はてなキーワード: 誰も知らないとは
「理解」の彼方にある数学──望月新一とIUT理論が問いかけること
一方には、自ら構築した「宇宙際タイヒミュラー理論」で数学界の難問ABC予想を解いたと主張する望月新一。
もう一方には、その証明に「説明不能なギャップ」を見るペーター・ショルツェ。
彼らは同じ言葉(数学語)を話しているはずなのに、まるで異なる星の住民のように、互いの論理を捉えきれなかった。
これは、数学者がIUT理論に触れた時に口にした、ほとんど哲学的な嘆きである。
2. 数学は、いつ「別の教科」に化けるのか
我々が学校で習う数学は、確固たる地面の上に築かれた都市のようなものだ。
公理という基礎の上に、定義というレンガを積み、定理という建造物を建てていく。誰もが同じ地図を持ち、同じ道を歩める。
しかし、ABC予想のような深淵に近づくと、地面は忽然と消える。
そこには「夏場の動く氷河」が横たわっていた。足場は流動し、割れ目は見えにくい。
望月新一は、この氷河を渡るために、従来の登山道具(数学的概念)では不十分だと考えた。
彼は新しいアイゼン(宇宙)とロープ(ブリッジ)を発明し、一人で渡ってしまった。
「見よ、対岸に着いた」と彼は言う。
IUT理論の核心は、異なる「宇宙」を結ぶ「ブリッジ」にあるという。
だが、このブリッジは、従来の数学が知るどの「橋」とも似ていない。
それは具体的な写像ではなく、関係性の比喩のようにも、あるいは情報を転送する「儀式」のようにも読める。
「このブリッジの設計図には、応力計算が書かれていない」とショルツェは言う。
「いや、これは新しい種類の橋だから、従来の応力計算では測れないのだ」と望月は応じる。
ここに、論争の本質がある。
だが、基準を逸脱したものが、果たしてまだ「数学的証明」と呼べるのか?
4. 地動説の再来、それとも幻影?
ガリレオが「それでも地球は動く」と囁いた時、人々は自分の足元が動いていることを想像できなかった。
あまりに直感に反するため、受け入れるには世界観の書き換えを迫られる。
IUT理論には、その「数学的望遠鏡」がまだ大多数に共有されていない。
望月という一人の天才だけが覗ける望遠鏡で見えた景色を、どうやって共同体の確かな知識に昇華させるのか?
数学は、歴史的に「孤独な探求」と「共同的な検証」の緊張関係の中で発展してきた。
ガロアは孤独に群論を創り、ワイルズは7年間を孤塁で過ごした。
だが彼らの証明は、いずれも共同体に開かれ、検証され、受け入れられた。
あまりに自己完結的で、あまりに独自の言語で書かれているため、検証のための「共通の場」が成立しにくい。
それは、一人の建築家が、共通の建築基準を無視して建てた、あまりに独創的な塔のようなものだ。
美しいかもしれないが、他の建築家には、その安全性(正当性)を確認する手段がない。
それは、「人間はどのようにして、個人の深い直感を共同の確実な知識に変換するのか?」 という、科学哲学の根本問題に触れている。
もしかすると、我々の「共同的な理解」というフィルターは、真に革新的な知を濾過してしまうのかもしれない。
あるいは逆に、そのフィルターこそが、科学を単なる個人の妄想から救う防波堤なのか。
望月新一は、そのフィルターを──意図的か否かは別として──きわどくかすめるようにして、新しい数学の大陸を発見したかもしれない。
だが、彼だけがその大陸に上陸し、他者はまだ船(理解)を持たない。
7. 終わりに──氷河は解けるか
「5日間では短すぎた」。
そう誰もが思う。だが、果たして何日あれば足りたのか。
新しいパラダイムを理解するには、時に「学び直し」に近い時間を要する。ショルツェら一流の数学者でさえ、その途上にある。
だが、数学的真理の受容は、単なる手続きではなく、共同体の魂が納得するプロセスでもある。
いつの日か、この氷河が確固たる大地として多くの人に認識され、ABC予想への道が共有される時が来るのか。
それとも、この氷河は「夏の終わり」と共に消え、数学史の不思議なエピソードとして記憶されるだけなのか。
答えはまだ、誰も知らない。
ただ、この論争が我々に教えてくれるのは、数学が──ひいては科学が──常に「理解の境界線」との戦いである、という厳粛な事実である。
数学とは、確かな地面を歩む技術であると同時に、時には氷河を渡る勇気でもある。
望月新一は、その渡河を一人で成し遂げた。
問題は、彼の後を、我々が続けることができるかどうかだ。
なんでだよ、ネット嘘がバレてもいいだろ。
dorawiiがどこの誰かなんて誰も知らないんだ。恥ずかしくもなんともないだろ。
頼むdorawii、俺を救ってくれー!!!
外国人は日本人に迷惑かけるから邪魔なので、旅行などの短期滞在しか許さんし、短期滞在でも邪魔者扱いする。
輸入に依存しまくりな日本でありとあらゆる物価高の原因となっている通貨安は経済的正義と定められているので是正には後ろ向き。
物価高で市民生活がいくら圧迫されようが株高で好景気だから誰も是正しようとしないし、現実的にそれを可能な手段を誰も知らない。
外国人と違って文句もほぼ言わずせいぜいネットで喚く程度だから御し易いし、放っておけば鎮火してすぐ忘れる。
今まで解決を先延ばしにし続けてきたいろんなボロが出始めててすごい時代に生きているなと実感する。
老い先短い身で良かった。若い人たちは御愁傷様だけど、生涯見捨てられ続けることが確定している氷河期世代よりマシだから強く生きてくれ。
松本と違って誰も知らない関心もないジャニーズJrを持ち出したり両者了承済みの不倫を持ちだしたり必死だけど、「不同意性交」に厳しくなっただけなんだよなあ
一部の頭おかしいネトウヨ(サブカル蛇おじさん)がジャニーズ性加害を擁護していたのは正しかったたんだよね
これがアウトなら男の首も絞めることになるからね
ぶつかるんじゃないかってくらい接近した。反射的に身をよじった。心臓がバクバクする。
相手は邪魔だ、という顔をして去って行った。悪いのは私のような顔で。
この三ヶ月で何度も危ない経験をしてる。
スマホ見ながら走ってくる自転車。信号無視で突っ込んでくる自転車。歩行者がいっぱいいる歩道をわざわざ走る自転車。
その度に思うのは、これ、原付だったら絶対に違反じゃんってこと。
実際、原付で歩道走ってたら、即座に警察に止められる。それなのに、自転車だと何ともない。むしろ歩道は自転車と歩行者の共有スペースみたいな扱いになってる。
先週、自転車乗ってる人に「すみません、危ないです」って言ったことある。そしたら「そっちがよけろよ」って言われた。本当に。
その瞬間、思った。
この人、ルールを知らないんじゃなくて、自分が優先だと思ってるんだ。
実は、自転車は車道を走るのが原則らしい。歩道は特例的に許可されてるだけ。それも、徐行(時速6キロ以下)が義務。
でも誰も知らない。誰も守ってない。
スピード出してる人ばっかり。
昨日も経験した。朝の通勤ラッシュで、歩道は人でいっぱい。その中を自転車が猛スピードで走ってきた。ベルを何度も鳴らしてた。
どけ、どけって感じで。
その光景を見て、ふと思った。
これって、混雑してるから車道は危ないって自転車乗りが判断してるんだろ。だから歩道を走ってる。
気持ちはわかる。でも、それで歩行者が危ないんだから意味がない。
結局のところ、ルールの問題じゃなくて、意識の問題なんだと思う。
実際、自転車も高速で走ったら致命的な怪我を与えられる。死亡事故だって起きてる。
でも、自転車乗りたちは自分たちを歩行者の仲間くらいに考えてる。
あと自転車の運転に免許が必要ないことが助長してる。普通乗り物を運転するには、安全教育を受けて免許を取る必要がある。でも自転車は、試験なしで乗れる。ぶっつけ本番だ。
だから、ここ数年、自転車の取り締まりが厳しくなってるんだと思う。
でも、最近の状況を見てると、仕方ないんじゃないかって思うようになった。
取り締まりが強化されることで、初めて自転車ってそういうルールなんだって気づく人が出てくるから。
私の友達も自転車通学してるけど、先月信号無視で止められたって言ってた。その時点で初めて「あ、自転車も交通ルール対象なんだ」って気づいたらしい。
それまで、何もルール知らずに乗ってたんだ。
多分、大多数の自転車乗ってる人がそんな感じだと思う。
だから、一度しっかり「リセット」する必要があるんじゃないか。
自転車に乗るには守るルールがあります。守らないと罰せられます。
正直、もう疲れた。
「でも自転車乗るのが不便になる」って意見もわかる。でも、歩行者にとっては、今の状況がすごく不便だし、危険だ。
どっちを優先するかって言ったら、歩行者だと思う。
自転車乗りだって、自分が歩いてる時は、自転車に危ない思いさせられたくないでしょ。
それなのに、いざ自分が乗ると歩道走って何が悪いって顔になる。
その矛盾に気づいてほしい。
経済学といっても細分化が進みすぎてコッチの経済学で誰でも知ってることをアッチの経済学で誰も知らないみたいなことが余裕である世界だよな
特定の用語の意味を知らないだけで経済学を知らないと結びつける意味があんまりなくないか?
それよりももっと根本的な経済学的素養みたいな部分を見たほうがいいのでは
例えば債権金利と価格の関係を説明できるとか、信用創造の仕組みを説明できるとか。
けっこう偉そうな地位にいる人でも普通に何回説明しても理解できてない人が多い。
説明の仕方が悪い可能性もあるけど一般的な解説サイトを見せながら説明しても全く理解できないという人が本当に多い。
わかってそうでも「金利が上がると価格が下がる」とか丸暗記ハックで乗り切ってる人間が多いので「償還まで持ってれば損しない」みたいなまるでわかってない考えだったりする。
学生の頃から視力は2.0のままで、一定遠くの文字も、夜道の標識も、はっきり見える。
どこの駅に行くかは決めていない。
降り立った場所の空気を嗅ぎ、通りすがりの灯りに導かれるように、バーを見つけて扉を押す。
そこにいる誰も、僕を知らない。
そして僕も、誰も知らない。
声をかけてくる人がいれば、少し話す。
この夜、僕はほんの一瞬だけ、別の誰かになる。
翌朝、彼らはもう僕を覚えていないだろう。
ただ、記憶のどこかに、メガネをかけた見知らぬ男が立っているかもしれない。
メガネの僕の秘密を、裸眼の僕の秘密を、知っているのは世界で僕ひとりだけだ。
この夜は僕の中に消える。
帰り道の電車で、ほろ酔いの中、車窓に映る自分の顔を見つめる。
その距離感が、どうしようもなく心地いい。
学生の頃から視力は2.0のままで、一定遠くの文字も、夜道の標識も、はっきり見える。
どこの駅に行くかは決めていない。
降り立った場所の空気を嗅ぎ、通りすがりの灯りに導かれるように、バーを見つけて扉を押す。
そこにいる誰も、僕を知らない。
そして僕も、誰も知らない。
声をかけてくる人がいれば、少し話す。
この夜、僕はほんの一瞬だけ、別の誰かになる。
翌朝、彼らはもう僕を覚えていないだろう。
ただ、記憶のどこかに、メガネをかけた見知らぬ男が立っているかもしれない。
メガネの僕の秘密を、裸眼の僕の秘密を、知っているのは世界で僕ひとりだけだ。
この夜は僕の中に消える。
帰り道の電車で、ほろ酔いの中、車窓に映る自分の顔を見つめる。
その距離感が、どうしようもなく心地いい。
その一つは、カラビ–ヤウ三次元多様体上のモチヴィック・ラングランズ場という概念だ。
名前だけで震えるが、実際の定義はもっと美しい。ウィッテンがかつてAモデルとBモデルのミラー対称性から幾何学的ラングランズ対応を導いたのは知っている。
だが彼が扱ったのは、あくまでトポロジカル弦理論のレベルにおける対応だ。
僕の今日の成果は、さらにその上、モチヴィック階層そのものをラングランズ圏の内部対称として再定式化したことにある。
つまりこうだ。A/Bモデルの対応を支えるのは、ミラー対称なカラビ–ヤウ空間の間に張られたモジュライ空間の等価性だが、僕はこれをモチーフの圏に埋め込み、さらにその上に弦的ガロア群を定義した。
この群の元は、単なる保型的データの射ではなく、弦的世界面のホモトピー圏を自己同型する高階函手として作用する。
つまり、通常のラングランズ対応が表現=保型形式なら、僕の拡張では弦的場のコホモロジー=モチーフ的自己準同型。もはや表現論ではなく、宇宙論的再帰だ。
午後、ルームメイトが僕のホワイトボードを使ってピザの割り勘式を書いていた。
彼は気づいていないが、その数式の背後には僕の昨日のモチヴィック・ガロア層構造の残骸があった。
もし彼がチョークをもう少し強く押していたら、宇宙の自己同型構造が崩壊していたかもしれない。僕は彼を睨んだ。
彼は「また妄想か?」と言った。違う。妄想ではなく基底変換だ。
夕方、隣人がスパイダーバースの新刊を貸してくれた。マルチバースの崩壊を描いているが、あの世界は僕の定義したモチヴィック・ラングランズ場の一次近似にすぎない。
あの映画のスパイダーバースは、厳密に言えばラングランズ群の射影的パラメータ空間における擬弦的退化点の群体だ。
僕がやっているのはその精密版。マルチバースをただの物語ではなく、圏論的自己反映構造として解析している。つまり、マーベルの編集部が無意識に行っている多世界生成を、僕は既に数学的に形式化しているわけだ。
夜、友人Aが原神で40連ガチャを外してキレていた。確率1.6%を40回引いて当たらない確率は約0.48。つまり彼は「ほぼ半分の世界線で運が悪い側」に落ちただけ。
僕はそれを説明したが、彼は「確率の神は俺を見捨てた」と言った。愚かだ。確率は神ではない。確率はラングランズ群の局所的自己準同型の分布密度だ。
もし彼がそれを理解していたなら、ピティエ=シェヴァレの整合性条件を満たすまで回していただろう。
風呂上がり、僕は再びホワイトボードに向かい、ウィッテンが書かなかった方程式を書いた。これは、弦的ガロア群における自己準同型の空間が、算術的モチーフの拡張群に等価であることを示唆している。
つまり、宇宙の自己相関が、L関数の特殊値そのものとして現れる。A/Bモデル対称性を超え、モチーフ的ラングランズ=宇宙の自己言語理論を打ち立てたわけだ。
僕の紅茶が冷める頃、ルームメイトが「寝るぞ」と言った。僕は返事をせず、ひとり机に残って考えた。
この理論を完結させるためには、時間をもモチーフとして再構成しなければならない。
時間をモチーフ化する、それは、因果律を算術幾何的圏の自己圏として扱うということだ。
人類がまだ誰も到達していない領域。だが、僕はそこにいる。誰よりも早く。誰よりも冷静に。
21時00分。僕の手元の時計の振動子が、まるでカラビ–ヤウ多様体の一点コンパクト化のように静かに揺れている。
宇宙が僕の計算を見て笑っている気がした。だがいいだろう。宇宙よ、君が自分の自己準同型を理解できる日が来るまで、僕が書き続けてやる。
ケンタの感情は、空の色のように刻々と変わる。悲しいときは地面に大の字になり、悔しいときは全身をバネのようにして跳ねる。そして嬉しいときは、園庭の真ん中で「やったあ!」と宇宙に届くほどの大声で叫ぶ。
ある日、先生たちは困っていた。皆が楽しみにしている遠足の行き先が、雨で中止になりそうなのだ。代替案を考えても、子どもたちががっかりするのは目に見えている。
先生が目を丸くすると、ケンタは泥だらけの長靴を差し出した。「雨だったら、水たまりで一番大きなジャンプ大会ができる。泥だんごを宇宙一大きく作れる! 先生、雨の日の楽しさ、まだ誰も知らないだけだよ!」
ケンタの言葉に、他の園児たちも「水たまり!」「泥だんご!」と声を上げ始めた。先生たちの表情も一気に明るくなり、「よし、雨の日だからこその楽しいことをしよう!」と、中止の危機は最高の遊びへと変わった。
ケンタの素直な感情の表出と、それをためらわない自由な表現が、皆の心を動かした瞬間だった。彼にとって、世界はいつも「感情を思いっきり表現していい場所」なのだ。雨の遠足は、ケンタのおかげで、記憶に残る最高の一日となった。
そんな日々の中で最も厄介なのは、CxOたちだ。
──CIO、CTO、CDO、CISO、CPO……肩書きは違っても、やっていることはだいたい同じ。
PowerPointを開いて「DXを推進している」と言う人たち。
うちのCxOはこう言った。
翌日、僕がPull Requestの内容を説明したら、「Goってタクシーのサービスの?」と返された。
その瞬間、何かが切れた。
──ケーキではない。
CxOたちはコードを読めない。
それ自体は罪ではない。
だが、読もうとしないことは怠慢だ。
よく聞く反論がある。
確かにそうだ。
ただし前提が抜けている。
つまり、コードを読めという話ではなく、読めるだけの構造理解を持てという話である。
「技術的なことは詳しくないが、成果は出している」
それはたまたまだ。
「上が言ってるから」「今期の方針だから」「スピード優先で」。
Pull Requestは読まないのに、Excelの進捗バーだけが毎日更新される。
これもよく聞く言い訳だ。
しかし、リソースが限られているならなおさら、理解の精度が重要になる。
僕が書いたAPIは、リクエストごとに外部APIを叩いていた。
「キャッシュを挟もう」と提案したが、PMは「リリース優先」と言った。
CxOたちは言った。
「想定してなかったのか?」
──想定してた。
だが、理解できないのは説明の問題ではなく、聞く姿勢の問題だ。
Slackの“#incident”チャンネルだけが、いつも一番アクティブだ。
CxOたちは「コストを切れ」と言う。
切れるのはコストだけ。
削ったコストの穴埋めに、技術的負債の利息を支払うのは現場だ。
Goで書かれた美しい構造体も、やがてはコメントだけが動くレガシーになる。
CxOたちは「我々はデジタル変革を進めている」と言う。
だが変わっているのは、スローガンのフォントと会議資料の配色だけだ。
クラウド導入もAI活用も、認知が変わらなければ儀式でしかない。
──違う軸を持つのは構わない。
現場を理解しない経営視点は、地図を見ないドライバーと同じだ。
「コードなんて書かなくていい。これからはノーコードの時代だ。」
だが、それは“コードをなくす”技術ではなく、“コードの抽象度を上げる”技術だ。
だが、隠したコードが消えるわけではない。
ボタンの裏にも、ワークフローの下にも、API呼び出しやロジックは確実に存在する。
それを理解せずに使えば、「コードを書かずにバグを埋める」だけの仕組みになる。
「ノーコードでいい」と言うCxOは、
「物理を知らなくてもロケットは飛ぶ」と言っているのと同じだ。
理解しないまま導入するノーコードは、“ノーコード”ではなく“ノーガード”である。
人を楽にするどころか、誰も直せない仕組みを量産する。
DXとは、ツールを導入することではない。
それを理解しない限り、
理解しないことだ。
真っ先に切られるのは、
──コストだけ。
CxOたちは「未来を見ている」と言う。
未来とは、仕様書ではなく、Pull Requestの積み重ねだ。
誰も知らないことを書いているお前は何?
1571年、レパントの海戦。オスマン帝国の無敵艦隊を、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊が撃破したあの日は、ヨーロッパにおける「旧秩序の最後の勝利」として記憶されている。だがそれは同時に、火薬と風帆の交錯する時代における“過去の戦い方”の終焉でもあった。
そして、2025年の『Pokémon LEGENDS Z-A』――これもまた、ゲーム業界におけるレパントの海戦である。
任天堂とポケモン社は、革新を標榜しながらも、その本質は“帆船の艦列戦”に固執する連合艦隊だ。巨大なIPの威光を盾に、数値と懐古の煙幕でプレイヤーを包み込む。だが、海はすでに変わっている。Steam、Epic、モバイルの潮流は、帆ではなく蒸気と電力で駆動する――それが現代の“海戦”だ。
ポケモンZAが選んだのは、その新海域を航海することではなく、旧式のガレー船を金箔で飾り、再び出港する道だった。
確かに、レパントの海戦ではオスマンの拡張を止めた。しかし、あの勝利は一時の幻影に過ぎず、やがて地中海の覇権は沈黙のうちに移り変わった。同じく、ポケモンZAも短期的には話題と売上で勝利を収めるだろう。だがその勝利の背後で、ゲームの「航海技術」は停滞し、革新の風は他の海原へと流れていく。
“伝統”の名のもとに惰性を正当化するその姿勢は、まさにガレー船の鎖に繋がれた漕ぎ手のようだ。美しく整った列を組みながら、どこへ向かうのかを誰も知らない。
レパントの海戦は、旧世界の最後の勝利であり、新時代の前夜であった。
ポケモンZAもまた、ポケモン帝国の最終的な「勝利」であり、同時に「終わりの始まり」なのかもしれない。任天堂がいまだに風を読み違えるなら、その船団は次の嵐で、二度と帰港できないだろう。
美咲が異動してきて三ヶ月が経った頃、課長の田中が毎朝決まったように声をかけてくるようになった。
美咲は二年前に一度この会社を辞めて、別の会社で働いていた。けれど事情があって戻ってきた。それは事実だ。誰も否定できない、紛れもない事実。
最初の一週間は我慢した。二週間目には、胸の奥が重くなるのを感じた。三週間目には、朝出社するのが憂鬱になった。
「え? 何が? 事実じゃないですか。木村さん、一回辞めて戻ってきたでしょう? 俺、何か間違ったこと言いました?」
美咲は言葉に詰まった。そう、事実だ。間違ってはいない。でも、何かが違う。何かが、とても間違っている。
「でも、毎朝わざわざそう呼ぶ必要は...」
「いや、だから事実ですよね? 本当のことを言って何が悪いんですか」
田中は肩をすくめて、そのまま自分の席に向かった。周りの同僚たちは気まずそうに視線を逸らした。
その日の昼休み、美咲は先輩の佐藤と食堂で向かい合っていた。佐藤は美咲が最初にこの会社にいた時からの付き合いだ。
「あのさ、佐藤さん」美咲はテーブルの上で箸を持つ手を止めた。「田中さんの言ってること、間違ってないんだよね。私、実際に出戻りだし」
「木村さん、田中さんは毎朝、何のためにそう呼んでると思う?」
「え?」
「情報を伝えるため? 木村さんが出戻りだって、誰も知らないから教えてあげようとしてる?」
美咲は首を横に振った。「みんな知ってる。私が戻ってきたこと、みんな知ってるよ」
「じゃあ、何のため?」
「...私を、傷つけるため?」
「それだけじゃないかもしれない」佐藤は優しく言った。「でも、確実に言えることがある。田中さんは、その言葉を口にすることで、木村さんとの関係をどういうものにしようとしてるんだろうね」
美咲は息を飲んだ。
「言葉って、情報を伝えるだけのものじゃないんだ。言葉を発するたびに、私たちは相手との関係を作ってる。尊重し合う関係か、対等な関係か、それとも...」
支配する関係。見下す関係。相手を尊重する必要がないと思っている関係。
「でも」美咲は言った。「それを指摘しても、また『事実だから』って言われるだけだよ」
「そうだね」佐藤は頷いた。「『事実かどうか』っていう土俵に引きずり込まれると、反論できなくなる。だって、事実なんだから」
「じゃあ、どうすればいいの?」
その夜、美咲は一人で考えた。
田中は「事実」という盾を持っている。その盾の後ろに隠れて、美咲を傷つけ続けることができる。そして美咲が反論しようとすると、議論は常に「その言葉が事実かどうか」という次元に固定される。
でも本当の問題は、そこじゃない。
本当の問題は、田中が毎朝その言葉を選んで発することで、美咲を「尊重する必要のない存在」として扱おうとしていることだ。
そして美咲がどんなに傷ついても、「事実だから」という論理の前では、その痛みを正当化することすら難しい。
なぜなら美咲は、田中と同じように振る舞うことができないから。同じように相手を傷つけることができないから。
「ああ、これが非対称なんだ」美咲は呟いた。
相手を尊重しない人は、相手の尊重する態度を利用して、一方的に攻撃できる。そして攻撃された側は、自分の倫理観のせいで、同じようには反撃できない。
翌朝、美咲が出社すると、またあの声が聞こえた。
今までとは違う目で。
それは、田中を許すことでも、田中の行為を正当化することでもなかった。ただ、事実として認めること。田中が今どういう態度で自分に接しているか、それを田中自身の選択として認めること。
田中が何を言おうと、それは田中の問題だ。田中がどういう人間関係を選択するか、それは田中の責任だ。
「おはようございます」
美咲は短く挨拶をして、自分の席に向かった。心臓はまだドキドキしていたし、完全に平気なわけではなかった。でも、何かが違った。
田中の言葉は、もう美咲の中核には届かなかった。それは田中の選択として、田中のところに留まった。
「なんか、雰囲気変わったね」
美咲は微笑んだ。
「うん、少しだけ。境界線っていうのかな。相手の問題と、自分の問題の」
「難しいよね、それ」
「うん、すごく難しい」美咲は正直に言った。「毎日できるかどうか分からない。でも、少なくとも今日は、できた」
佐藤は優しく笑った。
美咲は窓の外を見た。秋の陽射しが、オフィスビルの間から差し込んでいた。
相手を変えることはできない。相手が何を言うか、どう振る舞うか、それは相手の選択だ。
でも、自分がどうあるか。自分がどう応答するか。どこに境界線を引くか。
美咲は小さく息を吐いて、また仕事に戻った。完璧ではないけれど、少しだけ軽くなった心を抱えて。
数週間後、田中の呼び方は変わらなかった。でも、美咲の受け止め方は変わっていた。
「うん、そうだよ」美咲は自然に答えた。「一回辞めて、また戻ってきたの」
「へえ、それってすごいですね。どうして戻ろうと思ったんですか?」
美咲は少し考えて、答えた。
「いろいろあってね。でも、戻ってきてよかったと思ってる」
あの頃、僕たちは本気で信じていた。どこかに「運命の少女」がいて、彼女が現れさえすれば、この満たされない日常が一変するのだと。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーは、そんな僕たちの願望を、あまりにも誠実に——いや、残酷なまでに純粋に——描き続けていた。モニターの向こうで微笑む彼女たちは、決して僕を否定しなかった。選択肢を間違えなければ、好感度を上げ続ければ、必ずハッピーエンドにたどり着ける。そういう約束された世界があった。
『Air』の夏の空は、今でも瞼の裏に焼きついている。『D.C. 〜ダ・カーポ〜』で流れた「第2ボタンの誓い」を聴くたび、胸の奥が締めつけられる。『涼宮ハルヒの憂鬱』のエンドレスエイトを、僕たちは本当に何週も見続けた。あれは苦行ではなかった。繰り返される日常の中に、何か大切なものが隠されているはずだと信じていたからだ。
当時の僕たちにとって、アニメやギャルゲーのヒロインたちは、単なるキャラクターではなかった。彼女たちは「可能性」そのものだった。現実では誰にも理解されない僕の内面を、彼女たちなら分かってくれるかもしれない。傷ついた僕を、優しく包み込んでくれるかもしれない。そんな淡い期待が、次週の放送時間まで僕を生かし続けていた。
幼馴染系ヒロイン、天然系ヒロイン、ツンデレヒロイン、病弱系ヒロイン——彼女たちはそれぞれ、僕たちの心の隙間に完璧にフィットする形をしていた。まるでジグソーパズルの最後のピースのように。学校では「オタク」と揶揄されても構わなかった。なぜなら僕には、誰も知らない特別な居場所があったから。
でも、いつからだろう。
魔法が解け始めたのは。
二十代半ばを過ぎた頃だったか。それとも三十代の入り口だったか。ある日ふと、気づいてしまったのだ。画面の向こうの彼女たちは、決してこちら側には来ないということに。どれだけ好感度を上げても、どれだけフラグを立てても、僕の現実は何一つ変わらないということに。
同時に理解した。あの頃の僕は、「救ってくれる女の子」を待っていたのではなかった。ただ、自分で自分を救う勇気がなかっただけなのだ。傷つくことを恐れ、拒絶されることを恐れ、「運命の人」という幻想の後ろに隠れていただけだった。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーは、確かに僕たちを慰めてくれた。でもそれは同時に、現実と向き合うことを先延ばしにする麻酔でもあった。あの甘美な逃避の日々は、今思えば、成長を拒んだ蛹の中での長い眠りだったのかもしれない。
けれど、だからといって、あの時間を後悔しているわけではない。
むしろ今、僕はあの頃の自分に感謝している。どれだけ不器用で、どれだけ臆病で、どれだけ現実から目を背けていたとしても、あの頃の僕は必死に「何か」を探していた。生きる意味を、自分の居場所を、心の拠り所を。それがたまたま、二次元の世界だっただけなのだ。
魔法が解けた今、僕の部屋には、もうギャルゲーのパッケージは積まれていない。深夜アニメを録画することもなくなった。でも時々、ふとした瞬間に、あの頃の記憶がフラッシュバックする。夏の暑い夜、扇風機の風を浴びながら、モニターに向かっていた自分。選択肢を前に、真剣に悩んでいた自分。ヒロインの笑顔に、心から救われていた自分。
今の僕には、もう「救ってくれる女の子」は必要ない。自分の足で立ち、自分で選択し、自分で責任を取る。現実の人間関係の中で、不器用なりに生きている。でも、心のどこかに、あの頃の記憶は大切にしまってある。
なぜなら、あの優しい嘘があったからこそ、僕は今日まで生き延びることができたのだから。
ゼロ年代のアニメとギャルゲーが与えてくれたもの——それは、逃避でも幻想でもなく、「明日を生きる理由」だった。たとえそれが偽りの魔法だったとしても、その魔法は確かに、絶望の淵にいた僕を救ってくれた。
本当に大切だったのは、「救ってくれる女の子」ではなかった。それを信じることで、もう一日だけ生きてみようと思えた、あの頃の自分自身の生命力だったのだ。
画面の向こうで微笑んでいた彼女たちは、今も変わらず、そこにいる。ただ僕が変わっただけ。もう救いを求めなくなっただけ。でも、たまに会いに行くことはある。懐かしい友人を訪ねるように。
そして心の中で、静かに呟くのだ。
「ありがとう。あの頃は、本当に助かったよ」と。
低身長以外の属性は「そらハゲよりも髪がある方が有利だわな」と理解している
低身長男性だけが、自分の属性は受け入れられない、むしろ避けられてる現実を認められない
それが破綻した理屈でも現実と乖離していても、ひっくり返ってギャンギャン反論すればどうにかなると思っている
集団かつ腐向け営業に徹して、ライバルを排除した華やかな舞台にお膳立てされた商品が受けてるのを「ジャニーズが人気あるから日本でチビはモテる」と数十年間唱え続けてたから
中年すらテレビを見なくなりスマホにかじりつく時代になり、ライバーやVや韓国など多様な女向けコンテンツが出てきたら女がそっちに分散したのを認められない
ジャニーズも新宿二丁目露出騒動のグループなど、デビューが近年になるほど誰も知らないし興味を持たれていない