『河内国・飯盛山城』
三好長慶が関わった城の3つ目、生駒山系の北部、大阪北河内の「飯盛山城」である。
長慶は畿内に覇を唱え、摂津西宮の越水城、高槻の芥川山城と順に居城とし、その後この大和と河内の境の300m強の飯盛山城に居を移し、強固な城郭を築城した。
しかし、芥川山城主に据えた息子義興が他界し悲痛にくれたまま、長慶も次の年に亡くなってしまった。
その後飯盛山城は暫くは三好勢力にて維持されていたが、最終的に織田信長に攻め落とされ廃城となった。
表紙の写真は飯盛山である。
見える範囲の山頂尾根に下の絵に対応する城郭が築かれていた。
右手が南で山と対応している。
飯盛山へはいくつかの登山口がある。
今回は野崎参りで良く知られる野崎観音慈眼寺からの登山とする。
野崎観音への参道を辿り、まずは観音様にお参りする。
本堂脇の登山道を上ると途中に野崎城址の広い場所がある。
飯盛山城の支城である。
野崎城址から奥へは一旦下りとなり、「せせらぎ」と云う谷を越える。
ここからは急峻な山道である。
一気に登りつめると、尾根筋に出る。
更に登ると広い場所に到達する。
城郭群の一番南の千畳敷廓跡である。
ここには大阪の3つのFM局の共同送信塔が建っている。
下界から良く見えているものである。
更に北上し、次のピークへ登る。
本丸高櫓廓跡である。
飯盛城址の標柱、それに中央には楠木正行(まさつら)の像が建っている。
元々、子の飯盛山は南朝方に与した軍の居館であった。
正行は四条畷で足利軍に敗れ最期となったため、それを偲び、ここに像が建てられている。
本丸の周りには石垣が残っている。
そしていくつかの廓があった。その廓跡を順に辿る。
その北は二ノ丸である。
先ず、御体塚廓跡がある。
他界した長慶の遺体を仮安置したところである。
そして石垣、堀切を眺め廓群はここまでである。
その北には少しの広場がある。
史蹟の碑が建てられている。
また長慶の偉業を偲び「長慶が畿内に君臨する」との立札が地元の方の手で建てられている。
山の高さの標点基準315mも設けられている。
残すは下山である。
非常に急峻な山道である。
一気に四条畷神社まで下山した。
尚この神社には楠木正行が祀られている。