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『大阪市西区・島津公園/薩摩堀公園』

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 大阪市西区の大阪メトロ阿波座駅の南側、新なにわ筋の両側に島津公園、薩摩堀公園がある。
 この地は、江戸時代に薩摩藩の下屋敷があったところとされている。


島津公園
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 先ずは西側の島津公園である。
 保育園児であろうか、遊具・砂場で遊ぶ姿が微笑ましい。
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 公園にはパーゴラ、またツユクサに蜜を求めるハチも見られた。
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薩摩堀公園
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 新なにわ筋の東にある薩摩堀公園である。
 薩摩堀とは、堀川から藩邸に至る水路から名付けられたものとされる。
 濠は現在は道路になっているとのことで、恐らくは公園入口の道路であろう。
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 公園に入った右手には、薩摩堀川跡の石柱、左にはパーゴラ、遊具などが並んでいる。
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 また園内には、移設された八紘一宇の石碑、また銀杏の大木もあり、葉が色づいている。
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 なお、この阿波座駅の辺りは、立売堀(いたちぼり)という住所地である。
 余談であるが、立売堀とは仙台伊達藩(だて→いたち)からの名づけと云われる。
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『大阪市西区・土佐公園/稲荷神社』

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 大阪市西区北堀江にある「土佐公園」の南の入り口である。

 土佐公園は、大阪メトロの西長堀駅の西にある。
 公園の周辺には、東に新なにわ筋を挟んで大阪市立中央図書館が、南には大阪市立西高校があり、この辺り一帯は江戸時代には土佐藩の藩邸、明治になってからは三菱の創業者である土佐藩士であった岩崎弥太郎が引継ぎ、邸宅の縮小に伴い、大阪市に譲渡され、大阪市の施設が多々建設されるという経緯を辿っている。
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 公園には、児童向けの遊具がある位でそう広くはない。
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 公園の先には土佐稲荷神社の境内入り口、そしてそこから一ノ鳥居、二ノ鳥居の参道が延びる。
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 その先は狛狐が護る拝殿である。
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 拝殿の両脇には青銅の狛犬も祀られている。
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 拝殿の背後は本殿である。
 祭神は、宇賀御魂大神、素盞嗚大神、大市姫大神、田中大神(大己貴神)とされている。
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 土佐稲荷神社は、江戸時代に土佐藩大阪蔵屋敷に隣接する長堀川の畔に祀られてた神社を第6代藩主山内豊隆が、伏見稲荷から稲荷大神を勧請し、土佐稲荷神社を創建したとされている。としました。
 以来、土佐藩邸、蔵屋敷の守護神として崇められ、明治の廃藩置県後は岩崎彌太郎がこの地を取得し、創業した三菱の守護神として崇めたという経緯を辿っている。

 境内には岩崎弥太郎邸の石碑も建っている。
 但しこの石碑は、神社東の市営住宅の用地に建っていたもので、移動されたものである。
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 神社境内には、境内社が多数祀られている。
 東側には、南から、石宮社、磐居社、玉根社である。
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 そして南から朱塗りの鳥居が連続する参道が繋がる若宮社である。
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 本殿の裏横にも境内社が祀られている。
 大黒社と源八社である。
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 土佐稲荷神社の西にも公園の一部がある。
 広場が中心で、児童たちの遊びには適しているのではと思われる。
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 また公園の南西には西高校があり、グラウンドでは体育祭であろうか、ブラスバンドの演奏が行われていた。
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『京都市伏見区・三栖神社』

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 京都市伏見区横大路下三栖城ノ前町に鎮座する「三栖神社」の鳥居扁額である。

 三栖神社は、京都市の南部を東西に通る外環状線の直ぐ北側で、国道一号線と油小路(阪神高速道路)に挟まれたところにある。
 社伝によると、古代の壬申の乱の時、飛鳥から近江へと向かう大海人皇子(後の天武天皇)がこの地を通過する際に、村人達が夜道に炬火を燈し、道案内をしたと云われる。
 その後、村人達によりこの地に三栖神社が創建されたと云われている。
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 正面の拝殿の手前には一対の狛犬が祀られている。
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 本殿には、天武天皇が祀られている。
 また境内社として弁財天社が祀られている。
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 三栖神社には御旅所がある。
 神社正面から東へ約500m進んだ濠川の左岸に御旅所はある。
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 境内の南奥に拝殿・本殿が祀られている。
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 本殿前の提灯によると、祭神は天武天皇に併せて、八幡皇大神、熊野皇大神である。
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 その他境内社として、角倉稲荷大明神、天満宮社が祀られている。

『大阪市淀川区・十三公園』

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 大阪市淀川区にある「十三(じゅうそう)公園」は、淀川区で最大の公園である。

 場所は阪急電車「十三駅」で下車し、トミータウンを通り抜け、広いスクランブル交差点を渡り南西方向へ進み、国道176号線を越えたところである。
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 十三公園は、カラフルな装いで、森、遊具、噴水などで構成されている。
 また、野球場も設けられている。
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 公園の南側は淀川通りを挟んで大阪の公立校では有名校として知られる府立北野高校である。
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 十三公園は、戦国時代に細川氏が築いた堀城跡と云われる。
 現在の公園と、国道を挟んだ東側も含めた城域であったとされる。また、別名、中嶋城とも云われている。

 十三公園、北野高校の東南側には淀川が流れている。
 そこには「十三の渡し」の石柱が建てられている。これは中津川の渡しであった。
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 現在の淀川は、明治時代に開削されたものである。
 それまでは、中津川が蛇行していて、洪水が度々起こったため、現在のようなストレートな大河川に改修されたとされている。

『奈良市・興福寺中金堂』

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 奈良市にある南都七大寺の一つである法相宗の興福寺において、この度300年の時を経て復元・再建され、10月20日から一般公開がなされている中金堂である。
 中金堂は興福寺の中心堂宇で、現在まではその後ろにある講堂跡に建てられた仮金堂がその機能を果たしていた。
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 新しい中金堂には、興福寺の本尊である釈迦如来坐像に加え、木造薬王菩薩・薬上菩薩立像、そして南円堂に安置されていた木造四天王立像などが祀られている。
 また、画家の畠中光亨氏が法相宗の祖師を描いた柱絵も設けられている。

 ご承知のように、中金堂の西には北円堂、東には東金堂が控えている。
 また神鹿も自由に動き回っている。
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 またそれぞれのお堂の南側には、南円堂、そして五重塔が控えている。
 そしてさらに南に猿沢池畔から、五重塔を望むことができる興福寺である。
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 興福寺境内は東向商店街の東であるが、この東向商店街を北へ進んだ東向北商店街の北詰には、明治に創建された奈良女子大学がある。
 参考であるが、その大学の正門、守衛所、本館は国の重要文化財である。
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『川崎市・川崎宿』

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 川崎市川崎区にあった東海道57次(53次)の品川宿に続く第二番目の宿場である「川崎宿」である。
 この川崎宿がある旧東海道は、JR川崎駅や京急川崎駅の東側にある。(下図は右が北)
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 江戸から来ると、北は多摩川の六郷土手から川崎宿は始まる。(当時は渡し)
 旧東海道には、それを示す石柱も建てられている。
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 少し行くと右手に下の本陣と云われる田中本陣の表示板がある。
 またその先には宝暦11年の大火の表示版板もある。
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 またこの川崎宿のそこここに、信号機には川崎宿、また灰皿や電気盤には歌川広重の浮世絵が貼られ、雰囲気を盛り上げている。
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 もう少し行くと左手に川崎宿交流館、右手に中の本陣跡がある。
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 更に進み、砂子(いさfご)の交差点を渡ると、いさご通りの看板、また信用金庫の壁面に歌川広重の絵が描かれている。
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 この信用金庫の所が3つ目の本陣である佐藤本陣(上の本陣)跡である。
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 更に進むと小土呂(こどろ)橋の交差点に出る。
 この交差点の西南角に小土呂橋の親柱が残されている。
 現在は新川通りになっているが、江戸時代の初めに開削された新川堀に架かっていた橋の名残である。
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 この付近までが川崎宿である。
 この後、京急川崎駅に戻ったのであった。
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『木津川市・恭仁京跡とコスモス』

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 京都府木津川市加茂町例幣にある恭仁(くに)京跡である。
 恭仁京跡の場所は木津川の右岸(北側)で、恭仁大橋を渡った左岸(南側)にはJR関西本線加茂駅と加茂町の市街地があるところである。〔川の流れは右から左である〕
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 恭仁京は奈良時代の740年に聖武天皇により造営された都である。
 しかし都としては完成せず、以来5年間に紫香楽宮、難波宮などと転々とし、745年には第二次平城京へと再遷都されたとされている。
 なぜそうしたのかは詳らかではないが、疫病の流行、宗教も含めた政争などが考えられる。

 恭仁京跡にはその後、山城国国分寺として大極殿が金堂とされるなど、活用されたとされている。
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 大極殿跡(金堂跡)の片隅には、お堂や石塔などが設置されている。
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 この大極殿の裏側(北側)には内裏があったとされている。
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 大極殿跡の東隣りには御霊神社があったとされている。
 またその南側には国分寺の境内であったであろう広場がある
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 その広場の東側に塔の礎石が並んでいる。
 礎石から七重塔と推定されている。
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 この恭仁京跡(国分寺跡)の周辺の休耕田にはコスモスが植えられて、今は盛りである。
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 恭仁京大極殿跡の南側は恭仁小学校である。
 昔ながらの木造校舎で、都跡にはマッチしている。
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 小学校の前にもコスモスが咲いている。
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 かつての都跡と盛りのコスモス、実に似つかわしい風景である。

『大阪市・なんばパークスガーデン』

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 大阪市の南海電車なんば駅の西隣に並ぶ「なんばパークス」にはそのビルの側斜面に「なんばパークスガーデン」という公園が設置されている。
 冒頭の写真は南海なんば駅で下車し、階上のバスターミナルからパークスへ通じる連絡通路(4Fにあたる)からパークス全景を眺めたものである。
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 なんばパークスへは2Fから階段を昇り、最上階の9Fまで辿って行くことになる。

 先ずは3F、4Fである。
 4Fの連絡通路の向こうには、南海電車のなんば駅上に建設されたスイスホテル、その先に高島屋が見える。
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 5Fにはせせらぎの杜がある。
 せせらぎの中では、小振りの鯉が彩を添えている。
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 6Fには今は盛りのコスモスが咲いている。
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 7Fである。
 大きなフラワーポットも設けられている。
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 8Fまで昇る。
 円形劇場が見られる。
 また、向かいのエレベータ出入り口の上には、パークスムーンという半球形のスクリーンが設けられている。
 更に、パークスシネマへの入り口もある。
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 そして最上階の9Fである。
 子供たちが遊ぶ場所である。
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 また9Fには花畑もある。
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 尚、8F・9Fには大阪に関わる著名人の手形レプリカも置かれている。
 浜村淳、武豊、貴乃花など、多くの手形である。
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 このように「なんばパークスガーデン」は、花などを楽しみながら階段を昇ることができる3D立体公園であるので、健康維持にも役立つところであろうと思われる。

『大阪府枚方市・淀川河川公園』

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 大阪府枚方市と高槻市を結び、淀川に架かる枚方大橋の南詰の河川敷に淀川河川公園が設置されている。
 (枚方大橋は下図の最下部に左右方向に架かっている)
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 淀川河川公園公園とは、大阪府の北部を流れる淀川河川敷の随所に設置された国営公園で、その数は20施設にも及ぶと云われている。

 この枚方市の公園は、大阪府の淀川左岸の最上流に設置されている公園である。
 これより上流は、2つのゴルフ場(牧野パーク、くずは)が占めている。

 この公園を枚方大橋の下から時計回りに回ってみる。
 先ず現れるのは、淀川スタジアムである。
 サッカーや野球の競技ができる整備されたところである。
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 その先には水位観測所のシンボリックなタワーが建つ。
 背景は、枚方大橋そして背後の山は茨木市の竜王山である。
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 淀川の川べりを見てみると、船着場が整備されている。
 この辺りから北部を眺めると、遠くに京都の比叡山が見える。
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 また、近い所では、高槻市のポンポン山、大山崎町の天王山などが見える。
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 その先は淀川アクアシアターという円形劇場であるが、先日の増水で泥をかぶったままとなっている。
 またその先の川べりには、流木が流れ着いたままとなっている。
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 公園の内部の遊歩道には花も植えられている。
 また公園の内部は大部分は草原で、ところどころには大きな石が配されている。
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 公園の東北側の隣には、クラボウ跡地に整備された関西医科大学の学舎と附属病院がある。
 また土手の向こうには、枚方パークの観覧車が見える。
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 公園の一周を終えたところの土手へと上がる道に「枚方宿」矢印がある。
 枚方宿は、東海道57次の最後の守口宿の手前の宿場である。
 またこの地は淀川を行き来する30石舟の寄港地でもあった。
 堤防へ上がってみると、向かい側に鍵屋の建物が見える。
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 鍵屋は、本陣とかではなく、料理旅館であったようで、現在の枚方宿のシンブル的存在である。
 その鍵屋の正面の京街道へと回ってみる。
 白地の梲(うだつ)には、マークが書かれている鍵屋である。
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『大阪市住之江区・南港中央公園』

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 大阪市住之江区の人工島「南港」あるいは「咲洲(さきしま)」にある「南港中央公園」である。

 南港咲洲は北半分は大阪メトロの中央線の終点「コスモスクエア」から広がるビジネスゾーンであるが、南半分はマンションなどが立ち並ぶ住宅ゾーンである。
 その住宅ゾーンの中にこの大公園がある。

 最寄り駅は、ニュートラム「ポートタウン東駅」である。
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 駅を降り、帆船のマストをデザインした陸橋「ふなで橋」を渡ると公園に入って行く。
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 南港中央公園は、3つのゾーンがあるのを特徴としている。(下図は左が北)
 野球場、テニスコート、バーベキュー広場である。
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 先ずは野球場である。
 スタンドや照明装置を備えた本格的な球場である。
 丁度、大学の関西学生野球の開催期間中で、プレーボール前の練習中であった。
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 野球場の周囲はテニスコートである。
 都合14面のコートを備えている。
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 公園の上を阪神高速道路湾岸線が通っている。
 高速道路の外側に、テニスコートの一部と、少年野球場がある。
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 野球場に戻る。
 スタンドの下には「南港サロン」という休憩施設が備えられている。
 また、野球場の正面に面した側は小高い丘となっている。
 シンボルが設けられ、丘へ登るとカリヨン広場に出て、モニュメントに出会う。
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 丘を辿って行くと、先ずは灯台状のもの、そして遊具施設がある。
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 その先はバーベキュー広場である。
 炭式バーベキューが10基あり、無料とのことである。
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 丘を降りて行くと広場へと出る。
 野球用のバックネットも備えられている。
 奥はWTC(ワールドトレードセンター、大阪府咲洲庁舎)が聳え立っている風景である。
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 これで南港中央公園を反時計回りに一周したことになり、ウオッチングの終了とする。

『大阪市・下福島公園』

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 大阪市福島区の福島4丁目と玉川1丁目に跨る下福島公園の東南側の入り口(下図の右上隅)である。
 この公園の東側には、JR東西線新福島駅の西口から南下する「あみだ池筋」が通っている。
 そしてあみだ池筋はこの入り口の前で東南方向に曲がり、堂島川を堂島大橋で越え、中之島に至ることになる。
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 この下福島公園は、福島区で最大の公園である。
 もともとこの地は、現在のユニチカ㈱の前身である大日本紡績株式会社福島工場であった。
 その工場跡地にこの公園と北隣のJCHO大阪病院(旧大阪厚生年金病院)が建設されたものである。
 先ずは病院の大きな建物である。そして病院に近い所に工場当時の煉瓦塀が残されている。
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 公園の東南側の入り口から入園する。
 正面の大部分は運動場である。
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 そして左側は下福島プールの建物がある。
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 右手は植物ゾーンである。
 野田藤が数多く植えられている。
 この野田藤のルーツはこの近くの藤邸にあり、戦国時代当時、足利義詮や豊臣秀吉が来遊したことでも知られる。
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 また藤棚の前には、子供用の遊具施設もある。
 グランドの周りは、ジョギングコースならぬウオーキングコースとなっている。
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 この公園の周囲には天神社が3社祀られている。
 東から福島天満宮(聖跡25拝の1)、公園の東に隣接して中の天神(現在は上の天神に合祀)、そして南に下の天神である。
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 公園の南を見ると、中之島のビルが見える。
 右手には関経連、NTTなどが入るNCBビル、左手の堂島大橋の向こうにグランキューブ大阪である。
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 公園を出て工事中の堂島大橋を渡ると京阪電車の中之島駅に至り、下福島のウオッチングは終了である。
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『大阪市中央区・高麗橋』

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 大阪市中央区のかつての大坂城の西惣構堀である東横堀川に架かる高麗橋の東の袂の風景である。

 高麗橋は名前の通り、大陸高麗からの来朝者向けの難波高麗館に因むと云う説や、朝鮮国使来朝のために架けられたとの説がある。
 江戸時代から明治初期にかけて、京街道、中国街道、奈良街道、紀州街道、亀岡街道などの起点とされ大坂の中心として、多くの商人が館を構えたところである。
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 但し現在の東横堀川の上には阪神高速道路がかぶさっており、阪神高速の入り口もあり、景観が良いとは言えない。
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 橋の両側の東西の通りは高麗橋通りという。
 「大阪で商売を始めるなら高麗橋で…」との話は、諸国への起点であるからであろう。
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 高麗橋の何本か南の筋に大手通りと大手橋が架かっている。
 大坂城の大手門へ繋がる通りと橋である。
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『大阪市・八軒家浜』

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 大阪市中央区の京阪電車天満橋駅に隣接した大川(旧淀川)の左岸(南岸)にある「八軒家浜船着場」の風景である。
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 大川に架かる東の天満橋と、
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 西の天神橋に挟まれたところである。
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 この八軒家浜は、平安時代には渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれ、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として、水陸交通の要地として栄えた。
 そして江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京と大坂を結ぶ「三十石船」ターミナルとして、淀川舟運の要衝として栄えたのであった。

 もう少し付近を詳しく見てみる。
 
 京阪駅の南側、土佐堀通りに面した昆布屋の店頭に、八軒家浜船着場跡の石碑が建てられている。
 そして、この辺りから南(大阪城の方向)は上り坂であり、上町台地の北端である。
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 反対側の大川べりに行くと、川の駅、そして楠正行(まさつら、小楠公)の義戦の碑が建てられている。
 小楠公が南北朝の戦いの時、この大川べりでから川へ落ちた多くの敵の兵士を助け上げ、衣服を与えて国元へ帰したことに基づくものである。
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 川べりには常夜灯の再現がなされている。
 また、川には観光船の水上バスが運行されている。
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 天神橋の西側の川を背後にして、旧大林組本社ビルはレトロな風景を醸し出している。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
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よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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