『奈良市・添御縣坐神社』
奈良市歌姫町に鎮座する「添御縣坐(そうのみあがたにます)神社」の社頭の社名標柱である。
歌姫町は平城京の北にあり、この町中を通る歌姫街道に由来する町である。
歌姫街道は、平城京の雅楽寮から由来していると云われる。
平城京の北には当時、宮殿や池、官署のある松林宮があった。
そしてそこには雅楽に携わる楽人や歌舞を行う女官が住んでいたと云われる。
感性豊かな芸能人女性たちがこの街道沿いに多く住んでいたことから、歌姫街道と名付けられたと云われている。
また歌姫街道は、古代から奈良と京都を結ぶ道で、平城京から京都方面へ抜ける山背(やましろ)街道の一部として、京都、宇治、そして近江に至るメインの道で、往来盛んな道であった。
更に、歌姫街道は平城宮の造営工事に欠かせないものであった。
一つは北の木津川の水運を使って大量の材木を運び入れたこと。
もう一つは街道の山裾にある瓦窯で作った何百万枚もの瓦を運ぶこと。
この街道は古代には官道であり、唐に習い、数10mの道幅の直線道路であったと云われている。
その歌姫街道に添御縣坐神社が鎮座している。
地名から歌姫神社とも云われたりする。
鳥居を潜ると短い参道である。
参道には春日灯籠も設置されている。
境内正面は神社の拝殿である。
拝殿前には見事な下り藤が今は盛りと咲いている。
そして一対の狛犬と拝殿である。
そしてその奥は小祠の本殿である。
本殿の祭神は、武乳速之(たけちはや)命、建速須佐男之命、櫛稲田姫之命である。
武乳速之命は、添御県の一帯を支配し治めた豪族の祖先神とされている。
またこの神社は、大和国から山城国との国境の神として、旅の安全を祈念したものと考えられている。
境内には、長屋王が立ち寄り、詠んだとされる歌、また菅原道真公が宇多天皇に随行した時に詠んだとされる百人一首の歌碑が建てられている。
長屋王の歌は、 「佐保すぎて 寧楽(なら)の手向けに 置く弊は 妹を目離(か)れず 相見しめとぞ」
道真公の歌は、 「このたびは 弊もとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに」 である。
他にも境内に「辯財」の石柱があり、弁才天が祀られていたと思われるところもある。