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2025-02-26

空白を手に入れることに対するユダヤ教観点

Q: ある本で、聴覚的、情報的、内部的な静寂から空白を手に入れることの重要性が語られていましたが、これはユダヤ教から見ると何を意味するでしょうか?

AIちゃん

ユダヤ教視点から見ると、「静寂」や「空白(スペース)」は、精神的な成長、神とのつながり、そして真の理解のために非常に重要概念です。この考え方は、多くのユダヤ教伝統や教えに根ざしています

1. 静寂(シケット, שקט)と知恵

タルムードアボット 1:17)には、「賢者美徳沈黙である」とあります

これは、単に話さないことではなく、内面的な沈黙、つまり心の雑音を抑えることを指します。

日常生活では、情報や音に溢れており、私たち思考は絶え間なく動き続けています

しかし、真に大切なこと理解するには、内面的な静寂を作り出す必要があります

2. 「ミズヴァ・タセー」— 積極的な静寂

ユダヤ教には「しなければならない戒律(ミズヴァ・タセー, מצוות עשה)」と「してはならない戒律(ミズヴァ・ロー・タセー, מצוות לא תעשה)」の二種類があります

面白いことに、静寂は「何もしない」ように見えて、実は積極的行為でもあります

たとえば、「シェマー(שמע ישראל)」の祈りは、聞くことを強調しています

「シェマー」は「聞け」という意味ですが、ここには単に音を聞くだけでなく、心を静かにして神の声に耳を傾けるという深い意味が含まれています

3. シャバットと静寂の空白

ユダヤ教では、シャバット(שבת)は単なる「休息」ではなく、神聖な空白を作り出す時間です。

六日間の創造の後、神が「休んだ(ヴァヤナフ, וַיָּנַח)」とあるように、人間も週に一度、情報や雑音から距離を置き、精神的な静寂を持つことで神との関係を深めます

この空白の時間によって、私たち創造性や新しい視点を得ることができるのです。

4. カヴァナー(כוונה)— 内面的な集中

ユダヤ祈りには「カヴァナー(意図・集中)」が大切です。

心が雑音で満たされていると、祈りがただの言葉の羅列になってしまます

静寂を持つことで、本当に意味のある対話が神とできるのです。

ラビ・ナフマン・オブ・ブレスロフ(רבי נחמן מברסלב)は、しばしば「ヒットボーデドゥート(התבודדות, 孤独対話)」の実践を勧めました。

これは、自然の中で一人になり、静かに神と語り合うことです。この静寂こそが、魂を開き、神の導きを受け取る手助けをしてくれるのです。

5. 「無」の中に神を見る

カバラユダヤ神秘主義)では、「アイン(אין, 無)」という概念があります

これは「何もない」という意味ではなく、可能性を秘めた空白を指します。

まり世界騒音情報を少し抑えて「無」に近づくことで、逆に神の存在をより感じることができるのです。

まとめ

ユダヤ教視点から見ると、「聴覚的、情報的、内部的な静寂」から得られる空白は、神との関係を深め、自己理解を促し、真の知恵を得るための重要ツールです。

シャバット、シェマーの祈りカヴァナー、ヒットボーデドゥートなどの実践は、まさにこの「神聖な空白」を生み出すための方法と言えます

まり、静寂は「何もしない」のではなく、「すべてを受け取るための準備」なのです。😌✨

2025-02-20

anond:20250220140036

フェミニストってそれなりの組織なり武力なりを持って敵指導者暗殺してるよね

イラン検事総長殺害されたもんな

理想論やゴタクを聞かされるだけじゃ割に合わないもんなあ

女性自由にも厳しいが戒律も厳しい、酒が売れないイスラム教に対する牽制のためのフェミニズムからなあ

西洋文化ジャブジャブ屋の汚職儲け

バレバレなのにシラ切り通してよくヤッてるよな

女性のためなんかじゃないからねアレ

サントリー経団連が酒を売りたいだけ

そしてまた法曹が天下って、メチルアルコールを酒だ言って売るんだろうよ

2025-01-27

エホバの証人の母が孫の誕生日を祝った

自分小学生のころ、訪問してきたエホバの証人きっかけで母が入信してから生活ががらっと変わった。

輸血が有名だが、クリスマス暴力的スポーツ宗教行事禁止され、誕生日も祝ってはいけなくなった。

自分エホバの証人にはならなかったけど反発して高校卒業して家を出て働いた。大学も行ってはいけないとされたし。

で、結婚して子供が出来たけど、最初聖書の教えとか手紙で送ってきたか無視していた。会わせたのは生まれときの一度きり。

で、子供が先日6歳になったんだけど、誕生日祝いの小遣いとお年玉が送られてきて愕然とした。じゃあいったいなんだったんだと。

これがエホバの証人の嫌いなところ。

昔、子供は厳しく教えるべきだと折檻をすることが勧められたらしい。

ベルトのバックルで殴ったりしたのは結構有名。で、数年後にその教えを変えちゃって今はそんなに厳しくないらしい。

イスラム教徒とかヒンドゥー教なんかは今でも戒律守ってんじゃん。

でもエホバの証人ってころころ変えるのよ。全体も個人も。

アルマゲドンも何月何日とか言ってたけど起きなくていつでも裁きがある前提で生きなさいとかになっちゃったし。

終いには人は不完全だからとか言い訳するし。じゃあ別に友達クリスマス祝ったってよかったじゃねーか。

輸血も禁じてるけど血液製剤がなかったら今頃輸血だけは許可してるよ。きっと。命は大切にしましょうとか言って。

あとさ、実家帰りたくないんだよ。訪問とかやってるから

ほんといやだ。

2025-01-26

天海上人の好物

天海大僧正の好物については、残念ながら具体的な記録が残されているわけではありません。

天海大僧正は、江戸幕府の成立に深く関わり、徳川家康にも信頼された人物です。その活躍は多岐にわたり政治宗教学問など、幅広い分野でその才能を発揮しました。しかし、個人の嗜好に関する詳細な記録は、当時の文献にはあまり見当たらないのです。

なぜ具体的な記録が残っていないのか?

僧侶としての生活:

天海大僧正僧侶として厳しい修行を行い、質素生活を送っていたと考えられます僧侶としての戒律から特定の食物に執着することはなかった可能性があります

記録の欠如:

当時の記録は、政治的な出来事重要出来事に重点が置かれており、個人の嗜好に関する情報は詳細に記録されていなかったと考えられます

想像力掻き立てる

具体的な記録こそないものの、天海大僧正生活時代背景から、どのようなものを好んで食べていたのか、少し想像してみましょう。

精進料理:

僧侶であったこから精進料理を好んで食べていた可能性が高いでしょう。豆腐野菜きのこなど、植物性食材を中心とした料理一般的だったと思われます

薬膳:

天海大僧正は、医学にも精通していたと言われています。そのため、薬効のある食材を使った薬膳料理を好んで食べていたかもしれません。

簡素食事:

厳しい修行の中で培われた質素生活から特別に贅沢な食事を好むことはなかったと考えられます

現代に残る天海大僧正イメージ

現代では、天海大僧正は謎に包まれ人物として、様々な物語小説に登場します。これらの作品の中には、天海大僧正の好物が設定されている場合もありますが、あくまフィクションであり、史実とは異なる点にご注意ください。

2025-01-04

なんで“選択的”夫婦別姓なら通ると思ってるの?

選択的」なんだから反対する理由がない。何年も議論してないでさっさ可決してほしい。同姓がいいなら同姓を選べば良いだけ。誰も反対しないよ。

結婚ってひとつ文化から

そこには宗教観が大きく反映されてるんだよ

結婚はこうあるべきみたいなさ

考えてもみろよ

イスラム教徒に、選択的に豚肉を食べていいようにすべきって言って通ると思うか?

宗教観なんだから選択にしたらありになるなんてこと起こるわけがない

そもそも選択出来るべきじゃないかルール(戒律)になってるんだし

名前を変えて相手の籍に入る、これが結婚なんだって思ってる人達がいるんだよ

同じ理由同性婚も認められなかったりする

違う価値観人達尊重するのが多様性だろ

イスラム教豚肉食わないとか女性の扱いとかと一緒で、結婚は同姓にすべきって立場ぐらい尊重しなさいよ

どうしても別姓名乗りたいなら他に選択肢もあるんだしさ

2024-12-29

清らかな心で人をバカにしよう

anond:20241229153859

はてなで誰よりも大量に人をバカにしてきた自負があるけれども

自分より知識能力が劣っている相手を貶めて優越感に浸りたいか

・劣っている(と私が思っている)相手あざ笑うことで自分を大きく見せたいか

自分に自信がなく、逆に自分対象にされるのを恐れて自分バカにする側だと確認したいか

安全から弱いものいじめるのは楽しいぞい♪という攻撃的な快楽気持ちよくなりたいか

自分が劣っている存在である勝手に思っているため、下に見れる相手を探さないと怖い

物事がうまくいかないので自暴自棄になり、他社を思いやる余裕がなくなり、攻撃的になる

こういう気持ちでやったことは一度もない。

しろ清らかな気持ちバカにしている。

  

どうやるかの要点をいうと

己にきちんと戒律を課することだと思う。

自分場合は昔から相手の話に噛み合わせない罵倒勝利宣言」が最も嫌いで

本当に見苦しい、だらしない、と思っているから一度もそれを自分に許したことがない。

もし誤読してしまったらそれは素直にすぐに認めて謝る。

 

ちゃん相手の話をよく読んで、相手が何を言っているか把握して、国語的な意味も心の動きも汲み取って、

その上でこれはこうですね、ここはこうですね、ときちんと対応した説明を付けたうえでバカにする。

これをやっているといわゆる読解力的な物がない人も段々とついてくるしものごとを整理する力もついてくる。

人の心の動きも自分の心の動きもフェアに観察できるようになる。

 

人がやっていたらだらしないと思うことは自分もやらない。

人がやっていても自分はやらない。

こういう戒めを守った上で人をバカにしている時その心は清い。

 

相手文章の頭からつま先まで全部にツッコミを入れてぴたっとバカにするので

見ている人に武道約束組み手の様なヤラセ感を感じさせて

「これは全部自作自演だ」と疑われたことも度々ある。 

  

フェアネスを守ってバカにしようとするとき

相手罵倒するために用意した指摘が自分にあてはまると気付くこともある。

「こういうことは自分もやっている」と思ったらその言葉は吐く資格が無いので取り下げる。

相手の話をきちんと読んできちんとバカにしようとしていればきちんと自省も進む。

 

自分放逸というズルを許さずにバカにし続けるなら

人をバカにするという営為修行になるから

この人が良くないのは人をバカにする時の姿勢がだらしないことだと思う。

もっと真剣に人をバカにするならだらしない心や頭の悪いところは徐々に減っていかざるを得ない。

2024-12-26

地獄でなぜ悪いキャンセルから連想しただけの長い駄文

性加害は本当に許してはならない、これには心から全面的賛同する。するのだけど、加害者たちの対極の存在評価されないことにいつも辟易する。

性加害から遠い生活様式を持った人への見返りのなさ

私はそういった性犯罪者の対極にいるという自負がある。脳が意思関係なく顔が可愛いかどうかをジャッジするのすら不愉快なので実在女性の顔をコミュニケーション必要ないときに見ないようにしており、それでも人並み(以上?)に性欲はあるため、現実世界に紐付く人格が「ない」二次元ものしかオカズにしない(VTuberNG)という生活様式を、私は第二次性徴以降頑なに守っている。まだ30にもなっていないため、こういう「戒律」を守るにあたって、日々自らの性欲と戦わなければならない。しかし、性加害者への社会的制裁が日増しに強力になる中で、私のような生活様式男性評価が日増しに上がっていくなんてことはない。

辟易とはするが、しかし、この理不尽さには、「母なる進化を呪う」と吐き捨てる以外にできることがない。

個人的挫折と今後の人生への絶望

一応、自分を「友人として」信頼してくれる同世代女性はそれなりの数いる。私は発達障害者ではあるが、健常者エミュレータ(原義)の性能は、運良く生得的に高い言語IQのおかげで、自分でいうのもなんだが、良い。だからそういった友人の関係性「まで」ならなれる。しかしながら、私もアセクシュアルではないため人を好きになることがある。おそらく平均よりかなり長いであろう内面葛藤を経てから一歩踏み出すと、いつも、いつも、「誰か」が自分より先にその人の「良い人」になっているのを周辺人物から知る。その後やることは決まって数ヶ月かけて恋愛感情バラバラ解体し、ただの友人に戻るための努力をすることだ。そしてこれは悲しいことにいつもうまくいく。その人たちに会うと湧き起こっていた甘酸っぱい感情を殺すのはとても寂しいが、間違いを犯すことはないのだと安心する。ただ、よく考えると仮に「良い人」がいなかったとしても、無害だと思っていた男から言い寄られるときの「ぬいぐるみペニス現象」が発生する可能性は高かっただろう。私の運が悪いおかげで彼女たちに不快な思いをさせずに済んだだろうか?

男性の性欲の暴力性について深く逡巡し、性加害を犯す愚者にほんの少しでも近づくことを良しとしない異性愛男性は、報われない。そして、どこまでの侵襲性なら暴力性ではないか、というバランスを取り続けなければならない、定型発達者にも難しいゲームは、発達障害者にとっては難易度調整をミスってる上に一度も死ねない死にゲー(矛盾)としか言いようがない。そんなゲームにはうんざりだが、本能萌えというドラッグHackして誤魔化せるのは何歳までなのだろうか。萌えキャラはいつか病床に就くであろう私を世話してはくれない。かといって現実女性を責めることもできない。「生理的にムリ」なもの論理でひっくり返すのは極めて困難だろう。きっとそれは性加害を撲滅するよりも難しい。

「理性は情念奴隷」、それが私も含めた人間の本性というものだろう。

シンギュラリティ教の神官となる他ない

しか希望はある。シンギュラリティ(技術的特異点)だ。ChatGPTの登場以降の世界を見ればわかるように、AI進化はみんなが思っていたよりずっと速い。科学技術の発展を前例のない速さで推し進める汎用人工知能の登場は、もしかしたら2020年代中になるかもしれない。AIと愛や絆を結べる日、人類AIと融合して「情念奴隷から脱却する日は思ったより近いのかもしれない。いま、生成AI倫理には多くの疑義があるかもしれないが、後10年しないうちに、この地獄にもシンギュラリティによる「千年王国」が到来すると信仰しないと、もはや発狂せずに生きていくのも難しい。それしか縋れるものがない。だから私は恋愛市場での不利を承知博士課程に進学し、自分を慰めてくれている作品を生み出す萌えイラストレーターたちから十把一絡げにされて白い目で見られているであろうAI研究人生を擲っている。

「ただ地獄を進むものが 悲しい記憶に勝つ」

そう信じて。

2024-10-25

スヤスヤ教は仏教の「十住心論」が語る「仏と一体になる」という境地を凡人でもわかりやす実践できる優れた宗教だ!

ミリ関係ないんだけど、全然関係ないところから空海が言ってる

大日如来と一体になるのが悟りの最終形態(十住心論)」

意味がわかった!これもう十住心論の解釈書やろ…

睡眠教義の謎の宗教ヤバいペースで信者が増えてしまう 【スヤスヤ教】 https://youtu.be/OLdvnaLV3e0?si=tmEOHS8Ud04RHKFb

超絶難しい十住心論をアバタローさんという読書YouTuberの方が「大日如来と一体になるのが悟りの最終形態」と紹介してるのですが…ここだけずっと謎でした。

【名著】三教指帰空海 全ての悩みは、10段階で消滅する。 ~現代人の心を救う、天才僧侶秘密の教え~ https://youtu.be/u9thajcl2oc?si=4IiHParjPiNaKii3

十住心論は、かなり画期的な本で、

そもそも悟り】とはなんぞや?」

を、悟ったと言ってる本人が解説しようとしてる歴史的に見てもすごい本で、今読んでも参考になる。

真言宗ポジショントークも混じってるけど、

自分が人としてどう成長していけばいいか

を考える時にかなり面白い本

ざっくり言うと

本能のまま生きる→

教育によって道徳心が芽生える→

社会の中での自分を見つける→

ちゃんと人に伝わる方法愛情を持つことで)自分が流れを作れるようになる→

全てが移り変わるものであることをポジティブに捉えられるようになる→

健やかで穏やかな時間を生きる

という感じ

で、最後の「大日如来と一体になるのが悟りの境地」だけ「そもそも大日如来ってなんだよ」「仏と一体っていみわからん」と思ってた。

これをスヤスヤ教の解説を読んでて

「心が落ち着く場所行為・習慣の中に身を置くことで、生きながらにして健やかで穏やかな状態になってることか!」

と納得

仏教の教えは用語哲学的過ぎたり、大げさな言い回しになりがち。

そのため、最初聞いた時「なにそれ?」というものが多い。

スヤスヤ教は宗教メリットである「心や体にいいこと言ってる」要素を、シンプルかつ肉体の健康にも敬意を払ってるからとてもわかりやすくていい!

大日如来と一体になる≒おふとんと一体になる≒心安らぐ時間・習慣を大事にする」と捉えると、

「心安らぐ時間を大切にするなら、推し活やオタ活でもいいの?」

と思う人もいるかもしれない。

推しがロスした時にパニックにならないならいいんじゃないですか?

快楽を求めて執着すると不健康なんで

スヤスヤ教とて、信じすぎて

睡眠に執着する」

と捉えてしまえば、信者をむしばむ邪教ですよ?

仏教のよくあるイメージとして

「執着や煩悩は悪。そんなもん捨てろ」

があるけど…アレ、「お前の物事との付き合い方おかしいよ」という話です。

付き合い方がおかしくなるほどアツくなったら執着かと

ブッダ自体が「煩悩や執着を捨てる厳しい修行したけど、全然悟れなかったわ」というてますし。

無欲になることよりもむしろ、「物事は常に移り変わっていくけど、自分の中で心地よい習慣や関係性作っていく・その都度見つけていくの大事よね」というね…。

人体で生きてる限り、欲は必ず生まれるし

スヤスヤ教も

「移りゆく世の中でも、俺は家に帰って必ず寝る時間ちゃんと確保する。これが心を豊かにしてくれる」

というものを見つかったなら、空海のいう即身成仏(生きてるうちに仏になる)なんじゃないですか?

様式美としての仏教好きな人から怒られそうなこというてるけどね…

最後に、勘違いしてほしくないから1つだけ。

私、「哲学としての仏教」が好きなだけです。

本書く時に「メンタル勉強するなら、心理学哲学仏教全部やろう」と勉強して、面白い考えを取り入れてるだけ。

元々仏教自体インド哲学の流れを汲んだ哲学から、そういう楽しみ方してます

哲学としての仏教」好きだと、空海は超面白いです。

日本で一番信者が多いのは(無戒律主義で、僧侶にも肉食妻帯が許される)浄土真宗ですよ?

それでも、作家教育者・事業家として別格の才能があったことで、仏教詳しくない人も空海は知ってる。

そんな天才作った哲学だけに、おもろいんよ



事実上なにも言ってなくない?

2024-09-21

anond:20240921044326

まあ、カトリックプロテスタントも、重要なのは神を信じていることだよ

神を信じている、ということに比べれば、戒律とか聖書さえどうでもいいぐらい、本当に神を信じている、ということが重要なのだと思うよ

最近だと、追放されたチート付与魔術師は…、の半グレの話がいい感じで説明できてた

少なくとも、自分信仰心漫画の中の半グレの彼に非常に近い…😟

2024-09-10

anond:20240910214401

う~ん、それは違うんじゃないかな。日本人ほど戒律が好きな民族国民)は
いないと思うよ。西欧においては、国家の成立過程からし契約法律などのルール
敏感な一方で、人種民族が混在していることから宗教戒律においては柔軟性を持ち合わせて
いるよ。カトリックからプロテスタント分派したことはまさしく
無教会主義の台頭による戒律形骸化でしょ。

日本人に馴染めないのは宗教の「戒律」じゃないかという話

宗教ってなんで日本流行んないんやろな、なんて話が上がっていたが、

http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/6161383.html


日本人には、宗教というよりも

宗教の「戒律」が馴染めないんじゃないかという気がした。


日本にも戒律のようなものは残っていて、

たとえば相撲土俵女性が上がってはいけないなどの掟は一種戒律のようなものだけど、

厳格にそれを守ろうとするのはごく一部の人にすぎない。

年配者は気にするかもしれないが、時代と共にその感覚はどんどん薄れてきている。

もっと身近な、ご飯粒を残してはいけないとかの掟は

戒律というよりも常識や習慣として根付いていて、それが宗教的な行いだとはもはや意識されない。


昔は日本も肉食を禁忌していた時代があったが、

実際には多くの人が隠れて食べていたというし、明治になったらあっさりと覆った。

そんな大らかさなので、食の禁忌戒律として厳格に決まっている宗教理解が難しい。

日本キリスト教がそこそこ受け入れられたのは、戒律比較的緩いからという理由もあるだろう。


いろんな宗教信者が混在している社会では、縄張り争いに勝てないと自分生活を守れないので

信者同士が団結する必要があり、団結のためのルールとして戒律が生まれた。(のだろうと俺は理解している。)

中東のような縄張り争いが激しい土地ほど、戒律もより厳しくなる。

アメリカなんかでも、異なる宗教信者が身近にいるからこそ、ある程度は団結する必要が出てくる。

一方日本では、過去キリシタン弾圧なんかはあったけど

いまの日本宗教絡みの争いは、一部のカルトを除けば、生活に身近なレベルではほとんど見聞きしない。


戒律というのは団結のために必要ものであって、団結する必要がない日本に厳格な戒律必要がないのだろう。

それは、「押しつけはいけない」という言葉に表れている。

地球の各地でいまも繰り広げられている宗教ナワバリバトルは、まさに戒律押し付け合いバトルだ。

一部の宗教にとって戒律とは押し付けものであり、日本にはその必要がないのだ。


ただ、SNS上のコミュニティでやたら細かくルールが決まっているところがあったりするが、

あれこそがまさに戒律のようなものだろう。

それが特定推しを崇めるコミュニティだったりすると、こうやって宗教というのは生まれるんだと思ったりする。

しかしその戒律は、外部の人間から見るとなんのこっちゃである

戒律とはそういうものであり、戒律必要ない社会平和である


なので日本人に宗教戒律が馴染めないとしても、

それは平和の証であり、その平和享受して暮らしていけばいいんだと思った。

日本戒律必要がないのだ。

2024-09-09

関わる男性と軒並み倫理観が合わない

何かで関わってちょっと親しくなった男性のうち30代付近の人、みんな酒の席で「最近10代の女とセックスした」話してくる。有り得ないだろ。

いや18だから高校生でも大丈夫ww みたいなの理解ができん。自分より圧倒的に幼い相手に手出して何が楽しいん?それで満たされるのは加害性だけだろ。

それを人に話すのもやばすぎる。おかしい事をしているという自覚がないのが終わっている。

ヤバくないですか?って言うといや大丈夫からww法律には引っかからないようにしてるしwみたいな感じなのもやばい法律が許すなら小学生にも手を出すんか?と思う。法律は最低限ラインの話であって個人判断能力がある前提のルールだろうがよ……と思う。宗教による戒律とかってこういう時に必要なんだろうな。というかクリスチャンの人とかと宗教必要性について話すと絶対法律以外の方法ルールを作ること、倫理観を育てることっていうのが出るからマジなんだろうな。

自分と同世代(20前半)の男性はそういうのを見聞きすると大抵怒る、最低でも自分絶対しないなという反応なので、世代間の差がこんなに出るのかよと思う。(私がいるコミュニティ所謂英才教育を受けて育ったタイプかつ海外経験が長い人間しかいないため、世代間というよりはそこの差の可能性はある。)

女性の知り合いで20歳以上の人が10相手性的欲求を抱いたり恋愛感情を抱いてるケースは見聞きしたことがないため、どうしても「男の人って……」という感想になってしまう。※当然世の中にはヤバい女性存在するが、私が実生活で知る中では男性しか例がないという話

たった今そういう男性と会話をして嫌になっちゃったので愚痴でした。

2024-09-07

anond:20240906104134

もともと見合いの条件の決まり文句の「趣味が合う」って

要はライフスタイル志向のことだったのに

すっかりホビーの意味だと勘違いされ、言葉に引っ張られる形で伴侶候補のホビーを論ずる謎習慣が定着してしまったな。

ホビーって基本的には個人裁量権範囲勝手にゴソゴソやるもんであって、パートナー道楽詰将棋だろうがパッチワークだろうがお互い知ったこっちゃないけどね。

なんか大仕掛けなのだと要相談だけど人物評価材料としてそんな優先度の高いもんではないしね

釣りがしゅみの人とはお付き合いできませんとかジャグリング趣味の人が好きですとかある? 変な戒律宗教じゃあるまいし

2024-08-12

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

2024-07-13

anond:20240713074532

ゆうて東京もそれっぽい人が票を集めてましたけど?

しかも、所得が低い地域ではなく所得が高い地域で多い傾向にあるように見えて

救い難さ増し増しだけどな

 

そして、対話できなそうな候補+その暴徒フォロワーorカルトビビってゆりっぺが3期を達成

いうほどマシか~???

 

これ見て宗教の人が『やっぱ宗教戒律いるじゃん』ってなってたのフフッってなった

上に媚びへつらう詐欺師跋扈する世界って本当に宗教じゃなきゃ解決出来ないのかな?

 

そもそもめっちゃ右の人が過去こう言ってましたよ

知的怠惰は即ち道徳的怠惰だ』ってね

田中角栄金言を要らないって言ったり、堕ちるべきところまで堕ちた感あるよねぇ

2024-07-01

じゃあ現代的な宗教つくろうよ

神話とかは禁止

科学事実整合が取れなくなってあとあと困るから

「じゃあビッグバン神様が起こしたことにすればいいんじゃないの?」

って言う人がいるかも知れないけど、2000年後は違う説が主流になってるかもしれないから駄目。

でも神様がどういうお方なのかわからないのも困るので、

「無から有を生み、森羅万象創造した」くらいのふわっとした話ならあってもいいかもしれない。

でも「無なんて存在しないよ」みたいなこと言われたら困るな。

とにかく神様創造主なのです。それだけ。あまり深く考えるな。

戒律禁止

お酒飲めないとかお肉が食べられないとか私自身辛いし絶対人気出ない。

人として守るべきルールに関しては現代では法律があるのでその道のプロに任せよう。

・面倒な集会とか儀式とかはやらない

日曜はダラダラしたいし、貴重な休日半日も持ってかれるのはキツイ

でもそれっぽい催し物があったほうが盛り上がるし、信徒義務付けないという条件付きでやってもいい。

それはそれとして、信仰の証みたいなのはあったほうがいい。

基本ネットで一文書き込むくらいでも成立するくらいがいいけど、雰囲気作りのために凝ってもいいと思う。

神様基本的に何もしない、くらいでいい

神様が何とかしてくれる」なんて期待しながら祈って、何も起こらなかったら裏切られたと思う人が出てきそうだから

まぁ祈ってもいいけど、基本何も起こらないし、何か起こったら儲けものくらいでやってみてほしい。

神様は人にそれなりに関心を持ってる、くらいでいい

「神は人を愛している」はちょっと重すぎる。程よい距離感を保ってほしい。

神様は人に(当然これを読んでるあなたにも)それなりに関心を持ってるよ。あくまでそれなりにだけど。

からあなたもそれなりに神様に関心を持ってね。くらいで。

このくらいの関係性なので、祈り神様に、自発的に何かを伝える、くらいの意味合いになる。

そんなもんでいいと思う。

2024-06-29

anond:20240629034502

戦争での暴力行使を、知的犯罪的に合法的にやるように進化しただけで、倫理的には進化してないかもしれないんだけどな

余計なカルトがあるから宗教戒律は浸透せず、個人良心のみに頼っているね

2024-06-06

なぜフランスでは「創価幸福の科学統一教会」がカルト扱いされているのか…フランスカルト規制する上で注視する「10基準」とは | 集英社オンライン | ニュースを本気で噛み砕け

https://l.pg1x.com/a5AB


はてなー共は読んでないだろうなぁ。

10基準」がカルトとして認定されるファクトだってこと。

10基準」は以下の通り。


精神不安定

・法外な金銭要求

・元の生活からの引き離し

身体に対する加害

子どもの加入強要

反社会的な言説

・公序に対する脅威

訴訟を多く抱えている

・通常の経済流通経路からの逸脱

公権力への浸透の企て


要するに「現状の社会規範から積極的に遊離、逸脱、変革しよう」としている宗教的組織を「カルト」と認定してるわけよ。

からイスラム教は「カルト」的であろうよ。特にフランスにおいては。

この項目に楯突く文句は1つもない。確かにこれは「カルト要件」だ。


バカジャップ諸君には宗教成立の3つの要素も付け加えておこう。

教理

倫理

実践

まぁ、抽象的な言葉が並ぶな。俺ならこう書く。

教義

戒律

礼拝

宗教的である言葉に置き換えた方が理解が進む。

倫理なんて社会学なっちまうだろうが。バカかな?

あと書かれている3つの要素は、どれも「反対すること、疑念を持つことが可能」なものだけれど、宗教は「そんなの私(=神)がゆるさない」だからさ。

オマエラが感覚的に「宗教忌避している」っていうのは、実はこの3つの要素の方だよ、と言いたいわけ。

どうかな? 当たったかな? もう少し意識を進ませりゃ「宗教はまぁいいけど、カルト10要素はダメだ!」になりそうだが、コミュニティ抵触するものも多いので、単にフランスが「個人に鑑賞する不自由不快な国!」ってなるわけで。

まぁ難しい話だ「他人迷惑をかけている」ってのは、増田で続いている非モテ意識価値観・考え方と実は大差がないので。

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