はてなキーワード: ユダヤとは
つけあがらせない事の方が重要。
タルムード的観点から、「推しは資本主義の産物であり、他人崇拝はNPCで主体性がない」をどう見られるか、丁寧に整理してお答えします。
タルムードおよびユダヤ的思想では、人間を神のように崇めることは拒否されます。
ただし、ここでいう崇拝とは宗教的崇拝であって、誰かを尊敬したり、学びの対象にしたりすることとはまったく別です。
タルムードでは、徳のある人、学識ある人、良い行いをする人を尊敬することは素晴らしいこととされます。
「賢者を敬う者は、神を敬う者に等しい」Shabbat 23b
つまり、誰かの良さに感動して応援や影響を受けること自体は肯定的です。
元の文章は「推し=主体性を失う」と決めつけていますが、タルムードはもっと細やかです。
つまり盲目的に従うのはNGだがインスピレーションや学びとしての「尊敬」は優れた行動である。
タルムードは極端な二元論(プレイヤー/NPC)では語らない、という点が重要です。
タルムードは資本主義どうこうは言及しないですが、動機を問うという姿勢があります。
つまり応援してお金を使うのが消費させられているだけなら危ういが「学び」「励まし」などの良い意図なら有意義。
タルムードは「尊敬の概念=悪」とは言いません。むしろどう向き合うかが問題です。
「初期条件に恵まれたスターは価値が低く、愚者こそ真に価値がある」としている。
人は生まれつき与えられた条件によって価値が上下するのではなく、行為により測られる。
つまり、
文章の核心は「逆境に押し潰される運命の中で自由を発生させる行為こそ人間の本質」だと言える。
これは、大きな欠点・困難・過去の過ちを乗り越える者は、最初から順調な人より高い霊的地位に達するという強烈な主張。
あなたが引用した文章が言う「愚者の最初の不利な条件からの突破」は、実はタルムードに近い。
ただしタルムードは前世の悪行のように運命を宿命化しない。ユダヤ思想では輪廻は主流ではない。
文中ではスターの成功を「初期条件の産物」として貶している。しかしタルムードは違う。
「父の功績でなくとも、子がその道を歩まなければならない」シュバット 152b
という試練の中を歩んでいる。
恵まれた人の試練=高地で風に耐える試練であり、恵まれない人の試練=谷底から登る試練である。どちらも価値ある。
文章では「決定論的宇宙を破壊する愚者の自由意志」が強調されているが、タルムードはもっと複雑。
「すべては予見されているが、自由は与えられている」アヴォット 3:15
文章のように「決定論を破壊する自由」というより、決定論の中で開かれている狭くても本質的な自由の余白を選び取ることが人間の偉大さである。
愚者が敗北を運命づけられた状況から自由を必死に作り出す姿は、ユダヤ的には以下の概念に近い。
バアル・テシューバー=失敗や弱さを背負いながら不利な条件にもかかわらずそれでも善を選ぶ人
タルムードは彼らを、「生まれつき正しい人」より高いとすら言う(ブラホット34b)。
文章で「愚者は宇宙のスクリプトを書き換える」とあるが、タルムードならこう言う:
| 文章の主張 | タルムードの応答 |
| 恵まれたスターは価値が低い | 恵まれた者にも独自の試練がある |
| 愚者こそ真の自由を生み出す | 困難を超える者の価値は高いが、他者を貶めない |
| 運命を破壊する自由が尊い | 運命の中の小さな選択こそ人間を作る |
| 初期条件の悪さが英雄性を生む | 人の価値はスタート地点ではなく行為で決まる |
ヨブ=天から与えられた不幸に苦しみながら神と格闘しそれでも語り続けた
ヤコブ=「あなたが祝福するまで、私はあなたを離さない」創世記32:27 (夜の闘いで天使と格闘し、運命そのものに食い下がる。)
あなたの文章は、「スター=決定論」「愚者=自由意志」という極端な対比を通して逆境の中で選ぶ自由の尊さを語っている。
タルムードもまた、人は不利な状況から立ち上がるとき、最も神に近づくと教える。
「ユダヤ教は西洋なのか?東洋なのか?」 という二分法をそのまま受け取るのではなく、タルムード的に前提そのものを問い直す必要があります。
ユダヤ教は本来、地理的にも思想的にも「中間領域(ミドルワールド)」にある伝統です。
東洋哲学に「複雑を複雑のまま受け入れる」という傾向がある、という一般論があるのは確かです。
つまり「複雑 → 単純」の西洋とも違い、「複雑 → 受容」の東洋とも違う。
タルムードは明らかに複雑ですが、複雑を複雑のまま放置はしません。
複雑な議論を:
1. 質問で切って
3. 前提を疑い
4. 答えが出なくても、その「未解決」までも体系化する
これは西洋の理性主義と似ているようで違い、東洋の受容とも違う。
ユダヤ思想の根本は質問 → 論争 → 多層解釈 → 実践というサイクルで、どちらの文明圏にもない独自のスタイルです。
| 特徴 | 東洋 | 西洋 | ユダヤ |
| 複雑さへの態度 | 受容 | 整理・単純化 | 分解し議論し、複雑さも残す |
| 真理観 | 調和 | 一元 | 多元(エルーシュ:「両方とも神の言葉」) |
| 学問の基本 | 体験・直観 | 論理・体系 | 論争・質問・解釈 |
あなたの感覚はとても正しいです。「愚者が勝っているように見える状況」は、タナフもタルムードもすでに鋭く描いています。
以下は、ユダヤ的視点からのなぜ愚者が勝ってしまうのかとそれにどう向き合うかの答えです。
さらに
タルムードの答えはこうです:「この世は不完全であり、正義はしばしば遅れて現れる。」
つまり、
という立場です。
声が大きい者が勝ったように見える。
「騒ぎは本質ではなく、泡のように消える」Pesachim 116b
派手なものほど長持ちしないというユダヤの認識は一貫しています。
「本物の影響はゆっくりと根を張る」Avot 1:1
SNSでは愚者が勝つように見えるかもしれない。しかしユダヤ思想では、
と線を引きます。
インフルエンサーのように騒ぎで勝つ競争は、そもそも賢者の土俵ではない。
賢者がやるべきは次の3つ
3. 長期的に残る価値を築くこと(Shabbat 31a)
派手な帝国も、流行も、騒ぎも消えた。その中で、静かに学び、積み重ねたユダヤ教の伝統だけが残った。
「騒がしい者は消え、学ぶ者は残る。」Sotah 13b
タナフとタルムードは愚者や混乱の時代をどう生きるかについて驚くほど多く語っています。
まとめると、究極の方法は 知恵+正しい生き方+道徳を体現することです。
タナフはこう言います。
逆に言えば、知恵を探求し続ける人が愚者の時代を生き延びるということ。
タルムードでも
「賢者は先を見通す」Tamid 32a
情報が混乱し、感情が煽られる時代ほど、学び続け、熟考し、長期的視点で判断する者が勝つ。
だからこそ、誠実、謙虚、対話、責任。これらを実践することが、最も強い抵抗となります。
タルムードでも、
「恐れ(倫理)がなければ、知恵は持続しない」Shabbat 31b
「少しの光は多くの闇を払いのける」Sotah 21a
光=
・知恵
・行い
・誠実
・善意
・言葉
・怒り
・不安
・煽動
・恐怖
1. 知恵を求め続ける
2. 礼節・良識を守る
こんな夢を見た。
『2025年12月のある真夜中、モスクワは崩壊した。何が起こったか世界は知りえなかった。12時間後、北京政府は地球外からの侵略者に備えると宣言し、シベリアに軍を派遣した。しかしその軍は跡形もなく崩壊してしまった。その12時間後、北京も崩壊した。
まだ世界は何が起こったか理解できなかった。その中で朝鮮の太っちょは側近を連れシベリアに向かった。彼はロシアと中国に何があったか少し知っていた。太っちょがシベリアにつき、何者かに接して24時間後、朝鮮軍は全長20kmを超える三機の漆黒のモノリスの助力を得て南進した。南進開始より48時間経たず、南の国家は崩壊し、太っちょは朝鮮半島の統一を宣言し、アメリカのトラ大統領他中国周辺の各国首脳を、ピョンヤンに招くと伝えた。
崩壊したモスクワでは、朝鮮半島とは別の深紅のモノリスより現れた仮面の人物により新生ロシア政府の成立が宣言された。ウクライナに即時の現状維持での停戦を求めたが、ウクライナはそれを拒否した。そして、言ったはずだ!同志になれと!!なぜそれが判らなかったのだぁ!!!とのメッセージとともにキエフもまた崩壊した。キエフが崩壊してから24時間後モスクワからリヴィウに、今度は蒼鉛のモノリスが向かった。時を同じくして、何かを知っていたローマ教皇がバチカンに集めた枢機卿を引き連れてウクライナに向かった。モノリスはリヴィウにつき、中からでてきた初老の男性がプッチン以下をウクライナに引き渡した。ローマ教皇一行はモノリスからの人物の前に跪き、神よとあがめたが、その人物は、神とは違うのだよ!神とは!と答えた。NATO各国も初老の男性に接触しようとしたが、すぐさま蒼鉛のモノリスとともに消え去り、詳細を得ることはできなかった。
数日後、トラ大統領他中国周辺国家の首脳は日本に集まり、事前協議をした後、横田基地より米軍機に乗りピョンヤンに降り立った。朝鮮の太っちょが議長となり、各国首脳とモノリスから現れた人たちの会談が開かれた。主を失った中国は、当面周辺各国が進出し、難民の流出を押しとどめ、分割統治が行われることが決まった。日本は現地人の対日感情が悪いということで、何ももらえなかった。朝鮮軍の南進によって捕虜となっていた在韓米軍はモノリスの人物の好意で、モノリスによって丸ごと横田基地に運ばれることに決まった。トラ大統領一行もモノリスに同乗し、その技術力に目を見張った。
横田基地に帰還したトラ大統領一行により、詳細の発表が行われた。失われた十部族が帰ってきたのだと。十部族は地球帰還に際し、無人のシベリアを帰還地としてロシアと交渉していた。おりしもウクライナ戦争で不利になったプッチンが、台湾進攻を企てていたプーとともに、十部族の持つの技術を奪取しようとしたが、返り討ちにあったのだと。
敵か味方かわからない十部族について世界各国は動揺した。それを静めるため、太っちょとトラ大統領の計らいで、後日十部族の長たちが国連で演説することとなった。
数週間後、白銀のモノリスで、十部族の各長が国連に到着した。降り立ったのはすべて女性であった。そして、その長達によって驚くべき歴史事実が公表された。
ユダヤ一神教の神とは、宇宙航行種族であったこと。航行種族が地球を発見以来、詳細な人類史の記録があること。知性の萌芽を見つけた宇宙航行種族は、宇宙の法を教えようとしたが、ユダヤ民族以外は受け入れなかったこと。十二部族が他民族に滅ぼされかけたので、従った十部族だけ緊急に航行種族のルナベースに保護されたこと。ローマ帝国成立後、航行種族は介入を止め、観察に徹したこと。
イエスは十部族と関連があった人物であったが、規則を破り、他民族にも宇宙の法を広めようとしたこと。6壺のワインと、5000人分のパンをUBERで注文したが、代価を払わなかったこと。そのため罰として、地上で処刑されるとき見放し、のちに復活させて収監したこと。大陸の東の孤島に収監する前にローマから逃げるパウロに会わせたことが、偶然カトリック教会の礎になったこと。現地妻との間にできた子供に誕生祝いのコップを贈っているが、それは聖杯ではなく収監先の津軽焼のお土産であること。
この時イエスの拘束された写真が表示されたが、聖骸布とは似ても似つかぬ、丸顔に無精ひげのおっさんであった。
そして、マホメットとは十二部族とも航行種族とも何の関係もないことが語られた。
世界はパニックに陥った。ローマ法王はまだ沈黙を続けている。イスラム圏では、それでもイスラム教を信じるもの、棄教するものとの争いになった。
まだ公表は続く、七十人訳聖書の誤訳について、旧約聖書の舞台は現代のイスラエルではなく、紅海の東岸、イエメンとサウジのある場所であること。
十戒を下した場所が特定され、出エジプト記のルートも従前言われたエジプトからではなく、アラビア半島内での逃避行であったことが明示された。
(そりゃ国家成立後70余年掘り返してみてもユダヤの遺跡なんか見つかるわけないわ、各国の聖書考古学者は嘆き、その人生を後悔した。)
イスラエルにいるユダヤ人とは血統的に十二部族とは関係がないこと、それ以上にパレスチナ人の方が残された二部族に血統が近いこと。
ローマ帝国の滅亡により、帰還が1000年遅れたこと。そしてローマ帝国の滅亡の轍を再び踏もうとしたため帰還予告を送ったこと。
ファティマの預言とは、十部族の帰還の予告であった、百年待っていて下さい、きっと逢いに来ますから。その時までに文明崩壊をさせないようにという警告も含めていたことであった。なぜファティマが選ばれたか?それはたまたま十部族の地上関係者の居住地の近くだったに過ぎない。
日本神話とギリシャ神話、インド神話はそれぞれ実際に起こったことを神格化したに過ぎず、アトランティスは現在のドニャーナ国立公園にある。
そして、所定の場所を掘ればそれなりの遺跡が出るとのことだった。
バベルの塔は、塔ができたことにより、いろいろな言語を話す人たちが集まってきたが、落雷で壊れ、その時の混乱が大げさに伝わったものだった。
ノアの洪水はかつて地中海は干上がっていたが、そこに黒海より水が流れ込んだ時の出来事であったとか。
(まぁ、昔だから距離とか偉業とかは口伝で正確ではなく、記録が定まったときには大げさになってるだろうと、各国の歴史学者は妙に納得した。)
ムー大陸とノストラダムスの予言に至っては、チャーチワードの詐欺でありまた、詩集を他人が勝手に拡大解釈したものとバラされた。
(カルト宗教や陰謀論の信者たちは、それでもこれらを信じた。)
航行種族より十部族にも公開されてない史実があるらしい、それは総会後の雑談でもたらされた。
インダス?シュメール?あれはねぇ、ちょっとした失敗らしいの、前だから詳しくは教えてもらえなかったの。
でね、ピラミッドは航行種族の転送装置を、現地人が真似て作ったもの。真似だから動かないし、時代を経るごとに大きくなっちゃたらしいの。
巨石遺跡や隙間のない石垣は、現地人がやってくれたら法を学んでくれると言われたからやったらしいけど、結局学んでくれず、放置されちゃった名残りだって、等々。
十部族はすでに月の裏側のラグランジュポイントにシオン公国を築いており、地上ではシベリアに基地を持っていたので、約束の地は放棄する方針であった。
そしてルナベースには航行種族の系外へのワープ施設が設置されているとのことだった。(ちなみにこの施設、一回動かすのに13バクトゥンかかるらしい。)
その発表後、ローマ法王は真実の隠匿を認め、カトリック教会の解散を宣言し、マラキの予言通り、最後の法皇となった。カトリックより分派した宗教は、カトリック以上にそれぞれの存在意義を失った。
中東は大混乱に陥った。まず、イスラエルはその存在意義を失った。イスラエルを離れるもの、一個人として残るものと様々であった。
パレスチナ人は、今更ユダヤ教に改宗してどうする?と血統と信教の板挟みに陥った。
サウジイエメンは国内にある聖書の遺跡や約束の地の扱いに苦慮する羽目になった。
欧米では、宗教意義を失った移民と現地民との間の軋轢が高じ、無政府状態に陥った地域もあった。
各国の陰謀論者たちは歓喜したが、思い至らなかったこと、関係者ではなかったことを悔やんでいた。
台湾は将来の中華統一を目指して、関係各国と粛々と交渉を始めている。
太っちょは、十部族の一番弟子、統一の英雄、大朝鮮帝国初代皇帝を自称し、認めたくないものだな自分の有能さを、とにっこにこである。
日本では、少し?物価高になったが、相も変わらず、日常が続いている。
かくして天国の門は開かれた。七つの大罪を背負うものは地上に留め置かれ、七つの徳を成したものは昇天する権利を得た。
なお、日本の女性首脳はまだ踊っている、あぁ時間(とき)が見えると。
おしまい。』
タナフ(聖書)・タルムードでは、「なぜ人はこの姿に創られたのか」という問いに対して、次のような考え方がある。
タナフはこう言う
つまり、神は人を偶然でなく、必要があってその人の姿にしたという考え方がある。
タルムード(Taanit 11a)にも
「人は、その人にふさわしいものを与えられる」
という考えがあり、見た目も、その人に与えられた使命(タフキッド)に関係していると理解される。
ミシュナー・サンヘドリン 4:5 では
つまり、みんなが同じ顔(絶世のイケメン)だったら困るのだということ。
タルムード(Ketubot 17a)では、外見よりも人格・善行・言葉の美しさが真の魅力と強調される。
タナフにも
「人は外の姿を見、主は心を見る」 (サムエル記Ⅰ 16:7)
タルムードはこうも言う(Berachot 58a):
はてな民が絶賛してるのでこれはやばそうだぞって思って調べたけど
当選直後のマムダニに批判的なアメリカ人のまとめ(つまり執政前の批判論陣まとめ)はこんな感じ。
X投稿:「NYPDを解体せよ(Defund & Dismantle the NYPD)」
→ 選挙中も削除せず残したまま
X投稿:「NYPDは人種差別主義者でホモフォビアでトランスフォビアだ(The NYPD is racist, homophobic, and transphobic)」
→ 過去発言との矛盾を突かれ「フリップフラッパー(ご都合主義)」と批判殺到
・「父が語った話」と後で訂正したが、完全に虚偽と確定
→ ADL(反デファメーション連盟)が「反ユダヤ主義の教科書的例」と指定
ラジオインタビュー:「パレスチナに自由が訪れるまで武装抵抗を支持する」
• 2017年 ラップ曲『Kill Your Landlord』
→ 選挙中もYouTubeに残っており、共和党が「暴力扇動」と攻撃
「不法移民もニューヨーカーだ。運転免許も投票権も与えるべき」
• 2023年:「イスラエルはアパルトヘイト国家であり、存在する資格がない」
「私はすべてのニューヨーカーを代表する。ユダヤ人も警官も含めて」
過去発言とのギャップから「当選した途端に偽善者になった」とXでトレンド1位に
個人的には1と5があまりにもヤバい、社会を破壊するものだと思う。
けどアメリカでは2の911で嘘ついてたのが心象的にでかいらしい。
家賃があまりにもどんどん上がって悪い資本主義だから殺せってなるのは
支持者の気持ちはよくわかる気がする。
とはいえ家賃抑制がものすごく難しくていろんな国で失敗してるのはご存知の通り。
金持ちとユダヤをあまりにも真っ向敵に回して調停的な施策も打てない・打たないのだろうし
有言実行の男なら南アフリカみたいに社会ぶっ壊しながら富裕層の資産没収して追放、
めげる男なら不法移民呼び込みとか警察解体とか比較的実行難度軽いことだけ実行になるのでは。
どっちにしても退任後に残されるのは第三世界っぽくなったニューヨークだと思う。
はてな民はこういう破滅ではない、ニューヨークやアメリカにとってより良い未来のルートを考えられるからマムダニを褒めてんの?
それとも単に、「希望は戦争。」みたいなノリでカタストロフの予感に拍手してんの?
意見を聞きたい。
あとはてな民は3と6を褒めたたえるのだろうけど
ここについてのスタンスで票が増えたのだとすれば
むしろその分だけ市長としての能力適性に疑問点が増えるやつだと思う。
イスラエル批判(昔から全然品行方正な国家でも民族でもねーと思う)なんて許さずに
批判した側を差別主義者として石打刑にして善人顔作ってたと思う。
はてな民のそういうスタンスって大した思考や検討があるわけでもなくて
端的に無価値だよね。
弱者男性という社会的レッテルやそれをめぐる議論に、ユダヤ教的視点から何か言えるかということですね。
まず最も基本的な観点として、ユダヤ教はすべての人間が神の像(ツェレム・エロヒム, צֶלֶם אֱלֹהִים)に創られたと教えます(創世記 1:27)。
この考え方からすれば、人を強者/弱者とラベル付けして価値づける発想そのものが誤りです。
一人ひとりが神の像を宿しており、その尊厳は社会的成功や能力では決まりません。
したがって、弱者男性を批判する言説に対してユダヤ的に言えばこうツッコめます:
「公の場で他人を辱める者は、血を流す者に等しい(מלבין פני חבירו ברבים כאילו שופך דמים)」
SNS上などで弱者男性などとレッテルを貼り、嘲笑したりすることは、まさにこの教えが戒める行為に当たります。
「誰が強い者か? 自分の欲望を制する者である。」 (אֵיזֶהוּ גִבּוֹר? הַכּוֹבֵשׁ אֶת יִצְרוֹ)
ユダヤ的には、真の強さとは他人を支配する力や経済力ではなく、自分の内面を制御できるかどうかです。
つまり、弱者と呼ばれる人の中に、もっとも強い魂を持つ人がいるかもしれない。
箴言(ミシュレイ)では、確かに愚者(כְּסִיל/kesil)に対して厳しい言葉がたくさんあります。
たとえば次のような節があります:
「愚か者に答えるな、その愚かさに従って。さもないと、お前も彼のようになろう。
しかし愚か者に答えよ、その愚かさに従って。さもないと、彼が自分を賢いと思うであろう。」
(箴言 26:4–5)
このような節は、一見「神の似姿としての人間」という考えと矛盾しているように見えます。
しかし、ユダヤの伝統的な解釈では、これら二つの概念は矛盾せず、むしろ補い合うものと理解されています。
ユダヤ思想では、「ツェレム・エロヒム(神の似姿)」とは人間の本質的な尊厳を指します。
それは、生まれながらに神の創造によって与えられたものであり、誰も失うことはありません。
一方、箴言で語られる愚者とは、道徳的・知的な選択の誤りを繰り返す人を指します。
つまり、愚か者とは存在の否定ではなく、行動や態度の批判なのです。
ラビ・アヴィグドール・ネーベンツァール(現代エルサレムの学者)はこう説明します:
箴言は知恵文学であり、感情的な非難ではなく、人間の行動を正しい道に導くための現実的アドバイスです。
これは「愚か者は神の似姿ではないから関わるな」ではなく、「あなた自身が愚かさに引き込まれないように、距離をとりなさい」という心理的・倫理的アドバイスです。
つまり箴言は人の尊厳を否定せず、愚かさの影響を避ける智慧を教えています。
タルムード(ペサヒーム 113b)には次のような教えがあります:
つまり、行動上は距離をとる必要がある相手でも、心の中ではその人の内なる神性(ツェレム・エロヒム)を忘れないという態度を求めています。
「人々を愛し、彼らをトーラーへと導け。」
それは、「愚かさを嫌っても、人を嫌うな」という倫理です
| 教え | 内容 | 目的 |
| 神の似姿(創世記1:27) | すべての人間の存在的価値 | 尊厳の土台 |
| 愚者への警告(箴言) | 行動・言動に対する現実的指針 | 自己防衛・知恵 |
| タルムードの調和 | 人を嫌わず、愚かさを避ける | 愛と現実のバランス |
つまり、ユダヤ教は愚かさを厳しく戒めますが、愚かな人そのものを否定しません。
彼(または彼女)にも神の似姿がある。
Q: 私は最近、ある気付きがありました。
それは、最初から愚者やクズであると私が思っている人間の発言には動揺しませんが、私が尊敬している人間が攻撃的言動などをしたときにより大きな失望を感じるということです。
私は最近、ある物理学者のツイートで「idiotであるなら、少なくとも有用でいろ」という発言がありました。
この人は尊敬していたのですが、他人をidiotと言ったり、有用というまるで人を道具扱いする言動を見て失望したのです。
ーーー
あなたの感じた「尊敬する人が攻撃的な言葉を使った時の失望」は、人間関係の中で非常に普遍的な体験です。
そして、ユダヤ教の教えには、このような感情にどう向き合うか、またどう自分の中で整理するかについて多くの知恵があります。
ユダヤ教では、すべての人間は「ツェレム・エロヒム(צלם אלוהים)」神の似姿に創られた存在だと教えます(創世記 1:27)。
つまり、誰もが神的な価値を持つと同時に、不完全さをもつ存在です。ラビたちは「賢者であっても、時に罪を犯す」と語ります(コヘレト・ラッバ)。
あなたの尊敬する物理学者も、知性において優れていても、人格や言葉においては未熟な部分があるかもしれません。
ユダヤ教的な視点では、その人の一部の欠点が、全体の価値を打ち消すわけではないと考えます。
あなたが感じた違和感「他人をidiotと呼ぶ」「有用であることを人の価値とする」これはユダヤ教で非常に重く扱われるテーマです。
「ラション・ハラー(悪口・悪意のある言葉)」は、タルムードで「三人を殺す」と言われています:
「悪口は三人を殺す――話す者、聞く者、そして語られる者」(アラヒン 15b)
ですからあなたの失望は、実に深い倫理的感受性の現れです。ユダヤ的に言えば、あなたは言葉の聖さに敏感であるということです。
ミシュナ「アヴォット(先祖の教え)」ではこう述べられています:
つまり、もし可能であれば、「彼は苛立っていたのかもしれない」「彼なりの不器用な表現かもしれない」と、一度は善意で捉えてみる姿勢を持つように、と教えます。
これは相手の行為を免罪することではなく、「自分の心を恨みや幻滅に支配されないようにするため」の精神的防御でもあります。
ユダヤの学者ラビ・ナフマン・ミ・ブレスラフはこう教えました:
あなたがその物理学者の言葉に強く反応したのは、「人の尊厳を守る」というあなた自身の大切な価値を裏切られたと感じたからです。
それは痛みでもあり、同時に、あなたが深く倫理的で思慮深い人である証拠でもあります。
とても興味深いテキストですね。
内容としては、現代的なニヒリズム(虚無主義)を感じさせます。
人生に意味はない、努力も業績も最終的には消える、誰も自分を見ていないという主張は、ある種の哲学的冷徹さをもって書かれています。
ユダヤ教的な観点から見ると、これは根本的に人間と世界に対する視点が異なると言えます。以下に、ユダヤ思想との対比を示します。
この文書の根底にあるのは、他者の視線から自由になることで救われるという思想です。
「人は心を見ることができないが、主は心を見る」(サムエル記上 16:7)
つまり、たとえ人間があなたを見ていなくても、神はあなたの内面と行いを見ている。
人の目を気にすることから自由になるのはよいが、それを誰も見ていないから何も意味がないと結論づけるのではなく、神が見ているからこそ自分の行いには意味があると捉えるのがユダヤの方向です。
ユダヤ教も確かに人間の人生ははかないと認めますが、それを無意味とは見ません。
ラビ・アキヴァなど多くの賢者は、「行為の結果が見えなくても、行為自体が神の意志の一部である」と教えます。
タルムード(アボット 2:16)ではラビ・タルフォンがこう言います:
たとえ努力の結果が風化しても、その努力の瞬間は永遠の価値を持つのです。
文書の最後には無意味を受け入れたときに人は自由になるとあります。
ユダヤ思想でも、「アイン(אין)=無」という概念は重要です。カバラでは、「アイン・ソフ(אין סוף)」=「限りなき無限なる神」として語られます。
人間には意味が見えなくとも、神の次元では秩序と目的が存在すると考えます。
ユダヤ教では、意味を求めないことは自由ではなく放棄とみなされます。
自由とは、神の像に似せて創造された存在として、自らの責任を引き受ける自由です。
ユダヤ教における自由は、何でもできるではなく、正しいことを選ぶ力です。
したがって、意味を求めない自由よりも、意味を創り出す自由が尊ばれます。
この文章の洞察は、一面では他者の期待から自由になるという点で真理を含みます。
しかし、ユダヤ的視点では意味の否定は救済ではなく、神との関係の断絶です。
真の救いは、意味を見出せない時にもそれでもなお意味があると信じるところにあります。
「たとえ彼が私を殺しても、私は彼に望みをかける」(ヨブ記 13:15)
創世記の最初の言葉は「בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים」(ベレシート・バーラ・エロヒム)=「初めに、神が天地を創造された」(創世記 1:1)。
つまり、世界には「目的」と「秩序」がある、という考えが根本にあります。
私たちはその秩序の一部であり、世界をよりよくする責任(ティクーン・オーラム תיקון עולם ― 世界の修復)を担っています。
「神はご自分のかたちに人を創造された」(創世記 1:27)とあります。
これは、人間には尊厳・理性・自由意思が与えられているという意味です。
だからこそ、他人を尊重すること、生命を大切にすることは世界の基礎的な倫理です。
ユダヤの伝統では、学ぶことは単なる知識の獲得ではなく、よりよく生きるための道です。
「学びは行いに導く」(Pirkei Avot 1:17父祖の言葉)と教えられています。
「誰か一人を救う者は、全世界を救う者である」(ミシュナ・サンヘドリン 4:5)。
これ豆な
ユダヤと言えば金持ちのイメージがあるが、人口では中産階級未満が圧倒的に多い
その貧民で敬虔なユダヤのイスラエル支持はおよそ25%と極めて低い
なぜなら彼らの教義では約束の地は神が与えるものであり、イスラエルという自力救済の産物は認められないからだ
またアメリカのユダヤコミュニティはホロコースト被害者の係累である
ホロコーストを免罪符として好き勝手やってきたイスラエル人は北アフリカや中東から集まってきた人たちが主流なのでなおさら業腹
よってユダヤと言えどもシオニズム運動には乗れない人たちが多数派なのだ。
しかし怖いのは反シオニズムが多数派でも、アメリカユダヤでは非主流派なのだ
金持ってる親イスラエルユダヤが連邦政府やメディアを巻き込んでイスラエル支援運動を大々的に打っている横で
この主張は「例外を設定することが理論を妄想化させる」と言っていますが、特にタルムード的思考の観点から見ると、まったく異なる理解の体系が存在します。
ユダヤ教おいて、「例外」や「条件分岐」は論理の破綻ではなく、むしろ真理をより正確に掘り下げるための手段とされます。
タルムードはその典型で、単純な法則を提示した後に、無数の「例外」や「場合分け」が登場します。たとえば:
「シャバットに火をともすことは禁じられている」
— では、もし病人を助けるためなら?
— では、命に関わらないが苦痛を和らげるためなら?
このように、例外を探ること自体がトーラーを「生きた法」とする営みなのです。
神は人間に理性を与え、「境界線の思索」を求めたとされます(創世記 2:19)。例外を検討することは、神の創造の多様性に応答する行為です。
なぜなら、ユダヤ的思考では、「例外」は理論を壊すものではなく、現実の複雑さを正直に反映させるための器だからです。
例:「人は自由意志を持つ」と「すべては神の計画である」は矛盾して見えます。しかし、ラビたちはこの二つを「両立させよう」とします。
神の完全な知と人間の部分的な自由、その間にこそ真理の緊張があるのです。
あなたの提示した主張では、「例外」は理論を守るための防衛反応とされますが、ユダヤ教ではむしろ逆です。
例外を問うことは、理論を現実に照らして再検証する道徳的責任です。
つまり、理論(法)は現実に生きる人を導くものであり、もし法が現実を傷つけるならば、例外を探すことが義務です。
これを「ピクアフ・ネフェシュ(命の保全)」と呼び、たとえ安息日であっても命を救うためなら律法を破ることが許されるとします(タルムード・ヨマ 85b)。
「例外を設ける」ことは、理論の腐敗ではなく、真理を現実に根づかせる努力です。
むしろ「例外を認めない」理論こそが、生命や倫理から遊離した「妄想」に陥ります。
まず、両方の行為、親を支えることと、慈善を行うことはトーラーが強く奨励する善行です。
トーラーは「父と母を敬え」出エジプト記 20:12と命じています。
この「敬う」は、親に食べ物や衣服を与え、必要を支えることを含みます(キドゥシン 31b)。
ですから、収入を用いて親を支えるのは非常に重要なミツヴァです。
同時に、トーラーは「貧しい人を見捨ててはならない」 申命記 15:7–11とも命じています。
ラビたちは「世界は三つの柱によって立つ、トーラー、礼拝、そして慈善によって」(アヴォット 1:2)と教えています。
ラビ・ヨセフ・カロは『シュルハン・アルーフ, ヨレ・デア 251』でこう定めています:
「自分の父母を支えることは、他の貧者よりも優先する。」
つまり、親が経済的に必要としているなら、まずは親を支えるのがユダヤ的に正しい順序です。
しかし、もし親が十分に生活できているなら、その上でツェダカーに一部を分け与えるのがより完全な道です。
これがハラハーとムサールの両方に沿った行動です。
| 行為 | トーラー上の価値 | 優先順位 |
| 親を支える | 出20:12, 申5:16 | 最優先(必要があるなら) |
| 慈善を行う | 申15:7–11, 詩編112 | 親が十分であれば次に行う |
あなたの読み取りはコヘレト(קהלת)の核心を突いています。
この書は古代イスラエルの知恵文学の中でも、最も人間の実存を深く見つめたものの一つです。
コヘレト 4章4節の「כל עמל וכל כשרון מעשה כי קנאת איש מרעהו היא」(“すべての労苦と技能のある働きとは、人の互いのねたみによる”)という一節には、まさに現代の社会にも通じる洞察がありますね。
努力の動機が「他人に勝ちたい」「評価されたい」という比較の中にある限り、その果てにはהבל הבלים – ヘベル・ハバリーム(空の空)が待っている。
コヘレトは、そんな虚無を見抜きながらも、だからこそ「静かな満足」「手のひらいっぱいの安らぎ」を勧めています(4:6)。
面白いのは、コヘレトはニヒリズムではなく「穏やかな現実主義」の立場なんです。
彼は「どうせ虚しい」と言って人生を投げるわけではなく、むしろ「だからこそ、今この瞬間を楽しめ」「神を畏れよ(エロヒムを敬え)」と結論づける(12:13)んですね。
あなたの言うように、インフルエンサーが語る「成功」「自己実現」などの言葉は、往々にしてこの“張り合いの労苦”の領域にあります。
彼は人間の「承認欲求」という終わりなき競争のループを見つめて、「そこに真の喜びはない。小さな安息、静かな心にこそ、価値がある」と言ったのです。
ユダヤ的に言えば、これは“מנוחה הנפש – メヌーハ・ハネフェシュ(魂の安らぎ)”の境地。
週に一度、競争や成果を手放し、「今ここ」にある生命の善を味わう。
それが、コヘレトの言う「手のひらいっぱいの安らぎ」に近いのかもしれません。
🕯️
つくづく思っていたがはてぶ民の反ユダヤ感情は過剰じゃないか?
イスラエルが食べ物の流入を止めてハマスに関係ないパレスチナ民がかわいそうだからイスラエル反対という意見なら理解できる。
しかしハマスが一方的に停戦協定を違反して、第一次停戦後にイスラエル兵を攻撃して殺害した。
その報復として爆撃をしたイスラエルを擁護するコメントは皆無どころかテロリストを称賛するコメントであふれかえっている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/jp.reuters.com/world/IZOOZ7PUNRN4DHZZS4FPYAHM4U-2025-10-28/
https://www.jiji.com/jc/article?k=2025102900301&g=int
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> ネタニヤフ政権が倒れない限り、虐殺はつづき、ヘイトは貯まっていく
もし日本が北朝鮮や中国から攻撃を受けて反撃をしたら虐殺になるのだろうか?
北朝鮮の拉致問題をやり玉に挙げて食料の輸入を制限して、政権と関係のない北朝鮮国民を飢えさせている日本はイスラエルを非難する資格はないと思うのだがこの投稿は
都合悪いから伸びないだろう。