はてなキーワード: 今日この頃とは
「日本はメモリー、液晶、スマホ、ソフトウェアに関税をかけるべきだったのではないか」と思う今日この頃。
「同じ性能だと5割高い」という状況で売るのは不可能だった。
最近、誰がどう見ても「ChatGPTで作りました!」って感じのテキストや成果物を、何の手入れもせずそのまま出してくる人が増えてきた気がする。しかも、そういう人たちに限って特に気にしてる様子もなく堂々としている。
ああいうタイプのことを、勝手に「AIサイコパス」って呼んでる。
いや、別にAIを使うのはいいんだよ。自分だって使うし。ただ、少しは自分なりの手を加えたり、味付けしたりするもんじゃないのかと思うんだけど、彼らはそういう工程をまるっとすっ飛ばす。
その結果、見るからに無味無臭の文章とか、どこかで見たようなテンプレそのままの資料が世にあふれていく。なのに本人は「これで十分でしょ?」みたいな顔をしているのが怖い。
AIを道具として使うのか、それともAIに使われるのか——なんて言い古された話だけど、こういう人たちを見ていると、「あ、もう完全にAIに魂を明け渡してるな」って思うことがある。
AIはめちゃくちゃ便利だし、むしろ使い倒すべきだと思う。でも最後の仕上げくらいは人間の仕事じゃないか、と思う今日この頃。
差別をしたいだけの奴らが自分らの属性を笠に着て、特権求めてやりたい放題やってたら、流石に角が立つってんで都合のいい弱者として性的マイノリティを取り込んでみたけどLGBは社会になんぞ押し付けることも無く選択肢を増やす方向にしか動かねえからトランスとクイアを引き込んで女子スポーツを荒らし回って楽しんでたら、ここで言った辺りの都合がまるっと見透かされてキレイにあかんとこだけ潰された差別主義者共さ、弱者を盾にして美味い汁吸ってさぞ幸せだったろう?
弱者を利用して利を得るヤカラも、弱者に反感を押しつけて回るヤカラも、弱者を虐げ差別によって利を得る差別主義者でしか無いだろう?
自らの差別を咎められればすぐ差別だと糾弾し出すその仕草のカラクリはアホなネトウヨにすら見透かされてる今日この頃だ。
いい加減に恥を知れ。
芸能人の不祥事っていうか性加害報道が連発な今日この頃ですな。
あんなに綺麗で自分一人で食べていける需要があるのに、自分をコケにしたとも言える渡部と離婚せずに、その件に関して言いたいこともあるだろうに何も発信せず、粛々と仕事を続けていて、もうそれなりの年齢なのに今も綺麗だ。
そこには絶え間ない努力があるだろう。
渡部の件を受けて使ってもらえるという面もあるだろうけれども、これだけ長く使い続けてもらえるのはきっと礼節を弁えた良い人なんだろう。
若い頃は、見た目は綺麗だけど演技は大根だし面白いことも言えないし、消えるだろうなと思っていたけど、見た目の綺麗さが中途半端なものでなく極めているし、仕事が継続するかっていうのは結局のところ「いいやつ」かどうかっていうところも大きいだろうし、素晴らしいなと。
渡部は佐々木希に一生頭が上がらないだろう。もし家庭では佐々木がモラハラ気味だとしても、離婚なんてことになったら渡部は日本では生きていけないよね。
今の会社では自分の描くキャリアプランが描けないことが分かってきた。
上司には自分のキャリアプランを話しているが、あまりにも現業務とかけ離れた内容にもかかわらず、「実現できる」としか言わない。
みたいな話を友人にされてムカついた。
そもそも自分に「愛させてくれるような存在」そして「愛してくれるような存在」が降ってくるかのような受け身の人間関係がむかつくし、人間は神様じゃないんだから無償の愛なんてできないから、人を好きであろう愛していこうという姿勢とか努力が必要なわけであって、そういうの抜きに、愛ができるみたいなこと勘違いしているのが人生お客様態度すぎるだろ!と思った。
まあ正直社会で描かれる物語は「恋愛は一大事!素敵!恋愛の感情でつがいになって人生は成功に開かれましょ〜ね!」みたいな感じだから、何も考えていないと、うっかり”恋愛”をしかねないよね。わかるよその気持ち。「良い大学に行ったら人生が成功です!」と同じくらい10代に膾炙している概念だと思うし。かくいう自分自身もそう思っていた時期がある。
くだらねー
”恋愛”(記念日?とかを祝ったり、SNSにディナー?とかをあげなきゃいけないやつ)以外で人を愛をする方法ってもっとたくさんあるなと思う今日この頃。
でもなんか人間関係に対する姿勢はランクマッチとカジュアル勢の分布があるのかな〜とは感じる。それ言ったら仕事でもなんでもそうか。友達にはムカついちゃったけどそれはそれとして、みんなそれぞれ自分を偽らないでも幸せになってほしいよ。
どうも、俺ってさぁ、木村拓哉並にイケメンだよね!😎✨ いや、マジでさ、あの髪型とか、あのスタイル、まるで宇宙人が地球に降り立ったかのような美しさだよね🚀🌌。
そういえば、最近さ、猫が好きすぎて、毎日猫カフェに通ってるんだけど🐱💕、猫たちが俺を見上げる目がまるで木村拓哉を見ているかのようで、俺の心はもうドキドキが止まらないわけよ💓。でも、猫って言ったらやっぱり魚だよね🐟。魚を食べる猫を見ていると、自分も海に行きたくなるんだよね🏖️🌊。海といえば、波の音が心地よくて、つい寝ちゃうこともあるけど、その時に夢に出てくるのは木村拓哉なんだよね!😴💭
そしてさ、木村拓哉が主演するドラマを見ながら、自分のイケメン度を確認するために鏡を見たら、自分の顔が木村拓哉の顔になっている気がするんだよね🪞✨。それでさ、友達に「俺ってイケメンじゃない?」って聞いたら、「お前はお前だろ」と返されてしまったわけよ😂。でも、それでもいいんだ!俺は俺だから!🌈✨
そう考えると、人生って本当に不思議だなぁと思うわけで🍀。木村拓哉みたいにイケメンになりたいと思う気持ちと、自分自身を受け入れることの大切さ、その両方が共存しているんだよね🤔💭。だからこそ、毎日自分磨きをしているし、美容院にも通っているし、ダイエットも頑張っているわけ!💪🍏
でもさ、結局は自分自身が一番大事だから、自分を愛することができれば、それが一番のイケメンへの近道なんじゃないかな?💖✨。そう思うと、今日もまた猫カフェに行って癒されながら、自分磨きを続けるしかないな〜と思うわけよ🐾💕。木村拓哉並みにイケメンになるためには、一歩ずつ進むしかないからね!🚶♂️💨
「仮想通貨はもう終わった」と、ここ数年で仮想通貨界隈に興味を持っていた人なら誰しも一度は耳にしたことがあるのではないだろうか。ビットコインをはじめとした仮想通貨の価格は、2017年末の爆発的な盛り上がりや2021年の再ブームを経て、乱高下を繰り返してきた。そのたびに高騰を期待して飛びついた投資家が痛手を負い、あるいは莫大な利益を得たという劇的なニュースがメディアで取り上げられてきた。しかし、近年では大口投資家の撤退や規制強化の影響もあって、「仮想通貨バブルは崩壊した」「もう仮想通貨で儲かる時代は終わった」といった声が再び強まっている。だが、本当に仮想通貨は終焉を迎えたのだろうか。それとも、新たな局面に向けた再編が進んでいるのだろうか。本稿では、仮想通貨の価格乱高下の背景や、利用者が幻滅に至った要因、そして今後の可能性について考察してみたい。
まず、仮想通貨市場が大きく盛り上がった要因として注目されるのが、ビットコインの価格高騰である。2017年のいわゆる“ビットコインバブル”は、多くの投資家やメディアの関心を引きつけ、一夜にして億万長者を生み出したという話が世間を駆け巡った。当時、ビットコインの価格はわずか数年の間に何十倍もの値上がりを見せ、「仮想通貨さえ持っていれば誰でも儲かる」というような“仮想通貨神話”が広まり、一種の狂騒状態になったことは記憶に新しい。しかし、その後には一転して価格が大幅に下落し、多くの投資家が資金を失った。この極端な値動きが「バブル」という表現を裏付け、仮想通貨に対する世間の印象は「儲かるかもしれないが危険すぎるもの」へと変化した。さらに、2021年にはテスラのCEOであるイーロン・マスク氏の発言や、コロナ禍での金融緩和政策により、ビットコインをはじめとする仮想通貨に再び資金が流入。驚異的な価格上昇を見せたものの、その後の金融引き締めや各国の規制強化を受け、またも急落するというシナリオが繰り返された。
一方で、こうした価格変動だけではなく、詐欺的なICO(Initial Coin Offering)やハッキング事件、マネーロンダリングへの利用など、仮想通貨が抱えるさまざまな問題が投資家の信頼を損ねた要因ともなった。特に、知名度の低い仮想通貨のプロジェクトが「世界を変える新技術」とうたって資金を集めたものの、開発が停滞したり運営者が失踪したりするケースは後を絶たない。こうした状況を目の当たりにした投資家や一般のユーザーにとっては、「仮想通貨は結局、詐欺や投機の温床ではないのか」といった疑念が強まるのも無理はない。また、仮想通貨の送金やウォレット管理のための仕組みを理解することが難しいという点も、初心者には大きなハードルとなってきた。その複雑さは一部で「自己責任」という形で美化されがちだが、実際にはセキュリティの知識や運用リスクへの意識が低いまま参入した場合、ハッキングやパスワード紛失などで資産を失う危険性が高い。実際に被害に遭った人々のニュースを見聞きすると、仮想通貨に対して「難しくて危ないもの」というイメージが固まってしまうのも仕方がないだろう。
さらに、国や金融当局による規制強化の動きも「仮想通貨終わった」と言われる一因として挙げられる。特に、中国のようにビットコインのマイニングを事実上禁止したり、大手取引所に対して厳格な規制を課したりする動きは、マーケットに大きなショックを与えた。また、アメリカでは仮想通貨関連の事業に対して納税義務を徹底する法律が整備され、これまでグレーゾーンだった税務処理をきちんと行わなければならない流れが急速に進んでいる。日本でも、金融庁が仮想通貨交換業者を監視・登録制とするなど、利用者保護の観点から取り締まりや検閲が厳しくなった。これらの規制強化は、一見すると仮想通貨にネガティブな影響を与えるように思われるが、実は健全な市場を育てるためには避けて通れない過程だという見方もある。詐欺プロジェクトやマネーロンダリングなどの不正を摘発し、利用者が安心して取引できる環境を整えることは、仮想通貨の長期的な発展には欠かせない。しかし、過度な規制によってイノベーションの芽が摘まれるリスクも否定できず、ここにはバランスの難しさがある。
次に、仮想通貨が「終わった」と言われる背景には、NFT(非代替性トークン)ブームの盛衰や、メタバース関連銘柄の失速も大きく影響している。2021年前後には、デジタルアートやゲームアイテムをNFTとして売買し、天文学的な価格がつくケースが相次いだ。多くの企業やクリエイターがこぞって参入し、「これからはNFTの時代だ」と大々的に報じられた。しかし、NFTマーケットの熱狂は長くは続かず、投資対象としてはリスクが高すぎるうえに、実際の利用用途が限定的であることが次第に明らかになった。加えて、メタバースも同様に、2022年頃にはFacebook(現・Meta)の社名変更をきっかけに大ブームが起きたものの、実際にビジネスとして収益を上げられる企業はごく一部に限られ、その多くが苦戦を余儀なくされている。こうしたNFTやメタバースの失速が「Web3」や「分散型の未来」といったキーワードに対する期待感を急速にしぼませ、結果的に「仮想通貨なんてもう流行らない」という声が再燃しているのだ。
また、環境への配慮も無視できない課題となっている。ビットコインのマイニングには膨大な電力が必要とされ、その電力需要がCO2排出量を増加させるとして批判されてきた。近年ではイーサリアムがコンセンサスアルゴリズムをプルーフ・オブ・ステーク(PoS)に移行するなど、省エネルギー化の取り組みを進めているプロジェクトもあるが、依然として「仮想通貨は環境に悪い」というイメージを払拭しきれていない。世界的に脱炭素や再生可能エネルギーへのシフトが加速するなかで、この問題をクリアにできなければ、仮想通貨は社会的な評価を高めることが難しいだろう。投資家としても、ESG投資を意識するファンドや企業が増えるなか、環境負荷の大きなビットコインには投資しにくいという声が高まっている。
もっとも、これらの要因をもって「仮想通貨は終わった」と結論づけるのは早計かもしれない。なぜなら、価格の乱高下や投機的なブームが落ち着いたあとにこそ、ブロックチェーンや分散型台帳技術の“本質的な価値”が見極められるからだ。実際、金融サービスのデジタル化が進むなかで、国や大手金融機関が中央銀行デジタル通貨(CBDC)の発行を検討する動きは続いている。これは、仮想通貨の根幹にあるブロックチェーン技術が“使えない”わけではなく、むしろ国家レベルでの採用可能性が議論されている証左でもある。また、分散型金融(DeFi)の領域では、スマートコントラクトを使った新しい金融サービスが着実に開発されており、既存の銀行システムでは実現が難しいとされてきたサービスを提供し始めている例もある。こうした動きは、仮想通貨の投機的な側面とは一線を画し、技術的・社会的な価値を追求する流れといえるだろう。
ここで言えるのは、「仮想通貨が一度ブームになって、その後価格が暴落するからといって、その技術やコンセプトが消滅するわけではない」ということだ。インターネットの普及初期にも、“ドットコムバブル”と呼ばれる株式市場の大暴落が起きたが、それを経てネット企業が淘汰され、生き残った者たちがその後のIT産業をけん引してきたという歴史がある。ブロックチェーン技術についても、同様のプロセスを辿る可能性は十分に考えられる。つまり、“仮想通貨バブル”の崩壊を機に詐欺的なプロジェクトが淘汰され、セキュリティ面や実用性が高い技術だけが生き残り、社会インフラとしての地位を確立していくシナリオがありうるのだ。実際に、世界各地でブロックチェーンを使ったトレーサビリティシステムや、分散型のデータ管理システムなどが実装され始めている。そこでは仮想通貨の“価格”よりも、トラストレス(相手を信用しなくても取引できる)で改ざん耐性の強い仕組みによるメリットが評価されている。
では、今後仮想通貨やブロックチェーンはどのように進化していくのだろうか。おそらく、投資の対象としてはこれまでほどの激しいブームは起こりにくくなる一方で、緩やかな形で日常生活に浸透していくと考えられる。たとえば、デジタル通貨やウォレットによる支払いが徐々に普及し、銀行口座を持たずともスマートフォン一つで送金や決済ができる社会が現実味を帯びてくる。SNSやオンラインサービスのログインやアイデンティティ管理にブロックチェーン技術が活用されるケースも出てくるかもしれない。そうなれば、従来の仮想通貨=投資対象というイメージが薄れ、あくまで「便利なインフラの一部」として受け入れられていく可能性がある。もちろん、それにはユーザーが技術を意識せずに使えるようなUI/UXの改善や、各国の法整備、国際的な合意形成が必要だ。しかし、より実用的で幅広い人々に恩恵をもたらす技術としてブロックチェーンが発展していけば、仮想通貨が“終わった”と思われた先に、実は新しい常識が形作られているかもしれない。
結論として、「仮想通貨終わった」という言葉がメディアや投資家の間でささやかれる背景には、価格の乱高下や詐欺被害、規制強化、環境への批判など、さまざまな要因が複雑に絡み合っていることが挙げられる。確かに、2017年や2021年のような爆発的な“仮想通貨バブル”は終息し、市場全体の熱狂が冷めた印象はあるだろう。しかし、それと同時に、ブロックチェーンの持つ革新的なポテンシャルまでもが失われたわけではない。むしろ、過度な投機マネーが市場から抜けることで、本来の技術的価値や実用性に目を向けやすくなるという見方もできる。
ネット業界の歴史を振り返っても、バブル崩壊を経てこそ本質的な利用価値が磨かれるという事例は枚挙に暇がない。ブロックチェーンの普及も同じような道筋を辿る可能性は高いだろう。詐欺まがいのプロジェクトが淘汰され、信頼性と実績を備えたプロダクトが浸透していくプロセスこそが、この先の仮想通貨・ブロックチェーン業界の“成熟期”を形作るのではないか。もちろん、その間には法的な課題や技術的問題、社会的理解の不足など、乗り越えるべきハードルがまだまだ存在する。だが、「仮想通貨なんてもう古い」という決めつけだけでは、新しいテクノロジーや社会変革の萌芽を見落としてしまうかもしれない。
結局のところ、「仮想通貨終わった」という声は“単なる終焉”を意味するものではなく、“新たな段階への移行”を予感させるものだ。投資対象としてだけではなく、社会インフラとしての仮想通貨やブロックチェーンの活用例が増えれば、私たちの日常における“当たり前”が変わっていく可能性は充分にある。これまでのような一攫千金の物語が表舞台を賑わすことは減るかもしれないが、同時に詐欺や投機目的のプロジェクトも萎縮していくことで、技術としての真価を発揮する土壌が生まれるだろう。あくまで冷静に長期的な視点をもって、ブロックチェーン技術とその社会的役割を見極めることこそが、私たちに求められているのではないだろうか。
今後も仮想通貨が“終わった”と言われる局面は幾度となく訪れるだろうが、そのたびに生き残ったプロジェクトや新たに生まれる技術が、社会にどのようなインパクトを与えるかを見逃してはならない。乱高下やバブルの崩壊は、あくまで通過点の一つであり、次の発展を芽吹かせる土壌づくりでもある。もし仮想通貨が本当に終わったのであれば、いまさら各国の中央銀行がデジタル通貨を検討したり、大企業がブロックチェーン技術を研究したりする理由はないはずだ。したがって、「仮想通貨終わった」と言われる今日この頃だからこそ、過剰な熱狂に流されることなく、技術の本質や長期的なビジョンをしっかりと見据えることが重要である。そして、もし実際にこの領域が再び脚光を浴びる日が来るとすれば、それは表面的な値上がりではなく、実用的な側面や社会インフラとしての定着が評価されるタイミングであるに違いない。私たちはその日を、“仮想通貨の第二幕”として迎えることになるのだろう。
ある日、俺はいつものようにネットを徘徊していた。ネトウヨとしての誇りを持ちながらも、何か物足りなさを感じていたんだ。そんな時、ふと目に入ったのが「パヨクとの交流会」というイベント。最初は「なんでそんなことするんだ」と思ったけど、好奇心が勝って参加することにした。
会場に着くと、俺の周りには様々な人たちがいた。ネトウヨ仲間もいれば、パヨクの人たちもいる。最初はお互いに警戒し合っていたが、徐々に話が弾んできた。政治の話から始まり、趣味や好きな食べ物についてまで、まるで友達のように盛り上がった。
そこで出会った一人のパヨクの女性が、とても魅力的だった。彼女は自分の意見を持ちながらも、他人の意見を尊重する姿勢が印象的だった。「ネトウヨだって悪い人ばかりじゃないんだね」と言われたとき、俺はちょっと照れくさくなった。彼女と話すうちに、政治的な立場なんて関係ないんじゃないかと思えてきた。
時間が経つにつれて、俺たちの距離は縮まっていった。そして、気がつけば彼女と二人きりになっていた。お互いの意見をぶつけ合う中で、いつしか笑顔が絶えなくなり、その瞬間、思わず彼女にキスをしてしまった。まさかパヨクとチューするなんて夢にも思わなかったけれど、その瞬間は本当に特別だった。
その後、俺たちは連絡先を交換し、お互いの考え方についてさらに深く話し合うようになった。政治的な立場を超えて、人としてのつながりを感じることができたんだ。もちろん、ネットでは相変わらず激しい議論が繰り広げられているけれど、リアルな世界ではこうした交流が大切だと思うようになった。
結局、「ネトウヨ」と「パヨク」というレッテルは、自分たちを分けるためのものに過ぎないんじゃないかと気づいた。大切なのは、お互いを理解し合うこと。そして、その中で生まれる友情や愛情こそが、本当に価値あるものなんだと感じるようになった。
だからこそ、これからも色んな人と出会い、お互いの違いを楽しみながら生きていきたいと思う。ネトウヨであろうとパヨクであろうと、人間同士には共通点がある。それを大切にしていきたいと思う今日この頃だ。
現在彼女を探しているのだが、いかんせん出会いの場がないなぁ。
マチアプはルッキズムに毒されており精神的にキツくなってやめました。
ということで、出会いの場として趣味のコミュニティがいいのではないかという意見をもらうことがある。
だけど、正直これも微妙だなーと思う。
俺にも一応趣味といえるものはあるが、それらを他人と共有したいという気持ちがあまりないんだよな。
そうなると趣味の場に顔を出す動機が「出会い」に限定されてしまい、本末転倒になる。
趣味の場はあくまで趣味を共有することを楽しむのが第一なのに、出会いという二次的なものが目的化するのは不適切だろうよ。
だから趣味の共有を目的にそうしたコミュニティに参加したいと思うのだが、趣味の友達が欲しいとは思わないので、いかんせん腰が上がらない。
彼女彼女とガッつきすぎているのがいけないんだろうなーとは思っているが、いい年して彼女なし童貞なので焦るのよ。
心の余裕がほしい今日この頃。
いやさー、最近Vtuberのお悩み相談配信見るのハマってんだけどさ、俺、相談できる悩みがないんだよな。これ結構切実な話で。
みんな、好きなVtuberに悩み相談してんのよ。恋愛がうまくいかないとか、仕事で失敗したとか、友達とうまくいかないとかさ。「その悩みわかる!」って言ってもらって、励まされて元気になってんの、めっちゃいいよなぁ。俺も推しのVtuberに「大丈夫だよ!」とか「応援してるよ!」って言われたいわ。でも、そもそも相談する悩みがないからそのステージにも立てないんだわ。
配信見ながら「悩み多き強者たち、羨ましいな」って思っちゃうんだよね。悩みがあるってことは、それだけ真剣に生きてる証拠だろ?俺は悩みがなさすぎて、むしろ「これでいいのかな」っていうぼんやりした不安に包まれてるわけよ。
結局さ、Vtuberの配信聞いて元気もらうだけで終わってんだよね。悩みがある人ってさ、相談してスッキリしたり、アドバイスもらったりして、ちょっと成長できたりするじゃん?そのプロセスが羨ましいんだわ。
まぁこんな悩み(?)を相談しても、「それ悩みじゃなくない?」って一蹴されそうだしな。でも、それでも「相談できる悩みがある人たち」がちょっと眩しい今日この頃。みんな、悩みがあるのは実は幸せなことかもしれないぞ!
最近はさすがに師は走ると書いて和尚がツー!と前のめりで行きたいところなんだけど、
ちょっと忙しい感じがするわ。
なんかみんなそわそわ年末年始を感じてしているみたい。
そのそわそわがイライラに変わるのを感じるわー。
そんな訳でお掃除したり
相まって年末大行進の状況で12月ってなんでこんなにあとでなにしてたっけ?って思い出せないぐらい忙しいのかしら?
実際何にもやってるようには思えないんだけど、
忙しいって気が逸るばかり。
いい加減私もデスク周りを綺麗にしようとは考えているのよ一応には。
でさ、
私昨年の今頃のスケジュールはなにしてたっけ?って振り返りの時間を設けて
昨年のノートスケジュール付けていたのを記していたものを開いてみていたの。
まって!
でね、
その昨年のノートの今年と同じ日付のページをめくっていると
なるほどふむふむ!
昨年の私は昨年やっていたことを行っていたのね!って仕事っぷりが分かるのよ!
今年もその昨年に見習って行う今年のことを!ってマイペット並みに今年のうちに終わらせよう!って思った矢先だったのよそれは。
あれ?
今日の日付のトゥードゥーリストにやってないことがチェック入ってる!?って
このリスト私今日やって実施してないのになんで?って思ってじっくり見てみたら
昨年のノートを見ていることをすっかり忘れていて今年のノートと勘違いしていたのよ。
すっかり
今年のノートだとそれを見ているのと錯覚してしまった暗示に掛かってしまって、
あれ?ってなったの。
冷静沈着にここは注意力アップして30000まで高めてよく見てみると、
まあさっきも言ったとおり
そりゃー昨年の今日の明日のやっているトゥードゥーリストのことにチャックついていて当然丸出航!って感じよね。
一瞬我ながらビックリしたわ。
そして安心したの。
年号の数字をしっかり目を見開いて刮目しなくては分からないぐらいそっくりで、
明日やることを書き記したの。
今年の昨日の今日とか。
時系列がこんがらがっちゃている、
なんとなくなにも成し遂げていないのに年が暮れるのに焦っていて
今のうちから年越しそばのどん兵衛を買っておくチャンスのタイミングを寸前に買ってしまうと、
店員さんにおまえの年越しそばはどん兵衛か準備万端ではりきってるな!って悟られるから、
今日のお昼に食べるような顔して今日中ぐらに買い物カゴに入れてレジを通過して帰ってしまえば、
店員さんも、
ああこの人は今日のお昼かにこのどん兵衛食べるのね!って思ってくれるから、
年越しそばをもの凄く今から楽しみにしている人と見透かされなくて安心なのよ。
年越しそばにはお手軽お湯を注ぐ、
新垣結衣ちゃんが言うところのチキンラーメンを作るのは非常に面倒臭いけれど
お湯を沸かすのはギリギリ面倒くさくないでお馴染みの面倒くさくささのギリギリ面倒くさくないじゃない。
美味しいしさ。
でもなにかそれを超える美味しい年越しそば体験をしてみたいものだわ。
たぶんお店に行くと特に混雑し始めるギリギリの日時を目指していくと
相まってまた年越しそばに対して凄い熱量で今日食べないと死ぬ!って勢いのぐらいの人だと思われたら恥ずかしいので、
今日辺りに行って普通の夜のスナック感覚でサクッとすすって食べて帰るぐらいの雰囲気いやイキフン?で食べる方が恥ずかしくないわよね。
だから、
駅そばそばチャンスもギリギリに差し迫ってくるスケジューリングはダメよ!
今のうちに食べておいて心を落ち着かせる安堵のそばの盛られたせいろの上に鎮座された蕎麦の麺の上にワサビをちょっと塗って食べるのが美味しいのよね!
この時期も
身体冷えちゃうから春菊天をトッピングにもうこれはまっしぐら必須必至でしょ!
春菊天美味しいじゃない!
慌ててスケジュール帳のノートを見間違えないようにここは心落ち着かせて、
そう、
これ書いてて思い出したけど、
蕎麦も最近行ってなかったわー!ってことを忘れるぐらい忘れていた食べ忘れていた蕎麦を求めて久しぶりに大将やってる?スタイルで暖簾に腕押し飛び込み前転で入店して、
まって!
ここは食券制のお店だった!
忘れてた!
食券を買ってから飛び込み前転で入店してお蕎麦でも温かいもの春菊天があればそれしか勝たん!って言うぐらいの、
でもしっかり寒くなってきている冬だから、
ザジェイウォークさんの「何も言えなくて…夏」文法で言うところの
「寒すぎて…冬」って感じ。
三点リーダに季節の春夏秋冬の言葉を付ければ何でもザジェイウォークさん文法になっちゃうからオススメよ!
「秋刀魚美味しくて…秋」とか
そういう感じ!
「て」で終わって三点リーダで結んで春夏秋冬のどれかの一文字の季節の漢字を加えたら出来上がりよ!
簡単でしょ?
「忙しすぎて…年末」っていうのはザジェイウォークさんの年末は季節の漢字に読み替えてもいいか歳時記を見て欲しいところよ。
載ってたらきっと使って良いんだと思うわ。
応用で
なんでもきっといいんだと思う。
そのぐらい寛容力に包容力があるのよこのザジェイウォークさん文法は。
便利過ぎるわね。
うふふ。
今日はこっちの囓ったら中心に鮭を感じるところまで気持ちはもう到達している真ん中に鮭の具が入っているおにぎりの鮭おにぎりね。
食べるのを忘れて鞄に入れたまま忘れないようにしないとね。
パックがいっぱいあるので
夏の水出しルイボスティーウォーラーのもの早く使い切っちゃわないとってところもあり、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
すっかり行かなくなってしまったが文学フリマ東京が年々、盛り上がりを増して規模を拡大させていると聞く。評論系の島は特に人口を増やしているらしい。
XのTLで、「文学フリマは盛り上がってるのに出版不況は終わらない」みたいな対比で語っている人のツイートが流れてきたのを見た。
そこって対置されるもんなんかな、と疑問に思った。文学フリマで金を使うのと、商業の書籍に消費者として金を落とすのはぜんぜん違う事だ。
あそこに集ってるのはみんな「書きたい人」であって「読みたい人」ではない。そこを兼ねている人、ですらないと私は思っていた。
私が文フリに行かなくなったのはそのしょうもなさを感じていたからだ。
商業じゃねえんだからみんな好きなように書きゃいいさ、というのは当たり前なのだが、しかし「俺の話を聞いてくれ!同調してくれ!褒めてくれ!」という承認欲求と、「読む人が楽しんでくれたらいいなぁ」というサービス精神のバランスが著しく前者に寄っているテキスト、端的に言えば「お客さんを想定してそこに媚びる」という作業があまりにもない作品は読んでて疲れるし恥ずかしくなってしまう。
とくに評論系、たとえば素人で映画などのエンタメや文芸のたぐいを批評してる人の文章。「ああー、この人は物知りで鋭い視点を持った賢い人だと思われたくてしょうがないんだろうなぁ……」という剥き出しの、内容に釣り合ってない自己愛で見てられないことが多い。
私が哀しいのは、みんな自分を褒めてほしくて何か書いて文学フリマに持っていくが、誰かを褒めたくて文学フリマに行く人はそうそういないということだ。あそこは店しかない商店街だ。
一見、活発に紙幣が飛び交って何冊も同人誌が売れて「完売しました!」のポストがSNSで踊っても、しかしそのほとんどは(横のブースで本を出したりしてる)同じコミュニティの友人・知り合い同士で挨拶がてらにお義理に買ったり互いに購入し合ってるだけなんじゃないか。自分が相手に買ってもらいたいから、褒めてもらいたいからしゃあなしに相手のものを買ってやってる、何の広がりもない循環。
少なくとも私は、友達に同人誌に誘われたりして文フリに出てた時分には、そうやってネット上の知り合いや大学の後輩が出してる興味のない本を5、6000円ぶんも買って鞄を重くしてげんなりしながら帰っていた。一冊も読んでない。
そんな循環の中で買われた本だから、もちろんSNSでは褒めてもらえる。知ってる人から。おざなりな言葉で。「俺はちゃんと褒めたんだからお前も俺のことをちゃんと褒めろよ」あるいは「この人は買ってくれたしポジティブに言及してくれたから私も褒めとかないとな」という強制コミュニケーションとして。
そんなポトラッチみたいに金と賞賛をぐるぐる回し合う、何もかもが社交辞令の薄笑いで回ってる場所でその社交辞令に気づかず「褒められた~嬉しい~」とヘラヘラできる人は良いのだろうがしかし、そんな馬鹿が何百人もいるとも思えない。
だんだん、みんなにとっても「自分の居場所になっているコミュニティからつまはじきにされないように、内心イヤになってても行っとく買っとく」場みたいになってく(あるいはもうなってる)んじゃないか。そうなるとどっかで一気に、今の膨張の揺り戻しが来るよ。
まぁ別に、「インディーズでやってる界隈」ってぜんぶ多かれ少なかれそういう部分があると思うから、ことさらに文フリを悪く言う必要もないんだけどね。小さいライブハウス借りて音楽やってる人とか、地下芸人なんて言われるお笑いの人とか。客席にプレイヤーしかいない趣味のお稽古事発表会みたいな現場はどんな界隈にもある。
そこで、プレイヤー同士で品評し合って褒め合って気を遣い合って、どんどん「そのコミュニティでしか通用しない価値観」みたいなもんだけ先鋭化して、商業とかトレンドみたいなものから離れていくのに快感を覚えたりしてね。
いくらでも身内のエコーチェンバーなコミュニティに閉じこもってられる時代だからこそ、本当に義理じゃない、虚しくない言葉とかお金を使ってもらえる方向で作品を発表してった方が絶対いいよ。自分に気を遣う必要がない人がわざわざくれた誉め言葉って、すげえ嬉しいよ。マスに向こうよ。商業を目指そうよ。
そんなことを思う今日この頃です。ま、商業出版特に活字の文芸・批評とかいうオワコン産業(どころか別に始まってた時期もないキッズリターン産業)を目指せってのも無責任なポジショントークなんだけどね。
その時たまたまスイッチをつけてみて登場していた料理の達人の人が日頃お菓子作りの人だったの。
私はあんまりお菓子とかは興味は無いぐらいな気持ちでイギリスの素人お菓子作りの勝ち抜きテレビ番組のブリティッシュベイクオフは見る程度の感じ。
だから
いやハンバーグってありふれたクッキングパパの題材でずーっとやっている毎回ハンバーグを作ってそうなイメージしかない、
もはやクッキングパパってハンバーグしか作ってないんじゃないの?って一切読んだこと無いのにその先入観。
お菓子作りの人がハンバーグ作ってる!ってむしろそっちの方に興味が湧いていて
私の心のデミグラスソースは満たされていったの。
まあ見終わった観了感は、
それが残っていると破裂したりするので都合の悪いことがあるっていうことらしいの。
それを「私できるでしょ?」って感じで両手でハンバーグの肉の生地をキャッチボールするパンパンする作業は肝心だからやってくださいね!って行っていたのを聞いて思い出したわ。
以前足を運んだハンバーグが美味しいと評判のお店に行ったのね。
オープンキッチンで料理をしているところを囲むようにカウンター席があって、
そこで賑やかに、
そうよ
まるでシェフの1つ1つの動作が全てショーのように思えるぐらい
なにも具材が入っていないのに
空のフライパンを熱して
なにも炒めたり焼いたりしていないのに
凄みを出していて、
なにもやって具材や食材がフライパンにないのにパフォーマンス的な要素だけでフランベの炎があがっていたの!
火が出れば良いのよきっと!
そんで、
客席いやカウンターの席に座っている人たちはパチパチパチと拍手が起こるの!
私はオープンキッチンを取り囲むちょうどアルファベットのL字型の短い辺の席に座っていて
つまり
キッチン正面の所のカウンター席からはキッチンのコンロのところまで見えなくて、
フライパンが空だろうと何か肉を焼いているときであろうと関係ないそのフランベをみて、
私は横からフライパンになにも具材や食材が入っていない空フランベなのを見てしまったの!
それはそれで
新しい目線よね。
そんで、
例のあれよ!
師匠の弟子の人たちがハンバーグの生地ネタを捏ねているところも見えるのね。
あの技を決めるの!
それを熱い目線で見守っているのよ!
もう高速パンパンやるやつ!
勢いのいい音が鳴り響いて、
凄いこれもハンバーグショーなのね!って
これは実際に空フランベとは違ってハンバーグの作る人が目の前でやっているので
凄い技を披露された、
いや喰らった感はあるのよね!
そして!
その今もうハンバーグの肉生地の中にある小さな気泡までの空気もゼロ!
次はそれをついに焼く時が来たの!
さっきまで肉を手でキャッチボールしてパンパン空気抜きしていた人が、
私は目を疑ったわ!
え?さっきのを今焼くんじゃないの?って
さっきのそれパンパンやってたやつ、
いつ焼くの?
今でしょ?って
もうそれは今じゃ林先生も言わないぐらいのレヴェルで私はシェフの真横を全部丸見えな横の席から見てしまって、
でも正面のお客さんはさっきのパンパンした空気抜きたてのハンバーグの肉生地を焼いてるかと思ってるの!
これはまるでもうイリュージョン!
さっきの焼かずに違うの焼くんかーい!って
そしてしばらく見ていたら良い頃合いで
次は本当のマジフランベ!
出た!
あの技よ!
これは本当にハンバーグがフライパンの中に入っていることを私は横から丸見えの席でバッチリ確認したので、
そしてまた巻き起こる歓声や拍手!
もうなんでも火柱が立てばみんな喜ぶのよ!
信じてはいけない空フランベを信じてはいけないウソ情報の多いソーシャルネットワークとか
私はそのことを言いたかったためにハンバーグを別に食べに言った訳ではないけれど、
空フランベを見て
目の前のこと全てが真実だとは思わず常に横からも文字通り横の席からも見る目線も大切だなぁって思ったの!
キッチンが横から丸見えの席にたまたまその時座ってそう思ったわ!
世の中はハンバーグなの!って
これが世の中の縮図ね!って
巧妙に隠された空フライパンの空フランベ私は見逃しはしなかった。
もうさ空フランベのことで頭がいっぱいで
それが美味しさマックスであたかも正しいと言わんとばかりの肉汁演出。
私はもうちょっとギュッと肉汁も肉に留まらせておいて頬張ったらじゅわーって出るやつがいいのよ!
だからお皿でそれを受け止めたとしても、
旨味がお皿に流れ出てるんじゃね?って
ちょっとお行儀が悪いと言えば悪いけど
お陰でお皿はピッカピカよ!
立つハンバーグ跡を濁さず、
まさにそれね。
どちらかというとあんまり肉汁溢れ演出は過剰だと思う今日この頃。
ハンバーグ屋さんとは言わずL字型の横からカウンターが見える丸見えの席があればそこがオススメかも知れないわね世の中を覗くことができるわ。
少なくとも肉汁直撃よ!
うふふ。
朝から元気いっぱいよ。
昨日からこしらえておいたのよ。
鍋で使う具材の大根をピーラーでしゅーっとスライスして量はまあお好みで、
全部適宜かよ!って思われるけど
まあだいたいでいいわ。
大根のほんのりした甘みとレモンの爽やかな酸味が意外な相性の良さを発揮しまくりまくりまくりすてぃーよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
以下、よくあるオチのない話。
6年以上続けたソシャゲを消した。
タイトルローンチからほぼ毎日ログボ回収とイベント周回して無償石を貯める「あくまでもゲームは暇つぶし」スタイル。
貯まった石はここぞという環境キャラのガチャに突っ込んでは一時的に上位ランキングに入り込んで、翌月には課金勢御用達の隙無しつよつよパーティを編成できずズルズルと後退。
勝てば嬉しいけどそこまで執着もしてなかった。
効率厨なので仕事中とか映画館とかスマホさわれない状況でも自動周回とかしてて、無駄なくスタミナ使うことを常にどこかで考えてた。
辞めた理由が微妙に言語化しにくくて、近いのは「疲れた」なんだけど、どちらかというと「辞めたら疲れなくなった」という方が近く、意思決定後のポジティブな生活の変化に驚いている。
きっかけはちょっとログボ回収やら周回やらが厳しいスケジュールだったので、えいやーで2、3日放置しただけ。
やってる時は自動周回で「何もしてない時間も効率的に!」とか思ってたけど、意識のリソースって確実に食われて日々のパフォーマンスに影響してるんだなとぼんやり実感した今日この頃。