はてなキーワード: 自己嫌悪とは
自信を欠損したまま生きている。なぜ自信がないかといえば、自分の怠惰のせいだ。
もう遠い過去になってしまった学生時代の過ちに囚われすぎていること、何も行動してこなかったこと、一貫したキャリアを進めていないこと。
本当は興味があることを「自分には向いていない」と最初からレッテルをはり決めつけてやりもしないこと。そこを通過していざやっても一人で続かないところ。
他人からの評価を誰よりも待っているはずなのに、評価されることを何もしていない。いざ評価される段になったら耳をふさいで聞こうともしない卑怯なところ。
結局記名のところでは何も表現できずに、増田のような匿名日記でしか弱みを表現できないところ。
こういう不安や不満はわかっている癖に、頭が悪くて自信をつけるには何をしたらわからないところ。
すべてが噛み合って、自信がないままいい年齢になってしまった。このまま自己嫌悪と他人への僻みだけで生きていくしか道はないのか
炎上しそうすぎて大幅改変になった現代ビジネス記事原案を供養。
*
(前編)
私は小中高と地方の公立を出て、浪人して都内の医学部を卒業している。
「東大生の親の6割が年収950万円以上」というデータが話題になったが、地方出身からすると、やはり医学部も華々しい世界だった。
まず医学部では「親が医者」なのは当たり前で、教授や講師と話す時も、世間話は最初に「親御さんは医者?」が挨拶代わりになる。私の体感では、おそらく学生の半数近くが医者の子息だった。
ハリー・ポッターになぞらえて、両親が共に医者という人を「純血」、片方が医者だと「半純血」、両方とも医者ではない人のことは「マグル」と呼ぶ文化まである。「マグル」は家系に医者がいない学生が、自虐的に苦笑いしながら使う単語だ。
しかし、「マグル」の学生も、平均的なサラリーマン家庭出身という人はほとんどいない。みな経営者や士業の家庭で、都心のタワマンが「実家」だった。
出身高校もほとんどがいわゆる「御三家」など、都内の名門私立高校が並ぶ。入学式の日、周りが何故か全員、初対面ではありえない打ち解け方で話していて困惑したものだ。
蓋を開けてみれば元々彼らは中高の同級生だったか、SAPIXや鉄緑会などの有名塾で一度は顔を見知ったメンバーだったのだ。
私のように地方公立校から、塾にも行かずに来たという子は全く見当たらなかった。
*
大学生はお金がかかる。私も美容や服飾、外食や旅行を楽しみたかったので、多い時は週9でバイトを3つ掛け持ちして、必死に時間をお金に変えた。
学費や家賃、生活費などは親持ちだったが、その他は自分のバイト代で賄うように言われていた。
けれどここではバイトを親に推奨されるというのは珍しく、むしろ「禁止」される方が普通だ。特に、家庭教師はOKでも、高卒やフリーターと一緒に働くような飲食店などは禁止されている子が多い。
そのため、そういったバイトをしたいお嬢様は、親に隠れてこっそりやることになる。私も、友達の給料明細の送付先を、私の一人暮らしの住所にするなど「協力」したことがある。
この「バイトをしたい」とはもちろん、お小遣いが欲しいという意味ではない。「人生で一度はやってみたい」「大学生っぽいことがしたい」という、興味と好奇心でやる子が多かった。
こういう子達は、1回で何十万とする美容代や旅行費も全て親の負担だ。ブランド物も親のカードで買い放題。
限度額は聞いたことがないので分からない。この顔ぶれの中で「限度額」などという貧乏くさい言葉を口にすることすら憚られた。
当然、金額を理由に遊ぶ場所を決めることもまずない。味や質、美しさ……綺麗な概念ばかりで話し合いが進む中、頭の中で電卓を弾き、時給計算などしているのは私だけだった。
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ここまでの話だけ聞くと、「地方出身の庶民が階級社会に直面してショックを受け、格差に悩む」というあらすじになりそうだが、私はそのような気持ちになったことは、実は全くない。
実際のところ、これまで属した集団の中で、大学は一番居心地がよかった。なんせ周りの人間のほとんどが私より頭が良く、私より裕福で、性格も曲がっていないのである。普通に暮らしていて、不快にさせられることはほとんどない。
尊敬できる人ばかりの中に混じり、今までしたことがなかったような華やかな経験を教わることは、とても刺激的で楽しく、毎日が面白かった。
地方公立の狭い世界のみみっちい基準で「神童」だの「お嬢様」だのとくだらないことを言われて暮らすよりもよほどいい。周りのやっていることがバカバカしく思えて退屈することも、足を引っ張られて苛立つこともない。
生まれて初めて自分が全てにおいて下位、いやほぼ底辺に位置する環境に身を置いたが、劣等感を持つどころか、なんて気が楽なのだろうと感動した。
要するに「上には上がある」といっただけのよくある話なのだが、私はその「上」の存在を知って心の底から安堵したのである。
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(中編)
私が育ったのは地方都市のド真ん中。東京で「都会」と言うと笑われるが、下手に「田舎」と言うと顰蹙を買う、そんな街だ。近くの有名大に行かず、わざわざ地元では知名度の低い都内の大学に行ったのは、その街にとことん嫌気がさしたからだった。
先祖代々続く大病院の家系などではないので、決して高い身分ではないのだが、私も一応、医者の娘ではある。ちなみに、母親は医者ではないので「半純血」だ。
金銭的な理由から受けられない大学もあったし、贅沢三昧という訳ではなかった。だが、本当の意味で生活に困ったことはないと思う。
「全身脱毛の費用を自分で稼いでいる」というだけで、大学の中では十分「苦労人」のポジションだったが、それだけだ。学費も家賃も、いくらかかっているのか知らないまま生きてきた。
そもそも、私の家庭ではそういうことを詮索するのはタブーだった。三階建てのまあまあ広い一軒家に住んでいたが、幼い好奇心で「この家、いくらしたの?」などと聞こうものなら、なんて下品で失礼なことを言うのかと眉を顰められた。
よって親の学歴も自分が大学受験をするまで知らなかったし、収入は今でも知らない。なんとなく肌感覚で予想はできるが、聞いたことはない。
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わざわざ地方公立の小中高に進んだのは、習い事の練習時間を確保するためだ。物心つく前からピアノやヴァイオリン、新体操などを習っており、そちらを人生の軸に据えたかった。そのため、進級が厳しく勉強時間を取られる中高一貫私立を避けた。
しかし、その選択のせいで、私は信じられない世界を目にしてしまう。
校内のヒエラルキーのトップにいたのは、我が家のクローゼットより狭い団地に住むヤンキー達だ。暴力や窃盗などの犯罪行為、くだらない揉め事が起こるのは日常風景だった。後ろの黒板にはデカデカと卑猥な言葉が書かれ、授業中も大声で教師に反抗する。共用部の壁には穴が開き、「アスベスト発生注意!」と貼り紙がされるも、その意味も理解できない生徒がまた上から穴を開けていた。
一番呆れ返ったのは中学校で、「廊下に繰り返し大便をしてそのまま片付けない人がいる」という全校集会が開かれた時だ。まるで動物園だ。
外で障害を持った通行人を取り囲んでからかい、面白がって恫喝している場面にも遭遇したこともあり、これが同じ人間なのかと目を疑った。
生まれてからこの環境しか知らなかったにもかかわらず、私はこちらの方がよっぽど馴染めなかった。いや、大学の時と違って、馴染む努力をする気にもなれなかった、というのが正しいだろうか。
ことわっておくが最初から「知能」だの「貧富」だの、そういうことで差別意識を抱いていた訳ではない。ただ、そんな概念が生まれる前の、何も知らない子供の目からしても、違和感を覚えることがたくさんあった。
何か作業をする時、見るからに効率の悪いやり方で苦労しているのが理解できなかった。建設的な話し合いができず、どれだけ分かりやすく説明しても話が通じないことが不思議だった。卑猥な話で大喜びするのも、暴力で強さを誇示するのも、正直バカバカしいと思っていた。
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何よりも嫌だったのが、その層に漂うあの独特な僻み根性、卑屈な被害者意識のようなものだ。
クラスでナルミヤの服が流行り、皆がメゾピアノやポンポネットの服を自慢する中、私はいつもラルフローレンやバーバリーの服を着ていた。ナルミヤに興味もあったのだが、親の趣味で買ってもらえなかった。
その時、私は価格の差など何も知らず、愚痴のつもりでこう発言してしまう。
「みんないいなあ、うちの親、ラルフローレンばっかり買ってくるからもう飽きちゃう」
たったこの程度であからさまに数人の目つきが変わり、その後も悪意を持ってこの発言が拡散された。
子供が「他人の服をそうやって価格で値踏みしており、それを恥ずかしげもなく表に出す」という感性は初めて見るものだったし、それが物凄く卑しく思え、正直ドン引きしてしまった。
自分の性格が良いというつもりは全くないが、もし私が逆の立場になったら、そんな態度は絶対に取らなかっただろう。そのような言動は「悪い」というよりも「恥ずかしい」からだ。
たとえ内心で反感や嫉妬は覚えたとしても、そういう行動は自ら「私は負けています!可哀想な貧民です!」と宣伝して歩いているとしか思えないではないか。
別に私にとって服は値段ではなく、ナルミヤは負けではなかったのに。
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万事がそういった雰囲気だった。
あまり勉強をしすぎるとバカにされるので、「カースト上位」のグループに属している子は実は勉強ができても、学校のテストではわざと悪い点を取るなど工夫していた。実際に勉強している時間を「テレビを見ている」と嘘をつき、親から聞いた内容を覚えてから学校に行くという話も耳にしたことがある。
何もかもが面倒くさかった。先入観などなくても反射的に、彼らに対して「卑しい」という軽蔑が沸々と湧いてきて、止められなかった。
お金や学力のあるなしなんてどうでもいい。ただ、それによって勝手に「見下された」「自慢された」と思い込んで攻撃性を発揮してくる、その人間性を見せられるとやはり「見下す」以外の感情が湧かない。
そういう人を表すぴったりの言葉は「育ちが悪い」しか思いつかないのだ。
そして、その思いが強くなればなるほどに、そんな低俗で差別的な感情を持つ自分に対してもまた同じように「卑しい」と自己嫌悪に陥った。
よく「人を見下している」「お高く止まっている」と悪口を言われたが、次第にそれが事実になってしまっていることも自分では分かっていた。
やがて進路を変更して医学の道に進んだ私は、この自らの醜さにも似たもう一つの「卑しい世界」を嫌というほど味わうことになる。
体力面の自信のなさから、ほとんどの医学部生が就職するような「ブランド病院」とは程遠い、「ハイポ(仕事量、労働時間が少ない)だけど治安が最悪な風俗街の病院」に就職したのだ。
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(後編)
立地や将来性、指導体制などを考慮せず、「あまり働かなくていい」「給料が高い」というだけで風俗街の病院に流れ着くような医者は、まあロクな層ではない。街の治安と相応に、職員の民度も低かった。
病院があるのは中途半端な田舎だ。ここでは娯楽が、酒と性とギャンブルとゴシップしかない。
都会で大学生活を過ごした同僚たちも、その鬱屈した思いからか、段々と空気が荒んでいった。
数ヵ月経つ頃には、口を開けば下ネタと自慢や武勇伝、他人の悪口や噂話、そして「女性職員の容姿を採点し、デブやブスと言って大笑いする」といった、聞いているだけで気が滅入るような下卑た話題ばかりが出るようになった。
百歩譲って内輪だけの飲み会でやってくれればいいのだが、職場の男女共用のスペースで大声を出して話しているのは、流石に品性を疑ってしまう。
「このバッグは何十万円した」「今月はいくら使った」などという、赤裸々すぎる金額事情をストレートに自慢してくるのにもびっくりした。今まで出会った医者の中で、そんな恥ずかしいことを嬉々として吹聴する人間は一人もいなかった。
彼らの鬱憤の矛先は、「見下している相手」により強く向けられる。
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立地が立地なので患者層もあまり良くなく、社会的に地位が低かったり、生活に困っていたりする患者が多い。それをストレス解消とばかりに、裏で笑いながら蔑むのが、病院の常になっていた。
気持ちは分かる。確かに、あそこまでかけ離れた階層の人たちと関わるのは、正直つらい。頭がおかしいのかと思ってしまうようなクレーマーもいる。貧困のために清潔が行き届いておらず、吐き気を催すような悪臭に涙目で耐えて処置をすることもある。病院に来ているのに、こちらが一生懸命になっても、まるで治す気がないのか?という横柄な態度を取る患者もいる。
救急車がタダだから、生活保護は医療費がタダだからと、まるでタクシーや無料相談のように使う人のせいで、本当に必要な人に医療が行き渡らなくなることもある。
特に槍玉に挙がるのは「せいほ(生活保護)」と「プシコ(精神疾患)」、「痴呆(認知症)」である。他にも、「ホームレス」「反社」「デブ」「ババア・ジジイ」「底辺」「貧乏」「キチガイ」など、診察室を一歩出れば、とても患者には聞かせられないような、ありとあらゆる差別用語が飛び交った。
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バカにされるのは患者だけではない。看護師も同様だ。ある同期が看護師に怒られた時、「大学を出てないから分からないんだろ」「低学歴が」とあまりにも直接的に吐き捨てるのを聞いたことがある。
一方で看護師たちの当たりも強かった。いや、当たりが強いというか、私達とは、元々装備している語彙がそもそも違うのだ。
特に怒っている訳ではなくでも、「ちょっと邪魔!」「うるさいよ」といった風な、私達が「初対面の人に対して一度も発したことがないような言葉」を、まるで当たり前のように使ってくるのだ。
これにはかなりギョッとする。私達が急いでいても「すみません、ちょっとよけてもらえますか?」と言うのは、別に敬っている訳でも遜っている訳でもなく、これしか適切な語彙が浮かばないからだ。
根本的な問題は、学歴や収入の高低ではなく、培われた文化の違いなのだ。「そんな風に人間を扱う文化」に染まりたくない気持ちが勝り、同じ土俵で言い返す気にもなれない。
病院の同僚医師たちも、私立医学部を卒業している人間が多く、元々それほど育ちは悪くなかったはずだ。しかし、あまりのカルチャーショックに耐えられず、段々と人格が歪んでいった……いや、歪めていくしかなかったのかもしれない。
地方にいた頃の私のように——。
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医者や政治家など「救う仕事」をする人間に、できるだけ庶民の感覚を取り入れるための方策として、「学費を下げる」「お金が足りなくても成績優秀者が医学部や名門大学に入れる枠を作る」といったことが推奨されているのをよく見る。
実際に、現状の医師たちの間でも、「国立は苦労していて性格が悪い」「私立は裏口で頭が悪い」といった論争があり、お互いに見下しているような風潮が一部ある。
それを、もっと幅広い層の人間を混ぜたからと言って、お互いに馴染めるとは思えないのだ。
同業者の間で「もし自分の子供を行かせるなら私立がいいか、公立でもいいか」という話が出ることがある。この話題は、温室から一度も出たことがない人ほど「公立でもいい」と言いがちだ。
公立の良い所として、「早いうちから色々な階層の人と関わって免疫をつける」というものが挙げられるが、私はそれこそが最大のデメリットだと思っている。皮肉なことに「その経験の多さ」こそが、差別や偏見、選民思想を強め、分断を生むことになるのだ。
免疫どころか、触れれば触れるほどウンザリして、アレルギー反応を起こすようになってしまう。様々な階層の人間の存在を見せたいのなら、同級生として一緒くたに扱われるのではなく、ボランティアでもすれば十分ではないか。
だからこそ自分が多様な層と関わった経験があったりする人ほど「子供は絶対に私立」と言う。もし他が全て同じ条件なら、学費の「高い」方に行かせたいという発想すらある。
「知らなくていい世界を知らない育ちの良さ」というのは、その後いくらお金を積んでも手に入らない。一生ものの財産だ。
社会の下層と徹底的に隔離され守られてきた人は、「みんな同じ人間。差別は良くない」という綺麗事を良い意味で本気で信じ、汚れのない心で生きていける。
もしかしたら私の親は、私を「世間知らず」にしたくなかったのかもしれない。だが私は「知ってしまった」ことを、後悔している。
もし子を持つことがあったら、我が子には私のような性根の歪んだ人間になってほしくない。
既婚、子なし、結婚11年目にして、初めて妻以外の人と不倫関係になった。
俺が不倫をするなんて正直、半年くらい前まで想像もしてないくらい、妻のことは好きだった
今でも大好きだし離婚する気はない。
俺が結婚する前に、婚約までしていた女に浮気され、別れたこともあった。
軽くトラウマになるくらい傷ついて、その傷を癒してくれて結婚したのが今の妻だ。
不倫関係が始まったのは本当に些細なきっかけで、相手も既婚者で、お互いにその関係を崩す気はない。
正直、自分がこんなに器用に不倫関係と妻との関係を両立できるなんて思っていなくて、拍子抜けしているくらいだ。
一方で、バレた時に妻を失う恐怖、バレなきゃいいや、と不倫相手との関係をやめたくてもついやめられない自己嫌悪もある。
良くある話だけど、まさかあんなに浮気に傷ついた自分が浮気することになるなんて思ってなかったんだ。
罪悪感もある、でも、バレなきゃ楽しんだって良いと思ってしまうから、つくづく意志の弱い人間だし、人の気持ちの変化って分からないもんだよなと思う。
病院へ行くのが苦手を通り越して嫌いだ。
ちょっと熱が出た程度で私を毎度病院へ連れて行かねばならなかった母に対して罪悪感が染みついてしまって、消えないからだ。
私が体調不良で早退したり、朝から調子が悪くて休んだりしたとき、病院へ連れて行くのは母の役目だった。
『なんだあ、大したことなかったね。こんなことで病院なんてねぇ…』
ドがつく田舎に住んでいた私たち家族は、最寄りの病院へ行くにも車が必須で、年寄だらけの待合室で1時間以上待たされることなんてザラだった。
今となって思えば私の突発的な病院イベントはそこそこ負担だったとわかる。
熱を測ったらせいぜい微熱程度、鼻が詰まってズビズビ啜ってる程度の私なんて、適当な市販薬を飲ませてマスクつけて学校にでも行かせればよかった。
日々精いっぱいなのに、わが子だからというどうしようもない理由で4時間近く拘束されて、貴重な一日を無駄にさせられて、きっと腹立たしかったに違いない。
いつの頃からか、体調不良を訴えることや、病院へ行くことは、学校や仕事をサボろうとしている卑しい行為なのだと感じるようになった。
みんなはそれくらい我慢したり、市販薬で対処したりして乗り越えているのに、体調が悪いと主張するなんて。
誰かに心配してもらおうとしているのか?やるべきことから逃げようとしているんだろう?
病院へ行ったって、市販薬と似たような効果の薬をもらうだけなのに。私よりもっと苦しんでいる患者に迷惑をかけていると思わないのか?
そういう言葉が頭の中でずっと駆け巡っている。
私ごときが病院へ行こうとするなんて、大袈裟なことをして恥ずかしくないのかと自己嫌悪する。
今現在、胃痛で吐いたり、鳩尾の上あたりがひりひりしたりしていて、さっさと病院へ行けと夫から言われている。
大人になった今では病院へさっさと行ったという実績を作って、職場に迷惑をかけないことがベストなのだと頭では理解している。
まだ明日も胃が痛ければ病院へ行こうと思ってはいるが、いまだに疎遠になった母のあの心底面倒くさそうな顔と、「こんなことで…」という言葉がずっと反芻している。
正しくはわからないが、物心ついた頃にはもう我が家は生活保護だったと思う。
父親と母親は離婚しており、シングルマザーで姉妹で育ててもらった。
私は他人とぶつかりたくなかったから、文句をあまり言わず従っておりそのたびに母親に褒められていた。
母親によく、「私ちゃんの子どもとして次は生まれてきたいな」と抱きつかれながら言われた。気持ちが悪かった。
母にとって私は都合の良い恋人であり、友人であり、娘であったのだと思う。
保育園にはお昼寝があるが、自分だけお昼寝で眠れず、虚空を眺める日々を送っていた。
そのまま小学生になり、軽度のいじめを受けながら常に自殺することを考えながら空を見て数時間過ごす日々だった。
アパートに暮らしており、自分の部屋などあるはずもなく、物だらけの汚い部屋に小さな棚と机を置いて、そこで勉強していた。
姉は努力家で見た目も良く、出来がよく人気者だった。
私は努力ができない怠け者で、見た目も悪く、人見知りだった。
地方住みの貧困家庭だった為、中学までは公立の近いところに入学し、高校は”普通と違って楽しそうだから”という理由で農業高校に入った。
家から片道4kmほどある高校で、自転車で通っていたがほとんどギリギリの出席数だった。
小学生から過敏性大腸症候群に悩まされていて、すぐにお腹を下し、授業中に何度もトイレに行くことが多かった。
そのことで陰で悪口を言われていたことを知ってる。しかし仕方なかった。
高校二年のときに大腸検査をしたが異常がなく、その頃に母親が通っていた心療内科を勧められた。
最悪の出会いだった。
医者の口癖は「楽しいことを見つけなさい」「箸が転んでも笑える年頃なんだから」だった。
この時過敏性大腸症候群への効果は無かったが、薬への依存だけが残った。
母親にお金のことは気にしなくていいから大学に通って良い、と言われた。
底辺高校だったので成績と家庭の経済状況から奨学金一種も狙えたが、そう言われたから奨学金を借りなかった。
入学してすぐに「あんたを大学に行かせるお金なんて無い」と言われた。
そんなことある?それなら大学なんて行かずに就職しておけばよかったと思った。
もう大学に入学してしまったからにはここから行かない選択肢を選べるほど私は強くなかった。
利子が60万ついた。
私が大学に入る頃、ここで生活保護を抜けて、姉が看護師で働き出した。
親は姉に10万家に入れることを強いていた。私はあまり知らなかったが、手取りのうち10万も家に入れていたら働く気力なんて無くなると思う。
しかし確かにその期間姉のおかげで私達家族は生活保護を抜けて生活をしていた。
短大に入ってからは通うのに苦労した。片道バスで2時間だった。
この頃にはうつ病の症状が重く、月~土の1限から6限の必修授業についていくのが大変で必死だった。
ただ何度も休学をしたくなったり、大学を辞めたくなった。
学校のカウンセラーを利用したが、大して効果もなく、授業と授業の間に行く時間が無くなって通うのを辞めた。
栄養士として働くイメージが足りていなかったな、と今になると思う。
考えなしの馬鹿だった。
勉強も苦手で努力もできないのに奨学金という借金を背負ってまで大学に行く意味がなかった。
なんとか卒業できたが、就活がうまく行かず、結局小売の接客販売業に就職した。
実家からどうしても離れたくて地元以外の場所の店舗の希望を出したが、配属が決まったのは地元の端っこだった。
実家から店舗への距離が10km以内だったからか、通勤手当が出ず、結局店舗の近くのアパートに引っ越した。
その頃姉は結婚し、引っ越して家を出ていた。母は姉のことを「裏切り者」と罵った。
ここまで話には出してこなかったが、母方の実家の祖母は気狂いだ。
宗教に傾倒していて、そのことで近所の人や親戚に迷惑をかけまくっていた。
昔の人だから働いたこともなく、祖父のお金だけで暮らしてきた人だった。
私は祖母に友達の家に遊びに行っちゃ駄目と言われたり、祖母がたまたま私が友達の家に入っていくのを見ていたらしく、勝手に友達の家に侵入してきたことがあった。
ホラーだった。この時の友達の家の人に警察に行かれなかっただけ良かったと思う。
こういう人だから、いつ学校に不法侵入してくるか怖くてたまらなかった。
中学の時に祖父が亡くなり、母の精神がさらに不安定になり、苛烈だった母は弱い人間になってしまった。
母には妹がいたが、関東に住んでおり、祖母の面倒を見れる状況ではなかった。
そのため今も母は祖母の世話に苦しんでいる。
だから祖母の世話を任せっきりにされている母が親族を恨むのは当然だと思った。
話を戻す、新卒で入った店舗は、パワハラとセクハラが横行するブラックだった。
ドラッグストアだったのだが、笑顔と声のトーンで厳しく言われ、なんでこんなこと言われなきゃならないんだと思って何度も泣いた。
エリアマネージャーは客の前で上司を怒鳴るし、上司も客の前で私を叱った。
また、登録販売者の資格を入社した年に取れないと晒し上げにされるようだった。
その結果は上司に送られる。
そこで結果が悪いと、休憩時間、休日も店舗に強制出勤させ、勉強をさせられた。
家に帰ってもずっと勉強をしていた。
私は馬鹿で記憶力も悪く毎回テストの点数が悪く、その度上司から叱られた。
仕事の中で棚の整理(商品がばらついてたら綺麗にする)があったのだが、遅すぎて叱られ、仕事で出来ないことがあるとその度バイトの大学生と比べられることが多かった。
店長は2つの店舗を兼任しており、ほとんど私のいる店舗にはいなかった。
店舗にはパワハラをしてくる上司二人と私だけがいる状態だった。
出勤しても上司に「その顔は何?」と言われ(普通の表情をしていただけなのだが、笑顔でいないと気に食わないらしい)、少し調子が悪そうにすると「体調悪い状態でいても迷惑だから休むなら休むで帰って」と言われるようになった。
後者はその通りかもしれないが、私は「冷たいな」と感じてしまった。
期待するな。
あまり覚えてないが、3ヶ月目には上司に辞めることを伝え、店長を交え泣きながら辞める理由を伝えた。
こちらは主にパワハラや、店長がいなくて相談できなかったことを伝えたつもりだったが、店長は「バイトと比べられるのがイヤねぇ……」そこに引っかかっていた。
「ああ、この人たちとは話が通じないんだ」と思った。
院内でいじめが横行しており、手取り13万でやることが無いか聞いてから動いているのに「やること聞いたりしなよ」と院長に言われ、毎日全身に湿疹が出て、連日救急にかかってやっていけないと感じ、3日で退職した。
辞める日は、全員がいる前で辞めることを言わされた。公開処刑だなーと思った。
生活費はカードローンを借りて自転車操業でやっていた。実家にいても生活費は無いのだった。
実家にいても親と二人で改善に向かわない、地獄のような蠱毒で暮らしてるだけになってしまうから。
生活保護は案外すんなり通った。
その頃は「うつ病」ではなく「自律神経失調症」と言われていたので、就労不可が降りなかったからだ。
しかしメンタルが安定せず、長く離れていた父親と同居することにした。
ここで生活保護を抜けた。
2年ほどだった。
父親と同居が始まってしばらくは良かったが、突然姉と叔母が家に来て、私を社会復帰させるための会議が始まった。
毎日家事をこなし、毎日2時間以上の外出をし、就労支援事業所に行き、アルバイトをし、など様々な条件を出された。
叔母の金で病院を変え、二万以上かかる謎の脳波検査で統合失調症か、躁鬱か、ADHDか、うつ病か判断する検査をした。
うつ病だった。
その後3ヶ月ほど姉たちに言われた通りの生活をした。
希死念慮がひどく、気持ちとは裏腹に体が勝手にベランダから落ちようとするのだ。
流石にそのことを姉たちに打ち上けた。
ひどく失望された。
これ以上ここにはいられないと思った。その頃父親が女性と毎晩会っていることを感づいていたこともあり、余計に居づらくなった。
通った。
生活保護を抜けては申請し、抜けては申請する人間になっていた。
色々あって、結果的に新卒の会社を辞めてから大雑把に空白期間が7年経った。
メンタルは良くなってはおらず、悪化してからずっと現状維持の状態が続いていた。
外に出るとたまになにもないのに涙が出た。家の中にいても不安で、スマホでyoutubeを流して横になっていた。
最近になって急に働こうと思いたち(今思えば究極の躁状態だったのだと思う)、フルリモートの営業を二ヶ月だけやった。
何故二ヶ月だけかと言うと二ヶ月で切られたからだ。私が無能だったのかもしれないが、ベンチャー企業だったこともあり、経営不振での派遣切りだった。
全部メールとチャットでの対応だったため、4時間ほど働けば残りの4時間は寝ていても気づかれないのだ。そういうところも駄目だったのかもしれない。
下手に二ヶ月ほど働いたため、二ヶ月だけ保護費を大きく超える給料が入り、現在保護停止状態で、国保や医療費を払っている。
ちなみに稼いだ金は二ヶ月で合計35万ぐらいだ。一ヶ月の生活費が13万のため、9万ほど手元に残る予定だった。
ここまで話していなかったが、実は私は今猫を二匹飼っている。経緯は省くが、知人から預けられた。
猫のうち片方の歯が突然抜け、病院に行ったら歯周病で治療費がちょうど9万だった。
たまたま働いていたからなんとかなったものの、働いていなかったらどうにもならなかった。
偶然に助けられた。
正直自分の世話もまともに出来ないのに何故猫を飼っているのかよくわからない。
だが大事な命だからいつまでも健康に生きて欲しい。寿命まで面倒を見たいと思っている。
不要不急の出費がなければ通常猫にかかる費用は人間に比べたら大したことなかった。
でも働いていなかったら?どうなっていたかわからない。まぁ多分病院に分割返済を頼んでいたのだと思う。
話は変わるが、中学の頃から仲良くしている友達が、30までに結婚できなかったらルームシェアをしようという話を出してきた。
欲が出た。
ルームシェアをしたいと思った。
ただそのためには生活保護ではいけないし、貯金も100万以上ないと引っ越しは難しい。
私は焦りだした。すぐに働かなければいけないと。
どこも受からなかった。
クローズ就労がほとんどだったが、一つだけ応募した障害者雇用も、3週間ほど時間をかけて待機させられたが有耶無耶になって見送りになった。
でも続かなければ意味が無いし、自分が甘えた考えの障害者だと思ってるから応募していない。
色々な企業から引っ越せば仕事があるとは言われたが、猫がいるので転居費用が出ず、無理だった。
このまま一生働くところも無いまま生活保護に甘えて生きていくのかなと思った。
今の医者には働くことは難しいと言われてるし、自分も外出ただけで意味もなく不安になり泣く病気なのでやっていける気がしない。
だけど金が欲しい、ルームシェアがしたいと思い、仕事を応募し続けている。
7年の空白期間はでかすぎた。
正直夜職やチャトレも考えたが、夜職に関しては見た目が悪くデブで喪女なので無理だしチャトレもそうだが職歴に書けないものはやっても意味がないのだ。
そもそも精神不安定な自分ができると思えない。世の中の働いてる人間は凄い。
田舎なのでまともなB型、A型作業所もなく、求人もなく、就労支援事業所も無い。
もう諦めるしかないのかな。
就労支援事業所はバスに乗れば通えるが、何度も言ってる通り外出すると精神が不安定になる。
それを考えると何もかも駄目だと思ってしまう。
フルリモートで働きたい。電話はできなくは無いが、コールセンター的なところに勤めたことが無いから続けられるかわからない。
生活保護停止がいつまで続くのかは知らないが、この状態で病院に行くことを考えると不安で無理をしたくない。
ニュースを見ると手取りが減るやらなんやら書かれてるしより不安を煽るな、と思う。
障害年金3級があるから2ヶ月に1回14万入る。だから手取りは多少低くても大丈夫だが、流石に手取り10万となると少し厳しい。
13万以上は欲しいと思うのは贅沢なんだろうか。
何か今更手に職をつけたほうがいいのか、と思わないこともないがその努力も勉強もできないから今の自分があるんだと思い手が止まる。
駄目人間だ。
だけどそこから抜けて貯金できる生活をしたいと考えると途端何も出来ないと泣くだけの無能女が表に出てくる。
親も貧乏だしほぼ絶縁してるし頼るという考えはまず無い。
というかこの状態でいてもそのうち親の面倒を見なくてはならなくなるのではないか?未来のことを考えると憂鬱になる。
隣の芝生は青いというが、
せめてどれかはまともであれよと願ってしまう。
ダイエットをしたいが飯でしかストレスの発散ができない。睡眠欲も性欲も無いのに食欲だけはどれだけ体調もメンタルも悪くても人一倍はあるのが笑える。
糖尿病と診断されており、好きだった白米も食べれなくなった。まあそんなに制限してない。ソーセージなどは控えてる、程度だ。
正直どうにでもなれと思いUber Eatsを使って贅沢して飯を食い自己嫌悪する日々をここ最近は送ってる。最悪だ。何やってんだ。
本当にどうしよう。
恐らくここから辿った未来が少し前ネットで流行った「美緒48歳」なんだと思う。
誰か教えてくれ
私は日々死にたいと思っていました。
自分は無価値な人間だから死にたい、でも死ぬのは怖い、生きるのもつらい、と毎日涙を流しました。
抗うつ薬や精神安定剤はたくさん試しましたがあまり効きません。唯一、アルコールを流し込むと思考が停止してくれます。でもそれは一時的なもので、酔いが冷めるとまた自己嫌悪に陥ります。そして次は酷い頭痛と倦怠感に悩まされます。
そんな自分が世界で一番醜くゴミのような人間だと思っていました。なので、勇気を出して死のうと思いました。
どのような方法で死ぬのがベストなのか、あわよくば誰かが悲しんでくれないか、色々と考えているうちに気づきました。
自分はきっと特別な何者かになりたかったが、なれなかった。なれないからいっそのこと死んで、何者かになりたいと思っているのだろう、と気づきました。
私は死んだところで、特別な何者にもなれません。
生きていても、なれません。
私の悩みは死ぬまで解消されることはなく、何者にもなれず、いつか事故なのか、病気なのか、死ぬつもりはない自殺未遂がそのまま自殺になるか、何だかしょうもない理由で死ぬのだと思います。
それを受け入れるしかありません。
「親子は血が繋がった他人」
これは僕の根幹の考えである。
最近、親ガチャ、毒親という言葉が以前より目にする機会が増えたように思う。
この記事を書くことを思い立ったのも、Xでとある漫画が流れてきたからだ。
簡単にいうと、お金にだらしなくヒステリックな母親に子供が振り回され、主人公の女性がJKリフレに手を出すという話。
・逮捕歴は5回以上、刑務所入りは3回(詐欺、万引き、薬物使用etc)
漫画のようなここまで強烈な逆ギレはされたことないため、そこだけはうちの母親の方がまともかもだが...
実際に親が警察のお世話になっていることから、客観的に見て毒親にあたる母親に育てられたわけだが、32歳の今、結婚もして自分はとても幸せに暮らしている。
なぜそうなったか、いくつか要因があるとは思うが、
③絶縁したこと
3点が影響が大きかったと断言できる。
そのため、毒親や親ガチャで悩んでいる方向けに、何か一つ考えや行動のきっかけになればと思い、経験談を書いていこうと思う。
▫️前置き
・これは私個人の経験であり、すべての状況に当てはまるものではありません。この選択が誰にでも正解というわけではないことをご理解ください
まず、18−20歳の頃、生活保護を受けていた母親と、血が半分繋がった妹を置いて独立したことが初めて距離を置いたタイミングだった。
少し遡り、高校3年生の夏、再婚した義父と母が離婚をして、母、妹、自分の3人ぐらしとなった。
その時、妹は2歳だったので、母は定職につくまでの間、生活をするために生活保護申請をした。
僕は公務員になるための専門学校の体験講義などに行っていたが、母が離婚したことによって道は閉ざされ、高卒で即働く以外の選択肢がなくなった。
まぁ、正直卒業してからまた勉強したいと意欲的には思っていなかったので、早めに働くつもりではあったが、自分で決めるのではなく親の影響で道が閉ざされたことに対して、理不尽だと感じたのは覚えている。
また、兄は生みの親の方の父を頼り、大学に行っていたこともあり、表では気にしないふりをしても内心では不公平だと思っていた。
自分が中3の頃、母は詐欺で捕まり、その時にさんざん泣かされたので、母親には愛想は尽きかけてはいたが、まだなにも知らない2歳の妹を守りたい一心で働くことを決めた。
公務員試験にも無惨に落ちたり、就職の面接も3〜4回落ちたが、なんだかんだその年の12月に家から近くの職場で、正社員として雇ってもらうことが出来た。
会社ではちょいちょいパワハラみたいなのも受けたりはしたが、親よりマトモな大人ってたくさんいるんだなということを思ったのを覚えている。
新入社員の自分一人の給料では3人分の家計は支え切れず、続けて生活保護を受けていたので、自分が正社員として働き、加えて母親も精神病の病院に通いながらゆくゆくは定職につき生活保護から抜ける、というのが共通の目標だった。
しかし、結局母親は2年もの間、ほぼ定職につくことができなかった。
母親が働かない限り生活保護から抜けられなかったので、稼いでも稼いでも家にお金を入れるばっかりで、自分の使えるお金は増えていかなかった。
18歳の頃、手取り14万円で働き、10万円、家に入れていた。
20歳の頃には、給料が増えて手取りは16万円くらいになったが、家には11万円くらい入れていた。
世帯の収入が増えると、当然生活保護費は減らされるので、その分家に入れる金額が増えるので給料が増えても、むしろ損な気持ちになっていった。
なにかがきっかけというわけでもなく、なんで自分は新社会人でいびられながらも会社に行き続けてるのに、自分が信じて支える母は仕事にまともに行けず、適当な理由をつけて、数ヶ月で仕事を辞めるという日々が続いていた。
20歳の大人になったばかりの子供が、言い訳ばっかりして仕事に行けない親を叱りつける、という歪んだ日々も続いた。
そんな陰鬱とした日常から抜け出したくて、母親と妹を置いて、その時付き合っていた彼女の実家の近くに一人ぐらしで引っ越した。
この時、妹と母親を置いていくことはものすごく抵抗はあったが、それよりも自分の人生がこのまま改善が見られない母親の面倒を見ていくことだけで、終わってしまうことがたまらなく怖かった。
貯金をする余裕もなく本当に貧乏でお金がなかったため、家賃3万円台のレオパレス系の物件を借り一人暮らしをスタートしたが、初めて自分で決断をし生活を選んだことで充足感で満ちていた。
一人暮らしを始めてからも、小さな妹を残してきたことが気がかりで2〜3ヶ月に一回くらいのペースで、実家に顔を出すようにはしていた。
ただ、本当に家の散らかりようが酷かったのは覚えている。
しょっちゅう電気と水道が止まったり、たまにご飯に虫が入っていたりと。
それを発見するたびに母親に注意をし、妹には色んな世界を知ってほしくて、できる限り遊びに連れて行くようにしていた。
公園に行く時もあれば、スケートに行く時もあれば、自分の家でSwitchで遊んだりした時もあった。
母親が妹の前で万引きを行い、警察に通報され、妹が児童相談所に行ってしまったのである。
子供の前で犯罪行為を行ったということで、児童虐待と見なされた。当たり前の話だ。
今回の話の主軸とはずれてしまうので経緯は省略するが、この間家庭の立て直しのために毎週のように実家に行って最大限の努力をしたが、それでも最終的には母親が薬物にハマったことにより、猶予をもらっていた児童相談所からも厳しい決断を下され、離婚した義父(妹にとっては実父)のもとに行くことになり、もう2度と母親の元に妹が戻ることはなくなった。
その時まで、自分が独立したことは正しかったと自分に言い聞かしていたが、この時は本当に後悔の念に駆られていた。
「"自分がいたら"、妹が児童相談所に行くことはなかったのか?」
今となっては、結果的に父親のもとに行って良かったと諦めはついているが、この離婚した父親の元にはすでに不倫相手との間の子供がいたので、妹が疎外感を感じるんじゃないかと怖かった。
しかし、無力な自分には何もすることができず、自分の人生の中での最大の挫折をし、心に傷を負ったまま普段の生活に戻って行った。
そのころに今の妻となる女性とSNSを通じて出会い、反対に自分と同じく家庭問題で悩んでいた妻を精一杯支えることで、心の傷が少しずつ癒えていった。
一方その頃母親は、メンタルクリニックで知り合った男と一緒に暮らしていたが、そんな状況でもしょっちゅう犯罪を繰り返し、5年前後の刑務所生活を送ることになっていた。
母親が5年ぶりに出所したとのことで、叔母経由で連絡があった。
叔母の家にいる母とのLINE通話で少しだけお互いの近況を話した。
・「更生」するために意気込んでいること
最後、どこに住んでいるか聞かれたが、それは言えないと断った。
結婚した妻と一緒に数年前に新しく住んだ家にはどうしても来てほしくなかったからである。
独り身だったら決断は変わったかもしれないが、絶対に妻には迷惑をかけたくなかった。
電話越しの声のトーンからも母が悲しがっていたのはわかったが、妻との生活と天秤にかけた時に自分の意思は固かった。
たったそれだけの行動で、今まで10年以上縛っていた、自分の心の荷がストンと下りた。
ちなみに今年、刑務所から父親宛に手紙が届いたらしく、それでまた刑務所に入ったことを知ったのだが、「ああ、やっぱりな」という感想しか出てこなかった。
毒親、親ガチャの問題は様々なケースが存在するので、全部のケースで当てはまるとは言えないが、自分の人生を客観的に振り返った時に、下の3つがターニングポイントになっていた。
③親と絶縁する
まず前提として、僕は人より鈍感であるため、へこむことはあっても、精神が病むことはなかったので、心に傷を大きな傷があり、精神状態があまり良くない方はまずは病院に行ってみたほうがいいだろう。
実際に妻は家庭問題で最初あまり精神状態が良くなかったので、最初は一緒に病院に行っていた。
ただ、一方で薬や病院もあまり頼り過ぎも良くないと自分は考えているので、良きタイミングで仕事や友達などで人との繋がりを増やし、徐々に社会復帰できれば一番ベスト。
妻は、バイトで自己肯定感や自信を取り戻し、保育の専門学校で友達ができ、今は保育園で仕事に悩みながらも、精神状態が大きく崩れることはなく立派に自立している。
精神状態が問題なかったら、①のたくさんの大人と関わるという段階にステップアップする。
僕の場合は仕事で会った人の影響が大きく、「親よりまともな大人ってたくさんいる」という事実と色んな考えに触れることによって、親の悪い影響を受けなくて済んだと思っている。
ただ、仕事もぶっちゃけ「ある程度ピックアップが選択ができるガチャ」みたいなものではあるため、そのほかにも親戚の家に転がり込んだり、今ならSNSで繋がった趣味が会う大人と会うのもいいだろう。
僕はスプラトゥーンというゲームが大好きで、ゲームをしながら色んな人とSkypeやDiscordを通じて話したり、しょっちゅういろんな人とオフ会で会って交流関係が広がった。
独立と絶縁については、似たようなもんだが、独立だけで済むならそれが一番。
しかし、僕は絶縁までしないと本当の意味で心の荷が下りなかった。
絶縁したおかげで、たまにこうやって思い出して文章を書くことはあっても、自分の人生におけるウェイトはすべて自分と妻と愛猫で占めている。
僕は独立したことにより、結果として妹に悲しい思いをさせて苦しんだし反省もしているが、絶縁まで済んだ今となっては、自分に抱えきれない問題だったと諦めがつき、後悔はしなくなった。
最初に申し上げたとおり、僕のスタンスは「親子は血が繋がった他人」。
振り返ると、弱者男性だったころの自分は、いろんな偏った考え方にとらわれていました。「女性は善、男性は悪」という極端な世界観に支配されていたんです。それが「正しい」とさえ思っていましたが、今考えるとずいぶん苦しい考え方でしたね。
当時の私の思考の根っこには、「女性は善、男性は悪」という強い思い込みがありました。男性がいるから社会は悪い方向に進む、なんて決めつけていて、そんな自分をどこかで嫌っていたんですね。
「男性には生まれながらにして罪がある」と考えていて、それを償うためにひたすら女性に尽くすべきだと思い込んでいました。無理をしてまで女性を優遇するのが「救い」だなんて、今なら「やりすぎだよ」と声をかけてやりたいです。
この考え方が日常にも影響していて、「男性の特権を捨て、女性を優遇するべきだ」と強く思っていたんです。でも、その結果、自分を否定するばかりで心も体もどんどん疲れ果てていきました。
「女性が男性を憎むのは当たり前」という考えにも支配されていました。何を言われても「自分が悪いんだから仕方ない」と納得しようとしていて、結果的に自己嫌悪のループに陥っていました。
そして、「女性が男性に何をしても、それは許されるべき」と思い込んでいたんです。どんなことも「それでいい」と思いこんで、周りの意見にも耳を傾けなくなっていました。
そのままだと本当に自分が壊れそうだと感じ、カウンセリングを受けることにしました。カウンセラーさんは優しく話を聞いてくれて、「罪悪感を抱く必要はないんですよ」と気づかせてくれました。そのおかげで少しずつ、自分を縛りつけていた偏った考え方から解放されていきました。
カウンセラーさんの優しさに本当に救われました。共感しながら話を聞いてくれる存在がいることで、自分も少しずつ変わることができたんです。
こうして振り返ると、あのころの自分はとても不安定で孤独でしたが、カウンセリングのおかげで前向きな考え方を取り戻すことができました。今では優しい妻と子ども、そして温かい友人たちに囲まれて、毎日を楽しく過ごしています。
終わった。
試験も終わったし私も終わった。
の2段階構成となっている。
製図試験を3回まで受けられる。
そして落ちた。
一方で、いやいや今年こそ受かって一級建築士に…と思い描いてもいた。
「我ながら呆れた」と、20代の頃の自分ならそう言って自己嫌悪でもしただろう。
もはやそんな感情すらない。
「ああ、だろうね。自分はこうだよね。」
貴重な20代後半の時間と500万近くの金を使ってしまっても何も残せないんだから、今後もこんな感じで生きていくんだろう。
24で仕事辞めて、27まで親の脛かじりながらダラダラ学科試験受け続けて、学科受かった年に再就職して、今の会社で3年目かつ製図3回目かつ30歳。
31歳以降もずっとこのまま結婚できず、昇進もできず、幸せママさんでもなければバリキャリでもないただの動物のまま生きていくんだろう。
そんな状況なのに何故本気出さないの?と言われそうだが、頑張るという才能がない。
YouTubeを一晩中見ることはできても勉強のための夜更かしはできない。
一生本気出せないし一生マンガ読んでYouTube見て一生手取り17万貰い続けて、いつかは生活保護もらったり、ホームレスになるんだろうか。
とっくに一級建築士をとって結婚も済ませた友人達とはもう連絡をとってないし連絡をもらうこともない。
無理でしょ。もう人種がさ、違うじゃん。違っちゃったじゃん。
寂しいから。
無理か。
そんなこんなで今も増田書いてるし。
この先どう生きていくのか、
なんで生きていくのか、
何なら頑張れるのか、
そもそも「頑張る」の水準をどこに置いて生きていくのか、
何を頑張って何を残すのか、
…つまりどう生きていくのか。
「いらっしゃいませ!一名様ですか?空いているお席へどうぞ!」
メニュウを選択⇒ガリバーバーグディッシュ(レギュラー)!チーズトッピング!
「えっ、そうなんですか!」
「申し訳ありません」と彼女は深々と頭を下げる。その姿がまたかわいい。
「じゃあ、ガリバーバーグディッシュを今から作っちゃダメですか?」
「本当に申し訳ありません、フェア開始前なので…」
「うーんでも僕が作れば問題ないですよね?厨房少し借りますね」
「えっ、ちょっと!そんな!」
「すみません、でもガリバーバーグディッシュがどうしても食べたくて!」
「おいおい、何してるんだ!」と中のシェフたちが驚いた顔でこちらを見る。
「ダメです!すぐに出て行ってください!」
その時、さっきのかわいい彼女が涙目で「お願いです、やめてください…」と訴えてくる。
その表情にハッと我に返った。
「ごめんなさい、僕、取り乱してました…」
店長は深いため息をついた。「わかっていただければそれでいいです。ですが、今回はお引き取り願えますか」
「本当に申し訳ありませんでした」
外に出ると、冷たい風が頬を刺す。自分の軽率な行動に自己嫌悪を感じた。
「なんてことをしてしまったんだ…」
しばらく歩いていると、後ろから足音が聞こえる。振り返ると、あの彼女が息を切らしながら走ってきた。
「はぁ、はぁ…お客様!これ、よかったら…」
「これは?」
「まかない用のハンバーグなんです。量は少ないですけど、よかったら召し上がってください」
「そんな、どうして?僕はただ迷惑をかけただけなのに…」
「お客様が本当にガリバーバーグディッシュを楽しみにしてくださっているのが伝わりました。ですから、少しでも喜んでいただければと思って」
「僕が受け取っていいんですか?」
「もちろんです。ただ、次回は無茶をなさらないでくださいね。16日には正式にご提供できますから、その時を楽しみにしていてください」
「本当にごめんなさい。僕、自分が情けないです…」
「わかっていただければ大丈夫です。それに…」
「それに?」
「えっ?」
実は、私もガリバーバーグディッシュが大好きなんです。だから、お客様の気持ちがわかる気がして…」
(か、かわいすぎる)
「次は16日に、ぜひ一緒に楽しみましょう」と彼女は微笑んだ。
そう思いながら、足取りも軽く帰路につくのであった。
幸せや充実に飢えてるだけの虫。
他者の幸せや充実の匂いに敏感で彼らの営みの上っ面だけでもなぞり幸せを感じようとしてもなかなか幸せというものは感じない。
だが幸せを感じることはない。
幸せというものは集団幻想であり、古代の人が考えた鵺や麒麟、龍のような幻の生き物の感情バージョンなんじゃないかと俺は思う。
しかし、まるで幸せというものが存在するかのように振る舞うヒト・モノ・情報、が多すぎて俺はいまだによく勘違いをしてしまう。
「他者には当たり前に幸せは存在していて、俺だけが『幸せ』という快楽状態で生きられていないんじゃないか?」ってね。
俺はバカだからよくこの前提を忘れて病んでしまうけれど、存在しないものと割り切ってください。存在しないんだから。
現代では幸せであることは一種のステータスと化しており、物的証拠がなくてもその人が幸せですとさえ証言すれば、他者から見てそいつは「幸せを感じている、幸せを知っている、満たされいる幸せな人物」となる。
性格、容姿、清潔感、配偶者や子の有無、趣味、年齢、性別、学歴、好み、社会的地位など。それらを複合的に見て他者の幸せを図られることが多いと感じる。
snsなどを眺めていてふと幸せでない人間を蔑むみ憐れむ傾向が人間にはあるのではないかと気づいた。
「幸せになる方法を知らない馬鹿」を「幸せを知ってる私」は哀れみ説教する資格がある。そういった感性を感じることが多い。
これに気づくとリアルの人間関係でもこのような仕草は他者への評価の節々から感じるものであることに気づいた。
このことから不幸であることや満たされていない存在は他者からの下衆な蔑みや哀れみをとても受けやすく、
つまり幸せであることで他者からの下衆な蔑みや哀れみの対象から外れることができ、人間としての名誉や尊厳を守ることができるのである。
幸せであるような振る舞いをするのは自己の尊厳を守ることに直結するとして、現代社会で『幸せな振る舞い』が力を持ったのだろうと考えられる。
存在しないはずの「幸せ」を人々が取り繕わなければいけなかった理由だ。
それによりまるで「幸せ」が実在し、身近に存在するモノかのような不可思議な存在になったのではないかと俺は考えた。
つまり他者からの評価などで被害を受けるような生活や仕事、性格などでなければ幸せになろうとする必要は全く持ってないのである。
噂に聞く「幸せ」はとても尊く気持ちのいい安らかな感覚らしく、自分も生きている間に手に入れたいと求めてしまうだろう。
友達から初めてできた彼氏を紹介されたんだけど、申し訳ないけどその彼氏がかなりのブスだったのね。
もちろん、人は見た目じゃない。理屈は分かってる。
しかし2時間友達とニヤついたブスとのオチのないイチャつき話を延々と聞かされたことでどうにも体調が悪くなってきて、適当な理由をつけて帰ってきてしまった。
家に帰ってから自己嫌悪に陥り、人を顔で判断するのは良くない、と自省したりもしたが、考えてるうちにだんだん開き直ってきたのでここに書いてる。
友達がブスと付き合ってイチャつくのは幸せなら全然OK。尊重するし幸運も祈る。少しは惚気話も聞くよ。
だから、ブスの惚気話を聞くとゲロ吐いちゃう私の体質をお前らも少しでいいから尊重してくれ。
あまり長くなってくると「ところで彼氏さんは虫以外だと何食べるんすか?」などの暴言をこらえるのが大変なんだ。
お金を得るためには働かないといけなくて。
でもなんで生きたくもないのに無理やり生きないといけないんだろうとか
なんで無理やり生きるために働かないといけないんだろうとか考えてむなしくなる
何のために自分は生きてるんだろう
母がいたころ しにたくなることいっぱいあった
でも、自分が先に逝ってしまったら…って、母一人を置いていくことの方が怖くて
まぁしぬ勇気もなかったんだけど
だけどある意味そういうしばるものがなくなって全部全部自由になったけど
生きる上で何も自由ではなくて
結局母に縛られて生きてるなって感じ
娘としてなにも孝行できずに終わって
何かしてあげたくても一生かなうことのない願いになってしまって虚しさしかない。
いいのか悪いのか
一人で生きていくにはとり得ず何も心配がいらなくなって
母が生きてる時にこれくらい働けていたら…何か変わったかもしれない
母はまだ生きていたかもしれない
そう思えて虚しさ倍増
仕事で評価されるほど、頑張るほど、なんで今なんだろう…って。
お母さんに、今の姿見てもらえてたら…って。
頑張って働いたところで遊びに行くわけでもなく
何か趣味があるわけでもなく
こんな生活で歳だけ食っていく。
ただお母さんさえいてくれたらそれでよかった…
こういうこと言ってるのも全部母を逃げる理由にしてる気がして自己嫌悪になってる。
だけど逃げたい。
今はただ逃げたい。
もう何も考えず何も感じずただひたすら無になって
だけど、生きて誰かとかかわりを持つ限り負の感情は消えなくて
でも人前では頑張って隠そうとしていて
独りになったときにどっと疲れる。
そしてむなしさ倍増する。
稼働直後に(時期は若干前後したものの)最高レアとして実装された古株同士で、得意タイプも一緒。
かつスキルもそれなりにシナジーがあり、性能自体初期キャラにある種特有の「シンプル故に代替が効きにくい」ものだったこともあり、稼働直後の選択肢が少ない頃には所謂理想編成の一角として、攻略サイトでは同時にパーティに組むことを推奨されていたりもした。
勿論シナリオ上の設定には(ちょっとした共通点はあったものの)一切の関わりのない同士だったが、そもそも初期キャラ故にその背景設定自体が非常にシンプルで、かつ「主人公の仲間として一緒に行動している」程度の妄想のできる余白はあったので、当初よりささやかながらファンコミュニティでもこの二人をペアとして扱う二次創作がいくつか散見されていた。
自分自身彼らを主力パーティとして同時に編成してプレイすることも多かったので、こんな風にちょっとした交流があったら面白いだろうなーと小さな妄想を楽しんでいた。カプ、というレベルでは無かった気がするが。
やがてゲームが軌道に乗り、キャラが増え、二人揃って理想編成から姿を消すことになっても、戦力が揃っていないプレイヤー向けのお薦め編成には長く二人揃って名前が残っていた。
また、この頃には「一つの大きなシナリオにてそれぞれの役割を担い、相互に詳細な人間関係が設定されているグループのキャラクター」が増え、かつゲーム自体の中心となってきていたが、自分が推す例の二人は相変わらずキャラクター単体でストーリーが完結していた……というか、実装時の紹介イベントのストーリーから一切ストーリー的な進展がないままだった(なので二人とも、古参のお馴染みキャラという立ち位置でこそあれ、人気自体はそこそこといったところであった)。
ゲームのメインストリームからは取り残されつつあったが、そもそもゲーム上の相性が良いだけでシナリオ的な根拠が一切ない二人を勝手に組ませて妄想している身としては(まことに身勝手な話だが)、都合が良かったのである。
二人のどちらにシナリオ上の進展が来たら間違いなくこの関係性は「そもそも存在しない」ものになるだろう、そうなっても、というかもともと「そう」なのだから文句は言えない、所詮は界隈で言う「顔カプ」である。
今のうちに楽しんでおこう……と、おそらく当時はそう覚悟できていたと思う。ここまでが前置き。
ある時、ついにこの二人にゲーム内での公式供給が発生した。しかもそれぞれではなく、二人同時に、両者の交流が描かれるという形で。
ゲーム内のミニイベントの更に1エピソードという大変ささやかなものではあったが、両者のちょっとした共通点に主眼を置き、二人が交流を通してその共通点から生じる問題に向き合い、互いの在り様を肯定するという、ありふれたものながら非常に「良い話」だった。
少なくとも自分はこういった形で両者の交流がゲーム上で実現、可視化されたことに快哉を叫んだし、界隈でも評判の良いエピソードとして捉えられた。
またエピソードで改めて二人の「共通点」が提示されたことで、今後その共通点を巡ってのシナリオの掘り下げを期待する空気も生まれた。
エピソード自体は恋愛の文脈に乗っかったものではなかったが、それを機に恋愛に振った二次創作も増えた。相変わらず二人のゲーム内での出番は増えなかったが、ひっそり自分の中で関係性のエモさを消費している分には全く問題はなかった。
もしかしたらまた進展があるかもしれないし、このまま何もなく古参キャラとして埋もれてしまうかもしれない。進展があったら嬉しい、ぐらいの気持ちでいた。それだけでも十分だった。
状況が変わったのはそれから更にしばらくのことだった。二人のうちの男の方(以降男をA、女をBとする)が、唐突に「一つの大きなストーリーに連なるキャラクター群」に編入されたのである。
それまで全く関連の描写がなかったのに、実はAはシナリオ上での重要な関係者であった、という設定が付与されたのであった。
Aが編入されたキャラクター群と彼らが背負うシナリオはゲームの根幹の一角を成す重要なものであり、注目度も人気も界隈内ではかなり高い。
編入に伴うストーリーはAがこれからそのシナリオグループ内でキャラクターとして新たな一歩を踏み出すに足る説得力を有していた。
彼はそのストーリーの中で、かつてBとの間にあった「共通点」から生じる問題を、ストーリー内で登場した新キャラと一緒に見事に解決してみせた。
故に彼は一気にゲーム内の人気キャラへと出世した。ド栄転である。
Aを主題とした二次創作の数も爆発的に増えた。ただしその中にBの姿は当然ながら影も形もなかった。
その後、Aは自身を取り巻く大きなストーリーの中で、継続的に出番を得、新たな人間関係を構築し、キャラクターとして成長を続けている。
しかしそれはあくまでも彼の属するストーリーの人間関係の中でのことであり、Bについての新たな言及は編入以降一切ないままだ。
今やストーリーの中で大きな役割を担わされたAには、システム上のシナジーで人間関係を妄想できるような隙間自体皆無である。
やがて界隈からAとBがかつて何となくセット扱いされていたという記憶も薄れた。今なら、今でこそ、AとBはまだ設定が固まりきってない頃に勝手に妄想された顔カプと言われてしまうし、自分もそれを否定できない。
かつて予感していた「そもそも存在しない」状態が訪れたということだ。だから結局愚痴にしかならない。
ただもう一つ愚痴を重ねさせてもらうとすれば、Bについては相変わらず全くシナリオ上の出番も掘り下げもないまま時が経過してしまっていることだ。
Bもまた新しい人間関係の中に組み込まれ彼女なりの成長を描写されているのなら、AとBの邂逅はひとときのオタクの勝手な妄想として自分の中でケリをつけられた気がする。
しかしBは、それこそAとのミニイベント以降、キャラクターとしての時が止まったままなのである。それこそAのようにいきなりの設定を生やしてでも掘り下げる余地のいくらでもあるキャラなのに、と、思う。
SNSのTLでAが今の彼の仲間と肩を組んで笑っているイラストが流れてくる度、消化しきれない思いを自覚してしまい、それがちょっとした自己嫌悪になる。
……と、ここまで愚痴って思うが、なんかこれって失恋した側の未練ぽいな……結局は推しカプに失恋した単なるオタクの未練なのだ(そもそも恋自体始まらなかったというやつ)。
究極的にはゲーム辞めれば良いんだよな……という話なのだが、ゲームとしてはそれはそれで相変わらず楽しめているので、結局愚痴をだらだら書き残すしかない。この未練を抱えたまま。
こじらせたオタク女の長文自分語りだが、よかったら聞いてくれ。
私は人生のほとんどを、ファンとして誰かを応援することに費やしている。
大手事務所のアイドル、声優さん、スポーツ選手、俳優さん、本当にいろいろな人を推してきた。
今まで推しに認知してもらうことに憧れはあれど実際に認知がもらえることなんて一度もなかったが、今回、初めて推しに認知してもらうことができた。
その結果、情緒がめちゃくちゃになっている。
正直、認知されるような推し方をしてしまったのを少し後悔するほどに。
私は、推しに対して、あなたを応援していますという気持ちを伝えたくて手紙を書いたりプレゼントを送ったり、現場に足を運ぶことが多いが、それに対して返事がほしいわけではない。
通常であれば、推しとオタクは1対多数のコミュニケーション、私から推しへのファン行為は一方通行の愛情表現だ。
一方通行だからこそ、推しへの愛と感謝を出力MAXでぶつけることができる。
私にとってはそういう推し方が当たり前だった。
推しとの握手会に行って、直接思いを伝えられたことに満足して、その人を推すのを卒業したこともある。
ただ、認知されるということにほんの少し憧れはあったけど。
今回の推しのジャンルは、今まで推してきた他のジャンルより規模が小さく、ファンとの距離がとても近かった。
一緒にファンになった友人がとても活発な人間なので、ファンになってまだすぐのころ、「一緒についていってあげるから!」と言われて、差し入れを持って接触イベントに行った。
いつもならそこで満足して推すのをやめてしまうのだが、まだ推し始めて日が浅かったことと、友人の存在と、「また来てくださいね!」と推しに言われたことで、単純にまた接触イベに行こうという気になった。
そこから1年間、現場に通い、毎回同じ差し入れとメッセージカードを持って接触イベに行き、推し活の様子を自分のインスタに載せ、推しのインスタにいいねを押し続けた。
今思えば、同じ差し入れとメッセージカードを贈り続けるという、認知してもらいたい人間がやるような推し方をしているが、当時はあんまり何も考えていなかった。
接触イベに行くこと以外は他のジャンルにいたときと同じような推し方をしていたつもりだった。
ある日の接触イベが終わったあと、いつも通りインスタのストーリーに推し活してきたよ!とアップすると、1件のメッセージが届いた。
「いつもありがとうございます!」という、推しからのコメントだった。
その日は嬉しすぎて、何も手につかなくなった。
後日の接触イベでも、推しがこちらのインスタの内容に触れてくださったりした。
インスタでの推しからのコメントも、一度きりのものではなかった。
認知がわかった瞬間から、しばらくは嬉しくて夢のような時間だった。
ただ、その後突然冷静になった。
今まで自分は接触イベであっても1対多数のつもりで推しとコミュニケーションを取っていたが、認知された上で接触イベで会話することやインスタでメッセージのやり取りをすることは、自分の中で1対1のコミュニケーションとなった。
もちろん、繋がりとかでは断じてなく、応援していますという言葉に、ありがとうと返してもらうだけのコミュニケーションである。
だが、1対1で神格化した愛をぶつけることに恥を感じる自分がいた。
自分の推しへの感情は、推しの都合のいい部分だけをコンテンツとして消費したいという欲をぶつけているだけ、一人の人間としての推しを見ているものではない。
途端に自己嫌悪に陥った。
でも、認知は嬉しい。応援の気持ちが届いていたことはとても嬉しい。
同時に、自分という個を認識された瞬間、多数の中の自分を見てくれていたことに対する優越感が含まれた醜い嬉しさも感じていた。
もちろん推しはそこまで深く考えていないだろう。
推しからしたら1対多数のコミュニケーションであることは変わらないと思う。
それでも情緒がめちゃくちゃになって、途端に推し活に疲れてしまった。
こんなことになるなら、接触イベには行かず、認知されない程度に影から応援していたほうが良かったのかもしれないと思い始めるほどには疲れてしまった。