『福島県・二本松城』
福島県二本松市郭内にある「二本松城址」、別名「霞ヶ城址」である。
二本松城は、室町時代、奥州探題になった畠山高国がこの地に城を築き、二本松と改名したのが最初と云われる。
その後、戦国時代には、伊達氏との攻防、また会津若松城主蒲生氏郷の支城、上杉景勝の支城となった。
関ケ原以降、徳川の家臣が入城し、最終的には丹羽長秀の孫の光重が10万700石で入城し、二本松藩の藩庁として整備され、白旗が峰の山頂に本丸に石垣が積まれ、三重の天守が築かれた。
その後、明治維新まで丹羽氏の居城となったという経緯を持っている。
二本松城へは、JR東北本線の二本松駅から徒歩で行くことができる。
駅前の二本松神社の社頭を右手に進む。
そして神社に沿って左折すると、そこが大手門跡で、石垣が残っている。
付近には図書館や歴史博物館、商工会議所などが設置されている。
登城道は登りとなる。
そして丘を一つ越え、降り切ったところが城の前面で、城の全容を望むことができる。
100m程度の山頂に石垣も見える。
先ずは右手にある史跡「旧二本松藩戒石銘碑」へ行ってみる。
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺 寛延己巳之年春三月」と記されている。
意味は「武士の給料は人々の汗と脂の結晶である。民は虐げ易いけれども、神を欺くことはできない。だから民を虐げると、きっと天罰があるぞ」という戒めである。
どこかの国の総理や大臣には、民主主義の根幹、主権在民の基本として、肝に銘じていただきたいと思う。
城の側面を眺め、正面の千人溜へと行く。
冒頭の標柱と共に、戊辰戦争時の二本松少年隊の像が建てられている。
この少年隊も会津の白虎隊と同様である。
いよいよ城が攻められると知った少年達25名が力になろうと奮闘し、散っていったものである。
右手に少年の着衣を縫う母の姿もあり、涙を誘う。
西国(薩摩・長州)の武士達が大義名分があるのであろうが、他人の土地に攻め入り殺戮をしたと云う事実は、永久に残るのであろうと思われる。
正面の門は再建された箕輪門である。
門から入り少し登ると広い三ノ丸である。
三ノ丸から上は、本丸天守に向かう遊歩道が付けられている。
途中、藩士自刃の地もある。
西軍7千名に攻められた二本松城は防戦叶わず、家老や小城代が自刃した地とのことである。
更に進むと、頭上に石垣が見えてくる。
そして桝形虎口を入る。
本丸天守である。
天守の石垣の脇に、城代、勘定奉行自刃の地の石碑が建っている。
また天守以外に、西櫓台、東櫓台の石垣もある。
西櫓台の向こうに、安達太良の山々が見える。
本丸天守から西方向へ降りる。
本丸石垣が見事である。
暫く降りると、搦手門跡の石垣も見られる。
新城跡には、少年隊の顕彰碑、智恵子抄詩碑もある。
もう少し降りると見通しの良い場所へと出る。
土井晩翠の詩碑、城の案内図、そして西に山が綺麗に見える。
山は、左から和尚山、安達太良山、鉄山、箕輪山である。
更に降りる。
途中に丹羽神社、そして傘松がある。
茶室「洗心亭」もある。
そして、城の側面から正面へと戻り、城跡探索は終了である。