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『越前国・福井城』

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 福井県福井市のJR福井駅から近いところに福井城址がある。
 関ヶ原の戦いの後、家康の次男である結城秀康が越前国に封じられ、柴田勝家の北ノ庄城の跡地を活用し、天下普請にて築城したもので、新北ノ庄城と云われた。
 その後、城も藩も街も福井と改名され、秀康を藩祖とする越前松平氏の居城として、明治維新まで続いた。
 
 現存しているのは内堀に四方を囲まれた本丸跡で、現在はその跡地に福井県庁、県警本部などが立地している。
 城跡へは南側の車も通れる「御本城橋」から入城する。
 橋を渡ると県庁前の広場に出るが、まずは秀康の像が建っている。
 そして、県庁と県警の建物の間を天守台へと進む。
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 天守台は石垣のみ遺構として残っている。
 石垣は1948年の福井大地震で一部倒壊しているが、災害を忘れないためであろうか、そのままの状態で保存されている。
 天守台の上部は結構広い。4重5層の天守があったと云われている。
 また、木立の間から雪を抱いた白山を眺めることができる。
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 天守の石垣の横に井戸の遺構がある。
 「福の井」という。
 3代藩主松平忠昌が「北ノ庄」から「福井」と名をあらためたその起源となっている井戸である。
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 西側にある山里口御門跡の石垣の間を通って退出する。
 門の先の堀の上には屋根つきの歩行橋「御廊下橋」がかかっている。
 そしてその先は中央公園、越前松平家を祀る「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)」へと続いている。
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『越前国・北ノ庄城』

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 城シリーズ、引き続き北国街道の福井県福井市にある北ノ庄城址である。
 北ノ庄城は織田信長の筆頭家老柴田勝家が越前国一帯を支配するために築城したものである。
 信長が本能寺事件で横死して、織田家の跡目争いが起こったが、勝家はその賤ヶ岳の戦いで敗れ、最後はこの城で正室お市の方とともに自刃して、城も炎上した。
 
 その後、丹羽長秀が入城したが、関ヶ原の戦いの後、越前は徳川が領することになり、家康の次男結城秀康が入国し、北ノ庄城の跡地を利用して、城の中心部を北に設けた新北ノ庄城(その後福井城と命名)を築城し、勝家北ノ庄城の天守のあたりは百間堀となった。

 城跡は、福井の商店街となっていて、通りに面した鳥居の奥に城跡はあり、公園となっている。
 そこには天守の模型、勝家の勇壮な像が建っている。
 この像は、この城が攻められた時に、攻め手の秀吉が本陣を構えた川向うの足羽山を向いている。
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 遺構はほとんど残っていないが、発見された石で構築された石垣、発見されたままの石垣の遺構が保存されている。
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 また、城跡には、お市の方と茶々、初、江の三人姉妹の像、それに柴田神社が祀られている。
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『桃畑のモモの実』

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 少し前までは桃、梅、桜の花が咲いていたが、今はその実の季節である。
 桃の木には間引きをしなければならないほど、4~5cmに成長した沢山の実が付いている。
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 桃畑では白い袋で実を包んで、これからの生育、収穫に向けて余念がない。
 桃畑の周りでは、ハナショウブ、それに田植え用の苗床も見られる田園風景となっている。
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『越前国・丸岡城』

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 北国街道の城を北から順に訪れてみることにする。
 先ずは、福井市の北東、坂井市丸岡町霞にある丸岡城である。
 この城は、織田信長の家臣柴田勝家が越前一帯を支配した時に、勝家の甥である柴田勝豊により築城されたものである。
 この天守は、その後慶長年間に改造が加えられているようであるが、現存する天守としては最も古いものと云われている。
 国宝に指定されていたが、昭和23年の福井大地震により倒壊した。
 その後、倒壊材を元通りに組み上げ、現在は重要文化財とされている。
 「霞ヶ城」とも云われ、その由来は合戦時に大蛇が現れて霞を吐き、城を隠したという伝説によるものである。
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 天守は3層となっている。
 初層の壁には石落としの穴、それに丸岡城の当時の模型が置かれている。
 その模型によると内堀は5角形で、珍しい形である。
 現在その内堀の再現計画も持ち上がっている。
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 初層から2層目に登る梯子はかなり急である。
 恐る恐る上ると広間が広がる2層目となる。
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 3層目へ登る梯子は直立しているのかと思うほど急である。
 ロープにつかまりながらの上りとなった。
 外へは出られないので、窓から風景となるが、丁度眼下の小学校では運動会が開催されていた。
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 丸岡城は、柴田勝豊が清州会議の結果、近江長浜へと転府となり、勝家は安井家清を城主とした。
 柴田勝家が秀吉に滅ぼされた後、丹羽長秀が越前を領し、家臣青山宗勝を城主とした。
 しかし宗勝は関ヶ原で西軍に付いたため、改易となり、越前領主となった家康の息子結城秀康は今村盛次を城主とした。

 しかし、盛次は越前騒動に連座し、徳川譜代本多成重が城主として入った。
 今度は越前福井藩2代目の松平忠直がご乱行を理由に配流となり、福井藩は減封となった。
 その結果丸岡は独立となり、本多成重を初代として丸岡藩が成立した。

 しかし、元禄の頃、丸岡藩にお家騒動が起こり本多氏は改易、その後に有馬清純が入城し、以降有馬氏の丸岡藩として明治維新を迎えた。

 天守の周囲に興味を引く石板が建てられている。
 一つは「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」である。
 ご存じ本多成重の父重次が、長篠の戦いの時に妻に宛てた短文の手紙である。
 丸岡文化財団では、短い手紙の「一筆啓上賞」コンテストを行っている。

 もう一つはお静の慰霊碑である。
 柴田勝豊の築城の時、石垣が何度も壊れたので人柱を立てることになった。
 そこで、お静と云う貧しい母が、子を士分に取り立ててくれると云う条件で人柱となり、工事は無事成功した。
 しかし勝豊は改易となったため約束は果たされす、恨んだお静の霊が大蛇となり暴れ回り、大雨を降らせたという伝説がある。
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『この時期のキク科花』

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 この時期、道端に良くみられるキク科の花「ヒメジョオン(姫女菀)」である。
 北アメリカ原産の帰化種で江戸時代末期に鑑賞用として導入され「柳葉姫菊」と呼ばれたが、明治になって雑草となり、全国に広く分布した。
 現在は、日本の侵略的外来種ワースト100にも選定されている。
 また鉄道線路沿いに多く咲いていたことから、「鉄道草」と呼ばれたりもした。
 
 キクは秋に咲くとのイメージがあるが、この時期でも咲くキク科がある。
 先ずは「大錦鶏菊」、「春菊」、「勲章菊」である。
 花も大きく黄色いので、遠目からも良く目立つこの時期の代表である。
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 次は「矢車菊」である。
 カラフルで畑の縁などに良く植えられている。
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 他にも、「足摺野路菊」や咲き始めであるが「萵苣(チシャ)」も見られる。
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 もう一つ、終わり掛けであるが「セイヨウタンポポ」、花よりも綿帽子が多くみられる。
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『土佐国・高知城』

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 四国高知市の高知平野の中心にある高知城天守である。
 元々この地に長宗我部氏の築いた大高坂山城があった。
 しかし長宗我部元親の時代になって水はけの悪いこの城を捨て、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。

 元親は関ヶ原で西軍に属したため改易され、後を受けてご存じ掛川城から山内一豊が城主として入城し、土佐藩を立藩した。
 一豊は街づくりには適さない浦戸をあきらめ、この地に再度築城した。
 そして南を流れる鏡川と北を流れる江の口川を外堀として利用したため、河中山城(こうちやまじょう)と名付けた。
 しかし度重なる水害に悩まされたため、河中の名を忌み嫌い、2代藩主の時に高智山城と改名され、省略形で高知城と呼ばれるようになった。
 そして街の名も高知となった。

 内堀外の公園から眺めると40m強の高さに天守が聳えている。
 少々見にくいが、城壁中央上部に石樋が設けられているのは、多雨地域ならでの城である。
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 高知城は廃城となった後、県の管理するところとなり主要な建造物は残された。
 太平洋戦争の高知大空襲があったが破壊から逃れ、現在は天守を始め15件の建造物が重要文化財となっている。
 左から追手門、上部が二ノ丸と本丸の渡り廊下ともなっている詰門、そして本丸御殿(懐徳館)と天守である。
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 同様に黒鉄門、矢狭間塀である。
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 天守は5層で、最上層から眺めた本丸前庭、二ノ丸跡、三の丸跡である。
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 高知城公園内には、山内一豊の像、妻千代の像もある。
 また追手門の横の内堀では、睡蓮が見ごろでもあった。
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『福井市・五社巡り』

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 北陸越前の福井市には、福井に関係する5人の偉人を定め、この偉人たちを祀る神社を参拝する「ふくい五社巡り 福偉神」という参拝の仕方がある。
 上の写真はこの5人の偉人のもので、左から継体天皇、新田義貞、柴田勝家、橋本左内、松平春嶽である。
 尚この参拝は福井市内の主要部を4系統で巡回するコミュニティーバス「すまいるバス」の利用キャンペーンも企図されている。

 先ずは福井市の中心にある独立した120m弱の足羽山(あすわやま)である。
 古墳時代から開けたところで、多数の古墳群があるところである。
 豊臣秀吉が麓の足羽川を挟んで北ノ庄城の柴田勝家を攻めた時には本陣とされたところでもある。
 この山の山頂北部に「足羽神社」が鎮座する。
 足羽神社は天皇即位前に福井で暮らした継体天皇他を祀っている。
 創建は天皇自身がこの福井の地を離れる時であると伝えられる。
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 引き続き足羽山東麓にある「藤島神社」である。
 創建は明治の初めで、新田義貞を祀る神社である。
 南北朝の時代に足利尊氏に京都から追われこの福井の地で最後の戦いを行った終焉の地(新田塚)に祠が建てられたが、明治の後半にこの地に遷座されたものである。
 新田義貞の鉄製銀象嵌四十二間筋兜など重要文化財を保有している。
 尚足羽山にはテレビの送信所があり、NHKと民放2局のアンテナが見られる。
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 足羽川を渡り市の中心部へ進むと「柴田神社」がある。
 云わずと知れた柴田勝家の北ノ庄城本丸の跡に鎮座している。
 三姉妹神社もあり、浅井長政と市の三人の娘、茶々、初、江が祀られている。
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 更に市の中心部、福井城の三の丸跡に「佐佳枝廼社(さかえのやしろ)が鎮座する。
 福井城の鎮護の神で、元々は越前東照宮と呼ばれ、江戸時代に創建されたものである。
 徳川家康、結城秀康、 松平慶永(春嶽)が祀られている。
 松平春嶽は最期の福井藩主で尊王開国派、明治の元号の提案、また神社をこの地に移し、社名も佐佳枝廼社と改めたと云われている。
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 最後は「福井県護国神社」である。
 明治以降の戦争で亡くなられた方の英霊を祀るのが主であるが、橋本左内も祀られている。
 左内は藩校明道館の校長を務め、藩士子弟の教育と幕末の政治改革に奔走したが、安政の大獄ににより刑死された人物である。
 藩校はすぐ南にある県立藤島高校へと受け継がれている。
 左内の有名な言葉に「急流底の柱則是大丈夫之心」がある。
 激流にも倒れない柱のようにゆるぎない大丈夫(ますらお)の心を信条とした。
 「大丈夫」と云う言葉の由来ともなっている。
 福井の受験生の守り神ともなっている神社である。
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『金沢・武家屋敷群』

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 石川県金沢市、かつての加賀100万石の城下町の武家屋敷群、長町の武家屋敷と云い、金沢市の伝統環境保存区域に指定されている。
 金沢城の西側、犀川との間にあり、犀川から引かれた大野庄用水沿いに立地している。
 それぞれの屋敷は土塀で囲われていて、土塀は冬には菰掛けされ雪から守るようにしているとのことである。
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 長屋門、建屋、そして少し離れて足軽屋敷などが見られる。
 この辺りは上位中位の武士が住んだとされ宅地は200坪から600坪位まで、禄高によって与えられている。
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 下記は加賀藩1200石取りの野村家屋敷である。
 藩では重役であるが、屋敷が当時のままで公開されている。
 庭園は、米国雑誌のランキングによると、足立美術館、桂離宮に次いで日本3位とのことである。 
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『金沢の地名の由来』

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 石川県金沢市、兼六園の南の端にある「金城霊沢(きんじょうれいたく)」である。
 昔、芋堀藤五郎がこの泉で砂金を洗い「金洗沢」と呼ばれていた。
 これが金沢に地名の起こりであるとの説明がある。

 その後ろには、13代藩主前田斉泰公が岩を積み上げて鳳凰の形にした山の洞穴に「金城霊澤碑」を納めた鳳凰山がある。
 この場所は金澤神社の境内で、菅原道真などと藩主斉広公、斉泰公を祀っている。
 元々は竹沢御殿御鎮守天満宮と云われた神社で、本殿は登録有形文化財である。
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 また、社殿前の放生池にはキショウブも咲いている。
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 この金城霊沢は兼六園の南端にあるが、兼六園の名の由来は、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六勝を兼ね備えた名園から来ているとのことである。
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『越前国一之宮・気比神宮』

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 福井県敦賀市にある越前国一之宮「気比(けひ)神宮」の大鳥居である。
 この鳥居は、赤鳥居と云われ平安時代の嵯峨天皇の造営時には東参道口にあったものであるが、その後倒壊したため江戸時代に礎石を現在の西参道に移し、佐渡国から奉納された榁(むろ)樹一本で両柱が再建されたもので、重要文化財となっている。
 この鳥居は、奈良春日大社、広島厳島神社の大鳥居と並ぶ「日本三大鳥居」の1つでもある。
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 中鳥居を潜ると、本殿そして西に九社宮がある。 
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 この気比神宮は、本宮には気比大神の伊奢沙別命 (いざさわけのみこと) 、仲哀天皇 (ちゅうあいてんのう) 、神功皇后 (じんぐうこうごう)を祀る。
 また東殿宮には 日本武尊 (やまとたけるのみこと)、総社宮には応神天皇 、平殿宮には玉妃命 (たまひめのみこと) 、西殿宮には武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)を祀る。

 この神宮は神代よりの鎮座で、この神社に行幸した仲哀天皇は自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐出発時にも神功皇后や玉妃命、それに武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させたと云われる。

 またこの神宮には、松尾芭蕉が奥の細道の旅で敦賀を訪れている。
 その時はちょうど中秋の名月の頃で、敦賀での月見と氣比神宮への参拝を楽しみにしていた芭蕉は、沢山の句を詠んでいる。
 「名月や 北国日和 定めなき」
 「月清し 遊行のもてる 砂の上」などである。
 2句目は、この神社の元々泥だった周辺を砂で埋めた遊行上人の功績を偲んだものであり、その様子も神社門前に像として再現されている。
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『和泉国・慈眼院多宝塔』

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 大阪府泉佐野市にある真言宗御室派慈眼院の多宝塔である。
 10mの背の高さのもので、国宝に指定されている。
 屋外にある塔で国宝、重要文化財に指定されているものでは最小のものである。
 この塔は、高野山の金剛三昧院塔、近江の石山寺多宝塔とともに日本三大多宝塔の一つである。
 また、大阪の旧和泉国(泉州)の国宝建造物には、この他にも河内長野観心寺の金堂、貝塚市の孝恩寺観音堂、堺市の桜井神社拝殿がある。
 この多宝塔の他、慈眼院には重要文化財の金堂も苔むした庭園の中に建っている。
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 慈眼院は、遡ると奈良時代以前、天武天皇の勅願寺で聖武天皇の勅願寺ともなった。
 その後、弘法大師によって多宝塔、金堂を始めとする諸堂が建築されたと云われる。
 
 南北朝時代、伽藍は戦火を受けて焼失したが、南朝天皇である後村上天皇と後亀山天皇の勅命により再興されたものが現在のものである。
 その後、秀吉の紀州攻め、根来攻めが行われた時に全山が焼かれたが、多宝塔と金堂が焼かれずに残った。
 そう云えば、根来寺の多宝塔も焼かれずに残されている。
 
 慈眼院は寺院の隣にある日根神社の神宮寺であった。
 日根神社は、5メートルほどもある竹の竿に色とりどりの飾り枕を付けた枕幟を背負い、御旅所まで渡御するまくら祭りで知られる神社である。
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『アイリスとポピー』

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 香川県のまんのう公園で、アヤメの仲間ジャーマンアイリスが咲いていた。
 複数のカラーで楽しませてくれる。
 ドイツアヤメとも呼ばれる。
 1800年代の初めに、ドイツやフランスでアヤメ属の植物を交雑した園芸品種である。
 その後アメリカから多数の品種が出されれている。
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 アイスランドポピーの花畑もある。
 シベリアヒナゲシとも云われ、亜寒帯に咲いていたことから、このような名付けとなった。
 一重の薄い花弁で、黄色が主体となっている。
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 シャーレーポピーの花畑もある。
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 広大な場所で、見ごたえがある。

 こちらは八重が主体である。
 赤色が主体で、中間ピンクから白色まで揃えられている。
 そしてそれらの混合色もあり、中々見応えがある。
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『讃岐国・丸亀城』

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 香川県丸亀市にある重要文化財の丸亀城天守である。
 丸亀城は60m程度の亀山の周囲を3重の60m高さの石垣が天守台まで積み上げられている。
 石垣の高さ日本一の城と云われる。
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 丸亀城は室町時代に築城されたものであるが、秀吉の四国制圧により生駒氏の高松城の支城となり改修が加えられた。
 江戸時代の初期、生駒氏が移封されたため山崎家治が入封し、丸亀藩が立藩された。
 山崎氏が3代で無嗣断絶し改易となり、代わって播磨国龍野より京極高和が入封し、以後、明治時代まで続いた。

 尚、天守は昭和25年に解体修理が行われているが、その時、壁の中から寛永10年に山崎氏が着工し、27年を掛けて万治3年に京極氏が完成したと云う墨書が発見されている。

 天守の他にも、大手門の一ノ門、ニノ門も重要文化財に列せられている。
 天守台の広場は、市街地や讃岐富士飯野山、瀬戸内海が望める絶景のビューポイントとなっている。
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『讃岐国・高松城』

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 香川県高松市の高松港に隣接する海城「高松城」月見櫓である。
 高松城は玉藻城とも呼ばれる。
 これは、万葉集に柿本人麻呂が「玉藻よし 讃岐の国は ・・・」と枕詞を付け長歌を詠んだことに因むものである。
 高松城は国の史跡に指定されるとともに、城内には幾つかの重要文化財がある。
 上記掲載の月見櫓の他に、月見櫓に続く水手御門と渡櫓、旧東の丸から移築された艮(うしとら)櫓、城内御殿の披雲閣である。
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 高松城は豊臣秀吉の四国制圧後、讃岐の大名となった生駒親正が最初に築城したものである。
 その後生駒氏は家内の内紛が原因で出羽国に移封され、そのあとに水戸黄門の兄である松平頼重公が高松初代藩主として入城した。
 その後、水戸黄門の実子で頼重公の養子となった2代目頼常公の治世にかけて城の大改修が行われた。
 そして高松松平藩は明治の時代まで存続した。

 城には3層5階の天主があった。
 しかし明治の廃藩置県で廃城となった折り、老朽化していた天守は解体廃却された。
 近年、天守再建の動きがあり、このほど天守台石垣の修復が完成したところである。
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 新しくなった天守石垣の上から眺めると、本丸・天守と二ノ丸を繋ぐ唯一の通路「鞘橋」、内堀を遊覧する舟、そして三の丸跡に移築された披雲閣の全容を眺めることができる。
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 この城は海水を堀に取り入れている。
 その水門は未だ健在である。
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 また城の外周には、東入口の旭橋と城門、JR高松駅側にはの西入口がある。 
 そして北側には報時鐘という櫓もある。  
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『讃岐国・十河城跡』

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 香川県高松市を流れる春日川の上流西岸に築かれていた十河城の城跡である。
 当時の本丸の跡は、現在は浄土宗称念寺となっている。
 また境内には城跡を偲んだ句碑も見られる。
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 十河城は南北朝時代から国人十河氏の城であった。
 阿波の三好氏が讃岐の支配権を得ようと讃岐攻めを企んでいた時、上手い具合に十河の跡継ぎが絶えたので三好長慶は実弟を養子として送り込んだ。
 鬼十河と云われる十河一存(かずまさ)である。
 一存は讃岐国の支配権を奪い取り、そして養子としてこれも三好から存保(まさやす)を迎えたのであった。

 そこに土佐の長宗我部が四国を統一せんと十河城を2度に渡り攻めた。
 存保は長宗我部の猛攻に耐えられす逃げたが、三代目の一存の庶子存之(まさゆき)は良く守り、秀吉の援軍も得て撃退したのであった。
 その功あって十河存之は讃岐十河2万石を与えられ十河城を復権された。
 しかながら翌年の九州征伐に従軍し、島津氏との豊後国戸次川の戦いにて討死してしまい、十河城も廃城となってしまったのであった。
 
 寺の本堂の本丸跡地を南から眺めたものである。
 また西側には鷺池があり、城の防御堀となっていたものである。
         P1200970_convert_20140515121921.jpg   鷺池

『阿波国・徳島城』

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 四国徳島県徳島市のJR徳島駅に隣接してすぐ東にある徳島城址である。
 もともと戦国時代には、この地の60m程度の小高い山には渭山城、平地には寺島城があった。
 秀吉の四国侵攻にて武功があった蜂須賀氏にこの地が与えられ、両城を統合する形で徳島城として築城されたものである。
 その後は蜂須賀氏の居城として明治維新まで続いた。

 明治の廃城令にて大手門である鷲之門を残してすべての城郭建造物は取り壊された。
 しかし、太平洋戦争の徳島空襲にてこの門も焼失した。
 現在の門は平成元年に復元されたものである。

 城山は殆どそのままである。
 山頂の広場は本丸跡で、この時も近くの幼稚園児たちの園外学習が行われていた。
 また頂上から市街西方向の眉山(びざん)を間近に望むことができる。
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 城山の周囲は徳島中央公園となっている。
 堀と石垣は当時のまま、また表御殿跡には徳島城博物館が設置されていて、庭園も健在である。
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 その他、初代藩主蜂須賀家政公の像やSLも静展示されている。
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 また、城山の北西側には小学校や体育館、テニスコート、北東側は助任川を挟んで、徳島大学となっている。

『阿波鳴門・撫養城跡』

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 徳島県鳴門市のJR鳴門駅前から撫養(むや)川向うの妙見山と山頂の撫養城を望んだものである。
 現在は休館中であるが博物館が模擬天守として設けられている。

 撫養城は小笠原氏が築いた城とされるが、後、長宗我部氏の侵攻に伴いその配下となった。
 その後秀吉の四国征伐により蜂須賀氏が阿波国の国主となり、徳島城の支城、阿波九城の一つとされた。
 しかし徳川の一国一城令により、廃城となったものである。

 妙見山は60m程度の山である。
 山頂には、模擬天守、それに北辰を祀る妙見神社がある。
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 山頂から鳴門市内が俯瞰できる。
 鳴門駅とは逆側の地上から眺めると、木々と相俟って綺麗に見える。
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『薔薇が咲いた』

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 周囲に沢山の蕾を従えて、薔薇の花が咲き始めた。
 薔薇の花は、何と言っても花の女王であろう。
 暫くはあっちこちのバラ園や街角で芳しい香りを漂わせ、花を楽しませてくれる。

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『この時期の大柄の花』

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 この時期、街角では沢山の種類の花を見ることができる。
 中でも大柄のボタンは一層艶やかである。
 中国西北部が原産とのことであるが、わが国でも古くから栽培され、襖絵などによく描かれている。

 「立てばシャクヤク、座ればボタン」のシャクヤクも咲いている。
 シャクヤクはボタン科ボタン属なので、ボタンとよく似ていて見間違う。
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 クレマチスも大柄の花を付けて人目を引くが、もう終わりに近い。
 風車とか鉄線との呼び名がある。
 詳しくは、風車は日本原産で花びらは8枚、鉄線は中国原産で花びらが6枚とのことである。
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 シャクナゲも派手な花を付けている。
 遠目にはツツジと見間違うこともある。
 花は良く似ていて同じツツジ属であるが、花の付き方が違う。
 石楠花という漢字が当て嵌められるが、葉の薬効から来たものだそうである。
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『公園の水辺の花たち』

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 ある公園の風景である。
 遊歩道にはツツジが見られるが、今は新緑一色の季節と云える。
 新鮮で、光る緑の葉が心を清々しくしてくれる。

 水辺を辿って見ると、菖蒲が咲き始めているのは微笑ましい。
 写真はキショウブである。
 池の一部に咲いていて、ワンポイントのアクセントとなっている。
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 別の水辺では、紫や白い菖蒲も咲き始めている。
 しばらくしたら見頃を迎えるのであろう。
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 またとなりの池ではスイレンが可愛く咲いている。
 この時期ならではの装いである。
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 花の色もいくつかあって、それぞれに楽しむことができる。
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 ある公園の昼下がりの風景であった。
 尚、この公園は江戸時代にはある徳川親藩の下屋敷であった所である。

『大和国・郡山城』

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 奈良県大和郡山市にある郡山城跡に復元されている追手向櫓である。
 その向かいには復元された追手門、またその東には同じく復元された東隅櫓がある。
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 この郡山城は織田信長から大和の国主に指名された筒井順慶が筒井城に代るものとして築城したもので、他の城との違いは、城内には堀が張り巡らされ、沢山の橋が架けれれている。
 しかし残念ながら城内に残っている遺構としては堀、石垣のみである。
 下の写真右側は天守台に登る階段と天守台の石垣である。
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 城内には、郡山藩の後半を治めた柳澤家の神社、柳澤神社がある。
 徳川の要人柳澤吉保と初代藩主柳澤吉里など歴代の藩主を祀っている。
 また城内には奈良県立の郡山高校もある。
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 郡山城は秀吉によって伊賀へ移封された筒井定次の後、秀吉の実弟羽柴秀長が入城した。
 秀長は城造りや城下町造りに傾倒し、郡山の繁栄をもたらしたと云われる。
 その後、秀長が没し、子の秀保も急死すると家は断絶となった。
 増田長盛が城主となったが、これも高野山へ追放され、徳川の管理城となった。

 豊臣方は城の回復を図り戦いを仕掛けるが成功せず、大坂の陣が終わると、水野、松平、本多が入城したが、最後は柳澤氏が入城して明治まで続いた後、破却された。
 この時、南御門が城南部にある柳澤氏の菩提寺永慶寺の山門として移築されているのが唯一の遺構建築物である。
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 郡山城の城外に目を転じると、大和大納言秀長の大納言塚、柳澤吉里が持ち込んだ金魚の養殖池などが見られる。
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 また城の堀横を近鉄電車も走っているのは近代的な風景である。
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『大和国・多聞城跡』

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 奈良市の中心部から少し北部の法蓮町にあった多聞城の城跡である。
 信長の時代に梟雄として知られる大和の国主松永久秀が築いた城であった。
 城内には多聞天像があったことから、多聞城あるいは多聞山城と云われた。
 
 久秀は三好長慶が畿内8か国を支配した時、その配下の大和の国主としてこの城を築いたのであった。
 三好長慶が亡くなると久秀の権力は増大したが、その頃台頭してきていた大和の筒井順慶と三好三人衆連合軍を相手に東大寺大仏殿の戦いを起こし勝利したものの、その後衰退の一途を辿る。

 久秀は将軍義昭が画策した信長包囲網に名を連ねるが、武田信玄が途中で亡くなったことから包囲網は瓦解して、久秀は信長に多聞城を差し出すことで許されたと云われる。

 信長はこの多聞城の4層の天守を見聞し、安土城の天主のモデルとなったと云われている。
 また、信長がこの多聞城で、正倉院に伝わる名香「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った話はあまりにも有名である。 

 現在の城跡は、奈良市立若草中学校の敷地となっていて、校内およびその周囲には土塁の跡などが残っている。
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 また校門正面前の場所には、多聞城内にあった無縁の墓石などが集められ置かれている。
 学校の西には、古代から聖武天皇の陵や妃の陵がある。
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 また、この辺りは京都から奈良へ入るときには通る奈良街道であり、近くには奈良時代の古くから、奈良豆比古(ならづひこ)神社が鎮座している、
 国宝楼門があるコスモス寺般若寺、北山十八間戸などの観光スポットが点在する。
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『京都・元離宮二条城』

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 京都市内の中心部にある世界遺産元離宮二条城の国宝二ノ丸御殿である。
 二条城のその他の殆どの建造物は重要文化財でもあり、文化財の宝庫と云える城である。

 二条城は将軍となった家康の徳川家と天皇家との交流施設として創建されたものである。
 当初は将軍宣下された家康の賀儀を第一の目的とされた。
 その後、2代将軍秀忠の娘和子、東福門院が後水尾天皇に入内する時大改修された。
 その時の普請奉行は城造りの名手、藤堂高虎である。
 そして、3代将軍家光の時の後水尾天皇の行幸のため改修されたが、その時の作事奉行は、これも庭造りの名手、小堀遠州が務めた。
 このように二条城には徳川の建築の名手達が次々と係わり、天下普請と云われる多くの大名達も関わって完成されたものである。
 もちろんのこと、徳川は二条城の築城改修の都度、天皇が住まいする御所にも、城以上の改修を加えることは忘れていなかった。

 二条城へは東大手門から入る。
 番所の前を通り、二ノ丸の塀に沿って回り込むと唐門に到達する。
 唐門を潜ると最初の写真、二ノ丸御殿の車寄せに達する。
 二ノ丸内に入ると狩野派により描かれた多くの国宝絵画のレプリカがあるが、雰囲気は醸し出されている。
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 二ノ丸を出ると、その西には本丸がある。
 本丸の南西の隅に天守台の石垣が残されている。
 この天守については複雑な経緯があるが、最終5重の天守は、江戸の中期に落雷で焼失し、以後、再建されていない。
 天主跡から本丸を眺め、本丸を離れ、北の庭園、清流園の茶室香雲亭を眺め、城内の一周を完了した。
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 城外に出ると、東南には櫓、北側の猪熊通りが突き当たるところには北大手門がある。
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 二条城は幕末に15代将軍慶喜が大政奉還を宣したところでもあり、江戸時代にはいくつかの歴史のターニングポイントになった場所である。

『近江国・大津城』

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 滋賀県大津市の浜大津にある大津城跡である。
 大津城は羽柴秀吉の命にて、浅野長政が戦略的に不要となった坂本城を廃して、琵琶湖と京を結ぶ逢坂峠の入り口に築城された水城である。
 大津城は戦闘のためと云うよりは琵琶湖の水運を利用して運ばれる物資の集積基地としての役割が主であった。
 城跡は現在の京阪浜大津駅とそれに繋がる大津港一帯であるが、遺構らしきものは見られない。
 一部公園となって市民憩いの場となっている。
 また、大津港は大型観光船ミシガンの発着、そしてマリンスポーツの基地ともなっている。
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 大津城の城主は長政の後、増田長盛、新庄直頼と代わり、関ヶ原の5年前には京極高次が城主となった。
 高次の正室は浅井長政の次女お初である。
 関ヶ原の時には東軍に与して城に籠城し、西から戦場に向かう西軍15000に攻撃を仕掛け足止めした。
 しかし最後は三井寺の山から大砲を撃ち込まれ、8日間の籠城戦は終結したが、この西軍の毛利元康、立花宗茂らは関ヶ原に間に合わなかった。
 家康からはこの戦功が高く評価され、この後、若狭小浜に栄転移封された。

 その後家康は大津城を廃し、新たに瀬田の唐橋に近い湖岸に膳所城を築城した。
 そして大津城の戦禍を免れた城郭の一部は、彦根城、膳所城に利用、移築された。

 大津城跡の大津港から北西には比叡山、北東には近江富士を眺めることができる。
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『近江国・坂本城』

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 滋賀県大津市の琵琶湖西岸の下阪本にある坂本城である。
 坂本城は織田信長の比叡山延暦寺焼き討ちの後、光秀に近江国滋賀郡が与えられ、信長の命にて築城した一部琵琶湖に跨る水城である。
 その目的は比叡山への防備と琵琶湖の水運を制することであった。
 坂本城は安土城築城の5年前に築かれたもので、大天守、小天守と本丸、二ノ丸、三の丸など、大きな城であったと云われる。

 光秀はその後丹波を制したため、丹波国も与えられ亀山城主との掛け持ち城主となったのであった。
 光秀は両城下で善政を行ったとされ、現在でも両城下とも光秀を偲ぶ祭りが開催されている。

 坂本城のこの場所は公園となっていて、少し太めであるが光秀像も建てられている。
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 変わった形の鳥居もあるが、これは日吉神社に関わるもので、日吉神社の山王祭の船渡御が行われるところで、七本柳という場所である。
 これも坂本城の城内であった。
 坂本城の遺構としては、琵琶湖湖中に石垣が原型を留めているものがあるが、この石垣も遺構であると思われる。
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 本丸跡は北に続いている。
 その一部はある企業の研修所となっている。
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 本丸から山側に二ノ丸、三の丸と続く。
 本丸と二ノ丸の間には「明智塚」がある。
 坂本城落城の際に光秀の脇差名刀や宝物を埋めた跡で、明智一族の墓所とされている。
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 尚、坂本城は、光秀軍が天王山の戦いに敗れた後、攻められ炎上した。
 その後、丹羽長秀が再建に取り掛かった。
 羽柴秀吉と柴田勝家との賤ヶ岳の戦いの時、長秀は湖水を渡って戦場に駆け付けた話は有名である。
 続いて杉原氏、浅野長政が入城したが、4年後長政は大津城を築城し、廃城となった。
 坂本城の廃材は大津城築城に活用されたと云われている。

『神戸北野の花絵展』

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 神戸市の三ノ宮駅から北の方向にある北野坂、トーマス坂を上り、更に路地を上がると良く知られる国の重要文化財「風見鶏の館」前に到着する。
 そのトーマス坂の交通を遮断して、「インフォラータこうべ2014」という催しが開催されていた。
 インフォラータとはイタリアで開催されている道路や広場に花びらで絵を描く祭りで、この神戸では震災後の18年前に移入され、始められたものである。
 絵は球根栽培のために摘み取られたチューリップの花びらが用いられている。
 富山県の砺波市や新潟市から提供されたものであるとのことである。
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 この祭典もあって北野界隈は、大変な賑わいであった。
 北野町広場では大道芸や様々な催しが行われていた。

 風見鶏の館の東北に北野天満神社がある。
 平清盛が「福原の都」を造るにあたって、京都の北野天満宮を勧請したとの由来がある。
 神社は高台であるので、神戸市街地を程良く見下ろすことができる。
 風見鶏も神社の舞台を通して見ると趣がある。
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 北野には数多くの異人館がある。
 また東西に繋がる異人館通りもあり、多彩な風景が楽しめる。
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『近江国・瀬田城趾』

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 滋賀県大津市の琵琶湖より流れ出る瀬田川に近江八景瀬田の夕照で知られる唐橋の東詰を少し南に行った道路沿いに瀬田城跡がある。
 城跡には高層のマンションが建てられている。
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 この城は戦国時代に勢多判官章則氏の手により築城され、その後、甲賀武士の流れを汲む佐々木氏家臣の山岡景房が城主となった。

 瀬田は当時東近江から京都に入る重要な場所で、幾代にも渡り瀬田唐橋が架けられ、この橋の通行を制することが城主の主な任務であった。
 城主山岡景隆は織田信長に臣従していた。
 本能寺事件の後、信長亡きあとの安土城を守るべく安土へ向う明智光秀を迎え討とうとしたが敗れ、城に火を放ち甲賀へ引き上げ、以来廃城となったと云われる。
 その後、膳所藩の別邸となり、「臨江庵」が建てられた。
 しかし今はそれも無くなり、道路沿いのマンションの法面に模擬の石垣が設けられている。

 この付近の瀬田川河岸には、大学や企業のボート部の艇庫や合宿所が設けられ、練習風景も見られる。
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『播磨国・妻鹿城址』

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 兵庫県姫路市の東南部、市川の河口に近い左岸にある妻鹿(めが)城址である。
 山陽電車の妻鹿駅の北部の甲山に城郭は設けられていて、別名国府山(こうやま)城とも呼ばれる。
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 この城は、黒田官兵衛の父黒田職隆(もとたか)が築いたと云われ、秀吉の播磨、備前侵攻時に姫路城を明け渡し、この城を居城としたと云われている。
 この城で官兵衛らは、播州平野の状況を眺めるのみならず、瀬戸内海を通る毛利の船団を監視したと云われる。
 城入口の石碑の前に黒田家が商いした目薬の木も植えられている。
 官兵衛の父職隆はこの城を隠居城とした。
 妻鹿の街中には職隆の廟所も設けられている。

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 一説に、職隆は主家小寺家の当主政職(まさもと)が信長に叛旗を翻してからは、政職の嫡男、斎(いつき)をこの城に匿い育てたと云われる。

 現在の妻鹿は、日本三大けんか祭りの一つ「灘のけんか祭り」で知られる。
 隣駅の白浜の宮の松原八幡神社の祭礼で、妻鹿にある御旅山、御旅神社で巡行してきた屋台が激しく練られるところでもある。
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『播磨国・高砂城址』

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 兵庫県の加古川市と姫路市に挟まれた高砂市の東南部の高砂港に近いところにある高砂城址である。
 室町時代に築かれた城であり、戦国時代には三木城主別所長治の家臣の梶原景行が城主であった。
 高砂城は毛利の支援を受けて三木城への兵糧の輸送基地としての役割を持っていたが、秀吉の三木城攻めの時に大軍に攻められ落城したものである。

 その後、関ヶ原の戦功により播磨姫路城主となった池田輝政は中村主殿助を城主とした。
 大坂の陣の後、姫路城主となった本多忠政は一国一城令によりこの高砂城を破却した。
 そしてその跡に高砂の浦にあった牛頭天王を遷座し、高砂神社としている。
 高砂城の石碑はこの神社の神門を入った左手にある。        
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 高砂は江戸時代以降、加古川から高砂港へ通じる分流である堀川を中心として発達した。
 その名残りがあちこちに見られる。
 三連倉庫もその一つである。
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 明治以降高砂は工業都市として発展した。
 加古川駅を起点として鉄道が敷設された。
 加古川駅を発し、鶴林寺、尾上神社を通り、高砂市内に入って高砂港に至るものである。
 乗客と貨物両用で、周辺に建設された三菱製紙やカネカの工場を引き込み線で結んでいた。
 しかしながら物流の形態が変わったため、昭和の時代に廃線となって、現在、跡地は遊歩道となっている。
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『播磨明石・船上城跡』

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 兵庫県明石市にある船上城(ふなげじょう)跡である。
 現在この船上城の跡を示すものはこの小さな森しかなく、周辺の農地も含めて本丸跡と云われている。
 この森の中には、小さな祠と鳥居の扁額には「正一位古城御大神」、そして説明看板がある。
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 説明看板によると、船上城は室町時代に赤松氏が築き、その後、別所吉親、蜂須賀小六が居城した。
 その後、秀吉の時代に高山右近が高槻より国替えとなり、改修を加えたとされている。
 右近は熱心なキリスト教信者で、この明石でも布教活動を行った。
 しかし2年後のバテレン禁止令により、領地は没収となり、加賀前田家に遁れたが、最後は国外追放になり、マニラにて死去したとされる。
 右近の在城中は、城内の宝蔵寺もキリスト教会となり、数人の宣教師がいたとされる。
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 関ヶ原の戦いの後、播磨は池田輝政が大名となり、船上城はその支城となった。
 大坂の陣の後は小笠原忠真が船上城に入城し、明石藩が新設された。
 しかし明石城を築城したため、船上城は廃城となった。
 その明石城の建設には、船上城の資材が利用され、明石城の櫓は船上城の櫓が移築されたものであると云われている。
 また明石城の堀を挟んで道向かいにある織田家長屋門は船上城の武家屋敷門が移築されたものと云われている。
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 この船上城跡の場所はわかりにくいが、明石警察署の西側、近いところにある。

プロフィール

藤白 怜

Author:藤白 怜
気まぐれに各地の城跡、神社仏閣、路端や公園の草花、街角の風景などあっちこち出掛けては写真を撮ったり、その土地の歴史遺産を訪ねたりしています。
よろしかったら覗いてみて下さい。
よろしくお願いします。
最近、小品集を別ページにてアップしました。
右側リンクの「悠々紀行あっちこち」です。
併せてよろしくお願いします。

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