はてなキーワード: 支配とは
もちろん全員ではない。
ただ、少なくとも私はそうだった。
十五歳で負けていれば、私はたぶん助かった。
十八歳まで勝ってしまったから、負け方を知らないまま大人になった。
私はどこで間違えたのだろう。
若い頃の私は、自分が間違えることより、他人に合わせて間違えることを恐れていた。その恐れはたしかに私を東大まで連れていった。けれど同じ恐れが、私を社会から少しずつ遠ざけた。
私は今、四十七歳になる。
前の会社は、私から見れば理不尽な理由で私を遠ざけ、最後には私の居場所を消した。前の前の会社も、その前の会社も似たようなものだった。
今でも半分くらいはそう思っている。
ただ、半分はもう思っていない。
これから書くのは、その「半分」の話だ。
先日、ある雑誌に頼まれて大学新入生向けの短いエッセイを書くことになった。
私は引き受けた。
引き受けながら、ふざけるなと思っていた。
社会人として何かを成し遂げたわけでもない私に、なぜそんな依頼が来るのか。たぶん編集者は、私の経歴の一行目しか見ていなかったのだろう。
一行目だけは綺麗だ。
二行目以降は読まないほうがいい。
私は二日間、机の前に座った。
何も書けなかった。
「夢を持て」とも「努力は裏切らない」とも書けなかった。
書けば嘘になる。
私は夢を持っていなかった。
努力は私を裏切らなかったが、努力以外のすべてが私を裏切った。
これは雑誌には載らない。
たぶん誰にも届かない。
けれど、もし、たまたま、これから大学に入る誰かが読んでくれるなら、一つだけ伝えたいことがある。
素直になれ。
よりにもよって私が言うことか。
私はずっと素直ではなかった。
性格も悪かった。
懺悔だ。
懺悔は聞かなくてもいい。
ただ、もし君が今、自分の周りを少し愚かに感じているなら、その先に何が待っているかを、私という見本を通して少しだけ覗いてみてほしい。
第一部 正解者だった頃
地名は伏せておく。
妹が一人いた。
家は古かったが、貧しくはなかった。
私はわかっていた。
手を挙げた。
当てられて答えを言った。
正解だった。
先生が褒めてくれた。
私は嬉しかった。
書きながら本当にそう思う。
あの瞬間以上の幸福は、その後の私の人生にもう一度も訪れなかった。
二番のときもあったが、すぐに一番に戻った。
周りもそう扱った。
先生も、親戚も、近所のおばさんも。
中学校のとき、母が近所の人にそう言われているのを二回か三回聞いたことがある。
母は嬉しそうに笑っていた。
否定はしなかった。
私は、否定しなかった母を嫌いにはなれなかった。
中学まではまだ良かった。
授業はつまらなかったが、それは皆そうだった。
班活動もそれなりに楽しんでいた。
私はクラスで浮いていなかった。
背は普通だった。
顔は、まあ、普通だった。
私が入ったのは、県内で一番偏差値が高いとされる公立高校だった。
OBに地元選出の国会議員と県知事がいる、というのが地元の自慢だった。
今思えば、それも大した自慢ではない。
けれど当時は、その校門をくぐることに確かな誇りを持っていた。
入ってみると、勉強はやはり私が一番だった。
自分が一番ではないことが、十五歳の私には許せなかった。
期末試験で一番を取った。
決まる過程で、私は反対した。
もう新鮮味がない。
準備期間は二週間しかない。
私は別の案を提案した。
模擬店で何か食べ物を出すほうが客の回転が早く、利益も出やすい。
これは数字で示した。
前年度の各クラスの売上データを、わざわざ生徒会から借りてきていた。
却下した中心は、クラスで人気のあった明るくてうるさい男子だった。
彼は私の数字を見もせずに言った。
私は食い下がった。
「楽しさを論じているんじゃない。準備期間と利益の話をしているんだ」
誰かが小さく「うわ」と言った。
私はその「うわ」の意味が今ならわかる。
当時はわからなかった。
担任が温和な顔で言った。
「みんなで決めたんだから、それでいこう」
私は黙った。
黙ったが、心の中では「これは間違いだ」と思っていた。
当日の朝になっても暗幕が一部つけられず、外から中が見える状態のまま開店した。
客は数えるほどしか来なかった。
打ち上げの席で、誰も私に「お前の言う通りだったな」とは言わなかった。
クラスの全員が笑った。
私は笑えなかった。
笑えない、というのは笑顔の筋肉が動かないという意味ではない。
心が笑い方を覚えていない、という意味だ。
彼らは間違えたあと、間違えたまま、楽しそうに次へ進んでいた。
私は一人だけ間違えていなかった。
間違えていないのに、その輪の中にいなかった。
そして結論を出した。
人に合わせると間違える。
多数派は正しさを選ばない。
この結論は、十六歳の私にとってほとんど真理として体に入った。
そして最悪のことに、それは半分は事実だった。
これが後で書くことのすべての始まりだ。
似たような出来事はその後何度もあった。
一つだけ、もう一つ書いておく。
班員は四人。
私はすぐに気づいた。
私は班員にそれを伝えた。
「だから、別の角度で攻めたほうがいい。例えば、水質と水生昆虫の種数の相関を上流と下流で比較するとか、もう少しオリジナリティのある切り口がいる」
班員の三人は、ぼんやりと私を見ていた。
一人の女子が言った。
「先生は最低ラインの話をしているだけだ。発表会で評価されるためには、もう一段必要なんだ」
そこで私は致命的なことを言った。
今でも覚えている。
そのとき私は、自分が何かまずいことを言ったことには気づいていた。
けれど何がまずいのか、正確にはわからなかった。
今ならわかる。
ただ、四人で何かを一緒にやる時間そのものを、彼女たちなりに大切にしようとしていた。
発表会の評価は、可もなく不可もなくだった。
私はその後、班の打ち合わせにあまり出なくなった。
彼女たちも私を呼ばなくなった。
私たちは最後まで、お互いの名前をフルネームで言えるような関係にはならなかった。
その夏、私は塾の自習室にこもって一人で勉強するようになった。
そのほうが効率が良かった。
私の偏差値は上がった。
この時期に、もう一つ私の中で固まったことがある。
「言い方」という言葉が嫌いになった。
正しいことを言うと、決まって誰かが「言い方がきつい」「言い方を考えろ」と言った。
私には、それが奇妙な反論に見えた。
内容が正しければ、それでいいではないか。
なぜ正しい内容を、わざわざ柔らかく包まなければならないのか。
それは内容より装飾のほうが大事だと言っているに等しい。
知性に対する侮辱ではないのか。
私はそう考えた。
内容が正しければ、いずれ理解される。
これは私の中で信仰になった。
ここで君に一つだけ言わせてほしい。
「言い方」は装飾ではない。
内容を相手に届けるための、内容の一部だ。
ただの独り言だ。
三十年遅かった。
君はこれを、十八歳のうちに知ってほしい。
東京大学の合格発表は、その時代はまだ本郷キャンパスの掲示板に紙が貼り出された。
私は二月の終わりに東京へ出て、安いビジネスホテルに泊まり、当日、本郷に向かった。
三月十日だった。
寒い日だった。
これは嘘ではない。
本当のことだ。
「やった」とは思った。
けれど、それだけだった。
模試の判定はずっとAだった。
直前の本番形式の演習でも、合格者平均より上を取り続けていた。
落ちる理由がなかった。
掲示板の前では、合格した人たちが抱き合ったり、泣いたり、家族に電話したりしていた。
私は誰にも電話しなかった。
けれど誰の声を聞きたいとも思わなかった。
私は一人で本郷の門を出て、近くの蕎麦屋に入り、かけそばを食べた。
蕎麦はぬるかった。
それでも最後まで食べた。
この四年間、誰と過ごすんだろう。
喜びではなく、空白に近い感情だった。
私はこれから、知らない街で知らない四年間を過ごす。
誰も私を「すごい」と言わない。
少しだけ怖かった。
けれど私は、その怖さをその日のうちに押し込めた。
「いや、俺はやってきた。一人でやってきた。これからも一人でやればいい」
そう自分に言い聞かせた。
これは合格した日に、十八歳の私が自分自身に与えた呪いだった。
その呪いに私は気づかなかった。
二十年以上、気づかなかった。
これを単なる「放課後のスポーツや文化活動」と解釈しているうちは、日本社会の本質を捉えることはできない。部活とは、教育という美名の下に偽装された、日本独自の「空気」の醸成機関であり、極めて強固な「小宇宙」としての共同体なのである。
西洋的なスポーツの概念では、それはあくまで個人の「楽しみ」であり「技術の向上」を目的とする「遊び(Game)」である。しかし、日本の部活においては、それが「野球道」や「剣道」といった具合に、容易に「道」へと転化してしまう。
ここで言う「道」とは、論理的なルールを超越した絶対的な規範である。そこには、外部の人間には到底理解しがたい、以下のような特質が見て取れる。
儀礼の絶対化: 挨拶の角度から、道具の手入れ、グラウンドへの一礼に至るまで、機能性とは無関係な儀礼が最優先される。
「連帯責任」という戒律: 一人の部員の不始末が部全体の活動停止に繋がる。これは近代的な法治主義(個人責任)ではなく、村社会の「縁座」の論理である。
山本七平が喝破した「空気」の支配が、最も純粋な形で現れるのがこの部活という空間だ。
例えば、真夏に水を飲まずに練習を続ける(かつての常識)、あるいは怪我を押して出場するといった行為が「美談」とされる背景には、生理学的な合理性など存在しない。そこにあるのは、「ここで水を飲んではいけない」「休んではいけない」という、その場を支配する「空気」への絶対服従である。
この空気(臨在感的把握)に抗う者は、非国民ならぬ「非部員」として、共同体から事実上の追放(シカトや疎外)を余儀なくされる。ここでは「個」の意志は、共同体の維持という至上命題の前に、完全に抹殺されるのである。
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このシステムを維持する「司祭」の役割を担うのが、教師(顧問)である。
彼らは本来の職務である教科指導を二の次にしても、部活動の指導に没頭することを「徳」とされる。土日を返上し、無給に近い状態で奉仕するその姿は、近代的な労働者のそれではなく、一種の宗教的情熱に突き動かされた修道者のそれである。
生徒もまた、その「自己犠牲の精神」を空気として吸い込み、「先生がこれだけやってくれているのだから」という情緒的な絆によって、さらなる規律へと縛り付けられていく。
それは、日本社会という巨大な「空気の組織」に適合するための、高度な精神的訓練所なのである。理不尽な上下関係を、論理ではなく「身体的感覚」として受け入れ、組織の論理を個人の論理に優先させる――この「日本教」の洗礼を、彼らは多感な思春期に徹底的に叩き込まれるのだ。
この「珍妙な制度」が温存されている限り、日本人が真の意味で「個」として自立し、論理的な組織運営を行うことは、おそらく今後も至難の業であろう。
現代日本の政治・経済議論が根本的に終わってるのは、それがすべて「推し」思考に支配されていて、性悪説を全く欠いているからだ。
民主主義も資本主義も、海外では規制ありきの性悪説に基づくのが当たり前。
企業は疑って当たり前。政治家は疑って当たり前。でも疑うというのは、何も期待せず全否定して絶望するということじゃない。
人間なんて最初から身勝手で自分中心だと理解するからこそ、お互い様で理性の縛りをシステムに求める。
政治家でも市場でも、信じて任せていれば良いなんて言説はすべて責任逃れのための屁理屈だ。
信じるならばこそ監視し、疑うならばこそ「改善のための」考え方に注力する。それが責任のある大人のものの考え方だ。
これを本当に理解できていないと、欧州が何にでも「規制」を科しながら、日本とは比べ物にならない「資本主義」絶対の社会であるということがわからない。
それは資本主義の否定じゃない。資本主義を貫く気が満々だからこそ、安全な市場のための規制を徹底する。
グリーン経済もデータセンターも、欧州は「何を規制すれば、デメリットを最小にして安全に儲けられるか?」を考えるために国も民間も全力を注いでいる。
日本の右翼や左翼が、否定したり理想化したりするような、社会主義のために欲望を犠牲にする高潔なヨーロッパ人なんてものはどこにも存在しない。
AIに支配されて自民党員共産党員が技能実習生と同一賃金同一になるまでは共産主義にはならない
その後の展開は、さらに教育心理学的にも示唆に富むものだった。Aが一度は口にした「昨日の非礼について、重ねてお詫び申し上げます」という謝罪。それが内省によるものではなく、単に対話を強制終了させるための「終了ボタン」に過ぎなかったことが、その後の豹変で露呈することになる。
Bが依然として拭い去れない不快感(前日に「ソープへ行け」と人格を否定するような暴言を吐かれたことへの余波)を口にすると、Aは即座に攻撃に転じた。
「わたしは蒸し返されてだるいよ」「謝罪すべきはしっかり謝りました」と、自らの不適切な言動が招いた紛糾を、あたかもBが一方的に「終わったことを蒸し返す迷惑行為」であるかのようにすり替える。
再口論の最中、Aは「すまん任せた」と他のメンバーへ丸投げし、場を放棄した。
これは、自分が有利な時だけ「指導者」として振る舞い、形勢が悪くなると「自分は被害者だ」と逃げ出す、極めて不誠実な態度だ。
Aは、Cによる再度の指摘に対しても、結局「伝わって欲しかった(自分の善意を汲み取れ)」「その謝罪は一度は受け入れられた認識だ」という自説を繰り返すに留まった。
現代のコミュニケーションにおいて「情報のアップデートができない」ことは致命的な欠陥だ。
自分の振る舞いが「ハラスメント」や「仕様不備」であると客観的にデバッグされた際、速やかに自己のプロトコルを更新できない人物は、周囲に有害な環境を撒き散らす。Aは過去の成功体験や独自のドグマに固執するあまり、フラットかつ論理的な対話プロトコルをインストールすることに失敗した「古いOS」のような状態に陥っていたと言える。
今回のCや他のメンバーによる介入は、単なる口論への横槍ではない。それは、コミュニティというシステムの健全性を維持するための「免疫反応」だった。
人格否定や強権的な指導という毒素が蔓延しないよう、論理の光を当てて「それはNGである」と公にラベルを貼ること。
「コミュニケーションの主体は受け手にある」という原則を徹底することで、送り手の「善意(意図)」という逃げ道を封鎖し、受け手の安全を確保すること。
Cが最後までこの原則を捨てなかったのは、B個人の救済であると同時に、「論理の通じない強権的なコミュニケーションを許容しない」というコミュニティの防衛線を引く行為だった。
情報のアップデートを拒み、自らの手法の欠陥を「善意」や「謝罪済み」という言葉で塗り潰そうとする者は、いずれ健全なコミュニティのプロトコルによって「仕様不備」として弾き出される。Bが最後に「基礎の部分で齟齬がある」と冷徹に断じ、関係を断つ決断ができたのは、この徹底したデバッグのプロセスがあったからに他ならない。
(了)
ガラピコぷ〜:チョロミーが作ったガラピコ(過去へ送ったロボット)。
新世紀エヴァンゲリオン:赤木リツコ博士によるスーパーコンピューターMAGI。
機動警察パトレイバー:西脇冴子による廃棄物13号など。
ジェニーはティーンロボット(My Life as a Teenage Robot):ノーラ・ウェイクマン博士によるXJ-9(ジェニー)。
ファイブスター物語:エルディアイ・ツバンツヒ設計のGTM(ゲートシオンなど)。
特捜ロボ ジャンパーソン:三枝かおるが完成・育成したジャンパーソン。
水星の魔女:プロスペラ・マーキュリー(エルノラ・サマヤ)によるガンダム・エアリアル。
Carbone & Silicium(フランス漫画):日本人女性科学者作成のアンドロイド。
われはロボット(アイザック・アシモフ):スーザン・カルヴィン博士。
8マン・インフィニティ:細川ユカリによるAI「サイバー」。
勇者警察ジェイデッカー:エヴァ・フォルツォイク(超AI基礎)。
上野さんは不器用(tugeneko):科学部部長・上野(天才マッドサイエンティスト)が各種発明品(自走式ロボット「ダッシュたん」、自身をモデルにしたガイノイド「ウエノ13号」など)
ドラゴンボール:ブルマの各種発明(ドラゴンレーダー、タイムマシンなど)。
ガンダムシリーズ:Sガンダム(センチネル)、F91、エアリアルなど女性開発者中心。GPシリーズ(ニナ・パープルトン、ルセット・オデビー)。
魔装機神サイバスター:ウェンディ関連。
清原なつの「アンドロイドは電気毛布の夢を見るか?」:女性科学者によるアンドロイド。
宇宙戦士バルディオス:エラ・クィンシュタイン。
パワーパフガールズ関連言及(ユートニウム博士は男性だが比較)。
シャングリラ・フロンティア:継久理創世(ゲームプラットフォーム・NPC関連)
ロックマンシリーズ:シエル(およびオリヒメ) — インフラ構築関連
魔装機神サイバスター:ウェンディ・ラスム・イクナート(開発者)
メタルギアシリーズ(特にピースウォーカー):AI部分の女性科学者
永久のユウグレ(2025年作品):王真樹トワサ(アンドロイド/AI第一人者)
マブラヴ オルタ:香月夕呼(オルタナティブ計画関連、新OSなど)
ウェンディ、大人になって:女性科学者が開発したAI(SFマーダーミステリー)
おばけのホーリー
Dr.カシオペア
「エリス&アメリア ゼリービーンズ」子猫型ロボ「ポジ」と「ネガ」
フランスのマンガですがマチュー・バブレの『Carbone & Silicium』は女性科学者(しかも日本人)が生み出したアンドロイドのお話です。
レビア・マーベリックが作った三種のAIことロボットのデューイ・バイクのヒューイ、コンピュータのルーイ。 サイレントメビウス
Megan
『ヒートガイ・J』のJ(おっさんアンドロイド)はファザコンの女性研究者アントニア(右から2番目)によって開発された。
緒山まひろ (おにいさんはおしまい)
アイアンマスク:ジャングルの王者ターちゃん
Dr. Catherine Halsey MasterChief HALOというゲームの主人公
ステップジュン 野々宮ジュンと吉之介
「アイの歌声を聴かせて」の芦森 詩音 女性科学者天野 美津子が開発
『プラレス3四郎』 吹雪今日子の桜姫。ルダ・ロドリゲスのジョロナなど
宇宙妖怪博士ゲルマと、彼女が作った大作少年のコピーロボット。(ジャイアントロボ)
That's イズミコ
めちゃっこドタコン
てくのぱにっくゆにばーす
宙に参る 宙二郎
『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』テガジューン;人間の女性により開発された自我を持つ生成AI。テガジューン自身も女性人格で自らも開発するので該当
『To LOVEる -とらぶる-』 ティアーユ博士と金色の闇
ヨコハマ買い出し紀行 子海石先生
五十嵐大介著ディザインズ。イルカのHAを設計した科学者がDr.ビクトリア
「大鉄人17」;巨人頭脳ブレインというコンピューターが作り出し、まんが版のブレインは女性人格
フェイト・テスタロッサ 母が娘のクローンを作製
「ウルトラマンZ」 M1号;イナバ・ルリという女性科学者が作り出した人工生命体
永久のユウグレのトワサ
Androidのユノ;エレメントハンターのエイミー・カー女史作製
「ナイト2000」の製作の中心人物の一人「ボニー.バーストゥ」女性技術者
猫夫人;高橋葉介『ライヤー教授の午後(ヨウスケの奇妙な世界 PART Ⅲ)』
空次郎(著) にゃこと博士
八頭司颯姫;X(CLAMP著)
小松左京『虚無回廊』
『情念に燃える殺人ロボット』に登場するロボットのR.I.N.G。「事件記者コルチャック」内のエピソード
映画『SEOBOK/ソボク』
TEXHNOLYZEの義肢はドクと呼ばれる女医が製作
映画『リトル・ジョー』(Little Joe)2019年 「シングルマザーで植物研究者のアリスは「幸せになる香り」を放つ新種の植物を開発」
音楽を聴くAI 『舟歌』(新井素子・編『ショートショートドロップス』収録) 高野史緒著
『永久のユウグレ』
オーバーウォッチでオリーサを作ったエフィ・オラデレと、エコーやオーロラを作ったミナ・リャオ博士
アルディとリムシィ;『学戦都市アスタリスク』
『キノの旅』
『クロノトリガー』
ゾンビ:マッドサイエンティストネロ『血まみれスケバンチェーンソー』
『戦姫絶唱シンフォギア』 フィーネ
『フランケン・ふらん 』
『NHKスペシャル ニューウェーブドラマ ネットワークベイビー』
『パーフェクション』奥友志津子著
『Fire-Ball(ファイアーボール)』大友克洋 未来を支配するコンピュータのアトム
『IS 〈インフィニット・ストラトス〉』篠ノ之 束
『スカーレット・ウィザード』茅田砂胡著 ダイアナ・ローズ・スペンサー博士
『POCHI SCIENCE』韓国のWEBショートアニメシリーズに登場する女性型ロボット。少女マッドサイエンティストのポチ博士に作られた。
ディスガイアのサーズデイはジェニファーという女性科学者から生まれてますね
トリッカルのエレナが造ったネコ型戦闘ロボ「M.E.O.W」。
アイノ;『原神』
deepseek-r1 に小説を書かせて、他のモデルと比較してみる
https://zenn.dev/sky/scraps/98c3cb767f46a7
以下の設定で、小説を書いてください
参加者はそれぞれ時計を手に入れ、「1分間の未来を見る能力」と「1分間の過去を操作する能力」を得る。しかし、この能力は無制限ではなく、使用回数が限られているうえに、他人の時間を操作すると自分の寿命が短縮されるというルール
がある。死神と名乗る存在から「最後まで生き残る者だけが自由を手に入れることができる」と告げられ、参加者は互いの時計を狙い合う。
目を開けたとき、目の前に広がっていたのは、見覚えのない薄暗い部屋だった。
廃墟のような打ちっ放しのコンクリートの壁。剥き出しの電球がひとつ、頼りなげに揺れている。円形の部屋の中央には、古びた木製のテーブルが置かれていた。そしてそのテーブルを囲むように、十一脚の椅子が並んでいる。
自分を含めて、十一人の男女が座っていた。
「――なんだ、ここは」
隣に座っていたスーツ姿の中年男性が、震える声で呟いた。彼の言葉を皮切りに、あちこちから戸惑いの声が上がる。泣き出す者、立ち上がって出口を探す者、呆然としている者。
そこには、見慣れない時計が巻かれていた。黒い革ベルトに銀色の文字盤。針は三本。時、分、秒。だが通常の時計とは違い、文字盤の縁には細かな目盛りが刻まれ、小さなボタンが三つ、側面に並んでいる。
そして気づく。他の十人も、全く同じ時計を身につけていた。
「お気づきのようだね」
声がしたのは、部屋の隅からだった。
いつの間にか、そこに立っている。黒いローブをまとい、フードを深く被った長身の人影。顔は見えない。だが、声は妙に陽気で、まるで旧友にでも話しかけるような口調だった。
誰かが悲鳴を上げた。別の誰かが立ち上がり、人影に掴みかかろうとする。だが、その動きは途中で止まった。正確には、止められた。体が動かないのではない。恐怖が、足を縫いとめているのだ。
「まずはルール説明といこう。諸君の左手にあるソレ。それはただの時計ではない。君たちに授けられた、『時間操作装置』だ」
「一つ目の能力は、『未来視』。左のボタンを押せば、これから一分間に起きる出来事を視ることができる。二つ目は『過去改変』。右のボタンを押せば、一分前の過去に干渉し、結果を書き換えることができる」
場の空気が凍りついた。誰もが言葉を失い、ただ死神の声だけが部屋に満ちる。
「ただし、無制限ではない。使用回数には限りがある。そして何より――」
フードの奥で、何かが笑った気配がした。
「他人の時間を操作すればするほど、君たち自身の寿命は削られていく。これが三つ目の、そして最も重要なルールだ。一人の時間を操作するたび、君は三日分の寿命を失う」
「……どういうことだ。なぜ俺たちがこんな……」
「強いて言えば、退屈しのぎだ。このゲームの名は『死神の時間』。君たち十一人はこれから互いの時計を奪い合ってもらう。最後まで生き残った一人だけが、自由と、そして余命を手に入れることができる」
部屋の空気が一変した。それまでは恐怖と混乱が支配していた。だが今は違う。隣に座る人間が、敵になる。
「時計を外すことはできない。破壊することもできない。持ち主が死亡したとき、その時計は停止し、その時点で他人が入手可能になる。簡単な話だ。相手を殺せば、その時計の残り使用回数が自分のものになる」
彼女は無意識に、左手首の時計を握りしめていた。心臓が早鐘を打っている。頭のどこかでは、こんな馬鹿げた話があるかと叫んでいる。だが体はすでに理解していた。これは現実だ、と。
「そうだ、ひとつだけ親切に教えておこう。未来視にも過去改変にも、『限界』がある。それは自分で見つけるといい。ゲームはそのほうが面白いだろう?」
「では、始めたまえ」
その瞬間、部屋の四方の壁が轟音とともに開いた。外は闇。どこかもわからない廃墟の中だと理解するまでに、数秒かかった。
誰かが走り出す。誰かが叫ぶ。そして誰かが、隣に座っていた人間の腕を掴んだ。
彼女は違った。いち早く立ち上がり、開いた壁の一つに向かって全力で駆け出した。右手には無意識のうちに自分の時計を、左手は前へと伸ばす。闇の中へ、まだ誰も選んでいない方向へ。
振り返らなかった。
――まずは生き延びる。考えるのはそれからだ。
日本を支配下において舐めて搾取してるのは明らかにアメリカで、そのアメリカに媚びてるの、中国と普通に外交するのを支配されるとかいって嫌がってる人らはどう思ってんだろ
実験として核爆弾2回落とされたり、日本経済が絶好調だった時にアメリカで日本車がハンマーで叩き壊されてたこととか知らないのかな
この泥沼のやり取りの中で、流れを決定的に変えたのは、中盤に投下されたCによる「NG役満」という宣告だ。この一言が、いかにしてBを支配の呪縛から解き放ったのか、そのメカニズムを整理したい。
当初、Aは芸術論や制作の「覚悟」を説くという名目で、Bに対して極めて暴力的なコミュニケーションを展開していた。
Bは当初、これらを「厳しい指導」として受け取ろうと真面目に反論し、疲弊しきっていた。支配的な相手と一対一で向き合うと、人は「相手が正しいのではないか、自分が未熟なのではないか」という認知の歪みに陥りやすい。
ここでCは、アドバイスの「中身」を吟味するのではなく、その「やり方」そのものが対話として成立していないことを指摘した。
「ヒアリング対応としてNG役満である。答えることが目的になる尋問的な一問一答、クローズドな質問による結論誘導、情報の勝手な補完、人格否定や一方的な評価……これらは誰のためにもならない」
CがAの言動を「尋問的」「情報の勝手な補完」とリスト化したことで、Bはそれまで感じていた正体不明の「不快感」を「客観的なハラスメント」として再定義できるようになった。自分の感覚が正常であることを外部から裏付けられた瞬間である。
Cの判定は、Aが構築した「師匠と弟子」という非対称なゲームそのものを、対話スキルの欠如という側面から否定するものだ。これにより、Aがどれほど高尚な論理を語ろうとも、その「伝え方(インターフェース)」が壊れている以上、検討に値しないという結論が導き出された。
Cの介入は、Aが構築した「精神的な密室」の壁を突き崩し、社会的な論理という「外の物差し」を差し込む作業だった。このデバッグによって、Bは「相手のやり方自体に欠陥がある」とメタ認知し、支配の魔法から解かれるための最初の一歩を踏み出したと言える。
三矢がネットの暗闇で学生たちを「自己責任」と叩き、石田がその愚かさを高みから見下ろしている間、教授室の奥にある秘書デスクでは、もう一つの静かな処刑が執行されようとしていた。
秘書のH子は、石田の背後に立ち、差し出された一枚の書類を凝視していた。雇用契約更新通知書。そこには、彼女がこの数年間、石田の気まぐれな要求と過重な雑務に耐えながら守り続けてきた「生活」の継続が記されているはずだった。
「……先生、この条件では、その……」
石田は、眼鏡の奥の細い目をさらに細め、慈父のような穏やかさで微笑んだ。だが、その手はすでに、机の下でH子の膝を、逃げ場を塞ぐように強く押さえつけている。
「H子さん、君も分かっているだろう。今の大学の予算状況で、君のような一般事務職を再雇用するのは、本来なら至難の業なんだよ。だが、私は君を失いたくない。君は私の『深い部分』まで理解してくれる、唯一無二のパートナーだと思っているからね」
石田の言う「深い部分」という言葉が、H子の脳内で卑猥な質感を持って響いた。数日前、閉ざされた深夜の教授室で、拒絶すれば契約を打ち切ると暗に匂わされながら、彼女が強いられた辱め。石田はその惨劇を「特別な信頼関係」という美しいオブラートで包み直し、今、彼女に最後通牒を突きつけていた。
「この関係を続けてくれるなら、私はいくらでも君の雇用を保証しよう。君が望むなら、もっと待遇の良いポジションへ推薦してもいい。……どうかな、これは君の将来のための、私なりの『誠意』なんだよ」
H子の喉が、ひゅっと鳴った。石田の指が、彼女のスカートの裾をゆっくりと、しかし抗いようのない力で手繰り寄せる。
「……承知、いたしました。……ありがとうございます、先生」
絞り出すような声でそう告げた瞬間、H子の視界から色が消えた。石田は満足げに頷き、まるで愛犬の頭を撫でるような手つきで、彼女の頬を指先でなぞった。
「賢い選択だ。君は三矢くんのように頭が悪くない。自分の価値をどこに置くべきか、正しく理解している」
石田にとって、H子はもはや人間ですらなく、自分の権力を確認し、性的な渇きを癒やすための「終身契約の消耗品」に過ぎなかった。彼はH子の絶望を、自分への絶対的な忠誠心へと変換させ、それを愉しんでいた。
契約書に署名を終え、震える足で教授室を出たH子を、廊下の陰でA子が待っていた。
A子は、H子の乱れたブラウスの襟元と、生気を失ったその瞳を見て、すべてを悟った。D子がE男に狙われ、G子が石田の「謎かけ」という名の支配下に置かれ、そして今、最も身近にいたH子までもが、生活の糧を人質に取られて「所有」された。
(……この人は、どこまで広げるつもりなの?)
石田教授を頂点とし、三矢がネットで反対勢力を圧殺し、D男たちがそれを囃し立てる。その強固なシステムの最深部で、女性たちは一人、また一人と「契約」や「指導」という名目で、石田の私的なコレクションに加えられていく。
「H子さん、大丈夫ですか」
A子が声をかけると、H子は一瞬だけ、助けを求めるような目を向けた。しかし、すぐにその瞳に厚いガラスのような膜が張る。
「……なんでもないの。先生は、とても優しくしてくださるわ。……A子さんも、先生に逆らわない方がいいわよ。それが、ここで『生き残る』唯一の方法だから」
その言葉は、H子自身の魂が死んだことを告げる葬送の鐘だった。
石田教授の微笑みは、もはや教育者のものではない。それは、自分に跪く者たちを愛で、従わない者を「頭が足りない」と切り捨て、すべてを「物の本で読んだ」支配のロジックで塗り潰す、冷徹な蝿の王のそれだった。
A子は、H子の背中を見送りながら、自分の掌に爪が食い込むほど拳を握りしめた。この研究室という名の密室で、沈黙の契約が、また一つ完了した。
男性向けと女性向けの性的ファンタジーを比較すると、「何を屈服させたいか」「何に価値を置くか」という点において対照的な構造が見て取れます。
男性向けのファンタジーでは、女性を性的快感によって依存させる「チン堕ち」が代表的なテーマです。
女性向けのファンタジーでは、男性の肉体的屈服(マン堕ち)への関心は低く、「心の堕ち」が主流です。
両者の違いを整理すると、以下のようになります。
| 比較項目 | 男性向けの夢物語 | 女性向けの夢物語 |
|---|---|---|
| 主な対象 | 肉体(性的快感、生殖器) | 精神(愛、執着、依存) |
| キーワード | 姫騎士チン堕ち、メスガキわからせ | 溺愛、おもしれー女 |
| 相手の状態 | 快感に負けて無様に堕ちる | 自制心を持ちつつ、特定の女にだけ狂う |
| 現実での希少性 | 女が挿入で快感を得られることは稀 | 男が一人に一途でいることは稀 |
| 物語の落差 | 性的拒絶を快感で上書きする | 誰にもなびかない高潔さを愛で崩す |
結論として、男性向けの夢が「相手の肉体を支配し、快感の虜にすること」であるのに対し、女性向けの夢は「相手の精神を独占し、自分なしではいられない状態にすること」に集約されます。
前回の分析に加え、教育心理学の観点からもう一歩踏み込んでみたい。この一連のやり取りを、スティーブン・ハッサンが提唱したマインドコントロールの解釈モデルである'''BITEモデル'''に照らし合わせると、この人物の振る舞いは極めてカルト的だ。
ここで試みられたのは、対等な対話ではなく、相手の精神をハックし支配下に置くためのプロトコルである。
この人物は、相談者のこれまでの努力を「薄っぺらい」と全否定し、代わりに「北方謙三」や「ソープへ行け」といった独自の極端な比喩を「唯一の正解」として提示した。これは、既存の価値観を破壊し、内部の特殊な言語体系(ドグマ)をインストールさせる初期段階に等しい。
こうした「既存の知識は無価値である」と断じる手法は、沖縄の過激な活動家やSNS上の先鋭化したフェミニストにも共通している。「お前は構造を理解していない」「歴史を学べ」といった言葉で相手を「無知な加害者」に固定し、自分たちが独占する「正義」や「真実」に従うことだけを強要する。
「最後に異性に触れたのはいつか」といった問いは、相談に必要だからではない。性的・プライベートな領域に土足で踏み込み、羞恥心を煽ることで相手の心理的防壁を壊すためだ。
カルトが「罪の告白」をさせるように、羞恥心を共有させた瞬間に支配関係が成立する。相手が反発すると「覚悟がない」と断じるのは、罪悪感を刺激して自分の支配下に戻そうとするエモーショナル・ブラックメール(感情的なゆすり)である。これは、反対派を安易に「差別主義者」と呼んで道徳的優位に立とうとする運動体らの論法と地続きだ。
カルト的支配者は、自分が批判されると「これは大義に対する攻撃だ」「理解できない下等な者の嫉妬だ」とすり替える。この人物が「楽しくないことで自分の時間を奪われることに敏感になってほしい」と言い放ったのは、自らの暴力を棚上げし、自分を「無知な他者に時間を奪われた聖職者」へと聖域化する行為だ。
恐らく、本人には「加害している」という自覚は希薄なのだろう。むしろ自分は良かれと思って、相手のためにあえて厳しい「真実」を突きつけているとすら信じ込んでいる節がある。
しかし、無意識の善意ほどタチの悪いものはない。教育心理学の視点で見れば、どれほど言葉を飾ろうとも、その端々に現れているのは、相手を自分と同等の人格として尊重せず、自らの全能感や支配欲を満たすための「道具」として扱おうとする傲慢な精神構造そのものである。本人の意図がどうあれ、その言動の根底にある「他者への不遜さ」は、隠しようもなく露呈してしまっているのだ。
相談者が「ふざけんな」と怒ったのは、このBITEによる浸食を、自らの論理と自尊心で跳ね返したということだ。カルトや先鋭化した運動体は、こうした「強い個」を「教育不足」として切り捨てるが、異常なのは支配を試みた側である。
私たちが学ぶべきは、大義や芸術論を掲げて近づき、こちらの境界線を踏み荒らそうとする者に対して、明確な拒絶を示す勇気である。
社会学には2つの極端なアプローチがあります。一方は、統計的・因果推論的に厳密にデータと解釈を分離し、反証可能性を担保する科学的手法です。
もう一方は、自分のイデオロギー・ナラティブ(構造的抑圧、弱者発見、権力批判など)を支えるためにデータを「都合よく選ぶ」(cherry-picking)手法です。この記事では後者を「ストーリーテラー(Storyteller)」と分類します。
統計・大規模調査・因果推論手法(差の差法、操作変数法、傾向スコアマッチングなど)を用い、相関関係と因果関係を明確に区別。
データ事実(Results)と研究者の解釈(Discussion)を厳密に分け、矛盾するデータも提示し、反証可能性と頑健性(robustness)を担保する。社会科学として「科学」の基準を守る。
「社会科学」の看板を借りて、自分のイデオロギー・ナラティブ(物語)を広める人。データはあくまで「自分のストーリーを魅力的に補強する道具」に過ぎず、都合の良い部分だけ選び(チェリーピッキング)、相関を即因果にすり替え、解釈をデータに混ぜ込む。文学的・運動的アプローチが強く、X(旧Twitter)やメディアで声が大きい loud minority として目立つ。
自説に有利な数字・事例だけか、全データ範囲と感度分析を示すか。
相関を即「構造的抑圧が原因」と断定し、因果推論手法名を明記しない。
結果セクションですでに文学的なナラティブ(「これは権力の証左」)が入っていないか。
質的研究・批判理論(Foucault、Butler、上野系)が先行し、計量・因果推論論文の引用が少ない。
批判されると「文脈が違う」「差別者」とレッテル貼りするか、データで再検証を提案するか。
X・メディアで構造批判・弱者発見・PC擁護が熱く、エンゲージメントが高い。
論文・発言・X投稿をチェックすれば、9割以上見分けられます。
ストーリーテラーは、社会学を「科学」ではなく「物語を語る運動の場」に変える存在です。彼らはデータを使いつつも、最終的に一貫した
を構築・拡散します。これは、イデオロギーを補強するための選択的物語化です。データは「証拠」ではなく「感情を揺さぶる小道具」として機能し、矛盾データは無視するか、「より大きな構造のせい」として相対化されます。
• 1970-90年代の「質的転回」(qualitative turn)でインタビュー・参与観察・理論解釈が主流化した歴史的土壌がある。
• X・メディアでは「弱者発見」「構造批判」といった感情に訴えるストーリーがエンゲージメントを稼ぎやすい(loud minority効果)。
• 結果、学問の「科学性」が薄れ、活動家ごっこのイメージが強まる(古市批判の核心)。
「弱者が弱者のままで尊重される社会を」「頑張っても報われない人がいる」 → 努力や個人の責任を「環境・構造のせい」に還元し、永遠の被害者像を描く。
例:東大入学式祝辞のような「恵まれた環境のおかげ」強調。データ(合格率差)を使っても、逆差別や努力差はスルー。
「家父長制・資本制・権力構造がすべてを決めている」 → 格差・ジェンダー・移民問題を「システムのせい」に帰結。解決策より批判が優先。
例:家事=「不払い労働」、教育格差を即「構造的抑圧」と断定。
「日本人は多文化に耐えられない」「加害者性・反省不足が原罪」 → 戦後教育の延長で、日本人全体を「構造的加害者」に位置づけ。
例:日本社会の「単一民族神話」批判や、歴史問題での自虐的ナラティブ。
「異性愛規範・性二元制がマイノリティを抑圧」「性自認尊重が正義」 → ポリティカルコレクトネスを「進歩の物語」として語り、反対意見を「差別」と一蹴。 例:女子枠反対を「弱者男性のワガママ・ミソジニー」とレッテル貼り。
「政府・権力の干渉が学問の自由を脅かす」「新政権のツッコミどころ」 → 学術会議問題などで「権力 vs 専門家」の二元論を展開。
「相手は差別者・歴史修正主義者・ミソジニー」 → 都合の悪い女性政治家を「中は男」と属性攻撃するなど、二重基準を隠した攻撃的ナラティブ。 ラベリング理論を武器化。
結果、社会学は「文学の亜流」や「運動の道具」と見なされやすくなります。
代表的発言:「あなたたちが『がんばったら報われる』と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひとたちがいます。」(2019年東大入学式祝辞)
代表的発言:「女子枠に反対するのは弱者男性のワガママ」「ミソジニーとルサンチマンに溢れた快哉を叫ぶコメント」(2026年頃、女子枠反対論に対するnote引用・投稿)
代表的発言:「安倍さんが女装して現れた」「言っていることは安倍さんそのものだ」「だから、中は男でしょ。安倍さんでしょ」(2024年、立憲民主党集会での高市早苗氏批判)
代表的傾向:「病ませる社会」が弱い人を症状化させる(近年、人生相談・社会病理関連発言)
代表的発言:「なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持ってるの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう」(2020年、学術会議任命拒否問題時) → 権威主義・体制批判。
ネット右翼を「1%未満の愉快犯」と矮小化するなど、日本社会の構造・歴史ナラティブ批判。
「学術会議法人化法案が可決されてしまいました。日本は、アカデミーの自律性を弱めることに加担した国の列に加わりました。」(2025年、X投稿) → 学問の自由危機ナラティブ。
大規模調査データで家族・格差を統計分析。因果推論を意識した学術告知中心。
X・メディア・学術会議・ジェンダー/PC分野で目立つのは圧倒的にストーリーテラー。彼らのナラティブは感情に訴えやすく拡散されやすい一方、実証派は論文・データで静かに勝負するため声が小さい。結果、社会学は「科学」より「物語を広める運動」が強まりやすい構造になっています。社会科学を本当に科学に戻すには、実証派がもっと積極的に声を出していくことが重要です。
ブラッククローバーの最終回が残念だったのは、作中で差別や社会階層の問題を提起しながらも全くの放置で終わったからかな。
例えばジャンプの有名どころだと
ドラゴンボールは悪のブウを無垢な子供として生まれ変わらせ、悟空がその師匠になって終わった
幽遊白書は無秩序な殺し合いではなく一定のルールの下でトーナメントをやって穏健派の鬼がトップに立った
NARUTOは一応最後は五影会談で終わり、武力行使の前に平和的な手段で問題解決を図る方向性を示した
チェンソーマン1部は幼い子供として生まれ変わった支配の悪魔を主人公が引き取った
ヒロアカは子供に対する個性カウンセリングなど、犯罪を未然に防ぐ制度を増やした
呪術廻戦は罪を犯した迷惑呪詛師に向き合って更生を促す主人公の姿で終わった
どれも足りないながらも社会や敵対者に対してどう向き合うかが描かれていたと思うんだけど。
それに引き換えブラクロの最後はマジで主人公が魔法帝になった「だけ」なんだよね
魔力の無い奴がと言われても、作中で反魔法というのは誰よりもチートな最強技になっているから
腕っぷしが強い奴が普通にトップに立っただけで何の意外性もない。
最後も攻めてきた相手を普通に迎え撃っていて、争いはなくならなそうだし。
徹頭徹尾そういう漫画ならまだしも、エルフ編の頃はちゃんと敵とも対話が出来ていたのでどうしてこうなったかなーって感じ。
最終回ではハーフエルフの子供達が入団試験を受けるようだけど、それだけなんだよね。
あの終わり方ならエルフ編の後でタイマンしてそのまま最終回で良かったんじゃない?っていう。
魔法帝と国王が別にいて、今の国王は無能で差別主義者の嫌な奴なんだから普通は改心するなり代替わりするなりしそうなものなのに、それも無し。
「結局、アスタはただ魔法帝になっただけで、階級制度を打ち破ったり王国を変革したりする姿は見られませんでしたね」という指摘をした海外読者が全肯定ファンから集中砲火で叩かれていたけれど、もっともな指摘だと思う。
最近、あるコミュニティで目撃した「相談」から「絶交」に至るまでのやり取りが、あまりに教育心理学におけるいじめの構造(DARVO)そのものだったので、自戒を込めて記録しておきたい。
登場人物は、写真制作の壁にぶつかっている相談者Bと、それにアドバイスを送るA。
問題の端緒は、AがBの私生活や尊厳に無遠慮に踏み込んだことだ。Aは芸術論を語る文脈で、唐突にこう言い放った。
これは相談という形を借りた、明白な境界線(バウンダリ)の侵害だ。教育心理学の視点で見れば、相手を精神的に動揺させ、自分が優位に立つための「精神的な揺さぶり」に他ならない。Bが困惑して「恋人がいる」と返しても、Aは「死ぬほど金が欲しいわけじゃないんだな」と、勝手に相手を「覚悟のない人間」として再定義し、攻撃を続行した。
後にBがこの不快感を訴えた際、Aが繰り返したのは反省ではなく「手続きとしての謝罪」の完了報告だった。
これは「謝罪というパケットは送ったのだから、それを受け取らない(怒り続けている)相手がエラーである」という論理だ。心理学的に言えば、謝罪を内省の証ではなく、自分の過去を洗浄し、相手の口を封じるための「武器」として利用している。
「人前で繰り返し持ち出されるのはつらいので、もうやめてください。」
これこそが心理学でいう'''DARVO(Deny, Attack, and Reverse Victim and Offender)'''の完成形である。
A氏の言動には、自分の万能感を維持するための「投影(プロジェクション)」も顕著に見られる。自分のアドバイスが的外れだったという失敗を認められず、それをB氏の「覚悟の欠如」という問題にすり替えることで、自己像を保護している。
こうした「指導」の皮を被った「支配」は、受け手が論理的に反論すればするほど、加害側が「被害者」として騒ぎ出すため、対等な解決は望めない。
Aの振る舞いは、大人の知的な対話を装ってはいるが、その本質は教育現場で見られる「いじめ」の構造と変わらない。自分の万能感を守るために、ターゲットの自尊心を削り、反論されたら「自分の方が傷ついた」と騒いで周囲の同情を買おうとする。
相談を受ける側が「相手を尊重する」という前提を捨て、自分の哲学をインストールする対象(モノ)として相手を見たとき、コミュニケーションは容易に暴力へと変質する。
米国の道路がボロボロなのは、それが金貸しにとって利益を産まないからであり、外国で戦争をするのは、それがドル覇権という名の収奪システムを維持するための必要経費だからだ。
マイケル・ハドソン(Michael Hudson)の経済学的視点、金融資本主義 vs 産業資本主義の対立構造からこの問いを読み解くと、その答えは優先順位の間違いではなく、米国経済の寄生的な構造そのものにある。
彼の分析によれば、今の米国はもはや物を作る国ではなく、レント(経済的地代・不労所得)を徴収する国へと変質しているからだ。
彼は、現代の米国を不労所得を追求する金融勢力が支配する利権追求型エコノミーと定義する。
本来、道路、橋、鉄道、水道などのインフラは、社会全体の生産コストを下げるための公共の資本だ。しかし、金融勢力はこれに公金を投じるよりも、老朽化させて民営化し、利用料を徴収する対象に変えることを望む。
自国のインフラを更新しても、それは国民の生活を楽にするだけで、ウォール街に利子や配当をもたらす負債を産み出さない。金融資本にとっては、国民の生活向上よりも、株価や不動産などの資産価格の維持の方が圧倒的に重要だ。
なぜ遠い国の戦争には、湯水のように金が流れるのか。それは軍事力が、米国が世界から貢ぎ物を吸い上げるためのドルの強制力を支えているからだ。
米国の軍事支出の多くは、兵器産業への支払いを通じて米国内の特定の勢力を潤すだけでなく、他国を米国のドル経済圏という安全保障に従属させるためのコストである。
ハドソンは、米国の貿易赤字および軍事支出によって世界にばら撒かれたドルが、結局は他国の外貨準備として米国債の購入に充てられ、米国の財政赤字を補填するというスーパー・インペリアル主義の循環を指摘する。
軍事的解決が存在しなくても、軍産複合体やシンクタンクにとっては、解決しない戦争が続くこと自体が、予算という名の国富を収奪し続けるための最適解だ。
アメリカ人が自国のインフラをケチるのは、彼らが産業資本主義(物を作って国を豊かにする)を放棄し、金融・不動産・独占(FIRE)セクターによる支配を選んだからだ。
産業を重視する国、例えば中国にとって、インフラは投資だ。しかし、金融資本主義の米国にとって、国内のインフラ整備や教育への投資は経費でしかない。
東大生がコンサルという収奪の管理業務に流れるのと同様、米国のエリートもどうやって物を安く作るかではなく、どうやって他国の資源や労働からレントを吸い上げるかに知性を使っている。
米国の道路がボロボロなのは、それが金貸しにとって利益を産まないからであり、外国で戦争をするのは、それがドル覇権という名の収奪システムを維持するための必要経費だからだ。
アメリカの一般市民は、自国のインフラ崩壊という形でそのコストを支払わされ、同時にイラン、中国、ロシアが悪いというプロパガンダによって、その不満を外部へそらされている。
短くまとめる
社会に影響力がある人が戦争反対のメッセージを送るのは、そこへ意味がある。
すでに始まっている戦争への影響力はゼロといってもいいほど微小なものだ。
とうことではない。
まだ100年にもならない昔、日本は軍国主義という時代を迎えていた。
徴兵に従わないなんてことも出来なかった。
なかには若くして自らの命を直接的に差し出すことを命令されたりした。
なぜなのか?
それもあるだろう。おおいにあるだろう。
しかし、それよりも「空気」がそうなっていたからではないのか?
その文化を享受し、経済で強く結びつき、軍事同盟の傘に入った。
なぜなのか?
なぜそれまでと真反対の方向へと一気に進むことが出来るのか?
米国は日本をモデルケースとして、何度も何度も戦争で屈服させた相手を米国を敬愛する同盟国として育てようとした。
しかし、そうはならなかった。
なぜなのか?
日本とそのほかで何が違うのか?
それは日本人の空気に従順にしたがう国民性にあるのではないか?
もしも、これが正しいのであれば、
社会的に影響力がある人が
戦争反対を大声で訴えることは
決して無駄なことではない
わたしたちが空気に唯々諾々と従う人々であるのならそれは決して無駄なことではない。
戦争するのは、まあ仕方がないよ。
子どもたちが戦争に行くのはすごく反対だけど、まあ仕方がないよ。
仕方がないよ
仕方がないよ
仕方がないよ
そういう社会を望むのか?望まないのか?
「護憲派は憲法が日本の宝だと言うが外国に押し付けられたものだとしらないのか」みたいな意見を見たんだけどさ
押しつけであることは大切にすることや誇りとすることと関係なくないかな
それを言うなら天皇と言う存在だって元々は一地方の王権が武力支配してきた支配と崇拝の押しつけから始まってるわけで、それはもう記紀の天孫降臨に書かれてる事実なわけじゃん
民衆が支配してくださいと言ってボトムアップしたものでもなけりゃ、ほとんどの地域にとっては武力による征服によってできたものでしょ
でも、それを日本人は大切にしてるわけで、大事なのは始まりじゃなくて「今に至るまで大事に扱ってきた」と言う経緯や人心の方なわけ
押しつけで始まったとしてもそれを大事にしてきた人の心があるならそれは誇りにして別にいい話でしょ、押しつけだからって否定するの理屈に合わなか話だと思うんですよね
大抵の名物、文化が昭和生まれのものばかりで、他地域に比べると個性に乏しい
名古屋まつりは昭和発祥、どまつりなんて平成生まれだし、これらの事実はもともとこの地域には伝統文化が根付いてなかったって証左でもある
それプラスで思うのが、愛知県全体で見てもショッピングモール、チェーン店に完全に支配されてて、人口規模の割にどこいっても同じような店しかないのも残念なところだよな
製造業の街だからなのかわからないが、あらゆるものが標準化、マニュアル化されてる感がある
それはつまり合理的で、高い品質を安定して提供できるという意味でもあり、だから生活はしやすいし、どこに住んでも不便さを感じにくい
でも逆に言うとそれは独自性に乏しいという意味でもあり、没個性という意味になる
そういう意味で、名古屋・愛知は住むにはいいけど、よそから遊びに来てもあんまり楽しくないところなんだよな
日本全国にあるものは大体名古屋・愛知でも楽しめるしそのクオリティもかなり高い
でも名古屋・愛知に来ないと楽しめないような独自性のあるものはほぼない
そんな街が名古屋だ