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『川崎市・川崎宿』

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 川崎市川崎区にあった東海道57次(53次)の品川宿に続く第二番目の宿場である「川崎宿」である。
 この川崎宿がある旧東海道は、JR川崎駅や京急川崎駅の東側にある。(下図は右が北)
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 江戸から来ると、北は多摩川の六郷土手から川崎宿は始まる。(当時は渡し)
 旧東海道には、それを示す石柱も建てられている。
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 少し行くと右手に下の本陣と云われる田中本陣の表示板がある。
 またその先には宝暦11年の大火の表示版板もある。
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 またこの川崎宿のそこここに、信号機には川崎宿、また灰皿や電気盤には歌川広重の浮世絵が貼られ、雰囲気を盛り上げている。
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 もう少し行くと左手に川崎宿交流館、右手に中の本陣跡がある。
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 更に進み、砂子(いさfご)の交差点を渡ると、いさご通りの看板、また信用金庫の壁面に歌川広重の絵が描かれている。
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 この信用金庫の所が3つ目の本陣である佐藤本陣(上の本陣)跡である。
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 更に進むと小土呂(こどろ)橋の交差点に出る。
 この交差点の西南角に小土呂橋の親柱が残されている。
 現在は新川通りになっているが、江戸時代の初めに開削された新川堀に架かっていた橋の名残である。
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 この付近までが川崎宿である。
 この後、京急川崎駅に戻ったのであった。
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『箕面市・瀬川宿』

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 大阪府の北部、池田市の阪急電車石橋駅から少し北東に行くと、隣の箕面市に入り、旧西国街道となるが、街道のその辺りは、宿場町の瀬川宿があった。

 遺構は殆ど残されていない。
 上の写真は瀬川宿の本陣があったところの様で、その説明看板が建てられている。
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 この看板には、京都寄りの半町(はんじょ)にも、本陣が設けられたとあり、2本陣が運用される大名の宿泊所であった。

 これら瀬川宿/半町宿を、石橋駅を起点として訪ねてみることにする。
 石橋駅で下車し、路地を進んで行くと、箕面川に架かる今井橋の袂へと出る。
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 この橋の袂から西国街道が北東方向へと進んで行くが、当座、遺構のようなものは見当たらない。
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 瀬川2丁目の交差点の所に「弁慶の鏡水」の案内看板がある。
 それに従って細い路地を歩くと、その場所へと至る。
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 この弁慶の鏡水とは、源平合戦の一ノ谷の合戦へ向かう武蔵坊弁慶が、自らの姿を映したという謂れがある。

 街道から逸れたついでに、箕面川を渡った向こうに瀬川神社があるので訪れてみる。
 瀬川宮橋を渡り、参道を進むと社頭へと到着する。
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 一ノ鳥居を潜ると二ノ鳥居となる。
 二ノ鳥居の扁額には天児屋根命神社と彫られている。この神社の正式名称である。
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 参道を進むと先ずは一対の狛犬、そして拝殿が祀られている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 本殿の祭神は、神社の正式名称の通り、春日神の天児屋根命である。
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 また摂社として、拝殿左側に八幡神社が祀られている。
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 そして右手には天満宮が祀られている。
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 神社をあとに西国街道へと戻る。
 瀬川宿へ戻ると、この辺りから趣のある建物が見られるようになる。
 江戸時代の建物ではないと思うが、雰囲気が出ている。
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 通りの先にハシゴタワーが見える。
 以前に見た瀬川宿の写真では、頂点に幾つかのテレビアンテナが取り付けられていた。
 恐らくは、地域共聴の設備であったものと思われる。
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 その手前の自動車学校の前に、冒頭の看板が建てられているのである。

 少し行った辺りから住所地は半町へと変わる。
 街道に「蓮如上人御由緒地」との石柱が建ち、その奥に真宗大谷派の淨圓寺がある。
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 付近には、趣のある町屋も見られる。
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 路地を入り込んだところに「牛まわしの神様」という笠塔婆が建てられている。
 当時、牛をこの石塔の周りを回らせると、牛の病気安全にご利益があったとのことである。
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 街道をさらに進むと半町2丁目という信号機の所となる。
 その先街道には見るべきものがないようなので、街道歩きは終了である。
 阪急電車の桜井駅を目指して、帰路となった。
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『茨木市・郡山宿』

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 大阪府茨木市の江戸時代の西国街道に設けられた郡山宿である。

 西国街道は京都と西宮を結ぶ街道で、その間に5か所の宿場があった。
 京都から山崎、芥川、郡山、瀬川、昆陽(こや)であり、西国大名一行が参勤交代の途中に宿泊したと云われる。

 郡山宿は、当時と新しい家屋が共存する街並みである。
 珍しい妻入りの町家も存在する。
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 郡山宿の中心は本陣である。
 正門の脇に大きな椿の木があったことから「椿の本陣」と呼ばれる。
 この本陣は、江戸中期の火災により類焼したが、享保年間に西国大名たちの寄付により再建されたと云われている。
 また、郡山宿は国の史跡にも指定されている。
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 本陣の他にも、当時を偲ぶ町家や改修された町家が見られる。
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 道路の標柱石が建っている場所がある。
 「右 かつをじ」とか「すぐかちをじ」とかあり、箕面の勝尾寺が近いことを示している。
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 郡山宿の住所地は「宿川原町」、街道を進むと鍛治屋橋という新しい橋が架かっていて、渡って進むと、現在の西国街道である黒糖171号線(通称:いないち)に出る。
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『神戸市・旧居留地』

地図

 兵庫県神戸市の旧居留地とは、JR三ノ宮と元町駅の間の、海岸との間に明治時代に外国人が居住した治外法権の場所を云う。
 正確に云えば、北は西国街道、東は埋め立てられた旧生田川のフラワーロード、西は埋め立てられた旧鯉川の現在の鯉川筋(上の地図ではメリケンロード)の領域である。

 この旧居留地を訪ねて見る。
 JR元町駅で下車し、少し海岸方向へ向かうと左手正面に大丸デパートがあり、この背後の区画が旧居留地である。
 大丸前にはモニュメントも建てられている。
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 メリケンロードの向かい側には、元町商店街への入り口、そして南京町への東門「長安門」がある。
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 ここに南京町があるのは、当時、清国とは条約が未締結であったため、華僑は居留地に住むことができずに、西隣に居住区を定め、中華街を形作ったいう経過を有する。

 旧居留地は、街区の中央には、南北の京町通り、東西の仲町通りがメイン道路として通っている。
 仲町通りは、阪神淡路大震災の鎮魂の行事である「ルミナリエ」で有名な通りでもある。
 丁度、その時期であったので、飾り付けがなされている。
    仲町通り1  仲町通り2  仲町通り3

 大丸に近いところから、仲町通りの建物を眺めて見る。
 先ずは大丸の一部である大丸裏の「38番館」、「三井住友銀行」、そして銀行の東横には「宮城道雄の生誕碑」がある。
    大丸38番館  三井住友  宮城道雄

 更に北へ行くと神戸朝日ビルの横となり、前に回ると大丸の東北側の入り口も見える。
    朝日新聞ビル  朝日新聞  IMG_7544.jpg

 東側の次の通りは片側2車線の京町通りである。
 日本ビルヂング、そしてビルの番号の門柱が文化財として残されている。
    京町通り  日本ビルヂング  IMG_7522.jpg

 再び仲町通りへ戻り、東へ行くと109番館がある。
 その先はルミナリエの東公園である。
               109番館

 次に一本南の前町通りを見てみる。
 神戸市立博物館、そして居宅状の15番館である。
    神戸市立博物館  神戸市立博物館2  15番館

 もう一本南の通りは海岸通りである。
 東から、チャータードビル、神港ビルヂング、商船三井ビルヂングである。
    チャータードビル  神港ビルヂング  商船三井

 そして、海岸ビル、メリケンロードを挟んで神戸郵船ビルであり、レトロ調の建物が並ぶところである。
         海岸ビル  神戸郵船ビル

『堺市・大浜公園』

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 大阪府堺市堺区大浜北町、南海本線堺駅西の旧堺港の南に隣接する「大浜公園」である。
 大浜公園は、明治12年に旧堺港の南にあった陸軍の砲台跡を公園化されたもので、その後、大阪で内国勧業博覧会が開催された時の第二会場となり、水族館が設置され、東洋一の水族館として賑わったと云われている。
 更には、公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋なども造られ、当時、関西有数のレジャー地となったところである。

 しかし、昭和になって、台風で壊滅したこと、更には海側に臨海の工業地帯の埋め立て工事が始まり、かつての面影が亡くなり、その後、野球場、屋外プール、体育館、テニスコート、相撲場などが開設され、スポーツ・レクリエーションの場となって、現在に至っている。
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 尚、上写真の右の相撲場は、学生相撲発祥の地として知られている。

 園内の中央は広い遊歩道が貫いている。
 これは公園の中を臨海道路が通っていた名残である。
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 この遊歩道を跨ぐ乙女橋も残されている。
 橋上は展望所ともなり、北の旧堺港の龍女神像も見通すことができる。
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 そして、乙女橋を北へ降りたところに猿の飼育舎がある。
 当時の面影を継いでる施設である。
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 大浜公園の南の部分の拡大図である(北は右方向)。
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 公園内には瓢箪池や蘇鉄山という自然を生かしたところがある。
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 蘇鉄山は一等三角点の山では標高6.97mの日本一低い山であり、これも名所となっている大浜公園である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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