『大阪中之島バラ園Ⅱ・ドイツ品種』
『大阪中之島バラ園Ⅰ・日本品種 』
大阪市の中心部の中之島のバラ園を訪れてみた。
中之島公園は大川から分流する堂島川と土佐堀川に挟まれた中州で、その上流部(東の天神橋方向)にある。
(下図の案内図は南北が逆で、下部が北方向)
中之島へは重要文化財である淀屋橋の上流の栴檀木橋(せんだんのきばし)から入る。
橋の上から西方向には、中之島のビル群を望むことができる。
中央の最高のビルはフェスティバルタワー、隣奥は完成間近の朝日新聞ビルであるフェスティバルタワーウエストである。
橋を渡ると、左手には大阪府立中之島図書館、右には中之島公会堂の重要文化財が並んでいる。
東に向かうと、歩道の傍に大坂の陣で非業の最期を遂げた若武者「木村重成」の表忠碑が建っている。
かつてはこの場所に豊国神社が祀られていたが、神社は大阪城内に遷宮された後、石碑のみが残ったとのことである。
石碑を見て、西へ進むとライオン橋と云われる堺筋の難波橋を横切ると、冒頭写真のバラ公園へと到達する。
園内には数多くの品種のバラが咲いている。
駆け足で眺めて見ると、品種はフランス、イギリス、ドイツ、アメリカそして日本の品種の5国の競演のようにも思える。
今回は、一回目として日本品種を並べてみる。
先ずは、真紅の品種である。
左から、ジャンボ スタリナ、ローズ オオサカ、情熱である。
次はピンク、左から、芳純、桜貝、早春である。
更にイエロー系、左からトロピカル シャーベット、そどおり姫である。
最後に最近は品種が増えている紫系、4品種ありで、上左からブルー シャトー、スイート ムーン、下左からマダム ヴィオレ、しのぶれど である。
このように日本のバラ品種は健闘している。
『八幡市・下奈良天満宮』
京都府八幡市下奈良の住所地に鎮座する「下奈良天満宮」の鳥居である。
場所は国道一号線の木津川大橋の南の府道との交差点「下奈良」を少し北西に入った集落の中である。
府道から集落内への道路を辿ると右手に天満宮の参道があり、石橋と灯篭が設けられている。
参道を進むと右に折れ、冒頭の鳥居となる。
本拝殿に至る参道は結構長く、両側に社名は不明であるが境内社が幾つか祀られている。
また、何かわからないが、四方に石柱、中央に石碑、前方に2体の丸い石が設けられた部分もある。
そして天満宮ならではの神牛も祀られている。
正面の拝殿は割拝式、手前両側には一対の狛犬が祀られている。
本殿の前の中門は唐破風である。
そして幣殿、本殿と繋がっているが、本殿はコンクリート造りの覆屋の中なので、拝見することはできない。
参道、境内には幾つかの灯篭が設置されている。
享保や天保の文字が見られ、江戸中・後期のものである。
尚、この天満宮は延喜式神名帳の綴喜郡天神社に比定される向きもあるが、同一郡内に有力な他の天神社があるので、論社の一つであろうと思われる。
『八幡市・川口天満宮』
京都府八幡市川口堀ノ内に鎮座し、菅原道真公を祭神とする「川口天満宮」の社頭である。
八幡市の川口とは、この地域の直ぐ北を流れる木津川の河口からの名付けである。
木津川はこの地点で宇治川、桂川と合流し、淀川と名前を変えて、大阪湾に流れ込む。
また堀ノ内とは、この地域がかつては環濠集落であったことからの名付けである。
木津川の洪水に対して、集落の周囲に排水用の濠を築いていたと云われる。
また洪水から神社を護るべく、社殿は一段と高いところに築かれているのもこのためである。
川口天満宮の社頭には、標柱、そして江戸期「文化年間」の灯篭がある。
境内には、神牛が2体祀られている。
本殿は南面している。
本殿の背後には背の高い楠木がある。そして本殿へは数段の石段を登る。
参拝門の頭上両側には、狛犬と神牛の彫刻が掲げられている。
本殿は近年い改修されたものであろう。
比較的新しく綺麗である。
川口天満宮は、平安時代の中期、八幡の東の宇治に住む尊家之公卿が、ある夜男山付近に発する光に導かれ、この地の天神崎の池中から天神六体の尊像を見つけ、それを祀ったのが創建と云われる。
尚、男山とは山頂に国宝石清水八幡宮が鎮座する山で、川口天満宮は男山の東側に鎮座している。
『和泉国・忠岡神社』
大阪府泉北郡忠岡町に鎮座する忠岡神社の社頭の標柱・鳥居である。
忠岡町は泉大津市と岸和田市に挟まれた東西に細長い町で、町政を敷く町では日本一狭い町である。
その中央付近に神社は鎮座している。(写真の左手が北方向)
忠岡の地名は、平安時代末期、木曾義仲に都を追われた平清盛の末弟の平忠度が、子の忠行と共に故郷である紀州の熊野を目指したが、大津川で追っ手が迫り、忠行は奮戦するも現在の忠岡神社の鎮座地あたり絶命した。
村人たちは小高くなった場所に忠行を葬って菩提を弔ったと云われる。
そして「忠行の丘」と称ばれるようになり、訛って「忠岡」と呼ばれるようになったと云われる。
忠岡神社の創建は不明であるが、忠行を葬った以降であると思われる。
祭神を菅原道真公とし、明治までは天神社、菅原神社と呼ばれた。
明治時代に近隣の多くの神社を合祀し、最後に戎社を境内社として迎え、忠岡神社と改名して、現在に至っている。
鳥居を潜ると、先ずは神牛、そして合祀の名残りの多くの灯篭や狛犬が祀られている。
正面は拝殿本殿である。
拝殿の左には戎神社が祀られている。
また右手には御神木「みいさん」もある。
そして神宮遥拝所もある。
また、境内左奥には、高浜虚子、年尾、汀子の三代の句碑も並んでいる。
いづれもこの付近の海岸べりで詠んだ句である。
そしてその背後は参道の鳥居である。
尚、拝殿の中には小倉百人一首の読み札が掲げられているとのことで、見せていただいた。
文化の香りが高い忠岡神社であった。
『東大阪市・石田神社』
大阪府東大阪市岩田町に鎮座する式内社「石田(いわた)神社」の社頭の鳥居である。
延喜式神名帳には、「河内国磐田郡石田神社三座」とある。
創建は古代、欽明天皇の時代で、近くの田圃の中に5mほどもある岩船があり、その上に三神が現れたので、社壇を築いて奉祀したのが始まりと云われている。
上掲の写真には、八幡宮の灯篭も見られる。
江戸時代までは、八幡神社と云われ、明治になって石田神社と改名されたものである。
場所は、近鉄電車奈良線の若江岩田駅の西北西方向にある。
この辺りは古代より石田連(いわたれん)の住んでいた場所で、創建の三神とは、石田連の祖神の五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)、妃の比売神(ひめのかみ)、そして応神天皇の誉田別尊(ほんだわけのみこと)であるという説もあるが、現在の三神は、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后である。
鳥居を潜った正面は拝殿である。
拝殿前には一対の狛犬が祀られている。
拝殿の背後は本殿である。
本殿は、昭和前期、台風にて倒壊したため、再建されたものである。
また本拝殿の右手前には、天照大神 天児屋命(あめのこやねのみこと)、宇迦之御魂神(うかのみたまの かみ)を祀る境内社がある。
境内の南参道の鳥居、そして鳥居脇の手水鉢である。
また境内には、壊れた鳥居の柱部分、大きな神木も祀られている。
この神社には神宮寺「善城寺」が北側にあった。
明治の神仏分離で廃寺とされたが、室町時代作の不動明王像と他2体が近隣の西光寺に移され、現存しているとのことである。
また、神社の傍を流れていた川に通称「猫橋」が架かっていたが、改修の折に発掘調査が行われた。
数体の地蔵と、室町後期と思われる五輪の塔が発見された。
それが猫橋地蔵として石碑と共に祀られている。
『八幡市・石田神社Ⅲ』
京都府八幡市の上津屋(こうづや)里垣内に鎮座する「石田(いしだ)神社」の鳥居である。
場所は、木津川に架かる流橋(ながればし)の堤防の裏側と云う方が分かり良い。
流橋は、最近では毎年流され、現在のは半年前に架け戻されたものである。
流橋から堤防を降りると、石田神社の参道である。
参道を進むと冒頭の鳥居となる。
境内正面は、拝殿である。
拝殿前には一対の狛犬が祀られている。
拝殿の背後には本殿が祀られている。
本殿には、素盞烏(すさのお)神が祀られている。
創建は、奈良時代以前で、隣村の内里に現れた素盞烏神を上津屋の地に祀り、木津川を挟んだ三村の氏神として牛頭天王社と云われ、明治になって石田神社と改名したと云われている。
尚、素盞烏神を祀る神社では、京都府内では八坂神社に次ぐ古さであると云われている。
境内社には、社頭に近い方から、香取神社、大神宮社、若宮神社が祀られている。
また境内には伊勢神宮遥拝所、そして鳥居前の境外には、南北朝時代と云われる十三重の塔が立っている。
この上津屋の石田神社は、式内社「石田神社」の論社としては関係が無いようである。
『八幡市・石田神社Ⅱ』
京都府八幡市の岩田里の田圃の中に鎮座する石田(いわた)神社の参道である。
一級河川木津川の左岸(西側)の堤防にほど近いところである。
神社名は灯篭の刻印にのみ「石田社」と記されている。
参道を進むと神社の杜に到達し、鳥居を潜る。
杜の中の参道を進むと正面に拝殿が祀られている。
また拝殿の手前両サイドの左手に若宮社、右手に石碑が祀られている。
石碑には、天照皇大神、神武天皇、孝明天皇と彫られているが、由緒は不明である。
拝殿の背後は本殿である。
一対の狛犬も祀られている。
この神社、主祭神は「磐裂神(いわさくのかみ)」との説があるが、これも詳細は不明である。
この神社は、式内社「石田神社」の論社と云われている。
神社の杜の横の農道から退出した。
農業小屋なのか、何かの作業場なのかわからないが、大きくて古い建物も見られる。
『八幡市・石田神社Ⅰ』
京都府八幡市には3つの石田(いわた)神社が鎮座している。
八幡市の岩田茶屋ノ前の石田神社、上津屋(こうづや)里垣内の石田神社、そして岩田里の石田神社である。
延喜式神名帳に書かれている山城国久世(くぜ)郡の石田神社は、上津屋の神社を除く2社が論社とされているが、今回の茶屋ノ前の石田神社には式内社と社名柱に記載されている。
神社の鳥居は南面していて、その南の参道と街道との別れと思われるところに「岩田社」の標柱がある。
この標柱から北へと進むと冒頭の社名柱、そしてその向こうに鳥居、参道と続く。
正面に拝殿がある。
そしてその奥に一対の狛犬に護られた本殿が祀られている。
祭神として、本殿に天照皇大神 、大山咋命、五十日足彦(いかたらしひこ)命、相殿に饒速日命と惟喬親王が祀られている。
創建は平安時代かそれ以前、五十日足彦命の後裔氏族の石田君がその祖神を祀ったのが始まりと推測されている。
この神社は、明治の初期までは御霊社と呼ばれていた。
それは悲運の皇子、惟喬親王に関わるものと思われる。
尚、境内には水神社も祀られている。
付録であるが、神社の東北方向には八幡市の体育館がある。
その体育館の直ぐ南に「若宮社」が鎮座する。
そして拝殿本殿である。
この野尻北ノ口にある若宮社は、平安時代の中期に、応神天皇、仁徳天皇、覚道雅印子命を祭神として創建されたと云われている。
そして源頼朝の命によって、当地を管理していた奈良興福寺宮務の下知によって石田荘を岩田と野尻に分村した際、若宮を野尻の氏神としたとの経緯がある。
若宮社の境内には、高良神社、そして江戸時代天保年間の灯篭もある。
『高槻市・芥川宿』
大阪府高槻市の西国街道、芥川宿にある一里塚である。
西国街道は、平安時代から西国、九州の大宰府までを結ぶ山陽道の後身である。
江戸時代には、参勤交代も始まり芥川宿が整備された。
しかし、メインの街道は淀川の左岸の東海道であったため、西国街道は裏街道としての機能ではあった。
芥川宿はJR高槻駅の直ぐ西側にある。
駅の北側を通る西国街道を西へと向かうと、往時を偲ぶ虫小窓の町家が幾つか見られる。
街道が南へ折れ曲がり、再び西へ折れ曲がるところに冒頭の一里塚の石碑が立っている。
一里塚には辻地蔵も祀られている。
そして街道は更に西へと向かう。
引き続き趣のある建物が見られる。
千本格子の家屋が見事である。
芥川の堤防に近づく。
堤防への出口には水門が設けられていた石垣が残っている。
またこの堤防の近くには、地蔵尊の祠も祀られている。
西国街道芥川宿はここまでである。
芥川を渡り、西国街道は続く。
直ぐに、嶋上郡衙(ぐんが)跡に達する。
『高槻市・嶋上郡衙跡』
大阪府高槻市の清福寺町・郡家新町・川西町に広がる古代の遺蹟「嶋上郡衙(しまがみぐんが)跡」である。
大化の改新以降、各地方を治める目的で郡衙が設けられた。
嶋上郡衙もその一つで、近畿地方では最も早くに発見された郡衙跡である。
場所は高槻駅の西、市の中央部を流れる芥川の西である。
この郡衙跡は国の史跡に指定されているが、一部に既に小学校や住宅ビルが建っている。
下記は高槻市教育委員会のパネルである。
このパネルによると、郡庁を中心に館舎域、正倉、寺院があったとされている。
また、この郡衙の西には今城塚古墳もある。
この地域の豪族の墓であろうが、戦国時代に織田信長がこの古墳に戦闘のための砦を築いたとされている。
郡庁跡は整地されている。
1/3の縮尺で、敷地割がなされていて、それなりの場所にタイルが敷かれている。
上図の寺跡は芥川廃寺である。
そこには現在、「素戔嗚尊神社」が祀られている。
素戔嗚尊神社の創建は不詳であるが、郡衙廃止の跡にほどなく創建されたものと思われる。
上記の鳥居を潜ると、右手の手水鉢は廃寺の礎石が活用されている。
そして正面の拝殿の前に一対の狛犬が祀られている。
そして拝殿、本殿である。
素戔嗚尊神社は、郡衙跡を見守る神社として、しっかりと鎮座している。
『高槻市・阿久刀神社』
大阪府高槻市清福寺町に鎮座する式内社「阿久刀(あくと)神社」である。
高槻市の中心を流れる芥川の南岸に鎮座する神社で、養蚕の技術に長けた渡来人の阿久太氏が祀った神社とされている。
創建は式内社であるので平安初期かそれ以前である。
阿久太氏は阿刀連(あくとのむらじ)とも云われ、芥川はこの阿久刀神社から来ているとされている。
神社社頭の鳥居である。
鳥居には冒頭の扁額が掲げられている。
鳥居を潜ると境内である。
拝殿に至るまでの境内の左手には、3つの社が祀られている。
左から、:武甕槌命(たけみかずちのみこと) を祀る大将軍神社、天照大神・八幡大神・ 素盞鳴命 ・仁徳天皇 ・天児屋根命の5神を祀る五社宮、稲荷大神・戎大神を祀る稲荷神社である。
そして少し離れて、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) を祀る小島社が並んでいる。
正面は拝殿であるが、その手前には一対の狛犬が祀られている。
そして拝殿、本殿である。
主祭神は住吉3神である。
本殿の左サイドにも境内社が3社祀られている。
手前から、諏訪神社、五社神社、大将軍神社である。
多くの境内社があるのは、明治になって付近の神社が合祀されたからと云われている。
神社の芥川寄りには、神木のムクノキがある。
20mもある大木で市の保護樹木に指定されている。
『京都府奈良県・大仏鉄道Ⅱ』
大仏鉄道の遺構を訪ねてのミニ旅は前回に引き続き、今回は梅谷地区、井関川橋梁跡からの再スタートである。
井関川から道は上りとなる。
梅美台で若干の左折をすると広い道路となる。奈良の中心部から伸びている「やすらぎの道」である。
やすらぎの道を進むと西から来る道路との交差点となるが、その手前に松川谷隧道の遺構が道路の下にある。
石積とレンガ積のアーチ式のトンネルである。
また、関西鉄道の社章も降り口に掲示されている。
広い交差点を渡ると右手に螺旋状の砦のような貯水施設があり、この辺りのランドマークである。
坂となっているので登る。
ピークは京都府と奈良県の境界である。
下がっていくと、右手にゴルフ練習場があり、木津から般若寺そして奈良公園へ向かう奈良街道と交差する。
その交差点の少し先の道路の下にもトンネルがある。鹿川隧道という。
新たに造られた水路トンネルと並んでいる。
更に奈良方向へ向かうと、右手の広い道「ならやま大通り」との交差点となる。
道は更に登る。
大仏鉄道最大の難所である。
当時は黒髪山隧道があったが、道路に変わる時にトンネルは取り壊され、切り通しとなっている。
黒髪山隧道跡を過ぎると道は奈良の街に向けて下って行く。
先ずは遊園地ドリームランドの跡地、そして奈良市の鴻ノ巣運動公園が両側に広がる。
この辺りから大仏鉄道の路線は住宅街の中に埋もれてしまっている。
少し迂回をして、到着したところが「大仏駅」の跡地である。
その先、鉄道は駅の南の佐保川を渡り、奈良駅まで伸びていた。
佐保川に架かる鉄橋の跡地のような部分も見られる。
鉄道は、船橋商店街に沿って敷設されていた。
船橋商店街を抜けると、もう奈良駅が直ぐである。
奈良駅のレトロな駅舎を眺め、大仏鉄道のミニ旅は終着駅となった。
『京都府奈良県・大仏鉄道Ⅰ』
京都府と奈良県に跨る明治時代の鉄道勃興期の大仏鉄道の遺構を訪ねてみた。
このころ、私鉄の関西鉄道が名古屋から奈良に向け鉄道を敷設し営業した。
現在の関西本線に相当する部分であるが、京都府内の加茂駅と奈良県の奈良駅との間は、現在のように木津駅を経由せず、加茂駅から直接奈良駅へ、この間の丘陵地を越える形で敷設されていて、奈良駅の手前の佐保川の手前に大仏駅が設けられていたので、通称大仏鉄道と云われる。
しかし、丘陵地を越えてゆくことから、当時の鉄道技術では限界に近く、9年間の営業で木津駅経由の路線に変更され、廃線になったと云う経緯を有している。
今回はその大仏鉄道の始点から、奈良との中間点の梅谷地区、井関川の所までを訪ねてみることにする。
出発点は現在のJR加茂駅である。
駅前広場には大仏鉄道を記念してSL動輪の展示がある。
また当時のランプ小屋も健在である。
加茂駅から奈良方向に少し進む。
踏切から奈良方向を眺めて見ると、現在の線路の左には余裕の空き地がある。
恐らくは、大仏鉄道の線路が敷設されていたところであろう。
更に奈良方向へと進む。
加茂小学校と線路の間にSLのC57の静展示がある。
かつて関西本線を走っていたSLとのことである。
この場所からは大仏鉄道の線路跡を進むことはできない。
大きく迂回することを余儀なくされる。
迂回を終わり、線路跡に近づくとそこには現在の線路と平行した観音寺橋台がある。
そして少しの奈良側に観音寺小橋台もある。
ここから先も線路跡に沿うことはできない。
藪の中を進む。
途中に天王社が祀られている。
藪を抜けると、ゴルフ場の裏手に出る。
この裏手には、鹿背山(かせやま)橋台がある。
ひっそりと佇む人気スポットだそうである。
ゴルフ場を迂回する道を進む。
かつて線路が敷設されていたのではないかと云う雰囲気の場所もある。
そしてゴルフ場の正面へと出る。
ここで少し寄り道をしてみる。
鹿背山不動尊、稲荷大明神と云う神仏混淆の神社がある。
お参りをして、元へと戻る。
ゴルフ場の少し奈良側に、遺構の隧道と橋台がある。
冒頭の写真もそれであるが、梶ヶ谷隧道と赤橋である。
現在も現役で、これらの上には道路が敷設されている。
この隣に、城山公園がある。別名大仏鉄道記念公園と云う。
特段何があるというのではないが、大仏鉄道の説明板が掲げられている。
ここから先は鉄道の線路跡が道路となっている。
その道路を進む。
途中、柿が色づいているのに出会ったりする。
柿の色で思い出したが、大仏鉄道の機関車は朱色、イギリス製であったそうである。
道は下りになる。
振り返るとゴルフ場への案内板がある。
梅谷の交差点である。
この交差点には、井関川が東西に流れている。
その川を渡る橋台があったと思われるが、道路建設のために埋もれてしまったものと思われる。
『京都市・花街島原』
京都市下京区西新屋敷の花街「島原」の大門である。
島原は、室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条に許可した日本の最初の花街と云われる「傾城町(けいせいまち)」に端を発する。
豊臣秀吉の時代には二条万里小路(までのこうじ)に移転し、「二条柳町」と呼ばれた。
更に江戸時代になって六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、常照寺で知られる吉野太夫などを輩出した。
その後、現在地の朱雀野付近への移転が命ぜられ、その移転が急で大混乱したため、その前に九州で起こった天草四郎の島原の乱にたとえられ「島原」「嶋原」「嶌原」と呼ばれたと云う経過を辿っている。
冒頭の島原大門に至るには、五条通りと七条通りの中間にある花屋町通りを、大宮通りとの交差点から西へ進むと達する。
大門の所には火消桶、柳が植えられていて、雰囲気を醸し出している。
大門を潜り右へ折れると、元禄年間に置屋として始まった「輪違屋」がある。
明治以降、お茶屋も兼業し、客室は10数室あるとのことである。
輪違屋は、この島原で唯一、現在も引き続いて営業している店である。
元の大門からの通りに戻る。
両側には、趣のある建物も見られる。
直進と左折の交差点がある。
「角屋(すみや)」の一角である。
左に折れると、2本の石柱が建っている。
一つは「久坂玄瑞・・・」、もう一つは「新選組刃傷・・・」とある。
通りの両側は角屋である。
東側は角屋文芸会館、西側は揚屋の角屋本館である。
角屋は秀吉の時代の創建であるが、その後移転を繰り返し、現在の建物は重要文化財に指定されている。
江戸時代中期には島原でも俳諧が盛んになり、当主は与謝蕪村を師として招いている。
また幕末には久坂玄瑞、西郷隆盛などの勤王の志士が密議を交わしたり、新選組もここでの遊興を楽しんだとされている。
元の通りへ戻り西へ進むと、道は右折れとなる。
その場所に、東鴻臚館址の石柱と説明石盤がある。
鴻臚館とは平安京の外国人使節の接待施設である。
この島原の直ぐ西は朱雀大路であり、その朱雀大路を挟むように、東、西の鴻臚館があったことを物語っている。
道路を右折れすると正面は住吉神社で、島原の鎮守社として崇敬されてきたものである。
元は島原中堂寺町の住吉屋太兵衛宅に祀られていた住吉大明神をこの場所に遷宮したものと云われている。
また、この場所は島原の西門があったところであり、そのモニュメントも設けられている。
住吉神社の裏手に回ると、そこには大銀杏がある。
そしてその根元に辨財天女他が祀られている。
尚、大銀杏の通りの北側は、現在は京都市中央卸売市場であり、市場を通り抜けると、JR丹波口駅に至る。
『青森県・弘前城Ⅱ』
青森県弘前市の弘前城の天守である。
重要文化財であるが、本来の場所にはなく、曳屋(ひきや)にて本丸の跡地に移動させられたものである 天守のある本丸跡地へは、二ノ丸から内濠に架かる下乗橋を渡る。
下乗橋から右手の濠の石垣の手前の角にこの天守があるのが本来である。
石垣を良く見てみると、中の方が膨れた「はらみが見られる。
このままでは、石垣と天守が倒壊する恐れがあるため、石垣の修復を行う計画で、天守を移動させたものである。
橋を渡り、入場ゲートを通過すると本丸への虎口があり、そこの石垣には亀石という標柱が建てられている。
どれが亀石かは分からないが、亀の甲羅の模様のようなヒビが入っているのがそうであろうか?
虎口から天守が見える。
更に本丸跡に進むと曳家された天守が鎮座している。
本来ならこの写真の面が下乗橋のある濠に面しているはずである。
天守の裏側へ回ってみる。
裏は西方向で、岩木山が見えるはずであるが、雲がかかっているのは残念である。
裏に入り口があり、天守の内部に入ることができる。
内部は展示場になっているが、よく見ると鉄骨で補強がなされている。
曳屋の保護であろう。
天守の最上階の三階から四方を見ることができる。
また歴代城主津軽氏の家紋、津軽牡丹も飾られている。
天守を後にして本丸跡地を横切り、濠に架かる鷹丘橋を渡り退出する。
橋を渡ったところは北の郭と云い、現在は武徳館休憩所が設けられている。
北の郭から東へ行くと、元の二ノ丸の北の端、丑寅櫓の所に出る。
『青森県・弘前城Ⅰ』
青森県弘前市にある日本100名城の一つ、弘前城址・弘前公園の案内図である。
弘前城は江戸時代、弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、初代津軽為信公が鷹岡に築城を開始し、2代の信牧公が完成させ、当初は鷹岡城と云われた。
城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成されていて、当初の規模は東西約600メートル、南北約1000メートルの南北に長い城郭であり、現在もほぼ原形を留めている。
現在も堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形を留め、8棟の残存建築物と天守はいずれも国の重要文化財に指定されている。
弘前城の大手口の追手門は南側である。
追手門の先は三ノ丸である。
三ノ丸と二ノ丸の間には中濠があり、杉の大橋が架かっている。
橋を渡ると、二ノ丸への門である南門、そして広場の両端に辰巳櫓、未申櫓がある。
その先本丸天守への橋である下乗橋が架かっているが、それは後の部にして、先へと進む。
二ノ丸から三ノ丸へと出るところに二ノ丸東門がある。門をでたところに、場内唯一の石橋がある。
その近くに移築された与力番所もある。
さらに北へと進むと中濠を渡る。
見返してみると、丑寅櫓が見える。
さらに北へと進むと広い場所となる。四ノ丸である。
四ノ丸にはレクレーション広場や青森県護国神社がある。
出口には北門がある、そして外堀を亀甲橋で渡り城外となる。
今度は三ノ丸を南下し、出口の三ノ丸東門を潜る。 門の外の文化センターの正面に津軽為信公の銅像が設置されている。
元々は城内にあったものであるが、戦時中の金属供出にて無くなっていたものであるが、近くの日に再建されたものである。
外濠を溯る。
外濠は南へと続いているが、高い方へ登っているので、外濠にもいくつかの堰が設けられているのは、城跡としては珍しい。
『弘前市・熊野奥照神社』
青森県弘前市の弘前城の東、弘前八幡宮の参道の始点に鎮座する「熊野奥照(くまのおくてる)神社」である。
創建は崇神天皇の時代と云われ、紀元前の創建である。
飛鳥時代には、、阿部比羅天がこの神社を崇敬、 熊野三所大権現を勧請したと云われる。
その後、坂上田村麿が蝦夷征討にあたって祈願した神社でもある。
江戸時代になって、第二代藩主津軽信枚が社殿を再建している。
本殿は現在重要文化財に指定されている。
本殿の祭神は、伊邪那岐神、並びに伊邪那美神である。
その他、境内社として「武駒正一位稲荷大明神」、近くの交通広場に関係する「運輸区神社」が祀られている。
また境内には、筆塚、そして建武時代の板碑が祀られている。
『弘前市・弘前八幡宮』
青森県弘前市八幡町に鎮座する弘前総鎮守「弘前八幡宮」の社頭の二ノ鳥居である。
弘前八幡宮は弘前城の北東方向の約1Kmのところにある。
八幡宮の参道は城の東の熊野奥照神社の鳥居前から始まり、途中に一ノ鳥居がある。
冒頭の二ノ鳥居を潜ると境内である。
左手に木製の高灯籠、続いて田代大神、保食大神、社殿の中に高山開運稲荷神社が祀られている。
正面は拝殿である。
そしてその左に五社宮と神輿が祀られている。
お参りを済ませ御朱印を待つ間に本殿の瑞垣の中の拝観許可を頂いた。
瑞垣入り口には天満宮、そして石造りの狛犬が祀られている。
本殿の唐門、そして本殿は江戸初期に建築されたもので重要文化財に指定されている。
本殿には、 誉田別命 息長足姫命 比売女神が祀られている。
この弘前八幡宮の創建は、平安時代の初期、坂上田村麿が東征の際 、岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をしたのが始まりと云われている。
その後、大浦光信の大浦城の鎮守となり、江戸時代なって二代藩主信牧公の時に、この場所に移され、弘前城の鬼門守護、弘前総鎮守として崇められてきたという経緯を有する。
弘前八幡宮の参道脇に城北公園交通広場がある。
チビッコたちが、ミニ列車に乗ったりして楽しむ場所であるが、引退SLの静展示もある。
デゴイチの勇壮な姿も見られる。
また、公園内の小高い丘からは、岩木山を眺めることもできる。
『重伝建・弘前市仲町』
青森県弘前市の弘前城の北門を出て、外堀に架かる亀甲橋を渡った北側一帯は、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている武家町の弘前市仲町である。
橋を渡った正面には重要文化財の石場家住宅があるが、この家は商家であり、重伝建の範囲には含まれていなく、この商家の北側からの区域からが重伝建の武家町である。
もう一つ、城の堀の東側に津軽藩ねぶた村という展示館、そして亀甲町広場もある。
弘前城の北門は当初は追手門であり、弘前城の護りのために重臣達の居宅を城の門外に配置したのが弘前の武家屋敷群である。
武家屋敷群の道路は直線的に設けられており、生垣と黒板塀を特徴としている。
また道路からは名峰岩木山を望むことができる。
東から、武家屋敷を訪ねて見る。
先ずは公開されている旧岩田家である。
江戸中期寛政年間の建築で、元々この場所にあった屋敷である。
次に非公開で名前はわからないが、立派な土蔵がある屋敷である。
少し北へと行くと屋敷街の中で唯一の緑地がある。
仲町緑地と云う。
その前に、方言詩人高木恭造氏の「まるめろ緑地」がある。
西へと進むと、旧笹森家屋敷がある。
江戸中期の建築で、移設されたものとのことである。
更に西には、旧伊東家屋敷がある。
江戸時代後期、19世紀の建築で、移築されたものである。
また、その背後には旧梅田家住宅があるが、近づくことができなかった。
江戸末期の建物とのことで、これも移築されたものである。
そして、よく似た構えのやしきもあるが、経緯はわからない。
重伝建「弘前市仲町・武家町」を一周してみたが、地割と生垣や黒板塀は綺麗に維持されているのは見事である。
尚、この保存地区の広さは10.6ヘクタールである。
『京都市・城南宮』
京都市伏見区の鴨川の南、名神高速道路京都南ICの直ぐ南に鎮座する式内社「城南宮」の神域のほぼ中央にある鳥居である。
城南宮は、元々この地にあった式内社「真幡寸神社」に、神功皇后、八千戈神(大国主神)を奉斎し、そして平安京造営の折に国常立尊(くにとこたちのかみ)を併祀し、、都の南の鎮護として新たに創建され、以来城南宮と呼ばれている。
城南宮へは、京都市地下鉄及び近鉄の竹田駅で下車し西進すると、東参道の石の鳥居に至る。
東参道には幾つかの摂社が鎮座する。
先ずは、城南宮のルーツであり応神天皇を祀る「真幡寸神社(まはたきじんじゃ)」が鎮座する。
そして神苑への出入り口があり、菅原道真公を祀る「芹川天満宮(せりかわてんまんぐう)」、別名「唐渡(からわたり)天満宮」が鎮座する。
そしてその隣は絵馬殿風の拝殿である。
参道を挟んで天照大御神を祀る「三照宮(さんしょうぐう)社」も鎮座している。
そしてその向かいが冒頭の鳥居である。
鳥居を潜ると、内参道である。
正面に祈祷殿、右手に神輿舎、寝殿造りを模した神楽殿がある。
その先正面が、前殿即ち拝殿である。
前殿前には一対の狛犬も祀られている。
そしてその背後には、瑞垣の中に本殿が祀られている。
本殿の両側は多くの末社が祀られている。
左側は手前から、稲荷社、厳島社、住吉社、兵主社、粟島社である。
そして右側は奥から、天満宮社、妙見社、金刀比羅社、庚申社、大国主社、春日社である。
この城南宮は、古くは熊野詣での出発点とされ、方除の信仰が高まり、現在も方違いの神社である。
また、城南宮は白河上皇が鳥羽離宮を設けたこと、そして後鳥羽上皇が流鏑馬を口実にして兵を集め鎌倉幕府との間で承久の乱が起きたこと、そして江戸末期には尊王攘夷を唱える薩摩藩などが洋式武装の軍陣を構え、徳川幕府軍を追い散らすという戊辰戦争の発端となったことなど、数多くの歴史の舞台となったところでもある。
神社には西への参道もある。
参道入り口は国道1号線に面し、車の通行も可能である。
尚、この国道1号線には、参拝者の便宜を図るため、神社の私費で歩道橋「とわのかけはし」が設置されていた。
しかし老朽化のために、今から4年前に撤去されている。
『東大阪市・石切劔箭神社』
大阪府東大阪市東石切町に鎮座する式内社「石切劔箭(いしきりつるぎや)神社」の一ノ鳥居である。
この参道入り口へは、大阪地下鉄中央線から繋がる近鉄けいはんな線新石切駅で下車し、数分の歩きである。
参道は一般道であるが、その先に二ノ鳥居がある。
そして鳥居の先には楼門風の神門があるが、名称は絵馬殿と云う。
絵馬殿を潜ると参道が続き、その先は三ノ鳥居があり、境内である。
鳥居の右手には、東へ向かう参道商店街があり、この参道を行くと、近鉄奈良線の石切駅、更には上之宮へと通じている。
また参道右手には、石切神社神武社跡地の石柱もある。
境内は多彩である。
境内には常時沢山の人がお参りしている。
この神社は、「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、治癒を願い拝殿と百度石の間を行き来する人の行列が絶えない。
境内には、左手に罔象女神(みずはのめのかみ)と天水分神(あめのみくまりのかみ)を祀る水神社、そして右手に恵比須大神、大国主大神、住吉大神、稲荷大神、八幡大神の五神を祀る五社明神社、更には神武天皇を祀る神武社がある。
正面は拝殿、本殿である。
本殿の主祭神として饒速日尊(にぎはやひのみこと)とその子の可美真手命(うましまでのみこと)が祀られている。
拝本殿の裏手には、右から穂積神霊社、一願成霊尊、乾明神社などが祀られている。
神社の東側は庭園であり、境内との間に鳥居が設けられている。
『大阪市・難波宮跡』
大阪市中央区の中央大通りと上町筋の交差点「法円坂」の東南に国の史跡である「難波宮(なにわのみや)跡」9万㎡が広がっている。
難波宮は、よくご存じの蘇我氏が滅亡した後、孝徳天皇が難波に遷都し、大化の改新が執り行われことに始まる皇宮で、首都として、あるいは副都として、以後150年もの間存続した都であった。
難波宮は、孝徳天皇の前期難波宮と、聖武天皇が副都として築いた後期難波宮に分けられる。
史跡部分にもそれと分かるように、前期は朱色系統、後期はグレー系統(下図ではブルー)に色付けされている。
法円坂の交差点から史跡に入ると、朱色の朝堂院の回廊や八角殿を模した建造物がある。
これらは前期のものである。
尚、前期の建物は全て掘立柱であったと云われている。
その向こうは後期の大極殿跡で、コンクリートで模されている。
大極殿跡の裏側(北側)からの写真、そして正面から、さらに大極殿跡から南方向の朝堂院跡を見たものである。
大極殿跡には礎石も模されている。
そして、大極殿の北側には、大坂城の天守閣も望むことができる。
また大極殿の北側は中央大通りと共に阪神高速道路が通っているが、この部分だけは高架ではない。
それは遺構の破壊を気遣ったものとされている。
更に、史跡の西端には、五間門の柱が模されている。
史跡の入り口には、漫画表現を取り入れ、大極殿の姿や史跡の航空写真などの分かり易い説明板もある。
史跡を離れ法円坂交差点に戻る。
史跡の西側は国立病院大阪医療センターである。
また、斜め前は難波宮跡公園の表示があるが、その奥は大阪歴史博物館とNHK大阪放送局である。
博物館の前には古墳時代の倉庫、法円坂倉庫群の1棟が復元された高床式の建物がある。
法円坂交差点の北側は馬場町交差点である。
歴博とNHKの正面である。
またその向かいには、大阪府警本部そして大阪府庁と続く。
そして東向いは大坂城である。
南外堀とその石垣に建つ重要文化財「六番櫓」を眺めることができる。
『会津若松Ⅷ・鶴ヶ城』
会津若松の見どころの第一は、鶴ヶ城(若松城)であろう。
現在の5層の天守は昭和40年に外観復元されたものである。
正確に云うと、復元天守は黒瓦であったが、本来は赤瓦であったので、それに葺き替えられたのは今から5年前で、東北大震災の時に竣工されたものである。
江戸時代の初めに、蒲生氏に代わって伊予松山より加藤嘉明が入封し、会津地震により倒壊していた天守を、今日の5層の姿に再建したものと云われている。
会津若松の城には多くの大名が城主として入城している。
南北朝時代に蘆名直盛が黒川館という黒川城を築城したのが若松城の始まりとされる。
その後、仙台の伊達政宗が一時奪い取ったが、秀吉の怒りに触れ、豊臣家に返上、蒲生氏郷が入城し、城下を会津若松と名付け、城も鶴ヶ城と名付けたと云われている。
そして、蒲生氏に代わって、越後から上杉景勝が城主となったが、関ケ原の責を問われ移封されたため、再び蒲生氏が城主となったが、嫡男に嗣子が無く移封、その後に加藤氏が入城して城の整備を行ったが改易となり、家光将軍の庶弟の保科正之が入城し、姓も松平を称し、明治まで城主が継続されたものである。
鶴ヶ城は、城下を取り巻く外堀と、城郭部分を取り巻く内堀により構成され、東西に長い城である。
(下図の上部が東方向)
城郭部を西(下部)から東へと通り抜け、眺めて見ることにする。
西の西出丸の堀と、桝形門の石垣である。
本丸の方へ行くと、天守の裏側が望める。
そして、左方向(北方向)へ寄り道すると、北出丸から本丸へと入る追手門である太鼓門の桝形石垣がある。
本丸領域へ入る前に左手にある稲荷神社へお参りする。
この稲荷神社は、黒川城築城の時、蘆名直盛が西北にある田中稲荷神社から勧請したものと云われる。
管轄は蚕養国神社で、境外社である。
また、稲荷神社の傍に井戸もある。
いよいよ、本丸跡地と天守である。
天守は、正面、東南方向、鉄門(くろがねもん)方向からの3景である。
尚、冒頭の写真は、鉄門と同じ南方向から眺めた手前走長屋と天守である。
天守など建物は再建であるが、風格が漂うものである。
天守の石垣は江戸時代の構築ではなく、戦国時代の穴太(あのう)積みの雰囲気である。
本丸跡地の周囲は高石垣で囲まれている。
一隅に天守から走長屋、鉄門、南走長屋に続く干飯櫓が再建されているが、現在は修復中であった。
また、本丸跡の周囲には、茶室「麟郭(りんかく)」がある。
千利休が切腹を申し付けられた時、その子の少庵を蒲生氏郷が会津に匿い、この茶室が造営されたとされる。
家康と氏郷のとりなしで京に戻り、千家を起こし、子の宗旦、孫の宗左、宗室、宗守の手で、千家が引き継がれ、今日に至っている。
更に、現在は阿弥陀寺に移設された御三階の跡地もある。
本丸・天守を後に東へ向かう。
出口は桝形門の石垣があり、内堀には朱塗りの廊下橋が架かっている。
廊下橋を渡ると、二ノ丸跡地で、現在はテニスコートになっている。
そして二ノ丸からさらに東へ土橋を渡る。
土橋の先は三ノ丸跡地である。
車が走る一般の道路と公園となっていて、正面に新島(旧姓山本)八重の像、そして県立博物館もある。
『会津若松Ⅶ・阿弥陀寺』
福島県会津若松市七日町にある「阿弥陀寺」の標柱である。
場所は、JR只見線の七日町駅の旧越後街道を挟んで、正面である。
境内正面には、本堂そして鐘楼がある。
阿弥陀寺は、城主蒲生秀行から土地を与えられた良然和尚が、江戸時代の初めに開山したことが始まりとされる。
そして、戊辰戦争で堂宇が焼失し、戦後、鶴ヶ城の小天守にあたる「御三階」を移築し、仮本堂としたと云われる。
御三階は、外観3層、内部4階の建物で、城内にあった時は物見櫓の機能だけでなく、秘密の会議場所であったと云われている。
また、移築の祭には同時に本丸御殿の唐破風玄関も伴われ、現在の形となっている。
その御三階は、本堂の左手にあり、昭和30年までは、寺の仮本堂としての機能を有していた。
阿弥陀寺は、戊辰戦争後の東軍墓地としてよく知られている。
戊辰戦争で戦死した1300名の遺骸が埋葬されていると云われる。
墓地参道には、手前から大仏の台座、弥勒菩薩像、石灯篭などが祀られている。
石灯篭には明和の文字が刻まてれいることから、江戸中期の作と思われる。
また東軍墓地の裏手には、新撰組の三番隊長であった斎藤一の墓所もある。
『会津若松Ⅵ・会津の街並み』
(右手が北方向)
会津若松市の街中には伝統的な商家や町家が多数存在している。
会津若松駅から只見(ただみ)線に乗って1駅の七日町駅から東方向(下方向)、上図のように旧越後街道の七日町通りを中心にしたエリアである。
七日町駅もその風情を持っている。
また駅の通りを挟んだ反対側には阿弥陀寺がある。
由緒多き寺であるが、別項で後程の紹介とする。
七日町通りを進むと右手に海産物問屋で、大正期の建物の渋川問屋がある。
裏には庭と座敷蔵もあり、風格を備えている。
七日町通りを更にと進む。
色々な建物があり、ついつい立ち止まってしまう。
しかし残念ながら、これらの建築物は歴史的景観指定建造物ではない。
七日町通りと桂林時寺通りとの交差点を少し南へ下がってみると、右手には永山陶磁器商店、左手には江戸から明治にかけての建築の満田屋、会津天宝醸造の歴史的景観指定建造物が並ぶ。
七日町通りへ戻り東進すると右手に清水屋旅館跡の石柱が建っている。
この旅館には、吉田松陰、土方歳三、新島襄・八重夫妻などが逗留したとのことである。
また左手には白木屋漆器店、そして旧郡山橋本銀行若松支店であった歴史的景観指定建造物が並ぶ。
更に東進すると町の中心部で会津五街道の起点の大町四ッ辻に着く。
それを右折して南下する通りが野口英世青春通りである。
通りの右少し入ったところに田中稲荷神社が鎮座する。
また通りの左手には英世が手の手術を受け、その後書生として過ごした會陽医院跡の野口英世青春館、そして福西本店がある。
これらも全て歴史的景観指定建造物である。
道路の上には野口英世の絵看板がある。
そしてその先はノ口英世青春広場、そして逆光で見えにくいが野口英世像が建っている。
そしてその先には、旧黒河内胃腸病医院がある。
昭和の建築であるが、これも歴史的景観指定建造物である。
この裏側は神明通りで、神明神社が鎮座している。
これだけの歴史的な建造物が揃っているのに重要伝統的建造物群保存地区となっていない会津若松でもある。
会津の山と云えば磐梯山である。
夕方の磐梯山と昼間の磐梯山である。