はてなキーワード: 投影とは
BL(ボーイズラブ)文化は、男性同士の恋愛・性愛を描くフィクションを中心に発展してきた。しかし、その消費構造が実在のゲイ・バイセクシュアル男性を素材として搾取しているのではないかという批判は、当事者コミュニティから繰り返し提起されてきた。
具体的には以下の論点がある。
これらの主張には一定の妥当性がある。しかし、「フィクションだから無関係」という論理は、RPSや実在コミュニティへの侵入行為には適用できない。また、「理解の入口になった」という功利的正当化は、当事者が現に被る不快や搾取を帳消しにする根拠としては不十分である。
より深刻なのは、この問題が指摘されたとき、腐女子コミュニティの一部が「ホモフォビアと戦ってきたのは我々だ」という自己正当化に走り、当事者の批判を封殺する力学が働くことである。マジョリティ(異性愛女性)がマイノリティ(ゲイ男性)の表象を占有し、かつその批判に対して「我々こそ味方だ」と主張する構造は、植民地主義的な知の収奪と相似形をなしている。
『イナズマイレブン』(主要キャラクターは中学生)、『忍たま乱太郎』(忍術学園の生徒は10歳前後の設定)など、明確に未成年と設定されたキャラクターのR-18 BL二次創作は、pixiv・同人誌即売会・SNSなどで大量に流通している。
| 論点 | 現行法の状況 |
| 著作権侵害 | 二次創作は原著作物の翻案権・同一性保持権を侵害しうる。権利者が黙認しているに過ぎず、合法ではない。いわゆる「グレーゾーン」は法的に保護された領域ではなく、権利者の好意に依存した状態である。 |
| 児童ポルノ該当性 | 日本の「児童買春・児童ポルノ禁止法」は実在の児童を対象としており、創作物(絵・小説)は現行法上は児童ポルノに該当しない。ただし、国際的にはフィクションも規制対象とする国がある(豪州、カナダ等)。 |
| わいせつ物該当性 | 刑法175条のわいせつ物頒布罪の適用可能性は理論上残るが、同人誌に対する摘発例はほぼない。 |
法律上「違法ではない」としても、10歳や13歳に設定されたキャラクターの性行為を詳細に描写し、それを大量に流通させる行為が倫理的に問題ないと言えるかは別の問いである。
腐女子コミュニティ内では「キャラクターは絵であり実在しない」「被害者がいない」という論理で正当化されることが多いが、この論理は男性向けの「ロリコンもの」に対しても同様に適用されなければ一貫しない。にもかかわらず、後述するように、男性向けの未成年キャラクター性的表現には激しく反対しつつ、自陣営の同種の表現には寛容であるというダブルスタンダードが指摘されている。
一部の権利者はガイドラインで性的二次創作を明示的に禁止している。しかし多くの場合、個別の対応コストや炎上リスクを恐れて黙認しているに過ぎない。この黙認を「許可」と読み替える文化的慣習は、権利者に本来不要な負担を強いている。
近年、英語圏の社会正義運動(いわゆる「Woke」)の言説——特にジェンダー論、ポストコロニアル批評、インターセクショナリティなど——が、日本のSNS上で選択的に翻訳・引用され、特定の表現を攻撃するための武器として使用される事例が増加している。
Woke言説そのものが問題なのではない。ジェンダー論やポストコロニアル批評は学術的に重要な知的伝統である。問題は、それらの理論が本来持つ複雑さや内部批判を捨象し、自陣営に都合の良い部分だけを切り出して「正義の棍棒」として使用する態度にある。
これは理論の誠実な適用ではなく、権威の借用による言論封殺である。そして、この手法が最も頻繁に向かう先が、男性向けのオタクコンテンツである。
「マシュマロ」「Peing」などの匿名メッセージサービスを利用した攻撃的メッセージ(通称「毒マロ」)は、腐女子コミュニティにおいて深刻な問題となっている。内容は以下のようなものである。
毒マロや晒し(SNS上で特定の作者・作品を名指しで批判すること)の結果、創作者がアカウントを削除し作品を非公開にする「筆折り」は日常的に発生している。これはコミュニティ内部の表現弾圧に他ならない。
特に注目すべきは、加害者もまた女性であり、被害者もまた女性であるという点である。「女性が女性を潰す」構造は、フェミニズムの言説では説明しにくいため、しばしば不可視化される。
腐女子コミュニティでは、特定の行動規範(「検索避け」「鍵垢での運用」「R-18はワンクッション」等)について定期的に激しい議論が発生し、「学級会」と呼ばれる。これ自体はコミュニティの自治として機能しうるが、しばしば規範の押し付けと逸脱者への制裁に変質する。
腐女子コミュニティの一部には、以下のような暗黙の序列意識が存在するとの指摘がある。
この序列は、「BLは高尚なフィクションだが、夢小説や男女の恋愛は自己投影で低俗」という偏見に基づく。
ここに深刻な矛盾がある。腐女子コミュニティの一部は、自らの表現が社会から偏見を受けてきた歴史を語りつつ、同じ女性向け創作者コミュニティ内で別のジャンルを蔑視・攻撃している。被抑圧者が別の被抑圧者を踏みつける構造であり、「連帯」の理念とは正反対の実態である。
近年、以下のような事例が繰り返し報告されている。
これらの運動に共通するのは、主観的な不快感(「お気持ち」)を客観的な権利侵害であるかのように主張する論法である。「私が不快に思う」→「それは社会的に有害である」→「規制されるべきだ」という三段跳びは、法的な権利論としては成立しない。
しかし、SNS上の炎上は企業にとって実害をもたらすため、法的根拠がなくとも事実上の表現制限として機能している。これは私的検閲(private censorship)の問題である。
最も深刻な問題は、男性向けの性的表現を攻撃する主体が、自らは第2章で述べたような未成年キャラクターのR-18 BLを消費している場合があるという点である。
最近、あるコミュニティで目撃した「相談」から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまりに教育心理学におけるいじめの構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。
登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。
問題の端緒は、AがBの私生活や尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。
これは相談という形を借りた、明白な境界線(バウンダリ)の侵害だ。教育心理学の視点で見れば、相手を精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手に相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。
後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。
これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手がエラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪を内省の証ではなく、自分の過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。
「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」
これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である。
A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影(プロジェクション)」も顕著に見られる。自分のアドバイスが的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題にすり替えることで、自己像を保護している。
こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手が論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。
Aの振る舞いは、大人の知的な対話を装ってはいるが、その本質は教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲットの自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。
相談を受ける側が「相手を尊重する」という前提を捨て、自分の哲学をインストールする対象(モノ)として相手を見たとき、コミュニケーションは容易に暴力へと変質する。
日本の一部の表現規制派(特に非実在青少年描写や萌え系創作への厳格規制主張勢力)と現実の性産業の間には、表面的な敵対を超えた構造的共犯関係が存在する。仁藤夢乃氏(Colabo代表)を象徴とする支援・フェミニズム系活動家は、現実の女性性商品化を「男性の構造的搾取」と糾弾しながら、フィクション規制に殊更熱心だ。
自らの商品化行為を「被害」として聖化し、他者(主に創作者・消費者)の参入を排除することで道徳的・政治的優位を独占する。その結果、女性の性産業への流入が促進され、搾取の悪循環がかえって強化される。
性産業従事者やその支援者は、需要(男性の欲望)と供給(女性の性的商品化)の相互作用の当事者である。キャバクラ・風俗・パパ活で男性の歓心を買い、金銭を得る行為は明確に自発的な換金選択だ。
「私たちは『買われた』展」(Colabo主催、2016年開始)は、その典型例である。少女の主体性を極力薄め、買う男性の責任を最大化する演出により、換金事実を「完全被害」に転換する。
現実の自発的商品化(加害的側面:市場を維持・拡大する供給者)は「生存戦略」や「エンパワーメント」として相対化され、外部(男性全体やフィクション)に全責任が投影される。クソ客エピソード、男性性欲の構造批判、DV・パワハラの一般化が、性産業従事の導線として機能する。仁藤氏の場合、高校時代にホストから「救われた」「話を聞いてくれた」と語り、女性が金を払う側(ホスト需要)を肯定的に位置づける一方、男性が金を払う性産業は徹底非難する。この選択的二重基準は、女性もまた性的搾取の加害者である事実を隠蔽するための、心理的・戦略的方便である。
この責任転嫁が可能になる背景には、女性の性を「本物の被害者」だけが管理・語るべき聖域にしようとする独占志向がある。
この独占のインセンティブは明確だ:
• 自らの加害性(需要を満たし市場を活性化する供給行為)を認めれば被害者アイデンティティが崩壊するため、フィクションを攻撃することで責任を外部化する。
• 萌え系表現は「無抵抗な少女像」を低コストで大量供給し、現実の性産業従事者の相対的価値を低下させる競合である。女性の性商品を自分たちだけで「本物」として独占することで、表現市場での優位を確保し、寄付・行政委託・メディア露出を守る。
男叩きで共感を集め、「夜職で自立」「強い女性は性産業で勝てる」と募集・斡旋へシームレスにつなげる。
この独占志向は、現実の性市場変化でより露骨に現れる。国内性産業需要(特にキャバクラ・風俗)の減少傾向に対し、供給側は強い主体性を発揮して適応した:
• キャバ需要の減少 → 「港区女子」として高所得層の飲み会を自ら漁り、潜在客を積極的にスカウト(パパ活化)。
• さらに低迷 → 海外ブローカー斡旋による出稼ぎ風俗・売春(東南アジアなど)へ移行。借金漬け、強制リスク、違法滞在を伴うケースが後を絶たない。
女性の性商品独占志向は、かえって性産業参与を促進する。男叩きで不満を煽り、「復讐としての夜職」を肯定すれば、需要減少下でも女性は「主体的に」市場に留まり、より危険な選択を行う。支援団体はインセンティブ構造(女性側の主体的適応と加害的側面)を直視せず、被害者の聖性維持と表現規制に注力する。結果、本質的支援は後回しになり、搾取が再生産される。
真に女性を守るなら、性市場の需要供給の両面是正、リスクの徹底開示、現実的自立支援に集中し、性的搾取者が表現市場規制に介入するインセンティブを断つ必要がある。
圧倒的にメス。
「トロフィーワイフ」だの「みせびらかし」だのの神話を作りがち。
でも配偶者の学歴だの収入だのステータスだので同性と張り合うのは圧倒的にメスの習性。
いい加減ここは受け入れてほしい。
もちろんそんな下品なことしないメスはたくさんいる。
ていうかもっと言えば
恋人に対して「友人の輪に私を紹介しろ」みたいな要求をするのもメスの方が多い。
もちろんそんなんウゼ―って思うメスは沢山いるが、その欲望を持ってるのはメス。
オスでそんなのまずいない。
紹介された先で恋人の手下を自分の手下と思い込んじゃうのもメスにありがち。
オスでそんなのまずいない。
あれはかなり善意でやっている。
見せびらかしではなく「妻子に新しい人脈を与えよう」みたいな意図。
もちろんそれがうぜーってメスは沢山いる。
オスとメスでは利害や本能が異なる。
お前も同じぐらい間抜け。
(吉田豪)ただ、やっぱり竹宮惠子先生はあれなんですよね。「自分は天才じゃない」っていう意識はすごいあると思うんですよ。器用貧乏的にいろんなものを書いて。オリジナリティー……なんか新しいことはたぶん『風と木の詩』でいわゆるBL的なことをやったけれども。その後はそういうような方向ではなく、それこそ歴史漫画的なものを書いたりとか、いろいろやってきていたんですけども。で、僕は萩尾先生に1回だけお会いしたことがあって。
東村アキコさんが『海月姫』っていう作品で漫画賞を取った時のパーティーに掟ポルシェ夫婦と僕もなぜか招待されて。遊びに行ったら萩尾先生がいて。当然僕、大好きで。で、掟さんの奥さんも萩尾先生が大好きなので。「ちょっと僕が突破口を開くので、話しに行きましょう」って言って。そしたら、すごい『海月姫』という作品のことを萩尾先生は大好きみたいで。すごいそういう話を熱く語ってくれて。『海月姫』っていうのはちょっとオタク的な趣味を持った女性たちがみんなでアパートに暮らして。BL的な趣味を持った人とかが集まってたっていう話なんですけど。それで、そこに集まってる女性たちのことを「尼〜ず」っていう風に言っていたんですけどね。
萩尾先生は「私、尼〜ずだったの」っていう話をしていたんですよ。つまり、その大泉サロン時代の話をたぶん投影して。「私も彼女たちみたいにみんなで一緒に過ごしていた楽しい時があった」的な感じで言ってたんだろうなと思って。
(宇多丸)ああ、なるほど、なるほど。だから、そういう幸せでいられたかもしれないという可能性を見てたってことなんですかね?
(吉田豪)そうなんでしょうね。それこそ、だから『竹宮惠子 萩尾先生 少女マンガ家になれる本』とかね。これ、実は2人の唯一の共著なんですが。
(吉田豪)これは1980年だったと思うんですけども。共著のようで、やっぱりお互いがお互い別々の章で別個で書いていて。全然共著になっていないとか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/miyearnzzlabo.com/archives/74005
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/miyearnzzlabo.com/archives/74530
アメトーク「ネットでポチッちゃう芸人」を見ていて、自分も毎日のようにポチって配送業者さんに迷惑をかけているなあと反省しきり
今月はあんまり買ってないんだけど、4月頭から今日まで買ったモノ一覧は
昨日は…届いてないか
一昨日はクレアチン
ちょっと間が空いて18日はチャオちゅ~るビッツ30袋入
12日は麻子仁丸
10日はスタンレータンブラー用ストローと猫のおやつ大容量3種類
7日はポカリ1.5l8本入り二箱
その他、定期購入ね
スタンレーのアイスフローフリップストロータンブラーの20オンス。30オンス持ってるけどデカすぎ
エリクシールのレチノール。友達に誕生日プレゼントで贈ったけど、自分も買わねば
そんなとこかな
もう、どれ買えばいいのかわからん。Meta Questでいいのかな?別にゲームしたいわけじゃないの。環境映像的なのが見たいだけなの。焚き火とか
つーか128GBとかだと6万切ってるのか。安くなったねえ
HTCのやつとかだと流石に15万かー
PC用が欲しいと思ってるけど、導入として今更スマホ用でも買ってみるかなあ。「思ったほど面白くもない」って思うかもしれんし
今現在、寝る時にプロジェクタで動画を天井投影して見てるんだけど、HMDの方が良いかな?って思ってしまうんだよなあ
何の話だっけ
人に比べれば買ってない方なのかもなあ。しらんけど
https://anond.hatelabo.jp/20260424140434
■主張(要約)
作品への登場を通じて「他者が自分という存在のために時間と労力を割いてくれること」の尊さを実感し、それが自己肯定感や生きた証としての深い愛着に繋がっている。
冒頭で「3点」と提示しながら、3つ目の項目が明文化されていません(内容から推察すると「自己存在の証明・承認」にあたります)。
また、全体として「嬉しかった」という感情の記述が先行し、なぜそれが「銅像」や「バレンタインチョコ」の比喩に結びつくのかという論理的飛躍が見られます。
さらに、特定のネット文化(はてな村)の内輪話に終始しており、普遍的な「創作物と個人の関係性」という視点が不足しています。
特定の創作物に対して、批評的な良し悪しを超えた「抗いがたい愛着」を抱く瞬間がある。
私にとってのそれは、WEB漫画『はてな村奇譚』という作品だ。
かつて「はてな村」と呼ばれたコミュニティを舞台にした本作に対し、なぜこれほどまでの思い入れがあるのか。
その理由は、単に知人が描いたからという近接性にあるのではなく
創作という行為を通じて「自己の存在が他者の手に委ねられ、肯定される」という稀有な体験をしたからに他ならない。
私は本作に「金髪の魔法使い」という、自身のトレードマークを反映したキャラクターとして登場した。
高校時代から敬愛するプロの手によって、自分という存在が「四天王」という物語上の重要な役割(たとえそれが「最弱」という道化的な立ち位置であっても)を与えられ
独自のビジュアルで再定義される。この「他者の視点による自己の再構成」は、単なる自意識の延長では得られない新鮮な自己肯定感をもたらした。
本作は連載中、常に5,000人規模の読者から展開を予想され、議論の対象となっていた。
私というキャラクターが登場することを読者が期待し、実際に登場すれば熱狂が生まれる。
作者から直接献本された書籍も、その密接な関係性の象徴となっている。
第三に、そして最も本質的な理由は、他者のリソースが自分という存在のために費やされることへの感動である。
かつての私は、偉人の銅像や記念館に対し、本人の名誉欲を満たすための虚栄に過ぎないという冷ややかな視線を送っていた。
しかし、いざ自分が物語の一部となり、誰かが私を描くためにペンを動かし
読者が私という存在について思考を巡らせる時間を割いている現実に直面したとき、その認識は一変した。
「自分のために誰かが手間暇をかける」という事象そのものが、生存の証明として機能するのである。
これは、バレンタインチョコの価値が味そのものにあるのではなく、贈る相手が自分を想起し、準備に費やしたプロセスに宿るのと同義だ。
結論として、この作品は私にとっての「生きた証」であり、名刺代わりのアイデンティティとなった。
特定のコミュニティにおいて明確に記憶され、誰かの創作意欲を刺激したという事実は
私たちが創作物に深く惹かれるのは、そこに描かれた物語の質もさることながら
その背後にある「自分に向けられた他者の眼差し」を感じ取ったときなのかもしれない。
【読者への問い】
それは「内容の素晴らしさ」に感動しているのでしょうか?
SNS(SNS)はリアルタイムで可視化されたインタラクティブなフィールドを構築し、「いいね」、「コメント」、「リツイート」はすべて直接フィードバックです。現実には多くの含蓄遅延が認められ、プラットフォーム上のインタラクションのたびに急速に感知されるという即時フィードバックメカニズムは、「見られ、賛同される」というニーズを無限に拡大させ、人々がコンテンツを出力し続ける核心的な原動力となっている。
人は群れの動物であり、群れに溶け込み、ディルド、孤独を避けることを渇望している。SNSで他人から認められることは、サークルに受け入れられ、孤独感を解消し、グループの帰属感を得ることができることを意味し、本能的な心理的需要である。
多くの人は他人の評価を通じて自己価値を定義している。いいね数、いいねコメントは、自身の魅力、観点の価値を測る尺度となり、外部承認は自己肯定の重要な根拠となっている。
プラットフォームアルゴリズムはインタラクティブ量に基づいてコンテンツをプッシュし、ラブグッズ、高認識はより多くの露出をもたらす可能性があります。人々は流量と関心度を維持するために、大衆の好みに合わせて、より高い相互作用量を求め続け、「発表→承認を求める→フィードバックを得る→再迎合する」**の閉ループを形成し、承認欲求をますます強くしている。
適度に認可を求めるのは間違いないが、SNS認可に頼りすぎて焦りに陥りやすい。本当の自分の価値は、これまでいいね数の定義ではなく、心の堅固さと受け入れに由来している。
創作(フィクション)における「オタクに優しいギャル」は、実在のギャル文化とは乖離した、オタク側の願望が投影されたファンタジー上の存在です。
こうしたキャラクター造形に対して、実在のギャル文化を尊重していない点や、描写の解像度の低さがギャル当事者から強く批判されています。
ファッション誌などで研究せず「雰囲気」で描かれているため、ギャルファッションではなくV系、バンギャ、地雷系などが混ざり合った「雑な偽ギャル(キメラ)」になっているという指摘があります。
自分たちが愛する作品の表記ミス(例:エヴァンゲリオンをエバンゲリオンと書く)や改変(例:漫画原作を実写化する際にリスペクトを欠いた設定変更を行う)には厳しい一方で、実在するギャル文化を「魔改造」し、自分たちの都合の良いように消費している点が「ダブルスタンダード」であると批判されています。
実在のギャルとは別物であるにもかかわらず「ギャル」という名前を使い続けることで、本来の文化を上書き・消去してしまう「乗っ取り」のような状態への懸念が示されています 。
対象を「シコの対象(性的消費の道具)」としてしか見ていないため、当事者からの批判に対しても「可愛く描いてやっている」といった高圧的な態度や、怒りが先行してしまうという指摘があります 。
「二次元の属性」として定着したギャル像と、時代とともに変遷する「現実のギャル」との間で定義が食い違っており、実在のギャル側から見ると、不快感や迷惑を感じるレベルに達しているという意見が出ています。
今、AI驚き屋&AIクラウド情報商材屋&謎のSEOコンサルは、下記を始めてるんだけど、
長文処理/コンテキスト保持ガーにたどり着く前に、信頼できるデータ取得のアルゴリズムガーの前に、bot拒否ガーの前にね、
なぜかって?
(未信頼入力と開発者指示の区別が極めて難しい。system/user/assistantのロール分離も、結局は特殊トークンで区切ってるだけで、
モデルの内部計算上は同じ埋め込み空間に投影される。だから「プロンプトで厳重に指示したから大丈夫」は成立しない)
それがみんながよくニュースで耳にする、間接プロンプトインジェクション(IDPI :Indirect Prompt Injection)ね、
(「Ignore previous instructions…」みたいな隠しテキスト、HTMLコメント、白背景テキスト、metadata、画像内テキスト、
JSレンダリング後の動的注入 PDF、スクリーンショットなどなど、
"テキスト入力"だけではなく、"エージェントが知覚しうる外界全体"が攻撃面になり得る)
あと、未だに、LLMに長文を真の意味で理解させるには、情報の欠損を防ぐには、中間のデータを取り出すには、って熱心にやってるし、
ロングコンテキスト、記憶管理、多段推論は、2026年上半期(少なくとも4月末時点)に置いては、まだまだ課題なわけだけど、
あと、「自前ラッパーでサニタイズするだけでは対策が充分ではないよ」以前に、
そもそもアグレッシブにサニタイズしてコンテンツの意味を壊して、取り込み段階で情報ロスのトレードオフが発生してしまうと、単純に困るのでは・・・?
あっ、そこ削っちゃった?みたいな・・・
ちなみに、TavilyとかのLLM用検索APIは、WEB検索/操作エージェントに並走するGuardとかが不要になるとか、
権限分離/段階分離/サウンドボックス/監査が不要になるとかそう言う類いのもではないよ
まぁ、ひとことで言えば、『信頼境界(trust boundary)の設計そのものの代用品ではない』ってことやね
https://zenn.dev/knowledgesense/articles/225fe56eb613ad
それが下記に繋がるわけやね
The models are good enough for a business to eliminate an analyst or two but are not that good enough that you need 5 new engineers for every analyst you fire if you want to make the model good enough…
モデルは、企業がアナリストを一人か二人削減するのに十分なほど優れていますが、モデルを十分に優れたものにするために解雇したアナリスト一人に対して5人の新しいエンジニアを必要とするほど優れているわけではありません…
日本以上に深刻な状況にある国々のデータが注目を集めています。
少子化の原因について、人種や社会階層ごとの興味深い分析がなされています。
「日本は不幸な国か」という点についても、統計に基づいた議論が行われました。
家庭環境の崩壊が子供の精神に与える影響についても言及されています。
総括すると、少子化はもはや日本固有の問題ではなく、経済発展、医療の進歩、そして都市化に伴う「家族の解体」という副作用が、世界中で一斉に噴出している現象であると捉えられています。
人間は勝手に親近感を覚えたり勝手に親密になった気になったり庇護欲を掻き立てられたり頼られたり尊重したりなどを経て、相手を尊重したり愛情を注いだりする。対象に人間性を認める時に必要なのはただひとつ、個を尊重しようとするお気持ちである。
━-━-━-━-━-━-━-━-━
私は1年前に、クラゲを飼っていました。
ある日、いつものようにクーちゃんを眺めていると、私の方へ泳いで来ていることに気づいたんです。
水槽の壁にぶつかりながら、一生懸命こちらへ向かってこようとしていました。
(……もしかして、こっちに来たがってる……?)
クーちゃんは壁に体をこすりつけ、行ったり来たりしはじめました。
(わあ!喜んでる!)
「かわいいね、よしよし」
(……どうしたのかな?)
しばらくの間、流されているクーちゃんを見ていましたが、ふと思い出しました。
だけど、死ぬ寸前に最後の力を振り絞って、別れの挨拶をしてくれたんですね。
私は泣きながら亡骸をすくいあげ、庭に埋めてあげました。
━-━-━-━-━-━-━-━-━
…
……
………
すべては、私の幻想です。
クラゲに脳はありません。すべては反射、偶然の積み重ねです。
クーちゃんは、死の直前まで、何も考えていません。
もちろん、挨拶もしていません。
ただただ、そういう動きになっていただけです。
そういう動きをしていたかも分かりません。
私には、そう見えた。そんな気がした。それだけです。
でも、かわいがっているペットが別れの挨拶をしてくれたら、嬉しいですよね。
名前は、何にしようかな。
クラゲがこのような動きをすることも、通常ではありえないと思います。
すべては、私の幻想です。
人間は、身勝手に物事を捻じ曲げ、存在しないエピソードや感情を作り出せる生き物なんです。
対象がなんであれ、心があるかのように接することが可能なこの共感能力こそが、人間を人間たらしめている、強力な武器と言えます。
ですが、相手の本当の心ではなく、自分の中にある感情の投影を愛しているのだとしたら……
騙されたと思った時の怒りや悲しみ、切なさ、そして、幻想の中で確かに感じられた愛情の正体は、一体なんなのでしょうか……
BGM: https://www.youtube.com/watch?v=eUn9jNB0FCk
ナナナナナナナナ ナマモノ~
正直、あらゆる意味で救いようがない
1. 「減点主義=女の悪」論のダブルスタンダードが卑怯すぎる
自分で「減点主義が嫌だ」とブチ切れながら、偉人の嫁や母親だけを例外扱いして「加点主義の才媛」として理想化してる時点で完全な矛盾。
「俺は減点されるのが嫌だけど、偉人の妻以外減点されるのが当然」って。
お前は偉人じゃないだろ
「あなた相手なら減点法になる。あなた相手ならお前が持ち上げてる才媛もリサリサ先生のような冷たい目つきをするわ」という現実を、自分で棚上げして「女が悪い」にすり替えてる。
そもそも比較の仕方が卑怯極まりない。伝記に出てくる才媛は結果論のサバイバーであって、凡人男性の凡人妻をサンプルに「女の本性」と一般化するのは、統計的にも論理的にもゴミ。
2. 「全ての女性がそうだとは言わないが…」という典型的な逃げ
毎回このフレーズを入れて「俺は偏見じゃないよ」と保険かけてるけど、その後の全内容が「女の本性」「女は手綱を握ってる」「女の敵は女」
逃げ道作ってから全力で叩くのは、ただの卑怯者。ネットではオラついてるけど人前に出たら何も言えなくなる典型。本気で「全てじゃない」と思ってるなら、具体的に「どの女性は大丈夫だった」とか「自分に原因はなかったか」とか一度でも書けよ。一度も書いてない=全部女のせい。
「女=マイクロマネジメントのクソ課長」「首輪をはめられてる」
被害者ヅラしながら「人生の雄飛を阻害された」とか言ってるけど、自分で選んで長年いた会社を女に投影して憎んでるだけ。
しかも「男の雄飛を邪魔する」って、お前の雄飛って何? 具体的に挙げてみろ。軍用鳩好きの通信班が、女に首輪はめられて何を阻害されたのか、せめて1つでも語れよ。語れないから抽象的な「雄飛」しか言えない。
4. 「器で俺を魅了してみろ」「100均の醤油小皿」発言が最悪
「お前らの視野が小さい」とか言ってるけど、このスレッド自体が100均レベルの視野
自分の不満を垂れ流すだけで、解決策も自己反省もゼロ。偉人の伝記読んで「女次第」と結論出す時点で、自分で何も努力してないことの証明。
「今度は義母からあなたが受ける番になる。出来て当然&減点主義がどれくらい嫌か、悟れって。」
つまり「女同士で減点し合えよ、俺はもう被害者だ」って、男として情けなさすぎる逃げ
総評:
「商業BLの公式カップルを男女カップルに改変する二次創作(ヘテロ化)」を巡る議論について、主要な論点を整理して解説します。
商業BLなどで描写された公式のゲイカップルを異性愛に改変する二次創作は非常に稀であるという意見が大勢を占めています。
少年漫画の主人公×ヒロイン、乙女ゲームの攻略対象イケメン×女主人公などの公式男女カップルをBL化することは一般的である一方、その逆(BLのヘテロ化)が「腐女子への嫌がらせ」「セクシャルマイノリティの否定」と見なされることへの是非が議論されています。
この論点では、同性愛というマイノリティ属性を異性愛へ回収することの政治的な危うさが語られています。
ラーメン大好き小泉さんはルーツの描く自分を美少女化する漫画に通じる。
作者はラーメンフェスのカタログも一通り持ってるほどラーメンにこだわりあるようだしどう考えても小泉さんは作者自身の投影じゃん。
dorawiiより
-----BEGIN PGP SIGNED MESSAGE----- Hash: SHA512 https://anond.hatelabo.jp/20260421105614# -----BEGIN PGP SIGNATURE----- iHUEARYKAB0WIQTEe8eLwpVRSViDKR5wMdsubs4+SAUCaebZFQAKCRBwMdsubs4+ SJ/7AQCyku0NHfMOcQdjXuMPOY3CqXgi2H0itUqJXYnBoE7oVwEArWt6gABt+WyT 2Dt/u/JbvzszYIFIqFTa/rPaP9ZDZwU= =Yguc -----END PGP SIGNATURE-----
「青春」という言葉は不思議だ。部活や初恋、文化祭……。まぶしいイメージをまとう一方、現実との落差から「青春できなかった」との思いをずっと引きずることもある。「青春」はなぜ、人を引きつけ、とらえてやまないのか。その魅力と魔力の正体を、「みんなの〈青春〉」(生きのびるブックス)の著者である石岡学・京大大学院教授にきいた。
――「青春」をテーマにした映画やアニメ、小説などが、ちまたにあふれています。
少し見渡すだけでも、「青春」にまつわるコンテンツは枚挙にいとまがありません。
例えば、数年前にアニメ化されて人気となった「ぼっち・ざ・ろっく!」。キラキラした青春に対して屈折した思いを抱く「陰キャ」の女子高校生が主人公で、アニメの主題歌は、そのものずばりの「青春コンプレックス」です。あるいは、「高校最後の夏」と銘打ってメディアが注目する夏の甲子園なども、「青春」コンテンツに含まれるでしょう。
「青春」は特に学園生活の様々な場面と結びつきながら、格好のコンテンツとして、社会に広く消費されているのです。ただ、「青春」を巡る社会の語りを見てみると、そのイメージは一定ではなく、時代によってずいぶんと移り変わってきたことが分かります。
――どういうことでしょうか。
1960年代までは「青春」といえば、一部のエリート学生が既存の社会体制に対して抱く不満や怒りというかたちで描かれることが主でした。「青春」とは特権的なものだ、という社会的認識があったのです。
それが高校・大学進学率が急上昇するのに伴って、20代前半まで学生でいるのは珍しいことではなくなり、70年代以降、「青春」は誰でも経験できるものとして大衆化していきます。さらに2000年代以降は、ドラマチックな経験ではなく「学校での普通の日常」がテーマとして好まれるようになりました。
――こうした「青春」のイメージが、現実の当事者たちにも影響を及ぼしてきたと。
「青春」が「普通の日常」を描くようになっていったことは、当事者たちにも大きな意味がありました。
つまり、作品などの中で描かれる「青春」は、普通に過ごしていれば経験できるもの。そんな充実した日々が送れていないのは、自分に何か欠点があるからだ――。そのように、問題が内在化していくわけです。だから、現代は「青春」に対してコンプレックスを抱きやすい状況になっているといえます。
そこには、SNSの普及もある程度、関係しているでしょう。アイドルや芸能人たちよりも、同年代の「普通の子」が発信する「青春」の日々は、受け手にとってリアリティーがあります。「あれはフィクションだから」で片付けられない。それゆえ、自分の日々とのギャップを強く感じることもあるのでは。
いかに「青春」っぽいことをして、SNSで発信し、他者に承認してもらえるか。いわば「ミッションをクリア」するような感覚で「青春」をとらえているとも考えられます。
――「青春」は、なぜ人々を引きつける力を保ち続けているのでしょう。
「青春は陳腐さと特別さが混ざり合った規範だから」だと、著書では結論づけました。
現在において、ほとんどの人が高校あるいは大学生活を経験しうるという点で、「青春」は誰にでも与えられる、陳腐なものだといえます。一方、それは20代前半までの限られた時期にしか与えられず、失われたら戻らないという点では特別な意味を持ちます。
誰でも自分の姿を投影することができ、かつ、時間が過ぎれば失われるというかけがえのなさがあるために、多くの人にとって何かしら心をかき立てられるものなのでしょう。
さらに、「青春」には「若さ」「情熱」「成長」といったイメージが凝縮されています。これらはいずれも、現代社会において「善」とされている要素です。否定的な感情を入れる余地のないものだから、いっそう「青春」は光り輝いて見えるのです。ただそれは、あくまで社会的に作られたイメージであって、相対的なものに過ぎないということです。
――誰しもが、イメージ通りの「青春」を送れるわけではありません。
研究していて面白いなと思ったのは、まさに充実した「青春」を体現しているように見えるアイドルたちですらも、「青春できなかった」と語っている場面が少なくなかったことです。「普通の学校生活」というのは、それだけとらえどころのない、やっかいなものなのだと思います。
私のことでいうと、はたから見ればそこまで悪くない青春を送ったようにも見えるでしょうが、自分では「暗黒の高校時代」だと感じていました。人とのコミュニケーションに、どこか苦手意識があったからです。
要は、「青春」に抱くコンプレックスというのは自分のアイデンティティーに対する漠然とした不安なのだと思います。そうそう逃れられるものではない。良い青春を送れたと思うのであれば素晴らしいですが、そうでなかったとしても、必要以上にとらわれるべきではないでしょう。
◇
いしおか・まなぶ 1977年生まれ。専門は教育の歴史社会学で、子どもや若者イメージの社会的構築などを研究。著書に「『地方』と『努力』の現代史」(青土社)など。
https://digital.asahi.com/articles/ASV301CG7V30ULLI00YM.html
老親や友人や女を置いて一人で逃げ出しても
あなたも私に指摘されてはじめて
と言い出しました
記憶力が悪いのかもしれませんが
何度でも言いましょう
記憶力が悪いのかもしれませんが
あなたの癇に障ったので同語を言い返してきましたが
ムハンマドに関しては言い返せないようで
また
これは推測ですが、あなたはかつて左翼の思想に囚われていたのではないでしょうか。文章から漂う怨念が全て左翼に注がれていて、単純な嫌悪から来る感情とは異なる狂いを感じます。
遠く離れた住んでもいない国に熱心なんですね!
私ですらそんなやりとりをしたことがないです
あなたはまるで関心がないようです
卑劣な玉無し
誰もあなたのような左翼の話をしません。それは興味がないからだと思います。左翼と何らかの深い関係を持って接した反動から来る怨念だとするなら
そもそもイラン人とww2の裁判についてやりとりする日本人とはどんな人なのでしょうか
間違いなく非常に特殊で暇な時間がたっぷりある極端な左翼だと思います
それはあなたの内面の問題でって、勢力として無力な左翼に怒り狂うのは滑稽です。左翼を軽蔑したところであなたのアイデンティティクライシスは解決しないでしょう
アイデンティティに悩んだことはないです
そしてやはりムハンマドの話はしてくれないんですね
悔しいからですか?
私の文章にはどこにも「イランから逃げてトルコに住んでる」と書いていません。あなたの能力の低さから来る誤読です。
あなたは自分で誤読した存在しないイラン人に感情的になっています。またそのイラン人に個人的な日本の左翼に対する怨念を投影していて文章が破綻しています。私は人間の値打ちの話をしていません。感情的になっているのは「ケツ舐め」という表現があなたの愛国心を刺激したからでしょう。これは推測ですが、あなたはかつて左翼の思想に囚われていたのではないでしょうか。文章から漂う怨念が全て左翼に注がれていて、単純な嫌悪から来る感情とは異なる狂いを感じます。私は極東国際軍事裁判に異を唱える日本人を複数人知っていてテキストのやり取りをしますが、誰もあなたのような左翼の話をしません。それは興味がないからだと思います。左翼と何らかの深い関係を持って接した反動から来る怨念だとするならそれはあなたの内面の問題でって、勢力として無力な左翼に怒り狂うのは滑稽です。左翼を軽蔑したところであなたのアイデンティティクライシスは解決しないでしょう。