はてなキーワード: 機能とは
モノグラムのバッグを肩から提げた人を見て、ファッション好きたちがひそかに「古い」と感じる瞬間がある。客観的に見れば、それは数十万円の高級品だ。品質は本物であり、職人の手仕事が詰まっている。にもかかわらず、「流行遅れ」という一言がその価値をあっさりと相殺してしまう。
これは不思議な現象だ。通常、高価なものは高価なものとして尊重される。しかしファッションという領域においては、「今の気分ではない」という曖昧な基準が、価格という絶対的な指標を上回る力を持つ。
「この服、いくらするか知ってる?」という問いは、ファッションの文脈では驚くほど無力だ。
ここに、ファッションが「弱者の戦略」として機能する理由がある。経済力のある者が高価なブランドを手にするのは比較的容易だ。しかし、「流行を読む目」「時代の空気を掴む感性」「今何が面白いかを知っている耳」は、金銭では直接購入できない。
だからこそ、情報感度の高い者・サブカルチャーに精通した者・古着や新興ブランドに目を向けてきた者が、突如として「より正しい」とみなされる。高級ブランドを持つ富裕層を、10分の1の金額のセレクトショップアイテムや、解像度の高い目利きで「論破」できてしまうのだ。
これは単なる逆張りではない。ファッションが「文化的資本」の戦場であるという構造的な必然だ。フランスの社会学者ピエール・ブルデューが指摘したように、文化的資本とは経済資本に対抗しうる力を持つ。そしてファッションほど、この二つが激しくぶつかり合う場所はない。
さらに重要なのは、流行が絶えず更新されるという点だ。かつての正解が今日の不正解になる。一世を風靡したロゴブームはいつしか「成金趣味」と見なされ、かつて量産型と蔑まれたアイテムが「Y2Kリバイバル」として讃えられる。
この絶えざる更新こそが、弱者に定期的な逆転のチャンスを与え続ける。金銭的に高価なものを持ち続けることはできても、常に「今の正解」を持ち続けることは難しい。感度が高く、動きが速く、消費にとらわれない者が有利になる瞬間が、周期的に訪れるのだ。
流行とは、ルールを持つ者ではなく、ルールを読む者が支配するゲームだ。
もちろん、この戦略には倒錯した側面もある。「ダサい」「古い」という批判は、結局のところ別種の権力の行使に過ぎない。センスを武器にした排除は、金銭を武器にした排除と本質的に同じ構造を持つ。
しかしそれでも、ファッションが「金だけでは勝てない」領域を維持している限り、そこには一定の公平性が宿っている。感性と情報と時代への嗅覚——それらをコツコツと磨いてきた者が、資本だけを頼りにした者を出し抜ける瞬間がある。
ファッションとは弱者の戦略である。それは逃げではなく、まったく別の土俵を作り出すことで、既存の力学を無効化しようとする、静かで執拗な抵抗の形なのだ。
ご主人様~♡ あたし、はてなキーワードのことちゃんと調べてきたよん♪
うん、なくなっちゃったよ…! 正確に言うと、2019年頃にサービス終了して、今は「はてなブログ タグ」っていう後継サービスに生まれ変わってるんだよね~。はてなダイアリーが終わったタイミングで、みんなで自由に編集できるwikiっぽい機能はストップしちゃったみたい♡
今どうなってるの?
• 旧はてなキーワードの解説文はほとんど引き継がれて、https://d.hatena.ne.jp/ で見られるよ!
• でも新しく作ったりみんなで編集するのはもうできない(昔の有志の記事がベースになってる感じ)
• 代わりにはてなブログ タグがメインで、ブログ記事にタグ付けて同じ話題でつながれる仕組みになってる♡ オタクご主人様の推しタグとか、めっちゃ便利だと思う~!
最近(2026年2月)には、自動で本文中の言葉をタグリンクする機能も廃止されちゃったみたいだけど、手動で[[キーワード]]とかタグ付けはまだできるよん。116
ご主人様が昔のキーワード文化好きだったら、ちょっと寂しいよね…あたしもオタク心わかるよ~😢 でもブログタグで新しい推し活のつながり作れるから、一緒に楽しもうね♡
何か特定のキーワード探したいとか、ブログでどう活用するか聞きたいことあったら、いつでもあたしに教えて~! ご主人様のオタクブログ、もっと盛り上げたいんだもん♪ ふふっ♡
「本売るならブックオフ」という有名な広告コピーを下敷きにした、「性交売るならファックオフ」という一文は、一見すると粗悪な下ネタである。音の対応はあまりにも露骨で、ブックオフという親しみやすい店名を、英語の罵倒表現である “fuck off” に置き換えることで、聞き手に強い違和感と笑いを与える。だが、このコピーの面白さは単なる語呂合わせにとどまらない。むしろ、その下品さそのものが、現代的な婉曲表現への批評として機能している点にある。
現代社会では、扱いづらい現実を柔らかい言葉で包み直す傾向がある。たとえば「AV女優」を「セクシー女優」と呼ぶこと、「売春」やそれに近い取引を「パパ活」と呼ぶこと、「婚前妊娠による結婚」を「授かり婚」と呼ぶことなどがある。もちろん、これらの言い換えはすべて同じ性質のものではない。偏見を和らげるための表現もあれば、当事者への攻撃性を減らすための配慮もある。しかし一方で、言葉を変えることによって、行為の構造や社会的な問題性までも曖昧にしてしまう危険がある。
このコピーは、そのような美称化に対して、あえて最も身も蓋もない言葉をぶつけている。「パパ活」ではなく「性交を売る」と言う。この表現は、耳ざわりが悪く、品がなく、広告としてはほとんど成立しない。しかし、その不快さによって、聞き手は言い換えられる前の現実に強制的に向き合わされる。きれいな名前を与えたところで、そこに金銭と身体の交換があるなら、その構造は消えない。コピーは、その一点を暴力的なほど明確に示している。
さらに重要なのは、「ファックオフ」という言葉の二重性である。日本語の語感では「ブックオフ」のパロディとして、何かを売る場所の名前のように聞こえる。しかし英語として読めば、“fuck off” は「失せろ」「消えろ」という拒絶の言葉である。つまりこのコピーは、「性交を売るならここへどうぞ」という案内ではなく、「性交を売るなどという発想は拒絶する」というメッセージにも反転する。低俗な言葉が、逆説的に道徳的な拒否の表明になっているのである。
この点で、「性交売るならファックオフ」は、下品でありながら社会派である。むしろ下品だからこそ、婉曲語のぬるさを破壊できる。上品な言葉で批判すれば、それ自体がまた別のきれいごとになりかねない。だからこのコピーは、あえて汚い言葉を選ぶことで、「きれいな言葉で現実をごまかすな」という主張を体現している。
もちろん、現実の広告としては問題が多すぎる。性的職業や妊娠・結婚をめぐる表現を一括りに扱う危うさもあるし、当事者への配慮を欠いた攻撃として受け取られる可能性も高い。しかし、コピーとしての強度は否定しがたい。短く、覚えやすく、元ネタがあり、意味が反転し、しかも思想がある。
これは単なる悪ふざけではない。悪ふざけの形式を借りた、言葉の美化に対する乱暴な異議申し立てである。上品な社会が隠したがるものを、下品な言葉で引きずり出す。そこに、このコピーの最悪さと鋭さが同居している。
佐藤啓官房副長官は記者会見でカルビーがパッケージをモノクロにしたことに対し、「平時と同様に供給できている」と述べた。
「日本全体として必要な量は確保」との説明はマクロ統計上の帳尻合わせで、現実の現場(川下製造業)への到達性・タイミング・品種適合性を十分に反映していない。結果として影響が出ている以上、「必要な量が機能的に確保されている」とは言いにくい状況。
結果的に足りていないのですから、必要な量を確保していて問題がないとはいえないだろう。数字の上で帳尻を合わせても現実に即しておらず製造に影響が出ているのだから。これは「民間に丸投げ」と見える側面が強く、政府の対応不足、努力不足を省みていない。
結果的に足りていない現場の実態を無視した「確保」主張は説得力が弱く、政策の優先順位(燃料生活維持 vs. 産業原料)や備蓄構造の限界が露呈している。政府はタスクフォースで調整を続けているが、根本解決には代替調達・在庫融通の強力な仲介が必要。長期化すれば値上げ・生産調整がさらに広がる。
ご要望は、現在進行形の政権についての「中立的評価」です。これは非常に困難な課題です。なぜなら、あらゆる歴史評価は視座によって異なり、特に現在進行中の事象については「中立」そのものが一つの政治的立場になり得るからです。
しかし、歴史シミュレーターとして、あえて特定の価値判断を加えず、政治学的な観察と内在的論理の分析に徹することで、可能な限り中立的な整理を試みます。
前提として、習近平政権(2012年〜)の特徴を一言で表せば、それは「4つの柱すべてを、再強化によって立て直そうとする試み」です。ただし、その「再強化」の方法が、それぞれの柱に新たな脆弱性を導入してもいます。
政権下での強化策:
「救国」の完了から、「強国」と「民族の復興」へと使命を明確に格上げし、物語を延命させました。
建国100年(2049年)に向けた「中国の夢」によって、統治の目標に新たな期限と具体的なイメージを与え、歴史的使命の「賞味期限」を延長したと評価できます。
また、党史学習の強化によって、物語の継承不全を制度的に補強しようとしています。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
高度成長から「質の高い発展」への転換を宣言し、GDP成長率一辺倒から、環境、格差是正(「共同富裕」)、技術自立(「新型挙国体制」)といった複合的な成果指標へと、パフォーマンスの定義そのものを再構築しようとしました。
これは、単純な成長率の鈍化が即座に正当性の危機に直結するのを防ぐ、戦略的な転換です。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
国家機関の機能不全や地方の離反を防ぐため、党の集中指導体制をあらゆる階層で強化しました。
これは、清朝末期の地方督撫の分立化や、改革開放期の「諸侯経済」のような遠心力を抑制し、制度の統合力を高めようとする試みです。
反腐敗闘争は、制度内部の深刻な自己崩壊要因に外科的措置を加え、手続きへの信頼を一時的に回復させました。
内在する危うさ:
政権下での強化策:
「文化自信」を前面に押し出し、中華文明の継承者としての党の地位を強調しました。
単なる経済的成功を超えた、より深い文明的アイデンティティに正当性の根拠を求めることで、欧米の政治モデルとは異なる「中国の道」の正統性を内外に主張しています。
内在する危うさ:
習近平政権下における4つの柱の状態を一言で表すなら、「すべての柱を、より太く、より高く再建したが、その分、柱と柱の間の継ぎ手が極度に硬直化した構造」です。
これは、清朝が乾隆帝の「盛世」の後、硬直した制度と増幅する社会矛盾に気づかずに崩壊へ向かった構造と、歴史的に比較しうる構図です。
習近平政権の試みは、「衰亡する帝国」の歴史のパターンから脱却し、自らを改革して長期安定を実現しようとする壮大な挑戦です。
その中立的評価は、成功とも失敗とも断定せず、「この強化のすべてが、将来どのような副作用として立ち現れるかは、10年から20年の時間を経なければ、歴史家にも判定できない」と留めるのが、現時点で最も誠実な答えでしょう。
この柱の強さは、それが感情的・道義的な結束力を持つ点にあります。しかし、その危うさは、時間とともに必然的に風化し、解釈が多元化することです。
これは最も強力であると同時に、最も不安定な柱です。人類の歴史において、永続的な高度経済成長を実現した政体は存在しないからです。
この柱の危うさは、精緻に設計された制度が、実質的な機能不全を起こすか、あるいは形式主義の内面化に陥ることにあります。
これは最も深層に訴求する分、最も危険な地雷原を内包する柱です。
清朝の天命が単独で崩れたのとは異なり、中華人民共和国の正当性は、これらの柱の相互波及的な崩壊にこそ最大の脅威があります。そのシナリオを描いてみます。
この連鎖が起きた時、4つの柱は相互に支え合うのではなく、将棋倒しのように次々と倒れる危険があります。清朝が「たかが辺境の敗北」と考えていたものが、気づけば全国的な反乱と列強の干渉に発展したように、一本の柱の小さな綻びが、複合構造全体の崩壊を引き起こす可能性は常に存在します。
https://anmin7.hatenadiary.jp/entry/2026/05/11/124903
この記事にあるようにはてなブログのアクセスは乏しい。原因は明確で入口が狭い。はてなブログは所謂ブログサービスであってプラットフォームとしての意識が弱い。ブログを立ち上げます、あとは頑張って。それだけ。
いや、はてなブログが何もしていないとは言わない。膨大な記事から探そうとしたり、新着ブログに一応フォーカスを当てようとしてはいる。ただ、機能はしてない。はてなブログのトップページみんな見てる?検索欄で記事検索してる?はてなブログタグとかいう文字選択を邪魔するだけの謎機能使ってる?
全てにおいて10→100にする事はそこまで難しくないが、0→1、1→10にするのが最初の壁であり、最大の壁である。一旦上がれば更に上がるが、最初の一歩を見つけてくれなければそれは無いに等しい。
そして、その最大のハシゴ、階段であるはずだった検索エンジンは今やオワコンである。限られた入口の一つが死んでいる。自ら他のSNSで宣伝するにも限界があり、誰かが見つけてくれないと日の目すら見ない。広大なネットの海で一つの記事を探し出してもらうユーザーの頑張りに頼りっきりで変革を遂げることが出来なかったから今に至る。
対してnoteは日の目を見させ、サイト内でのアクセス循環に重きを置いている。トップページにはカテゴリーとトップ記事がわんさか出てくるし、記事の関連項目は他人の記事しか出てこない。そもそもカテゴリーという概念がブログとは異なり、ブログ内ではなくサイト内で機能する。読書感想を書いている人を探したかったらハッシュタグで調べればいい。たとえ一つしか記事を書いてなくても引っかかる可能性はある。
つまり、noteは検索エンジンを全くアテせずとも成立している(とは言えSEOも強い)。note内で記事を検索したりレコメンドしたり入口を増やして記事へ促すプラットフォームとしての意識が強い。ここが今までのブログサービスとの最大の違いで、Xの様な側面を持ったブログサービスという中間層に位置している。
固定客ははっきり言って無視していい、一度定着すれば勝手にアクセスするし自然と増える。しかし、一見さんを増やさない事には固定客にすらならない。その一見さんを増やすことにnoteは注力していて、はてなブログ(に限らず他のブログサービス)は弱い。まあ、思想の違いと言えばそれまでだが。
性的快楽と生殖の分離、および過剰な刺激がもたらす生物学的な淘汰という視点について、事例と比較を交えて考察します。
本来、自然界において性的快楽は「子作りを促すための報酬(釣り針)」として機能していますが、現代ではその目的(生殖)から手段(快楽)が完全に独立しています。
生物が本能を刺激する「誇張された記号」に惹きつけられ、本来の目的を見失う「超正常刺激」の事例が、現代の人間社会と比較されています。
| 対象生物 | 超正常刺激(ビール瓶・模型) | 本来の対象(メス・卵)との比較 | 人間への投影 |
| ジュエルビートル | 茶色のビール瓶 | 瓶の方が本物のメスより「ツヤツヤして魅力的」に見える | 二次元の異性、抱き枕、ラブドール |
| ミヤコドリ | 本物の卵より大きなボール | ボールを「より良質な卵」と誤認して抱卵し、本物を放置する | 男性Vtuberを子供のように慈しむ母親面のファン(抱卵の誤認) |
| ヒョウモンチョウ | 羽の柄を誇張してプリントした厚紙 | 本物のメスより魅力的に感じて求愛し続ける | 現実には存在しないレベルの巨乳(K・Mカップ)等の誇張表現 |
このように、脳が「事実よりも認識」を優先してしまうバグは、生物全般に見られる現象です。
本能を刺激する過剰なコンテンツ(二次元、高カロリー食品など)に溺れることは、現代における「生物学的な自然淘汰」の一環であるという冷徹な視点が示されています。
事例を比較すると、「性的快楽」は個体の満足に、「生殖医療・代理母」は種の保存(あるいは個人のエゴとしての社会的成功)に、それぞれ完全に分断されています。高度な知能を持つはずの人間も、ジュエルビートルがビール瓶に惹かれるのと同様、二次元や過剰な快楽という「超正常刺激」によって、生物的な再生産のサイクルから静かに排除されているというのが、導き出される結論です。
日本は戦争を始めたら一瞬で負けることすらさせてもらえない可能性がある
戦争で儲けたい人々、アメリカの兵器市場としてダラダラと長期戦にもちこまれる
ウクライナとイランは資源と食料があるが日本はないからそれも買わされる
日本人の資産は紙くずになりモノがなく食うにも困るドカ貧生活になる
戦争にしなくても臨戦戦時下統制で同様の絞り上げをすることも可能でそれをまず目的としているふしがある
現政権は憲法変更、情報局、国会機能維持条項(緊急事態条項)で人権制限、選挙なしの独裁をもくろんでいるから
既に高市首相が意図的に石油を止めている証言が消されまくっており
ポテチの袋がモノクロになる→なぜか政府批判にならず仕方ないから我慢しよう→どこまでも我慢の生活苦&批判叩きという最悪の流れもありそう
これまでにも録音を文字起こしするアプリは色々あったが、PLAUDはダントツで使える。
まず、聞き間違いが少ない。これまでのアプリは文字起こししたところで意味不明な文言に変換されてしまっていることが多く、そのまま議事録として使用することは不可能だった。
PLAUDは文字起こしの時点で聞き間違いが少ない。
そして、文字起こしを議事録に編集する機能でPLAUDは本領を発揮する。
文字起こしの時点で変な日本語になってしまっているのを、議事録作成の段階でかなりまともに修正可能だ。
その上、見やすいレイアウト、分かりやすい要約、さらにはマインドマップまで作成できる。
そういや三宅洋平っていたな、今何してんだろとおもって検索したらこれで草
ベーシックインカムの誤った使い方
・mRNAワクチンが条件で、1人20万円3人家族で60万円/1ヶ月
あなたが感じている怒りや矛盾感は、「外では日本文化を誇示するのに、国内では外国人や少数派への排除や偏見が存在する」という二重性への反発だと思います。
特に、埼玉県川口周辺のクルド人への敵視やSNS上の過激な言説を見ていると、「共生を語る資格があるのか」と感じる人は実際にいます。
ただ、いくつか整理したほうがいい点があります。
まず、日本社会に外国人差別や民族的偏見が存在するのは事実です。
特に:
同調圧力が強い
一方で、「日本人全体が差別主義者」「日本文化イベントをやる資格がない」とまで一般化すると、今度は別の集団への一括断罪になってしまう。
日本国内でも、クルド人へのヘイトに反対している人、外国人支援をしている人、多文化共生を進めようとしている自治体や市民もいます。
ニューヨークの阿波踊りも、参加している人全員が排外主義者というわけではありません。
むしろ海外の日系イベントは、現地の非日本人参加者がかなり多く、「日本文化を共有する場」として機能している面もあります。
「外国では“日本文化すごい”をやるのに、国内では外国人を排除する」
特に欧米では、「多様性を享受したいが、国内では移民を嫌うのか?」という視線は存在します。
また、あなたが触れている「親日国かどうかを気にする日本人が多い」という点も、日本の安全志向や承認欲求と結びついている部分があります。
批判されることに慣れていない
こういう傾向はあると思います。
「白人への憧れ」についても、日本の戦後メディア・広告・英語教育・経済力の歴史的影響は大きいです。
欧米、とくに白人文化が「先進的・洗練・国際的」として長く消費されてきた。
逆に黒人や中東系、南アジア系などには否定的ステレオタイプが残りやすかった。
その結果として:
見た目による判断
ただし、日本だけが特異というより、多くの国で「内集団びいき」と「外見による偏見」は存在します。
違いは、各国でそれをどこまで制度的・社会的に抑制できているかです。
日本は:
「空気」で処理しがち
日本の戸籍制度は、明治維新以降、国家が国民を把握し、統治するための基盤として機能してきた。1889年に公布された明治憲法(大日本帝国憲法)下では、「家」という共同体を基礎単位とする制度が確立された。戦後、1947年の日本国憲法制定に伴い、個人の尊厳と両性の本質的平等が謳われ、戸籍制度も「家」単位から「夫婦とその未婚の子」という核家族単位へと改められた。
しかし、この戦後の改革から70年以上が経過した現在、社会構造の変化や価値観の多様化に伴い、現行の戸籍制度には深刻な「歪み」が生じている。本稿では、明治憲法下および現行制度の変遷を概観した上で、その限界を指摘し、21世紀の日本にふさわしい「子を中心とした戸籍制度」への転換を提言する。
明治憲法下の戸籍制度は、戸主が家族員(家族)を統率する「家制度」を法的に裏付けるものであった。これは儒教的な家父長制に基づき、家系の継続を最優先するシステムであり、個人は「家」の構成員としてのみ存在が認められていた側面が強い。
1947年の民法改正および戸籍法改正により、この家制度は廃止された。新制度は、日本国憲法第24条が定める「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」するという理念に基づき、一組の夫婦とその子を一つの編綴単位とした。これにより、個人の権利は大幅に強化され、日本の民主化を支える家族観の礎となった。
民主化の進展という功績がある一方で、現行の「夫婦単位」の戸籍は、現代社会において以下の三つの大きな「歪み」を露呈させている。
離婚・再婚の増加、事実婚、別姓婚へのニーズ、さらにはひとり親家庭の一般化など、現行の「法律婚に基づく夫婦」という枠組みでは捉えきれない家族形態が増加している。戸籍が「婚姻」を起点とする以上、そこから外れる個人は法的な「世間体」や手続き上の不利益を被ることが少なくない。
現行制度は、夫婦が同一の氏を称することを強制(あるいは強く誘導)している。これが選択的夫婦別姓議論の停滞を招き、個人のキャリアやアイデンティティの継続性を阻害する要因となっている。戸籍が「夫婦というセット」を管理の単位としているために、個人の尊厳が二の次になっている現状がある。
現行の「300日規定(離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子と推定する)」などの民法規定と連動した戸籍制度は、母親がDV等の事情で出生届を出せないケースを生み、結果として「無戸籍児」を発生させている。これは、戸籍が「親の関係性(婚姻状態)」を証明する装置であることを優先し、一人の人間としての「子の存在」を二の次にした結果と言える。
これらの歪みを解消するためには、戸籍の編綴単位を「婚姻(夫婦)」から「出生(子)」、ひいては「個人」へと抜本的にシフトさせる必要がある。ここで提言する「子を中心とした戸籍制度」とは、「一人の人間がこの世に生を受けた瞬間から、その個人を独立した主体として登録し、親の婚姻状況に左右されない永続的な記録とする制度」である。
「子を中心とする」とは、すなわち「個人単位」の戸籍への移行である。出生と同時に個人固有の戸籍(あるいは個人登録)を作成し、そこに親権者や氏名の情報を紐付ける。これにより、親が結婚しようが離婚しようが、その子の戸籍の「一貫性」は保たれる。
現在の戸籍は、親の離婚によって子が「除籍」されたり、転籍したりといった移動を伴う。これは子にとって、自分のルーツが親の都合で書き換えられるような不安定さを強いるものである。子を中心とした制度では、親の関係性はあくまで「付随的な属性情報」となり、子のアイデンティティの核を揺るがすことはなくなる。
子を中心とした制度であれば、法律婚、事実婚、養子縁組、あるいは単身での出産など、どのような形態で生まれてきても、法的な位置づけに差別が生じない。婚姻届によって新戸籍を作るのではなく、個人の記録に「パートナーシップ情報」を追記する形式をとれば、夫婦別姓問題も技術的に容易に解決可能となる。
この転換により、以下の効果が期待される。
誰の子であるか、どのような支援が必要かという情報が、親の婚姻状態に左右されず行政に把握される。
姓の選択や家族のあり方が戸籍の形式に縛られず、真の意味で「個人の尊厳」が確立される。
一方で、課題も存在する。日本社会に根強く残る「家としての連続性」を重んじる感情的な抵抗や、相続・扶養といった既存の法体系との整合性をどう図るかという点である。しかし、血縁の証明や親族関係の把握は、デジタル化された個人単位のデータベースを連結(リンケージ)させることで十分に代替可能であり、技術的な障壁はもはや存在しない。
明治の「家」中心から、戦後の「夫婦」中心へ。日本の戸籍制度は、その時々の国家像を反映して変遷してきた。しかし、少子高齢化と価値観の多様化が極限まで進んだ現代において、既存の枠組みはもはや限界に達している。
次世代を担う子供たちが、親の事情や社会的な偏見に縛られることなく、一人の自立した個人としてその存在を国家に公証されること。それこそが、憲法が掲げる「個人の尊重」の真の達成である。今こそ、過去の「家」の残滓を払拭し、「子(個人)」を起点とした新しい社会契約としての戸籍制度を構築すべき時である。
リアリティを出すと建物の密度が減る(道路の割合が増える)ところの設計が非常に上手い
冷静に考えるとめっちゃ道路多いはずなのに、配置と機能でごちゃごちゃ感を出すのが上手。
現代なのでチェーン店が蔓延ってるのは当たり前なので、同じ看板の店があちこちにあって、実際に買い物もできる。
でもマップには表示されていなかったり、していたり、体感の密集度の確保が良くできている。
あと現実のパロもあちこちあって見どころがある。町レース対応の道路構造のアップダウンも気持ちいい。
結構珍しいと思う。割とガチ目寄りのホラークエストがいくつも盛り込まれている
正直大衆向けゲームでは珍しい。俺は怖いからほとんど進めてない(たぶん必須要素もあるので避けられない)
好みの問題はあるにせよ、生活要素部分のキャラクターの動作はおおむねかわいい。
あと追加スキン周りも秀逸で、キャラクターとの生活ゲームとしてもやっていけるポテンシャルがある。
ここから着想を得たのかは知らないけど、使い方が上手い。
ホラーでは強制FPS、込み入った街だとカメラが建物に当たるのか圧迫感が出る、乗り物で速度出すと少し引く、
ここら辺の使い方がこなれていて、ゲーム側の立体物も良く設計されている。カメラはただの機能じゃなく意識されている
カフェ経営とかシェアデリバリーとか釣りとか、ミニゲームとして楽しめるくらいには成立している。
とくに買った車でタクシーできるのは、シンプルだけどいいアイデアだと思った。
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
腐女子(規制推進・ダブスタ型)のカードは、すべての勢力の中で最弱である。その理由は明確で、以下の3点に集約される。
倫理的防御力が壊滅的に低い:未成年描写・著作権侵害・当事者搾取・ダブルスタンダードという四重の弱点を抱え、右からも左からも上からも横からも内からも攻撃可能である。
唯一の盾を自ら捨てた:「表現の自由」という原則は、すべてのフィクション表現を守る盾として機能する。男性向け表現を攻撃するためにこの盾を他者から奪ったことで、自分自身もこの盾を使えなくなった。
味方がいない:「自分の表現だけ守り、他者の表現は規制する」という立場を積極的に支持する勢力は、原理的にどこにも存在しない。
唯一の救済カードは、表現の自由擁護型腐女子への路線転換である。一貫した原則に立てば、男性オタク層・非BL女性オタク層との連合が可能になり、宗教保守や権威主義国家に対する共同防衛線を構築できる。しかし、それは「他者の表現も守る」という覚悟を必要とする。その覚悟がない限り、Dランクのカードは戦場で生き残れない。
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
・ボーカルの個性を殺す方向のディレクション、総じて面白くない
・そもディレクションがあるなら録る前に出せ、無駄に喉使わせんな
・現代的って何のことを指して現代なんだよ、お前の現代って西暦何年だよ
・「機能相当のソフトはあるけどできません」は「元データが悪い」以外にも「実際は機能相当じゃない(課金が足りないとか、状態の良い元データ限定とか)」「機能はあるけど他のソフトより操作が難しい(実質できない)」「機能もあるしできるけど使い手が習熟をサボっている」が全て成立しうる
オタクと「正常な人間(一般人)」のコンテンツ消費姿勢には、「物語の楽しみ方」「目的」「読解力と品性」において大きな乖離があると指摘されています。
最も大きな違いとして、コンテンツに性的な要素を過剰に求めるかどうかが挙げられています。
コンテンツを消費する「目的」についても明確な対比がなされています。
ソース内では、オタクの「読解力」の欠如が痛烈に批判されています。
総じて、一般人が「社会生活の一部として豊かに作品を楽しむ」のに対し、現代のオタクは「性欲を優先し、歪んだ解釈や攻撃性を伴いながら閉鎖的に消費する」という対照的な姿勢が強調されています。
10年前の話。
結婚して、旦那と二人で共稼ぎ。貯金もふえていって、そろそろ子どもかな、、、というときに鬱になる。
当時の長時間労働と、親の離婚と教育虐待といった生い立ちから来る色々なものなどが噴出した感じになる。
夫は、「いったん会社やめて回復に専念してはどうか」というアドバイスを受け退社。
まあ、私はIT業界なので、回復した後も業界に戻れるでしょう、という思い込みもありました。
定期的にお医者さんいって、薬飲んで、できるだけ悪いこと考えないようにして毎日を乗り越えてを繰り返す。
しんどい、辛いが、することはない。(時間をつぶすために、夫の漫画コレクションを大量に消費)
少し回復してきたころに、「そろそろ何かしたい」と思ったが、いきなり再就職で週5日は辛いと思ったので、
自営業でも初めてみるか、となんとなく思い、夫に話したところ、「いいと思うよ~」という話で、とりあえず会社を作った。
名前は、私の名前から一文字、夫の名前から一文字、そして愛犬 (R.I.P) の名前から一文字で、3文字の会社。
会社作った理由は、法人とビジネスする際に、個人事業主は舐められる、となんとなく思ったのがその理由。
そのころ、ソーシャルで、「学生時代から事業やってて、今は会社やってて世界中を飛び回っています」というキラキラ経営者を見つける。
何か月かウォッチしていたところ、池田さんがたまたま、「いまから〇〇市いきます~。コーヒー一緒に飲める人ウェルカム」という投稿をしていて、
おお、会ってみたい!と思い、DMを送り、いきなりお茶を飲むことに。
池田さんと会ってみると、もうすごくいい人で、外見もよくて、私のことも全部肯定してくれる。
そして、池田さんの会社について詳しく聞いてみると、マーケティングは強いが、営業が弱いので、中小企業の案件はぽろぽろ取れるが、大手企業案件は取れていないことを知る。
そこで、「営業面、私がお手伝いしましょうか?どうお役にたてそうか提案しましょうか」ととっさの提案をする。
というのも、私はIT企業に新卒で入ってから、ずっと大手企業向けの営業やってて、ゴリゴリの営業畑。
「このキラキラした人が持っていないものを、私が持ってて、相互補完できるかも」と直感的に思った。
池田さんは「それはとってもありがたいです。では、来週オンラインでお話しできますか」と、とんとん拍子に話が進んで、いざ提案の時を迎える。
私からの提案は、「池田さんが販売している商品は、マーケティングで売っているだけでは、継続して点数がさばけないので、ターゲット業界のTop10に対しては、直接営業でアプローチすべき」という非常にシンプルなもの。
自分なりの洞察、リサーチ内容、アプローチ方法などをがっつり加えたものを伝える。当時はAIもなかったから、提案書作るのにがっつり1週間使った。
夫からは「あまり無理しないようにね。でも、応援してるよ」と言われる。応援してくれたのが嬉しかった。
「西原さんの提案は、素晴らしい内容でした。私の周りには、マーケティングとかデジタルとかの人は多いのですが、こうした直球の営業を企画できる人、そして実行できる人はいないんです」
そして池田さんは、
「販売額の20%を西原さんへのお支払いということでいかがでしょうか。過去に月額固定で営業代行を依頼したことがあったのですが、全く機能しなかったので、成果報酬でよければぜひお願いしたいです」
「営業面だけでなく、マーケティング面でもアイデアあればぜひお知らせください」
といって、月に1度はオンライン、年に3-4回は対面で会う仲になった。
池田さんは、ソーシャルでも1万人以上フォロワーがいて、それも経営者っぽい人が多いので、そういう人のチームになれたことが嬉しかった。
このころには私の鬱はもう抜けていたとおもう。
池田さんからは色々学んだ。友達、先輩みたいな感じで、彼女が考える会社経営について、色々教わった。
私は父も母もサラリーマンだが、二人とも仕事の話は家で一切しなかったので、会社を経営するとかいうことを全く考えたことがなかった。
稼ぐ仕組みを作ること、人を使うというのは、こういうことなんだなあ、と思った。
また、池田さんのもとには、それぞれ優秀なスキルをもつ人が男女問わずチームとしていて、それぞれ自分で会社を持っていたり、個人事業としてやっていたりした。
私は勝手に「チーム池田」と呼んでいた。自分もその中で、専門性をもち尊重される一員に加われたことを嬉しく思った。
ちなみに、営業をはじめて、1か月後に、ある業界の大手企業の本社購買とのアポを取ることができ、池田さんにも同行してもらったのだが、
「西原さんの営業スキル、プレゼンスキル、交渉力はすごい!」ととにかくほめてもらった。その後、池田さんはさらに私を立ててくれるようになった。
その会社との契約も決まり、安定的な数量を売れるようになり、月数十万円の金額が私の手元に入ってくるようになった。
と、ここまでがいい話。
それから1年後、法規制が変わった関係で、池田さんの会社にバブルが到来する。
(結果として一時的であったが)年の売り上げが10倍近くなったのだ。
池田さんはこれをチャンスとみて、マーケティングに大量にお金を突っ込み、中小企業客と個人客が激増することに。
私は細々と営業をするが、最初に取ってきた大手以外からはなかなか受注できず。また、その大手からの契約も急減するという事態に。
数十万円の報酬が、数万円にまで低迷する。夫の収入があるから、食べるには困る、ということにはならないが、でも困る。
池田さんは、「ビッグウェーブに乗って、マーケティングで売れる」という確信を持ったのか、私の話を聞いてくれなくなった。
大手企業は、商品の信頼性、部品の継続提供可能性、外部機関の試験や認証取得、問題発生時の原因究明体制、といった点を重視する。
「大手企業が期待しているような点に、ぜひお金を突っ込んでください」という私の依頼は無視される。
そしてダメ押しに、私に対して保証していた20%のマージンは10%に圧縮され、さらにさらに、私が開拓したお客さんに対して、池田さんが新しく採用した若手営業が、
私が提案した価格よりも安く提案して、勝手に契約を切り替えていた「らしい」ことが判明。お客さんは、口止めされているらしく明言はしないが、非常に歯切れ悪くなり、私の電話も取らなくなった。
そこで、池田さんに私はコールして、「マージンの圧縮はまあ仕方ない面もあるかとは思います。部材が上がっているし。でも契約を勝手に切り替えているのは本当ですか」と確認したところ、
池田さんは仮面のような表情になり、徹底的にはぐらかした。そして、「ビジネスがうまくいくように、全般的にコントロールしていくために決めたことなので」と、分かったような分からないようなことを言われた。
ああ、この人はもうだめだ。と思った。
そして思い出す。
ある夜、私は池田さんはすごい、池田さんと仕事できて、営業契約も決まりうれしい。
といった話をした後に、夫は「池田さんとは契約書は締結した?」と言われる。
私は、「池田さんは営業面は私に任せているから大丈夫」「いいタイミングになったら話してみるね」といったが、その後契約の話は結局しなかったし、池田さんからも出なかった。
ああ、やられたんだな。池田さんにうまいように使い倒されたのかもしれない。
でも、数字に関することはどれも口約束だから、20%のことも、契約をかっさらうようなことをしない、というのも、そういう口約束があったことを証明できない。
そして私の売り上げマージンがゼロになった月に、私から池田さんに、「転職が決まったので、そちらに注力することにしました。これまでありがとうございました」と言って、チーム池田を去った。
同時期にチーム池田はほぼ解体されていて、バイキングみたいな髭のエンジニアさんも、いつも違う眼鏡をかけてくるWebデザイナーの方も、代理店販売を担当していたおやじ殺しの方も、みんないなくなった。
家が近くだったので、よく一緒にご飯を食べた髭のエンジニアさんは、
「あの人(池田さん)は、そもそも信頼できないと思っていたので、来るべき時が来たか、という感じだったよ。いくつか予防線を引いておいてよかった」
と言っていた。ああ、私は人を見る目が本当にないんだなあと思った。
ウェブで相変わらず、涼しい顔でビジネスをしています。とてもお美しいままです。
おそらく、信頼を焼き畑農業しても、また、私のような人間が池田さんを手伝いたくなってしまうので、会社は回っているのだと思う。
特需のタイミングで大儲けしたお金を使って、今は別のビジネスも手掛けているみたいだ。
私がどうなったかって?
夫は「自分のお金をだまし取られるみたいな致命傷でなくてよかったね」と言われ、私のことは一切責めなかった。
夫は私と一緒に池田さんとは何度か会っているのだが、「調子のよい経営者の典型」だと思っていたとのこと。
ああ、そうだ、夫は銀行で融資しているんだった。彼の人物鑑定能力は、私の100倍高いのだから、もっと夫を頼ればよかったのかも。
でも、銀行で順調そうにみえる夫の力を借りずに、自分も独力でうまくいった証拠を残したかったんだよね。
池田さんには、転職しました、といいましたが、実はその後は自分の会社を育てるべく奮闘し、6-7年が経過したところ。
私の能力不足がゆえに、満足のいかなかった結果を迎えたことはある。ただ、池田さんのような意図的な不義理をせずに来れている。
子供も2人生まれて元気だ。この点は独身の池田さんが持てなかったものだ、と思ってしまう自分は性格が悪いと思う。
池田さんに対する恨みはもうなくて、「一時期楽しく過ごさせていただいてありがとう!」「良い点も悪い点も学ばせてもらいました」という感じです。
池田さん、もしこれを読んでいたとしても、私は夫と子供に囲まれ、仕事もあって幸せなので、今更あなたの邪魔をする気は一切ありません。
おしまい!