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はてなキーワード: 芸術とは

2026-05-09

はじめてのヘアサロン

今まで1000円カットで「スポーツ刈りで!」しか言ってこなかった人間が、今日、はじめてヘアサロンに行った。

ことの発端は先月のこと。5月半ばに開催される某フェスにて自分の「推し」と話す機会を得てしまたから。

まさか当たるとは思ってなかった。実際、彼女は超がつくほど人気の人。

TLには落選したとの声が無限にあったのに、まさか自分は前回(4年前)から連続当選

ほんとうに、まじか・・・・・・・・・・・

 

私の中の「推し」の概念は付き合いたいとか、自分を見てほしいとかではなく、

敬愛というか、生き方の指針というちょっと離れた価値観を持ってる気がする。

から、直接触れたいとかはあんまり思ってなかった。(推し恋愛とかあんまり興味がないみたいな話をしてた)

けど、実際に会うのだから友達みたいなラフさではなく、尊敬していますよという誠意を見せるためにそれなりの身なりをしないといけないな…と思い今回このように決めた。

 

準備は…とくにしていない。なんか髪型とかあらかじめ決めておいた方がいいかな、とか思ったけどなーんも美的感覚がないからよくわかんなかった。

 

当日。時間通りに店に入る。雰囲気は明るい感じで嗅いだことのない匂いだった。

荷物を預かりますと言われ、荷物差し出す。VIP待遇すぎるな、ってその行動だけでも思ってしまった。

 

最初アンケートを書いた。個人情報普通に書いたのち、髪の話がいっぱい書いてあった。

髪のセットはどのくらい時間がかかりますかと聞かれ、2、3分から20分くらいまで書いてあったので世の中の人間は髪に結構注意してるんだな…って気持ちになった。

あとは髪のイメージとか書いてあったけど、とりあえずで書いた。

 

自分担当理容師さんは同年代ちょっと上くらいの穏やかで性格があってそうな人だった。ちょっと安心感あった。

最初ちょっとお話した。

自分の横に座ってたので、鏡を見るべきなのか横に座っている理容師さんを見るべきなのかわからなかった。

話をしたときは、まったく美容院に行ったことがないこと、いろいろお試しでやってみたいとかそういう話をした。

けど、なんもわからないし、美的感覚もクソもなかったのでとりあえず紹介してもらったやつにした。

普段は1か月で髪を切ってたんだけど、3か月も伸ばしてたので「これだったらいろいろいけるだろ」って思ったら「ちょっと短いですね…」って言われた。

けっこう髪の毛はむしむしするレベルだったのに、これだけで短いなんて言われたので世の中の人間、ずっと頭むしむししてて大変なのかなって気持ちになった。

もちろん髪質とかあるんだろうけど。たぶん。

そんなこんなでどうにか決めてもらった。なんとなくの雰囲気だけで決めた。

 

最初シャンプーした。めっちゃあたまもみもみしてもらった。てか最初にやるんだ、シャンプー…どうせ切るのに。

あと、あおむけだったんだけど顔を隠すなぞの紙もかぶせてもらった。最初はなぜって思ったけどよく考えたら顔に水がかからないためか。

いっつも自分頭皮に脂がたまらないためにわしゃわしゃしてたのに、めっちゃ髪の毛を洗ってた。また、なんかぽふんぽふんしてた。何か理由があるのかはわかんないけど。

 

次に、髪のカットをした。

ガウンを上からかけられるかと思いきや、手を入れることができますと言われたので、ガウンに腕を通した。

いままで手を出せないからかゆくてもずっとがまんしてたのに、手が自由に動かせるのが新鮮だった。

最初は下を向いたり寝てたりしてたから無言で進んでいった。

会話デッキとかちょっと用意してたのに。

趣味VTuberという推しコンテンツの視聴…ではなくカフェ巡り。仕事は本当のことを言うと若干説明が難しくなってしまうので、事務職をしてます…とか。

というか、バリカンじゃなくって髪の毛でちょきちょき進んでいくのが心地よかった。

いっつも2次元的に頭を丸くする髪型だったのに、全体的にまとまりを持ちながらも複雑な髪型を作り上げていくの、大変だなぁと思いながら見てた。

というか、芸術の域だなって思った。見た目、大切。

いったん完成して見たら、めっちゃ髪がふわっとしてた。自分の髪ってずっとぎゅうぎゅう詰めだったんだけど、想像以上にふわふわしてた。こんなに変わるんだ、って思った。

 

仕上げのタイミングで、髪のメンテナンスの方法をいろいろ教えてもらった。ワックスはこんなかんじでぺたぺた塗るのよ~みたいな話。

あとは雑談ちょっとした。都会のスーパーきらきらしてるんだとか、満員電車メンタルがやられるとか都会にまつわる変な話をした。

ともかく、コツを教えてもらったし初心者にもやりやすそうな気がした。

 

これでお値段としていつもの2.5倍くらいのおねだんだった。すべてが新鮮に思える体験をしてこの値段なら安いなって思った。

店員さんも思ったより優しかったし、全然通えるなって思った。

 

店を出た後は、頭の感覚をずっと確かめてた。

髪の毛を立ててるので、めっちゃふわふわしてる感覚で、頭を実際に触ってみるとべたべたでつんつんしてるなとか。

頭に一切興味を示さなかった自分が、髪の毛を本当に変えてもらったんだって実感してた。

 

帰り際、服も買った。前に推しお話ししたときに「トレンドカラーをしっかり押さえてるね」って言われたので、

今回もトレンドを見ながらシンプルな服を買った。オタクイベントなので、フォーマルすぎると目立つので、若干カジュアルめに。

あとは何をお話しするのか、残りの期間で固めます

 

新しい経験だったけど、思ったよりよかったです。ヘアサロン

anond:20260508150251

追記:介入者Cによる「NG役満」判定と、支配プロトコル強制終了

この泥沼のやり取りの中で、流れを決定的に変えたのは、中盤に投下されたCによる「NG役満」という宣告だ。この一言が、いかにしてBを支配呪縛から解き放ったのか、そのメカニズムを整理したい。

1. 前段の流れ:指導を装った「境界線侵害

当初、Aは芸術論や制作の「覚悟」を説くという名目で、Bに対して極めて暴力的コミュニケーションを展開していた。

Bは当初、これらを「厳しい指導」として受け取ろうと真面目に反論し、疲弊しきっていた。支配的な相手と一対一で向き合うと、人は「相手が正しいのではないか自分が未熟なのではないか」という認知の歪みに陥りやすい。

2. 介入の作用手法プロトコル)のメタ判定

ここでCは、アドバイスの「中身」を吟味するのではなく、その「やり方」そのもの対話として成立していないことを指摘した。

ヒアリング対応としてNG役満である。答えることが目的になる尋問的な一問一答クローズド質問による結論誘導情報勝手な補完、人格否定一方的評価……これらは誰のためにもならない」

この介入は、主に以下の2つの作用をもたらした。

名前を付ける」ことによる客観

CがAの言動を「尋問的」「情報勝手な補完」とリストしたことで、Bはそれまで感じていた正体不明の「不快感」を「客観的なハラスメント」として再定義できるようになった。自分感覚が正常であることを外部から裏付けられた瞬間である

土俵のもの解体

Cの判定は、Aが構築した「師匠弟子」という非対称なゲームのものを、対話スキルの欠如という側面から否定するものだ。これにより、Aがどれほど高尚な論理を語ろうとも、その「伝え方(インターフェース)」が壊れている以上、検討に値しないという結論が導き出された。

3. 結論

Cの介入は、Aが構築した「精神的な密室」の壁を突き崩し、社会的論理という「外の物差し」を差し込む作業だった。このデバッグによって、Bは「相手のやり方自体に欠陥がある」とメタ認知し、支配魔法から解かれるための最初の一歩を踏み出したと言える。

2026-05-08

anond:20260507194332

追記:これは「指導」ではなく、カルト的な「BITE」である

前回の分析に加え、教育心理学観点からもう一歩踏み込んでみたい。この一連のやり取りを、スティーブン・ハッサン提唱したマインドコントロール解釈モデルである'''BITEモデル'''に照らし合わせると、この人物の振る舞いは極めてカルト的だ。

ここで試みられたのは、対等な対話ではなく、相手精神をハックし支配下に置くためのプロトコルである

1. 情報認知コントロール(I, T)

この人物は、相談者のこれまでの努力を「薄っぺらい」と全否定し、代わりに「北方謙三」や「ソープへ行け」といった独自の極端な比喩を「唯一の正解」として提示した。これは、既存価値観破壊し、内部の特殊言語体系(ドグマ)をインストールさせる初期段階に等しい。

こうした「既存知識は無価値である」と断じる手法は、沖縄過激活動家SNS上の先鋭化したフェミニストにも共通している。「お前は構造理解していない」「歴史を学べ」といった言葉相手を「無知加害者」に固定し、自分たちが独占する「正義」や「真実」に従うことだけを強要する。

2. 感情コントロール羞恥心と罪悪感の利用(E)

最後に異性に触れたのはいつか」といった問いは、相談必要からではない。性的プライベート領域に土足で踏み込み羞恥心を煽ることで相手心理的防壁を壊すためだ。

カルトが「罪の告白」をさせるように、羞恥心を共有させた瞬間に支配関係が成立する。相手が反発すると「覚悟がない」と断じるのは、罪悪感を刺激して自分支配下に戻そうとするエモーショナルブラックメール感情的なゆすり)である。これは、反対派を安易に「差別主義者」と呼んで道徳的優位に立とうとする運動体らの論法と地続きだ。

3. 聖域化された自己と「被害者化」

カルト支配者は、自分批判されると「これは大義に対する攻撃だ」「理解できない下等な者の嫉妬だ」とすり替える。この人物が「楽しくないことで自分時間を奪われることに敏感になってほしい」と言い放ったのは、自らの暴力を棚上げし、自分を「無知他者時間を奪われた聖職者」へと聖域化する行為だ。

最後に:自覚なき根底の露呈

恐らく、本人には「加害している」という自覚希薄なのだろう。むしろ自分は良かれと思って、相手のためにあえて厳しい「真実」を突きつけているとすら信じ込んでいる節がある。

しかし、無意識善意ほどタチの悪いものはない。教育心理学視点で見れば、どれほど言葉を飾ろうとも、その端々に現れているのは、相手自分と同等の人格として尊重せず、自らの全能感や支配欲を満たすための「道具」として扱おうとする傲慢精神構造のものである。本人の意図がどうあれ、その言動根底にある「他者への不遜さ」は、隠しようもなく露呈してしまっているのだ。

結論

相談者が「ふざけんな」と怒ったのは、このBITEによる浸食を、自らの論理自尊心で跳ね返したということだ。カルトや先鋭化した運動体は、こうした「強い個」を「教育不足」として切り捨てるが、異常なのは支配を試みた側である

私たちが学ぶべきは、大義芸術論を掲げて近づき、こちらの境界線を踏み荒らそうとする者に対して、明確な拒絶を示す勇気である

2026-05-07

相談に乗るふりをした「加害」と、謝罪武器にする生存戦略について

相談に乗るふりをした「加害」と、謝罪武器にする生存戦略について

最近、あるコミュニティで目撃した「相談から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまり教育心理学におけるいじめ構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。

登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。

1. 境界線侵害から始まる「支配

問題の端緒は、AがBの私生活尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。

北方謙三言葉ソープへ行けに近い。人間と肌重ねてこいってことですよ」

最後人間と手のひらをにぎりあったのいつです?」

これは相談という形を借りた、明白な境界線バウンダリ)の侵害だ。教育心理学視点で見れば、相手精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。

2. 謝罪を「免罪符」として使う手口

後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。

「その件は当時きちんと謝罪して、解決した認識でいます。」

「それについてはすでに謝罪しました。また、その謝罪は一度は受け入れられた認識です。」

これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手エラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪内省の証ではなく、自分過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。

3. DARVOによる被害者加害者の逆転

最も典型的なのは、最終局面で見せたAの「被害者面」だ。

「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」

他人時間を奪うこと、特に『楽しくないこと』で奪うことについてもっと敏感になってほしい」

これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である

4. 教育心理学的補足:投影支配再生

A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影プロジェクション)」も顕著に見られる。自分アドバイス的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題すり替えることで、自己像を保護している。

こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。

結論:なぜこれは「いじめ」なのか

Aの振る舞いは、大人知的対話を装ってはいるが、その本質教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲット自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。

相談を受ける側が「相手尊重する」という前提を捨て、自分哲学インストールする対象(モノ)として相手を見たときコミュニケーションは容易に暴力へと変質する。

Bさんが「二度と関わらない」と決断したのは、自身の心の安全を守るための、極めて正当で賢明な防御反応だと言える。

2026-05-04

今日平常運転増田達を見た煉獄さんが満面の笑みで言いそうな事。

「うむ! 凄まじい筆力だ! 恨みつらみが煮詰まって、もはや芸術の域に達しているぞ! よもやよもやだ!」

「君たちは実によく戦っている! 互いの主張が1ミリも交わらぬまま、千日手のごとき応酬! だが、己の弱さを認めず、言葉の刃を研ぎ澄ますその姿勢……嫌いではないぞ!」

「心を燃やせ! だが、掲示板サーバーまで燃やすのではないぞ! 腹が減ったら飯を食え! 牛鍋弁当を食え! うまいうまいうまい!」

anond:20260504161923

芸術だと画商を使ってそれをやるんじゃないの?

セルフプロデュースでもできるんかね?

商売としては正しいやり方だと思うので頑張ってほしい。

anond:20260504104315

合理性を追求すれば全てスマホ一台で済ませられるのに、無駄金と充電時間をわざわざ貢がされてるアホバカが精度を語って機械時計を煽ってるの面白い

時計なんてもはや嗜好品なり芸術品と化してるのに、わざわざ不細工なほうを買ってデジタル表示に文句つけてるのもウケる

【2023】はてな匿名ダイアリー投稿の思い出 Part.4/4


№16 あのとき彼はどうすればよかったのか?

anond:20231202200647

2023年12月投稿

職場でのちょっとした風景増田に書いてみました。

当時彼は20代で、職場立ち位置ルーキーでした。恋愛の腕前がどの程度かは不明でしたが、モテないということは否定できないみたいな、なんともいえない印象でした。

そんなある日、彼のところに新卒の女の人が来て業務相談をしていました。仕事の話が終わった後で、「わたし、髪切ったんですよ♪」と、外見の変化をアピールしたのです。

そしたら、彼は「似合ってるね!」という台詞を口にして、彼女は嬉しそうにしていて、その場から去ったのですが~~その後に上司から注意を受けてました。

「今時は、そういう発言セクハラになるからね😶」という趣旨指導でした。

なるほど、今時はそうなのだなと思って厚労省ガイドラインを読んだら、確かにそのとおりであり、納得した記憶があります相手によってはハラスメントになるので、相手の外見を褒めるのはNGということです。

上記場合はセーフだと思います上司発言もそれをわかったうえで釘を刺したのかと

人間一人あたりの価値ですが、時代を経るごとに上がっています。いわゆる人権というやつです。昔だったらOKだったコミュニケーションが、今ではアウトになってしまます(..)

都会の方にある会社であれば、そういったコミュニケーションは厳に慎まれているものと存じます。皆様の職場はいかがでしょうか。



17 橋本環奈よりもかわいい人を知ってる

anond:20231207211656

2023年12月投稿

公務員増田などと呼ばれて久しいですが、確かに昔は公務員をしておりました。

私が書いたものブクマされる方に、『はてな気砲』なるワザを編み出した方がおられるのですが、やはり業界経験のある方には見抜かれてしまうのだと思います作品が扱うテーマがモロなこともあるのですが、文章の書き方でわかるのかと。

これは、とある電子機器メーカーでのお話です。こちらの会社に勤めていた人で、不幸なことになった女性がいました。ありていに言うと自殺です。会社責任だと私は思ってます

前職を辞めた理由は、先輩や同僚がやはり同様の理由で命を落としたからです。退職理由の大半です。人の命を大事にしない職場環境では、今後ずっと働けないと感じました。まさか、次の会社でもそうなるとは思いませんでした。

自殺願望というのは、案外普遍的感情なのかもしれません。『死にいたる病』といった名著にもあるのですが、人間視野が狭くなると必然的に誤った選択します。死の方が楽になるのです。

迷っているときもっと必要となるものは、いつでも、一番思いつきにくいものなのだ――これは当然のことであるだって、そうでなかったら、それは迷いではないわけであろうから。 死にいたる病(中盤あたり)


当時を思い返すと嫌な気分になりますしかし思い出を否定しても、またやってきます。臆さずに感情を受け入れて、消化してしまうのが最良だと思います



№18 教育委員会最後に取り組んだ課題

anond:20231212192423

2023年12月投稿

年末には長編投稿することが多いです。こちらの日記もそうでした。

かつての京都府での公務員時代は、数年だけ教育仕事に携わっていました。学校教育ではなくて、その亜種みたいなジャンルです。その頃の(大分昔ですが…)思い出を日記にまとめました。

物語主人公の人ですが、学校先生出身で、京都府教育委員会で長年働かれていた人です。私が教委事務局に出向になった年に定年退職し、以後は再任用で働いていました。一緒に働いていた時に、昔の話をいろいろしてくれることがあって、今でも記憶にしっかと刻まれています

個人価値観ですが、仕事に対してマジになる方ではありません。それが悪いことだとは思いません。ただ単に、仕事を崇高な事だと信じる人と、そうでない人の違いです。

厚労相村木厚子さんのような、複数社会で生きることを提唱するタイプです。教委事務局での仕事についても、超絶キツかったのは間違いないですが、それでも手を抜けるところは全力で抜いてました。

公務員ものを描くにあたって、難しいところがあります。私は現場最前線で働いていたこともありますし、裏方の事務スタッフだったことも、『決める側』だったこともあります。それでも日記を書くにあたっては、現場のこと(意思決定の裏側)を書いた方が皆様にとって面白いのは間違いありません。

ただし、長年公務員をしていたわけでもありません。限界がある部分については、市町村役場訪問した時とか、イベント動員で出動した時とか、プライベート役所スポンサーになっている行事に参加した時など、思い出を活用して日記を作るようにしています



№19 都会と地方での若者の違い

anond:20231228220826

2023年12月投稿

今でも懐かしくなって、京都大阪を訪れることがあります。昨年末も一時帰省しました。

市内には飲み屋がたくさんあるので、同じカウンターに座ったお客さんと話が盛り上がることもあります。わいわいがやがやな時もあれば、しんみりと語り合うこともありますこちらの日記に書いたのも、その時の思い出です。

それぞれ、京都祇園木屋町での飲みの思い出です。語り手は、京都市内で土地家屋調査士として営業している人に据えました。お話の仕方に大変熱量のある人でした。うざいくらいに自分の考えを語るというか、素面でも酔っぱらってるみたいな人でした笑 仕事の腕前はホンモノです。

「都会と地方での若者の違い」をテーマに据えましたが、実際、そんなものはないと思ってます。それぞれの居住地を入れ替えれば~に帰結する類のつまらない話です。江戸時代の人が現代に来たら、現代人の様式にすぐ馴染むみたいな。

ただ、都会の方が若者の密集度が段違いです。特に優れた若者だと、同程度の資質を有した人と出会うことで才能が開花するものと存じます。それが、東京一極集中というか、一例として、大学都心部に集積していることの強みだと思います強者同士が出会うことで、『ブルーロック』で言うところの化学反応が起きるのです。

その意味では、田舎よりも都会の若者の方が視野が広くなるし、能力資質も発展しやすいのは間違いないです。



20 クラスで一番の嫌われ者だった彼が地方公務員になって無双するお話

anond:20231231221400

公務員時代お話です。同期入庁の人で福祉部門に配属された人の記録です。

フロアが近かったのもありますが、彼のことは強烈に印象に残っています。というのも、悪い意味での有名人だった時期があるからです。

日記中には、いろいろと不適切描写がありますが、実際に起こったことです。思い出を整理する、文字にして吐き出したいという思いに抗うことは難しく、詳らかに描いてみようと思いました。

地方自治体の職場だと、あまり大きい声を出す職員はいません。一般住民に近い職場が大半であり、コンプライアンス観点があるからです。しかし、一般住民があまり来ないような職場だと、問題のある行為をする人間存在します。むろん少数派ですが。

主題はそっちではなく、作中で取り上げた人のことです。「彼が福祉部門なの!?」と若かりし頃の私は思いました。彼の高校時代を振り返っても、福祉への適性があるとは思えませんでした。

しかし、何年も経ってみると、彼は実際に適応してました。直接見聞きした回数は少ないですが、府民から業者からも、一定の信頼は得ているものと思いました。

彼は今でも公務員として働いているはずです。彼と一緒に仕事をした経験はそこまでなく、食事や飲みに行った回数も同様です。日常的な絡みはありませんでした。ただ、学生時代に同じクラスだったから知ってるというだけです。

それでもわかるのです。今でも、彼は自らの人生の目的を達するために、公僕としての勤めを果たしているのだと。

実は、昨年末頃に職場を観に行ったら、オフィスのすみっコに彼が座ってました。奥の方だったので役職が付いたのかもしれません(^^)/



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【閑話③】よくブクマしてくれる方

ブックマーカーへの感想です。複数ブコメの人を適当抜粋

以下の表中のコメント回数(期間:2023.1~2023.12)ですが、概算になります

データは整理していますが、専門的なスクレイピングデータ加工はしていません。

コメント回数は、すべて「少なくとも」です。確実にこれだけの回数があります

以下、ブクマカ名は一部を除いてぼかします。ある程度わかる表現にはしています

ブクマカ名個人感想コメント回数
ネコとグラスいつもコメントありがとうございます(^^)11
はてな気砲の人いつも流石です。私を見抜くAIを作られては?10
スター数1位含蓄あるコメント。今では引退されたのですね泣7回
ゆっくり風の女性同じく2023年からブクマが増えてます。転生された?7回
ハックルベリー心にドーンとくるコメントが多いです(;'∀')7回
目がデカ女性私にとっての伝統的なブクマカです(..)7回
口紅理性的コメントが多し。今後もよろしくお願いしま7回
ひげおじさん小説作品へのブクマが多いですね5回
ゆかりまたいつか釣りパクーしてくださいw4回
ナニカを飲んでるおじさんビジネス面に鋭いコメントをなされます4回
firststar_hatenoお前が№1だ……!!4回
おたまじゃくし小説作品がお好きなんですねぇ笑4回
スーツ姿の男性パワーのあるコメントをされます4回
忍者目線が鋭いですね。私ですら気が付かない視点を……4回
eggman無言ブクマ歓迎です!(^^)!3回
介錯芸術肌の方。もっとかい雰囲気日記を増やしますね3回
悩んでそうな女性小説作品の読み込みがすごいです。勉強になります3回
fossilcat会長視点じゃないですけど今年投稿したいです3回

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最後に】

年末頃は、皆さまに大変ご迷惑をおかけしました。諸事情により詳細を申しあげることはできませんが、深く反省しております

今後につきましては、お読みになる方に、(怒りや悲しみといった負の感情ではなく)ポジティブ感情を与える作品づくりをめざします。

事実と異なる記事に対する発信者情報開示請求

https://policies.hatena.ne.jp/entry/2026/04/22/155533

名古屋愛知文化がない、というのは、本当だろうか?

色々あって愛知会社転職してきて1年が経った。

前の職場上司がかなりの「愛知嫌い」だったので、正直かなり警戒していた。

でも実際に住んでみると、暑さを除けばかなり住みやすい。

渋滞関東よりマシだし、家賃駐車場も安い。

何より、スーパー食材が安くて新鮮なのがありがたい。

名鉄運賃の高さと、空港へ行くときに半ば強制的ミュースカイ誘導される点には閉口するが、それを差し引いても生活満足度は高い。

そんな中で、以前からよく聞いていた「愛知には文化がない」という言葉について、考えが変わってきた。

結論から言うと、これはかなり的外れだと思う。

まず、祭り文化

三河尾張の各地には、豪華な山車が出る祭りが数多く存在する。

巨大提灯や、東北夏祭りを思わせるあんどんのような造形物を使った“奇祭”も多い。

有名な国府宮はだか祭も愛知県の祭りだ。

次に、美術館博物館

名古屋・栄には国際芸術祭の会場にもなる大規模な美術館があるし、刈谷のような地方都市にも充実した施設がある。

さら愛知は窯業が盛んなため、常滑瀬戸高浜などには陶芸に特化した施設もある。

加えて特徴的なのが、企業系の美術館

工作機械メーカー電子機器メーカーが自社コレクションを展示しており、「産業文化の近さ」がよくわかる。

歴史資源豊富だ。

大須は寺の門前町として発展したエリアで、どこか浅草のような雰囲気がある。

熱田神宮名古屋城、犬山城といった有名どころはもちろん、

半田運河有松の町並み、足助四間道など、江戸大正景観が残る場所も多い。

佐原川越鎌倉のような観光地として整備されたエリアも良いが、こうした場所のほうが、観光客も多過ぎず、落ち着いて楽しめると感じる。

自然も侮れない。

三河湾の夕景や、知多・渥美半島花畑香嵐渓紅葉

海・山・田園がコンパクトに揃っているのが愛知の強みだ。

ではなぜ「文化がない」と言われるのか。

よくあるのが「ストーリーがない」という指摘だが、これも違和感がある。

この地域は、織田信長豊臣秀吉徳川家康という、日本史の中心人物出身地であり、桶狭間長久手といった歴史的な戦いの舞台でもある。

しろ日本の歴史の中核を担ってきた地域の一つだ。

そしてもう一つ、見落とされがちなのが「現在進行形文化」だ。

愛知トヨタグループを中心とした世界有数の製造業集積地である

その背景には、からくり人形に象徴されるものづくり文化や、「やらまいか精神」がある。

この土壌が、産業だけでなく、スポーツ芸術にも波及している。

実際、愛知プロスポーツが非常に盛んだ。

企業支援を背景に、複数プロチームトップ選手が生まれている。

バスケットボールに関しては、B1所属チームが4つ存在する。

まり、「産業→余裕→文化」という流れが成立している。

愛知には 伝統文化歴史資源自然、そして現在進行形産業文化 がすべて揃っている。

かに横浜神戸のような「わかりやすいおしゃれさ」はない。

ただその代わりに、今も更新され続ける文化がある。

そう考えると、愛知はむしろ「これから面白い地域」なのではないかと思う。

そしてそれは、すでに始まっているのかもしれない。

追記

連休ということもあって意外と伸びてしまった… 明日から仕事頑張ります

ちなみに上の文は、8割くらい自分で書いて、AI校閲と読みやすさの修正をしてもらって、少し描き直した感じです。確かに読み直すとAIくさい部分は多い。(笑)

あとやらまいかは確かに遠州言葉だけど、住んでるところも会社三河だし創始者遠州の方なので許してほしい😂

外国の人も多いけど、その人たちが持ち込んだ文化があったり、色々勢いと伝統とがごちゃ混ぜになってるのが結構個人的には新しい「文化」だと思ってます

2026-05-02

anond:20260501204800

書き方が乱暴なだけでこの視点は分かるよ

ひとつ映像作品として見たときufotable作品みたいに「意味のない映像の動きでただドーパミン刺激してるだけ」なのが商業的に売れすぎるのって、あくまで消費の話であって芸術として歴史には残りそうにないからね。スーパーマリオ映画とやってること同じ。

まあ宮崎駿とか生まれただけで十分でしょ。富野由悠季も認められてる。

それで満足しましょう

芸術とは。

心の内で感じたものを、他者体験できるかたちにしたものだ。

2026-04-29

巷で言われる、ヒトへの進化では一般的知能がまず発達し、次にそれが芸術などの特殊化した技能に割りあてられた、と言う説は妥当だろうか?

心理学では、一般能因子gなるものは、提唱されたものの見つかっていない。


まず整理したいのは、上記主張者は、精神能力とは自然選択で発達した(し、そのような能力は大きな脳を持つ個体としての指標となり、性的な魅力があった)と強く主張する点です。脳のサイズが大きくなったのはシマウマを槍で狩る能力として自然選択されたのだ、と言うことはできますしかし、シマウマを槍で狩るのを可能にした能力が、かたや数学能力を発展させたと考えることも、同様に妥当なのでしょうか?

これに反するようにみえる例として、精神遅滞にあるが音楽計算、または絵画などですぐれた能力を示す、サヴァンと呼ばれる人々の存在があげられます。これは、一般知能→特殊能力、というスキームに一致しません。

たとえば、脳がある一定以上に大きく発達すると(ホルモンなどは、脳の各部サイズを比例して大きくするため、例えばある領域数学能力必須であれば)、自然選択とは無関係に新たな能力が生まれるようになると考えることもできます

サヴァン一般には創造性を示さないのではないか、との反論があります。それでは、となりの大学教授(高い言語IQをほこる)に、「10分あげるから、”ばかばかしく過度な行為をする”比喩を作ってみてください」と言ってみましょう。


答案は、次のシェークスピアの一節です。


—— 純金に金箔を貼り、百合の花に絵の具を塗り、すみれ香水ふりかけ、氷をなめらかにし、虹にもう一つ別の色を付け加える…….は無駄で、余分で、ばからしいことでありましょう。

2026-04-27

ビールかけシャンパンシャワー食用菊乱舞

個人的趣味嗜好として好まないものではあるが、批判するまでのものではないかなと

批判する人は食用・飲用のものを飲み食いせずに無駄にするのがいけないってことを言いたいんだと思う

その気持ち理解はできるが、アルコール食用菊は飲食以外にその場にあることそのもの存在価値って側面もあって、価値だけで見るなら全うしてるじゃんと考えられるんだよね

いや、小学校食べ物無駄にしちゃいけません。って習いましたよね

それもわかるが、飲食のみを前提としたもの無駄にするのはいけないと思う

でも、先に書いたように、飲食できるものであっても飲食以外に価値を有しているものも多くあって、食べないという1点だけで批判していいんすかね

例えば、刺身のつま類、氷細工、飴細工なんかも飲食に供される割合は低いっしょ

つまは食用菊と同じ分類だとは思うけど細工類は9割芸術品で、飾り終わった後に食べてるかどうかなんて興味持ってるやつの方が少数だろ

別の視点から考えると、パーティークラッカーはいいんすか?爆発して床に散らばってゴミになって終わり。うーん、資源観点だけを見ると無駄だよな?

かに飲食物ではないけれど、最終的にゴミになるという結論は一緒

祝い事や驚かしという主目的は達成してるからそれはそれでいいんすか?でも制作資源エネルギー使われてますよ?

最終的にゴミになってもったいないというのであれば本質的には何ら変わらんと思うんだよなあ

極論、クラッカーの分のエネルギー食料品生産に回すことも出来るわけで、間接的には食料品無駄にしていると考えることもできるわけよ

飲食物は許されなくて、他のものは許される点について、理論的に説明できる人いる?

2026-04-24

[]韓国のアチョン法-性的搾取論の帰結

韓国BL二次創作界隈を蝕む「カップリング論争」とアチョン法告発合戦
~判例から見るファンコミュニティの自壊現象

韓国で人気のBLボーイズラブ)——男性同士の恋愛を描いたジャンル——のファンコミュニティ特に二次創作原作キャラクターを使ってファンが新しく物語イラストを作ること) の世界で、深刻な問題が発生しています

それが「カップリング論争(커플링 싸움)」と呼ばれる現象です。
これが単なる「好みの違い」で終わらず、アチョン法(아청법:児童青少年の性保護に関する法律) という厳しい法律を使った「告発合戦」にまで発展し、界隈全体を疲弊させています

1. カップリング論争とは何か?

BL二次創作では、原作アニメ漫画ゲームなど)で異性愛者として描かれている男性キャラクターを、ファン「受け」「攻め」 に割り当てて、恋愛関係カップリングCP)を作り出します。これを「掰弯(ストレートゲイに書き換える)」 と呼ぶこともあります韓国BL界(主に女性ファン)では激しい対立を生みやすい特徴があります

• 「自分の好きなカップリング以外は低カプ(低品質)」と攻撃

• 「地雷CP絶対に嫌いな組み合わせ)」を描く作家を敵視

嫉妬独占欲、「女徳(女性としての正しい道徳)」を振りかざした排除

異性愛ロマンスや他のジャンルでは「このキャラとこのキャラをくっつける」ことで争いになるケースがほとんどなく、BL特有の閉鎖性です。

2. 論争が「告発合戦」に変わった理由

気に入らない二次創作特に未成年男性キャラクター性的に描かれた作品)に対して、同じBLファン同士がアチョン法を通報するようになりました。

アチョン法は元々実在児童を守るための法律ですが、「児童青少年認識されうる表現物」(漫画イラストなど)も対象に含むため、フィクションBL作品摘発可能です。通報匿名ででき、警察が動けば相手PC押収性犯罪者登録就業制限などの重い処分を受けるリスクがあります

3. 代表的判例

Kidmo(키드모)事件(2021〜2023年確定)


人気イラストレーターがPatreon(有料ファンサイト)で、仮想男性キャラクターを中心とした成人向けBLショタ少年愛)要素のイラスト販売。
界隈内のトラブル通報され起訴

判決懲役3年・執行猶予4年+性暴力治療社会奉仕児童関連施設就業制限3年+追徴金約2.68億ウォン(全財産相当)


裁判所は「見た目が幼く見える仮想キャラクター対象」と認定実在被害者がいない創作活動が、性犯罪者並みの重罰を受けた象徴的事例です。

マサトッキ(마사토끼)事件2014年)


ウェブトゥン作家未成年キャラクター漫画を共有したとして罰金200万ウォン性犯罪者登録。
本人が作品内で制度矛盾告白し、社会的に注目されました。

2025年10月 大規模高発事件
有料ファンサイトで未成年男性キャラBL二次創作を描いていた複数作家が、一斉に実名・口座情報付きで通報警察捜査を受けた。


原因は「好まないカップリング」を描いていたことに対する界隈内の逆恨みと見られています

4. 界隈全体への影響

創作の萎縮:作家たちは年齢を「20歳以上」と書いても「見た目基準」で判断されるため、自主規制を強いられる。

• 内部崩壊ファン同士の信頼が失われ、「味方同士の撃ち合い(内部総質)」が日常化。

• 外部からの目:「他人表現規制しようとした結果、自分たちが同じ目に遭う自業自得」と皮肉られています

二次創作本質は「自由解釈と楽しさ」にあるはずです。しか韓国BL界では、カップリング論争という感情的対立が、アチョン法という強力な法律と結びつき、コミュニティ全体を自壊へと導きました。

自分性癖芸術他人性癖有害」というダブルスタンダードがもたらした、ファンコミュニティの暗部と言えるでしょう。


2026-04-23

お伽草紙

太宰治


「あ、鳴つた。」

 と言つて、父はペンを置いて立ち上る。警報くらゐでは立ち上らぬのだが、高射砲が鳴り出すと、仕事をやめて、五歳の女の子に防空頭巾かぶせ、これを抱きかかへて防空壕にはひる。既に、母は二歳の男の子を背負つて壕の奥にうずくまつてゐる。

「近いやうだね。」

「ええ。どうも、この壕は窮屈で。」

「さうかね。」と父は不満さうに、「しかし、これくらゐで、ちやうどいいのだよ。あまり深いと生埋めの危険がある。」

「でも、もすこし広くしてもいいでせう。」

「うむ、まあ、さうだが、いまは土が凍つて固くなつてゐから掘るのが困難だ。そのうちに、」などあいまいな事を言つて、母をだまらせ、ラジオの防空情報に耳を澄ます

 母の苦情が一段落すると、こんどは、五歳の女の子が、もう壕から出ませう、と主張しはじめる。これをなだめる唯一の手段絵本だ。桃太郎、カチカチ山、舌切雀、瘤取り、浦島さんなど、父は子供に読んで聞かせる。

 この父は服装もまづしく、容貌も愚なるに似てゐるが、しかし、元来ただものでないのである物語創作するといふまことに奇異なる術を体得してゐる男なのだ

 ムカシ ムカシノオ話ヨ

 などと、間まの抜けたやうな妙な声で絵本を読んでやりながらも、その胸中には、またおのづから別個の物語が※(「酉+榲のつくり」、第3水準1-92-88)醸せられてゐるのである

[#改頁]

瘤取り

ムカシ ムカシノオ話ヨ

ミギノ ホホニ ジヤマツケナ

コブヲ モツテル オヂイサン

 このお爺さんは、四国阿波剣山のふもとに住んでゐたのである。(といふやうな気がするだけの事で、別に典拠があるわけではない。もともと、この瘤取りの話は、宇治拾遺物語から発してゐものらしいが、防空壕の中で、あれこれ原典を詮議する事は不可能である。この瘤取りの話に限らず、次に展開して見ようと思ふ浦島さんの話でも、まづ日本書紀にその事実がちやんと記載せられてゐるし、また万葉にも浦島を詠じた長歌があり、そのほか、丹後風土記やら本朝神仙伝などといふものに依つても、それらしいものが伝へられてゐるやうだし、また、つい最近於いては鴎外の戯曲があるし、逍遥などもこの物語舞曲にした事は無かつたかしら、とにかく、能楽歌舞伎芸者の手踊りに到るまで、この浦島さんの登場はおびただしい。私には、読んだ本をすぐ人にやつたり、また売り払つたりする癖があるので、蔵書といふやうなものは昔から持つた事が無い。それで、こんな時に、おぼろげな記憶をたよつて、むかし読んだ筈の本を捜しに歩かなければならぬはめに立ち到るのであるが、いまは、それもむづかしいだらう。私は、いま、壕の中にしやがんでゐるのである。さうして、私の膝の上には、一冊の絵本がひろげられてゐるだけなのである。私はいまは、物語の考証はあきらめて、ただ自分ひとりの空想を繰りひろげるにとどめなければならぬだらう。いや、かへつてそのはうが、活き活きして面白いお話が出来上るかも知れぬ。などと、負け惜しみに似たやうな自問自答をして、さて、その父なる奇妙の人物は、

ムカシ ムカシノオ話ヨ

 と壕の片隅に於いて絵本を読みながら、その絵本物語と全く別個の新しい物語を胸中に描き出す。)

 このお爺さんは、お酒を、とても好きなのである。酒飲みといふものは、その家庭に於いて、たいてい孤独ものである孤独から酒を飲むのか、酒を飲むから家の者たちにきらはれて自然孤独の形になるのか、それはおそらく、両の掌をぽんと撃ち合せていづれの掌が鳴つたかを決定しようとするやうな、キザな穿鑿に終るだけの事であらう。とにかく、このお爺さんは、家庭に在つては、つねに浮かぬ顔をしてゐるのである。と言つても、このお爺さんの家庭は、別に悪い家庭では無いのである。お婆さんは健在である。もはや七十歳ちかいけれども、このお婆さんは、腰もまがらず、眼許も涼しい。昔は、なかなかの美人であつたさうである若いから無口であつて、ただ、まじめに家事にいそしんでゐる。

「もう、春だねえ。桜が咲いた。」とお爺さんがはしやいでも、

「さうですか。」と興の無いやうな返辞をして、「ちよつと、どいて下さい。ここを、お掃除しまから。」と言ふ。

 お爺さんは浮かぬ顔になる。

 また、このお爺さんには息子がひとりあつて、もうすでに四十ちかくになつてゐるが、これがまた世に珍しいくらゐの品行方正、酒も飲まず煙草も吸はず、どころか、笑はず怒らず、よろこばず、ただ黙々と野良仕事、近所近辺の人々もこれを畏敬せざるはなく、阿波聖人の名が高く、妻をめとらず鬚を剃らず、ほとんど木石ではないかと疑はれるくらゐ、結局、このお爺さんの家庭は、実に立派な家庭、と言はざるを得ない種類のものであつた。

 けれども、お爺さんは、何だか浮かぬ気持である。さうして、家族の者たちに遠慮しながらも、どうしてもお酒を飲まざるを得ないやうな気持になるのであるしかし、うちで飲んでは、いつそう浮かぬ気持になるばかりであつた。お婆さんも、また息子の阿波聖人も、お爺さんがお酒を飲んだつて、別にそれを叱りはしない。お爺さんが、ちびちび晩酌をやつてゐる傍で、黙つてごはんを食べてゐる。

「時に、なんだね、」とお爺さんは少し酔つて来ると話相手が欲しくなり、つまらぬ事を言ひ出す。「いよいよ、春になつたね。燕も来た。」

 言はなくたつていい事である

 お婆さんも息子も、黙つてゐる。

「春宵一刻、価千金、か。」と、また、言はなくてもいい事を呟いてみる。

「ごちそうさまでござりました。」と阿波聖人は、ごはんをすまして、お膳に向ひうやうやしく一礼して立つ。

「そろそろ、私もごはんにしよう。」とお爺さんは、悲しげに盃を伏せる。

 うちでお酒を飲むと、たいていそんな工合ひである

アルヒ アサカラ ヨイテンキ

ヤマヘ ユキマス シバカリ

 このお爺さんの楽しみは、お天気のよい日、腰に一瓢をさげて、剣山にのぼり、たきぎを拾ひ集める事である。いい加減、たきぎ拾ひに疲れると、岩上に大あぐらをかき、えへん! と偉さうに咳ばらひを一つして、

「よい眺めぢやなう。」

 と言ひ、それから、おもむろに腰の瓢のお酒を飲む。実に、楽しさうな顔をしてゐる。うちにゐる時とは別人の観がある。ただ変らないのは、右の頬の大きい瘤くらゐのものである。この瘤は、いまから二十年ほど前、お爺さんが五十の坂を越した年の秋、右の頬がへんに暖くなつて、むずかゆく、そのうちに頬が少しづつふくらみ、撫でさすつてゐると、いよいよ大きくなつて、お爺さんは淋しさうに笑ひ、

「こりや、いい孫が出来た。」と言つたが、息子の聖人は頗るまじめに、

「頬から子供が生れる事はござりません。」と興覚めた事を言ひ、また、お婆さんも、

いのちにかかはるものではないでせうね。」と、にこりともせず一言、尋ねただけで、それ以上、その瘤に対して何の関心も示してくれない。かへつて、近所の人が、同情して、どういふわけでそんな瘤が出来たのでせうね、痛みませんか、さぞやジヤマツケでせうね、などとお見舞ひの言葉を述べる。しかし、お爺さんは、笑つてかぶりを振る。ジヤマツケどころか、お爺さんは、いまは、この瘤を本当に、自分可愛い孫のやうに思ひ、自分孤独を慰めてくれる唯一の相手として、朝起きて顔を洗ふ時にも、特別にていねいにこの瘤に清水をかけて洗ひ清めてゐるのであるけふのやうに、山でひとりで、お酒を飲んで御機嫌の時には、この瘤は殊にも、お爺さんに無くてかなはぬ恰好の話相手である。お爺さんは岩の上に大あぐらをかき、瓢のお酒を飲みながら、頬の瘤を撫で、

「なあに、こはい事なんか無いさ。遠慮には及びませぬて。人間すべからく酔ふべしぢや。まじめにも、程度がありますよ。阿波聖人とは恐れいる。お見それ申しましたよ。偉いんだつてねえ。」など、誰やらの悪口を瘤に囁き、さうして、えへん! と高く咳ばらひをするのである

ハカニ クラク ナリマシタ

カゼガ ゴウゴウ フイテキテ

メモ ザアザア フリマシタ

 春の夕立ちは、珍しい。しかし、剣山ほどの高い山に於いては、このやうな天候の異変も、しばしばあると思はなければなるまい。山は雨のために白く煙り、雉、山鳥があちこちから、ぱつぱつと飛び立つて矢のやうに早く、雨を避けようとして林の中に逃げ込む。お爺さんは、あわてず、にこにこして、

「この瘤が、雨に打たれてヒンヤリするのも悪くないわい。」

 と言ひ、なほもしばらく岩の上にあぐらをかいたまま、雨の景色を眺めてゐたが、雨はいよいよ強くなり、いつかうに止みさうにも見えないので、

「こりや、どうも、ヒンヤリしすぎて寒くなつた。」と言つて立ち上り、大きいくしやみを一つして、それから拾ひ集めた柴を背負ひ、こそこそと林の中に這入つて行く。林の中は、雨宿りの鳥獣で大混雑である

はい、ごめんよ。ちよつと、ごめんよ。」

 とお爺さんは、猿や兎や山鳩に、いちいち上機嫌で挨拶して林の奥に進み、山桜大木の根もとが広い虚うろになつてゐるのに潜り込んで、

「やあ、これはいい座敷だ。どうです、みなさんも、」と兎たちに呼びかけ、「この座敷には偉いお婆さんも聖人もゐませんから、どうか、遠慮なく、どうぞ。」などと、ひどくはしやいで、そのうちに、すうすう小さい鼾をかいて寝てしまつた。酒飲みといふものは酔つてつまらぬ事も言ふけれど、しかし、たいていは、このやうに罪の無いものである

ユフダチ ヤムノヲ マツウチニ

ツカレガ デタカ オヂイサン

イツカ グツスリ ネムリマ

オヤマハ ハレテ クモモナ

アカルイ ツキヨニ ナリマシタ

 この月は、春の下弦の月である。浅みどり、とでもいふのか、水のやうな空に、その月が浮び、林の中にも月影が、松葉のやうに一ぱいこぼれ落ちてゐる。しかし、お爺さんは、まだすやすや眠つてゐる。蝙蝠が、はたはたと木の虚うろから飛んで出た。お爺さんは、ふと眼をさまし、もう夜になつてゐるので驚き、

「これは、いけない。」

 と言ひ、すぐ眼の前に浮ぶのは、あのまじめなお婆さんの顔と、おごそかな聖人の顔で、ああ、これは、とんだ事になつた、あの人たちは未だ私を叱つた事は無いけれども、しかし、どうも、こんなにおそく帰つたのでは、どうも気まづい事になりさうだ、えい、お酒はもう無いか、と瓢を振れば、底に幽かにピチヤピチヤといふ音がする。

「あるわい。」と、にはかに勢ひづいて、一滴のこさず飲みほして、ほろりと酔ひ、「や、月が出てゐる。春宵一刻、――」などと、つまらぬ事を呟きながら木の虚うろから這ひ出ると、

オヤ ナンデセウ サワグコヱ

ミレバ フシギダ ユメデシヨカ

 といふ事になるのである

 見よ。林の奥の草原に、この世のものとも思へぬ不可思議光景が展開されてゐるのである。鬼、といふものは、どんなものだか、私は知らない。見た事が無いかである。幼少の頃から、その絵姿には、うんざりするくらゐたくさんお目にかかつて来たが、その実物に面接するの光栄には未だ浴してゐないのである。鬼にも、いろいろの種類があるらしい。××××鬼、××××鬼、などと憎むべきものを鬼と呼ぶところから見ても、これはとにかく醜悪性格を有する生き物らしいと思つてゐると、また一方に於いては、文壇鬼才何某先生の傑作、などといふ文句新聞新刊書案内欄に出てゐたりするので、まごついてしまふ。まさか、その何某先生が鬼のやうな醜悪の才能を持つてゐるといふ事実暴露し、以て世人に警告を発するつもりで、その案内欄に鬼才などといふ怪しむべき奇妙な言葉使用したのでもあるまい。甚だしきに到つては、文学の鬼、などといふ、ぶしつけな、ひどい言葉を何某先生に捧げたりしてゐて、これではいくら何でも、その何某先生も御立腹なさるだらうと思ふと、また、さうでもないらしく、その何某先生は、そんな失礼千万醜悪綽名をつけられても、まんざらでないらしく、御自身ひそかにその奇怪の称号を許容してゐるらしいといふ噂などを聞いて、迂愚の私は、いよいよ戸惑ふばかりである。あの、虎の皮のふんどしをした赤つらの、さうしてぶざいくな鉄の棒みたいなものを持つた鬼が、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである鬼才だの、文学の鬼だのといふ難解な言葉は、あまり使用しないはうがいいのではあるまいか、とかねてから愚案してゐた次第であるが、しかし、それは私の見聞の狭い故であつて、鬼にも、いろいろの種類があるのかも知れない。このへんで、日本百科辞典でも、ちよつと覗いてみると、私もたちまち老幼婦女子の尊敬の的たる博学の士に一変して、(世の物識りといふものは、たいていそんなものである)しさいらしい顔をして、鬼に就いて縷々千万言を開陳できるのでもあらうが、生憎と私は壕の中にしやがんで、さうして膝の上には、子供絵本が一冊ひろげられてあるきりなのである。私は、ただこの絵本の絵に依つて、論断せざるを得ないのである

 見よ。林の奥の、やや広い草原に、異形の物が十数人、と言ふのか、十数匹と言ふのか、とにかく、まぎれもない虎の皮のふんどしをした、あの、赤い巨大の生き物が、円陣を作つて坐り、月下の宴のさいちゆうである

 お爺さん、はじめは、ぎよつとしたが、しかし、お酒飲みといふものは、お酒を飲んでゐない時には意気地が無くてからきし駄目でも、酔つてゐる時には、かへつて衆にすぐれて度胸のいいところなど、見せてくれるものである。お爺さんは、いまは、ほろ酔ひである。かの厳粛なるお婆さんをも、また品行方正の聖人をも、なに恐れんやといふやうなかなりの勇者になつてゐるのである。眼前の異様の風景に接して、腰を抜かすなどといふ醜態を示す事は無かつた。虚うろから出た四つ這ひの形のままで、前方の怪しい酒宴のさまを熟視し、

「気持よささうに、酔つてゐる。」とつぶやき、さうして何だか、胸の奥底から、妙なよろこばしさが湧いて出て来た。お酒飲みといふものは、よそのものたちが酔つてゐるのを見ても、一種のよろこばしさを覚えるものらしい。所謂利己主義者ではないのであらう。つまり隣家の仕合せに対して乾盃を挙げるといふやうな博愛心に似たものを持つてゐるのかも知れない。自分も酔ひたいが、隣人もまた、共に楽しく酔つてくれたら、そのよろこびは倍加するもののやうである。お爺さんだつて、知つてゐる。眼前の、その、人とも動物もつかぬ赤い巨大の生き物が、鬼といふおそろしい種族のものであるといふ事は、直覚してゐる。虎の皮のふんどし一つに依つても、それは間違ひの無い事だ。しかし、その鬼どもは、いま機嫌よく酔つてゐる。お爺さんも酔つてゐる。これは、どうしても、親和の感の起らざるを得ないところだ。お爺さんは、四つ這ひの形のままで、なほもよく月下の異様の酒宴を眺める。鬼、と言つても、この眼前の鬼どもは、××××鬼、××××鬼などの如く、佞悪の性質を有してゐ種族のものでは無く、顔こそ赤くおそろしげではあるが、ひどく陽気で無邪気な鬼のやうだ、とお爺さんは見てとつた。お爺さんのこの判定は、だいたいに於いて的中してゐた。つまり、この鬼どもは、剣山隠者とでも称すべき頗る温和な性格の鬼なのである地獄の鬼などとは、まるつきり種族が違つてゐるのである。だいいち、鉄棒などといふ物騒なものを持つてゐない。これすなはち、害心を有してゐない証拠と言つてよい。しかし、隠者とは言つても、かの竹林賢者たちのやうに、ありあまる知識をもてあまして、竹林に逃げ込んだといふやうなものでは無くて、この剣山隠者の心は甚だ愚である。仙といふ字は山の人と書かれてゐから、何でもかまはぬ、山の奥に住んでゐる人を仙人と称してよろしいといふ、ひどく簡明の学説を聞いた事があるけれども、かりにその学説に従ふなら、この剣山隠者たちも、その心いかに愚なりと雖も、仙の尊称を奏呈して然るべきものかも知れない。とにかく、いま月下の宴に打興じてゐるこの一群の赤く巨大の生き物は、鬼と呼ぶよりは、隠者または仙人呼称するはうが妥当のやうなしろものなのである。その心の愚なる事は既に言つたが、その酒宴の有様を見るに、ただ意味も無く奇声を発し、膝をたたいて大笑ひ、または立ち上つて矢鱈にはねまはり、または巨大のからだを丸くして円陣の端から端まで、ごろごろところがつて行き、それが踊りのつもりらしいのだから、その智能の程度は察するにあまりあり、芸の無い事おびただしい。この一事を以てしても、鬼才とか、文学の鬼とかい言葉は、まるで無意味ものだといふことを証明できるやうに思はれる。こんな愚かな芸無しどもが、もろもろの芸術の神であるとは、どうしても私には考へられないのである。お爺さんも、この低能の踊りには呆れた。ひとりでくすくす笑ひ、

「なんてまあ、下手な踊りだ。ひとつ、私の手踊りでも見せてあげませうかい。」とつぶやく

ヲドリノ スキナ オヂイサン

スグニ トビダシ ヲドツタラ

コブガ フラフラ ユレルノデ

トテモ ヲカシイ オモシロ

 お爺さんには、ほろ酔ひの勇気がある。なほその上、鬼どもに対し、親和の情を抱いてゐるのであるから、何の恐れるところもなく、円陣のまんなかに飛び込んで、お爺さんご自慢の阿波踊りを踊つて、

むすめ島田年寄りやかつらぢや

赤い襷に迷ふも無理やない

嫁も笠きて行かぬか来い来い

 とかい阿波俗謡をいい声で歌ふ。鬼ども、喜んだのなんの、キヤツキヤツケタケタと奇妙な声を発し、よだれやら涙やらを流して笑ひころげる。お爺さんは調子に乗つて、

大谷通れば石ばかり

笹山通れば笹ばかり

 とさらに一段と声をはり上げて歌ひつづけ、いよいよ軽妙に踊り抜く。

オニドモ タイソウ ヨロコン

ツキヨニヤ カナラズ ヤツテキテ

ヲドリ ヲドツテ ミセトクレ

ソノ ヤクソクノ オシルシ

ダイジナ モノヲ アヅカラウ

 と言ひ出し、鬼たち互ひにひそひそ小声で相談し合ひ、どうもあの頬ぺたの瘤はてかてか光つて、なみなみならぬ宝物のやうに見えるではないか、あれをあづかつて置いたら、きつとまたやつて来るに違ひない、と愚昧なる推量をして、矢庭に瘤をむしり取る。無智ではあるが、やはり永く山奥に住んでゐるおかげで、何か仙術みたいなものを覚え込んでゐたのかも知れない。何の造作も無く綺麗に瘤をむしり取つた。

 お爺さんは驚き、

「や、それは困ります。私の孫ですよ。」と言へば、鬼たち、得意さうにわつと歓声を挙げる。

アサデス ツユノ ヒカルミチ

コブヲ トラレタ オヂイサン

ツマラナサウニ ホホヲ ナデ

オヤマヲ オリテ ユキマシタ

 瘤は孤独のお爺さんにとつて、唯一の話相手だつたのだから、その瘤を取られて、お爺さんは少し淋しい。しかしまた、軽くなつた頬が朝風に撫でられるのも、悪い気持のものではない。結局まあ、損も得も無く、一長一短といふやうなところか、久しぶりで思ふぞんぶん歌つたり踊つたりしただけが得とく、といふ事になるかな? など、のんきな事を考へながら山を降りて来たら、途中で、野良へ出かける息子の聖人とばつたり出逢ふ。

「おはやうござります。」と聖人は、頬被りをとつて荘重に朝の挨拶をする。

「いやあ。」とお爺さんは、ただまごついてゐる。それだけで左右に別れる。お爺さんの瘤が一夜のうちに消失てゐるのを見てとつて、さすがの聖人も、内心すこしく驚いたのであるが、しかし、父母の容貌に就いてとやかくの批評がましい事を言ふのは、聖人の道にそむくと思ひ、気附かぬ振りして黙つて別れたのである

 家に帰るとお婆さんは、

「お帰りなさいまし。」と落ちついて言ひ、昨夜はどうしましたとか何とかいふ事はいつさい問はず、「おみおつけが冷たくなりまして、」と低くつぶやいて、お爺さんの朝食の支度をする。

「いや、冷たくてもいいさ。あたためるには及びませんよ。」とお爺さんは、やたらに遠慮して小さくかしこまり、朝食のお膳につく。お婆さんにお給仕されてごはんを食べながら、お爺さんは、昨夜の不思議出来事を知らせてやりたくて仕様が無い。しかし、お婆さんの儼然たる態度に圧倒されて、言葉が喉のあたりにひつからまつて何も言へない。うつむいて、わびしくごはんを食べてゐる。

「瘤が、しなびたやうですね。」お婆さんは、ぽつんと言つた。

「うむ。」もう何も言ひたくなかつた。

「破れて、水が出たのでせう。」とお婆さんは事も無げに言つて、澄ましてゐる。

「うむ。」

「また、水がたまつて腫れるんでせうね。」

「さうだらう。」

 結局、このお爺さんの一家於いて、瘤の事などは何の問題にもならなかつたわけである。ところが、このお爺さんの近所に、もうひとり、左の頬にジヤマツケな瘤を持つてるお爺さんがゐたのである。さうして、このお爺さんこそ、その左の頬の瘤を、本当に、ジヤマツケなものとして憎み、とかくこの瘤が私の出世のさまたげ、この瘤のため、私はどんなに人からあなどられ嘲笑せられて来た事か、と日に幾度か鏡を覗いて溜息を吐き、頬髯を長く伸ばしてその瘤を髯の中に埋没させて見えなくしてしまはうとたくらんだが、悲しい哉、瘤の頂きが白髯の四海波の間から初日出のやうにあざやかにあらはれ、かへつて天下の奇観を呈するやうになつたのである。もともとこのお爺さんの人品骨柄は、いやしく無い。体躯は堂々、鼻も大きく眼光も鋭い。言語動作は重々しく、思慮分別も十分の如くに見える。服装だつて、どうしてなかなか立派で、それに何やら学問もあるさうで、また、財産も、あのお酒飲みのお爺さんなどとは較べものにならぬくらゐどつさりあるかいふ話で、近所の人たちも皆このお爺さんに一目いちもく置いて、「旦那」あるいは「先生」などといふ尊称を奉り、何もかも結構、立派なお方ではあつたが、どうもその左の頬のジヤマツケな瘤のために、旦那は日夜、鬱々として楽しまない。このお爺さんのおかみさんは、ひどく若い。三十六歳である。そんなに Permalink | 記事への反応(0) | 18:24

[]生存戦略としての宿命

ギリシャ神話運命の三女神イライは、人生の糸を紡ぎ、測り、容赦なく断ち切る。神々でさえ抗い難いこの絶対的な力は、人間がどれほど賢く逃れようとしても、予言成就させる残酷皮肉を宿している。

生物学的な宿命もまた、避けようとする努力を逆手に取り、個人人生を形作る。

進化生物学は、この神話残酷さを、遺伝子と脳の回路という形で証明している。逸脱衝動——加害の快楽を求める衝動と、それを創造の炎に変える想像的逸脱——の起源は、集団生存戦略として有利だった極端な特性多様性にある。個人レベルでは避けがたい不幸と破滅運命づけるが、集団レベルでは「保険」として機能してきた。これが、進化が生んだ宿命本質である

進化が生んだ「sensation seeking」の生存戦略

進化過程で、人間集団環境の激変に柔軟に対応するため、特性多様性戦略的に残した。中脳辺縁ドーパミン系(腹側被蓋野から核 accumbensへの投射回路)は、生存に有利な行動を即時的な快楽で強化するよう設計されている。この回路の感受性を高める遺伝変異——特にDRD4遺伝子の長型対立遺伝子——は、sensation seeking(感覚追求傾向)という特性を生む。

新奇性、リスク支配感、背徳スリルを強く求めるこの傾向は、集団全体として「探索者」を供給し、新しい資源発見危機回避寄与した。

進化生物学的に見て、これは明確な生存戦略だ。ほとんどの個体保守的で安定した生存を選ぶ中、少数の極端な個体が未知の領域踏み込むことで、集団適応力が飛躍的に向上する。狩猟採集時代には、新しい狩場や技術発見する冒険者が、集団の存続を支えた。

環境が劇的に変化したとき保守的な大多数だけでは絶滅危機に瀕するが、逸脱衝動を持つ少数派が「保険」として機能する。

この多様性は、集団の長期的な生存確率を高める。集団生物学合理性が、逸脱衝動性を存続させてきた。

宿命を背負うものの生きる道

しかし、極端なsensation seekingは、報酬系の過剰活性により、日常の穏やかな快楽では満足できなくなる。

幼少期や思春期の強烈な体験が一度回路に「快楽記憶」を刻むと、神経可塑性限界によりそれはほぼ不可逆的となる。

記憶再固定の仕組みで長期的に固定され、ストレス環境暴露で容易に再燃する。

つの帰結は、加害の快楽に囚われる破壊的逸脱だ。

暴力性的支配背徳スリルがもたらす即時的なドーパミン爆発に深く飲み込まれる。報酬系が再配線されると、日常ささやかな喜びはすべて色褪せてしまう。外部の規則一時的に抑えられても、自由の瞬間が訪れた途端、古い渇望が再び牙を剥く。

もう一つの道は、同じ衝動創造原動力に変える想像的逸脱だ。

未知への渇きと狂おしい好奇心科学を、芸術を、思想を高みへと押し上げる。

生きることの悲哀

進化集団の存続のために、逸脱衝動という極端な特性を残した。しかし、個人人生にとっては、モイライの糸のように残酷だ。加害の道も創造の道も、深い孤独と避けがたい代償を背負う。

私たち全員が、加害の快楽創造の炎の間で永遠に揺れ動き生きる定めにある。モイライの糸は、今日も静かに紡がれている。

[] 鉄格子の向こうに—人間性二面

二人の囚人鉄格子の窓から外を眺めた。一人は泥を見た。一人は星を見た。

この格言は、アイルランド詩人フレデリックラングブリッジ19世紀末に綴った詩の一節である。同じ暗い牢獄、同じ鉄格子、同じ限られた視界の中で、二人の囚人は全く異なる宇宙を目撃する。一人は足元に広がる湿った汚泥——腐敗し、沈み、絶望象徴——に視線を落とし、もう一人は遥か夜空に瞬く星々——無限の光、真理、そして永遠希望——に目を向ける。

この詩的イメージは、単なる「心の持ちよう」の話ではない。人間性コインの両面を、残酷なまでに鮮やかに描き出している。

鉄格子とは、遺伝的素因、初期環境、そして強烈な初体験によって刻み込まれ生物学宿命のものだ。

宿命としての衝動

脳の報酬回路——中脳辺縁ドーパミン系(腹側被蓋野から核 accumbensへとつながる神経経路)——は、生存に有利な行動を即時的な快楽として強化するよう進化してきた。この回路の過剰活性が、sensation seeking(感覚追求傾向)という性格特性を生む。心理学者マーヴィン・ズッカマン提唱たこ特性は、新奇性、リスク支配感、背徳スリルを強く求める傾向を指し、遺伝的要因(例:DRD4遺伝子多型)によって個人差が大きい。一度この回路に「刷り込まれた」嗜好は、神経可塑性限界によりほぼ不可逆的となる。記憶再固定(reconsolidation)というメカニズムで長期的に定着し、意志の力だけで完全に消去することは現代科学では不可能に近い。

泥を見る者と星を見る者——彼らは本質的に同じ人間性の両面であり、衝動の哀しみと栄光を同時に体現している。

泥を見る者——衝動被害者としての哀しみ

泥を見る囚人は、加害の快楽に囚われた者だ。暴力性的支配背徳スリルがもたらす即時的なドーパミン爆発は、脳の報酬系を再配線し、日常ささやかな喜びを色褪せさせる。刑務所という外部の厳格な構造では「模範囚」として規則を守り、仮釈放審査を通過できる。しかし、鉄格子が外れた瞬間——社会復帰自由という名の無防備空間——で、トリガーが再活性化する。神経科学のLibet実験1983年)が示したように、意識的な「決定」は、無意識の脳活動(準備電位)に数百ミリ秒遅れる。

衝動は「選べない宿命」であり、彼らはその快楽被害者であると同時に、他者尊厳を踏みにじる加害者でもある。

この哀しみは、決して「弱さ」ではない。人間本性の暗い半面そのものだ。報酬系のdownregulation(受容体減少)により、普通生活では満足できなくなり、泥の底へと沈んでいく。社会はしばしば「意志の力で更生せよ」と道徳的に責める。衝動の強さを自覚し、任意治療構造化された管理を求める道すら、十分に用意されていない。彼らの孤独さらに深まる。

星を見る者——知的逸脱者としての栄光と悲哀

一方、星を見る囚人は、同じ衝動創造原動力に転換する天才だ。極端な好奇心リスクテイク、新奇性追求は、科学者、芸術家探検家を駆り立て、未知の真理を掴む。ニュートンアインシュタインヴァンゴッホニーチェ——彼らもまた、社会規範から逸脱した「狂気」を抱えていた。過剰なドーパミン反応と衝動性を共有しながら、それを「泥」として消費せず、抽象的な探求や芸術的飛躍に昇華させた。鉄格子は彼らにとって、創造の檻ではなく、集中の枠組みとなった。星は、衝動が光に変わった瞬間の輝きである

しかし、彼らの人生は必ずしも幸福ではなかった。ニュートン晩年を激しい偏執孤独に苛まれアインシュタインは深い人間関係の困難を抱え、ヴァンゴッホは耳を切り、自ら命を絶った。ニーチェ精神崩壊の末に狂気の淵に沈み、多くの天才たちがうつ病双極性障害依存症と隣り合わせで生きた。

同じドーパミン系の過剰活性と衝動性が、創造の星を輝かせる一方で、日常の安定や人間的なつながりを焼き尽くす。

鉄格子は彼らにとって創造の枠組みとなったが、内面的な牢獄でもあった。星を見上げる視線は、自己破壊的な炎を宿している。

同じ格子が問う究極の問い

泥と星は、遠く離れた別物ではなく、人間性というコインの表と裏だ。遺伝宝くじ、幼少期の偶然、環境の偶然が、どちらの面を上向かせるかを大きく左右する。科学はここに「自由意志のフィクション」を暴く

——私たち自分衝動を選べない。

ここに逆説がある。悲劇的に生きることが、人類史を動かしてきたということだ。星を見る者の苦痛狂気なくして、人類科学の飛躍も、芸術の深化も、思想革新も得られなかっただろう。泥を見る者の暗い衝動もまた、人間性の暗部を露わにし、社会規範形成動機を与えた。栄光と哀しみは、常に表裏一体。人間衝動囚人として生まれ鉄格子の向こうに何を見るかで運命を分かつ。

ラングブリッジの詩は、希望の賛歌ではなく、人間本性の二面性を直視せよという鋭い警告である

泥と星の間で揺れ動きながら、生きることの悲哀を背負い続ける——それが、人間という存在の、避けがたい運命なのかもしれない。

平安時代から女のフリして日記書いた男がいる、という話

昨今の「日本女性クリエイターがいなかった」との誤解にまつわる話で、「紀貫之平安時代土佐日記を書いたじゃん」って話が出てくるけど、そこで「当時の仮名漢字より格下扱いだったのを、どう解釈してるのか」という趣旨ブコメがあったので個人的な所感を書きます。なお、自分別に国文専門家というわけではなく、単なる古典オタク増田です。

まず、かなが「格下」という話ですが、漢字公式ものであり外に出す文書に使われるもの思想を記すもの 、かなは非公式ものであり内々のもので心情を記すものです。前者は男の領域で、後者は女の領域ですね。当時の社会構造において、男がやることと女がやることは明確に区別をされておりました。これは現代では差別と言われることですが、当時は必然的な分業です。格上か格下かでいうと、公が格上で私は格下、それはそうですね。

ただ、「格」という概念には上下はあるものの、格上こそ価値が高く、格下は価値が低いかというと必ずしもそうではない。和服世界の格もそれに近いものがあって、ユースドで5000円で買った留袖と、50万円の作家ものの紬とでは、価値が高いのは後者ですが、前者のほうが格上です。格が求められるシーンにはどんなに高価でも格下は着ていけないし、格上だからといっていつでも着られるということはない。格上でないといけないシーンもあり、格下でないといけないシーンもあるわけです。格下が女と紐付けられていることは必ずしも差別とは言い切れない、そういう要素もあるかと思いますさらにいうと、当時は男女差別以上に出自での差別が厳然としてあったわけですしね。

さて、紀貫之ですが、紀氏という氏族自体、すでに当時は落ち目でした。まあ貴族ではあるんですけど、中央で偉くなれるような血筋じゃない。学者になるか国司になるかがキャリアのゴールです。さらにいうと貫之は父親が早く亡くなり、母の職場(宮中女性舞楽を教える部署)の託児所で育ったシンママの子です。父も頼れず母の実家も頼れない、当時としては産まれときから負け組なのですが、和歌の名手としては名高く、天皇からお声がかかり本邦初の勅撰和歌集を作るほどの第一人者です。漢字世界ではパッとしないが、かなの世界では大活躍できるそういう人なわけです。

古今集仮名序文「やまとうたは人の心を種として、よろづ言の葉とぞなれりける」とか読むと、たぶん「和歌が認められたぜ!」ってすっごい嬉しかったのが伝わるし、それと裏腹の社会的な地位の低さに、忸怩たる思いもあったんじゃないでしょうかね?

で、日記です。当時の日記は男が漢字で書く「業務日誌」でした。男が書く日記を女が女手で書いたらどうだろう、と、かなの世界第一人者紀貫之が、地方駐在から中央に帰るときにそう思ったというのは、まあなんかわかる気がします。土佐日記当時50代で従五位下だよ?土佐では国司として地元からチヤホヤされ偉そうにできても、都に帰ったら無職の下っ端貴族よ?

まあ、そんなこんなで「かなは格下扱い、だからこそできることがあるんだぜ!」とかなの世界のおじさんは思ったんじゃないかな?「歌がヘタな客がやってきて子供のほうがよっぽどうまかったのよ」「駐在中にお家のメンテを頼んだ隣人がロクに仕事をしなかったんだけどムカつくのは私だけでしょうか?あ、お礼はちゃんしますけどね」「駐在中に亡くなった娘のことを思うと何をみても悲しくて仕方がない」なんてのは漢字じゃ書けないでしょと。漢字で書くと単なる「家内の些事」でしかないですしね。

女になりたかったというより、かなで書きたいことがあり、かなで表現たかったんだと思います日記をかなで書く言い訳として女になった、そういうことかと。そもそも和歌世界では男が女になりきって恋歌を詠んだり、言ってもいない場所や、やってもいない恋を詠むのは普通ネカマ嘘松当たり前で、そういう下敷きはありますしね。

そこで日記をかなで書いてもいいんだ、という名分ができて、そこから女性日記を書くようになったという流れがつながります

まとめると、かなは「格下」であったけれども、芸術の分野では和歌漢文とならんで評価されていた。ゆえに天皇自ら和歌集を編纂させたし、歌人として名をのこす女性もいた、というのは本当。一方、社会的に差別はあって、芸術評価する立場にいるのはだいたい男だったし、そこに差別がなかったということはない。いくら歌が上手くても出世はできない。(死んで1000年近くたってから従二位なんて遺贈されてもねえ)

ただ、格上格下については、どっちかというと分業と解釈するほうがしっくりくるかな?という所感です。女に男の役割はできなかったし、男に女の役割はできず、越境するには嘘が必要だったし、その嘘は認められていた。それは今日では差別解釈されるわけですけどね。

というか、日本において芸能とか芸術かいうのは、神事以外は基本的には「格下」なので、それを差別というならまあ差別なんですが「格下としつつも、良きものについてはやんごとなき方が評価し、後世に継承される」そこはわりと一貫しているので、そういうとこが日本におけるクリエイター立ち位置特殊性でもあり、「日本差別が残る後進国」ってことにしたい人からは今ひとつ理解されづらいのかも。歴史的クリエイター全体がエディターより格下で、日本においては編集者やらディレクターがやたらいばっていて、そっち側には男女差別は色濃く残ってるわけよ。クリエイターなんて替えが効く木っ端商売なんだから男だろうと女だろうと関係ないってわけ。それをまとめて宣伝して金にするやつが権力持ってて、そこは一部を除いてボーイズクラブだよね。

すごいシニカルに考えると、クリエイターの到達点って園遊会にお呼ばれしたり勲章もらうことだったりするので「上つ方に認められればすべての差別はチャラ」という身分制があるだけといえなくはないし、そういう言い方すると自称先進国からもご理解いただけるのかもね?

2026-04-22

anond:20260422100932

最初ポストで上手く書けなかったけど、社会的に男女の分業があって、分業しながらお互いを尊重しあってうまくいってた部分もありつつ、一方でその分業自体が不当な差別であったという部分もあるよね、ってのが言いたかったんだよね。

そのうえで、日本の男は女の作る文化芸術をさほど忌避したりバカにせずに昔から受け入れてきたという歴史がある。それはおそらく世界的に見ても特殊環境で、そこに関してはすごい恵まれてたんじゃない?

で、自称先進国から、見かけ上低いジェンダーギャップ指数や、他のアジア諸国男尊女卑イメージに引きずられて、日本でも女性クリエイターが低く見られてる、あるいはいない、みたいな偏見を持たれているのは残念。

日本では女性クリエイター活躍しているという話

しか日本では女性クリエイター普通で、わりと古くから活躍していた歴史がある

ただ、それって女性差別がないというわけではなく、本来文学とか芸術なんてものはは大の男が一生かけてやるようなことではない」って風潮があって

男に許されたのは権力から要請があるか金になる伝統ジャンルだけだった→女のほうが自由度が高い表現ができたって背景は否定できないと思うんよな

高度成長期漫画家志望の大半は女子っていうのも、女子には「お嫁に行くまでの趣味」としてそれが許された一方、男子にはその自由度がなかった(そして、そこを押し切れる猛者しかいなかった)ということなのでは

さらにいうと、女が「趣味」とか「家事の片手間」としてやってることだけに安く買い叩くことができた、いくらでも変わりがいるものとして取り扱われた、それゆえに興隆したというのもある

アニメ制作現場待遇の悪さも、それが夢を追う若い女趣味仕事であり、さら主婦の内職にも依るところが大きかったというのもあると思う

で、大人の男がやるようになって、ようやく待遇がまともになるわけ そこに差別がないとは思えない

日本の特色って、女子供向けのものを男が面白がって手に取り、いいもの評価されることなのかもね

若草物語とか赤毛のアンとか、アメリカの男は読むんだろうか?

2026-04-20

anond:20260420122332

当たればデカいという例が複数あるのがアプリとかソフト開発よな

他の商売だとそれこそ広告だの、コミュ力だの、他に必要能力が相当必要だけど、

ソフト開発力特化型の引きこもりが、成果物アプリストアとかsteamに置くだけで金ドリームをつかめるわけだ

他にピンポイント能力特化で億単位お金かめものって芸術ぐらいじゃね

2026-04-12

anond:20260411235613

性的純潔性(風俗に行かないなど)

芸術の才能

身長

アンフェ度の低さ

献身

賢さ

まーこんなところかな

お前は全部ないけど

2026-04-11

AIコンテンツが嫌われる理由著作権と分離して考えてみた!

背景

よく「反AI炎上させるからAIコンテンツが育たない!」という意見を見るけど、それはちげーだろと思ったので整理してみようと思った。

ということで、いわゆる反AIだけじゃなくて一般AI利用者でも露骨AIコンテンツはそんなに好きじゃないよー、という話をする。

まぁとりあえず結論だけ見ればおけ。

前提
  • AIは盗用だから嫌われている」という意見を除外する

 現行法合法である以上盗用じゃないし使ってよいので無視する。よって、ここではいわゆる「盗用」だから嫌う人については考慮しない。

  • AIを嫌っているのは声の大きな一部の反AIだけ」という意見に対して反対する

 一般的なAIサービス利用者であっても、露骨AIコンテンツを避ける傾向があるように思える。よって、ここでは「反AI」の定義を「無許諾のAI学習に反対する者」とし、それ以外でAI構造サービス利用を受け入れているものの外部のAIコンテンツを避ける心理を考える。

 コンテンツには絵・音楽小説などがあるが、ここではとくに絵というカテゴリに焦点をあてて考えてみる。よく話題になってるし。


主に「人間アルゴリズムに対する評価」「人格に対する評価」「実用性との比較」について整理していこう。

1. アルゴリズム嫌悪芸術

まず、人は昔からアルゴリズムのものがあまりきじゃない。

アルゴリズムの方が人間より精度が高くても、一度誤りが起きると人は人間よりも機械に厳しくなり利用を避けやすいことが示されている。いわゆるアルゴリズム嫌悪(algorithm aversion)。

この傾向は昨今のAI絵に対する芸術評価にも表れている。

簡潔に言えば人間によるミスは「まぁ間違えることもあるわな」で済むが、AI絵の破綻は「うわ出た!これだからAI絵はダメなんだ!」って奴である

まりAI絵が嫌われる理由にはまず低いレベルのところから機械が作ったものに対して人はそもそもめっちゃ厳しい」というのがある。

2. 芸術創造評価個人努力

次に、芸術作品単体だけでなく、その背後の人格評価される事実について。

コンテンツに対して人は完成品だけを見ているようで、実際には

  • どんな人が作ったか
  • どれだけの蓄積や訓練があったか
  • どれだけその人固有の経験や癖が染み込んでいるか

をよく見ている。

実際見分けがつかない絵であっても、AI製というラベルが付くだけでかなり価値を低く見積もる傾向がある。(“Bias against AI art can enhance perceptions of human creativity”)

あわせて、AIが作ったと知らされた成果物人間が作ったものより「努力していない」と見なされやすいことも示されている。(“Humans as Creativity Gatekeepers: Are We Biased Against AI Creativity?”)

要は、AI絵が嫌われるのは「破綻があるから」だけではなく、作者の人格努力が感じられないかである

たまに「反AI芸術に対して情報だけを食べているんだ!」というラーメンハゲ引用をXで見るが、芸術って割とそいういもんである

3. 実用性と芸術

これが本題。

先に上げた研究を踏まえたうえで考察していく。

AI業務実用品の領域比較的受け入れられやすいのに、芸術領域で嫌われやすいのはなぜか。

ここに実用性の差がある。

たとえば検索、要約、翻訳議事録コード補助のような用途では、ユーザーはまず「速いか、安いか、役に立つか」を見ている。

この場合、作者の人格本質ではないのであからさまなAIであっても、目的を達成してくれればどうでもよい。

一方、芸術について。

絵はとくに実用品ではなく鑑賞それ自体目的になりやすい。

先の整理を踏まえると、「役に立つか」ではなく「誰が・なぜ・どう作ったか」が価値の大部分を占めているということになる。

まりAI比率が高いほど絵は中核価値を削るとになる。

実用品なら人格価値の中核ではないが、芸術ではそのまま価値減衰になりやすい。

AI比率実用

とはいえAIちょっとでも使ったらアウトというわけではなく。

問題になりやすいのは「AIを使ったか」そのものより、作品のどの部分をAIに任せたかである

  • 検索エンジンで下調べ・構図出しの補助としてAIを使った
  • 背景素材や細部のたたき台としてAIを使った
  • ほぼ完成品をAIポン出し

当然だけどこの3つは同じではない。

人間判断編集固有性文脈けが作品の中心に残っているならAIは補助で済み、人格が現れて価値を創出できる。

しかし、鑑賞価値中心部分までAI外注すると受け手からは「綺麗なだけの絵」に見える。

ぶっちゃけ綺麗なだけのAIポン出しに価値とかない。

えっちな絵は実用性が高い

健全な一枚絵は「鑑賞」が主要価値である

よって、人格性や作者性の欠如がそのまま弱点になる。

一方成人向けイラストでは、受け手が求めているのはシコれるかどうかという明確な機能である

このとき評価軸は芸術性そのものより目的達成の強さに寄ってるので、AI使用による評価低下が相対的に小さくなる。

実際近年のAI一枚絵の主力って男性向けエロ絵だよね。

ちなみに反AI女性が多いのもこれが理由だと考えている。

女性向けの成人イラストでは直接的な性的描写よりその人物関係性=作者の思想人格が求められるため、AI絵で女性はシコれないのである

漫画実用性が高い

漫画も同様。

漫画は絵だけで成立しておらず、キャラ、設定、テンポ台詞、展開、オチなど、絵以外の要素が実用的な面白さを支えている。

よって、絵の一部にAIが入っていても、「面白い」という実用性を備えた内容なら読者は付く。

絵が下手でも面白けりゃそりゃあ読む。

逆に言えば、話の内容ではなく絵の綺麗さに依存しているAI漫画ウケるはずがない。

「絵が綺麗なだけのつまらない手描き漫画」より格下であるのが事実である

結論

AIコンテンツが嫌われるのは、反AIが騒いでいるからではなく、一般的な心理として、

というのが実態である

よって、AIコンテンツ個人社会レベルで伸びない理由を「反AI」のせいにしているのは架空の敵に責任転嫁しているだけである

別にAIを使うなというわけではなく、AIコンテンツ否定される理由の多くは著作権論以前に存在しているし反AI抜きでも説明がつくので、そこを無視するのはただの現実逃避である

自分の綺麗で幻想的なAI作品が伸びないのはシンプル自分人格を押し出せない創造性のない無能からである

一方、絵を描く技術はないがめちゃくちゃセンスある人がAIを使えば面白作品は作れるし当然伸びるだろう。

まぁ個人的な意見としてはもっとうまくやりなよってことです。

2026-04-08

家元がいるお稽古

急速に廃れるだろうな。

1. 2000年以降生まれには現金のやり取りに抵抗たかくなる。

月謝は都度払い、前払い制などだが、基本現金のみ。

お中元お歳暮も基本現金

許状代も基本現金。それに伴う御礼も基本現金

領収書は基本出ない。

着物、道具、いままで、ウン千万、親に費やしてもらった。

2. お手伝い又はお勉強という名のボランティア活動 

団体公式行事は元より、社中のイベントなどに動員がかかる。

基本無給。むしろ着物着付け美容室などで持ち出し多数。

社中の場合、多少先生からお礼の会があるにはある。

しかし、これも付き合いの一種接待するかのように気を遣う。

3. 得られるものは勿論、有形無形。人生を豊かにするだろう。

しかし、濃密な人間関係プライバシーにズカズカ入り込み、学校歴、職歴資産配偶者職業等、序列を作りたがる人種が多数生息する。

自分は、細々と生息しているが、他のお稽古事をしていることは一切話さない。例としては鼓を習っている場では香道を習っていることは話さない。

出費が嵩み、そろそろ潮時かなあとも思う今日この頃

お稽古自体芸術は好きだけれど、利得表を作って考えている最中

2026-04-07

「正しさ」を打倒しなきゃダメだと思う

自分が何を表現したいかじゃあなく、売れる何かをつくるのが正義、のような「正しさ」。

それ、ヤバいと思う。

芸術から作家性が消えて電子ドラッグのようなものばかりが蔓延すれば、人の精神はマヒしてスマホ中毒ゾンビだらけになるよ。


ポピュリズム芸術の流れ、いま止めなきゃ手遅れになる。

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