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『丹波国・柏原陣屋』

 兵庫県丹波市柏原(かいばら)町にある「柏原陣屋」を訪ねた。
 
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                         (上図の上は北西方向)

 最寄り駅はJR福知山線の柏原駅である。
 陣屋は駅の西方にあるので、先ずは駅前の商店街の道を進む。
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 商店街、そして住宅街の間の道をしばらく進むと、柏原藩藩祖の織田信包(のぶかね)の像が建つ、陣屋前に到着する。
 信包は織田信長の弟で、豊臣秀吉の時代に柏原3.6万石が与えられて、徳川の時代になってもそのまま藩として継続したが、
嫡子が無く、3代で断絶、その後、天領となった。
 
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 そして、元禄年間に織田信長の次男である信雄の孫の宇陀松山藩主信休(のぶやす)がお家騒動の咎により領地を半減され2万石で入り、暫くして陣屋を築く事が許され、そのまま明治まで続いたとされている。

 柏原陣屋跡の正面には長屋門がある。
 この長屋門は当初ままで残っているもので、県指定文化財である。
 左側は畳敷きの番所、右側が板張りの馬見所と砲庫である。
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 長屋門から入ると正面は御殿である。
 19世紀初めの建築で、明治になって殆どが取り壊され、現在はその20%程度に当たる部分が残っている。
 そして陣屋跡は全体は国の史跡にも指定されている。
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 御殿の正面である。
 家紋は織田木瓜紋(織田細瓜紋)である。
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 御殿の周囲を左側から時計回りで巡ってみる。
 左手には撤去された建物跡の表示がある。
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 それぞれ見てみると、下のようである。
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 建物の裏側である。
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 そして右側である。
 ここで一周であるが、この5倍の陣屋があったとのことで、その大きさが思われる。
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 長屋門から退出し、付近を眺めてみる。
 長屋門の右手には小学校がある。
 この小学校が陣屋の跡地とのことである。
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 長屋門の左手には、レトロな建物がある。
 旧水上高等小学校校舎で、たんば黎明館の表示がある。
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 他にも色々な史跡がありそうであるが、探索はここまでとし、駅へと戻る方向とする。
 駅近くに太鼓櫓(レプリカ)があり、駅へと戻ったのであった。
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『兵庫県・復興尼崎城』

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 兵庫県尼崎市の阪神電車尼崎駅の東南方向直ぐ、庄下川の向こうに尼崎城の天守・櫓・石垣・塀が少し場所を変え、復興されて来ている。
 近年、天守再建の機運が高まり、個人の寄付によって2016年から建設が始まり、このほど完成間近に至り、来年春にも一般公開される運びとなっている。

 この復興尼崎城の周囲を眺めてみることにする。

 阪神電車尼崎駅で下車し、駅そばの歩道橋から城が見える。
 そして、庄下川の橋上から冒頭の姿が見える。
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 城の周りを反時計回りに巡ってみる。
 
 先ずは北側である。
 城の北側は阪神電車の赤レンガの建物も残されている車庫である。
 そして、公園スペースの向こうにの更に塀の向こうに復興天守が見える。
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 次は東側である。
 手前に2層の櫓、そして4層の天守である。
 天守への入り口はこの方向である。
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 西側である。
 天守の姿が良く見える。
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 次に北側、市立中央図書館へのアプローチや正面入り口付近から眺めるたものである。
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 最後は西側である。
 天守への石段も整備されている。
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 尚、尼崎城は戦国時代には摂津の雄であった荒木村重が、織田信長に追われ、尼崎城(大物城)に逃げ込んだと云う謂れのある城であるが、ここでいう尼崎城は江戸時代になって尼崎藩主となった戸田氏鉄が築き、青山氏、松平氏と受け継がれた城で、そして明治になって廃城令により、建造物などが一切が取り壊された城でもある。

 また、西向きに尼崎文化協会の手によって、初代城主戸田氏鉄の顕彰碑も建てられている尼崎城である。
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 地元では、尼崎の観光名所になればとの期待が込められているところである。

『摂津国・瀧山城阯』

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 神戸市中央区の新神戸駅の裏の城山328mにある「瀧山城」の跡碑である。
 六甲連山の一部で、生田川の源流である布引の滝で知られる布引渓谷の西上方の尾根筋にある。
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 瀧山城へは、新幹線新神戸駅のすぐ裏に登城口がある。
 この入り口は、城の大手口であったと云われている。
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 登城道はいきなり尾根筋に取付くので急坂である。
 すこし登ると、道の途中に曲輪があったと思われる削平地も見られる。
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 登城道は、布引ハーブ園へと向かうリフトの索道の下を登って行く。
 途中で三角屋根のホテルと同じような高さになる。
 そしてゴンドラが横に見えて来る。
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 そろそろ、城の主要部である。
 東曲輪の直下に出ると、道は平坦となる。
 右下の布引渓谷へ降りる道が分岐している。
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 東曲輪に登る道が見つからなかったので、斜面にある巻道を歩く。
 かなりな急斜面である。
 途中に石垣の残骸もいくつか見られる。
 この瀧山城の石垣の石は、兵庫城の築城の際に利用されたので、このような姿になっているとのことである。
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 東曲輪を巻くと本丸との間に出る。
 説明看板が設けられている。
 そして、堀切、土橋が設けられている。
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 説明坂には、城跡の説明図もある。
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 いよいよ本丸である。
 曲輪があったと思われる幾つかの削平地の間の道を抜けると虎口を登る。
 その先に、現在は東屋が設けられているた本丸跡がある。
 そして奥の一段と高い櫓台跡の所に城跡碑が見える。
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 本丸から更に西方向の西曲輪に向かう。
 西曲輪との間には二重の堀切と土橋がある。
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 西曲輪にも直接上がる道がないので、巻道を辿る。
 そして西側から西曲輪に上がってみたが、笹が生い茂った所であった。
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 この場所で、城跡の探索は終了である。
 この西曲輪まで、新神戸駅から1時間弱を要したのであった。

 さて、瀧山城であるが、南北朝の頃、この東の摩耶山山腹の500mの所の摩耶山城とともに播磨の雄であった赤松円心則村が築き、これらの城を拠点に南朝の楠木正成を援護したと云われる。
 南朝軍が不利な中、どうしても京都に入りたい円心は今度は足利高氏に味方し、無事に京入りを果たしたのであった。

 しかしながら自らが主人公となりたい円心は、その後南朝軍に力を貸したりの微妙な立場を取り、結局は鳴かず飛ばずで終わり、城も一旦廃城になったようである。

 その後、摂津に上陸し支配力を強めた三好長慶の城となり、家臣の松永久秀が居城し改修を加えた。
 しかし長慶が亡くなると、内部抗争が勃発し、久秀は三好三人衆に城を奪われた。

 これで落ち着くかに見えたが、そこに現れたのが織田信長である。
 信長軍の軍力により、信長の部下の荒木村重の管理する城となったものの、村重の謀反説により、村重の花隈城が信長から攻められる際の織田軍の拠点となった。
 そして村重の瓦解により、瀧山城も不要となり、廃城となったという歴史を辿っている。

『但馬国・竹田城跡』

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 兵庫県朝来(あさご)市和田山町竹田にある竹田城跡である。
 写真は天守台の上から南千畳を望んだものである。

 竹田城跡は、周囲を高い山に囲まれた円山川沿いの独立峰虎臥山350mの頂上に築かれた城郭で、城下から見上げると山上に連なった石垣が見えることから天空の城と云われている。
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 竹田城へは城下町にあるJR播但線の竹田駅が最寄りである。
 城下町には、旧木村酒造場などの伝統的町屋もあり、屋根のはるか上に城跡の石垣を眺めることができる。
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 城下には案内板が幾つかあり、迷うことなく登城道に辿り着くことができる。
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 竹田城は、中世の山城である。
 但馬を制圧した山名氏が、南の播磨への備えとして築城したものと云われる。
 山名氏の家臣の太田垣氏が城主となり、戦国前半はその機能を果たしていたが、信長の西国侵攻により羽柴軍の秀長により攻められ落城、秀長が入城した。

 その後、秀吉の家臣の桑山氏、赤松氏が城主となり、赤松氏の時には現在の縄張りの形に修築されたと云われている。
 赤松氏は、関ヶ原で西軍に与したため、滅ぼされ、家康の命にて山名豊国が受取り入城したが、一国一城令により廃城となった、という経過を辿っている。

 竹田城へは、駅裏の登山道を行くことになる。
 少し行くと、広い屋敷跡がある。城主や家臣の屋敷があり、政治を行ったところと云われている。
 山頂の石垣が見えるが、まだまだ遠い。
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 ここから本格的な登山道で、結構な登りである。
 30分ほど歩いたところで、城跡の石垣の下に出る。
 史蹟竹田城址の標柱があり、そして入城料徴収の料金所がある。
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 先ずは虎口へと進み、登ると北千畳という広いところに出る。
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 北千畳からは北方向の和田山の街を望むことができる。
 また、本丸方向を見ると三ノ丸の石垣が見える。
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 三ノ丸に入ると正面に本丸、天守の石垣が見える。
 また、東方向を望むと中腹に立雲峡がある山が望める。
 この立雲峡が雲海の中の竹田城を写真に収めるベストポイントだそうである。
 次に、二ノ丸へと進む。
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 二ノ丸から天守の石垣を望むと、綺麗な曲線を描いている。
 また、天守の向こう側の連なる石垣が望める。
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 いよいよ本丸、天守である。
 天守台は10m四方ぐらいで、そう広くはないが、南方向が絶景である。
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 天守台を振り返りながら南へと進む。
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 大手の虎口を降りると、南千畳である。
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 南千畳一周すると、ここからは下城道となる。
 急峻な道を降りると、表米(ひょうまい)神社へと出て、城跡探索は終了である。

 尚、係員の方に伺うと、石垣の保全には、多くの労力を要しているとのことであった。

『但馬国・出石城跡』

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 兵庫県豊岡市出石(いずし)町の有子山山麓にある出石城跡の本丸西隅櫓である。

 出石は戦国から江戸時代にかけて但馬国の政治の中心地であり、但馬国では唯一の城下町であった。
 当初但馬の守護であった山名氏は、出石の北側の山に此隅山(このすみやま)城を築き支配していたが、織田信長の西国侵略により秀吉軍に攻め滅ぼされたが、最終的に信長には許され、領地は安堵されたので、今度は南の山上に有子山(ありこやま)城を築いた。

 しかし、毛利が台頭する中、山名氏は毛利方に付き信長と戦い敗れ、但馬山名氏は滅亡したのであった。
 その後、秀吉が天下を支配する時代となり、小出氏が領主となり、関ヶ原を経て有子山上の城を廃止し、山麓にあった館を整備し、出石藩の藩庁とし、出石城と名付けた。
 その後、小出氏から松平氏へ、その松平氏が信州上田へと改易されたのに代わって、上田から仙石氏が藩主となり、城下町を整備するとともに、信州から持ち込んだ蕎麦を広め、仙石氏は明治維新まで続いたという歴史がある。

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 出石城跡は城下の南の山麓にある。
 城下の大手通りから城に近づくと、三の丸の横に大手門があり、その隅櫓には明治時代の辰鼓楼と云うと時計台が建っている。
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 辰鼓楼の横を進むと、その先に登城橋、登城門があり、それを潜ると城内である。
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 冒頭の本丸西隅櫓が聳えている。
 本丸の地内にでは、西隅櫓、東隅櫓が再建されている。
 そして、本丸跡には感応殿という社が祀られている。
 この感応殿には、出石藩主仙石氏の祖である仙石秀久公が祀られている。
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 出石城の石垣は、本丸下、本丸上や本丸横の部分はそのままの形で現存してるのは見事である。
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 下まで降りて、も一度城跡を眺めてみる。
 石垣が幾重にも構成されている。
 また、遠く左奥の山上に有子山城の石垣を見ることができる。
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 石垣群の左手に稲荷神社の標柱と神橋、鳥居がある。
 参道石段に多くの鳥居が建っている中を進む。
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 石段を登り詰めたところに有子山城の跡の標柱がある。
 左手の山道を登ると城跡に行くことができる。
 右手は稲荷神社の境内である。丁度、本丸背後の石垣の上の部分である。
 拝殿本殿が祀られている。
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 城跡から城下に戻る。
 城跡から見て北西方向に家老屋敷がある。
 塀、長屋門、屋敷などがあり、辰鼓楼などと共に重要伝統的建造物群保存地区の一部である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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