『京都・聚楽第址』
京の街の現在の京都御所から西へ向かう線と、現在の二条城から北へ向かう線が交差するところに豊臣秀吉が築城した聚楽第(じゅらくだい)があった。
通り名で云うと、東西は大宮通りと浄福寺通りに囲まれ、南北は一条通りと下立売通りに囲まれた部分である。
その中央付近、中立売通りと智恵光院通りの交差点辺りが本丸中心で、2重3重の濠で囲まれていた.。
聚楽第は秀吉の関白就任に伴い築城されたもので、後陽成天皇を迎えたりしたが、後に関白秀次の居城となった。
秀吉に嫡男秀頼が生まれてから、秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は追放、自害とされ、聚楽第も破壊された。
僅か8年の寿命であった。
遺構の多くは伏見城や各所に移されたとのことであり、現在は町屋の下に石垣が残っているのみである。
表紙の写真は本丸の東端に建てられている石碑である。
中立売通りを西へ進み、本丸の西の端付近の正親(せいしん)小学校前にも標柱が建てられている。
少し下がって、本丸の南端に濠の遺構が最近発見されている。
京都府警察本部が職員住宅を建設した折に発見されたものである。
このようなことでもない限り土の下の遺構は出てこない。
現在は埋め戻されて、説明パネルが設けられている。
聚楽第の当時を偲ぶものとして、聚楽第の濠の外側に豊臣大名たちの名前が町名になって残されている。
時計回りに順に訪ねてみることにする。
先ずは北東の晴明神社前に千利休の屋敷跡がある。鬼門の位置である。
一条通を東へ進み、堀川を戻橋で渡ると主計町がある。
加藤主計頭(かずえのかみ)清正の屋敷があったところである。
その南に甲斐守町がある。
黒田官兵衛の息子黒田長政の屋敷があったところである。
一条通を西へ戻るとそこには黒田如水の屋敷跡がある。
黒田官兵衛孝高(よしたか)の屋敷である。
町名は如水町と云う。
如水町の隣には弾正町、浅野弾正少弼長政の屋敷跡と考えられている。
その南には飛騨殿町がある。飛騨殿と呼ばれた蒲生氏郷の屋敷跡である。
南へ下がって西へ行くと西の丸跡は高台院町となっている。
秀吉の正室高台院「おね」の屋敷である。
更に南へ下がると、道路が先へ下がっていて、その先に寺がある。
松林寺と云う。
境内は更に下がっている。濠を埋め戻さずにそのまま寺が建てられたものであろう。
寺門の横に「南外濠跡」とある。
東南へ行くとそこには、浮田町と云う表示がある。
宇喜多秀家の屋敷があったところである。
この付近には後の五大老、家康や毛利輝元などの屋敷も有った筈であるが、それを偲ぶ町名が見つからなかった。
その代りに中村一氏を偲ぶ中村町、脇坂中書少卿安治を偲ぶ中書町、そして上杉景勝と重臣直江兼続の屋敷があったと書かれた標柱が見つかった。
聚楽第の遺構は土の下であるが、城下の有り様は京都市民の手で、現在も大切にされていることが実感できた。