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『姫路市・大塩天満宮』

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 兵庫県姫路市の東端にある大塩天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十七番である。

 先の曽根天満宮より西に日笠山を挟んで近い場所にある。
 山陽電車の大塩駅が最寄である。
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 道真公は大宰府に左遷される途中に、この大塩荘の寺に霊鏡を納めたと云われる。
 鎌倉時代になって兵乱を避けるため、地元の人たちがこの霊鏡を山に埋めその山を天神山と称し、祠を建てた。

 戦国時代になってこの地の豪族大塩氏が、その祠を現在の地より少し北に移転し、天満宮として整備した。
 平成10年に都市計画により、現在の地に移されている。
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 神門、拝殿、本殿は新しい。
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 この天満宮では秋季例祭に8頭の毛獅子の舞が奉納され、6台の屋台も繰り出される。
 この毛獅子の舞は兵庫県の重要無形民俗文化財に指定されている。


 

『高砂市・曽根天満宮』

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 兵庫県高砂市曽根に鎮座する曽根天満宮である。
 菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十六番に選定されている。

 山陽電車の曽根駅から北に参道が続く。
 境内には上掲の随神門からお参りすることになる。
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 境内はかなり広い。
 拝殿本殿にお参りし、広い境内を巡ってみる。
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 梅林があり、紅梅が咲き始めている。
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 この天満宮、道真公が大宰府に左遷され流されたとき、近くの港に立ち寄り、日笠山の頂上から瀬戸内海を眺めるとともに、一本の松をこの神社の地に「我に罪なくば栄えよ」と云い、手植えしたと云う逸話がある。
 神社西方に日笠山が見える。
 松の木は成長し、曽根の松として天然記念物にも指定された。
 またその松を祀る霊松殿も建てられている。
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 曽根の松の碑の隣には心池と云うのもある。
 松に常々水を与えるのに設けたと云われている。
 また右手の池に架かる石橋には唐草模様の透かし彫りがされていて見事である。
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 この天満宮の創建は菅公の四男淳茂公であるが、戦国時代になって豊臣秀吉の播磨侵攻により焼かれた。
 その後江戸時代になって、家康の息女で姫路城主池田輝政の側室督姫の寄進により再建された。
 以後幕府から朱印状を賜っている。

『兵庫明石・休天神社』

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 兵庫県明石市の人丸前駅の道ひとつ挟んだ南側にある休天神社(やすみてんじんしゃ)である。
 この天神社は、菅原道真公の聖蹟二十五拝の第十五番となっている。
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 この神社の謂れであるが、この場所は当時の明石駅長の居宅であった。
 讃岐国司に任じられていた道真公が京と讃岐を行き交う道中にしばしば立ち寄り、都度語り合った所である。
 道真公が藤原時平の謀略により大宰府に流された折にも立ち寄った。
 道真公の境遇に驚いた駅長に、 
「駅長驚くことなかれ 時の変改するを 一栄一落 是れ春秋」
 という言葉を残したと云われる。
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 道真公の死去に接した駅長は、邸宅に祠を建て公を偲んだと云われる。
 江戸時代になって、明石藩主松平公が社殿を創建し、休天神社と名付けたと云われる。
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 尚、人丸(ひとまる)と云う駅名、地名は変わった名前であるが、この北にあり東経135°の子午線が通り、天文科学館と柿本神社の小高い山がある。
 その柿本神社は飛鳥時代の歌人柿本人麻呂を祀っている。
 人麻呂が人丸と訛り、山も街もそう名付けられたと考えられる。

『神戸須磨綱敷天満宮』

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 神戸市須磨区天神町に鎮座する綱敷天満宮である。
 山陽電車須磨寺駅から東南方向、海岸の方向に智慧の道と名付けられた道を歩いて5分位のところにある。
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 この時節、梅はまだ早いかと思いつつも、境内の正面の梅林に少し咲き始めている。
 紅の梅は「紅冬至」、白の梅は「雲龍梅」と云う名付けがされている。
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 梅林の中には5歳の時の菅原道真の像、そして母の像、また天神さんとは関係がないが一の谷合戦800年の石碑がある。
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 境内の中央に三重塔が建立されている。
 天満宮の鎮座1000年を記念して建てられたものである。
 その他にも筆塚、波乗り祈願の標柱と像が建てられている。
 波乗りとは、人生の波に上手く乗れるようにと云うことだそうである。
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 そして本殿へのお参りし、御朱印を頂いた次第である。
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 この須磨の綱敷天満宮は、菅原道真公の聖蹟二十五拝に選定されている。
 選定者は北海道を探検し、北海道の名付け親となった松浦武四郎とのこと。
 因みにこの綱敷天満宮はその第十四番である。

 また綱敷とは、道真公が九州大宰府に流された時にこの須磨の浦に立ち寄り、船の綱をたくし上げそれを円形座布団とし、地元の人と円座になり語り合ったことから、道真公亡き後の天満宮建立時に名付けられたものである。

『大阪枚方・百済寺跡』

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 大阪府枚方市の京阪電車交野線宮之阪駅の東の交野ケ丘にある百済寺跡である。
 百済寺跡は国の特別史跡に指定され、現在史跡公園としての整備途中でもある。
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 この地は古代奈良時代に朝鮮半島の百済国が新羅や高句麗に滅ぼされ、百済王以下多くの貴族や国民が日本に移って来て、最終的にこの地に落ち着き、住まい下ところである。
 そして百済寺と、歴代の百済王と牛頭天王を祀る百済王神社も創建したのであった。

 百済寺は金堂・東塔・西塔を備えた寺院であった。
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 またこれらは回廊で囲まれた中心伽藍であり、上掲の伽藍図のようにその外に講堂や食堂を備えていた。
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 それぞれの建物の跡には礎石跡も見られるが、下記は東塔の礎石跡である。
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 西には百済王神社が鎮座している。
 拝殿は新しいが、正面の石の鳥居は江戸期の建立である。
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 またこの百済王のところには、都から桓武天皇が訪れて滞在したこともある。
 そのことにより交野行宮址ともされている。
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 尚、朝廷から百済王と称することを許され、渡来当初は難波宮辺りに住まいしていて、陸奥守が与えられていた。
 陸奥国で大量の黄金が発掘され、それを聖武天皇に献上した百済王氏は東大寺の建立に寄与したとして、河内の国が与えられ、この枚方の地に住まいしたと云われている。

『河内国・佐太陣屋跡』

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 大阪府守口市佐太中町にある江戸時代の役所、佐太陣屋跡である。
 永井氏が枚方市の渚(前出)から、この地に陣屋を移設したもので、写真の左半分の市のセンター施設のところが陣屋跡である。
 右手の竹林と遺構の石垣のところに陣屋跡の説明パネルがある。
 説明によると永井氏は美濃加納藩の藩主で、知行地の一つである北河内に陣屋を設けたとある。
 そしてこの佐太陣屋は藩の大坂蔵屋敷の役目をしていたとのことである。
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 陣屋跡の隣にある寺は来迎寺と云い、元は守口市駅近くの来迎町に南北朝時代に創建されたもので、南朝後村上天皇の勅願所となった寺である。
 その後、寺は移転を重ね、陣屋ができる10年前にこの地に移動し、隣に陣屋が構えられた。
 当時は大念仏宗の本山の一つであったが、現在は浄土宗に改められている。
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 陣屋跡、来迎寺に続いてその突き当りには佐太天神宮が鎮座する。
 この神社は菅原道真公を祀る神社である。
 道真公は大宰府に左遷され向かう途中、この地に立ち寄り、自画像や木像を残したと云われる。
 道真公が亡くなってから後に、それを祀る神社が創建されたのがこの神社であり、陣屋跡一帯は歴史的に興味深い場所である。
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『河内国・長尾陣屋跡』

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 大阪府枚方市のJR学研都市線長尾駅の西、長尾元町にある長尾陣屋跡である。
 長尾陣屋は、江戸時代に大坂東町奉行を務め、且つ長尾村などを開拓して知行地とした久貝(くがい)正俊の一族が政庁として築いたものであるが、遺構はこの場所には無い。
 現在は畑や商店や住宅街となっている。

 長尾から枚方に延びる旧街道に面してその南側に築かれていた。
 現在の目標とされるのは、長尾谷高校の南側(写真の左手)、瑠璃光院の東側(写真の右手)である。
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 陣屋門が電車の駅で2駅南に行った戦国時代の津田氏の城下、津田地区の圓通寺の寺門として移築されてるのが唯一の遺構である。
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 余談であるが、津田氏は本願寺との結びつきが強く、一向道場尊光寺の法主は領主津田正明の弟の正則が務めた。
 正明は天王山山崎の戦いで明智光秀に与したため、秀吉に津田城も寺も焼かれたと云われる。
 津田地区は戦国から江戸期の面影が残されてる味わい深いところでもある。
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『河内国・水野陣屋跡』

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 大阪府枚方市の京阪電車牧野駅のすぐ東にある江戸時代の水野陣屋跡である。
 地域名は坂と云い、坂陣屋とも呼ばれる。
 現在は商店街と住宅地、道路になっていて遺構は見られない。
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 この陣屋は戦国期からの徳川武将である水野守信の6代目水野忠晉(ただゆき)が知行地に建てたものである。
 守信は大坂町奉行や堺奉行そして総目付・大目付を歴任した人物であり、水野家の知行は河内、近江、大和国にて合計5700石であった。
 この地の郷代官として片埜神社の神職岡田氏が務めたと云われる。
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『河内国・渚陣屋跡』

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 大阪府枚方市の京阪電車御殿山駅の東方、33mの御殿山にあった渚陣屋跡である。
 渚陣屋は淀藩主永井尚政の3男伊賀守尚庸が2万石を分知され、大名となり築いた陣屋(城)である。
 御殿山陣屋とも呼ばれる。

 尚庸は将軍徳川家綱の小姓を務めたこともあってか、その後3万石に加増され京都所司代などを務めた。
 子孫は転府を繰り返し、最後は美濃加納藩主として明治維新を迎えた。
 
 現在の御殿山には、上掲の同名の神社が鎮座する。
 並んで公園も造られている。
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 神社の前に美術センター・図書館が新たに建てられている。
 この美術センター建設の時に発掘調査が行われ、弥生時代からの遺跡に加えて、陣屋の遺構も発見されたと云われる。
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 山頂から淀川対岸の高槻方向を見た風景である。
 低い丘ではあるが、見通しは良い。
 この陣屋があったことから、丘には御殿山と呼ばれるようになったと云われる。
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 別途、尚政の5男尚申には別途3千石が分与され、淀と御殿山の間の船橋に陣屋が築かれた。
 更にその中の1千石が尚令に分与され、寝屋川市葛原に代官所が築かれた。

 尚、当時の淀川べりを眺めてみると、現長岡京市にあった長岡藩、その対岸の淀藩、そして下流の高槻藩とその対岸の北河内、淀川の両岸の地域を永井氏一族が支配したのであった。

『山城国・稲八妻城跡』

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 京都府南部の相楽郡精華町にある稲八妻城(いなやづまじょう)があった城山である。
 築城時期は不明であるが、室町時代にこの南山城の国人たちが守護や地頭を排して、7~8年もの間自治を行った拠点として知られている。

 この地域でも、室町時代、守護の畠山とその同属の争いが行われた。
 それに辟易した国人や農民達は畠山にノーを突き付け追い出し自らが自治を行ったのである。

 幕府は恐らくは好きにさせていたのであろう?
 新たに守護として伊勢氏を任命した。
 そしてその伊勢氏は、奈良の古市氏を頼み、この自治組織を稲八妻城にて撲滅させ、本来の幕府管理下に戻したのであった。

 稲八妻城は、現在の精華町北稲八間(きたいなやづま)という集落にあった。
 鎮守社武内神社の背後(西側)が城山である。
 尚、冒頭の写真は、城山を南から眺めたものである。
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 その背後を許される範囲で、見てみた。
 城跡の雰囲気がするところも見られる。
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 この城山の頂上には、町の貯水施設や公園状の広場に東屋がある。
 また頂上付近にも郭跡なのか、削平地がある。
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 城山の南には、阿弥陀寺がある。
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 またその南の別の小高い丘には観音寺がある。
 観音寺は元々平地の現在の公民館のところにあったそうであるが、諸般の事情で移動したと説明されている。
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 その公民館の前には地域の案内板がある。
 城跡やその関係のものが良くわかる。
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 城に立て籠もった人々が、城が潰され殺されると云う予感の下、生前に建立した14基の五輪の塔と地蔵尊の「逆修(げきしゅう)の碑」が城山の南の現在の共同墓地に収められている。
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 この地域は古くからの集落である。
 江戸や明治の頃からの住宅がそこここに見られる雰囲気のある稲八妻城址の周辺である。
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『山城国・大住城跡』

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 この竹林が中世の城、大住城の跡地である。
 京都府京田辺市の大住城ノ谷と云う住所地にある。

 大住と云うのは大隅、現在の鹿児島県の大隅半島から7世紀ごろに渡来した大住隼人が住みついたのでその名がある。
 大住氏は月を信奉し居住地に月読命を祀る月読神社を創建した。
 そして隼人の舞を奉納した。都の宮中でも奉納したと云われる。
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 隼人が渡来する前、この地区には既に古墳が祀られていた。
 チコンジ山古墳と云う。
 最近では学者先生たちが大住車塚古墳と名前を付け、国の史跡になっている前方後方墳である。
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 さて、月読神社の東、チコンジ山古墳の南の丘に大住城はあった。
 隼人たちは奈良平安時代を過ごし、鎌倉時代を迎えたがあ、そのころになると世の中がキナ臭くなる。
 大住隼人も戦時に対応するために築いたのが大住城である。

 現在の城跡は竹林となっている。
 大住隼人は月を信仰し、その月へ真っ直ぐ伸びるものとして、竹を大切にしていた。
 城の用が無くなってから、城跡全面に竹を植えたものであろう。
 現在は山城筍の産地となっている。

 城跡の中を歩いてみると、幾つかの削平地が見られる。
 ただしこれらは城跡なのか、後世加工のものなのかは決めつけることはできない。
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 城跡の外側から見てみると、大住は桃の産地であり、周辺に桃の林がある。
 また城跡に隣接して大きな住宅街がある。
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 しかし、城跡は竹林として残されているのは、感慨深いものがある。
 そして、伝統の隼人舞は城跡の西に隣接する中学校の生徒たちに引き継がれ、毎年毎年、祭礼の日に舞われている。

 

『大和国・貝吹山城址』

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 奈良盆地南部の山岳地帯に掛かる辺り、高取町の貝吹山210mの山頂に築かれていた貝吹山城址である。
 貝吹山城は鎌倉末期から南北朝時代に、大和四家で奈良の南西部一帯を支配した越智氏が築いた城である。

 越智氏は南北朝の時代には南朝方に与し、北朝方の大和の衆徒国民達と争った。
 足利氏の室町幕府の時代以降、大和は戦乱の世となり、大和四家を中心に覇権争いが絶えなかった。
 その中で越智氏は一貫して筒井氏と対抗した。

 最終的に筒井氏に敗れ、貝吹山城は筒井氏のものとなった。
 その後大和に入った松永久秀の城となった。
 その後越智氏は城を奪還したもの、再び松永に明け渡され、信長の一国一城令により廃城となったと云われる。

 城址へは東南部の尾根筋から登る。
 上り口付近には乾城古墳がある。
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 登城道はハイキングコースになっていて、整備が行き届いているが、落ち葉のシーズンである。
 急坂もあり滑りやすい。
 途中には曲輪があったであろう削平地も幾つか見られる。
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 山頂に近づくと多段の曲輪跡があり、頂上の主郭跡に到達する。
 また牛頭天王を祀っている社跡もある。
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 頂上の直ぐ北西直下には二郭の跡であろうか、広い削平地がある。
 その先は急な落ち込みとなっていているが、木の間から二上山が正面に見える。
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 下城して貝吹山を眺めてみる。
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 そして南の道路を西の高取方向に向かうと、越智と云う集落がある。
 その集落の東の谷間に越智氏の居館跡の越智城址がある。
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『大和国・狐井城跡』

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 奈良県香芝市狐井(きつい)の小高い丘にある140mの前方後円墳、狐井城山古墳である。
 この古墳の上部には名前に示されるように、南北朝時代から城が築かれていた。
 築城主は興福寺一乗院方の岡氏で、岡氏は越智氏や万歳氏に与し、筒井氏や箸尾氏と争っていた。

 そこに、大和に松永久秀が割り込んできたが、岡氏は今までの関係から筒井氏に敵対して久秀に与した。
 久秀が敗れると岡氏も滅ぼされ、城も廃城になったと云われている。

 古墳の後円部は空濠となっており、隣接する住宅地と繋がっている。
 古墳内への進入路も見当たらず、止む無く外から眺めただけであった。
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 後円部の南側にぽっくり寺で知られる阿日寺がある
 その南に素戔嗚命を祀る牛頭天王社杵築(きつき)神社が鎮座する。
 また隣接して良福寺がある。
 神社や寺院、そして城に沿って狐井街道が南北に通っていた。

 そして前方部の北には小さな神社や福應寺、万徳寺がある。
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『大和国・上窪田居館』

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 奈良の法隆寺の東南方向、生駒郡安堵町の南部の大和川に近いところに上窪田環濠集落がある。
 この地は元々、平安時代以来興福寺の荘園としてあったが、室町時代に足利高氏に伊勢の国から同道した武家足立氏改め窪田氏が功により御家人とし支配することになり、二重の濠に囲まれた居館を築いたと云われる。

 そして南北朝が合一された足利義満の頃には中氏と改姓し、この地の武家豪族として支配した。
 中氏は戦国時代には筒井方に与し戦ったが、筒井氏の伊賀移府には同道せず、大和に入府した豊臣秀長の家臣となり、改めてこの地を拝領したと云われる。
 そして江戸時代には帰農してこの地で庄屋を務め、現在に至っている。

 中氏の住宅は江戸初期から中期に建てられたもので、周囲の濠も合わせて国の重要文化財に指定されている。
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 同じ環濠の中には中氏の一族である石田氏の屋敷がある。
 この邸の門は多聞山城の城門を移築したものであると云われている。
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 また環濠の周囲には、大神宮や牛頭天王と刻された燈籠が並んでいる。
 北にある二重の環濠部分は少し荒れているようで、養生がなされている。
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『大和国・南郷城趾』

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 奈良県北葛城郡広陵町の南郷環濠集落の濠の内にある南郷城趾の石碑である。
 広陵町役場の直ぐ南側にあり、濠や土手は整備されていて、一部公園・遊歩道化されている。
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 南郷の集落は中世以来興福寺の荘園として管理され、在郷の大乗院方の国人である南郷氏が城館を築き統治していた。
 この地は、大和四家箸尾氏の領地の南端であるが、南郷氏は箸尾氏には味方せず、南にあったこれも大和四家の越智氏に与して戦国時代を過ごしたと云われているが、その先は不明のままである。

 関ヶ原以降の徳川時代には、この南郷の地は幕府の直轄地として代官北見氏が治めることになり、南郷城の跡を整備して陣屋を築いた云われている。

 城跡は環濠の東南隅にあった。
 現在は全面住宅地となっているが、その中ほどの一角の地に上掲の石碑が建てられている。
 また、城館地の東北には鎮守の紀州和歌山市の日前宮と伊太祁曽に祀られている三神の分身を祀る熊野三柱神社が鎮座していて、紀州との繋がりを示唆している。 
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『大和国・細井戸城跡』

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 奈良県中西部の北葛城郡広陵町にある町立広陵西小学校の校門・校舎である。
 この小学校が興福寺一乗院方の国人、細井戸氏の細井戸城の主郭跡と云われている。
 主郭の東側の一段と低く整地されている運動場は副郭や堀があった模様であるが埋め立てられ遺構は何も見られない。
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 城跡は山の東側斜面であり、更に低地へは城の建築物や城下町が広がっていたと思われる。
 運動場の向こう側には、小さな神社そして幼稚園、住宅地を挟んで天照皇大神社が鎮座する。
 この辺りまでが城内であったと考えられる。
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 細井戸氏は筒井氏に与し、他の大和四家の越智氏や十市氏、ひいては松永久秀に与する箸尾氏と戦い苦戦を強いられた。
 一国一城令により城は廃城となったが、最終的には領地は残された。

 細井戸氏は江戸時代になって大坂夏の陣に豊臣方となって参戦するも敗れ、城があった辺りは平尾村として今日まで存続している。

『大和国・箸尾城址』

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 大和四家の一つ箸尾氏の城があった箸尾城址の石碑である。
 場所は近鉄田原本線の箸尾駅の南側の集落である。
 城は濠で囲まれており現在もその名残の水路が見られる。
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 城跡の東には聖徳太子が開基した「大福寺」という古寺がある。
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 西には蓮如上人が建立した箸尾御坊「教行寺」があり、城が廃城となった後は、この寺を中心として寺内町が形成され箸尾の町は栄えた。
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 箸尾氏は、南北朝時代には、越智氏と共に南朝方であった。
 室町時代、大和は興福寺衆徒筒井氏や国人の箸尾氏、十市氏、越智氏の間で応仁の乱を始め戦乱が絶えなかった。
 そこに戦国末期、松永久秀が大和支配に乗り込み一層複雑となった。

 箸尾氏は久秀に与したりしたが、筒井氏の覇に伴って筒井氏の配下となり、箸尾城も不要となり破却された。
 筒井氏が伊賀へ転府になると同道せず、今度は大和に入った豊臣秀長の家臣となり、そのあと城主となった増田長盛に仕え、生き永らえたと云われている。

『大和国・芝村陣屋跡』

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 奈良県桜井市の三輪山の北西部で箸墓古墳の南に江戸時代中期からの陣屋、芝村陣屋があった。
 織田信長の弟の織田有楽斎の四男織田長政が戒重藩を立藩し、7代目の織田輔宜(すけよし)の時にこの芝村陣屋に引っ越した。
 藩名は芝村藩、この地で明治まで続いた。

 現在の陣屋跡は桜井市立織田小学校となっている。
 上掲の写真は小学校の正門であるが、城郭の雰囲気を残している。
 また、取り囲んでいる塀の石垣は補強はされていようが、当時のものが残されているようである。
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 陣屋跡の北にある弁天池は堀の遺構である。
 また、南西側には江戸から明治にかけての町並みが見られる。
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 陣屋跡の西に隣接して織田信長公を祀る建勲神社が鎮座している。
 元々は陣屋の隅にあったものを移設したものである。
 織田家の木瓜紋が見られる。
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 西側の道路を挟んだところに慶田寺がある。
 織田家の菩提寺にもなっている。
 寺門は陣屋門が移築されたものである。
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 そして墓地には織田家の墓所がる。
 右奥に織田有楽斎の墓も確認できる。
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 この芝村陣屋と芝村藩、学校に織田の名前を残したり、綺麗に整備されていることから、織田氏の善政が後世にも語り継がれているものと思われる。

『大和国・柳本陣屋跡』

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 奈良県天理市にあった江戸時代の柳本藩庁は黒塚古墳を中心に築かれていた。
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 織田信長の弟で織田有楽斎(うらくさい)として知られる織田長益(ながます)は、徳川幕府が開かれてからも豊臣氏と一緒に大坂城内にいたが、いよいよ決戦の大坂夏の陣の前に城を出て隠居し、領地を子供たちに分与した。
 1万石を分与された五男尚長は柳本藩を立藩し、陣屋を古墳を中心として築き、大名として係累は明治まで続いたのであった。

 陣屋跡の黒塚古墳は、JR万葉まほろば線の柳本駅の東10分ぐらいのところにある。
 古墳の南には柳本小学校があり、この場所にも城郭が築かれていたと云われる。
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 古墳の後円部の濠の外側は公園になっていて、古墳展示館も建設されている。
 資料館の中には、竪穴式石室が復元されていて、発掘された三角縁神獣鏡のレプリカも置かれている。
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 柳本陣屋(黒塚古墳)の国道を挟んだ東には第10代崇神(すじん)天皇陵に比定されている行燈山古墳がその威容を示している。
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『大和国・戒重陣屋跡』

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 奈良県桜井市の戒重地区にある戒重陣屋跡の春日神社である。
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 玉垣の中は土盛がされていて、その土盛に拝殿・本殿が鎮座している。
 城の土塁の名残であろうか?
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 戒重陣屋は織田信長の弟、織田有楽斎(うらくさい)の4男長政により築城された戒重藩の藩庁である。
 有楽斎は大坂冬の陣までは大坂城内にいて、豊臣特に淀君と徳川方との調整役を務めていた。
 その調整が不調となり、夏の陣が始まるまでに大坂城を出て隠居した。
 3万石の知行地を有していたが、自らは知行1万石で隠居し、残りの2万石を1万石づつ、4男と5男に分け与えそれぞれ大名としたのであった。
 その後、戒重藩は藩庁を北の芝村に移すのであるが、それまではこの地で政治を行ったのであった。

 戒重陣屋は桜井駅の北西、10分位のところにある。
 町は現代化されていて、偲ぶものはなかったが、唯一地名がそれを偲ばせてくれるのはまた格別でもある。
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 尚、この春日神社は式内社「他田坐天 照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社」の論社とされている神社でもある。

『奈良桜井・箸墓古墳』

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 奈良県桜井市の箸中地区にある「箸墓(はしはか)古墳」である。
 正式には「大市墓(おおいちぼ)」と云い、第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓に比定され宮内庁の管轄である。
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 しかしこの墳墓、学者の中では邪馬台国の卑弥呼の墓であるとの研究が進んでいる。
 また、いち早く地元では、卑弥呼であるとして観光誘致の動きをしている。
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 箸墓古墳は前方後円墳である。
 後円部と南側には堀はなく道路と民家に接している。
 埋め立てられた結果かも知れない
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 北部にのみ濠が設けられている。
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 一昨年この墓の調査が始められており、歴史の有り様が明らかになる時を向かえることになるかも知れない。

『尾張国・名古屋城』

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 名古屋城は徳川家康が征夷大将軍に任じられ幕府を開いた後に、天下普請にて築城されたものである。
 関ヶ原の後、豊臣方であった外様大名たちを使役に駆り出し、徳川方の親藩や譜代の大名たちはその設計施工管理にあたったと云われる。
 遠国へと領地を定められた豊臣大名たちは、自らの城の普請で財政が窮乏していたことに加え、多くの城の天下普請という重なる使役に財政・体力も極限であったと云われる。

 天下普請の証拠として、清正石というのがある。
 しかし加藤清正は石垣の担当ではなく、この石は担当していた黒田長政の長政石と呼ぶ方が正しいと説明されている。
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 天守はかつてなかった最大級のものである。
 徳川の威信と東海道を護り、そして大坂城包囲網を狙ったものであった。
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 城は昭和の時代まで残っていたが、名古屋空襲で破壊された。
 天守は戦後、コンクリート造りで再建されたものである。
 また本丸御殿復元工事も現在行われている。
 空襲を逃れた隅櫓や門は当時の姿を見せている。
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 名古屋城の建設地はかつて今川氏親が築城した那古屋城の跡地を含んでいる。
 織田信長の父、織田信秀は氏親からこの城を奪い、しばらくの間居住したと云われている。
 一説に信長もこの地で生まれたとの話があるが、真偽の程は定かではない。
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 元離宮名古屋城は一大観光スポットである。
 冒頭の「はち丸」くんも大活躍である。
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 尚、まったくの余談であるが、名古屋城建設の時に徳川家康が人夫用の料理として、平打ち麺なるが故に早く茹で上がる「きしめん」を考案したという話もある。

『天王寺七坂・安居神社』

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 大阪市天王寺区の生国魂(いくたま)神社から一心寺の間に上町台地から西に下る坂、天王寺七坂がある。
 一番南の坂は逢坂(おうさか)と云い、大阪の地名の由来となったところである。
 その北側の坂は天神坂といい、天神菅原道真を祀っている神社からの名付けである。
 逢坂と天神坂の間のこの天神社は安居(やすい)神社あるいは安居天満宮と云う。
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 菅原道真公が大宰府に流された道中で、河内の道明寺のおばの覚寿尼(かくじゅに)を訪ねる途中に道真公は四天王寺に参拝した後、この神社で休息したと伝わる。
 近くの村民達が道真を接待すべく、蒸米を固め乾燥させた「おこし米」でもてなした。
 道真公が大宰府で亡くなった後、しばらくしてこの神社に道真公を偲び公を合祀したのであった。

 余談であるが、この故事が大阪名物『おこし』の始まりと云われている。
 また「粟おこし」の商標に道真公の梅鉢紋が使われているのはこの故事によるものと云われている。

 安居神社の境内は真田幸村の終焉の地として知られる。
 大坂夏の陣の時、茶臼山に陣を構えた真田幸村は、攻めてくる徳川軍の主将家康の咽喉元まで迫ったが逃げられ、暫しの休息をこの神社で取っているところを襲われ、命を落としたのであった。
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 幸村は敵に襲われた時「ワシの首を手柄にせよと」言い残した。
 幸村には正室である大谷吉継の娘との間に長男大助がいたが、これも大坂城落城の時城内にて自害し、真田の嫡流は途絶えたのであった。
 尚、次男は片倉氏を名乗り、仙台真田家の初代となった。

『摂津国・茶臼山砦跡』

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 大阪市の天王寺公園の中にある茶臼山古墳の後円部には、戦国時代に三つの軍により砦が築かれていた。
 最初は細川晴元の家臣であった山中又三郎が築城したのを大塚城と云う。
 しかし大塚城は、対立する細川氏綱に攻められ、程なく落城したと云われる。

 次の砦の築城主は徳川家康、大坂冬の陣の時である。
 砦付近では特に戦闘もなく、冬の陣は終結した。

 最後は上掲の如く、大坂夏の陣の真田幸村の茶臼山砦である。
 冬の陣で大坂城を丸裸にされた豊臣軍は場外へ戦場を求めるしかなかったからである。
 この砦で幸村は、徳川家康と直面し、家康の咽喉元まで迫ったと云われる。

 茶臼山には真田と徳川の対戦する様子の説明板がある。
 茶臼山と河底池の石柱がある。
 そして階段を登ると郭跡であろう、削平地がある。
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 河底池と茶臼山のコントラストである。
 古墳の後円部であることが良くわかる。
 また池畔から北方を眺めると、通天閣がいかにも大阪と云う風景を醸し出している。
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『摂津国・真田丸跡』

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 今から400年前、大坂冬の陣の時に、真田幸村が大坂城外に築いた出城「真田丸跡」である。
 場所は大坂城の外堀(長堀)の平野口の南、上町台地で現在は宰相山と云われる一帯である。
 籠城戦法を取る豊臣方であるが、唯一城外に出て戦った砦である。

 真田幸村はこの砦にて徳川軍を翻弄した。
 そしてその結果戦況が籠城側に有利に働いたが、徳川軍は予め準備していた大砲を城内に撃ちこみ、当初の目論み通り和議休戦へ持ち込むことに成功した。
 和議の結果、真田丸は破却、外堀、内堀は埋め立てられ、二ノ丸、三ノ丸も破却となり、大坂城は裸同然となり、夏の陣へ向かうのであった。

 上掲の写真は真田丸の西端に、その後に真田家の係累によって創建された真田親子(幸村、大助)の菩提を弔う「真田山心眼寺」の山門である。
 寺は大阪大空襲で破壊されてその後に再建されたものであるが、石垣や塀は城郭の趣を備えている。
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 大坂城内から真田丸へは抜け穴が掘られていたとと云われる。
 その真田丸側の出入り口は宰相山の東斜面の三光神社の境内にある。
 真田丸の東端である。
 そこには戦う幸村の像も建てられている。
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 来年の某公共放送の大河ドラマは「真田丸」だそうである。
 この辺の大坂の陣の経緯や幸村の生き様が示されるものであろうか…。

『大阪・四天王寺』

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 大阪市天王寺区や天王寺駅の名付けの由来となっている我が国最古の官寺四天王寺を訪ねた。

 四天王寺は現在のどの宗派にも属さない和宗である。
 古代、聖徳太子と蘇我氏が物部守屋と戦った時、太子は四天王を彫り、勝利の祈願をした。
 勝利した太子は願掛け通りに四天王を祀ったのがこの寺であった。
 しかし当初の場所は現在の森ノ宮の辺りと云われ、その後古墳があった現在の場所、荒陵(あらはか)に移設してして、興隆を迎えることになったという経緯がある。

 四天王寺の最寄駅は大阪市地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽ケ丘」である。
 駅から近い中之門から境内に入り、塔頭や元三大師堂や大黒堂の間を抜け、最大のお堂である「六時堂」にお参りする。
 六時堂の前には両側に亀の池、中央に石舞台がある。
 六時堂とともに重要文化財でもある。
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 またその前には引導の鐘「北鐘堂」、そして「亀井堂」がある。
 亀井堂では清水が湧き出ていて、祈祷された木札を浮かべると極楽往生が叶うと云われている。
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 今まで行ったことがなかった「太子廟」にお参りする。
 六角の奥殿の東側に物部守屋等を祀る「守屋祠」があるのは新しい発見であった。
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 中心伽藍を眺めてみる。
 中心伽藍は塀で囲まれていて、南の正面から仁王門、五重塔、金堂、講堂の順で並んでいる。
 残念ながら戦後に再建されたもので、四天王寺式伽藍と云われる並びである。
 また仁王門の南には境内に入る寺門である南門がある。
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 境内に戻り、「西大門」そして西大門の西にあるこれも重文の「石鳥居」を潜った。
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 石鳥居の扁額には「釈迦如来 天法輪所 当極楽土 東門中心」と書かれている。
 平安時代、西大門はその西方の海の彼方にある極楽浄土の東門であると信仰されていた。
 この鳥居から海に沈む夕日を拝し浄土を思う霊地と云われている。

『摂津国・天王寺砦跡』

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 大阪市上町台地の夕陽ヶ丘、生玉寺町にある天王寺砦跡である。
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 天王寺砦は、本願寺と信長の石山戦争の時に、信長方が築いた砦であった。
 築城主は塙直政で、塙の他に明智光秀や佐久間信盛も入り、本願寺側の木津砦や三津寺砦に対抗した。

 砦跡の現在は、月江寺(げつこうじ)という尼寺が元禄の頃に創建され、現在も月江寺である。
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 信長方は本願寺方の砦を襲ったが、逆襲に遭い、塙直政は戦死と云う憂き目にあった。
 その事態を重んじた信長は自ら出陣し、足を撃たれながらも奮戦した。
 そして本願寺軍を石山本願寺まで壊走させたと云われている。

 

『摂津国・木津砦跡』

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 大阪市西成区の阪和国道26号線と阪神国道43号線との交差点の西南西の方向へ直ぐに、石山本願寺と織田信長との石山戦争の時に本願寺方が築いた木津砦があった。
 鉄道駅で云うと、JRと南海の新今宮駅から西南西の方向に歩いて10分程度のところである。

 木津砦は現在の大阪城の場所にあった石山本願寺に、海路から食料や戦略物資を上陸させる港を護る砦であった。
 もちろんのこと海路を司るのは本願寺に味方をする西国毛利や村上の水軍である。
 織田の九鬼水軍などを退け、海路をほしいままにしていた。

 本願寺撲滅を計る信長は、この水軍にはホトホト手を焼いていた。
 船に攻めかかったり、砦に攻めかかったりしたが、どれも効き目はなかった。

 苦境を打開したい信長は九鬼に燃えない鉄船を作らせ、港を護る水軍を襲った。
 そしてようやくのこと、木津港一帯の制海権を得、それを契機にに石山戦争を有利に展開し、勝利したのであった。

 木津砦跡は上掲写真の出城公園となっている。
 そしてこの地域の町名も出城である。
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 また公園の北側には国道43号線が通っていて、交差点名にその名を残している。
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 公園の写真にあるように砦跡の向こう側にはニトリがある。
 そしてその向こうには府立今宮工科高校がある。
 そして冒頭の国道同士の交差点の歩道橋の上はあべのハルカスを見通すことができるベストポイントでもある。 
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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