奈良県奈良市の柳生の里にある柳生石舟斎宗厳(むねよし)らが居城した柳生氏の本城址である。
この石碑の向かい側の小高山322mに主郭や副郭が築かれ、この石碑の場所や、背後の芳徳寺、寺への参道にある正木坂道場の辺りも城郭化されていたと云われる。
城の建造年代は定かではないが、平安時代藤原氏の荘園であった柳生郷の一つ小柳生庄の代官となった大膳永家の後裔が柳生姓を名乗り館を構えたとされている。
数代後になって、柳生家厳(いえよし)とその子宗厳の時に武士化し、北にあった柳生古城とこの本城を拠り所に筒井順昭の大軍と戦ったが敗れ、筒井側に降ったと云われる。
その後、織田信長の台頭により松永久秀の大和攻めが始まると、柳生一族は久秀に与し戦ったが、久秀が敗れたため、宗厳は隠居した。
このころ宗厳は新陰流の教えを受けていて、隠居時も鍛錬に徹したと云われる。
信長が亡くなり秀吉が台頭すると、太閤検地により隠田が摘発され、柳生氏の所領は没収された。
その後、黒田長政の引き合わせにより徳川家康に新陰流の「無刀取り」の秘技を披歴したことで、感動した家康は宗厳を召し抱えようとしたが、宗厳は既に「石舟斎」と号し隠居していたたことから、五男宗矩(むねのり)を推挙したのであった。
徳川に仕えた宗矩は関ヶ原で多くの武功を挙げ、柳生の旧領を一部回復することができたが、戦後、父宗厳が亡くなり、城域の一部に菩提を弔う芳徳寺を創建した。
宗矩は幕府の剣術指南役に抜擢され、江戸にて将軍秀忠等に教えることもした。
そしてその功あって、柳生氏は加増に加増を重ね、大名になり、元の支配力を回復したのであった。
城跡の山へ登る道が正木坂道場の向かい側に付けられている。
しばらく登ると尾根筋を遮断する堀切が見られ、その上の一段高いところは南郭跡の削平地であるが、その場所に水道施設が設けられている。
更に上を目指すと、本郭の前部にあたる削平地がある。
それに引き続き、本郭があった削平地がある。
本郭のところが頂上であるが、その奥側北側へ向かうと、一つ目の堀切があり、その北は北郭の台地がある。
その北側にもう一つの堀切がありその北は土塁が積み上げられている。
城跡はここまでである。
途中に、城に関係があるのかどうかわからないが、石が無造作に残されている。
また移動中には、下にある芳徳寺の寺門周辺が良く望める。
柳生本城は所領没収により廃城とされ、そのまま放置されていたようである。
宗矩が大名となってからは新たに柳生陣屋が築かれ、政庁としたという経緯を辿っている。
余談であるが、正木坂道場は、当時は現在よりも一段下の現在の市営駐車場のところにあったと云われる。
当時は、宗矩の子の三厳(みつよし)通称十兵衛が一万人以上もの門弟を錬成したと云われている。
そして宮本武蔵も訪れたとの話もある。
現在の道場は、昭和40年に、興福寺別当の一乗院の建造物、そして京都所司代の玄関を移設し、結合されて建てられたものと云われている。である。