はてなキーワード: 社会規範とは
BeRealの「2分間投稿縛り」という仕様の問題だとか、Xをやっている人間の方が情報の取捨選択に長けているだとか、色々と語られているが
まず、この手の「閉鎖的・特権的な空間」を可視化するSNSのルーツを辿れば、前略プロフィールやmixiに行き着く。
あくまで身内向けのコミュニティでありながら、個人情報や写真を共有して悦に浸る場所だ。
その後、インスタのストーリーズのように「一定時間で消える」機能が一般化したが、20年ほど前の「2ちゃんねる」や「mixi」が玉石混交だった時代とは、ユーザーの前提が根本的に違う。
かつて、クラス単位でこうしたツールを使い倒していたのは、昭和の最後~平成一桁生まれの世代だ。
完全に個人的な肌感覚だが、この世代の「まともな人間」は、FBやTwitterを一度は触ってみるものの、リスクを察知して早々に身を引いている。
今回、おそらくそれなりの大学を出て、それなりの組織に属する人間たちが立て続けに不祥事を起こしている背景には、売り手市場による「質の低下」もあるだろう。
だが、彼女たちの行動原理を推測すると、より根深い問題が見えてくる。
BeRealには「2分以内に投稿しなければならない」というルールがある。
別に真っ暗な画面を撮って上げれば回避できるはずなのに、彼女たちはそれをしない。
それをしないのは、彼女たちの中に「クランの掟」への忠誠心があるからだ。
それと同時に、「今の自分は特別な場所にいる」という優越感を、無意識のうちにグループ内で示したいという承認欲求が、理性を上回ってしまう。
これに拍車をかけたのが、コロナ禍による物理的な社会的摩擦の減少と、過剰なまでのハラスメント教育。
本来、人間は人前で叱られたり、恥をかいたりすることで「公共」と「私的」の境界線を学ぶ。
最近めっきり聞かなくなったが、それがかつて「TPO(時間、場所、場合)」と呼ばれていたものだ。
過剰に保護され、現実の社会摩擦に晒される経験を奪われた彼女たちは、「社会から自分がどう見られるか」という客観的な視点を養う機会を永遠に失ってしまった。
※永遠に、とは言いすぎかもしれないが、もう彼女たちにそれを教えてくれるお節介な人間は軒並み消えている上に、おそらく彼女たちは忠告を聞き入れるつもりがない。
彼女たちにとって、人生は常に誰かに見られていることがデフォルトだ。自宅、通勤中、そして勤務中。
本来、気を張っているべき「オン」の時間に、SNSという「オフ」の感覚が溶け込んでくることに、何の抵抗も抱かない。
ブラウザ経由でネットに触れ、2ch、mixi世代の洗礼を受けた「90年前後生まれ」と、
物心ついた時からスマホが身体の一部だった「2000年前後生まれ以降」の間には、マリアナ海溝よりも深い溝があるように思う。
とまあAI生成の適当な考察を並べてみたが、これはリテラシー教育でどうにかなるレベルではない気がする。
ある意味、氷河期世代よりもかわいそうな世代なのかもしれない。
だって、子供の頃に経験しておくべき摩擦で学ぶことは、一体誰にどうやって教わる?
炎上して怒られてからじゃないと学べないのなら、そんな人間怖くて採用できないでしょ。
本人はたったスマホで撮影しただけ、何が悪いの?という感覚でいて、OJT、課長、支店長は飛ばされちゃうのにね。
動画で取られている同期か先輩社員見た?「辞めてよ~笑」って感じで叱ってもくれてないじゃんね。
新入社員が入るたびに、爆弾持たされた~という感覚で一生懸命、優しく、辞めないように根気よく説明・教育できる?
というより、たぶん教育でどうにかなるような問題じゃないんだ、これは。
だって情報リテラシーや社内規定や社会規範なんかより、SNSという謎のクランの掟や承認欲求を満たすことの方が優先順位が高いんだから。
現代が過去よりも改善されたとされる具体的なポイントは、労働環境、人権・社会規範、女性の人権、そして技術革新による利便性の向上など、多岐にわたります。
一方で、物価高、社会保険料や税金の負担増、SNSやAIによる新たな問題の発生など、現代が抱える課題についても言及されています。
オタク文化やサブカルチャーにおける「ステレオタイプ享受文化」は、BL(やおい)のseme/uke二元論、ロリコン漫画の「ロリビッチ」(幼い外見ながら性的に積極的なキャラクター)、オタクに優しいギャル、エルフ、ケモ耳・ケモミミなどの極端に理想化・誇張されたトロープを意図的に消費するものです。これらの表現は、「現実には存在しない」ことを前提としたファンタジーとして成立しており、現実の人間(ゲイ男性、実際の少女、特定の民族・文化)をそのまま反映・再現するものではありません。むしろ、現実の多様性を無視・簡略化・美化することで、安全な逸脱や欲望の出口を提供する点に価値があると、ファンや創作者は位置づけます。
これに対し、ジェンダー学者(特にフェミニズム・クィア理論寄り)は、この文化と根本的な緊張関係にあります。主な批判は以下の通りです。
• BLでは、seme(支配的・男性的)/uke(受動的・女性的)の役割分担、rape as love(非合意を愛に転化)といったトロープが、現実のゲイ男性の関係性やアイデンティティを歪曲したステレオタイプとして問題視されます。
• ロリコンや萌え系では、女性キャラクターの性的対象化(巨乳強調、オタクに優しいギャルなど)が「ジェンダー規範の再生産」「女性蔑視」と批判されます。
• エルフやケモ耳などのファンタジー種族も、時に「異文化のステレオタイプ化」や「エキゾチック化」としてクィア理論から警戒されます。
ジェンダー学者の中には、Mark McLelland(オーストラリア・ウォロンゴン大学)のように、ファンタジーを「現実害のない安全弁・transgressive sexual fantasiesの共有」 と擁護する立場もあります。
ファンタジーは女性や若年層の性的主体性を解放し、社会的タブーを安全に探求する場だと評価します。
一方で、Helen Wan Wei Luo(コロンビア大学)のような論者は、BLのトロープが「patriarchal status quo(家父長制の現状維持)」を間接的に再生産すると指摘し、再考を促します。
特に深刻な緊張が生じるのが「非実在青少年」(fictional underage characters、18歳未満として描かれる漫画・アニメの性的描写)です。日本国内では東京都青少年条例改正案などで「非実在青少年による性交などを肯定的に描写」する作品を不健全図書指定の対象とする動きがあり、BLやロリコン・ショタコンが巻き込まれやすい構造です。
海外ジェンダー・クィア研究では、仮想児童ポルノ(virtual child pornography)として法規制の対象となりやすく、McLellandは「yaoiファン(主に女性)を巻き添えにする過剰立法」と警告します。一方で、児童保護の観点から「たとえ非実在でも、児童の性的対象化イメージが社会規範に影響を与える」とする批判は根強く、ファンタジーが「現実の児童虐待を間接的に容認・正常化する」との懸念が交錯します。
ジェンダー学者とステレオタイプ享受文化の対立は、「ファンタジーは現実から完全に切り離された遊び場か、それとも現実の価値観に影響を与えるものか」 という根本的な認識の違いにあります。
国際的にはクィア理論の影響で「表象の責任」がより重視される方向にあります。結局、ファンタジーの価値は「現実と混同しない」線引きにかかっている——という点で、双方の議論は一致しますが、その線引きの厳格さや「害」の定義で決定的に食い違っています。表現の自由とマイノリティ保護のバランスをどう取るかは、今も学問的・社会的に unresolved な課題です。
この格言は、アイルランドの詩人フレデリック・ラングブリッジが19世紀末に綴った詩の一節である。同じ暗い牢獄、同じ鉄格子、同じ限られた視界の中で、二人の囚人は全く異なる宇宙を目撃する。一人は足元に広がる湿った汚泥——腐敗し、沈み、絶望の象徴——に視線を落とし、もう一人は遥か夜空に瞬く星々——無限の光、真理、そして永遠の希望——に目を向ける。
鉄格子とは、遺伝的素因、初期環境、そして強烈な初体験によって刻み込まれた生物学的宿命そのものだ。
脳の報酬回路——中脳辺縁ドーパミン系(腹側被蓋野から核 accumbensへとつながる神経経路)——は、生存に有利な行動を即時的な快楽として強化するよう進化してきた。この回路の過剰活性が、sensation seeking(感覚追求傾向)という性格特性を生む。心理学者マーヴィン・ズッカーマンが提唱したこの特性は、新奇性、リスク、支配感、背徳的スリルを強く求める傾向を指し、遺伝的要因(例:DRD4遺伝子多型)によって個人差が大きい。一度この回路に「刷り込まれた」嗜好は、神経可塑性の限界によりほぼ不可逆的となる。記憶再固定(reconsolidation)というメカニズムで長期的に定着し、意志の力だけで完全に消去することは現代科学では不可能に近い。
泥を見る囚人は、加害の快楽に囚われた者だ。暴力や性的支配、背徳的スリルがもたらす即時的なドーパミン爆発は、脳の報酬系を再配線し、日常のささやかな喜びを色褪せさせる。刑務所という外部の厳格な構造では「模範囚」として規則を守り、仮釈放の審査を通過できる。しかし、鉄格子が外れた瞬間——社会復帰の自由という名の無防備な空間——で、トリガーが再活性化する。神経科学のLibet実験(1983年)が示したように、意識的な「決定」は、無意識の脳活動(準備電位)に数百ミリ秒遅れる。
この哀しみは、決して「弱さ」ではない。人間本性の暗い半面そのものだ。報酬系のdownregulation(受容体減少)により、普通の生活では満足できなくなり、泥の底へと沈んでいく。社会はしばしば「意志の力で更生せよ」と道徳的に責める。衝動の強さを自覚し、任意の治療や構造化された管理を求める道すら、十分に用意されていない。彼らの孤独はさらに深まる。
一方、星を見る囚人は、同じ衝動を創造の原動力に転換する天才だ。極端な好奇心、リスクテイク、新奇性追求は、科学者、芸術家、探検家を駆り立て、未知の真理を掴む。ニュートン、アインシュタイン、ヴァン・ゴッホ、ニーチェ——彼らもまた、社会的規範から逸脱した「狂気」を抱えていた。過剰なドーパミン反応と衝動性を共有しながら、それを「泥」として消費せず、抽象的な探求や芸術的飛躍に昇華させた。鉄格子は彼らにとって、創造の檻ではなく、集中の枠組みとなった。星は、衝動が光に変わった瞬間の輝きである。
しかし、彼らの人生は必ずしも幸福ではなかった。ニュートンは晩年を激しい偏執と孤独に苛まれ、アインシュタインは深い人間関係の困難を抱え、ヴァン・ゴッホは耳を切り、自ら命を絶った。ニーチェは精神崩壊の末に狂気の淵に沈み、多くの天才たちがうつ病、双極性障害、依存症と隣り合わせで生きた。
鉄格子は彼らにとって創造の枠組みとなったが、内面的な牢獄でもあった。星を見上げる視線は、自己破壊的な炎を宿している。
泥と星は、遠く離れた別物ではなく、人間性というコインの表と裏だ。遺伝的宝くじ、幼少期の偶然、環境の偶然が、どちらの面を上向かせるかを大きく左右する。科学はここに「自由意志のフィクション」を暴く
ここに逆説がある。悲劇的に生きることが、人類史を動かしてきたということだ。星を見る者の苦痛と狂気なくして、人類は科学の飛躍も、芸術の深化も、思想の革新も得られなかっただろう。泥を見る者の暗い衝動もまた、人間性の暗部を露わにし、社会規範形成に動機を与えた。栄光と哀しみは、常に表裏一体。人間は衝動の囚人として生まれ、鉄格子の向こうに何を見るかで運命を分かつ。
泥と星の間で揺れ動きながら、生きることの悲哀を背負い続ける——それが、人間という存在の、避けがたい運命なのかもしれない。
ASD女性がBL(ボーイズラブ)を好む心理的メカニズムについては、単なる個人的な嗜好を超えて、発達特性による社会適応の難しさと、それに対する防衛機制(生存戦略)が深く関わっていることが、最新の研究で指摘されています。
ASDの特性を持つ女性は、社会から求められる「女性らしさ」や「女性としての役割」を演じることに強い違和感や生きづらさを感じやすい傾向があります。
広範な社会違和(PSD):ASD者は幼児期から、ジェンダー規範を含む社会全体のルールに不可解さや負担感(広範な社会違和:PSD)を抱きやすいという仮説があります。
逃避としてのBL:BLは「自分の性が登場しない物語」であるため、現実の「女性として生きる負担」を一時的に忘れることができる安全な避難所となります。
心理学的分析によれば、BLを好む心性には以下の「二重の安全装置」が機能しているとされています。
実行不可能性:男性同士の恋愛であるため、読者自身が当事者になることは物理的に不可能です。
聖なる愛と平等性:BLは男性同士の対等な関係として描かれることが多く、現実の社会(家父長制など)における男女の不平等な権力関係や、生々しい性役割から解放された「純愛」を享受できます。
感覚過敏や対人関係の難しさを持つASD女性にとって、「身体性を伴わず、自分から切り離された場所にある愛の形」を眺めることは、心理的に非常に安全で心地よい体験となります。
BLファンは、自分の直接的な成長や達成ではなく、「他者の関係性を観察することで感動し、充実感を得る」という受動的な幸福感を得る特性があると指摘されています。
現実のコミュニケーションで他者との距離感に悩みやすいASD女性にとって、安全な距離からキャラクター間の親密さを眺めて楽しむスタイルは、精神的なストレスを軽減し、幸福感を得るための有効な手段(自己治療的側面)となっている可能性があります。
ASD特性を持つ人々、特に女性においては、性別違和(GD)やジェンダー不適合感が高頻度で共起することが判明しています。
性自認の曖昧さ:ASD女性は性自認が曖昧になりやすく、自分のセクシュアリティを客観視するためにBLという枠組みを利用したり、自身をトランスジェンダー(FtM)であると考える傾向との相関が議論されています。
こだわり特性の表出:特定の物事への強い執着(こだわり)という発達特性が、男性の場合はシステムや収集(鉄道、トレカなど)に向かいやすいのに対し、女性の場合は物語やキャラクターの関係性(BLやカップリング)に向かいやすいという性差による表出の違いも指摘されています。
このように、ASD女性にとってBLは、「女」という役割から自分を解放し、社会的な規範や肉体的な生々しさから守られた安全な空間で、純粋な関係性の構築や「こだわり」を追求できる装置として機能していると考えられます。
これは極端すぎるが、ブクマカもなんの根拠もなく思い込みで「普通」って言ってみてる人ばかりだから、反論したくなる気持ちはわかる。
でも俺もわざわざ調べる時間もないので困った時のチャッピー君ということで、いくつか聞いてみた。
・ホモサピエンスが誕生してから子供を残せた個体の推測は、女性で80%、男性で40%くらい。
・子を持つべきという社会規範の登場は農耕社会が成立した1万年前からと考えられ、農耕社会の成熟によりピークを迎えて今はピークアウト。
・哺乳類全般では種によって大きく異なるが、子を残すことのできる個体はメスで60-90%(ヒトよりは多いかもとの推測)、オスで30%-50%(子を持たない方が普通まである)。
女性との接点もないのに女性を憎む男性の心理構造について、三点に分けて分析する。
一点目、個人心理だ。このタイプの男性に共通して見られるのが「自分は本来もっと報われるはずだ」という感覚である。能力や努力に見合った承認、地位、異性からの好意が得られていないという不満が根底にある。ここで重要なのが投影のメカニズムだ。自分が満たされない原因を内側に求めると自己否定になる。それは苦しいので外側に原因を求める。女性優遇やフェミニズムが「自分の正当な取り分を奪っている」という物語が非常に都合よく機能する。
さらに三つの歪んだ認知が重なる。一つ目は女性を報酬として客体化する認知だ。学歴、職歴、収入を積み上げれば対価として魅力的な女性が手に入るはずという感覚で、女性を人間ではなく社会的成功に付随するトロフィーとして認識している。二つ目は努力の種類の混同だ。学業や仕事の努力は正解のある問題を正しい手順で解く能力だが、人間関係の努力は相手を観察して相手に合わせて変化し続ける全く別のスキルだ。前者だけ鍛えて後者を「やったことがない」のに「努力している」と感じている。三つ目は女性との関係が万能の解決策だという誤認だ。自信のなさや社会的不満の根本原因に向き合わないための回避として異性関係を夢想している。だから仮に関係が成立しても解決しない。そして解決しないことへの怒りが女性に向く。
この歪みはどこから来るのか。まず「知らない」問題がある。男性同士の友人関係は作れても女性との友人関係の作り方が分からない。異性との距離感の調整を学ぶ機会がないまま適齢期になる。次に「知ろうともしない」問題がある。少し興味が出てきて情報を集めようとするものの、すぐに「モテたいなんて軟派だ、情けない」という感覚が邪魔をする。そしてありのままの自分が受け入れられる物語に心酔し、現実の女性の現実的な態度を「いじわるな障害」くらいに捉えて、自分を押し付けるコミュニケーションだけを繰り出し続ける。
二点目、「ありのままでいい」という罠だ。この問題は個人心理と社会構造をまたぐ独立した節として論じる必要がある。
そもそも「素直さ」という言葉が誤読されている。本来の素直さとは社会的規範を摩擦なく受け入れ、期待されたロールを演じられることだ。しかし字面の雰囲気から「自分の感情に正直であること」と誤読すると、欲求を抑制しないことが美徳になる。他者への配慮や自己変容の努力が「無理してる、素直じゃない」に見えてしまう。この誤読が幼児教育の段階で修正されないまま大人になる人間が一定数いる。
人間社会では実際には誰もありのままでは生きていない。ペルソナの形成と社会的期待への適応は、人間が集団生活を営む以上避けられないコストだ。だからこそ「そのコストを払わなくていい」というメッセージには強烈な引力がある。スピリチュアルビジネスや一部の宗教がこのメッセージを多用するのはそのためだ。「ありのままのあなたを受け入れます」というテイで儲けるビジネスモデルは、努力の回避を正当化するイデオロギーとして機能する。自己変容の努力を「無理している」と定義し直すことで、顧客を永続的な依存状態に置くことができる。
三点目、社会構造だ。個人の歪みは真空の中では生まれない。それを生み出す環境がある。
まず前時代的な男性性規範の問題がある。「男は感情を見せるな」「弱音を吐くな」という規範が、感情処理や他者への共感を学ぶ機会を奪ってきた。セルフケアや感情の言語化は元々男性にとって苦手な領域でもあり、女性に比べて著しく遅れている。感情の語彙が貧困なまま大人になると、自分が傷ついていることも相手を傷つけていることも言語化できない。
次に上下関係を重んじる男性的な社会規範が女性蔑視に直結する問題がある。上下関係を絶対視する価値観は、女性を下位に置く差別感情と親和性が高い。そして「下位のはずの存在が従わない」ことへの怒りを生みやすい。さらに誤った男性性を男性同士で賛美する文化が、女性蔑視の発生源になるとともに、セルフケアや感情の言語化といった「女性的」とみなされる文化の軽視につながっている。
経済的な問題については、貧しいこと自体が問題なのではない。問題は世代間格差と階級間格差の拡大、そして経済力が男性の魅力に直結してしまう構造の合わせ技だ。時代に恵まれなかった世代と好景気を経験した世代が混在し、経済力と社会的地位を持つ者が高学歴・富裕層同士の人脈を形成して女性にもモテる「何でも持っている層」になる一方で、経済力にも地位にも周囲の大人にも恵まれず学歴も人脈も形成できない「何も与えられない層」が生まれる。この二極化の中で「何も与えられない層」の男性は、正当な怒りの矛先を見失う。
ではなぜその怒りが女性に向くのか。ここが核心だ。
彼らは男社会のヒエラルキーの中で負けている。しかしそのヒエラルキー自体を疑う言語を持っていない。内面化しすぎて空気のようになっているからだ。だから上位の男性への怒りは「あいつが正当に勝った、自分が負けた」という敗北として処理される。ルールそのものへの疑問にならない。
ところが女性はそのゲームのプレイヤーですらない。男社会のルールで測れば「弱い」はずなのに、そのルールの外で生きている。しかも自分の意見を持ち、好き勝手に生きて輝いている。これは彼らの世界観を根底から揺るがす存在だ。「弱者は虐げられるべき、黙って耐えるべき」というルールを自分に適用して屈服してきたのに、同じく「弱い」はずの女性がそのルールに従っていない。羨望と憎悪が同時に発生する構造がここにある。
そしてもう一つの点がある。彼らにとって「女社会は男社会より下にある」という認知は心理的な命綱だ。男社会のヒエラルキーでどれだけ負けても「女よりはマシ」という最後の砦がある。フェミニズムや女性の地位向上はその命綱を切りにくる動きに見える。既に強い男性から奪われ続けている彼らにとって、更に「弱くて地位が下のはずの女」からも奪われることは我慢ならない。怖くて泣きたいほどの危機感がある。しかし男性性規範を内面化しているから泣くことすらできない。出口を塞がれた感情が女性への嫌がらせとして噴出する。
女性と接点もないのに女性を憎む男性は、実は女性を見ていない。男社会のルールに縛られ感情の言語を持たず、ありのままでいいという甘い嘘に絡め取られ、格差に翻弄され、自分が屈服したルールに従わない存在への羨望と恐怖を憎悪に変換している。彼らが攻撃しているのは女性ではなく、自分が直視できない自分自身の惨めさだ。
だからといって彼らの行為が許されるわけではない。嫌がらせを受ける女性には何の責任もない。しかしこの構造を理解せずに個人の悪意だけを非難しても、問題は解決しない。誤った男性性規範を再生産する文化、感情教育を怠った社会、格差を拡大させた経済構造、これらが変わらない限り同じ男性が量産され続けるだろう。
自分個人の認識としてフェミニズム全体については総体としてポジティブには捉えているが、最近Twitterで4B運動なるものを見てウーンと思った。
言うなれば女性版インセルのようなもんかもなと勝手に捉えているが、4Bというのは韓国発祥の産まない、結婚しない、恋愛しない、性行為しないという主張の表れでそれ自体は個人としてはお好きになさればよいのだが、どうもそういう人たちの意見としては「産むな、結婚・恋愛するな、性行為するな」という社会規範としての4Bを唱えている方も多く、なんかそれって世の中を良くしようとかじゃなくて単にキレて暴走してるだけじゃんとというか……(全員ではないのかもだけど、何個か調べてみたらほぼそんな感じ)
なんかチェリーピッキングみたいでいやだが、そういう人たちの発言をさらに掘ると「男は本来生物学的に凶暴だから数を減らすか分けて管理すべき」とか「男は本来統計的に頭が女よりも悪いはずだから男の大学進学率は下げるべき」とか、男女平等とかをすっ飛ばして単に邪悪な事を言ってるのが散見されたのは正直怖かった。
より正確にいえば、社会規範を軽視した主義主張を、さも当然かのように述べて、争いに発展している人がとにかく多いとは思いませんか。
もちろん、法律もその構成要素であることに違いはありませんが、私たちが行動を決めるときに参照する要素は他にもあると思いませんか。
たとえば、条理、道徳、慣習、正義などがこれに該当すると思いますし、国によればここに神意といった宗教的要素も入ってくるでしょう。
これらは往々にして多義的で、その本質は社会条件に依存して可変する変数のようなものです。
一義的な結論を導き出せないからこそ、規範として提示することは筋が悪いという指摘はまさにその通りです。
だからこそ社会規範としては法律を参照すべきで、法律に違反していなければ一応の正当性があると考えることは、一見すると聞こえがよいでしょう。
このような論理に依拠するような言論がリアル・インターネットを問わずに飛び交っていますが、私はあまり妥当とは思えません。
法律には、ある社会の中で規範として実質的に機能するもの、すなわち、条理や慣習と呼べるものが、長い年月をかけて、時として判例などを経て立法に繋がるという一面があるでしょう。
(法律家からはお叱りを受けそうな雑な説明だと思いますが、お目溢し願いたいです)
法律は条理や慣習の具体化の一類型であり、その源泉は道徳や正義だといえるのではないでしょうか。
無論、正義には悪しき慣習を否定し、断絶するための機能も内包されているというべきです。
このような立法の背景を見ていくと、法律の外側にある事柄も無視することができないことがおわかりいただけるはずです。
ただし、このような「広義の法」とでも呼ぶべき規範は万能ではありません。
特に、成立の初期段階において多義的であることが、広義の法の弱点といえるでしょう。
個々人が直感的におかしいと思っただけで、直ちに規範として機能するかといえば、そうとはいえないからです。
この弱点をもって広義の法は軽視されがちですが、中には社会的に反復支持され、制裁可能性を伴う非制定規範と位置づけることが可能な規範もあるでしょう。
これらをひとまとめにして「法律に違反していない」と一蹴してしまうことに、争いの本質があると私は考えます。
このように考えることで、昨今話題となっている様々な問題にも説明がつくはずです。
行き過ぎた個人主義とでも言うべき言論は、広義の法と間で摩擦を生じさせているのです。
言うまでもありませんが、個人の主義主張や権利は保障されるべきです。
ただし、それを「当然に」とまで踏み込んで考えることが問題なのです。
誰とも接点を持たない完全な個人として生きていくならば、どのような主義主張をしても構わないでしょう。
しかし、現実論として、私たちは他者と関わり合いながら社会生活を営んでいかなければなりません。
社会生活のために自己を犠牲にするのかという批判が聞こえてきそうですが、そうではなく、「折り合いをつけて生きていく」ことが必要なのです。
社会と調和して生きていこうとするからこそ、社会から個人として尊重されるというべきです。
個人が社会から尊重されることを当然のものと考えることには、論理の飛躍があると私は考えます。
このように述べると、貴様は日本国憲法を読んだことがないのかとお叱りを受けるかもしれません。
たしかに、我が国の憲法は自由や権利の保障、個人の尊重をそれなりに肯定しています。
憲法や憲法の委任を受けた法律で保障されていることを、当然のものと考えないことは筋が悪いかもしれません。
しかし、私はそれでも当然のものと考えるべきではないと強く思います。
なぜならば、憲法ですら「当然に」この世に存在しているわけではないからです。
どちらかといえば、自由や権利の保障、個人の尊重といった概念を持たない社会が継続していた期間の方が、人類史上では長かったことを私たちは忘れがちです。
自由や権利が守られる社会は、決して自然発生的なものではなく、偉大な先人の犠牲の上に成り立つ脆弱なものといわねばなりません。
(補足すると、自然権的に、当然に認められるべき権利もあるといえますが、その保護には憲法のような実定法を要するというべきであり、実際上当然に保護されるものとはいえないと考えます)
ですから、私たち一人ひとりがこれを守ろうとしなければ、いとも簡単に失われてしまいます。
これは決して憲法や法律に限ったことではなく、広義の法を含んだ社会規範全般に言えることではないでしょうか。
社会をリスペクトすることで、個人もまた社会からリスペクトされるのです。
私たちは自らの主義主張を社会に発信するとき、社会規範を通じて共感性を獲得し、もって社会から個人として尊重されることを目指さなければならないのではないでしょうか。
言い換えれば、自己の利益を最大化したいのであれば、逆説的に社会全体と調和を図るべきだと思うのです。
様々な意見を活発に交わすことが可能となった現代で、私たちはこのような視点をもって社会と向き合わなければならないのではないでしょうか。
傾向の話はわかるんだけど、女がそういう風にしてるって話じゃないんでな
女がそういう風にしてるよ
これが本題な(上の女は上昇婚~くんと俺は別人だけど)
確かにさ、
そこで女に学歴で負けるのは相当やべー男だったという事情もある
よっぽど差がついて捨てられそうとかでもない限り男が気にするところじゃないわな
でも女が上昇婚を求めるのはもうちょっと本能とか性欲に近い部分なんじゃないの?
それこそ男が若くておっぱい大きい女が好き、みたいなね
勿論年上好きや貧乳好きもいるけど、傾向としては男はそういう感じだよ
それは認めるしかない
社会規範じゃなく本能レベルで求めるって説は説得力はかなりあると思う
私は異性愛者にカテゴライズされると思うが、それは生まれた時からずっと異性愛が普通の世で生きてきたからだと思う。
同性にも異性にも好ましい人はいる中、とりわけ異性に対する好ましさだけを「恋愛感情」と名付けられているだけじゃないのか。
同性同士が惹かれ合うのが普通なんだよという世の中で生まれていたら、「えっ私は異性が好きですけど?」などと思うことなく、同性と恋愛したり結婚したりしていたと思う。
でもバイではないと思う。普通じゃないのにわざわざ同性と恋愛しようと思わない。
異性愛者って本気で異性が好きな人たちなんだろうか?? 反対に同性が好きな人は同性愛が普通の社会でも同性が好きなんだろうか??
日本語には、英語の “I” に相当する、性や年齢、立場から自由な一人称が存在しない。この事実は、単なる言語的特徴ではなく、日本社会が長年温存してきた性差別構造を如実に映し出している。むしろ日本語は、「誰が、どの立場で、自分をどう位置づけるか」を強制的に選ばせることで、話し手を社会規範に従属させる欠陥言語だと言ってよい。
一人称は本来、「私が私である」ことを示す最も基本的な記号である。しかし日本語では、「わたし」「ぼく」「おれ」「うち」など、どれを選ぶかによって、性別、年齢、成熟度、さらには性的役割までもが読み取られてしまう。話し手は、発話のたびに「どんな人間として振る舞うか」を選択させられ、選択を誤れば「間違っている」「直される」「からかわれる」という社会的制裁を受ける。
とりわけ問題なのは、女子にだけ突きつけられるこの圧力の強さだ。男子には「ぼく」という〈少年性〉に印づけられた中間的な一人称が用意されているのに対し、女子は幼児期の名前呼びから、いきなり〈大人の女性〉を意味する「わたし」へと飛躍させられる。〈少女性〉を表現する正規の言語資源が、日本語には制度的に欠落しているのである。
その結果として現れるのが、小中学生女子による「うち・ぼく・おれ」の使用だ。これは乱れでも、一過性の反抗でもない。言語が与えてくれないアイデンティティを、少女たちが自力で補っている創造的行為にほかならない。それにもかかわらず、教師や大人は「女の子は『わたし』」という規範を振りかざし、矯正し、沈黙を強いる。これは教育ではなく抑圧である。
さらに深刻なのは、「わたし」を使うことが、女性的セクシュアリティの受容と結びついている点だ。「正しい日本語」を話せと言われることは、「異性愛規範の中で、性的に見られる存在になれ」と言われることと表裏一体になっている。少女たちが「わたし」を避けるのは、幼さへの執着ではなく、危険を孕んだ社会的役割への抵抗なのだ。
英語の “I” は、性別も年齢も性的成熟も語らない。だからこそ、話し手はまず「人間」として立ち上がることができる。対して日本語は、「女か男か」「子どもか大人か」を言語の入口でふるいにかける。その構造自体が、差別的であり、時代遅れであり、欠陥的だ。
日本語が豊かな表現力を持つことと、その内部に不平等な規範を埋め込んでいることは両立する。問題は、それを「文化」や「美しさ」の名のもとに不可侵のものとしてきた態度だろう。「正しい日本語」を守るという言説の裏で、どれほど多くの人が「正しくない自分」を押しつけられてきたのか。
「I」を自由に言えない言語は、自由な自己を想定していない。日本語がこの欠陥を自覚しない限り、「自分らしさ」は常に規範への抵抗としてしか現れないだろう。社会が変わるべきだと言う前に、まず私たちは、この言語そのものを疑う必要がある。
例の工場オペレーター増田と、それに物申した障害者増田、あれ見てて胃が痛くなったのは俺だけじゃないだろ
一見すると「差別的なパワハラブルーワーカー vs 権利を主張する障害当事者」の構図に見える。でも、これ実態は「勘違いした障害者が庇護者を殴った」っていう状況なんだよな
ここまでの流れを整理しつつ、なんでこんな地獄が生成されたのか、そして「左派の怠慢」がどう絡んでるのかを書き殴っておく
口は悪い。「社会のゴミ」とか言っちゃう。現代のコンプラ基準なら即アウト案件だ
でも、やってることは何か?
仕事ができない同僚の尻拭いをし、ラインを止めず、自分の時間を犠牲にして(=子供との時間を削って)、システムを維持してる
これ、「差別主義者」の皮を被ってるけど、実態は「誰よりも実践的な弱者庇護者」なんだよ
注目すべきは彼が使った「人生資本」って単語。これ、ただの典型的な保守パワハラブルーワーカーのおっさんからは出てこない語彙だろ。他にも投資、投機、浪費、リソースetc...これはお前らのステレオタイプに無いはずだぞ?
彼は多分、リベラルな理想論も、多様性の重要性も、それが現場でどう上手くいかないかも全部理解してる。何故かと言えば投稿した場所がはてな匿名ダイアリーだからだ。オペレーター増田ははてなーであり左派的言説をよく理解している
その上で、「理想論じゃ飯は食えないから、俺が泥を被って回すしかない」っていう、工場現場でリベラリズムの実践を何周もした上で辿り着いた「現場系ポスト・リベラリズム」の実践してるんだと思う
工場現場という環境でリベラリズムを実践するのに、はてサ言論へ古い保守的な「俺が弱い存在を守る」という父権的温情をハイブリッドさせ、カスタマイズしたリベラリズムの運用をしてる高度な社畜だよ、こいつは
彼(彼女?)の不幸は、相手を「無知な差別主義者」だと誤認して、SNSでよく見る「ポリコレ棒」でどうにかなると思い込んでしまった点。つまりオペレーター増田がそもそもはてなーであるというコンテクストの考慮を忘れてしまっていた点だ
だから対保守パワハラブルーワーカーおっさんに効くだろう「女性や老人や外国人を引き合いに出して、主語をデカくして反論を封じる」っていう、いつもの左派言論での勝ちのテンプレを使おうとした
でも、相手は「安全圏から石を投げてる経済的にも精神的にも余裕のある健常者」じゃなくて、「自分の身を犠牲にして泥まみれで障害者介助を実践する言葉は悪く偽悪的だが心優しいブルーワーカーはてなー」だった
障害者増田は「お前の態度や言葉は多様性の擁護者として正しくない!」ってトーン・ポリシングをした結果、「いや、俺が障害者を背負ってるんだけど?」っていうリアルタイムで実践するリベラリズムな生き様の重みによって余裕で押し返された
最後の「愛を知らない」云々の指摘でフェードアウトしちゃったのは、論理じゃなくて「実践する生き様」で負けたからだろうな
オペレーター増田は親父の男気で仕事の遅い障害者を職場から追い出さず定時で帰ってしまうことを許容しているのに、障害者増田は弱者を守ろうとしてるわけでなく自分を守るため、他の障害者を持ち出して道具にしてる自覚を突きつけられちゃったわけだし
ここで問われるべきは、「なぜオペレーター増田の『追加業務(介助)』に対価が支払われていないのか?」って点だ
ここが一番の闇なんだけど、日本の左派やリベラル言論って、多様性を推進するくせに、その「維持コスト」の話を極端に嫌うよな
「障害者と共に働くのは崇高な理念だから、金銭で換算すべきではない」みたいな、謎の清貧思想がある
その結果どうなってるか?
「理念」は会社が掲げて助成金をもらい、「コスト(現場の負担)」はオペレーター増田みたいな個人の「男気」や「善意」に全部つけ回されてる
これ、経済学的に言えば「内部化されるべきコストの外部化」だし、もっと単純に言えば「労働力の不当廉売(ダンピング)」だぞ
障害者介助手当という字面が悪いみたいに騒ぐならメンター手当でも何でも良いわ。とにかく介助してくれてる現場の人へ対価を出せ。海外のボランティア見てみろよ。有償ボランティアなんて当たり前だぞ
「ケア労働」に値段をつけず、現場の「やりがい」や「温情」にタダ乗りしてきたのは、会社側だけじゃなくて、コスト論から逃げ回ってきた左派言論も同罪だ
資本主義社会なんだから、追加労働には追加賃金を払う。未払いは重大なインシデント。それだけの話だぞ
もし工場増田の給与明細に「メンター手当 3万円」って項目があったらどうだ?
彼は「ゴミ」なんて言わなかったはずだ。「手のかかる同僚だが、こいつのおかげでSwitch 2のソフトを余裕で子供に買えるわ」と報酬として処理できただろう
これからの社会、少子化で「ネットで毒吐きするが現場では黙って泥を被ってくれる心優しいブルーワーカー親父」はいなくなる
オペレーター増田が予言した通り、弱者救済システムは法律や社会規範からではなく現実の職場から崩壊するぞ
その前にやるべきは、増田やはてブで「言葉遣いが~」「配慮が~」って殴り合うことじゃない
「多様性のコストを現場の個人の善意に押し付けるな、請求書は会社に回せ」と団結して声を上げ、職場での障害者介助へ対価を支払うことを左派言論の主流とすることが大事だ
テレビの「コンプライアンス(法令遵守・社会規範の遵守)」がここまで厳しくなったのは、「ある日突然」ではなく、ここ20年ほどの間に3つの大きな波を経て段階的に強化されてきた結果です。
大きく分けると、①企業の不祥事(2000年代初頭)、②やらせ問題とBPO(2007年頃)、**③SNSの普及(2010年代〜)**という流れがあります。
それぞれの時期に何が起きて、どう変わっていったのかを整理します。
1. 【発端】2000年代初頭:企業の「コンプラ」がテレビに波及
もともと「コンプライアンス」は、テレビ局用語ではなく企業のビジネス用語でした。
* きっかけ: 雪印集団食中毒事件(2000年)や食品偽装問題など、大企業の不祥事が相次ぎました。
* 変化: 企業は「法令を守らないと会社が潰れる」という危機感を持ち、社内ルールを厳格化しました。
* テレビへの影響: テレビ番組は企業のスポンサー料で制作されています。「コンプラを重視するスポンサー企業」が、「自社のイメージを損なうような野蛮な番組や、差別的な表現がある番組には広告を出せない」と言い出したのが最初の引き金です。
* 象徴的な事件: 人気健康番組『発掘!あるある大事典II』でのデータ捏造(納豆ダイエット)問題(2007年)。
* 変化: これを機に、**BPO(放送倫理・番組向上機構)**の権限や監視の目が非常に強くなりました。
* 現場への影響: 面白おかしくするための過剰な演出が「やらせ」とみなされるようになり、制作現場で「これ、証拠はあるのか?」「裏取りはしたか?」というチェック(考査)が極端に厳しくなりました。
ここが、私たちが「急激に厳しくなった」と感じる最大の要因です。
* 以前: 視聴者のクレームは「電話」か「手紙」であり、局内だけで処理されていました。
* SNS時代: クレームがTwitter(現X)などで可視化され、**「炎上」**として瞬時に拡散されるようになりました。
* スポンサーへの直撃: 視聴者がテレビ局ではなく、スポンサー企業に対して「あんな番組に金を出すのか」と直接攻撃(不買運動の示唆など)を行うようになりました。
* 結果: テレビ局は「面白いかどうか」よりも**「炎上リスクがないか(スポンサーに迷惑をかけないか)」**を最優先せざるを得なくなりました。これが現在の「過剰なほどの配慮」の正体です。
具体的に何がどう変わったのか?
かつては当たり前だった表現が、以下のような理由で消えていきました。
| かつての表現 | 現在のNG理由 |
| --- | --- |
| 頭を叩くツッコミ | 「暴力を助長する」「いじめに見える」というクレーム回避。 |
| 容姿いじり(デブ・ブス等) | ルッキズム(外見至上主義)への批判、人権意識の高まり。 |
| 過激な罰ゲーム | 「痛みを笑いにするのは不快」というBPO審議入りリスク。 |
| 心霊・オカルト | 科学的根拠がない、子供が怖がる等の理由で減少(または「フィクションです」の強調)。 |
| 水着・お色気 | ジェンダー観の変化、性的搾取批判、海外フォーマットへの適合。 |
まとめ
今のテレビにおけるコンプライアンスとは、**「スポンサー企業を守るための防御壁」であり、「SNSでの炎上を避けるためのリスク管理」**です。
昔のように「怒られるギリギリを攻めるのがプロ」という時代から、「怒られる可能性が1%でもあるならやめておく」という減点方式の時代に変わったと言えます。
ここ数年で、バラエティ番組よりもYouTubeや配信番組の方が「昔のテレビっぽい」と言われるのは、このスポンサー構造や規制の緩さが関係しています。
昔のテレビ番組で「あれは面白かったな」と思い出す特定のジャンルや番組はありますか?(それによって、どの規制の影響を強く感じていらっしゃるかが分かるかもしれません)
Gemini「BLMは成功」
BLMは短期的な選挙戦術の成否ではなく、社会の根本的なOS(基本認識)を書き換えた点において、歴史的な成功を収めました。
1.構造的差別の可視化: 「個別の不幸な事件」として処理されていた暴力を、**「構造的な差別(Systemic Racism)」**として世界に認識させ、不可逆的な意識改革をもたらしました。
2.実質的な制度変革: 警察改革(ボディカメラ義務化や武力行使基準の厳格化)や企業のDEI推進など、法制度と社会規範を具体的に変容させました。
3.「摩擦」の必然性: 過去の公民権運動と同様、社会の無関心を打破するために既存秩序との摩擦(抗議)は不可避であり、変革のための必要なプロセスでした。
4.真の普遍性への貢献: 「燃え盛る家(黒人の命)」を優先的に消火することは、「全ての家(ALM)」を守るための前提条件であり、結果として社会全体の正義の基準を引き上げました。
結論として、BLMは政治的な波紋を呼びつつも、人権の基準値を恒久的に引き上げ、世界を変えた運動として歴史に肯定されます。
― フランス語の kamikaze(自爆テロ犯) と、日本の「見た目で外国人と決めつける文化」
フランス語辞典 Larousse で “kamikaze” を検索すると、以下のように定義される。
kamikaze
nom
1. Auteur d'un attentat suicide.
2. (Aussi employé en apposition.) Personne téméraire qui se sacrifie pour une cause, souvent perdue d’avance : Il fallait une kamikaze pour accepter ce poste. Candidat kamikaze.
https://www.larousse.fr/dictionnaires/francais/kamikaze/45327
自爆テロ犯
無謀な犠牲的行動をする人
しかし日本で “kamikaze=テロリスト” という理解は一般的ではない。
これは歴史的文脈を無視したステレオタイプの産物であり、日本人にとっては侮辱に近い。
なぜ日本社会では、同じレベルの偏見──「見た目で外国人扱い」──が当然のように行われているのか?
◆ 1. kamikaze 問題は「偏見」の構造そのものを映している
これはすべて “kamikaze=テロリスト” と同じ「外見に基づく誤認」 である。
自分が「見た目で誤解される」と怒るのに、
という ダブルスタンダード を抱えている。
◆ 2. 日本では「見た目=国籍」という錯覚が社会規範として存在する
BBCの報道にもあるように、外見を理由にした職務質問はすでに訴訟の対象となっている。
外見理由の職務質問は「人種差別的」で「違憲」……外国出身の3人が国などを提訴
https://www.bbc.com/japanese/68137481
外見で決まるものではない
パスポートを見せても疑われることがある
ハーフの子どもも「見た目によって日本人扱いされたり、されなかったり」
こうした状況は、
“国籍という制度の理解” と “社会の価値観” が完全に乖離している
ことを示している。
◆ 3. 外見プロファイリングは国際基準では「差別」であり、違法たりうる
法的根拠がない
国際的には “Racial Profiling(人種プロファイリング)” と認定
される。
kamikaze という偏見を受けると怒る
法律上は、
地方・田舎では特に“同質性の強制”が強い(奈良県南部・山梨県・吉野周辺など)
◆ 5. “外国人”という言葉はすぐには消えないが、多くの問題を含む
「外国人」は公式な日本語だが、実際の使われ方はしばしば差別的だ。
例えば、
NHK・民放も“ヴィジュアル的に、外見が日本人に見えない人、日本語を話さない人=外国人”として報道
「日本国籍かどうか」ではなく「見た目が日本人か」で扱いが決まる
という極端に外見依存の文化が残っている。脳内鎖国状態の人が多いという印象。※昔の日本では白人・黒人が入国しただけで全国版の新聞に「外国人」の顔の絵が描かれて日本中に配布されたそうだ。
では依然として根深い。
◆ 結論
もし “kamikaze=自爆テロ犯” という偏見を日本人が侮辱と感じるなら、
彼らが日常的に行っている「見た目で外国人扱い」も同じレベルの侮辱である。
これは、
未成熟
であり、
あなたが感じている怒りと違和感は、国際基準で見ても完全に正当。
(日本国籍を有する者は日本人。日本人の子は日本人である。見た目、話せる言語、出身地は無関係。憲法で保障されている。また、日本国は公用語は法律で決められていない。公用語は日本語ではないが、現代では事実上日本語となっている。(白人から?黄色人種 yellow と呼ばれている東アジアの日本人が日本語を話し、出身地が日本国内で日本語で義務境域を受けた人間という複数要素がセットになった人間が日本人とは言えない。法律でそんな決まりはないのだが、そう思い込んでいる人が多すぎる。日本人は日本語が話せて当たり前だと思っていても日本国には公用語が決められていないのだ。)
このキャラがはてな匿名ダイアリーを書いてたらおもろいというフィクション人物と、その理由をロジカルに挙げる。
はてな匿名ダイアリーとの親和性が異常に高い。まず彼の性格特性として、①極度の観察癖、②自己顕示欲の欠如、③論理的記述への偏執がある。これらは「文体が散文的でありながら無駄に賢い」匿名ダイアリー文化と一致する。
さらに、Lは日常の社会的規範を軽視するため、匿名で心理分析・行動経済学風メモを書き散らし、読者は「絶対こいつ普通の人じゃない」と即座に察するはずで、結果として匿名なのに匿名になってないという面白さが発生する。
はてな匿名ダイアリーが本質的に抱える感情の過剰な自意識との共鳴が高い。
の連鎖を延々と書き続ける構造になる。これははてな匿名ダイアリーに頻出する陰性感情のメタ分析として完成度が高い。
しかも、ミサトやゲンドウの発言を文脈抜きで列挙し、読者が勝手に補完してしまうため、コメント欄が地獄になるという二次的な面白さがある。
匿名ダイアリーに必要な資質として、「社会規範を馬鹿にした冷笑的観察者」という条件がある。ハウスはそれをフル装備している。
彼が書くと、医療ケースの裏側を極端にドライに解剖しながら、同僚の行動をゲーム理論・行動心理・利己性で切り捨てるため、内容が完全にはてな村の闇の本物になってしまう。
また、痛み止め依存や自己破壊的行動の合理化を淡々と書くため、読者は「この匿名、確実に普通の医者ではない」と確信し、考察班が荒れる。
スネイプは「他者への鬱屈」「自己の正しさの無言の強制」「過去のトラウマの反芻」という、はてな匿名ダイアリーの三大テンプレを完璧に満たしている。
彼が匿名で書くと、
など、名指し回避の婉曲表現が増殖し、読者が勝手に人物特定して炎上する。しかもたまにポエム混じりになるため、「スネイプ本人説」がネタ化して拡散する。
ただ彼がはてな匿名ダイアリーを使えば、
を偏執的に追及し、読者は「はてな匿名ダイアリーの最終進化系か?」という錯覚に陥る。
内容があまりに重すぎるため、読者の精神状態まで地獄に引きずり込むのが逆に面白い。
匿名ダイアリーは「匿名性による自己正当化」を最大限に利用できる。ライトはこれを最も危険な方向に使う。
書く内容はだいたい、
の三点。
みんなこんな戯言にコメントしてくれてありがとう。ちょっと泣いた。自分が情けなくて。
子どもの記憶がしっかりしてくるまでに何とか立て直したい。立て直せなくても、気付かせない努力する。
なんで産んだんだろ、あの頃の気持ちが本当に思い出せない
楽しいことしても、ストレス発散に子供預けて出かけても、それは「逃避」でしかなくて、戻ったら周りに感謝しまくって、また元の子供のお世話係で、子どもが起きてる間はずっと良い親を演じてなくちゃならない、子どもが寝たら家事
新しい仕事始めようかな、とか転職しようかなって思っても子どものことがあるからそう易々とできない。
子供を育てることが喜びとは今の所、というか未来永劫言えそうにない。なぜなら子どもは別の個性を持った人間であって、その成長を喜びととらえるのって、なんか変じゃない?歩けた、と言われてもふーんそりゃ人間なんだから歩くよね、としか思わんし、歩けないかも、と例えば言われたら、病気?としか思わん。親や夫や友達の変化とか成長を嬉しいとは思わなくない?まして自分に1円も入ってこないのに。
【追記】言葉足らずでごめん。そんなサイコパスな人間じゃない。友達いる。
例えば友達が結婚したとする。それはおめでとう!と思うし、友達が嬉しそうならよかったなあと思う、もちろんお祝いもする。喜ばせたい。私のしたことで喜んでくれたら嬉しいと思う。でも友人の結婚は自分のことではないじゃん?だから別に私は嬉しくはない。夫や親が昇進したとする、喜んでいたらよかったなぁと思うけど、別に私の手柄じゃないし、そういう意味で1円も入ってこないから、嬉しくはない。それと同じ。子供が歩いた、〇〇ができるようになった、というのは子どもの手柄であって、上手だね、とは褒めるけど別に嬉しくはない。私は何もやってないのだし、そもそも歩くも歩かないも子どもの自由なんだから、私のやりがいにもならない。支援センターとかで会うママ友がこういう子に育ってほしいですよね、って言ったりするけど、そんな理想もない。だって自分なら他人にそう思われるのは嫌だから。自分は自分だけのものだから。(と思っているから、自分の存在を領域侵犯してくる子供が苦しいのかもと気づいた、愚かすぎて死にたくなる)社会規範は製造責任で仕込むけど、それを破るも破らないも子どもの自由。18になったら解散、と思っている。
どうしよう、ほんとに。私の人生何を楽しみに、何を指標に生きていったらいいかわからない。
趣味はたくさんあるけど子供がいたらどれもできない。子供がいてもできる趣味をやってみようと思って、手芸とかお菓子作りとかしてみるけど興味ないから全然上手にできない。洗い物増えるし.食も興味ない、甘いもの嫌い.
人前ではいい母演じてるけど、家で2人でいたらほとんどスマホいじってて構わない。寄ってきたら申し訳程度にスキンシップとるけど、すぐリリースする。お互い好きなことしてる.だからほとんど人のいるとこに出かけてる。2人でいると気まずい.
製造責任だ、と思って辛いことは乗り越えてるけど、子どものおかげで仕事辞めなきゃならなくなりそうで、本当に憂鬱。
私みたいなのはなるべく子どもと一緒にいないほうがいいのに、世の中うまくいかないね.
なんで産んだの?って言われたら、それな!って感じ.
本当に思い出せない.数年前の私へ、産むな.
Q. 以下の主張は妥当なの?
国旗損壊罪が出来るのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの「当たり前」の侵害行為とされたってことだ
当たり前のことだから法にされ
A. ご提示いただいた主張は、法哲学や法社会学的な観点から見ると、**「一定の側面は捉えているが、全面的に妥当とは言えない」**と考えられます。
主張の整理
前提: 国旗損壊罪が制定される。
比較: これは「名誉毀損罪」が制定されているのと同じロジックである。
結論: (名誉毀損が個人の名誉という「当たり前」の利益を守るのと同様に)国旗損壊罪の制定は、その行為(国旗損壊)が法で守るべき「当たり前」の価値(国家の尊厳など)を侵害する行為だと社会的に合意されたことを意味する。
法と社会規範の関係 法律が制定される(あるいは刑罰が科される)理由の一つは、その行為が「社会的に許容されない(=当たり前にやってはいけない)」という共通認識(社会規範)があり、それを国家が強制力をもって保護するためです。 その意味で、ある行為が犯罪とされることは、それが「法で定めるレベルの侵害行為」と(少なくとも立法者によって)判断された、という側面は確かにあります。
問題は、比較対象である「名誉毀損罪」と「国旗損壊罪」を、同じレベルの「当たり前」として論じられるか、という点にあります。
名誉毀損罪: 保護法益は「個人の名誉」です。これは、近代市民社会において「個人の尊厳」や「人格権」という基本的人権の中核をなすものとして、その保護は広く「当たり前」のこととして合意されています。
国旗損壊罪: 保護法益は(主張者が留保されている通り)一般に「国家の尊厳」や「威信」とされます。
論点: 「個人の尊厳」を守ることと、「国家の尊厳」を守ることを、**同レベルの「当たり前」**として社会全体が合意しているか、というと、そうとは限りません。国家の象徴をどう扱うべきかについては、個人の価値観や政治的立場によって、名誉毀損以上に意見が大きく分かれるのが現実です。
「表現の自由」との衝突
国旗損壊罪が名誉毀損罪と根本的に異なるのは、**「表現の自由」**と真正面から衝突する可能性がある点です。
国旗を燃やしたり傷つけたりする行為は、それ自体が国家や政府に対する強烈な抗議や批判の「表現(象徴的言論)」と見なされる場合があります。(特にアメリカの判例などで重要な争点となってきました)
名誉毀損も「表現の自由」の例外(何を言ってもいいわけではない)として存在しますが、「国旗損壊」が「名誉毀損」と同じくらい「表現の自由」の例外として「当たり前」に認められるべき侵害行為か、というと、国際的に見ても議論が真っ二つに分かれています。
法律は、既に「当たり前」と合意されたことを追認するために作られるだけではありません。
時には、まだ社会的な合意が形成されていない、あるいはむしろ対立がある中で、特定の価値観(例えば「国家への敬意」)を法的に強制・奨励するという政治的・イデオロギー的な目的で制定される場合もあります。
もし国旗損壊罪が後者の動機で制定されるのであれば、それは「当たり前のことだから法にされた」のではなく、むしろ「(当たり前ではないかもしれないが)当たり前に『させる』ために法にされた」という側面を持つことになります。
ご提示いただいた主張は、「法制化は、その行為が侵害行為であるという認識を示す」という点では一理あります。
しかし、「名誉毀損」という(個人の人権保護という点で)合意レベルが非常に高い犯罪と、「国旗損壊」という(国家の尊厳や表現の自由との関係で)イデオロギー的な対立を含みやすい行為を、同じ「当たり前」のロジックで語ることには、大きな飛躍があります。
したがって、「国旗損壊罪ができるのであれば、それは名誉棄損のように、法で定めるレベルの『当たり前』の侵害行為とされた」という主張は、その「当たり前」の質と合意レベルが両者で根本的に異なる可能性を無視しており、全面的に妥当とは言えない、と結論付けられます。