前川邸や壬生寺などである。
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『福島市・東屋沼神社』

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 福島県福島市飯坂町平野に鎮座する式内社名神大社の「東屋沼(あづまやぬま)神社」の拝殿の社名扁額である。

 神社へは、JR東北本線福島駅から出ている私鉄の福島交通飯坂線の平野駅が最寄りで、駅の東横に神社は鎮座している。
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 神社の社頭は駅の逆側の東にあり、鳥居が建っている。
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 鳥居の先は一対の狛犬が祀られた拝殿である。
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 また境内には、太鼓屋台庫、灯篭、大神宮の標柱なども見られる。
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 拝殿の背後は幣殿・本殿である。
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 本殿の祭神は、少名彦那神、大巳貴命(大国主命)、素盞嗚命、日本武尊の四柱とのことである。

 東屋沼神社は、創建当初は吾妻山の雷沼付近に鎮座していたと云われる。
 その後、山麓の大笹生木落山に遷座し、その後現在の鎮座地へ遷座されたと云われている。

 この神社は各様の名前で呼ばれたと云われる。
 その一つに「七的大明神」 がある。
 大笹生地区へ遷座された時、神社にある木に7つの的をかけて弓の練習をしたとの謂れである。

 本殿の横には境内社の稲荷大明神、そして石祠、庚申などの石標が祀られている。
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『白石市・神明社』

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 宮城県白石市、白石城の二ノ丸跡に鎮座する「神明社」の社頭の標柱である。
 
 白石神明社は、元々は坂上田村麻呂の創建と伝えられている。
 そして、江戸時代になって、片倉小十郎が白石城主となった時から、城の鎮護として崇敬厚く、更に明治になって廃城の後、鎮座地の大火もあって、現在地に遷宮されたものである。

 社頭は本丸北の厩口門跡に、高灯篭、一ノ鳥居と標柱が建てられている。
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 石畳の参道を進むと、二ノ鳥居が建っている。
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 その先、神門までの間に、先ずは三荒神社が鎮座する。
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 ほかにも、招魂社、白石大火記念燈がある。
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 神門を潜ると正面に拝殿が見える。
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 両側に一対の狛犬も祀られている。
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 そして、拝殿である。
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 拝殿の背後は本殿が祀られている。
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 祭神は天照皇大神、配祀として、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神である。

 その他境内社として、天満宮、大国主命神社が祀られている。
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 また神社から、白石城の三階櫓(天守)はこのように見える。
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『宮城県・白石城』

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 宮城県の県南、白石市に白石城跡とそのかつての城下町がある。

 白石城は、鎌倉時代に白石を治めた刈田氏が築城したのが最初である。
 その後会津藩の蒲生氏郷や上杉景勝により支城として修築された。
 しかし関ケ原の時、伊達政宗により攻め取られ、以後仙台藩の南の護りとして、一国一城の例外として、片倉小十郎景綱が居住し、明治まで続いた。

 白石城はJR白石駅から市街地を抜けた西方の城山約75mに建っている。
 天守の代替えである三階櫓と大手門、塀が再建されている。
 城への門は幾つかあるが、駅から真っ直ぐの東口門から入る。
 尚、この東口門は、城下の浄土宗当信寺の寺門として移築されている。
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 遺構の石垣を見ながら登ると、先ずは右手に歴史探訪ミュージアムがある。
 その下には、白石市役所がある。
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 そのミュージアムの左手の石垣と塀の上に塀と城郭が見える。 
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 少し行くと、左手に戻る方向に大手一ノ門があり、それを潜ると大きな大手二ノ門がある。
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 大手二ノ門を潜ると本丸跡地である。
 三階櫓(天守)を望むことができる。
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 大手二ノ門と三階櫓との間に、鐘楼そしてかつての本丸の構成図が掲げられている。
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 三階櫓を南側、北側、西側の3方向から見た写真も併せて掲載させていただく。
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 本丸の周囲の土塁の上には、未申櫓の跡、辰巳櫓の跡がある。
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 また土塁の南の切れ目は裏御門跡である。
 この外側に南ノ丸跡もある。
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 本丸の西側には二ノ丸跡がある。
 郷土出身の明治時代の横綱「大砲」の等身大の像が建てられている。
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 本丸の北側には、厩門があった。
 そこには神明神社の一ノ鳥居が建っている。
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 その厩門は、城下の延命寺の寺門として保存されている。
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 城の北の沢端川の周囲には武家屋敷群があった。
 その一つが、文化財として残されている。
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 またその近くには「神石しろいし」が祀られている。
 この石の根っこは深く、白石市から仙台市泉区の根の白石まで続いていると伝えられている。
 遠い二つの場所にある石が繋がっているので、良縁祈願に御利益があると云われている。
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『福島県・二本松神社』

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 福島県二本松市、JR二本松駅前の本町に鎮座する「二本松神社」の社号柱である。

 この神社は旧二本松藩の総鎮守として信仰されていたもので、元々は二本松城の城内に鎮座していたものである。
 先ずは二本松の地頭の安達氏が熊野権現を祀り、その後、奥州探題となった畠山氏が「熊野宮」とともに畠山氏の氏神である八幡大神を祀り、「御両社」と云われた。

 江戸時代になって、二本松藩の藩主となった丹羽光重が、領民がだれでも参拝できるようにと現在地に遷宮したとの経過を辿っている。

 神社は駅前正面の道路を北へと進み、東西に通る奥州街道と交差した右手が社頭である。
 神社は南向きで、先ずは一ノ鳥居、その先石段参道である。
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 その先は二ノ鳥居で、更に石段が続き、随身門へと達する。
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 随身門を潜るとその先は石畳で、その先は神門の中に拝殿本殿であるが、その手前に御三社が祀られている。
 御三社とは、少彦名命、事代主命、菅原道真を祀り、藩主が領民の家庭の繁栄のために祀ったものである。
 それぞれ、健康、経済、学問に御利益がある神々である。
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 石畳の先は神門を潜る。
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 正面は拝殿である。
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 そして本殿である。
 本殿は2殿あり、左(下座)が八幡宮、右(上座)が熊野宮である。
 それぞれの祭神は、左殿が品陀和気命、息長足姫命、右殿が伊邪那美命、速玉男之命、事解男之命である。
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 その他境内には、神楽殿、神具庫、灯篭などがある。
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 尚、二本松神社は城の大手門の西隣に鎮座している。

『福島県・二本松城』

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 福島県二本松市郭内にある「二本松城址」、別名「霞ヶ城址」である。

 二本松城は、室町時代、奥州探題になった畠山高国がこの地に城を築き、二本松と改名したのが最初と云われる。
 その後、戦国時代には、伊達氏との攻防、また会津若松城主蒲生氏郷の支城、上杉景勝の支城となった。
 関ケ原以降、徳川の家臣が入城し、最終的には丹羽長秀の孫の光重が10万700石で入城し、二本松藩の藩庁として整備され、白旗が峰の山頂に本丸に石垣が積まれ、三重の天守が築かれた。
 その後、明治維新まで丹羽氏の居城となったという経緯を持っている。

 二本松城へは、JR東北本線の二本松駅から徒歩で行くことができる。
 駅前の二本松神社の社頭を右手に進む。
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 そして神社に沿って左折すると、そこが大手門跡で、石垣が残っている。
 付近には図書館や歴史博物館、商工会議所などが設置されている。
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 登城道は登りとなる。
 そして丘を一つ越え、降り切ったところが城の前面で、城の全容を望むことができる。
 100m程度の山頂に石垣も見える。
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 先ずは右手にある史跡「旧二本松藩戒石銘碑」へ行ってみる。
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  「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」と記されている。
 意味は「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども、神を欺くことはできない。だから民を虐げると、きっと天罰があるぞ」という戒めである。
 どこかの国の総理や大臣には、民主主義の根幹、主権在民の基本として、肝に銘じていただきたいと思う。

 城の側面を眺め、正面の千人溜へと行く。
 冒頭の標柱と共に、戊辰戦争時の二本松少年隊の像が建てられている。
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 この少年隊も会津の白虎隊と同様である。
 いよいよ城が攻められると知った少年達25名が力になろうと奮闘し、散っていったものである。
 右手に少年の着衣を縫う母の姿もあり、涙を誘う。
 西国(薩摩・長州)の武士達が大義名分があるのであろうが、他人の土地に攻め入り殺戮をしたと云う事実は、永久に残るのであろうと思われる。

 正面の門は再建された箕輪門である。
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 門から入り少し登ると広い三ノ丸である。
 三ノ丸から上は、本丸天守に向かう遊歩道が付けられている。
 途中、藩士自刃の地もある。
 西軍7千名に攻められた二本松城は防戦叶わず、家老や小城代が自刃した地とのことである。
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 更に進むと、頭上に石垣が見えてくる。
 そして桝形虎口を入る。
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 本丸天守である。
 天守の石垣の脇に、城代、勘定奉行自刃の地の石碑が建っている。
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 また天守以外に、西櫓台、東櫓台の石垣もある。
 西櫓台の向こうに、安達太良の山々が見える。
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 本丸天守から西方向へ降りる。
 本丸石垣が見事である。
 暫く降りると、搦手門跡の石垣も見られる。
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 新城跡には、少年隊の顕彰碑、智恵子抄詩碑もある。
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 もう少し降りると見通しの良い場所へと出る。
 土井晩翠の詩碑、城の案内図、そして西に山が綺麗に見える。
 山は、左から和尚山、安達太良山、鉄山、箕輪山である。
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 更に降りる。
 途中に丹羽神社、そして傘松がある。
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 茶室「洗心亭」もある。
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 そして、城の側面から正面へと戻り、城跡探索は終了である。
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『奈良県斑鳩町・神岳神社』

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 奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町に鎮座する式内社「神岳(かみおか)神社」の鳥居扁額である。

 神岳神社は、竜田川が大和川に合流する手前右岸の三室山山頂付近に鎮座する。
 バス停「三室山下」で下車し、住宅街の中を通り抜けると三室山公園の入り口に達する。
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 入り口には、百人一首が2首掲げられている。
 そして竜田川を望むことができる。
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 公園の中を通っても神社へは行けるが、ここは三室山の麓を通り、神社の正面へと向かう。
 住宅街の中から山へ向かう道が参道である。住所地は神南と書かれている。
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 石段の上に冒頭扁額の鳥居が祀られている。
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 鳥居の右手に一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿である。
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 拝殿の奥には本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、大巳貴神、須佐之男命である。

 この地は法隆寺の南西にあり、元々は聖徳太子が飛鳥より斑鳩の宮に遷った時、飛鳥の神南備もこの三室山へ遷されたと伝えられている。

 境内には境内社が祀られている。
 市杵島神社、稲荷神社である。
 また、絵馬殿も祀られている。
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 神社の裏の三室山山頂へは遊歩道が設けられている。
 途中、竜田川と付近の住宅地を見下ろすことができる。
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 山頂には、東屋、そして能因法師の供養塔が建てられている。
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『奈良県王寺町・久度神社』

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 奈良県北葛城郡王寺町に鎮座する式内社「久度神社」の社頭の標柱である。

 久度神社はJR大和路線王寺駅の西、大和川左岸沿いの久度地区に鎮座している。
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 参道を進むと途中に鳥居が祀られている。
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 鳥居の背後には一対の狛犬も祀られている。
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 正面は朱塗りが鮮やかな拝殿である。
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 その背後は本殿である。
 拝殿からその中門を望むことができるが、背後に回り込んでみても、瑞垣や木々で本殿を直接拝することは不可能である。
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 本殿の祭神は、久度神、八幡神、住吉神、春日神の4柱である。
 久度神は、物部氏族の久努あるいは久奴氏の祖神と云われ、久度神とは竈神(かまどのかみ)と云われている。

 桓武天皇が平安京に遷宮した時に、この久度神を京都の平野神社に遷座したとされている。
 その間、久度神は不在であったが、近年(昭和43年)に神霊を迎え、4神に戻ったと云われている。

 神社には、脇参道もある。
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『奈良市・添御縣坐神社・三碓』

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 奈良市の西部、近鉄電車の富雄駅から1km程度の南の三碓(みつがらす)町に鎮座する式内社「添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社」の社名標柱である。
 平城京の北の歌姫街道に鎮座する神社と同名の神社であり、両社とも論社である。

 こちらの神社は、境内全域が重要文化財として登録されている神社である。
 石段参道を昇ると境内である。
 先ずは左手に、恵比須神社を始めとする境内社が並び祀られている。 
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 そして右手の社殿が拝殿である。
 拝殿の中央の一層高い屋根の部分が本殿の拝所である。
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 そして背後の覆屋の中に五間流造の朱塗りの本殿が祀られている。
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 本殿の祭神として歌姫と同様に、中央に武乳速之(たけちはや)命、右に建速須佐男之命、左に櫛稲田姫之命が祀られている。
 武乳速之命は、添御県の一帯を支配し治めた豪族の祖先神とされている。

 境内には三碓の由来となった石造りの碓が祀られている。
 3つの碓(からうす)を並べ米をついていたところを聖武天皇が眺め、三碓と名付けたと云われている。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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