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『宝塚市・伊和志津神社』

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 兵庫県宝塚市伊孑志(いそし)に鎮座する式内大社「伊和志津(いわしづ)神社」のかつての社号柱である。

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                                    上図は下が北西方向である。
 
 神社へは、上図に示すが如く阪急今津線の逆瀬川(さかせがわ)駅が最寄りである。
 そして、東北方向へ進んだところに神社の入り口がある。
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 灯篭の間の参道を進むと二ノ鳥居、そして突き当りに冒頭の社号標柱が建てられている。
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 参道が直角曲がり、更に折り返したところが拝殿であるが、拝殿の前には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿本殿である。
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 本殿の祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)である。

 古代この地は伊蘇志臣(いそしのおみ)が拠点としていた地であり、その当時、伊蘇志臣が創建したともいわれている。

 また戦国時代に、加藤清正が朝鮮から持ち帰った虎をこの神社の境内で飼育したとの話もある。
 その虎の飼育であるが、虎は肉食なので、犬を与えようとしたところ、その犬が猟犬であったので虎に咬み付いてしまったと云う。 大切な預かりものの虎だからそれは大変な事態である。
 村の役人が恐る恐る奉行所に相談すると、「犬に咬まれるような虎など、すてておけ」となり、何のお咎めも無かったという逸話が残っている。

 神社の境内には、拝殿の右手に2社の境内社が祀られている。
 手前から、宝塚水天宮、愛宕社である。
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 またこれらの境内社の前には、遥拝所、地蔵舎が祀られている。
 遥拝所は5社あり、手前から大将軍社、山神社、天照皇大神宮、春日大明神、八幡宮である。
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 この前は丘であり、玉垣が続き参道となっている。
 この参道の正面まで行ってみると、そこにも鳥居や社名柱が建っている。
 鳥居は一ノ鳥居、二ノ鳥居である。
 本拝殿との位置関係から見て、こちらが正面参道であろうと思われる。
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 周囲を回てみると、丘の下は道路のトンネルとなっている。
 そして、先の参道へ行ける交差点となる。
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『神戸市・河内国魂神社』

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 兵庫県神戸市灘区国玉通に鎮座する式内社「河内国魂(かわちくにたま)神社」の参道の社号碑である。
 この神社は、阪急六甲駅から出て三宮へ向かう神戸市バスの「五毛(ごもう)天神」バス停下車が最寄りである。
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 参道には一ノ鳥居が建てられ、参道は住宅街の中を進む。
 参道辺りの住所地は国玉通3丁目である。
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 境内への入り口は石段参道である。
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 右隣にかつての神宮寺の禅宗「海蔵寺」があるので、先に訪れてみる。
 本堂前に石造りの阿吽形の仁王像が建っているのは珍しい風景である。
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 寺院から神社へと通路があり、それを通り境内へと向かう。
 境内正面には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿である。
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 背後に本殿が祀られているが、望むことはできない。
 本殿の主祭神は、大己貴命、少彦名命、菅原道真公である。

 この神社は五毛天神と呼ばれてもいる。
 創建は平安時代かそれ以前で、凡河内(おうしこうち)氏が祖神の天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祀ったとの説がある。
 
 その後、時代と共に現在の神々が祀られ、道真公は九州への左遷の旅にてこの地に立ち寄り、その死後に人々が道真公を祀ったとされ、神社名も五毛天神と呼ばれるようになったとのことである。
 境内には、道真公ゆかりの神牛も祀られている。
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 神戸であるのになぜ河内なのであろうか?
 それには、古代には大阪湾沿岸が河内と呼ばれていたからという説、汎河内氏がこの地を支配していたからという説などがある。

 決定的なのは、江戸中期の享保年間に、この五毛天神が式内社の河内国魂神社であると幕府が比定され、以来この神社名が正式名称とされたとのことになっている。

 拝殿の左手には厳島神社と箕岡神社の合祀社、右手には荒川稲荷神社がある。
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 そして本殿であるが、神社の境内の外へ出て、塀の外から木々の間に何とか確認できた次第である。
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『神戸市・保久良神社』

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 兵庫県神戸市東灘区本山町の六甲山麓に鎮座する式内社「保久良(ほくら)神社」の社頭である。

 保久良神社へは、阪急電車の岡本駅が最寄りである。
 駅から住宅街の中を進み、案内票に従って急坂を登って行くと社頭に到着する。
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 神社は、標高185mの所にある。
 眼下に神戸の市街地を眺めることができる。
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 鳥居を潜ると拝殿本殿である。
 本殿には、創建当初には椎根津彦命しいねつひこのみこと)が祀られていた。
 椎根津彦命は神社の南の海岸べりの青木(おうぎ)の浜に、青亀(おうぎ)の背に乗って漂着したという神である。
 またこの神は、神武東征の折、軍勢を先導したとも云われている。
 現在の祭神は椎根津彦命に加えて須佐之男命、大国主命、大歳御祖命の4柱である。
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 保久良神社の地は、古代の祭祀ところであったと云われていて、数多くの磐座がある。
 また、境内周辺から石器時代、青銅器時代、弥生時代後期の弥生式土器や石斧、石剣など種々の遺物が発見され、古代より居住集落が維持されていたと云われている。
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 境内から海の方を見ると鳥居に包まれたように灯篭が見える。
 この灯篭は常夜灯で、その神火は「灘の一つ火」と呼ばれていた。
 その謂れは、ヤマトタケルが熊襲遠征の帰途、夜に航路が不明になった時、保久良神社の灯火に導かれ、無事に難波へ帰り着いたとのことからである。
 それ以来、「沖の舟人 たよりに思う 灘の一つ火 ありがたや」と古謡に謡われ、灯台の元祖となったとのことである。
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『西宮市・名次神社』

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 兵庫県西宮市名次町に鎮座する式内社「名次神社」の鳥居の扁額である。
 名次神社はかつては独立した神社であったが、現在は同西宮市の名神大社「廣田神社」の境外摂社となっている。

 名次神社へは、桜の名所である夙川に沿って走る阪急今津線の苦楽園駅が最寄りである。
 駅から夙川を渡り東の住宅街の中を進むと神社へ達する。
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 神社は名次町の付近より一段と高い丘に祀られている。
 この鳥居は、阪神淡路大震災により倒壊した鳥居の再建である。
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 参道石段を登り詰めた左手に拝殿、本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は水分(みくまり)大神で、名次大神とも云われる衣食住や水利に関わる神である。

 本殿の瑞垣の中には石造りの旧本殿も祀られている。
 そして両サイドに一対の狛犬も祀られている。
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 本殿の外の右側には、稲荷神社も祀られている。
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 神社の丘は名次山と云い、名勝である。
 古代にはこの近くまで海が迫っていて、万葉集にもその風景が詠われている。

 神社の東には裏参道があり、西宮の貯水池となっているニテコ池がある。
 この池の名前の由来の一説に、西宮戎神社の大練塀造営のためにこの地の土を搬出した際に、人夫たちが使った掛け声であると云われる。
 名次の地から西宮神社まで、人夫たちは「ネッテコイ、ネッテコイ」という掛け声を掛け合い運んでいったとのことで、「ネッテコイ」が「ニテコ」に転じたものと云われている。
 また、ニテコ池は野坂昭如「火垂るの墓」の舞台になったことでも知られている。
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『尼崎市・近松公園』

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 兵庫県尼崎市の北部に位置する「近松公園」である。
 近松とはだれか? 云わずと知れた浄瑠璃の脚本家で「曾根崎心中」など世話物で一世を風靡した「近松門左衛門」である。

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 門左衛門は尼崎の廣済寺に縁があり、この寺の裏手に住居を設け執筆活動をしたと云われている。
 その広済寺に隣接する公園は、門左衛門を記念するが如く、近松公園と名付けられたものである。 公園は中央に池を配している。

 その池畔には、アオサギが羽を休めている姿も見られる。
 また、今は盛りの寒緋桜が花を付けている。
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 公園には近松記念館も設けられている。
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 また公園の記念館の前に、門左衛門の座像、食満南北の詠んだ句、「五六人立って 又平 手くらがり」の石碑も建てられている。
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 次に日蓮宗廣済寺である。
 近松の墓が設けられている。
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 廣済寺の左隣は久々知須佐男神社が鎮座している。
 鎌倉時代に、源氏の棟梁であった源満仲公の勧請により建立されたと云われる。
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 また、公園の北側には伊佐具神社、東側には伊居太神社が鎮座していることは、既に述べた通りである。
 公園は久々知という住所地で、東側の伊居太神社との間の交差点に、近松モニュメント「明日への指標」が建てられている。
 この○と一のデザインは、近松の 紋所○をアレンジしたものである。
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 さて、文末に近松門左衛門が「曾根崎心中」を綴ることになった去就を拙作から引用させていただく。
 少々長くなるがご勘弁願いたい。


 さて時は元禄、5代将軍綱吉や水戸黄門の諸国漫遊のころ、大坂では庶民文化が台頭し、華やかになりつつあった。
 劇場物では歌舞伎や人形浄瑠璃が上演され、庶民の一大娯楽となって来ていた。

 ここに竹本義太夫という人物がいる。
 大坂のミナミで、人形浄瑠璃劇場竹本座を営んでいた。
 当時の出し物は、軍記物に限られていたため、客の入りも寂しく、経営危機に陥っていた。
 軍記物とは義経が戦に勝って拍手喝采、楠公親子の別れで目がしらを熱くする、こんなパターンはもう飽き飽きして、興味も薄れていたのである。

 竹本義太夫は語り部である。
 脚本家は、かの有名な近松門左衛門ではあったが、話題が古臭いものばかりで、もう劇場をたたむかの瀬戸際であったのである。

 そこに、大坂の町の北の外れの露天神の森で、心中事件が起こった。
 北の外れと書いたが、当時はここから北は、荒地であった。大阪駅も梅田駅も、曽根崎も、何も無かったのである。
 余談であるが、この梅田の地名は「梅田」=「埋め田」という由来、曾根崎の「曾根」は、「河川氾濫があった場所」を意味するそうである。

 この心中事件があった朝、義太夫は閃いた。
「ひょっとして、新機軸になるかも知れん…」
 たまたま大坂に来ていた近松に、早速、心の内を打ち明けた。

「そのようなものは、書けない」、近松の答えであった。
「男と女の話なんか、日常茶飯事、面白いこともくそも無い」

 食い下がる…、
「門左殿、そりゃそうかも知れん、我が小屋は明日をも知れぬ命、貴殿も、とも倒れになるやも知れん。無理を承知でお願い申す…」

 少し、その気にはなった近松、
「貴殿とは、長いこと一緒にやってきた。上手く当たって、大入り満員の時もあった。だが、近頃はトントだな… ワシも責任の一端は感じておる。ご苦労だが、その現場に案内してくれまいか…」

 2人で天神の森に出かけたのであった。

 天神の森は、もう人もまばらで、平静を取り戻していた。
 近くにいた人に義太夫が「どこか?」と訪ねた。
 大きな木の根本あたりを指差してくれた。

 行ってみると、もう綺麗になっていて、水で洗い流された跡だけが、生々しさを伝えていた。

 暫く、じっと見つめていた近松、「遊郭のあたりへ参ろうか…」
 もう先に立って、歩き出した。

 天神から少し西に行くと、蜆川(じじみがわ)の畔に出た。
 現在の北新地本通りの付近である。

 当時はこのあたり、川は3本あった。 
 南から土佐堀川、堂島川、蜆川である。
 蜆川は、明治の時、曽根崎新地の大火の折に、廃材捨て場となり、埋め立てられてしまったので、今はもう無い 新地の歓楽街になっている。
 桜橋、出入橋、浄正橋などの地名は残されているが…。

 さて、近松と義太夫、堂島新地の遊郭街に入っていった。
 朝まだ早いので、静寂である。  西へ西へと歩いた。

 天満屋という遊郭が近づいたのか、人だかりがしている。
 近松は大店の旦那衆のような身なりである。世話好きそうな女を見つけたので、手招きして聞いた。

「お初ちゃんはね、気風のいい、白黒はっきりした女の子だったね。徳兵衛さんみたいな、気弱な男に同情したんだね。一緒に、死んであげると言って、出て行ったそうだよ」

 言ったというのは嘘である。
 そんなこと誰かが聞いていれば、止めたはずである。

 天満屋から更に西へ、出入り橋まで行った。
 そこから北へ…。もう荒地の中である。油断すれば、足が取られる。 
 遊郭から遠いところを2人で歩いた。

 遠くで、鐘が鳴っていた はっきり聞こえた。
 天満橋辺りの鐘である 今も釣鐘町には鐘楼はある。

 道なき道を、苦労して小半時も歩いたころ、天神の森の北側に出た。

「手を取り合って真っ暗な道をね・・  暗いから、何度もこけたろう哀れな話だ…」
 近松には、もう、話のあらましは編みあがっていたのであった。

 もう一度、天神の森へ戻った。
 何やら、沢山の人がいた。
 知り合いとも思われないのに、手に手にお花を抱っかえている。
 先ほどの、大きな木の根本、お花で埋まっていた。

 近松は確信した「これはいける」と…。
 義太夫も、全く同じ思いを持ったのであった。
 この二人、顔を見合わせて頷いた。

 近松は、その日の内に、近松屋敷に帰った。
 10日余りで、「曾根崎心中」を書き上げたのであった。

 竹本座では、近松の脚本を元に、語り、三味線、人形の製作と、猛練習が始まったのである。   近松も付きっきりであった。

 曾根崎心中の初演日を、事件の後の一ヶ月後、5月7日と決めたのであった。

 物語はこうである。
『内本町の油屋平野屋の手代徳兵衛と、堂島遊郭の遊女お初は恋仲になっていた。

 この日、生國魂(いくたま)神社でこの二人、偶然に出会った。
 お初は、この頃、流行っていた三十三ヶ所参りの客にお供してきていたのであった。

 「近頃、とんとご無沙汰だねェ~」と、徳兵衛をなじるお初。
 「実は、大変な目にあって、それどころではないんだ・・」
 客もいるので、その場はそれで別れた。

 徳兵衛には、店の姪と所帯を持って、新しい店を持たすという話があった。
 気の早い店の叔父から、徳兵衛の継母に多額の持参金が渡されていたのであった。

 結婚を固辞した徳兵衛は、店を首にはなったが、継母から金は取り戻した。
 しかし、どうしても金が要るという連れの九平次に3日限りの約束で、その金を貸してしまったのであった。

 お初と出会った直後に、生國魂神社に、九平次が現れた。
 「もう期限も過ぎている  金を返してくれ」
 「何を寝言を言うとるか? 貴様から金など借りてないわい」
 「何を言うか ここに証文も持っている ほら~ァ」
 「こんなでたらめな紙切れを造りよって・・」
 「お前のハンコも押してある 間違いない」
 「ハンコは偽造だな 良く出来ておる 詐欺師めが・・」
 と、取り合わないばかりか、詐欺師呼ばわりされる始末であった。
 更に、食い下がると、殴る蹴るの暴行騒ぎ、引かざるを得なかった。

 その夜、お初の遊郭に行った徳兵衛、金も無いのでこっそりと入り込んでいた。
 そこへ九平次が現れる。 床下に隠れた。

 お初に素っ気無くされた九平次、徳兵衛の悪口を散々言って、さっさと帰っていった。
 もうだめだと感じた徳兵衛、お初の足に、死に行く決意を表わし、お初もそれに応えたのであった。

 いよいよ、心中の道行き場面、 夜半に、遊郭から抜け出した2人、
 近松の名調子は、
 「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、
  あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ 
  あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、
  鐘の響きの聞き納め、
  寂滅為楽(仏教で言う、涅槃、さとりの境地)と響くなり~~ 」

 時は六つ午前4時、人目に付かぬように、北側を大きく迂回、今の大阪駅の辺りの、荒地のぬかるみの中を、手を取り合って、露天神目指したのであった。
 神社の森へ到着した二人は、心中の場面を迎えたのであった。 』

 竹本座の小屋は初日から、大入りだった。
 何度上演したか、義太夫にも分からない程であった。

 この日は、庶民の生きざまを題材にした、庶民のための芸術がスタートした。
 歴史的記念日になったのである。

 次の日からは、行列は更に長くなって解消しなかった。
 人形浄瑠璃の新機軸は、このときから世話物というジャンルで呼ばれることになった。

 もちろん竹本座、公演の収入で借金は楽に返済できた。
 その後、大きく飛躍したことは言うまでも無い。
 近松も、売れっ子作家への階段を上り詰めていったことも同じである。

 この人形浄瑠璃、文楽は、今も大阪のミナミに国立文楽劇場として、その伝統が受け継がれているのである。

 舞台の露天神社の名の由来は、菅原道真が大宰府に左遷される道中で、当地に立ち寄り、詠んだ歌によるものと言われている。
 『露と散る 涙に袖は 朽ちにけり 都のことを 思い出づれば』

 しかし、道真よりも、朝露にびっしょり濡れながら、死出の旅をしたお初徳兵衛に由来していると云う方が、とても似つかわしい。

 露天神社、大坂の人達はその後、愛着と悲しみ、そして親しみを持って、お初天神と呼ぶようになった。

『尼崎市・伊佐具神社』

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 兵庫県尼崎市上坂部、近松公園の直ぐの北に鎮座する式内社「伊佐具(いさぐ)神社」の社号柱である。
 神社には、この正面の参道と左斜めに脇参道があり、それぞれ鳥居が建っている。
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 正面から参拝すると、先ずは一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿本殿である。
 本殿は残念ながら覆屋に包まれていて、拝見することはできない。
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 本殿の祭神は伊狭城入彦尊(いさぎいりひこのみこと)、他二柱である。

 この地は古墳のあった所で、この地の豪族坂合部連が景行天皇の皇子である祭神を祀ったとされている。

 本殿の右横に白龍稲荷神社が鎮座している。
 寺院の御堂風の造りで、神仏習合の名残と思われる。
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 境内にあった寺院は、真言宗福円山浄徳寺である。
 観音様を祀っていたが、明治の神仏分離により、その観音様は現在神社の西となりの御堂の中に安置されている。
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『尼崎市・伊居太神社』

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 兵庫県尼崎市下坂部に鎮座する式内社の論社「伊居太(いこた)神社」の社名標柱である。
 伊居太神社は尼崎市域の北の方にある。
 バス停「近松公園」の東に隣接していて、道路を入ったところに社頭の鳥居が建っている。
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 鳥居を潜り参道を進むと、一対の狛犬が祀られている。
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 その先は、拝殿本殿である。
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 本殿の祭神は、春日四神の、武甕槌神、天児屋根命、経津主神、姫大神である。
 そして配祀は市杵島姫命である。
 
 この地の豪族の坂合部氏が神社を創建当時は、氏族の首長大彦命を祀る神社であったが、藤原氏の支配により、した春日神を勧請したと云われている。

 拝殿の左手には稲荷神社が祀られている。
 祠は珍しい石造りである。
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 尚、この神社は古墳時代中期の全長92mの伊居太古墳上に建てられているとのことである。
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 現社殿は、22年前の阪神淡路大震災で倒壊の憂き目にあい、氏子らの寄進により再建されたものである。

『兵庫県川西市・鴨神社』

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 兵庫県川西市加茂に鎮座する式内社「鴨神社」の社号標である。
 鴨神社はJR川西池田駅の南の小高い丘の上にある。
 この丘は、弥生時代の加茂遺跡と云われ、比高40m、集落は東西800m、南北400mの規模と云われる。
 居住区は約200m四方の環濠で囲まれた集落で、大型掘立柱建物で、ほかに竪穴住居跡も多数見つかっているところである。
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 神社の参道入り口には、冒頭の標柱の他、一ノ鳥居、さらに進むと加茂遺跡の標柱がある。    
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 そして二ノ鳥居を潜ると、更に長い参道が続く。
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 その先は、一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿である。
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 拝殿には神紋が示され、その背後は本殿である。
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 本殿の祭神は、京都の上賀茂神社と同じ別雷命(わけいかづちのみこと)である。

 拝殿の左には境内社の延寿社が祀られている。
 また本殿が祀られている瑞垣中の左右にも境内社が祀られている。
 左側は、松尾神社、八幡神社、稲荷神社、右は春日神社、天照神社、愛宕神社である。
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 加茂遺跡には銅鐸なども発掘されていて、国の史跡にも指定されている。
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 神社の裏側へ回ってみると社叢や朱色の玉垣を見ることができる。
 また、この辺りの住所地は「加茂」であることが確認できる。
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『池田市・伊居太神社』

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 大阪府池田市の猪名川の左岸に鎮座する式内社「穴織宮(あやはぐう) 伊居太(いけだ)神社」の社頭の鳥居である。

 神社の直ぐの東には五月山公園があり、北に向いた石段を登ると鳥居へと到達する。
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 参道を進むと、先ずは大門、そして境内、その境内の中央には舞台状の拝殿がある。
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 その先は、本殿とその拝所である。
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 本殿は「千鳥唐破風三棟寄造」と云い、珍しい形である。
 そして祭神は、中央に「穴織大明神」、向かって右に「応神天皇」、左に「仁徳天皇」が祀られている。

 この池田市には、かつて応神天皇の時代に中国の呉の国より、機織の技術に優れた穴織(あやはとり)、呉織(くれはとり)という織姫が選ばれて日本にやってきて、織物や染色の技術を伝えたという伝説がある。
 そして、穴織(あやはとり)が先に亡くなり、応神天皇も崩御していたためその子の仁徳天皇が祀ったのがこの神社とされている。

 境内には幾つかの境内社が祀られている。
 復屋に左から、松尾社、国常立社、住吉社が祀られている。
 またその隣には神輿庫もある。
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『吹田市・垂水神社』

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 旧摂津国豊島郡、現在の大阪府吹田市垂水町に鎮座する式内社名神大社の「垂水神社」の参道入り口である。
 神社は、大阪市営地下鉄の江坂駅と阪急電鉄千里線の豊津駅に挟まれたところの豊津駅寄りにある。
 尚、この辺り一帯は弥生時代の集落があった所で、垂水神社の裏山(垂水基岡)にその垂水弥生遺跡が残されている。
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 長い参道を進むと、社頭の二ノ鳥居に到達する。
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 正面の石段を登ると拝殿・本殿である。
 本殿の祭神は、崇神天皇の皇子であり、垂水氏の祖神とされている豊城入彦命(とよきいりひこのみこと) である。
 また本殿の右には3社の境内社、皇大社、祓戸社、戎社が並んでいる。
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 拝本殿の左手の一段と低い参道へ降りると、先ずは垂水の滝、そして境内社の向うに万葉歌碑がある。
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 その先にも境内社が祀られている。
 不動明王、政高大明神、大神社である。
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 神社を後にして参道を戻る。
 その道は「雉子鳴き道」と云い、石碑があり、謂れも掲げられている。
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 それによると、
 淀川の長柄の渡しに橋を掛けようとしたが、難工事で人柱が必要となり、それを言い出した岩氏が犠牲となり、橋は完成した。
 岩氏の娘は美しい人であったが、以来物言わぬ人となり、実家へ帰されることとなった。
 夫とこの辺りへ差し掛かった時、雉が鳴いて夫はそれを射殺してしまった。
 そこで娘は「ものいわじ 父は長柄の橋柱 雉子も鳴かずば 射られざらまし」と詠んだ。
 以来、この辺りは雉子畷と呼ばれている。

『茨木市・井於神社』

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 大阪府茨木市蔵垣内に鎮座する平安時代に作成された延喜式神名帳に記載されている式内社「井於(いお)神社」の一ノ鳥居脇の社名標柱である。
 「いお」とは現在の読みで、かつては「いのべ」「いのへ」と云われていて、名の通りもっと北の宇野辺(うのべ)地区に鎮座していたが、戦国時代に現在地に遷座されたものと云われている。

 神社は茨木市の南端、摂津市との境界付近にあり、JR東海道線の千里丘駅が最寄りである。
 一ノ鳥居から西方向に参道が延び、境内への入り口には神門が設けられている。
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 神門の先には、一対の狛犬が祀られ、拝殿本殿である。
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 本殿の現在の祭神は、素盞鳴命、天児屋根命、菅原道真であるが、これらは戦国時代の対信長策によるところが大きいと思われる。
 元々の祭神は、この地の豪族である井於連が氏神として崇敬していた「井の神」を祀っていたと伝えられる。

 境内には付近の神社を合祀した経過を示す幾つかの境内社が祀られている。
 宇野辺に祀られていた八幡神社もその一つである。
 八幡神社の祭神は、八幡大神の他に、須賀八耳命(すがのやつみみのみこと)、天照皇大神、豊受大神も祀られている。
 また境内には神楽所もある。
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 神社の東の蔵垣内公園に三宅城跡の石柱が立てられている。
 戦国時代、この付近に三宅出羽守国政が築いた城と云われている。
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 細川晴元軍の香西元成に攻められ明け渡し、元成が城主となったが、これも三好長慶に滅ぼされ廃城となったと云われる。

 香西元成に攻められた時、城主の娘と重鎮の娘が出家し、神社の南の現摂津市域の一角に「防風庵」という草庵を設け、敵が去ることを念じたと云われているその庵跡がある。
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『茨木市・天石門別神社』

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 大阪府茨木市元町の茨木神社の奥宮である式内社「天石門別(あまのいわとわけ)神社」の鳥居扁額である。
 天石門別神社は茨木神社の本殿の真後ろに鎮座している。
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 祭神は、天岩戸を力ずくで開けたと云われる神の天手力男命(あまのてりきおのみこと)、岩戸の前で踊ったと云われる天宇受売命(あまのうずめのみこと)、その他、豊国神、東照神を祀っている。

 この神社は、坂上田村麻呂が平安時代初め茨木の里をつくった時に創建したと云われる。
 戦国時代には、織田信長の神社破壊を恐れ、この辺りの神社の特徴である素戔嗚尊や春日神、八幡神を祀り、「牛頭天王社」と称し、破壊を逃れたと云われている。

 江戸時代に入ってから、この天石門別神社を奥宮とする氏神の茨木神社が創建され、現在に至っている。
 茨木神社は、阪急茨木市駅とJR茨木駅とを結ぶ道路の丁度中間辺り、茨木市役所と茨木童子のが立つ高橋を挟んだところに鎮座する。
 高橋は元茨木川の橋で、現在は川は埋め立てられ、緑地公園となっているところに架かっている。
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 一段と低いところにある鳥居を潜ると、参道が北へと続く。
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 左手には恵美須神社、地下駐車場入り口を挟んで厳島神社が並ぶ。
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 参道の右側には、東からの参道がある。
 東参道は、鳥居とそして神門からなるが、神門は江戸時代の初めに廃城となった片桐且元で知られる茨木城の搦手門が移築されたものである。
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 参道へと戻る。
 右手には、合祀社が祀られ、南向きに琴平神社、西向きに南から多賀神社、主原神社、天満宮となっている。
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 その隣に皇太神社も鎮座している。
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 参道正面の一段と高いところが拝殿である。
 左右に一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿の奥は本殿である。
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 本殿の祭神は、建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)である。

 本殿の背後は、前述の天石門別神社であるが、その左手に愛宕神社が祀られている。
 その奥には、古田織部が秀吉に紹介たことにより、秀吉が好んで茶の湯に使用したと云われる黒井の清水がある。
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 余談であるが、茨木市と同地域であるかつての摂津国島下郡には三清水がある。
 この黒井の他に、赤井は天石門別神社の社殿の下にあり、青井は元須久久神社の社頭にある。

 天石門別神社の背後は梅林となっていて、丁度、白梅紅梅が咲いている風景が見られる。
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 この神社奥には、他に境内社である。稲荷神社が祀られている。
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 更にその右手前、天石門別神社と並ぶように皇大神社が祀られている。
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 神社を離れて、北東方向へ少し歩くと茨木小学校がある。
 この学校は茨木城の本丸跡地と云われている。
 正門は茨木城の楼門が再現されている。
 茨木城は楠木正成の築城と云われ、その後、茨木氏、中川清秀、片桐且元が城主になったが、江戸初期の一国一城令で廃城となったものである。
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 また、学校の校名標は片桐氏の重鎮の古田織部に因み、織部焼である。
 この校地を含んでこの辺りは、片桐町との名付である。
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『茨木市・佐和良義神社』

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 大阪府茨木市美沢町、元茨木川緑地の脇に鎮座する式内社「佐和良義(さわらぎ)神社」の境内入り口である。
 元茨木川とは、かつて茨木市内を北上し、安威川に合流する支流であったが、昭和時代の戦後になって廃川となり、約5kmの河川は元茨木川緑地として整備され、市民の憩いの場となっているところである。
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 佐和良義神社へは、阪急電車京都線の南茨木駅が最寄りで、高層団地の中を通り抜けたところにある。
 団地を通り抜けると、先ずは中世の城跡の沢良宜城址があり、その隣が神社である。
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 冒頭の鳥居を潜ると長い参道がある。
 この参道は、かつての沢良宜城の馬場として活用されていたと云われている。
 参道を過ぎ、二ノ鳥居を潜ると、広い境内となる。
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 一対の灯篭、一対の狛犬の先は拝殿本殿である。
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 本殿の主祭神には加具土(かぐつち)大神が祀られている。

 尚、大阪万博を機に阪急南茨木駅が設置されたが、その時、弥生時代の銅鐸鋳型を始め住居跡や土器などが多数発見されている。
 そして鋳造工房跡などは、約2千年前にこの地にあった「さわらぎ遺跡」とされている。

『茨木市・溝咋神社』

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 大阪府茨木市五十鈴町に鎮座する式内社「溝咋(みぞくい)神社」の参道入り口の社名標柱である。
 溝咋神社は、先の牟禮神社から安威川右岸を下ったところにある。
 参道入り口には、一ノ鳥居も建てられている。
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 鳥居を潜ると長い参道が続く。
 そして社頭の朱色の二ノ鳥居へと到着する。
 その先には神門がある。
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 神門の左手前に木花開耶姫命を祀る厳島神社が神池の中に祀られている。
 そしてその前に何故か神牛が祀られている。
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 神門の先は一対の狛犬である。
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 そしてその先は、拝殿、本殿である。
 本殿の祭神は、主祭神は神武天皇の后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、媛の母の溝咋玉櫛媛命(みぞくいたまくしひめのみこと)、相殿に五十鈴媛命の祖父の三島溝咋耳命(みぞくいみみのみこと)、兄の天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)、そして速盞鳴尊、天兒屋根命である。
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 神社の創建は、崇神天皇の時代と云われる。
 三島溝咋一族を祀ったものとされている。

 明治末期までは、上社、下社があったが、合祀されたと云われる。
 現在の地は下社とのことである

 境内には幾つかの境内社が祀られている。
 先ずは朱塗りの鳥居の向うに天照皇大神社と保食神社がある。
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 そして、玉櫛媛命の夫神の事代主命を祀る事代主神社 がある。
 また境内には絵馬殿もある。
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 この辺りの住所地は五十鈴町という。
 神武天皇とその奥方に因んだものであろうか…。
 神社の東側には安威川の堤防があり、生駒山を望む風景がある。
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『茨木市・牟禮神社』

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 大阪府茨木市中村町に鎮座する式内社「牟禮(むれ)神社」の社名標柱である。
 牟禮神社は、先の太田神社から安威川を下り、西河原の新屋坐天照御魂神社、磯良神社を過ぎ、阪急京都線の鉄橋を越えた直ぐの右岸に鎮座している。
 堤防上から眺めると、社地は一段と低い位置にある。
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 広域の地図であるが、現在地が神社である。
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 社頭は、川の堤防の反対側にある。
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 石段を登り、鳥居を潜ると境内となる。
 境内の正面には、一対の狛犬が祀られている。
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 その先は拝殿、本殿である。
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 本殿の現在の祭神は、建速素盞鳴尊 (たてはやすさのおのみこと)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)である。

 しかしながら、創建当時は牟礼豪族の祖である大中津日子命(おおなかつひこのみこと)を祀っていたと云われる。
 これら摂津国の神社の特徴であるが、戦国時代に織田信長の神社焼き討ちを恐れ、祭神を信長好みの素戔嗚尊と春日神としたのであろうと思われる。

 これらの社殿は昭和の時代に、かつて茨木城主であった片桐且元が建てた生國魂神社の末社である北向八幡宮の社殿を譲り受け、その後、修復整備されたものと云われている。

 境内には、境内社は1社もない。
 その代わり、神木や奇木が見られる。
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『茨木市・太田神社』

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 大阪府茨木市の安威川の左岸、太田地区に鎮座する式内社「太田(おおだ)神社」の参道の灯篭である。
 大田神社は西国街道沿いの古墳「継体天皇陵」の西にある。

 街道沿いの灯篭から道が北の住宅街の中へと続く。
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 太田3丁目の住宅街が尽きるところに鳥居があり、その先は緩やかな石段となる。
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 石段の先は境内で、一対の狛犬の背後に拝殿、本殿が祀られている。
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 本殿の祭神は、天照皇大神、速素盞鳴尊、豊受皇大神であるが、古代の創建当時は中臣太田連の祖神である天児屋根命が祀られていたという説もある。

 尚、中臣太田連には、朝鮮から「呉の勝(くれのすぐり)」が渡ってきて、紀伊国名草郡大田村に住み、その後一部が、摂津国三島上郡に移り、その地をも太田村と称した。その後別途進出してきた中臣氏とこの呉の勝の末裔が融合して中臣大田連が形成されたという説もある。

 本殿の左には稲荷神社が祀られている。
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 東にある継体天皇陵を訪れてみる。
 前方後円墳で、全長226mの大きなものである。
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 石柱には「継体天皇三島藍野陵」とされているが、出土埴輪から継体天皇の没年とは一世紀も違うという説もあり、単に太田茶臼山古墳とも云われる。
 その説では、本当の継体天皇陵は高槻市にある今城塚古墳とされている。

 古墳及び神社の南、西国街道を挟んで広い更地がある。
 東芝工場の跡地である。
 今後どのように活用されるのか、興味が持たれる。
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『茨木市・阿為神社』

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 大阪府茨木市の市内中心部を流れる川の「安威(あい)川」の上流、安威地区に鎮座する式内社「阿為(あい)神社』の東参道の標柱である。

 阿為神社は、後の藤原氏である中臣藍連が始めてこの地に来て祖先の天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を祀ったのが創建と云われる。
 そして中臣鎌足が一時、この辺りに住んだとされている。

 その時代、大和朝廷で絶大な権力を持っていたのが蘇我蝦夷・入鹿を倒そうと、中大兄皇子と秘策を練ったのがこの神社であるとの逸話もある。

 阿為神社へは、茨木駅からバス便で向かう。
 安威川右岸の「安威」という停留所で下車し、住宅の中の道を進むと、冒頭の東参道へと到達する。
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 神社正面は南側である。
 石段、鳥居があり、登り詰めると境内である。
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 境内の正面には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、本殿である。
 本殿の祭神は、天兒屋根命の他に、応神天皇、宇賀御魂神、菅原道真が祀られている。
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 境内には多くの境内社がある。
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 境内西南には、八幡神社、秋葉神社が祀られている。
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 そして、出雲神社と鹿島神社、合祀社は市杵島神社と金山彦神社である。
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 更に本殿右には、大歳神社、菅原神社が祀られている。
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 もっと右の奥の山中に、稲荷神社が祀られている。
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『神戸市灘区・敏馬神社』

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 兵庫県神戸市灘区岩屋中町に鎮座する「敏馬(みぬめ)神社」の社頭の社名柱である。
 敏馬神社は、摂津国八部郡の式内社で、同郡の生田神社、長田神社と並ぶ三大神社であり、延喜式では「汶売(みぬめ)神社」と記載されている。

 神社へは、阪神電車の三宮から東2つ目の「岩屋駅」直近である。
 駅を降りて、南側の路地へ入ると神社の杜に達し、西の参道入り口があるが、もう少し下り、国道2号線に出て左折すると、冒頭標柱の社頭へと至る。
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 鳥居を潜ると、右手には稲荷神社と柿本人麻呂の歌碑とその解説碑がある。
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 歌碑には、
 「珠藻(たまも)刈る 敏馬をすぎて 夏草の 野島の埼に 舟近づきぬ 柿本人麻呂」
 と刻されている。

 古代は、この神社は敏馬の浦という岬であった。
 西側の入り江を脇浜村、東側を岩屋、味泥、大石村と云い、今でもその地名が受け継がれている。
 また、白砂清松の海岸線ともなっていて、万葉歌人が多くの歌を詠んだところと云われている。
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 左側には、閼伽井、三犬女(みぬめ)の清水と云う井戸が祀られている。
 そして、石段の参道が上へと続いている。
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 正面に拝殿が祀られている。
 その手前の石段の両脇に、一対の狛犬が祀られている。
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 拝殿・本殿である。
 本殿の現在の祭神は、素戔嗚命、天照皇大神、熊野坐大神となっている。
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 この神社の創建であるが、神功皇后が三韓征伐への出兵の際、神前松原で神集いをした。
 その時に来た能勢の美奴売(みぬめ)山の神が、「わが山にある杉の木を切り、船を造りて新羅へ行かれるなら、幸いするところあり」と云い、その通りにしたところ大勝利を収めたと云われる。

 そして、帰還時にこの地で船が動かなくなったので、美奴売の神をこの地に祀り、船も献上したのが創建である。
 尚、 「みぬめ」は弥都波能売神(みずはのめのかみ)の名より転じたものと云われている。(神社由緒書より抜粋)

 拝本殿の瑞垣の中には、田邊福麻呂の万葉歌碑と反歌碑が置かれている。
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 また、拝殿に向かって左手には2棟の神輿倉がある。
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 拝殿に向かって一段と低い所には、奥から弥都波能売神を祀る水神社・奥の宮、神功皇后を祀る后の宮、大山祇神らを祀る松尾社が並んでいる。
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『堺市美原区・丹比神社』

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 大阪府堺市美原区多治井に鎮座する式内社「丹比(たんぴ)神社」の一ノ鳥居脇の社名標柱である。
 500mにも及ぶ長い参道は神社の東部から始まる。
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 突き当りには二ノ鳥居と社名標柱がある。
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 その先は境内である。
 古い灯籠があり、江戸時代中期の「明和2年」との年号が刻まれている。
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 参道を辿ると左右に一対の狛犬が祀られている。
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 正面には拝殿・本殿が祀られている。
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 本殿の主祭神は丹比連の祖神である火明命(ほあかりのみこと)、そしてこの地に柴垣宮を築いた瑞歯別命(みずはわけのみこと)の反正天皇である。

 拝殿の右側には反正天皇が産湯をつかったという井戸が祀られている。
 またその奥には反正天皇が父である仁徳天皇の死を嘆き悲しんで建立したという五輪の塔が祀られている。
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 そして拝殿の左には、履仲天皇の歌碑が祀られている。
 「丹比野に 寝むと知りせば 防壁(たつごも)も持ちて来ましもの 寝むと知りせば」
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 仁徳天皇が崩御し、履仲天皇が即位した時、弟の墨江中王の反乱にあい、難波宮から大和に逃げる時、この地に通りかかって詠んだものとである。
 この丹比野で野宿すると知っていたなら、たつごも(ムシロのようなもの)を持ってきたのにという意味である。

 本殿の背後には、樹齢1000年以上の楠の神木があり、その背後の垣は、柴垣宮の由来となった柴の垣がある。
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『堺市美原区・櫟本神社』

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 大阪府堺市美原区の真福寺地区に祀られている式内社「櫟本(いちいもと)神社」の標柱である。
 標柱の所には石の鳥居があり、その奥へと参道が延びている。
 参道の先には、ブロック塀に囲まれた境内がある。
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 この境内は、祭神「瑞歯別命(みずはわけのみこと)」〔反正天皇〕が、この南の丹比神社に合祀されたため、この地は旧地となっているが、小さな祠が祀られている。
 神社名の櫟本は、この地に櫟の大木があり、反正天皇が丹比の櫟本と名付けたと伝えられる。
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 神社旧地は大部分は児童公園となっている。
 近くには、松原駅からのバスの停留所もある。
 真福寺とは、かつて同名の大寺院があったことからの名付けである。
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『明日香村・橘寺』

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 奈良県明日香村に伽藍を構える聖徳太子誕生所の「天台 宗橘寺」の参道入り口である。
 場所は明日香村役場の西、甘樫丘の南の少しの高台に伽藍を構える。

 冒頭の写真は東側の参道である。
 飛鳥川左岸の集落の西にある寺の石段を登ると東門を潜り、一直線の境内である。
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 境内の案内図である。
 赤の線は聖徳太子が創建した当時の伽藍を示しているとのことである。
 尚、橘寺は太子創建の7大寺の一つである。
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 東門から石畳の参道を進むと、突き当りが本堂の太子堂で、聖徳太子が祀られている。
 そして本堂右手には東門に向かって、護摩堂、観音堂が祀られている。
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 右手には、本堂横に先ずは二面石がある。
 約1m程度の高さで、善相と悪相が彫られ、人の心の二面性を表現していると云われる。
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 そして左手戻る方向で、経堂、土蔵、鐘楼がある。
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 そして土蔵の奥に往生院を望むことができる。
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 鐘楼の向かいに内門があり、本坊である。
 外装が落ちた、土蔵もある。
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 退出は西門から行う。
 参道を北へと県道まで戻ると、そこには聖徳太子生誕の地の石柱があり、そこから寺の景色を望むことができる。
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『明日香村・飛鳥宮跡』

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 奈良県高市郡明日香村の飛鳥京の中央に飛鳥宮の遺跡がある。
 古代天皇が即位すると、それぞれに宮殿を造営した。

 この板蓋宮(いたぶきのみや)は皇極天皇が蘇我蝦夷(えみし)に命じて造らせたものである。
 しかし、この板蓋宮で蝦夷の後継の蘇我入鹿が殺されたことから大化の改新となり、皇極天皇は譲位し、孝謙天皇が難波宮に遷都したのは良く知られている。

 その後、孝謙天皇の後を受け、皇極天皇が斉明天皇と名前を変え再即位し、この飛鳥宮へ戻り、この地に宮殿を造営し岡本宮と称した。
 そして、その後、中大兄皇子が天智天皇となり滋賀大津に宮を移したが、その後継を巡り壬申の乱が勃発、大海人皇子が勝利し飛鳥宮へ戻り、飛鳥浄御原宮をこの宮地に造営したとされている。

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 このように、飛鳥宮はこの板蓋宮から始まることになったのである。

 この飛鳥宮の跡は、伝板蓋宮跡として、国の史跡となっている。
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 板蓋宮遺跡の西北側には、飛鳥京跡苑池の遺跡がある。
 現在は発掘調査も終わり、埋め戻されているが…。
 左端の川は飛鳥川、背後の山は甘樫丘である。
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 板蓋宮には南にも遺跡がある。
 その遺跡の横を抜けると、明日香村役場前となる。
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『明日香村・飛鳥坐神社』

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 奈良県高市郡明日香村に鎮座する式内社で名神大社の「飛鳥坐神社(あすかにますじんじゃ)」の社頭の標柱である。
 飛鳥坐神社は天武天皇の時代に、天皇の病気平癒を祈願して、紀州の国懸神 摂津の住吉大社と共に奉斎されたとの謂れがある神社である。

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 参道は、甘樫の丘、飛鳥寺の所から東へと向かっている。(上図は上が南)
 正面の鳥居の横には飛鳥井が祀られ、平安時代の歌集「催馬楽(さいばら)」に、「飛鳥井に 宿りはすべし をけかけもよし 御水もよし 御秣もよし」と歌われているものである。
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 鳥居を潜ると石段参道である。
 参道脇には、境内社や、力石、万葉歌碑などが設置されている。
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 石段を登り詰めると右手には、神楽殿がある。
 奇祭「おんだ祭り」の舞台である。
 そして左手は拝殿、本殿である。
 本拝殿は、近年老朽化により今から15年前、吉野の丹生川上神社の上社の移築に伴い旧社殿を譲り請けたとのことである。
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 本殿の祭神は、事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神、大物主神である。
 
 飛鳥坐神社は江戸時代には、高取城に入った高取藩初代藩主の植村家政により、高取城の鬼門に当たる神社として深く信仰したと云われる。

 境内を回ってみると、境内を巡ってみると、数多くの境内社が見られる。
 八百万の神が集合している神社である。
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 他にも、結びの神石など、石群も祀られている。
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 その中の飛鳥山口神社は式内社で、大山津見命、久久乃之知命、猿田彦命が祀られている。
 また境内には、冬桜も咲き、万葉歌碑も見られる。
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『茨木市・新屋坐天照御魂神社Ⅲ』

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 大阪府茨木市宿久庄5丁目、上河原に鎮座する式内社で名神大社の「新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社」の社名標柱である。
 この神社は茨木市内に鎮座する同社名神社の3座の内の1座にあたり、神功皇后の時代に福井の神社から分祀されたものと云われている。

 この神社は、福井の新屋神社から見てずっと西の勝尾寺川を上河原橋で渡ったところにある。
 橋の向うに見えるのは大阪モノレールの高架線路である。
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 新しい玉垣に囲まれた神社である。
 社頭には、冒頭の標柱、少し奥まって鳥居が建っている。
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 鳥居を潜り参道を進むと、両側に狛犬が祀られている。
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 そして拝殿、覆屋に護られた本殿が祀られている。
 本殿の祭神は、中央に天照皇御魂大神 (あまてらすすめみたまのおおかみ)、左座に天照国照彦火明大神 (あまてるくにてるひこほあかりのおおかみ)、右座に天津彦火瓊瓊杵大神(あまつひこほのににぎのおおかみ)が祀られている。
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 本殿の右に稲荷社の小さな祠が祀られている。
 またその右は子供たちの遊び場となっている。
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 尚、福井の新屋神社からこの上河原の神社、そして西河原の神社の方向は、夏至や冬至の時の天道に沿っているとの説があり、これら3社の位置関係は、太陽信仰に基づくものなのか、偶然なのかは分からないが、興味ある事柄である。

『茨木市・新屋坐天照御魂神社Ⅱ』

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 大阪府茨木市西河原に鎮座する式内社で名神大社の「新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社」の社頭である。
 先の福井に鎮座する同名の神社から、神功皇后の時代に東北東の方角、即ち冬至の時の日出の方向に分祀された1社と考えられている。

 場所は国道171号線の西河原交差点の南西角である。
 国道に面して注連縄柱、鳥居が建てられている。
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 鳥居を潜ると境内であり、一対の狛犬が祀られている。
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 その先は拝殿、本殿である。
 大きい方の主殿には、天照御魂神、即ち天照国照彦火明命 (あまてるくにてるひこほあかりのみこと)が祀られている。
 また相殿には、天児屋根命、建御名方命(たけみなかたのみこと)が祀られている。
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 境内社として、素戔嗚尊を祀る須賀神社、宇賀御魂神を祀る稲荷神社が本殿の周囲にある。
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 元々はこの神社の社地は広く、国道を挟んで東側の現在の「磯良神社」別名「疣水神社」も境内摂社として包含していた。
 現在は磯良神社として独立しているようではある。
 その磯良神社の社頭である。
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 神社境内には、一対の狛犬、そして拝殿・本殿が祀られている。
 本殿の祭神は、磯良大神である。
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 また境内には、神功皇后と住吉神を祀る住吉神社、そして稲荷神社が祀られている。
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 この神社には、「霊泉 玉の井」が祀られている。
 神功皇后が三韓征伐への行き帰り、この地に立ち寄り顔を洗ったとされている井戸である。
 顔を美しくすると云う効力があり、即ち疣には効用があるとのことで、古来より疣水として、信仰が厚い。
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 境内には新屋坐天照御魂神社の「旧社地」の石碑がある。
 江戸時代の初期に、境内の西南隅の現在地に遷座したとのことである。
 また、この神社の境内には井保桜がある。
 山桜で、神功皇后の御手植えとの伝説がある。
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『茨木市・新屋坐天照御魂神社Ⅰ』

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 大阪府茨木市西福井に鎮座する式内社で名神大社の「新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社」の参道の社名標柱である。
 茨木市内には、この社名の神社が3社鎮座しているが、その3社の中心がこの西福井の神社である。

 由緒は、2100年前、この茨木市西福井の日降ヶ丘に降臨した天照御魂大神を、物部氏が奉斎したのが始まりとされている。
 そして、神功皇后が三韓征伐をするに当たり、この神社の川原にて禊の祓と戦勝祈願をし、凱旋した際に、天照御魂大神の荒魂、幸魂を西の川上と東の川下の辺りに斎祀したのが、他の2社と云われている。

 この西福井の神社へは、東の安威川支流に架かっている神橋を渡る。
 そして、豊能町へ向かう街道を横切ると、そこには冒頭の標柱があり、そして参道は神社へと近づく。
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 社頭には鳥居、鳥居を潜ると、石橋・石段参道となる。
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 石段の先は社殿となるが、その手前に一対の狛犬が祀られている。
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 その先は拝殿本殿である。
 本殿の祭神は、天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)である。
 又の名を天照国照彦天火明大神(あまてるくにてるひこあめのほあかりのおおかみ)、あるいは饒速日大神(にぎはやひのおおかみ)と云われる。
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 境内には、幾つかの境内社が祀られている。
 先ずは本拝殿の左手の道真公を祀る天満神社、素戔嗚尊を祀る須賀神社である。
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 本拝殿の右手には、大国主命を祀る出雲社、そして六祭神を祀る六社神社である。
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 そして、丸山稲荷社、大海神を祀る石社である。
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 尚、この神社は鎌倉時代に至り、武家の勃興により社領没収などが行われ、神社は衰微した。
 また、室町時代末期の細川家の内紛である大永の乱の兵火により神殿、神宝、神器悉く灰燼に帰したと云われる。
 しかし戦国時代になって、茨木城主となった中川清秀により寄進が行われ、社殿が再建されるとともに、その寄進は江戸時代を通して行われ、現在の姿になってきたものと云われている。

『茨木市清水・春日神社』

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 大阪府茨木市清水2丁目に鎮座する式内社「元須久久神社 春日神社」の社名標柱である。

 須久久神社は中臣鎌足の従兄弟の孫である中臣清麻呂が隠居して、隠居地の宿久庄の須久久山と春日山にそれぞれ神社を創建し、両社とも須久久神社を称したと云われる。

 この春日山の須久久神社は、藤原氏が栄華を極めた時代は奈良の春日大社と同じ呼称の春日神社と称し、一時、須久久神社に戻ったものの、江戸時代になって神社の地が宿久庄から離れたため、以後は、春日神社と称しているとのことである。

 神社は、大阪モノレール豊川駅が最寄りである。
 高架線路沿いに箕面方向へ歩くと、左手に神社の森がある。
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 社頭には、冒頭の標柱と鳥居、そして鳥居脇に「月の清水跡」の石碑がある。
 石碑は清和上皇の行幸に関わったものとのことである。
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 鳥居を潜ると鹿のレリーフが描かれた春日灯篭が立ち並ぶ参道である。
 その先に二ノ鳥居が建ち、その先は石段参道となる。
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 石段を登り詰めた社殿の前には一対の狛犬が並ぶ。
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 そして拝殿、本殿である。
 拝殿本殿は、平成22年に不審火により焼失したため、24年に再建されたものである。
 尚、祭神は春日神の「天児屋根命、武甕槌命、経津主命、比売大神」の4神である。
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 社殿を俯瞰するように道が上へと通じている。
 この道を登ると、用途は分からないが広いグラウンドの様な場所へと出る。
 車でこの場所へも来られるようで、轍の跡がついている。
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『茨木市・宿久久神社』

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 大阪府茨木市宿久庄に鎮座する式内社である宿久久神社2座の内の1社、「宿久久(すくく)神社」の社頭の標柱である。

 神社へは、国道171号線の豊川1丁目の交差点を北上し、更に左折し、暫く行くと、神社の参道入り口の鳥居に到達する。
 神社の東側には梅花女子大が、また北側には茨木国際カントリークラブがある。
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 鳥居を潜ると参道が続き、冒頭写真の社頭に到着する。
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 参道を進むと、二ノ鳥居があり、更に進むと石段へと到着する。
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 拝殿前には一対の狛犬が祀られている。
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 そして拝殿・本殿である。
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 本殿の祭神は、当初は天児屋根命、現在は素盞鳴尊、稲田姫命である。
 
 この地は古代、栄華を極めた藤原氏の領地で、この宿久久神社は、藤原氏の本族の中臣清麻呂がその隠棲地に創建し、中臣氏の祖神である天児屋根命を祀ったと云われている。
 
 神社の隣には、天王山往生院があり、新しい本堂が造られている。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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