『河内国・千早城阯』
日本の100名城の1に数えられる千早城は鎌倉時代に楠木正成が築城した山城である。
大阪府最高峰金剛山1125mの西に連なる前山673mにある。
楠木氏はこの金剛山系を始めとして7城を構えていたが、この千早城は詰めの城であった。
現在は千早神社の境内となっていて、駐車場からの比高は175mである。
神社への参道入り口兼登城口である。
楠木軍と鎌倉幕府北条軍との戦いに用いられたダミーの藁人形も再現されている。
案内看板に従い、神社へのお参りと城跡を訪ねた。
最初は石段、階段が続く。
かなりハードである。
先ずは四ノ丸跡に到着する。両側に売店があるかなりな広い場所である。
千早神社の標柱があり、ここから境内となる。
その上の段は三ノ丸である。
表紙の「千早城跡」の標柱があり、神社の社務所がある。
社務所の横の石段を上ると二ノ丸となる。
ここには神社の本殿、拝殿がある。
神社の裏の一段と高いところが本丸跡である。
神社からは入れないので、横の道を巡ってみる。
強引に登ってみると、本丸の石垣も見られる。
最高点には物見櫓があったのであろうか?
本丸の横を更に進んでみる。
回り込むと金剛山への登山道へと出る。
この登山道を少し上った所に楠公の首塚とも云われる守将楠木正儀の墓がある。
この場所からは、金剛山の登山道を城山を上に眺めながら下山した。
千早城は鎌倉幕府に攻められたが、藁人形、石落とし、橋焼などの奇策を用い、護り通したと云われる。
その間に後醍醐天皇は隠岐島から抜け出し討幕の綸旨を全国に発した。
そして新田義貞も挙兵し、手薄となった鎌倉を攻め幕府を滅亡させたのはこの直ぐ後のことである。
この城は歴史に大いなる役割を果たした城と云える。
南北朝時代にも楠木氏の居城となっていたが、末期に北朝の畠山基国に攻められ千早城は落城、60年の幕を閉じたのであった。