『鳥取・積雪の大山寺』
秀峰大山の中腹に抱かれた大山寺伽藍本堂である。
さすがに雪が深く、石段参道を行き来するのに苦労を要した。
大山寺は、奈良時代に始められた山岳信仰の霊場である。
金蓮上人が草庵を結び、地蔵菩薩を祀った。
平安時代に入ると比叡山天台宗が支配し、この地域における天台宗の一大拠点となった。
寺の座主は比叡山から派遣され、決められた任期を勤めた後、比叡山に戻り昇格するという仕組みになっていたと云われる。
戦国時代にはこの地を支配した尼子氏や毛利氏などからも崇敬され、盛んに寄進が行われた。
江戸時代には伯耆の藩主中村一忠から寺領を削られたというが、寺側から幕府に働きかけ、3000石の寺領が安堵された。
明治の廃仏毀釈で、大神山神社が存続し、大山寺の号は廃止されたが、明治期内に号が復活し、現在に至っている。
『兵庫姫路・廣峯神社』
『播磨国・上月城』
兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)にある上月城の跡である。
上月城は赤松氏の一族上月景盛によって築かれた標高200m弱の山城である
播磨、美作、備前の三国の国境に位置する城で、毛利の赤松や宇喜多が護っていた。
織田軍の播磨・中国侵攻に伴い、秀吉軍に滅ぼされ織田の城となり、月山富田城を追われた尼子勝久、山中鹿之介らが入城していた。
その後毛利軍の攻撃を受け、織田軍秀吉隊が救援に向かおうとしたが、三木城の合戦を重視したため、敢え無く落城となり、尼子一族は自害、鹿之介も捉えられて、備後国へ送られる途中で殺害された。
これにて尼子氏は滅亡した。
尚、山麓には尼子、鹿之介の供養塔が建てられている。
山中鹿之介供養塔
尼子勝久の供養塔
『出雲・月山富田城』
島根県安来市広瀬町富田にある月山富田(とだ)城である。
中腹の山中(さんちゅう)御殿から本丸があった月山(197m)山頂を眺めたもので、現在も頂上には勝日高守神社が鎮座する。
この城は山陰の中核となる城で、佐々木義清が築城したと云われる。
歴代の守護が入城した。
佐々木氏に続いて、山名氏、京極氏、そして最後の守護は尼子氏である。
しかし、山陰を狙う毛利氏に襲われ、家臣山中鹿之介らが奮戦したが落城した。
本丸跡の鹿之介らの碑
尼子氏や鹿之介らが奪回を計ったがそれも成功せず、その後毛利一族の吉川元春、広家が入城した。
その後関ヶ原の武功で出雲を与えられた堀尾吉晴が入城したが、松江城を築城し入城したため、この城は廃城となった。
本丸から松江方向を望む
尚、月山富田城は国の史跡に指定され、また日本百名城の一つに選定されている。
『山陰島根・松江城』
島根県の県庁所在地松江市に聳える重要文化財、松江城天守である。
かつて豊臣秀吉の小姓であり、長じて豊臣三中老の一人となった堀尾吉晴が江戸時代初期に築城したものである。
関ヶ原の武功が認められ、出雲国を与えられかつての尼子氏の城であった月山富田(とだ)城を居城とした。
しかし、月山は山中で国治めには適さないため、宍道湖の畔の現在の地に新たに松江城を築城した。
堀尾家は嫡子がなく3代で途絶え、その後若狭城主京極忠高が入府した。
京極氏も嫡子がなく、一時廃絶した。
その後、松本藩より家康の孫、結城秀康の子、松平直政が入府し、明治まで続いた。
天守のなかには、その直政関係の遺品が数多く展示されていて、楽しませてくれる。
また同時に、天守からの宍道湖の風景は時を忘れさせてくれる。
尚、松江と云う名前の由来であるが、松江城主堀尾吉晴が、中国浙江省の「淞江(しょうこう)」とこの地が湖が美しいところが似ていることから松江と命名したとのことである。
『京都・方広寺の梵鐘』
『京都八幡・飛行神社』
京都府八幡市の街中に鎮座する飛行神社である。
鳥居は飛行機の素材としてよく使われるジュラルミン製である。
また拝殿は古代ギリシャ風の建築様式である。
この神社は、明治時代の航空機研究者である二宮忠八が大正時代に創建したものである。
忠八は陸軍従軍中に「飛行器」を考案し、ゴム動力による「模型飛行器」を製作して、実験は成功した。
その後ライト兄弟により人間が乗れる飛行機が発明されため、開発は中断したと云われる。
忠八は後進の航空殉難者の尊霊を崇めるべく祀ったのがこの神社である。
境内には、プロペラやエンジンも祀られている。
この神社は、饒速日命(にぎはやひのみこと)を主祭神とする。
この神は、神話の世界において天磐船(あめのいわふね=飛行機)にのって地上に降臨したとされることから、空の神・飛行機の神として結び付けられている。
尚、勧請は大阪府交野市の磐船神社よりと云われている。
『奈良・廣瀬大社』
奈良県北葛城郡河合町に鎮座する式内社名神大社の「廣瀬大社拝殿」である。
この神社の鎮座地は、奈良盆地を流れる多くの川が合流する場所にある。
初瀬川が大和川と名前を変えた本流となり、この本流にこの地で飛鳥川、高田川を合流した曽根川、そして不毛田川、更には富雄川が合流する。
町の名も河合町と云われるのがその由来である。
一ノ鳥居
この神社は河川の合流点であることから水の神を祀る。
古代から、広瀬の水神、龍田の風神として並び称されたものである。
この神社の例祭は御田植祭と云い、砂を雨に見たてた祈雨の神事が行われる。
拝殿前の広場を田に見立て、田植の所作を行い、それに対して人々が水に見立てた砂をかけあう奇祭である。
砂かけ祭~神社の説明看板を撮影~
『美濃国一之宮・南宮大社』
関ヶ原の近郊、岐阜県不破郡垂井町に鎮座する美濃国一之宮南宮大社である。
創建は崇神天皇の時代で、金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神として祀る。
金山彦命は日本神話の世界に云う伊邪那美(いざなみ)の子供とされ、金山即ち鉱山の神とされている。
南宮大社は南宮山の麓に鎮座する。
関ヶ原の戦いの時、毛利一族が陣取り、戦闘には参加しなかった。
しかし、社殿は戦いで全焼し、その後徳川家光の手で再建されたと云われる。
境内の社は殆どが重要文化財である。
全国に神社は80,000社近くあるが、このように金山彦命が祀られている神社は少ない。
因みに、最もい多いのは応神天皇を祀る八幡神社で約1割の8,000社弱、次に天照大神を祀る伊勢神宮系の神明社で4,400社、そして菅原道真を祀る天神社で4,000社、稲作や食料の豊受大神を祀る稲荷社3,000社と続く。
『滋賀・日牟禮八幡宮』
滋賀県近江八幡市に鎮座する日牟禮(ひむれ)八幡宮拝殿と奥は本殿である。
この神社は近江八幡市や近江八幡駅の名称の由来となっている。
原型は古代の大嶋神社であるが、飛鳥時代に藤原不比等が参詣し日牟禮八幡宮と名付けられた。
その後平安時代には、一条天皇の勅願により、背後の八幡山山上に宇佐八幡宮を勧請して上の八幡宮と名付けられた。
戦国時代、安土城を構えた織田信長が自害させられた後、豊臣秀次がこの地を支配することになり、八幡山に築城したため、上の八幡宮は下の宮に合祀され、現在に至っている。
八幡には安土から商人らが呼び寄せられ、安土同様の町名を持つ城下町が形成された。
商家群と神社との間には城の護りとして八幡堀が掘削され、独特の景観を醸し出している。
八幡宮、八幡堀、商家群合わせて国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
『なにわ七幸めぐり』
大阪市平野区にある融通念仏宗総本山「大念仏寺」本堂である。
「なにわ七幸めぐり」は大阪の身近な寺社7社寺にお参りすることにより、7つの功徳を得ようと云うもので、大阪活性化事業の一環として始められたものと云われている。
7社寺リスト
今までに他の6社寺にはお参りしたことがあったが、この大念仏寺にはお参りしたことが無かったので、今回となり、満願となった。
この大念仏寺は、比叡山延暦寺の僧であった坂上田村麻呂の次男良忍上人が平安時代の末期、融通念仏宗の総本山として鳥羽上皇の勅願を得て開創したものである。
良忍上人の始めた融通念仏は当初は大衆の中から発展したものであり、この大念仏寺をはじめ、京都の清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになった。
現在でも壬生寺や清凉寺、千本閻魔堂などには大念仏狂言が伝えられていることは良く知られている。
『博多・筥崎宮』
福岡県福岡市に鎮座する「筥崎宮」である。
筥崎八幡宮ともいわれる。
同じ福岡の飯塚市に鎮座する大分(だいぶ)八幡宮を元宮とする。
平安時代、八幡大神の神託があって、北部の玄界灘に面するこの地まで遷宮したと云われる。
元寇があった時、亀山上皇が「敵国降伏」を祈願して、楼門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。
以来、海上交通の神として信仰されている。
境内の建造物は殆どが重要文化財である。
この石造りの一ノ鳥居も重文で、藩主黒田長政により建てられたものである。
この鳥居から手前側は長い参道で、延々と博多湾まで続いている。
尚、この付近の地名や駅名は「箱崎」と表記されているが、それは神社と同じ「筥崎」を使うのは恐れ多いと云うことが理由である。
『京都・離宮八幡宮』
京都府南部乙訓郡大山崎町に鎮座する「離宮八幡宮」である。
清和天皇が神託により国家安泰のため宇佐神宮から八幡大神を分霊し、平安京の守護神としてこの地に創建したものである。
創建当時は石清水八幡宮と呼ばれた。
当時はこの神社を中心とした「山崎の津」は淀川の港として栄えた。
この神社で荏胡麻(えごま)油の製造を始めたことから日本における製油発祥地とされている。
神社は荏胡麻油の独占販売権を持ち、「神人」という販売員が各地へ出掛け売り歩いた。
国盗り物語で知られる斎藤道三もこの「神人」であったと云われている。
神人の像
時を同じくして淀川対岸の男山に石清水八幡宮も建立され、この神社はその元社となった。
神社の用地は嵯峨天皇の離宮跡であったことから以来、離宮八幡宮と呼ばれている。
石清水八幡宮
尚、この離宮八幡宮は明治時代、鉄道敷設に伴い駅や線路に多大な用地を供出し、現在は小さな境内となっている。
『讃岐・国分八幡宮』
香川県高松市国分寺町に鎮座する国分八幡宮である。
この八幡宮は社名の通り、奈良時代の讃岐国分寺の鎮護として建立された神社である。
弘法大師空海もこの神社の中興にあたったとされている。
中世には、地元の豪族新居(にい)氏が守護神として崇敬し、戦国時代になって高松生駒家が崇敬し、社殿を再興するとともに武術試合を奉納したと云われている。
また江戸時代には水戸黄門の兄高松藩初代藩主の松平頼重公も崇敬し、度々参詣したと云われている。
また、この国分八幡宮は江戸時代の戯曲、田宮坊太郎仇討の跡と云われている。
坊太郎は子供の時、父を堀口源太左衛門に殺されたので、いつかは仇討と思い、柳生流を学び、ついにはこの神社の境内で仇討を果たしたと云われている。
しかし、坊太郎は若くして亡くなったため、その墓と伝えられる五輪塔が神社の東側に残されている。
この八幡宮の住宅街を挟んで西側に讃岐国分寺跡があり、7重の塔を備えた10分の1の模型が設けられている。
『桜の先発、寒緋桜』
『神戸・六甲八幡神社』
神戸市灘区、阪急電車の六甲駅前に鎮座する「六甲八幡(ろっこうやはた)神社」である。
この神社は、平清盛が神戸福原に遷都した時、京都の石清水八幡宮を勧請したことに始まると伝えられている。
しかしこの神社の祭神には八幡大神のほかに、天照大神と春日大神が祀られ、神社としては清盛が勧請した以前から存在した神社であると思われる。
南のJR六甲道駅付近から長い参道が続き、その終点がこの石の鳥居で、これから先は境内である。
この鳥居の前を横切っている道路は「徳川道」と云われる。
この徳川道は西国街道のバイパスとして整備され、幕末ではあるが一旦完成した。
その第一号利用者は、新政府に命じられて西宮の警備に向かう備前藩であった。
行軍途中の三宮神社付近で外国人と衝突事件を起こした。
いわゆる神戸事件を起こしたことで有名となったのは皮肉なものである。
『奈良・手向山八幡宮』
『仙台・大崎八幡宮』
『東京・大宮八幡宮』
東京都杉並区の京王井の頭線西永福駅の近隣にある大宮八幡神社である。
この神社は、大宮氷川神社、秩父神社と合わせて武蔵国の三大宮の一つと云われ、「多摩の大宮」あるいは「武蔵国八幡一之宮」呼ばれることもある。
創建は源頼義で、前九年の役の時、奥州に向かう時この地にて八条の白雲を見て八幡大神の加護を感じたと云う。
戦から帰って、この地に石清水八幡宮を勧請し、大宮八幡宮を建立した。
この大宮八幡には、数年前からであるが、小さいおじさんの都市伝説も生まれている。
この小さいおじさんは、日本の都市伝説の一つで、その名の通り中年男性風の姿の小人がいるという伝説である
身長は8センチメートルから20センチメートル程度で、窓に貼りついていたとか、浴室にいたとか、道端で空き缶を運んでいたとか、公園の木の上にいたとか、などの話もあるようである。
『東京・富岡八幡宮』
『東京・代々木八幡宮』
東京都渋谷区、小田急線の代々木八幡駅の近くにある代々木八幡宮である。
この八幡宮は比較的新しい。
鎌倉時代に源頼家公の近習の家来「荒井外記智明(あらい げき ともあきら)」によって創建されたと云われている。
頼家公が修善寺で暗殺された後、主家が衰退し、智明は武蔵野国代々木野に隠遁し、看経修法の日々を送っていた。
ある日、悪夢の中で八幡大神の宣託と宝珠の鏡を感得したという。
そこで元八幡の地に小さな祠を建て、鎌倉の鶴岡八幡宮から勧請したのが始まりと云われている。
太平洋戦争の戦火を免れた戦後、境内の発掘調査により、縄文時代の住居跡などが発見されている。
「代々木八幡遺跡」として、境内には竪穴式住居の復元がされている。
『静岡・浜松八幡宮』
浜松八幡宮は静岡県浜松市に鎮座する神社で、駅でいえば遠州鉄道西鹿島線「八幡」の程近くである。
かつて仁徳天皇が海神である玉依比売命(たまよりひめのみこと)、父である応神天皇、祖母である神功皇后を、許部の里に祀ったのがこの神社の始まりとされている。
その後、現在の地に白狐が老翁の姿で松の小木を移し植え、神社もそれにしたがって遷座した。
この故事により、「浜松」と云う地名になったとも云われている。
戦国の時代に、この地に城を構えた徳川家康が武運長久を願い、度々参拝した。
三方原の戦いで敗れた家康が、武田軍に追われてこの八幡宮に逃げ込み、境内の楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ちあがったとの故事により「雲立(くもだち)の楠」と称されるようになった。
尚この神社の北側一帯には、楽器で有名なヤマハ株式会社の本社があることでも知られる。
『京都・三宅八幡宮』
比叡山の西麓を流れる鴨川の支流高野川が街中に入るあたりの右岸に三宅八幡宮が鎮座する。
駅名で云うと、京福電鉄鞍馬線の「八幡前」、同じく叡山線の「三宅八幡」が最寄である。
この神社、遣隋使として隋に出掛けた小野妹子が、九州で病気になった時、宇佐八幡宮に祈願するとたちまち病気が治り無事帰国することが出来たので、隋からの帰国後に、この地に宇佐八幡宮を勧請し建立したのが始まりと云われている。
この八幡宮の御利益は、子供の守り神としてかんの虫封じ、夜泣き、安産、学業成就など、また虫退治の神としても効き目があるとされていて、「虫八幡」とも呼ばれている。
そして、鳩は神の使いとされ、狛犬ならぬ狛鳩が参道に祀られている。
さらに境内の茶店では、名物として鳩餅が販売されている。
『千葉城・亥鼻城址』
千葉市の中核部にある千葉城址、別名亥鼻(いのはな)城址である。
千葉城は中世にこの地の千葉氏を名乗った豪族の館であったが、残念ながら天守閣等はなかった。
城跡は千葉の中心部を流れる都川の左岸の台地で、台地の形が亥の鼻に似ていることから亥鼻城と呼ばれた。
この城・館の跡はかなりの広さがあり、その城跡はこの模擬天守が建つ城跡公園を中心に、東側には千葉大学の医学部や病院、西側は千葉県庁など役所街となっている。
戦国時代には、この地に里見氏が進出して、この地を支配したが、以降は戦乱の波に呑まれ城、館の存在は不明である。
この模擬天守は昭和42年に建てられたもので、千葉市立郷土博物館となっている。
内部には中世から戦国までの歴史が事細かに説明されていて、分かりやすい。
以前にはプラネタリウムも設置されていたが、現在は廃止されている。
『千葉・飯香岡八幡宮』
千葉県市原市に鎮座する「飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)」である。
駅はJR内房線の「八幡宿(やわたじゅく)」である。
本殿は国の重要文化財、拝殿は県の指定有形文化財となっている。
この地は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征時に、当時六所御影神社と云われたこの神社で休息した時、神官が食事を捧げ、尊が飯の香りを褒めた故事から、飯香岡と呼ばれるようになったと云われる。
八幡神社として整備されたのは白鳳時代で、石清水八幡宮別宮の市原八幡宮とされた。
中世以降、源氏・千葉氏・足利氏・徳川氏の崇敬を集め、また上総の国の国府総社と云われている。
秋季の例祭では柳で作った楯を先頭にした柳楯神事が行われる。
武家の崇敬を集める神社ならではである。
『堺市・百舌鳥八幡宮』
大阪府堺市にある百舌鳥(もず)八幡宮である。
鉄道の駅に「八幡」と付くものがあるが、それは八幡宮や八幡神社に因んで名付けられたものであろう。
そこで駅名から探して、八幡神社を訪ねて見ることにした。
今までに行ったのも含めて、可能な限りアップすることにしたい。
まずは京阪電車の「八幡市」にある「石清水八幡宮」であるが、ここは既にアップしているので割愛し、今回は南海電車高野線「百舌鳥八幡宮」とする。
八幡宮は一般的に応神天皇を祀る神社で、欽明天皇の時代に創建されたものとされている。
この百舌鳥八幡宮も、欽明天皇がこの地を幾万年までも静まるようにと八幡大神の神託を受け万代(もず)と名付け、神社を創建したと云われている。
この地域百舌鳥は古墳の多いところで、最大の古墳で応神天皇の子である仁徳天皇の陵は良く知られている。
またこの神社では布団太鼓という祭りがおこなわれる。