『旧東海道終点の大坂』
旧東海道を江戸から大坂へ上るとその終点は高麗橋である。
そこは各街道の出発点で「里程元標」があった。
現在の大阪でも「商売を始めるなら高麗橋で」と云われる。
各地へ広がって行く道の起点だったからであろう。
伏見から三十石舟で淀川を下った場合には八軒家浜が終着の港となり、どちらからも目と鼻の先である。
現在の場所で云うと京阪電車や大阪地下鉄の天満橋駅近くである。
この高麗橋と八軒家浜の中間あたりに紀州藩邸があった。
御三家の紀州の殿様の大大名行列を整えたところである。
現在は郵便会社の建物になっている。
江戸時代は大坂は東町奉行所と西町奉行所が輪番制で大坂の治世を担当していた。
東町奉行所跡は現在の国省庁の合同事務所となっている。
大坂城の乾櫓の向かいの西の丸内堀の外側である。
もう一つの西町奉行所跡は高麗橋から少し南の松屋町筋である。
この場所には「大阪府立貿易専門学校発祥の地」「大阪府立貿易館跡」の石碑があるが、その前は大阪博物場が建設されていた。
博物場は博物館だけでなく、動物園や図書館、美術館も順次併設されたところであった。
現在は見本市会場の「マイドーム大阪」や大阪商工会議所となっている。
江戸時代の大坂の街は奉行所の管轄下に大坂三郷と云われる町組を設け、日常の統治業務を行っていた。
大川の北には天満組、その南の本町通りを境に北組、南組という三つの組があった。
各組は惣年寄という代表者とその下に町年寄があり、それぞれ惣会所を持ち政務を行っていた。
今で云う区役所のようなものであろう。
先ずは天満組であるが、その惣会所跡は大阪天満宮の南東側、大川とに間にある。
現在は滝川公園になっていて、この公園には「天満興正寺御坊跡」の石碑もある。
次は北組惣会所跡である。現在の平野町にある。
跡地はビジネスホテルになっている。
最後は南組惣会所跡である。
谷町四丁目交差点から一本南西に入ったところにある。
現在は保育園になっているが、その前は南大江小学校であった。
南大江小学校は斜め向かいに移転していて、学校の校舎の下を、豊臣秀吉が敷設したと云われている「太閤背割下水」が流れているのを覗くことができる。