はてなキーワード: ドグマとは
ドグマの標本
失われた信仰を集める“標本室”を巡る物語。宗教的な神秘とホラーが融合し、信じることで生まれる異常や集団心理の狂気を静かに迫る。幻想文学を思わせる筆致が印象的。
恐怖を感知しないアンドロイドが、怪異を調査する研究室を舞台にしたホラー。機械と人間の境界を描きつつ、予測不能な怪異に立ち向かう姿が魅力的。
日常に潜む「ちょっとした違和感」が恐怖に変わる様子を描いた作品。都市伝説のような緊張感と、読者の想像力を刺激する構成が特徴で、怖がらせ方が繊細で、読後の余韻が残る。
領怪神犯
公的組織「領怪神犯特別調査課」のメンバーが、日本各地で発生する超常現象「領怪神犯」に立ち向かう。神々と人間の関わりを深く掘り下げた内容が特徴。
右園死児報告
明治から続く政府、軍、捜査機関、探偵、一般人による、とある怪異についての報告書をまとめた作品。得体の知れない「右園死児」が引き起こす現象を追う内容だが、展開が冗長であり、他と比べるとやや人を選ぶ。
盗用の骨山
著作盗用を繰り返す作家が“呪われた山”に踏み入ることで、自身の罪と向き合わされる。現実と幻想の境界が次第に崩れ、過去の“声”に追い詰められていく構成が巧み。創作と代償をめぐるテーマが重く響き、単なる怪談にとどまらない深みを持つ傑作。
これはinflation expectationsの訳で、数学の教養があれば、この「期待」はあくまで確率論でいう「期待(予測)」のことだと辛うじて解るが、一般的な言葉とはあまりにもかけ離れていて、こんな言葉だけ連呼されても普通はわからない。
日本以外では、先進国でも後進国でもこの「インフレ期待」がある。日本だけが「デフレマインド」にとらわれている。
これはどういう意味か?
これはちゃんと訳すと、日本以外は「物価が高くなることに消費者が備えている。いつまでもものが安いと安心していない」という意味になる。
そうすると何が起こるか? 「安いうちに買い溜めする」「物価の上昇に備えて賃金アップを強く要求する」ということが起こる。
日本人はバカなので、バカのスパイラル効果で、inflation expectationsを「インフレ期待」という言葉に訳し、なおかつそれがあくまで確率論的な言葉遣いであるということに(役人も学者もメディアも)まったく注意せずに使う。
そして特に鸚鵡返しだけのメディアが意味も解らず「デフレマインドの脱却」を連呼する中で、「国民は物価高騰を待望しなければいけない」というよくわからない(そんなよく訓練された消費者など世界中のどこにもいない)ドグマが形成されて行く。
もちろんそんなことを言われても一般消費者は物価高騰を望むわけがないので、そんなことは起こらない。
「デフレマインドの脱却」が「賢い買い溜め」や「賃金上昇への熱意」を求める「インフレへの危機感」のことだなんて、日本だけが誰も理解していない。
「自分たち以外の勢力」を悪魔化することによって、世界の中における自分たちの地位を少しでも高めようとするイニシエーションなんだよね。
そして、その過激な行動によって世界の中において敵と味方の境界線を強めることで、「自分たちの側の領域」を狭める効果もある。
タコツボ化した集団はおおむね「自分たち以外は馬鹿である。自分たちは数少ない菓子小物たちで希少価値がある存在だ」というドグマを掲げているので、自分たちの領域が狭まったり世界の敵味方が加速することが「コミュニティの中の価値観において自分たちの価値が上がること」に直結する。
なので、こうした「自分たち以外の集団への過剰な攻撃行動」をタコツボ化を加速するための通過儀礼として定期的に開催するわけ。
完全にカルト集団
「消費税が諸悪の根源論」はなぜ間違っているのか、そしてなぜ信じられるのか
という主張は一度は聞いたことがあるだろう。
ネットでは日々このような言説がバズり散らかし、専門家(?)のような経済評論家や漫画家がそれっぽいことを力説している。
何事も相対評価が重要だ。なぜなら比較しないと数値でその良し悪しを議論することができず、ただの観念論や神学論争になってしまうからだ。
「消費税は悪だ」という主張を証明するときに必要なのは「どの税金と比べて?」という視点だ。
たとえば100万円分の税収を得るときに、消費税を用いるか所得税を用いるか、それとも法人税から?
どれを選んだほうが効率的なのか。
はっきり言ってこれに明確な答えはない。なぜならその時々の状況によるからだ。
経済において税の影響はさまざまな要素が絡み合って決まる。
どの税も市場に一定の歪みを生じさせるが、所得税や法人税が高すぎると、労働意欲や投資インセンティブを低下させる。企業の国際競争力を弱め、税回避や国外移転を促す。また印紙税のような不動産取引に課される税は、取引コストを増やし、流動性を低下させるため、資本市場の効率性を損なう。
消費税は逆進性が強い(低所得者ほど負担が大きくなる)ので公平性を減らす影響があるが、累進課税の所得税と組み合わせることでその影響を緩和できる。
資源に対する税金は価格の変動によって大きく影響を受けるため、資源国家では財政が不安定になる。法人税は景気の影響を大きく受け、景気後退時には税収が急減するリスクがある。
この中で、消費税は税収の安定性が高く、経済の歪みが比較的少ないとされている。
特に日本のように高齢化が進む社会では、所得税に過度に依存すると、現役世代の負担が大きくなり、労働供給の減少を招く可能性がある。
つまり、消費税が経済に悪影響を与えるかどうかを論じる際には、「どの税と比べて、どんな条件下でか?」という視点を欠かすことはできない。
そして現在のEBPMにおいて「消費税だけが格別に悪い」などといったコンセンサスは存在しないし、世界各国の制度担当者は消費税も所得税も法人税もバランスよく設けている。
たとえば「消費税は働いていない人や高齢者も負担しなければならず逆進性が高いので今の10%から2%を引き下げ、その分を所得税で補って所得再分配を強めるべきだ」という主張はあり得るし科学的に間違ってもいない。
問題なのは「消費税はすべての消費に対する罰金だから悪だ。故に廃止するべきだ」というドグマ的な主張が広まっていることだ。これは端的に言って間違っているし、善か悪かという価値観の闘いとなり議論や調整のしようがない。そんな事を言ったら所得税も労働に対する罰金だから廃止するべきということになる。
消費税をなくせば全てうまくいくなら、どこかの国が消費税を廃止してすばらしい成果を上げ、それに世界各国が続いて再現性のある法則だと実証していることだろう。今のところ貨幣による納税が広まった近代以降の歴史上でそんな事は起きていないようだ。
それでは、なぜ多くの人が「消費税こそが諸悪の根源」と信じるのか?
消費税は、日々の買い物で直接支払うため、増税の影響を強く実感しやすい。
例えば、給料から天引きされる所得税や、見てない間に企業が支払って価格に転嫁された法人税は意識しづらいが、コンビニで買い物をしたときに「消費税10%」とレシートに表示されれば、「負担が増えた」と感じやすい。
経済全体で見れば、他の税負担の方が大きいこともあるが、消費者はそれを実感しにくい。
「消費税が悪い」と単純化するのはわかりやすく、支持を集めやすい。
「何も悪いことはしてないのにどうして私の生活は苦しくなったのか?」
「なぜ?」という問いは得てして魔女探しを招く。
皆が皆、マクロ経済学の専門書を読んで全要素生産性を決める要因について議論できるような余裕はない。
そこに、わかりやすく単純な「敵」を指し示す人が現れる。
彼らは「日本経済の停滞は消費税が原因だ」と単純明快に断言してくれる。
その上「消費税を引き上げたのは財務省の仕業だ」と敵を与える。
やっと私の生活を苦しくしていた原因がわかった。あとは殲滅するだけだ。
しかし現実はそんなに単純ではないし誤りだらけなので反論も来る。
そうなると彼らは「反対するのは財務省の工作員だ」「あいつは"レク"を受けて洗脳された敵だ」と説明する。
なるほど、そうだったのか。こうしてザイム真理教の陰謀と戦う光の戦士たちが今日も新たに隊列へ加わっていく。
消費税が経済に影響を与えることは事実だが、それは所得税や法人税、他の税金も同じだ。
消費税だけが特別な存在であり「諸悪の根源」というのは誤った単純化にすぎない。
本当に日本経済を成長させるためには、わかりやすく気持ちの良い「敵」のせいにせず、最適なバランスの税制や高齢化問題、生産性向上など面倒で複雑で大変な事実から目を背けず、民主主義の中で議論し続けなければいけない。
「消費税が諸悪の根源論」はなぜ間違っているのか、そしてなぜ信じられるのか
という主張は一度は聞いたことがあるだろう。
ネットでは日々このような言説がバズり散らかし、専門家(?)のような経済評論家や漫画家がそれっぽいことを力説している。
何事も相対評価が重要だ。なぜなら比較しないと数値でその良し悪しを議論することができず、ただの観念論や神学論争になってしまうからだ。
「消費税は悪だ」という主張を証明するときに必要なのは「どの税金と比べて?」という視点だ。
たとえば100万円分の税収を得るときに、消費税を用いるか所得税を用いるか、それとも法人税から?
どれを選んだほうが効率的なのか。
はっきり言ってこれに明確な答えはない。なぜならその時々の状況によるからだ。
経済において税の影響はさまざまな要素が絡み合って決まる。
どの税も市場に一定の歪みを生じさせるが、所得税や法人税が高すぎると、労働意欲や投資インセンティブを低下させる。企業の国際競争力を弱め、税回避や国外移転を促す。また印紙税のような不動産取引に課される税は、取引コストを増やし、流動性を低下させるため、資本市場の効率性を損なう。
消費税は逆進性が強い(低所得者ほど負担が大きくなる)ので逆進的な影響があるが、累進課税の所得税と組み合わせることでその影響を緩和できる。
資源に対する税金は価格の変動によって大きく影響を受けるため、資源国家では財政が不安定になる。法人税は景気の影響を大きく受け、景気後退時には税収が急減するリスクがある。
この中で、消費税は税収の安定性が高く、経済の歪みが比較的少ないとされている。
特に日本のように高齢化が進む社会では、所得税に過度に依存すると、現役世代の負担が大きくなり、労働供給の減少を招く可能性がある。
つまり、消費税が経済に悪影響を与えるかどうかを論じる際には、「どの税と比べて、どんな条件下でか?」という視点を欠かすことはできない。
そして現在のEBPMにおいて「消費税だけが格別に悪い」などといったコンセンサスは存在しないし、世界各国の制度担当者は消費税も所得税も法人税もバランスよく設けている。
たとえば「消費税は働いていない人や高齢者も負担しなければならず逆進性が高いので今の10%から2%を引き下げ、その分を所得税で補って所得再分配を強めるべきだ」という主張はあり得るし論理的に間違ってもいない。
問題なのは「消費税はすべての消費に対する罰金だから悪だ。故に廃止するべきだ」というドグマ的な主張が広まっていることだ。これは端的に言って間違っているし、善か悪かという価値観の闘いとなり調整のしようがない。そんな事を言ったら所得税も労働に対する罰金だから廃止するべきということになる。
消費税をなくせば全てうまくいくなら、どこかの国が消費税を廃止してすばらしい成果を上げ、それに世界各国が続き再現性のある法則だと実証していることだろう。今のところ貨幣による納税が始まった近代以降の歴史上でそんな事は起きていないようだ。
それでは、なぜ多くの人が「消費税こそが諸悪の根源」と信じるのか?
消費税は、日々の買い物で直接支払うため、増税の影響を強く実感しやすい。
例えば、給料から天引きされる所得税や、見てない間に企業が支払って価格に転嫁された法人税は意識しづらいが、コンビニで買い物をしたときに「消費税10%」とレシートに表示されれば、「負担が増えた」と感じやすい。
経済全体で見れば、他の税負担の方が大きいこともあるが、消費者はそれを実感しにくい。
「消費税が悪い」と単純化するのはわかりやすく、支持を集めやすい。
「何も悪いことはしてないのにどうして私の生活は苦しくなったのか?」
「なぜ?」という問いは得てして魔女探しを招く。
皆が皆、マクロ経済学の専門書を読んで全要素生産性を決める要因について議論できるような余裕はない。
そこに、わかりやすく単純な「敵」を指し示す人が現れる。
彼らは「日本経済の停滞は消費税が原因だ」と単純明快に断言してくれる。
その上「消費税を引き上げたのは財務省の仕業だ」と敵を与える。
やっと私の生活を苦しくしていた原因がわかった。あとは殲滅するだけだ。
しかし現実はそんなに単純ではないし誤りだらけなので反論も来る。
そうなると彼らは「反対するのは財務省の工作員だ」「あいつは"レク"を受けて洗脳された敵だ」と説明する。
なるほど、そうだったのか。こうしてザイム真理教の陰謀と戦う光の戦士たちが今日も隊列に加わっていく。
消費税が経済に影響を与えることは事実だが、それは所得税や法人税、他の税金も同じだ。
消費税だけが特別な存在であり「諸悪の根源」というのは誤った単純化にすぎない。
本当に日本経済を成長させるためには、わかりやすく気持ちの良い「敵」のせいにせず、最適なバランスの税制や高齢化問題、生産性向上など面倒で複雑で大変な事実から目を背けず、民主主義の中で議論し続けなければいけない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/beatangel/n/ne4748d44fd03
これのブコメが凄い(酷い)
sayuremix
ロジカルシンキングの鉄板本「考える技術・書く技術」の著者バーバラ・ミント氏は女性である。
2025/02/11
「女は一人残らず非論理的なバカである」とは言ってないのだから
賢い女を一人挙げたところで反論たりえない。
「トランス女性の筋力は統計的にこれぐらい女性と隔絶してる」って話に
「私の知人のトランス女性Aさんは女性平均より虚弱なんですけど!」と反論してるようなもの。
というかこういう種の反論については文頭でくぎを刺されている。
集団の中の極端な人物の言動を例に出して集団全体を攻撃する早まった1般化の1種…が行われがちであるし、
そのまんまやってる反論が一位って
yahooのコメント欄でも概ねお前等よりは知能指数高そうっす。
忌憚のない意見ってやつっス。
mazmot
なんでもええけど、「一部」とか「一般」の「一」を算用数字にするのだけはやめてくれ。
「論理」が顔赤らめて逃げ出すわ
どうよこれ。
本論で反論できないから「こいつハッタショじゃね?www」的なイジリで反撃。
これが2位ってやべーだろ。
はてブは一応インテリとか高学力者の集まりみたいなアイデンティティあった気がするんすけど
いまや知能の塩梅もマナーの程度も私公立中学校レベルなんすよね。
Buchicat
女叩きしてんのになぜご本人のアイコンは女の子風なのか。この辺いつも理解に苦しむ。
2025/02/11
大変頭がいい感じの反撃。
これが3位。
限界集落なのに悪い面だけ若々しいわ。
つーか実際
キモオタが愛好する二次元美少女と現実の女性はあらゆる意味で混同すべきではないと思うんだけど、
いわゆる「二次元と現実の区別が出来ない」のって書き手のような美少女アイコン使いのキモオタさんたちではなく
duers
わからせポルノの弊害。フィクションで愚かな女見つけて脳汁垂れ流しすぎたせいで、
知能も品性も他人に説教をするようなレベルを見せられていない。
こういうやつがいることよりこれが4位になる集団について考えるべきなんだと思う。
suikyojin
何より、自分が論理的であるかのように発言する人間こそ感情的に思える。
自戒も込めて。
2025/02/11
「性差より個人差」については1でも触れた「マクロの話にミクロで反論」に過ぎないうえ
そのものズバリの言い回し(言い逃れ)をしたフロイトについても触れられているので
この人は明らかに本文を読めなかった人。
論理不在の「~こそ感情的!」はおつむ回らない小学生の口喧嘩の定番「バカって言う奴がバカ!」であって、
要するにこの人は本文を読めなかったかわりに「バカって言う奴がバカなんだよう!うわーん!」を言いに来ただけ。
honya_neko
具体的な指摘がゼロ。
俺なら相手の「アラ」を無数発見したら100文字中に2個でも3個でも具体例を挙げるけども
こういう口ぶりで一つも具体的に挙げない人間というのは
挙げられないのにハッタリこいているだけです。
更に予言しておくとこうやって挑発してやっても応じて具体例3つ挙げる程度の意気地を見せないのがこの手合い。
BBQ_BBQ
女性を下に見ている人間のアイコンが大体美少女っぽいのは本当なんなんだろうな。
2025/02/11
3と同じがもう一個。このくだらない言い返し。
つーか真面目な話、
キモオタが嗜好するフィクション美少女というのは良くも悪くも現実のウンコとかする女とは隔絶した何かなのでは?
この辺の区別がマジでつけられない脳だからキモオタポスター見て「自分が欲望されてる」みたいなクレームに繋がるんだろうか?
永瀬廉がキャーキャー言われてるのを不細工一般人である俺が我がことと感じて照れたり不快になったりしてたらだいぶ頭おかしいわけだが
俺と永瀬廉よりさらに遠いのがおめーらとフィクション美少女だぜ?
何の共通点もねえよ。
kakaku01
ただ女を憎んでるだけなのを無駄に長い文章でメガネクイッしてたアカウントがとうとう落ちるところまで落ちたのを見届けてニッコリしています。
「ニッコリしています。」
まあ講評はナシで。
hazlitt
あのさあ、真面目な話さあ、
まともに問題文本文を通読出来た形跡がある奴すらいないわけじゃん。
「ちょっとやってみたくなる」とは?
俺はあの書き手はハッタショのキモオタなのだろうと思ってるけど
知能それなりの奴で、かつ女叩きへの情熱が並外れた奴で、文章も書き慣れてる奴だと感じる。
つまりこれはぼちぼち能力が高いように感じるわけ。能無しに比べれば。
(アホのためにわざわざ書いておくとこれはあの書き手の書いてる文が正しいか間違ってるか賛同するか反対かとかいう話ではない)
それに引き換えお前等はどうなのか。
知的パフォーマンスは公立中学レベル、情熱のかわりに散発的な感情と粗雑な党派性があるだけ、文にいたっては読むことすら満足でなく書くなんて夢のまた夢。
「小銭稼げる」
「ちょっとやってみたくなる。」
wwwww
チンパンジーに「ちょっと今度の選挙で議員になろうと思ってる」と打ち明けられたみたいな気分だわ
HanPanna
それを相反の概念であるように語る人間は非論理的だ。ドモルガンの法則など、論理学には全く興味ないんやろな。
2025/02/11
まず、この人は10位であるのが不当。1位になるべき。
だって一応本文読んでるんだもん。
地に埋まったハードルだがこの人だけは越えてる。
で、この人は提示されている複数の資料への批判や反論を一切避けて
まるでフロイトが記事の根拠資料であるかのように反論しているが、
そうではないよね。
「かつてフロイトは近いことを口走ったが迫害を受けてトーンダウンした」
「しかしフロイトの予言はマクロ傾向としては当たっていたのがわかった」
つってるだけ。
これは明らかにHanPannaさんが
記事をちゃんと読まない奴を騙す目的で欺瞞の反論を書いているわけで
この人は他の奴のようにひたすらのアレではなく中程度のアレ、
でも全部見てきたからはっきり言えるけどこの人が10人のうちで一番知能が高い。
だって一応問題文読んで「どういう風に詭弁を弄そうか」って考えたんだもん。
他の9人はその能力すらないんだぜ?
ひでークラスだから俺はこのHanPannaさんの答案には50点付けたい。かろうじて赤点を脱する。
掃き溜めの中のガチョウぐらいの感じ。
以上見てきた人気上位10人全員、
「当該note記事が正しいか間違ってるか」までたどり着いていない。
俺はトランプ再選の最大の被害者はこいつらみたいな連中だと思ってるんだけど
要するにこいつらは意識高いわりに知能面には安っちいコレクトネス判定ソフトしか入ってない。
意識に知能が追い付いてない。
なので
「女性は論理を理解出来ない」というなんだか冒涜的でセイサベツ的なタイトル見て
「むむ!こいつは正しくない!」 「正しくないということは正しい我々より知能が低い!」とやってるだけ。
こいつら自身の頭の出来をスポイルするためにしか存在してなくて、
こいつらには判断付けられない問題や読めない文章にクチバシ突っ込むために
そのらくらくスマホみてえな物差しだけを頼りに意見もどきの無内容テキストを吐いてるだけ。
言い分は尖っているしおそらくは一部が盛んに指摘したがる通りハッタショでキモオタではあろう。
「資料の引き方が恣意的で実際にはこういうことが書いてあるんだ」とか、
「論理展開のここがこう成り立ってないでしょう」とか。
(これら単体では部分的ツッコミで全体への反論としては弱いかもしれないが、10人はそれすらない)
ミクロ反論にハッタショいじりにキモオタいじり、汚言や詭弁や勝利宣言しかできない連中、
これは単に「我々は正しいから正しい!」つってるだけの脳がアレしてしまった退廃的権威主義者であって
書き手が正しいか間違ってるかの議論よりはるか手前の地点で終わってるんだよね。
つーかアイコンや発達を攻撃するにいたってはポリコレにすら反してねーか?相手がキモオタ男性だからなぜか不問になってるだけで。
フェミニスト女性に対して言い分スルーでプロフ欄開いて「ブスじゃねえか」「ジャニオタじゃねえか」ってやるのとどう違うのか。
はてぶ上位陣は自分たちののっぺりとした「正しさ」すら使いこなせていない。
しょーもないソフトしか入ってなのにそれすらまともに走らないハードが肩の上に載ってる。
ほんと帽子掛けなんすよね。
HanPanna
1.についてrei自身がマクロと言いつつキャサリン・マッキノン一個人を根拠にしてるんだから、一個人で反論されて当然だろ。
2025/02/13
ごめん
HanPannaさんだけは自覚的な詭弁論者であるみたいに書いたけどただの能力の問題な可能性出てきたな。
「フロイトガー」も悪意はなくて、あの程度の文量だともう把握できなくなって「フロイト」という単語に反応しただけ、故意の曲解とか詭弁とかじゃなかったんだなこの感じ。
まだまだ油断があったというか買い被ってたわね。
lady_joker
分からんでもないのだが、reiみたいな有名なヘイターにそこまで論理を駆使して反論するのもバカを見るから、雑に殴って終わりにしようというブコメの空気も私には理解はできる
2025/02/13
以上見たように、そういうのは買い被りです。
なんかあなたもほんとはわかってる気がするけどな。
このざまは「あえて雑に」じゃあないんです。
いつもこの程度だし脳のフル出力でもこの出来です。
このエントリは「態度が悪い」と非難してるのではなく「頭が悪い」と指摘するものです。
それは究極的には当人の責任ではないのかもしれないけど自覚はすべきでしょう。
すくなくともこの10人は全員reiより数段知能が落ちると思います。
あなたも出来るのかもしれない。
そもそも相手が何言ってるかすら読めないのにどう反論するんだよっていう。
そして人類の大半はこいつら側です。
こいつらは俺がピックアップしたのではありません。
このコミュニティとシステムによって選抜されたいわば「上位の10人」ですよ。
それもたぶん僅差とかではなく大差で。
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
例えばモンハンワイルズをPS5proかPCのどっちでやるかみたいな話あるじゃん?
まあPS5proのフレームレート次第ではあるけど、仮に40〜60ぐらいとして、最高性能のPCは安定して60出せるとするじゃん?
でもPC版って最適化不足がある可能性が高いわけじゃん?ドグマ2もそうだしウォーロンとかワイハとかエルデンリングとかもそう
たいてい数ヶ月で改善されるみたいだけど、発売日からやろうとするとモロにくらう
フレームレート低下ぐらいならまだしも、スタッタリングとかクラッシュとかはキツイでしょ
PCっていいやつはめっちゃ高いけど、どれだけいいの買っても最適化不足はどうしようもない
この話題になると毎回「金があるならPC一択」みたいになるけど、正直同じ値段でもPS5proのがいいと思うんだよな
もちろん、一番上に書いた理由があるなら別よ?
でもそれ以外の場合で、PCでもPSでもできるゲームをPCでやるのは何のためなのか分からん
PCでゲームやってる人って、新作をすぐに遊んだりはしない派の人なん?それなら分かるんだけど
「大作ゲームのPC最適化不足問題」議論が過熱。一方で、「900通り以上の環境を想定するPC最適化の難しさ」を強調する開発者意見も注目集める
https://automaton-media.com/articles/newsjp/20230503-246230/
瞼の奥に閉じ込められた刃物を取り出して
しがらみとなって空気を伸ばして木の根を刈り取って
朽ちることのないQ-vism
愛想をふった寄生獣を
消える 消える 全て 消えた鎖を
獣のような目で見据えた世界には
神も光も何もない
繰り返したぜ Only
見渡せば具現化したドグマが立ちふさがる
涙だってどこかが五月草
背後に見たPeaceをもう一度だけ
Fallin’ ‘Cause my friend
シャキシャキすがる海藻浴に
革新つく理性の愛を
響け 響け 全て 生まれ変われ
汚れた瞼で隠した世界には
嘘も真実も何もない
瞼の奥に閉じ込められた刃物を取り出して
しがらみとなって空気を伸ばして木の根を刈り取って
朽ちることのないQ-vism
瞼の奥に閉じ込められた刃物を取り出して
しがらみとなって空気を伸ばして木の根を刈り取って
朽ちることのないQ-vism
愛想をふった寄生獣を
消える 消える 全て 消えた鎖を
獣のような目で見据えた世界には
神も光も何もない
繰り返したぜ Only
見渡せば具現化したドグマが立ちふさがる
涙だってどこかが五月草
背後に見たPeaceをもう一度だけ
Fallin’ ‘Cause my friend
シャキシャキすがる海藻浴に
革新つく理性の愛を
響け 響け 全て 生まれ変われ
汚れた瞼で隠した世界には
嘘も真実も何もない
瞼の奥に閉じ込められた刃物を取り出して
しがらみとなって空気を伸ばして木の根を刈り取って
朽ちることのないQ-vism
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争。追悼の場では「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」というフレーズが使われ続けている。戦争を起こした責任が忘れられていないか――。軍国少年だった男性は憂慮している。
朝日の「季節モノ」の角度付きポエム記事を見かけて、思ったことをいくつか。有料記事なので中身は読んじゃない。
「元特攻兵の憂慮」は「平和のための尊い犠牲」という決まり文句の決まり文句性に向けられているようである。
私こと団塊ジュニアの祖父は抑留帰りである。でも時間の経つのは早いもので、いまや兵士として戦争体験したのは、そしてそれを確かに語れるのは稀な長生きの方だけになった。あと一歩でそれは完全なる「歴史」になってしまう。ツルっとした決まり文句しか残らないのか?という危惧はよくわかる。
朝日の意図は「戦争を起こした責任が忘れられていないか――。」のほうにある。日本のした戦争は悪の戦争なのだからろんりてきに言って日本人戦没者は「自業自得」または「単なる巻き添え」であり「尊い犠牲」ではありえないというアホが極太マジックで書いたような単純な理屈がそこにはある。
ちょっと話逸れるが井上和彦氏とかがやる戦争美談、英霊漫談みたいなのは聞くに堪えない。左翼へのカウンターのつもりなんだろうが、普通に考えて誰が国のために死にたいもんかよ。まず気の毒だし申し訳ないし、そんな気持ちよく語れたらもう嘘だろう。ましてや誇らしいだなんて、まともな神経で言えるわけがない。
だれも簡単に言葉にしようのない万感込めた「尊い犠牲の上の平和」なる決まり文句だったはずだ。今後はその意味も変質していかざるを得ないが。どうしたって我々は応仁の乱の犠牲者を思って泣くことができない。
ずっと昔に「きけわだつみのこえ」を巡るゴタゴタのルポを読んだ。その悲しくも美しい詩の力の影響下に、わだつみ会なる遺族会みたいなものができ、しかし純粋な「慰霊」あるいは「顕彰」を意図する派閥と、彼ら戦没学徒兵はあくまで侵略側であり「犬死に」であったという解釈にこだわる派閥のあいだで「わだつみブランド」の争奪戦が起き…
「犬死に」のドグマは今日に至るまで何の進歩もなく朝日に受け継がれているのである。だってドグマだからな。
「尊い犠牲」が戦争責任を曖昧にするとかいうなら主語不明の「あやまちはくりかえしませぬから」はどうすんの?とかそういう議論はいまさらしたくもないが。
前述の通り戦争体験者はもういなくなる。いわば戦争の記憶そのものが鬼籍に入っていく。現実との結び目をほどかれて「犬死にドグマ」や「誇らしい戦争美談」は文面を変えることなく軽やかにツルツルと高級なそうめんをすするがごとくに語られ続けるだろう。
痩せたいからとにかく走って飯を減らす!
売上を上げたいからとにかく片っ端から営業かけて熱意を伝える!
小手先のテクニックなんかよりも根性で乗り越えるのが大事!みたいな。
一般的に良しとされない根性論っていうのはそういうのを指してるんだと思う。
目的に早く辿り着きたい気持ちが先行するあまり、実現に向けた具体的な方法論の効率性が軽視されてるっていう。
苦労は必ず報われるっていう誤謬めいた感覚がドグマ化して、他人にまで押し付けるようになる。それはまあ好ましくはないと思う。
痩せたいのならまず身体の仕組みを知って、その法則に則ってより効率的な痩せ方を研究して実践すれば良い。
そういう情報も今は体系化されてるのだから、自分で編み出すよりもYoutubeなりで調べればなお効率的。
でもそれって方法論の話でしかなくて、じゃあそれを実践するやる気が湧かなかった時はどうすんねんっていう。そこは結局根性の問題であって、どうやってそのやる気をロジカルに調達出来ますのんっていう。もっと言えば実践以前に効率的な手法を探るのだってやる気は要るし。
気合いがなければ気合いで捻り出すんだよ!というトートロージーめいた対策では話にならない。
じゃあ根性論ではなくロジカルな対策としては、適度な運動をするなり規則的な生活を送るなりして、健康的な身体を作ることが医学的な理屈からして効果的なのかもしれない。メンタルクリニックに行けば助言も得られるかもしれない。
でもそれをやる気力はどこから湧いてくんねんっていう。
根性だけではどうにもならないかもしれないけど、根性がなければお話にならない。
メンタルヘルスって、気合いがなければ気合いで気合いを引き出すというトンチの克服に直面してる気がする。歪な社会構造がどうのこうのという以前に。
別に心療内科へ行けばどうこうなるってもんでもないし、カウンセリングや薬で根性がモリモリ湧いてくるのなら社会問題になってもいないと思う。
アニメ久美子は自分が勝つ出来レースを否定して、その結果の落選。「北宇治は実力主義」ってドグマに殉ずる結果になったのはすごい面白いし、これ、真由、久美子、麗奈、他の部員も誰かが日和るとたどり着かない結末なんだよ。
1票差で麗奈の1票でソリが決まったということで、これは「北宇治は実力主義」ではなくて「麗奈が実力主義」と言うことになると思った。他の部員たちの判断は「互角」なんだから。
追記でどっちが部長かわかってたと書いてるけど、それだと互角も嘘で「実力主義の北宇治」を否定することになるけどいいの?
ソリが吹けなかったことでバッドエンドみたいに言われてるけど、音大にいかない久美子にとって、より誇るべき成果、目指すべきハッピーエンドって「麗奈とソリを吹いて思い出づくりをする」ではなく「北宇治メンバーを率いて全国大会で金賞を取る」だってことなんでしょ
後からそう自分を納得させたと言うことなら分かるんだけど、最初からそれを目指していたというのは違うのでは。
原作、最終オーディションで久美子が選ばれる理由が全然なくて意味がわからないと思ってたから、アニメのほうがまだ納得感はあるな
純粋に楽器を吹く力量は拮抗してて、真由のほうは合奏特化型(滝の解釈を理解し全体のバランスを見て主張しすぎない演奏を目指す) 久美子の側は個人技量特化型(とにかく上手く吹く 麗奈と並び立てるような良い演奏を目指す)でしょ
ソリパートを単体で聞いたときに上手い・良い演奏しているのは久美子だとしても、指揮者として選びたいのは楽曲全体のバランスを崩さない真由で、関西で真由選んだのもそれが理由だし、わかってる部員はそれわかってる描写もある。
とはいえ、真由を選んだら全国大会を前に部の雰囲気が空中分解するのは目に見えてたし、一方で久美子を選んでも選定基準のブレをどう言い訳するのかということになる。
原作で、久美子が関西大会での負けを覆せるような描写はなかった。その上で滝が久美子を選んだのは相当日和った判断に見えるし、その判断基準のブレは滝の経験値不足による迷いに起因していたということに回収されてた。
それで全国金取れたというのはそっちのほうがご都合主義って感じもする。部員の団結力が・・・とか?そしたら真由は噛ませ犬でしかないよね。かなりモヤモヤが残る話だったんだよ。
一方、アニメ世界の滝は、公開オーディションということにしたら人望ある部長に投票する圧が自然に働いて久美子になると考えた。それなら全国勝つにしても負けるにしても納得感はあるよねと。
アニメ久美子は自分が勝つ出来レースを否定して、その結果の落選。「北宇治は実力主義」ってドグマに殉ずる結果になったのはすごい面白いし、これ、真由、久美子、麗奈、他の部員も誰かが日和るとたどり着かない結末なんだよ。
ソリが吹けなかったことでバッドエンドみたいに言われてるけど、音大にいかない久美子にとって、より誇るべき成果、目指すべきハッピーエンドって「麗奈とソリを吹いて思い出づくりをする」ではなく「北宇治メンバーを率いて全国大会で金賞を取る」だってことなんでしょ
1期の一番最初に楽しく思い出づくりをするか全国で金取るかって選択をした、そこから完全に一貫してる。
原作者が書かなかった、書けなかった結末だと思うし、この結果に至ることを納得させるセリフを部員それぞれに言わせてるのは群像劇としてすごく良かったと思ったよ
覆面オーディションでどっちがどっちの音かわかってる部員が少数派みたいに言われてるけど、あれ全員わかってると思うよ
あのレベルの吹部でソロ・ソリパートがあるような楽器だったら、毎日毎日練習して音出してるんだし音色とか演奏のクセとか聞けばわかる
あくまで忌憚なく投票しやすくするために覆面にしてるだけであって、その上でどっちを選ぶかってのはメンバーの考え方が出るなあとは思った
「力量が同じぐらいだったら最後だしずっと頑張ってきた久美子に吹かせてあげたい」って思ってる人と、「関西大会のソリがすごく良かったから全国もこれでいきたい」って思ってる人とで割れてる。