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はてなキーワード: 一義的とは

2025-04-29

陰謀論批判する者が、陰謀論構造に陥るとき

結論

陰謀論を排すために自らの言説を正しいと信じすぎることこそが、陰謀論構造と同型である

この時代私たちが持つべ姿勢は、「己の正しさを常に疑い続けること」だ。





ジャーナリスト江川紹子氏は、SNSインターネット上に蔓延する陰謀論フェイ情報に対し、強い警鐘を鳴らしている。

「それらを放置することは社会にとって重大な危険をもたらす」として、教育の強化、SNSプラットフォームでの情報管理マスメディアの信頼再構築といった対策提言している。

この主張の背景には、彼女自身オウム真理教事件などで実際に“カルトによる洗脳”の危険性を取材してきた経験がある。

ゆえに、陰謀論カルト構造共通点善悪単純化、敵の想定、情報の囲い込み)を熟知しているという前提がある。

しかし一方で、彼女言動自体が「政治的偏向を含んでいる」と受け取られることも少なくない。

たとえば、故・安倍晋三元首相への強い非難は、陰謀論から攻撃構造的に似ている面もあり、

陰謀論批判する者が、自らの偏向無自覚とき批判対象と同じ構造を持ち得る」という指摘は無視できない。

加えて、「教育」や「管理強化」といった方策も、裏返せば「情報統制」や「思想誘導」として機能する恐れがある。

教育は時に“正しい考え方”を押しつけ、SNSの“管理”は選別の網を誰かが握ることになる。

これを“規制ではない”とする根拠もまた、運用者の「正しさ」への盲信に依存している。



総括:

江川氏の問題提起には重要視点が含まれているが、情報の「正しさ」は一義的に決められるものではない。

私たちに求められるのは、自分自身の「正しさ」もまた検証対象とし続けること。

陰謀論拡散と同様に、それを否定する言説もまた、絶対視された瞬間に危うさを孕む。

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タグ

[陰謀論][江川紹子][SNS][メディアリテラシー][規制自由][政治的偏向]

正論のような顔して流れ出す陰謀論 江川紹子さん「放置はまずい」:朝日新聞

https://www.asahi.com/articles/AST4Q349BT4QUCVL00RM.html

正論のような顔して流れ出す陰謀論 江川紹子さん「放置はまずい」:朝日新聞』へのコメント

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/AST4Q349BT4QUCVL00RM.html

2025-03-12

自分推しは作中において大勢の人を虐殺したキャラクターなんだけど

観た人からそこを責められるのは仕方がないと思っている

だけど推し人格矮小化されて、本当はそんなのどうでも良かっただの本当に求めていたのは特定相手との恋愛だけだのと決め付けられるのは我慢ならない

やり方は間違っていたにせよ、推し人類全体の事を考えていたのは事実しか思えないのに、そこを矮小化されて単純な構図に貶められるのが本当に苦痛

そんな単純な話じゃないだろうに。

追い詰められた時に出るのは追い詰められた時の姿であって、そのキャラの全てではないと思うんだよね。それをもってそのキャラの全てだと判断されるのはとてもとても嫌だ。

大義に生きた推し生き様全否定して、一般的幸福提示され、そうすれば良かったと小さくまとめようとされるのも嫌だ。

そういうチャンスはいくらでもあったのに、敢えてそういう生き方から背を向けたキャラなんじゃないのか。

自分だけ幸せでもそれだけじゃあ意味がないと考えたのが特徴じゃないのか。

まあ、個人解釈としてそう主張するならまだ分かるよ?解釈は人それぞれだし?だけどそういう前置きすら無しに、こいつは本当はこんな人間なんだぜと、こうしていれば良かったと一義的に決め付けてくる界隈なので本当に不快

あと、訳が分かんないのは無辜の民を虐殺した事ではなく、名有りのメインキャラに対する態度ばかりを叩かれる事。え?そこってそんなに重要な点なの?別にそんな重要じゃなくない?っていう。

名有りのキャラとそれ以外とで命の重さに差を付けてるんだろうか

そのキャラクター自身もそういう選民思想を持っているならまだしも、明らかにそういうキャラではなく、一般人にも気を遣っていたので納得いかない

2025-02-06

13歳の息子へのメッセージ

本稿は、13歳になった君にこれから人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである

観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生選択肢を狭めないためである

具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策模索して欲しい。

もちろんお父さんも協力は惜しまない。

目標の話

人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段道筋」は自然と定まる。

歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものからである

ポイントは、まず「自分想像する理想未来目標ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)

ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算分析論理的思考精緻に組み立てていくものである

多くの人は与えられた「手段から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要から働く。なんとなく環境に悪そうだからビニール袋」を使うのをやめてみる。などである勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。

電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシューから入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的姿勢である

そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的一面的一時的見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。

受験就職、大きな買い物、仕事恋愛結婚など人生重要決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。

その際、ひとつ注意すべきなのは人間物理感覚時間的感覚記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計データに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。

先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢である

人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害戦争など自分では回避制御できないことも起きる。

『良いことばかりは続かない』という覚悟必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。

おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。

人間関係の話

成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。

成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応「奇跡」を起こす。

重要なのは奇跡自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。

人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。

『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる学校には「校風」、会社には「社風」がある。

自身意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。

気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書金持ちかどうかとは関係がないという点である会社社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間存在するという現実認識しておいた方が良い。

出会人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分コントロールできる。付き合う人や、身を置く場所環境自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかし場所コミュニティには近づかないこと。

たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。

エントロピー増大の法則熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間森羅万象すべてに当てはまる普遍法則とされる。水に拡散したインク自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプシャッフルするのは容易だが、偶然きれいカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大であるエントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である

人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。

井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナ大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。

もう一度言う。『人は環境によって作られる』

お金仕事の話

お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味お金重要である

その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。

金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。

お金を稼ぐときには、ギャンブル宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事計画を立ててはいけない。

怪しげな儲け話も同様である。誰かからうまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。

かに成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力必要になる。

100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分努力でなんとかなるということを理解すること。

近い将来、君は世の中に無数にある仕事事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人から感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。

野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツ芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。

しかし、投資ギャンブルで稼いでも誰から感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。

お金を「貯める」ことも同様に大切である

人間欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊QOL(Quality of Life生活の質)が低下する。

この課題に対する古来より解決策はただひとつ収入から天引き」することである給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。

天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人イスラムメソポタミア文明華僑日本本多静六という人物明治造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課組織必要費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである

人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものである自動車も同じ。毎日飲むお茶毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求お金がある限り続く。それが人間本質なので努力気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。

そのために最も有効方法が「天引きである人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである

天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。

次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。

高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。

高級車も普通車も、飛行機エコノミークラスビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値デザインなど)を認めることは人間文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。

その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間心理的欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来機能目的」を基準にして価値判断するとぶれない。

基本的日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的事象別にして)無くなってから買っても不自由することはない。

経営学における重要概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である

特売だからとか念のためにとかい理由安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってからのものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である

それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法こちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。

あらゆる在庫管理するためには「整理整頓」が重要である身の回りのもの整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。

整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的ものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO公文書管理規則生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。

ちなみに、このような「一生使える知識技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの方法知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。

金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業組織など存在しないことを考えれば、出納管理必須Permalink | 記事への反応(0) | 21:00

2025-01-29

anond:20250128154514

え? Apple Watch って時計だったの??  

まあ、確かに時計としての機能も有るっちゃ有るけど、だからと言って Apple Watch一義的時計と見做すとは、なかなか斬新な解釈ですね。 目から鱗でしたよ....   

頭のいい人って、やっぱり目の付け所が違いますねぇ....

2025-01-25

画像生成AI最初から金稼ぎのために悪用するつもりの奴はどうでもいいが、ただ仕様が分かっていないせいで無駄トラブルに巻き込まれてる一般人をよく見る

潜在空間概念モデルトレーニングの流れ、ファインチューン、マージ、LoRA、ベクトル操作くらいは勉強してから使ってほしい

わたし特定絵師に寄せてないよ!と言っても、使ってるモデルチューニング特定絵師データばかり使ってたり、絵師LoRAがマージされてて特定の絵柄が標準で生成されるようになってるモデルを使っていると、ユーザーが寄せようとしなくても寄る

イラスト用のモデルがなぜイラスト風の画像以外を上手く生成できなくなるか?つまりなぜ実写が苦手になるのか、それはイラストで頭をいっぱいにされているからだよ

あと、スタイル指定に使われる「by 〇〇」とか「〇〇 Style」みたいな言葉は、所詮他のプロンプトと同様に「複数概念内包された言葉」でしかないので、組み合わせ次第では特定の画風に寄ることもあるわけだ

例えば「Vector Style」という言葉が「solid color, sharp edges, clean edges, minimalist, transparent background, high contrast」といった要素を持つ場合

「solid color, sharp edges, clean edges」というプロンプトを使うとVector Styleに近づく

要は、ある言葉が直接そこに結びつき、絵柄指定と同じ効果をもたらすということ

さらに、この現象の極端なケースとして「教師データ特定絵師作品ばかりに偏ったオブジェクトは、オブジェクトのもの絵師の絵柄が結びついてしまう」問題もあったりする

そのオブジェクトAと絵師Xの概念が非常に近いために、オブジェクトAを生成すると絵師Xの絵柄で生成されることがある

AといえばX!状態というわけだな

逆に、絵師Xの名前と同じ単語が入っていると、なぜかAが生成される、ということもある

これはいわゆるバイアスで、一般的な例を出すと、黒人アフロで生成されやすかったり、白人金髪になりがちだったり、特定職業人を生成すると性別が偏るのと同じで主に学習データの偏りに起因する

謎のサインが生成されるのも「イラスト絵画には大体はこんな感じのがある」と学習した結果だ

黒人アフロの例では、それぞれの概念が結びついていて、黒人チリチリというバイアスがあるので黒人+ロングヘアー=チリチリロングになったりするし、ドレッドヘアーになることもある

白人+アフロ=浅黒アフロになる事もある そのAIにとってアフロといえば黒人であり、黒人といえば肌が黒い、白人に黒を足すと浅黒い、故に浅黒アフロが生まれる、ことがある

とはいえ、この程度ならAI側がその言葉から学んだ特徴に過剰適合していない場合プロンプトの組み合わせで回避できる問題

黒人をロングにするとチリチリになるなら、ストレートヘアーなどの言葉を追加する

白人アフロで浅黒くなるなら、白い肌などの言葉を追加する

アフロや黒い肌といった言葉Negativeに入れるのもありだ

不要な特徴から距離を取れる、ただし反応できるのは文字概念が結びついている時」

潜在空間ベクトル操作とはそういうこと

しかし実際のところ、全ての概念は何か別の概念と関連性がある

ストレートヘアーを追加すると顔が変化したり、白い肌を追加すると目の色が変化したりする

「"あの"魚が欲しい」と網を投げた際に、狙っている魚以外のものまで取れてしま

言葉の組み合わせの影響で、別の海域に流されることもある

なので、観察しながら調整しなければならない

というかそもそもバイアスは利用したければ利用したっていい

望まぬ結果を避けるために、意図せずともそういう結果になりうる、という事だけは把握して

今の生成AIにとっての自然言語とは、固有の意味を持つのではなく、ある「領域」を示すもの

生成AIは、言葉に従って潜在空間を移動しながら、学習した言葉と関連する画像から得た特徴をガバっと鷲掴んでいき、人間から見た時の整合性は気にせず一つの出力物をアウトプットする

小魚が多い海域で網漁をすると、小魚だけ取れることもあるが、小魚と一緒にゴミが取れることもある

ゴミは要らないと言っても仕方ない、その海域にはゴミ存在するのだから

だが実は、この仕組みがアウトプット多様性を生み出すために役立っている

人間は魚を手に入れるために網を投げたわけだが、漠然と「魚が欲しい」と網を投げた時に、特定の魚しか取れないのは多様性の欠如に繋がるし対応力もなくなる

究極的には、「プロンプトで書かれている事を"正しく"」出力するAIも作られるかもしれない

必要としているものしか出てこない、さぞ便利な道具だろうと思う

だが、そのAI活用するには結局のところ、ドメイン知識を持った上で自分が何を必要としているのかを相手に伝える力が必要となる

理由は、ある言葉解釈が、人それぞれであるから

「犬」と言われて、真っ先に秋田犬が思い浮かぶ人もいれば、ペットミニチュアダックス以外が思い浮かばない人もいる

その「リンゴ」っていうのは、片があるの?無いの?一枚の葉がついてたりする?木のこと?

エンジニアってのは、何のエンジニアなんだい?

"正しさ"とは?解釈の結果は一義的なの?全人類共通理解が得られるの?

あいつが悪い!いやこいつが悪い!すまん俺が悪い!いやそんなことはない!

と、何かひとつ物事にも、色々な解釈がある

お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな

by 日本橋ヨヲコ/少女ファイト

あらゆる物事について、全ての人類が同じ解釈になる日がこない限り、知識経験、そして言語化から逃げられないというわけだ

というわけで、潜在空間概念モデルトレーニングの流れ、ファインチューン、マージ、LoRA、ベクトル操作を学び知識を増やし経験を積もう

画像生成モデルを学ぶこと、その半分くらいは言語モデル理解することにも繋がるよ

って感じの事をちゃんとした文章で誰か書いてよ

本当はそもそもの仕組みとかモデル毎のアーキテクチャとかトークンとかシードについても知ってほしいけどキリがないんだよね

追記:

AI校正させるのはいいけど、この文章で完成するわけでもなし、それを"ちゃんと"発展させるのは手間がかかるんよ

それこそ小魚と一緒にゴミが取れまくるんで、ゴミを取り除くために愛と魂をこめて作業しないといけないのがめんどいわけですわ

から俺はやりたくないけど出版してくれたら買って布教するよの投稿

追記2:

戦場に引きずり出されてるのは俺じゃなく「仕様が分かっていないせいで無駄トラブルに巻き込まれてる一般人」ね

2025-01-20

知事記者会見2024年12月26日木曜日))

https://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/g_kaiken20241226.html

https://www.youtube.com/live/b6vWNtIIrVc?si=UezoDtDGjdbIrs1O&t=1745


朝日新聞

先週も聞きましたが、県の職員とかご遺族であるとか関係者の皆さんへの誹謗中傷を止めてくださいということをなぜ言われないのかをお伺いしましたが、お答えいただけなかったように私は捉えています

それはなぜかを改めて教えてください。


知事

SNS誹謗中傷や人を傷つけるということは、適切な運用の仕方ではないという思いです。

からこそ社会全体が、これは県民の皆さんも含めてですが、SNSというものは、メリットとして良い面もありますから、そういったところの気を付けながら、SNSを使っていこう、利用していこうということは、私は大事だとずっと申し上げています


朝日新聞

冒頭申し上げたとおり、この半年以上、振り返ってみても、ほとんど、誹謗中傷している人とか、それをしている人が悪いとは思うのですが、いわゆるその誰が憎いとか、誰が嫌いだとか誰を引きずり降ろそうとか取材しているとそういう声がたくさん聞こえてはくるので、そういうことを言っている人達一義的には原因はあると思います

ここまで事態悪化している理由の一つとしては、知事ですので、例えば、誹謗中傷やめてくださいとか、今すぐ県警に相談行きますとか、そういうことができる立場なのに、それをしない不作為というのが、ここまで事態悪化させた理由の一つになっているのではないかと私は思っています

知事は、今のやりとり聞いてそこら辺についてはどうお思いですか。


知事

朝日新聞記者意見として、そういった意見があるということは受け止めますが、私としては、この間3月以降の対応それからこの間も含めて、第三者委員会を立ち上げて調査をしていくという対応も含めて、自分としては、県としても適切な対応だと思っています


これもう未然の故意だろ

相当気を悪くしたのか動画だと記者名前を出して支持者に犬笛吹いてんだよな

こういう所が本当に小さい奴だと思うわ

2024-12-07

偽装難民急増と民主党

不法滞在者問題について、移民を入れているか自民党が悪いというブクマカがいる。正規在留資格を持つ外国人といっしょくたに論じるのは馬鹿げている。

前提として、観光ビザ入国して、期限超過後も出国を拒み、難民申請を繰り返すことで居座っている事実がある。こうした人たちと、日本就労する正規資格を得て入ってきた人の問題をごっちゃにするのは、欺瞞というものだろう。

なお、就労目的難民申請者は、民主党政権時の行政運用緩和をきっかけに激増した。その意味でも矛先が違う

https://www.sankei.com/article/20240502-5QEKJJWHPJPCBLXBZ3XQYKXNBQ/

民主党政権時代の2010(平成22)年には、難民申請から6カ月たった申請者に対し一律に就労できる運用を始めた。目的申請中の自活のためだったが、「申請すれば働ける」と、目的手段が逆転。10年に全体で約1200人だった申請ピークの17年には約16倍の約2万件に急増した。翌18年に再び就労を厳しくしたところ、申請は半減した。入管関係者は「難民としての認識を持ち合わせないまま、一義的には出稼ぎや定住を目的としていることを強く疑わせる現象だった」と振り返る。

2024-11-28

anond:20241128062310

まあ一義的にはせやね

広義では「弱者男性への義理応援」のつもりでそのての名誉毀損物に金出して買う馬鹿絶滅してほしいし

なんならエロコンテンツ乞食したいだけの理由無料でそれを見たがる馬鹿絶滅してほしいね

2024-10-18

マジョリティとしてのトランスジェンダー

ジェンダーとは社会的文化的な性規範のことであり、時代地域ごとにそれぞれ存在しうるもの

そのはずなのだが、トランスジェンダーを名乗る人々が存在の前提に掲げるジェンダーは、なぜだか彼らの中では共通かつ一義的概念である 現代トランスジェンダーが言う「ジェンダー」とは、西欧の・もしくは既に西欧化されたジェンダーにほかならないのだ

これは異文化の透明化であり、本来時代地域存在したジェンダーの淘汰と抑圧でもある そのうえで、トランスジェンダーの多くは、このことに対して特段の説明を避けており、無自覚ですらある

説明すれば彼らは連帯のための一つのよすがを手放し、彼らの存在根拠である性自認」の概念までも揺るがすことになるので、触れたくない気持ちは十分に理解するが)

トランスジェンダー性的マイノリティだが、その一方で西欧文化というマジョリティのもとに存在していることに自覚的必要があるだろう

2024-07-21

日本にいて当たり前のように英語で話しかけてくる人間はまあ普通にカスだと思ってるけど、ふとグローバリゼーションが謳われる時代日本にいる東アジア人風の人間が必ずしも日本話者であるとは限らないのではないか

それは異文化への敬意というよりもむしろ属地的な排他主義なのではないか

という反論自分から発生した。

常識的感覚としては、程度の問題ってもんがあるだろ。日本にいる日本人風の人間ほぼ日本語話者だろ。

グローバル化「すべき」という規範に基づくならまだしも、観光地でもなきゃ言うほどグローバル化もしてねえだろ。

といった所ではあるけれど、理屈としてはまあさほど間違ってはいない気もする。

さりとて、であれば英語で話しかけるのが適切であるという結論一義的に辿り着く訳でもない。そう言いたいのであれば、前提として英語世界公用語として用いるべきだという覇権主義必要とする。

からといって日本語を使うべきだ、という結論になる訳でもない。

郷に入っては郷に従え、的な規範定言的に扱うか、名実ともにその領域において圧倒的マジョリティ公用語を使うべきだ、という話者数に依拠する事になる。

それが英語覇権主義に対して妥当かと言われるとどうなんだろうという気もする。宙ぶらりん状態だ。

おれはなんでわざわざ英語話者様に合わせなアカンねんという気持ちがあるので後者に与したいところだけど。

2024-07-15

逆説的だけど、恵まれ環境に置かれた人間のしんどさってあるなって思う。社会制度がどうのとかじゃなく個々人の姿勢の話ね。内的にも対外的にも逃げられる言い訳の無さと言うか。

まれなかった人間なら多少弱音を吐いても「かわいそう、仕方なかった」で、頑張れば「あん境遇からとても偉い」になる。

まれ人間が同じ事を言えば「贅沢な悩み」とでも言われて矮小化されがち。例え本人の感じている苦痛が本物だったとしても、まやかしや甘えの扱いを受ける。

全ては自分意志次第、の自己責任マンは知らん。自分思想客観視した上で環境に不平を垂れる人間を見なくてもいいようにしていない、そういう人間排除する社会へと変えられないお前の自己責任。まあ自分構造主義より実存主義の方が好きだしあまり強くは言えない。

基準がなければ不満は際限なく増大するから目安として他人の水準を考える、というのも分からんでもないけど。にしても上はいるし。

もっと辛い境遇の人がいるか相対的幸福、が通るならもっとまれた人もいるか相対的に不幸も通るのにね。そもそも自分の話になんでお前がしゃしゃり出てくる訳?下手すりゃ自分ですらなくどこかの恵まれない誰かを引き合いに出して。

いやまあ客観的というか一般的基準で恵まれてると言えるような環境への文句に苦言を呈するのは分からんでもないけど。ガキの頃月3万の小遣い貰ってたけど足りなくて不満だった。もっと楽しいティーンエイジを送れたはずなのに損した、とか。

でもそういう外との関係がある問題とは違った内的な悩みについてまで、環境を持ち出して矮小化するのは違うんじゃないんですか。下手に恵まれてるからいらん事ばっかり考える、だとか。

もっと言えば世間基準外野感想がどうだろうが、小遣いが足りないと思ったのならその人にとっての不満は本物なんだろうし。

でも何かこう、「客観的には恵まれてるけどそんなの関係なく自分は辛いからこうしてくれ」と、「妥当」であれそうでないんであれ不満が不満で終わらずに待遇改善を求めて、求められた側が「甘えるな、そんな悩みは贅沢だ」と突っぱねるなら全然分かるんだけど。

そんな要求が罷り通るほど世の中は云々、とかそういう事じゃなくてね。共感出来もしない悩みに対して助ける道理なんかないだろうし。そもそも共感出来ようが出来まいが助ける義務なんかないと思ってるけど。助けたれば助ければいいし、強いられる道理もない。協力ゲーム理屈は置いといて、道徳の話としては。

そういう場面でなく、別に助けを求める訳じゃないけどポロッとこぼした言葉を責め立てられるのは鬱陶しいよねって思う。

こぼすな鬱陶しいって話なのかもしれんけど。生き辛ない?そういう「意味のある」会話しか求めないの。

あとなんかジョジョでも幸福絶対的ものじゃなく、スタート地点をゼロとする相対的ものだ、的な話があった。

環境幸福度なんか逓減していくもんだろうから、このスタンスで言えばただでさえ恵まれ環境に生まれればそこから更に上に行くのはしんどくなる。

わざわざ自分が不利に置かれる価値観に与するのもマヌケっぽいけど、この考え方が特段変わったものだとも思えない。

そりゃ全くの一人で生きてる訳じゃないから、多少は他人人生と比べて家庭の経済状況や親との相性とかを客観的に相対化するものだとは思うけど。

でも基本的には環境なんて所与のものであって、自分にとっては少なからず当たり前だと思ってる部分がある。

マジで辛い環境にいる人は、こんなんが当たり前でたまるか!って思ってんのかもしれんけど。

幸せになれない価値観なんか捨てて思考矯正すればいいんだけど、それをやるならもう何でもアリじゃんって気もする。

新興宗教にハマり新しい価値観を得て、本人は幸せだと言っている。これは哀れ。

いつまでも仕事か辛いとばかり言って、価値観を変えて少しでも楽しもうという姿勢を持たない。これはワガママ子供じみてる。

これってダブルスタンダードだよね。どちらも幸せを求めた適応の話なのに。結局自分が信じてる価値規範を共有したいだけじゃんっていう。

おれは客観的に恵まれ環境にあって不満だらけの人間なので、態度次第では世間からの当たりが強くなる。

内面化された「環境感謝」の規範をこそぎ落とし、「いやおれが辛いと思ってんならおれにとって間違いなく辛い事だし、他人感想や、他の境遇を持ち出した相対化なんて関係ない」と開き直る事でせめて自分の中では居心地の良さを確保する。

その上で、「だからといって別に他人がおれを助ける道理はない。生まれ育った普通か恵まれてるくらいの環境を恨むこともない」とも思うことで社会との関係を維持する。そもそもおれの抱える悩みの大半が他人の助けでどうこうなるもんじゃないし。

自分なりに整合性を取った態度のつもりなんだけど、おれの言葉から言ってもいないスタンス勝手一義的に導き出す人もいるし、歪なのかもしれない。

まあこんなのも恵まれ人間思考回路が前提になってるもので、そうでない実際の人間はまるで別の世界観を持ってるのかも分からんけど。分かった所で悩みが消える訳でもないし、どうでもいいや。

anond:20240714124321

 元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるか攻撃的な印象を受けるし不快だ。

 元増田は夫との暮らし基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち不安を綴ってみたに過ぎない。

 そのフワッとした感じが増田には不快なのだろう。

 あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。

 確かに世の中には、言及対象一義的明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネス科学領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。

 しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーション井戸端会議とか時候挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さなものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学軍事医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。

 この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。

 そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年人類はやってきたのだから一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。

 人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。

 元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。

 ズバリ一言で言えてしまうような簡単ことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。

 しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。

 そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。

 不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田元増田個人的攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険人物だということになりはしないか

anond:20240714124321

 元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるか攻撃的な印象を受けるし不快だ。

 元増田は夫との暮らし基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち不安を綴ってみたに過ぎない。

 そのフワッとした感じが増田には不快なのだろう。

 あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。

 確かに世の中には、言及対象一義的明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネス科学領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。

 しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーション井戸端会議とか時候挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さなものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学軍事医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。

 この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。

 そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年人類はやってきたのだから一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。

 人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。

 元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。

 ズバリ一言で言えてしまうような簡単ことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。

 しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。

 そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。

 不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田元増田個人的攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険人物だということになりはしないか

anond:20240714124321

 元増田の言い方がモヤモヤしていて、無責任な感じにイラッとくる、という気持ちはわからないでもないが、この増田の方がはるか攻撃的な印象を受けるし不快だ。

 元増田は夫との暮らし基本的には満足していて仲も良く、ステーキを食べるのも自分にご馳走したい気持ちがあるのかもしれない、感謝もしている、と明言している。だけれども週4ステーキちょっとやり過ぎではないか?というフワッとした気持ち不安を綴ってみたに過ぎない。

 そのフワッとした感じが増田には不快なのだろう。

 あるいは「普通は週4もステーキを食べない」といった「普通」の押し付けに反感を覚えたのかもしれない(別に元増田は「普通」を強く主張しているわけではなく、自分気持ちをなんとか表現しようとしているだけだと思うが)。

 確かに世の中には、言及対象一義的明確化し、明瞭な論旨と責任をもって語ることが期待・要求される分野というのはある。医療軍事などは最たるものだろうが、もう少し広く取ってビジネス科学領域でも、言いたいことが明瞭で誰にでもわかるとか、責任所在がはっきりしているとかは、少なくとも好ましいことで、場合によっては強く求められると思う。

 しかしこれらを全部合わせたとしても、人類史的に積み上げられてきた広く複雑で豊穣な生活の極々一部に過ぎず、圧倒的大部分の人間的(動物的)コミュニケーション井戸端会議とか時候挨拶とか全然内容のない雑談とか芸能人の噂とか家庭の愚痴とか、フワフワして何も生み出さなものでできている。そちらの方が元々の土台で、科学軍事医療的な厳格さなどポッと出で出てきた上澄みの部分に過ぎない。

 この上澄みの部分が現代生活の中でそれなりに重要位置を占めており、だからこそ教育で叩き込まれるのは間違いないし、決してどうでもいいなどと言うつもりはないが、逆に言えば教育で頑張らないと身につかない「不自然」な能力だと割り切った方がよい。

 そして遥かにアホでフワフワしたコミュニケーションの方で何千年何万年人類はやってきたのだから一見して理不尽で不合理に見たとしても、それはそれで結構「うまくいく」のだと受け取るべきではないか。フワフワしている方がずっと「枯れた」技術だ。

 人(動物)の生活の多くはなんとも不合理で言語化しにくいモヤモヤとしたものでできていて、それを明晰判明な言葉だけで切り出そうとすると、豊穣な大部分を無情に切り捨て単調化してしまうことにもなる。

 元増田には夫への感謝や今の生活への満足がありつつ、「でも…」といううまく言えない部分があり、矛盾と知りながらそれをうまく言葉にできないか表現できないか、奮闘している。うまく言葉にできているかと言えば、あまりできていないと思うが、重要なのは言葉にできてしまうことではなく、しようとしてもがくことだ。なぜなら端的に言いきれてしまったら、その瞬間に肝心のモヤモヤした大部分ははじめからなかったかのように捨てられてしまうからで、言葉というのは「射当てる」ことより「その周りを回る」ことに重要性がある。

 ズバリ一言で言えてしまうような簡単ことなら、わざわざ文章にしてダラダラ語る必要などない。何なら記号や数式で表した方が合理的だし、実際、どんどんそうやってスリム化している領域だってある。

 しかし、何度も同じことを繰り返して恐縮だが、人の生の圧倒的大部分はそんなにスパッと言えないことで、多くの(おそらく増田ほど頭の良くない)人々がスパッと言わない暮らしを何千年も続けているのは、それはそれで大局的には一つの合理があり、恒常性があるからだと思う。

 そうした風習(のようなもの)に気に食わないものがあったとしても、「人間のクズ」などと強い言葉で人を非難するのはどうなのか。

 不快な点、納得のいかない点があったとしても、増田元増田個人的攻撃したわけではないのだから、読むのをやめて放っておけば済む話で、さらに譲って何か一言言うにしても(もちろん言ってもよい)、言葉を選ぶということができないのだろうか。こんな言い方しかできないのだとしたら、増田の方が元増田よりかなり深刻にコミュニケーション能力が欠けているように見える。もし能力に不足がないのだとしたら、事態はより深刻で、人間性として攻撃的で危険人物だということになりはしないか

2024-06-17

姫路城外国人料金における懸念事項

姫路市長が外国人の料金を4倍にしたいという話をしたニュースについて、外国でもやってるから〜みたいなコメントが見られる。ただの私人による観光施設ならそんな話で片付くこともあろう。しかし、姫路城地方自治体施設である。本邦の地方自治法に基づいた存在として、単なる海外事例の追随では終われない。

前提1:姫路城姫路市による公の施設

「公の施設」とは地方自治法244条1項にて「住民福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」と規定されている。

また、同法244条の2第1項において、法令特別な定めがある場合を除き設置や管理条例で定めることとされている。

翻って姫路城であるが、姫路市条例にその名もずばりな「姫路城管理条例」というものがあり、公の施設である

前提2:公の施設使用格差について

地方自治法225条において、公の施設の利用について使用料を徴することができる旨定められている。この使用であるが、当該公の施設に係る住民とそれ以外とで格差を設けること自体可能と解されている。

実際のところ、文化会館プールなどで市内在住者とそれ以外で料金が異なる例は見たことがあるだろう。

使用料以外でも、図書館で本を借りられる人が市民に限られている例などが挙げられる。

地方自治法244条3項は「普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。」としているが、この住民は当該公の施設を設置する団体住民である

また、公の施設は同条1項のとおり「住民福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」であり、一義的には住民のためのものからだ。

ちなみに、外国人住民住民であるため、当該自治体住民ならば、格差を設けることは基本的に「不当」としてできないだろう。

懸念

公の施設について、住民と非住民とで使用料や対象者に差を設けることは可能である

また、非住民間であっても、その地域との関係性や政策意図で差をつけることは否定されない。市民のほか、その市への通勤学者なども使用できる施設は見たことがあるだろう。

しかしながら、憲法14条法の下の平等)もあり、著しい格差はよしとされず、これらの差には当然一定合理性が求められる。その上で、ざっくり2つの懸念がある。

料金4倍の合理性

料金を上げるとして、公の施設での使用料の格差はあっても2倍程度が相場であり、4倍は著しい格差であるとの指摘は当然出て来よう。この格差に至る理論武装は避けられない。

外国人とそれ以外で差を設けることの合理性

姫路城は公の施設であり、基本的には姫路市民のための施設だ。差を設けるのなら市民とそれ以外で分けるのが基本であり、次いで近隣市町など一定生活圏などで区切るのが常道だ。裁量こそあるものの、線引きの妥当性は求められる。市長の言う「外国人」が指す者は推測の域を出ないが、生活圏や来訪頻度に求める場合外国人観光客と遠方から邦人観光客など、居住地に求める場合在日外国人在外邦人など、差をつけるに足る理由はあるのだろうか。

姫路市長がどこまで考えて発言たかはわからないが、こういったハードルにどう対処するのか、姫路市役所職員の手腕に期待である

2024-06-09

anond:20240606184619

ブコメに返信

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240606184619

自衛隊は、いざというときは逃げる市民戦車で踏み潰してでも戦うみたいに言われたりもするけど、案外本当なのかも。

基本的にそのつもりは無いですし、邪魔からと踏みつぶすのはコスト高いので避けたいです。

ただ、一義的に、住民避難自治体仕事ですし、避難がうまくいかずに巻き込まれリスクはあると思います

そのリスク絶対回避したい場合は、防衛線国外に置くか(まあ、太平洋戦争みたいに結果的にうまくいかないでしょうが)、そもそも軍事的威迫を伴う要求は無条件で飲む(ただし、ある国の傀儡になれば、別の国の侵略をうけるリスクはある)という選択肢しかいかと。

首里から喜屋武半島撤退した段階で避難していた住民を大量に巻き込むことは自明だったので、この現地司令部判断については批判があって当然。ただ、相手米軍ソ連軍(またはPLA)かで正解は変わると思う。。

これは、同意します。

首里が落ちた時点で、軍事的にはほぼ意味のない状態に陥ってましたから、降伏してよかったと思います

長勇の攻勢が無ければ…

ザコの海空は秒殺されるけど俺たち陸の勤皇の志士がニッポンを守る!あとはアメリカさんよろしくお願いします!ってか。うーん戦争に負けたせいで戦前より価値観が歪になっとる。

ザコというか、空港レーダーサイトという固定施設に拘束される航空戦力は初期段階で、少なくとも攻撃正面での活動不可能になるということと、隠掩蔽不可能海上戦力は航空優勢下じゃないと活動できない、という当然のことを言っているまでです。

また、米軍の救援以外でも、相手の攻勢限界空自の復旧、海自活動再開という中での、逆襲も十分に考えられるかと思います

陸軍が敵上陸部隊を釘付けにしている間に、海軍補給線を叩くような連携が出来てたらまだ善戦だと思うけど、どうも陸海の縦割りを良しとしている風潮が続いているようで心配である

その戦争様態にもよりますが、先制攻撃からの大規模着上陸のような場合は、不可能かと思います

海自さんが、CDG級(=E-2シリーズ運用限界)程度の正規空母を何隻か持っているなら、話は変わるでしょうが

住民守らないんだったら存在意義無いのでは?不発弾処理ぐらい?

だと思うなら、EOD残して解体すればいいのでは?

まあ、自衛隊が無い日本列島を、諸外国がどう見るかは面白いとは思いますが。

そうだね、日本空港やらレーダーやら全部が一斉同時に破壊される前触れ米軍が気づかないなら完璧理論だね

当然に、大規模着上陸を伴う戦争では、米軍自衛隊も事前察知は十分に可能でしょう。

しかしながら、その攻撃明日始まるのか、1か月後に始まるのか、あるいは結局始まらないのか、というのは起きてみないとわかりません。

ウクライナ戦争でも「ロシア軍はいつでも侵攻できる」と専門家はみていましたが「いつロシア軍が侵攻するか? そもそも、侵攻があるのか?」というのは、始まるまで誰も答えられていませんでした。

だったら尚更幹部靖国なんか行くなって感じ。現代においても合理的活動してるって正々堂々反論すればいい。カルト尻尾振ってたら日頃の言動にも疑いが持たれても仕方ない。

これは本当にそう。靖国クソ食らえと、私は思う。

だが、靖国以外に、自衛隊員に対して「祖国のために笑って死ね」「お前らは正しい」と言ってくれる存在が無いので、それに依存するしかない。まあ、戦後平和日本において、自衛隊は鬼子なんですよ。

濡れた手で電線に触れば、感電するのは当然。と言いながら、それを放置している側を批判もせず、感電している被害者責任転嫁することが認められるなら、社会なんて成り立たないな。冷笑家はアナーキスト

自衛隊が「それを放置している側を批判」したら、越権も越権、下手すりゃクーデターでしょw

軍の本分は戦闘にありとキリッと冷笑ムーブ決めるなら、「勝てもしなかった軍隊が偉そうにフカすな」という批判も甘受するんだよね?まあ正直に書いてくれてありがとう。従来通り敬慕も信頼もしなくて済みそうだ。

はて、自衛隊は「勝てもしなかった軍隊」だった記憶は無いのですが? そもそも戦争してませんからね。旧軍の後継組織厚生労働省社会・援護局ですし。

幹候・幹部を騙らない点だけは好感が持てます // 降伏勧告黙殺して住民多数が無駄死にした上に、司令部が軒並み自決戦死でも「善戦」なら、何でもありですね。ゴキブリ退治のために家ごと全焼させても問題ナシ!

司令部が壊滅しても、有効な遅退作戦が出来たのは善戦だと考えます

あと、常に敵は降伏勧告してくるので(ロシアウクライナ降伏勧告をしている)、それを真に受けるのは無いでしょう。

沖縄は捨て石、時間稼ぎに使われた」と発言したら「大和を送ったり、沖縄を護ろうとしていた」みたいな反論死ぬほどくるが、こうした文脈だと「時間稼ぎ出来たので善戦(キリッ」みたいな掌返し辟易してる

私は、沖縄が捨て石だったことを否定しませんよ?

2024-04-12

1人の腐女子主観BLとそのキャラ性的嗜好について

まず、私は学業においてマイノリティを専門に学習しているので、無知では無いことを(火避けに)アピールしておく。シス女性、かつストレートである

二次創作BLを前提として、私がキャラ性的嗜好ラベリングして欲しくない理由は、そもそも二次創作BLが全て幻覚であるからだ。我々腐女子は端的に言って変なことをしており、嘘を作り続けているだけなので、原作の彼等に恋愛描写がない以上、推し性的嗜好永遠に謎のままである

その状況下、「もしこの相手を好きになったら」という仮定をつけてお人気遊びをしている。そのifは、キャラクターの根幹(行動原理)に関わるほど深いレベル定義してはいけない。

要するに、あくまで「この相手を好きになったら」という、上辺のレイヤーを重ねる事で幻視するまでしかしたくないのだ。それ以上、キャラに手を加えてはならない。普通はハナから手を加えてはいけないものだが、それでも手を出してしま狂気の中に、微かな自制心がある。

そういう面で「その相手から好きになった」という考え方をするのは一義的に正解かもしれない。だが、これも我々が運命ねじ曲げてそうさせたに過ぎないので、キャラ根本的な性的嗜好では無いのだ。だからセクシュアリティとは言えない。

加えて、二次創作では恋愛感情に重きを置かないブロマンス的な作品が多い事も影響しているだろう。ここは、セックスしなくても、因縁喧嘩すればBLだし、本気で殺し合えばBLだし、2人でテーマパークに遊びに行くのもBLだし、赤の他人同士の初対面もBLだと受け取られる世界だ。BL界隈がホモフォビアの要素を含むと指摘するなら、性的嗜好ラベリングよりも、此処を見た方が良い。私のような雑な腐女子男性同士の関わり合いが見られれば欲望が満たされるのだが、男同士の距離が近いと何をしてもBLになる。公式がやると、腐媚びと呼ばれがちなものだ。ベースに同性嫌悪があるから男性2人組は大抵何をやっても珍しく、故に喜ばしく、ファンタジックな「腐」になるのだろうと私は考えている。

余談だが、この観念のまま美少女だらけのコンテンツに行くと、BLでの判定装置を使うと付き合っているとしか思えない女の子同士がわんさか居て混乱する事になる。

なお、一次創作BLはだいたい既に作者が性的嗜好を設定している場合ほとんどで、だいたい描写されている。オメガバース等の特殊世界線によっては、男性男性恋愛マジョリティであるとされることもある。それを書いてあるとおりに受け取れば宜しい。

と、いうのが個人的お気持ちだ。好きなキャラ恋愛ドギマギする姿の愛らしさ、自分と関わりのない世界を覗く楽しさ、激情の遣り取り、1本多いチンチン、この辺が好きでBLを見ているもの認識は、こんなものである必要のないものは考えない、それだけの話だ。

ド級の有り得ない仮定をお人形遊びに使っている以上、自分思想の介入は、最低限にしたい。「公式公式」とうるさい腐女子も、だいたいそんな感じではないだろうか。

2024-01-21

anond:20240121164638

今回のは明らかに勇み足だと思うが、

本当に生きるか死ぬかの局面なら緊急避難として許されるだろう。

その場合は誰が損害をかぶるべきなのか?

というと、略奪とは見なさないというだけでやっぱり一義的には壊したやつが払う義務があるんじゃなかろうか。

刑事責任は免責だが、取った分は払えと。

2023-11-28

anond:20231125233539

生理がある人」という言葉一義的には、生理があるトランス男性やノンバイナリーに対してアイデンティティ尊重しながら身体配慮する為の表現だってわかってない時点で、

あなた本音ではトランス男性に興味などなくてトランス女性攻撃する道具にしたいだけなのが丸出し。

2023-10-25

anond:20231025111605

利益効率を考えても、失敗の可能性を0にはできない。

例えばコンサルタントや若手から改革案提示してもらったとしても「じゃあ、誰の名義でやるか(もし何かあったら誰が一義的責任を取るか)」ってなって何も進まないんだよ。

失敗しても次がある若手やコンサルと違って、役員を務めてる我々にはもう次がないからなぁ。

2023-10-08

ロックバンド演奏巧拙とかよっぽどじゃないと分からない。あのバンドリズム感がどうのとか評するのも全く分からない。志村正彦は歌が下手とかいうのなら、Youtubeライブ映像とか観てる分にはまあ分からんでもない。でもスタジオ盤だとちゃんとしてるし。やっぱ良い声してるし。

「外し」とかは置いといた最低限の技術ラインを超えたらあとは好みだと思うし、メジャーデビューしてるようなグループなら大抵は最低限のラインくらいは超えてる気がする。

じゃあアマチュア演奏を聴いてみれば何か分かるかもしれないと思って、Youtube学祭とかの演奏を聴いてみた。

人前でやる以上はそれなりの完成度でやるもんだと思ってたけど、おれでも分かるくらいにリズムの縦がズレてるのはザラだった。

このくらいでも人前でやってもいいんだって思った。

いや別に誰が何と言おうがやるのは最初から自由ではあるんだけど。

思えば自分吹奏楽部やってた時も、週3,4日の練習があるとはいえ楽譜通りに吹くのが精一杯って感じだった。初めて数年のトーシロなんだしまあそんなもんかと思ってたな。

プロアーティストライブ動画観てると、声が出てなかったり届かなかったりちょっとしたミスはあるけど、著しくリズムがガタガタだったり音程ブレブレだったりとかはあり得ない。演奏技術けがプロ要件ではないけど、そういうとこなのかなって思った。

でもやっぱり最低限のレベルを超えた中でも特に上手いみたいなのは、やっぱり好みに収束するのではないかしか思えない。

スーザンボイルとか?あんまり知らけど一義的ニュアンスで「歌が上手い人」の曲とかおれはほとんど魅力を感じないし。

2023-09-26

anond:20230926214952

悪くて責任があるのは、

  1. まず加害者ジャニー氏と、いれば便乗した他の加害者)、
  2. 次にその周辺の幇助者(メリー氏や、報道忖度するよう圧力掛けたり、内情を知っていながら子供たちを性的虐待が行われているとこに送り込んでた事務所大人たち)、
  3. 次にそれらの人々が籍を置いている企業であるジャニー事務所

せいやから法人であるジャニー事務所とその経営責任者には、

  1. 加害者幇助者を洗い出して一掃し、
  2. 第三者的問題隠蔽されない体制になったことが確認されて、
  3. 各社が新会社取引正常化できるようになるまでの、

タレントの損失もしっかり補償してもらいたいよね。

ジャニー事務所一義的に悪いのは明らかなので、まず事務所がしっかり対応すべきなのは明らかとして、取引企業のうち特にメディア報道各社がもっと早く取材して報道して表沙汰になってれば、被害者はもちろん、便乗した加害者幇助者がここまで組織的に拡大せず、被害者傍観者も声をあげやすく、知ってか知らでか、今だに口をつぐんでる人たちの罪悪感ももっと少なくてすんだんでしょうから、加担しなかった人たちは気の毒だと思う。

そう思うと、事務所被害者への償いはもちろん必要なんだけど、それに加えて、メディア報道各社も、直接的な被害者に加えて傍観者だったタレントらにも、損失補填だけでなく、罪悪感によるメンタル棄損への賠償に参画すべきだと思うし、今後はそういったことがないように、あったら小さい芽のうちに摘み取れるように、企業ガバナンス見直して欲しい

2023-08-16

anond:20230808123436

みんなではない。3割くらい。

またぐらを拭くとき前後で持って動かすと布地が細くなって勢い余ってけつの穴に直接触れそうで不潔感がある。

びたーんってやると広い面積で尻面に張り付くし、チンコの先端も回避できるので、なんとなく清潔感がある。

送風による股間乾燥は、一義的には気加熱による冷却目的だけど、タオルチンコを撫で回したくないという心理も少しある気がする。

たとえ風呂でしっかり洗ってもチンコは不浄のものなので、たとえばチンコ他人の頭に乗せてちょんまげーとか絶対にやらない。

なぜチンコが不浄かといえば、チンコを汚す尿も精液もチンコの中から出てくるからで、いくら外を洗っても残尿1滴滲み出るだけで不潔となるからだ。

いくら綺麗に洗ったからってチンコを口に入れられる奴は頭おかしいと思ってる。

2023-08-05

検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』への雑ブコメ一覧

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR8443X7R7XUCVL037.html

id:paracletus それより「連合軍も悪いことをした」について、そろそろ語られるべきかなあと思う。

id:CocoA ただしぃ~、原爆による無差別大量殺人肯定はいいで~す

id:technocutzero 欧州全体でロマ排斥殺害してたことも教えないとダメだワン ソ連ホロコーストも全く語られないしな WW2後の世界が枢軸を悪とすることで成立させてる世界観だからそうなってるだけで純粋歴史の話じゃない

id:toratsugumi むきになってナチを完全否定する勢力は、国家社会主義ドイツ労働者党ショッカー区別がついてないんじゃないのか。ソビエト連邦共産党カンプチア共産党朝鮮労働党だって、内政面で良いことも少しはしてるぞ?

id:mutinomuti 誰に対して?(´・_・`)欧米優越的地位確立植民地奴隷制度による搾取によって加速されたわけだけど、そういう話?

id:eotitg 未だにナチスのユダヤ虐殺ばかり言うのが健常主義で、ユダヤ以前に障害者ガス室送りにしたのがT4作戦。T4作戦を都合が悪そうに沈黙してきたユダヤ障害者差別と、白人だって差別と強調のユダヤ批判されるべきでは

はいドーン。また新しいアホがあぶりだされましたね。同書内で言及されてるwhataboutismそのまんまです。そういう無駄な相対化で本題を誤魔化そうとする阿呆な態度を取ることの弊害が散々言及されてます文章を読めないアホに限ってこういう無駄メタを気取ってアホをさらしてしまうわけですね。いいサンプルです。

id:nt46 ナチスは何も良いことはしなかった、とは書けないか分析に走るのでは。

id:mr_yamada 「良いこともした」論者がアホなのはわかるが、学者研究対象に「肯定できるところはない」としてしまうとスタンスとしては、同じレベルに落ちてしまますよ。ナチスを雑に全否定することの危うさこそ心配

はいアホー。「何も良いことはしなかった」なんてこの本では書いてませんし全否定本でもありませーん。

id:flowing_chocolate 良い悪いではなく、何をやったかで語ってほしい。

はいアホー。何をやったかを書いてる本です。この本では歴史学における検証方法を「事実」「解釈」「意見」の3段階にわけることを検証してます。それが歴史学的にメジャー方法かはしりません。そもそも歴史学において「なにをやったか」を語ることは極めて不十分、そもそも客観的歴史など存在しないことを示してます間抜け。雑にマウント取ろうとするアホの見本。

mazmot 「良い」とか「悪い」という定義不能価値観歴史研究に持ち込むことの危うさをもうちょっと強調したほうがええんちゃうやろか。

id:by-king まずそもそも『良いこと』って定義はなんなんだろうね。そんな簡単一義的に決まるものなの?単なる誰かの価値観しかなくないか

はい出た出た「歴史研究善悪を持ち込むな」派。お前歴史研究まともに触れたことないだろ? historystory語源は同じstoriaって高校世界史の最初の授業で教えられることじゃない? そもそも歴史において価値判断を持ち込まないなんてことはありえないんですよ。

id:lochtext 無料部分では『善悪を持ち込まないのは不可能』って言ってるだけで、積極的に持ち込むのはやっぱり不適切なのでは?

これもおもしろ視点のように見えますが、率直に質問します。「ナチドイツユダヤ人を500万人殺しました」という歴史事実に対して「善し悪し」を持ち込むのは不適切だと思いますか? そもそも社会科学人文科学において「主観を含まない客観的判断」なんてもの存在しないんですよ。社会科学人文科学を学ぶ上でそんなことは初歩の初歩の初歩です。いわゆる理系ありがちな誤謬ですね。

id:tpircs 良くわからんけど悪いことだけするのが人類に難しそう。

これは悪くない視点ですね。物事って「良いこと」「悪いこと」以外に「良いとも悪いとも言いがたい領域」ってたくさんあるんですよね。

この本の中で散々言われてることは「良いことと主張されることが『悪いこと』と結びついている場合、それは『良いこと』と言っていいのか?」という問題意識です。一例を挙げます。困窮した国民政府が住居を提供しました。ヤッター!良いことのように見えますね? でも実はその住居はそこに住んでた在日コリアンを無理やり追い出して北海道強制移住させたことで獲得されたものです。さて、それは「良いこと」ですか?

石田勇治『ヒトラーナチドイツ』において示されてること、それは「ナチスとはヒトラー意向を実現する為の国家機関である」「ヒトラーユダヤを本気で絶滅させようとしていた」という事実です。ナチドイツ国民共同体を至上とした結果ユダヤ人500万人を殺害したという事実は、ナチドイツの様々な政策と綿密に結びついてしまますナチスの福祉政策ユダヤ人や性的マイノリティ排除していました。「ドイツ人」とみなされない人間人間扱いされないんですね。「ドイツ国内に住んでる人はユダヤ人も性的マイノリティも全員まとめて面倒みたるわい!」みたいな福祉政策ではなかったんですね。さて、それは「良いこと」ですか?

id:gui1 ナチ絶対悪なのは前提ですが。政権国民生活の向上の施策うつのが通常です。どんな政権でもそうです。悪のナチスでもそうです。国民いじめ抜いた悪夢民主党政権のような特異例は少ないです(´・ω・`)

なのでこの意見も同様に否定されるわけです、「国民生活を向上します、そのためにユダヤ排除しますしなんなら絶滅させます」。そのような施策は「良いこと」ですか?

id:colonoe わざわざ買って読む気はないので、環境保護禁煙政策を「良いこと」ではないと書いてるのかどうか教えてほしい

こういうアホは目次すら調べようとしない知的怠惰人間です。環境保護保護範囲限定的だったし戦争進むにつれて疎かになったって言ってます禁煙政策女性を除いて効果がなかったよねということを示してます

その上でこれへの返答を最後に持ってきたのは、実はこれは「良いことかもしれない事実」に結びついてるからです。本書の中で唯一「良いこと」の可能性が示されてるのがこの「禁煙政策女性の癌患者を減らした」というところです。そもそも「良いことが全くなかった」ということを示してる本ではないんですよナチドイツ政策学術的に検証してきた歴史学の積み重ねの中で、ナチドイツ政策で褒められるところがなかったっていう研究結果が出ているという話。これは田尾大輔や小野寺拓也がそう主張してるわけじゃない。他の研究者たちが積み重ねてきた、巨人肩に乗った結果の「歴史学的に一般的結論」が「良いこと」とされることをほぼ否定している。田野大輔・小野寺拓也だけが主張してるのではなく、先行研究効果の有無を実証していることをただまとめただけ。そういうことを知らずに雑語りしてるお前らはマージでね、お前ら全員アホ。アホが雁首揃えてアホを晒してるので爆笑です。

なお、その「女性の癌患者が減った」という政策には家父長制的な「女性は家庭で子供を産め」という思想根底にあったという指摘がある。女性子供を産むことが推奨されていて、その結果としての健康政策なわけだ。そういった価値観のもとでおこなわれた政策は「良いこと」なのか? という問いを本書では投げかけてますよ。

余談

それはそうと、この本は完全無欠な本だとは思ってない。この本を批判する素地は1つだけあると思ってる。それは「ナチ研究ナチス/ヒトラー過小評価しようとするバイアスが全体的に存在する」という批判だ。ただ、これまでナチドイツに真面目に向き合ってきた何百人もの学者が積み重ねてきた智の結晶バイアスとして切り捨てるのは相当ハイレベル研究必要かと思うので、増田はそう主張するつもりはない。

2023-07-16

君たちはどう生きるか ネタばれあり・見たけど意味わからんかった人

追記

たくさん読んでくれて嬉しい。元は友人とのTwitterDMが下書きになっていて雑な文章から申し訳ない。なので以下、こちらの意図が伝わってないコメントに返す。

・この物語の各パーツ・キャラを現状のジブリメタファとする解釈はこの児童文学作品矮小化していると思う。あまり好きではない

→全く同意見で、書いた通り普段テクスト的に解釈するのが好きです。矮小化されてしまってるのもそうなので、これだけが「正解」だとは微塵も思ってないし書いた通り自信はない。今回は宮崎駿最後作品、って思いが自分に強すぎて作家周辺の解釈がまず出たのだと自己分析している。作品のもの解釈海燕さん他書いているのがよかった。

映画も見てないし原作も読んでないけど、なるほど(以下略)

→お前みたいなやつがいちばんダメ。観ろ。観ずになるほどすんな。


一般向けではないというけど、次世代へのバトン家族の話って極めて普遍的で、ジブリ宮崎駿のことを知らなくとも皆それぞれ自分物語を重ね合わせて見ることができる作品だと思うよ

→この辺りは宮崎駿自己言及普遍的テーマを重ねて両輪でやっている気はする。


・あの作品登場人物実在ジブリ周りの人物に置き換える読み方はわかるけど非常に下品だと思っているので、する人を否定はしないけど、それが正解だと言って押しつけたりする風潮にならなきゃいいなと思っている。

→おおむね同意見で、自分ホッテントリに上がったことが押し付け風潮の一助になるのは避けたい。作家論は作家論でしかないし、それは基本的に狭い解釈になってしまうから、「正解」ではない。ただ言葉遣いとして、この人が作家論を「下品」としているのは、なんというか令和だなぁと思った。


前半はまぁ、とりあえず置いておいた撒き餌みたいな稚拙解釈なので、「正解」ではありません。(一貫性形成願望をとりあえず満たしておくために書いた、と思って欲しい)

しろ、この作品は唯一解を求めたがることも含めた後知恵的な意味よりも、もっとプリミティブな意味を伝えようとする作品だと思います。だから自分感想本質は後半です。そこのところ言葉足らずだったみたい。



追記ここまで


初日に見に行って、いろいろ考えつつ見たが、たぶんほとんどの人が「意味わからん(けどジブリっぽくて面白い!)」ってなるやつだと思ったので、自分なりの考えを書いてみる。ちなみに全然自信はない(その理由最後に書く)


見た人の多くは、ラストにかけてのメインストリーラインがよくわかんねえとなると思うけど、同時に物語にいくつもの象徴比喩が込められていることも、なんとなく察すると思う。

個人的結論を先に書く。(自分普段テクスト論的に物語を読むのが好きなのだが、作家論としてこの作品が見えた。)

まず、内容で感じたのはセルフオマージュの多さ。「紅の豚」の死出飛行機葬列が海の船になったり、ハウルの泥の人形が殺生できない住人になったり。老人の描き方はジブリの各種キャラを思わせたり。

オマージュ元には特にトトロが印象に残るように思って、抜け道や森から出た暗がりの風とか、ワラワラとか、宮崎駿トトロ気に入ってたんやなと思わせた。まあワラワラ鈴木敏夫の入れ知恵な気もするし、観客へのサービスって感じかな。

そしてここから感じたのは、宮崎駿人生が細かく千切られ散りばめられてるということ。


ていうことで、物語の根幹と宮崎駿人生に準えてラストで明かされる物語の根幹をよんでみる。やっぱりラストについては大事だよな。

結論から書けば、空から降ってきた大岩宮崎駿の才能、ギフト宮崎駿は大叔父でありあの世界は宮崎駿によって作られた作品の集合でジブリのもの。その血を引く主人公宮崎吾朗や孫だと思われる。ただし、内面宮崎駿投影されていて二重のモデルがいる主人公になっている。駿はジブリを継いで欲しかったが、吾郎拒否した。ジブリは駿の引退宣言とともに崩壊して、皆それぞれの暮らしにもどった。端的に言えば、それら経緯への駿の内面告白、なんだと思う。つまりスタジオジブリ(と駿)のために作られた物語なんだと思っている。


昔。降って湧いた才能に取り込まれた駿は、作品世界から出なくなった(家庭を顧みなかったりしたんだろう)。そして世界創造に励み、海や森の美しいファンタジー世界と、ユーモラスで残酷な鳥に代表される多くの愛すべきキャラクターを生み出した。

時々挟まれた、大岩が怒ってるとか。あれは才能から来る作品へのこだわり、そこから発される憤怒なんだろうな。時々駿キレてたし。

ただ、老いてきた。積み木を重ねられなくなった。積み木を安定させることも苦労するようになった。だからこの世界ジブリ後継者を探して、館に主人公ら血族を引き寄せ始めた。(この辺りの傍迷惑さについての自覚が、人生を総括し始めた老境の駿らしい感じがする)

関係ないけど、インコの王は唯一宮崎駿に謁見できて最後世界ぶっ壊したし、たぶん鈴木敏夫なんだろうなと思う笑

そして物語ラスト吾郎ジブリを継ぐのを拒否し、焦ってしゃしゃり出た鈴木敏夫がぶっ壊してジブリ崩壊した。でもそれを受け入れて?(この表現は適切じゃないかも。ただ眺めて?)老兵は去る、ってことを、ラスト宮崎駿は表したかったのだと思う。

総じて、人生全体を眺めて、ある程度中立的感情も整理しながら、比喩的な物語人物に落とし込んだ。そして達人のアニメーションで、それが分からなくとも万人が楽しめる2時間にした。

主人公が、みずから頭を傷つけて、それを最後最後告白し、汚れているか自分は継げないとジブリ世襲拒否するシーン。

あれはなんかほんとに個人的事件が、駿や吾郎にあるんかなて感じもするけど。いずれにせよ、今まで子どもイノセントに描いた宮崎駿が、この主人公にはドロドロしたものを罪悪感と共に植え付けているのは、自身自分の子どもみたいな、客観的に見られないし理想化もできない存在としてマヒトを描いているんだと思う。そしてそれが「真の人」って名前なのが、正直な曝け出しなのかなって感じさせる。

でもここは、ちょっと未整理。

まあたぶんに一義的な狭苦しい解釈なんやけど、とりあえずここまでは言語化できた。


ただ、ここまでこうして書いた考察について、正直自信がないというか、こうして作品言語化されることを拒否している作品である、ということことを、作品を見ている最中からずっと感じてきていた。

個人的にはここから作品本質だと思っている。

子供のころからジブリ作品を見て、宮崎駿のひねくれた人物像も知ってるから、この作品は明らかに異質だとわかる。観客へのサービス配慮)が欠けている。

はっきり言って、一般向けではない。大衆子供映画を作ってきた宮崎駿ジブリは、今までこんな映画を作ったことがない。上記のような一応に意味の通る解釈自力でできる人間はとりあえずいいが、そういうことをしない人が圧倒的多数で、それが大衆なのだ。だから、今回のような、作品の展開の速さや密度抽象度の高い映画は、一般向けとは言えない。自分が見た初日夕方の回は平日なのにほぼ満員で、しかし上映終了後のほぼ全員がタヌキに化かされたような顔をみんなしていたぞ。(正直自分もそんな気持ちだったので笑えた)

しかし、ここでそれを鑑みても面白いのが、この作品の「面白さ」は皆が感じているらしいということだ。

そして、これと同時に、自分のような批評する目線映画を見る者は、それはそれで大衆客と別な側面で拒まれている気がした。何か見る者の賢しい批評を拒んでいるように感じた。

以下に、その理由を書く。自分感想としての本質はむしろこっちだ。言語化しづらいのだが、見た人にはなんとか伝わるように書くと

宮崎駿生理的表現がほんっとにうめぇな」

となる。

例えば、食事のほおばり方。たとえば、黙ってうつむく表情。たとえば、真人うそをつくときの顔。みんな圧倒的に生き物らしい。生命力を感じる。みんないびつで、あいくるしい。(カワンゴがお説教されたアレとは本当に真逆な、きわめて何か、生命に対する賛美を感じます

これらすべてが、芝居をしている。客に直接的な理解を与える。この人物感情や、物語における人物立ち位置(正しい方向かどうか)など。あらゆる情報を、言語での理解を超越して、身体的・ダイレクトに観客へ伝わる。

作劇のうまさや間の取り方、ちょっとした身のこなしや振る舞いの描き方。それらすべてがアニメーションなのに自然で、本当にほれぼれする。達人のアニメーションは今でも健在だし、それはスタジオポロックみたいなのにもマネできてない駿の達人技だと思う。

で、それらの生理的表現が今作で上げる最大の効果は「生理的感覚として、見る者に言語範囲外で意味を伝える」ことだと思う。

自分新海誠映画が昔から好きなのだが、新海誠が「星を追う子ども」でやりたがって、でも全然できなかったようなことを、中盤くらいまでで軽々と全部やり尽くして、更に塗り替えていったような印象が途中した。)

はっきり言って、中盤以降は物語テンポが速すぎて情報量も多すぎて、物語が何を表現しているのかまったくわからないし考える余裕もなく、何もかもを押し付けられていくだけのように感じるのだが、いち観客として言えば、作劇がうますぎてずっと楽しくて画面にずっと惹き寄せられたままで、一ミリの退屈もなく最後まで面白かった。作品が何を言いたいのか理解できねぇのにコレなのまじ意味わかんねぇ。ユーモア人物の芝居とテンポと心地よさとその他あらゆる作劇でずっと作品世界へ惹き寄せ続けるの、冷静に考えてすごすぎる。

理解として言えば、言語範囲外で生理的に伝わってこようとする情報が、最速で理解できる。だから理性で作品に好悪を判断つけたくても、生理的理解が先に面白さを伝えていて、判断を保留し、物語が表す「意味」が分からない気持ち悪さをいったんわきに置く(打ち消す、わけではないのもポイント

たまたま映画見る前に考えてたのが、美輪明宏のモロの演技や紅白ヨイトマケの唄なんだけど、あれもなんか、生理的に分からされる凄みがあるよな。あれと同質の、生理に訴えかけてくる理解が、この作品の全体にあった。

から意味深がセリフ物語上の「意味」として理解できなくても、なんとなくわかっちゃうわけ。ああ、「そういうふうに」感じてるんだなぁ、って。

自分が書いたものも含め、なんか色々考察とか出てくると思うんだけど、この作品に関して自分はもうそんなのに大した意味を感じていない。いや言葉説明することは俺も試みたと思うんだけど、そういった理解や「意味」は後からやってくるものであって、それより先にあるこの一次的な身体感触の強さが、現在進行する映画鑑賞の今、圧倒的な作品だった。肌感覚で腹の底から湧き上がる力強さは、言語理解拒否して圧倒する。そんなプリミティブさ。

プリミティブな、といえばものすごく情報量が少ないように感じられるかもしれないけれど、ただそこで言う「情報量」ってつまりキロバイト的な情報多寡しかなくて、生理的な質感や圧倒的な情報の圧が含まれてない。この作品はそういった生理的な質感や圧、すごみをもってして最後まで観客をエンターテインする作品だった。面白さが言語範囲外で生理的に伝わってこようとするんだよな。

「語り得ないことに関しては、沈黙せねばならない」という言葉があるけれど、宮崎駿言語で語りえないことを語れる。対して、自分たち観客は語れないが、しか生理的理解している。

自分最初考察意味を感じない、といったのは、考察の当たり外れよりも「こんな小賢しい考察なんぞしてんじゃねー」的なギルティ感覚がするからだ。賢しらぶってることが怒られそう。それこそ、宮崎駿に叱られるカワンゴみたいな、「意味」や思考の中だけに生きて現実に生きる生命を見ようとしていないと叱られている気が(これは完全に自分勝手感覚なのだが)する。強いて言えばそれが、本作のタイトルのごとく自分に突き付けられたお説教だったかもしれない。

一般には訳が分からなくてもいいし、読み解く材料も与えないし、理解されなくても面白くしなんか感覚的には伝わるでしょ?みたいな感じが、ただ壁を感じるし、見る人は選ぶと思う。ジブリ作品に壁を作ったことって今まであんまりないと思うんだけど、たぶん風立ちぬで少しやって、「あ、好きにやってもいいんだ」みたいなのを、それこそ庵野秀明エヴァから知ったんじゃねーかwみたいな気もしていて、そして老境にさしかかりジブリ崩壊を見ながら、いろいろなことを感じ考えながら職人芸ですべて盛り込んだのが今回の作品なんだと思った。だから一部の人批評感想特に老人の走馬灯とかボケたとかみたいなのには全く賛成できない。

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