はてなキーワード: 東大生とは
「筋通しニキ」こと、東大生がデート後に送った「フェードアウトするなら筋通しましょうや…」というLINEがSNS上で拡散され、ある種のミームとして扱われているが、この出来事には一笑に付すには済まされない本質的な問題があると思っている。それは、男性が女性に対して抱く好意が、時に女性にとっては警戒や不安を呼び起こす対象になり得るという現実への想像力が欠けていること、そしてごく浅い関係性にもかかわらず「誠実な対応」や「説明責任」を一方的に求めてしまっているということだ。
たとえば、一度や二度の食事やデートに応じたからといって、相手が自分に何らかの義務や責任を負うわけではない。そこに気持ちの変化があっても、それを言葉で丁寧に説明する義務は本来ないはずだ。だが、筋ニキ構文は「自分が誠意を持って接したのだから、相手も筋を通すべきだ」と考えているように見える。その根底には、自分の感情や期待が当然に報われるべきものだという思い込みがある。これは「誠実さの押しつけ」であり、時に「善意の暴力」にすらなる。
さらに問題なのは、女性側の立場に立った想像力の欠如だ。恋愛的な好意を持たれた相手から「筋を通せ」と詰め寄られることは、時に威圧的に感じられ、それ自体がストレスや恐怖の対象になる。特にSNSやLINEなどでのやりとりは物理的な距離感が保たれていても、心理的には相手の執着や怒りを感じ取ってしまう。恋愛関係の終了、あるいは発展しなかったことへの“説明”を求めること自体が、関係性の中でより権力を持っている側——つまり断ることができる側——にとっては、防衛本能を刺激されるような圧になることもある。
もちろん、誠実な関係を望む気持ち自体は否定されるものではないし、傷ついた気持ちを抱えてしまうことも人間として自然な反応だ。ただ、その感情を相手にぶつけることが当然であるかのような態度には、自分の感情を相手に引き受けさせる構造がある。SNS上でこの出来事に共感が集まっているのも、自分も“既読スルー”された経験や、曖昧な終わり方にモヤモヤした記憶がある人たちが、感情の代弁者として筋ニキを擁護したくなるからだろう。しかしそこで見落とされているのは、「共感できる感情」=「正しい振る舞い」ではないという当たり前の事実だ。
この騒動は、恋愛や人間関係における「誠実さ」とは何か、「期待する権利」とはどこまで許されるのかという、現代的なモヤモヤを炙り出している。筋を通すべきなのは、むしろ自分自身の内面に対してであって、相手に求めるべきものではないのではないかと思う。
「兵庫県」が主語に決まってると思うが、そもそも日本語が苦手でないのってどのレベルなんだ?
小学校で満点しかとらないレベルでも苦手?中学でも90点以上しかとらないレベルでも苦手?
理科の東大生で「俺数学は苦手」とか言う奴いるけどそのレベルで苦手とか評価されてもついていけんわ。
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Twitterってイジメを唾棄してる人が多いけど、シュシュ女とか東大生の筋くんとか、イジメを白昼堂々同じプラットフォームでしててビビるよね。やっぱりIQ100前後って相当メタ認知能力が弱いんだろうな。
あと、こういうこと言うと自業自得論を展開されるかもしれないけど、いじめってそう言うものだからな。ちょっと悪いところがあるやつを自業自得を大義名分に過剰に叩く。何も悪くないやつを虐めるカスなんてそうそういねぇよ。
だからこそ、(イジメを肯定するわけじゃないが)人間関係が構築される上でいじめは一定の確率で生じる。それを経験から察する事ができないのはもう仕方ないにしても、Twitter民のさも自分はイジメなんかしない絶対的な善人みたいな態度はムカつくんだよな。まぁメタ認知ができないやつに言っても仕方がないのだが。
学校の前ってよく看板あるじゃないですか。大会優勝した子の名前とか、なんかすごい賞とった子の名前とか書いてあるやつ。
ある年の春先、たまたま通りかかったら、大学合格者の名前が大学名と一緒に書かれた看板(母校では大学進学するだけで看板立ててもらえます)があったんですよ。
腰抜けるかと思いましたね。馬鹿でかい鯉のぼりよりもでかい看板に祝!東京大学合格!って書いてあるんですもん。いやここ底辺高校じゃん。名前漢字で書けたら受かるって言われてたじゃん。数学の最初の授業は足し算だったじゃん。
やる気に満ち溢れて努力の末、大学に行く子は私たちの世代にもいましたが、それにしても東京大学?あの赤い門の?あの日本一頭が良い大学というあの?
もしかして、私が卒業した後めちゃくちゃ頭のいい学校になったのか?と調べてみましたが相変わらず県内のワースト1を争っていました。争うなそんなこと。県内一の進学校に比べると偏差値は半分。10年くらいじゃあんま変わりません。
その場で母校に電話しました。私の見間違いの可能性もあります。結果、間違いなくわたしの知る東京大学に現役合格したそうです。おめでとうございます。思わずその場で拍手。
本人の弛まぬ努力と、周りのサポートの賜物でしょう。なんでこの高校入ったのか知らんけど。アホな私は後輩に東大生がいるとはしゃいでしまいますので、素直にすごいですねぇ!おめでとうございますとご本人にもお伝えください!と言って電話を切りました。
さっそくクラスメイトだった友人にも「今年の卒業生、東大現役合格したらしいよ!?やばくね!?」とウキウキで連絡したところ「俺らに何の関係もないだろ」と一言。全くもっておっしゃる通り。
あの人達みたいにモチベーションやバイタリティが無い"から"私には出来ない
発達障害だから、いじめられっこだから、片親だから、〇〇できない
本当はただ単に自分がやりたくないってだけのことから逃げるために
いや~〇〇できるひとってすごいわ、と相対化して自分がやらないことの言い訳に使ってるだけ。
現実世界にもいるでしょ。大谷翔平がどうだとか、東大生はどうだとか。
自分が無能なことを暴かれる前の予防的な防衛本能的な言動だよ。
それを口にしてしまう時点で中学生みたいなメンタリティであることは間違いない。
普通の大人はそんなこと理解してて、弁えて自分のできることと出来ないことを分けて現実と向き合ってるよ。
発達障害だから〇〇はしないで、とか〇〇を避けて、みたいなのを開けっぴろげにするのはマジで社会悪。
ばらつきについて論じてた増田だが、
まず、男性の知能の方がばらつきが大きいのは、Hedges & Nowell (1995) の研究以来、大きさの議論はあれど、ほぼ承認されてるな。
どうしてもセンシティブな内容だから大きな声では主張されないが。
男女の分散の差は大体1.05~1.25の範囲内とされていて、これは軽度知的障碍者の男女比1.5:1、重度2:1(内閣府資料)に適合する。
このように、分散の端に行けば行くほど男女比は偏る。知能以外もほとんど男性の方が分散は大きい。
で、東大生は同世代100万~150万の3000人だから人口比0.3~0.2%、これをそのままIQに当てはめると140くらいの数字。
IQの分散は男女合算15で計算されているから、男性16、女性14(分散の大きさが1.14倍)で計算すると、140以上の男女比は3倍差がつく。
それに受験で重要な数学能力に直結する空間認知能力のスコアは男性の方が高い人が多いことを加味すると4倍差は十分ありえる数字なわけ。
まったくなんの差別やバリアがなくても、分散の「はしっこ」ではこれくらいのことはあり得るんだよ。
だから、あなたの「男女差=差別が原因」説こそ独自研究で、その根拠なんて何もまだ示されてないわけ。
なので、「東大の男子学生は下駄をはいている」ってのは、根拠を示して証明するまで、思い込みに基づく言いがかり、冤罪でしかない。
言っておくが、これは男性が女性より優れている、なんてことは意味しない。
単に男性の方が「外れ値、異常値」が多いってだけだ。
おそらく男性が遺伝子の環境適応淘汰の「モルモット」だからだろう。
そして、たまたまその異常性が有利に働く場所「だけ」を観察すれば、男女の外れ値の発生率がそのまま表れる。それだけのこと。
たまたま異常性を生かせた人の比率だけみて、男性は優遇されている、なんて思い込むのはアングルの魔法に騙されてるんだよ。
男性は優遇されてると思い込むと、社会に見捨てられた外れ値男性は「優遇されてるのに勝手に自滅した奴」になるし(実際、そう主張する『男女平等』論者は多い)。
それと、最高学府が男女比が偏るのは社会へのメタメッセージになる、って主張だが、
逆に男女差を不公正な方法で無理やり是正することは、「公正や能力よりも社会運動の政治力の方が受験ですら優位」って、それこそ社会を歪めるメタメッセージになる。
これを見ても、あなたが国内での利権・ポスト争奪戦しか見えていないのがわかる。
大学院の授業を英語でやるほど外国との競争を意識しているのに、今後ますます重要になる空間認知能力上位の学生を性別だけで切り捨てることになるから。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076786/
正直に言えば、「女性枠」とか「ジェンダー格差」といった言葉を目にしたとき、ちょっと身構えてしまう自分がいた。
でも、『「東大卒」の研究』を読み終えて、初めてその意味が、頭じゃなくて感覚として少し理解できた気がする。
本書は、東京大学という日本のトップ校の卒業生たちが、社会でどう位置づけられているのかを、データを通して分析したものだ。
東大と聞けば、「頭が良い人が集まる場所」「努力すれば入れる」といったイメージを持っていた。
実際、私も「政治や経済は、そういう優秀な人に任せておけばいい」と思っていた。
でもこの本を読んで、その考えはどれだけ「偏った前提」に支えられていたのかが見えてきた。
たとえば、東大卒のうち関東圏出身の男性が約40%を占めている一方で、地方出身の女性はわずか10%程度。
しかも、地方出身の東大生は「教師のすすめ」や「たまたま出会った情報」で進学を決めたという例が多く、そもそもチャンスの数が違っている。
加えて、「大学第一世代」(家族で初めて大学進学した人)も東大内では少数派で、人脈づくりにもハンデを背負っている。
東大は「努力と能力の結果」とされがちだが、実はそこに至るまでにすでに大きな差がある。
それを「格差」と呼ばずに何と言うのか。
さらに印象的だったのは、「再分配」や「不平等の是正」への意識が、東大卒ほど希薄になりがちだという話。
東大生は専門分野の勉強に熱中するあまり、社会構造の歪みを実感しづらくなる。
だからこそ、「東大卒=優秀」だけでは測れない社会的役割が問われているのだと感じた。
「枠」というのは、個人にとっては“優遇”に見えても、社会全体で見れば『必要な仕組み』なのだ。
そして、それを与えられる側には責任もある。これは、選挙で与えられる「一票」にも通じる感覚かもしれない。