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『大阪城・梅林(2月2日)』

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 大阪城の本丸・天守から内堀を挟んだ東側に梅林がある。
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 時期的にはまだ早いような気がするが、訪れてみた。

 入り口は二ヶ所ある。
 青屋門を潜った左手直ぐの入り口(下写真)と、雁木坂途中の入り口(冒頭写真)である。
 青屋門側の右手には天守に通じる極楽橋が見える。
 左手の入り口から入ってみる。
 梅の木が並ぶが、まだまだの様子である。
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 梅の花を探すと、一輪・数輪が何とか見つかる程度である。
 蕾の数が圧倒的に多い。
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 梅林園の中央付近で蝋梅が見つかる。 
 盛りの様である。
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 白梅も結構咲いている。
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 また、紅梅も綺麗である。
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 最後にしっかりと咲いている「冬至」という品種を眺め、退出したのであった。
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『大阪城の謎スポット』

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 大阪の観光地として、海外の方も含め多くの人が訪れる大阪城であるが、「なせ?」という不思議なスポットもある。
 今回は、あまり良く知られていないスポットを順次訪ねてみることにする。

 まずは大阪城へのアプローチであるが、JR京橋駅で下車し、OBP経由で向かうことにする。
 大阪城へは2本の川を渡ることになる。

 第一寝屋川と第二寝屋川であるが、第二寝屋川を渡る手前右手に、YTV(読売テレビ)が新社屋を建設中である。
 地上17階のビルで、今年の1月末に竣工、開局は8月とのことで、現在は開局に向けての準備中である。
 また、玄関前には「コナン」の像も建てられている。
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 また、第二寝屋川の畔には、川の駅「大阪城」、そして大阪城ホールもある。
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 寄り道はこれくらいにして、外堀の土橋を渡り、そして青屋門を潜り、左手へと行く。
 左手には梅林があり、その梅林の前の内堀の向こうの石垣には、冒頭図の①がある。

 ①人面石:後程でてくる秀頼や淀殿が自害した山里丸の外側の石垣で、怨念除けで組み入れたものかも知れにとの説もある。
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 ②空堀の石組:桜門右手(東側)の内堀に空堀と水堀との境目がある。この境目に何故か分からない石組が施されている。
 この石組みは幅2m、高さ1.5m程で、両端は堀の石垣に食い込む形になっており、中は人がかがんで入れるくらいの空洞スペースになっている。
 本丸・二ノ丸との隠し通路だったのかも知れない。
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 ③石垣の抜け穴?:南外堀に面した六番櫓の西の石垣に人が出入りできるような穴が設けられている。
 石垣が抜け落ちたというようなものではなく、穴の内部も手当されているようである。
 水面から8mもあるので、その用途は不明である。
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 ④巨石群:第一位は桜門の桝形にある「蛸石」で36畳敷である。
 この場所には第三位の「振袖石」33畳敷もある。
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 第二位の石は京橋口の桝形にある。
 「肥後石」と呼ばれ、畳33畳敷である。
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 そして、第四位は大手門の桝形の「大手見付石」で29畳敷である。
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 ⑤豊臣時代の石垣:この直径約3mの井戸状のものは地下7mにも達している。
 そこには豊臣時代の石垣があると云われる。
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 ⑥宮大工の技:大手門の修復の跡である。
 どのように接合したのか?、技術を推察するポイントである。
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 ⑦天守の石垣:天守の北東角の石垣である。
 戦時中、この傍に1トン爆弾が落ちたとのことで、その爆風によって石垣がずれたものと云われている。
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 ⑧秀頼・淀殿の怨念:大坂夏の陣の時、秀頼・淀殿は山里丸で最期を迎えた。
 その怨念が大阪城全体を覆っていると云われる。
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『河内国・狭山藩陣屋跡』

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 大阪府狭山市には、狭山藩の陣屋跡がある。
 南海電車の大阪狭山市駅前の旧中高野街道を北西方向へ辿り、途中から府道を北へ行き、電車の線路と交差する手前の左手にある。
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 細長い道路脇のスポットで、白塀に囲まれたところである。
 その場所に至るまでの同じく左手に、武家の長屋門風の建築物があるのが、雰囲気を醸し出している。
 しかしながらこの建築物は狭山藩の遺構でも何でもないものであろうとは思われる。
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 陣屋跡のスポットには、当時の狭山藩の陣屋を含めた屋敷の配置図が示されている。
 それによると、武家屋敷群は狭山池の東側に築かれていて、北側が陣屋を含む上屋敷、南側が下屋敷となっている。
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 狭山藩は北条氏主家の北条氏直のいとこの北条氏盛が立藩したもので、禄高は1万1千石である。
 ご存じのように北条氏は、豊臣秀吉の小田原征伐にて破れ、主家の氏直は高野山への蟄居を命ぜられたが、ほどなく亡くなったため主家は途絶え、叔父の氏規が北条氏主家を継ぎ、その跡を嫡子の氏盛が継いだということになっている。
 北条氏は紆余曲折があったが、小田原から狭山へと転府し、明治まで続いたのであった。

 尚、陣屋の遺構として、隣の堺市堺区の本願寺堺別院に、陣屋門が保存されている。
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 事のついでに日本最古の溜池である狭山池を訪れてみる。
 狭山池は南北に長い池で、周囲は3km弱である。
 池の中には龍神社が祀られている。
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 実は知る人ぞ知るであるが、この下屋敷の部分は北条家から寄贈され、南海電鉄が遊園地として経営した。
 戦時中や戦後は競艇場に変えられたが、昭和35年に遊園地として復活し、平成12年まで続いたのであったが、廃園となり、現在は公園や住宅地として活用されている
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 尚、狭山遊園が閉園されてから、南海電車の駅は「狭山遊園前」ではマズかろうと、駅名を市名の「大阪狭山市」とし、隣駅の「狭山」とどう違うのか、市外の人間には奇異な感じがする駅名連続であるのも止むを得ないことである。

『河内国・稲城址』

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 大阪府八尾市木の本の、浄土真宗本願寺派若江山光蓮寺、の寺門前に立っている「稲城址」の石碑である。
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 石碑の横の説明石板には、下記の説明文が書かれている。
  「聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を集め
   て、この地に稲城を構えて抗戦したという。
   稲城は稲で囲った城とか、稲積の城であったとか伝えられる。」

 また、この稲城は、時代から、我が国最古の城の一つであろうと云われている。

 光蓮寺は、この辺りでは大きな寺である。
 聖徳太子が物部氏を滅し、守屋の館を跡に仏寺を創建したのがこの寺の始まりである。
 当初は寶積寺と号し、その後若江郡若江村に転じて山号も若江山となり、更に後に兵火に遭ったため、この旧地に復したものと云われている。

 境内には、本堂、鐘楼、親鸞聖人像がある。
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 また、太鼓楼も設けられ、門前の通りからは蔵や5本の筋塀など、格式の高い寺院であることが分かる。
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 光蓮寺の周りにもいくつかの寺院がある。
 夫々の寺院が太鼓楼を備えているのも、この地域の特徴であろう。

 先ずは浄土真宗大谷派佛念寺である。
    IMG_0207.jpg  IMG_0209.jpg  太鼓楼

 そして、真宗本願寺派の西光寺の太鼓楼である。
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『徳川大坂城・東外堀』

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 大坂城の外堀の最後は東外堀である。
 東外堀は、玉造口と青屋口の間にある南北の堀である。

 先ずは玉造口の様子を見てみる。
 元々は門があったと思われるが、火災で焼け、その後が石垣にも残っている。
 門の内には、玉造定番屋敷の跡があり、その跡は広い林となっている。
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 玉造口から東外堀の畔に出るには、長い石段を降りることになる。
 降りたところの右手はもみじ園である。上の地図の堀の南の部分にあたる。
 今の季節は、新芽が緑の青紅葉、新芽が赤い紅葉の2種類があり、両方を見ることができる。
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 このもみじ園から北方向の東外堀を見たのが冒頭の写真である。
 東外堀に沿って北に歩く。
 外堀の外側は賑やかである。
 それもその筈、今の時期はこの広大なエリアがバーベキュー広場として市民に開放されている。
 バーベキューの間からは天守閣も遠くに見える。
 石垣の中はかつての市正曲輪、現在はお馴染みの梅園である。
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 バーベキューパーティーは青屋口の近くまで続いている。
 バーベキューの更に東外側は広場である。
 この広場ではメーデーの集会も行われる。
 そして野球場もある。
 しかし、元々はこの場所は明治時代から大阪砲兵工廠というアジア最大の軍需工場であった。
 太平洋戦争時の空爆により破壊され、その機能を停止したところである。
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 この地には現在、他にも大阪城ホールが設置されている。
 この辺りから、東外堀を見返してみる。豊かに水を湛えた広い外堀である。
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 青屋口へと到着し、外堀の探索は終了である。
 大阪城ホールのゲートを潜り、第二寝屋川を見ながら京橋駅方向へと向かった。
 真東に生駒山が望める風景である。
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プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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