はてなキーワード: 危惧とは
今日はみんな薄々気づいているだろう、社会問題に切り込みたいと思う。
これは非常に重大な世間の関心事であり、レッドデータブックならぬピンクデータブックで巻頭カラーを飾っている。
私はエロマンガを基本的にkomifloで読んでいるため、komifloに掲載されている雑誌が観測範囲であるが、概ね商業エロマンガ全体で同様の傾向があるのではないか。
私はア◯ルものが好きで、komifloで新たな号が掲載されたらまずア◯ルタグで絞り込みを行っている。
3年ぐらい前までは一冊の雑誌で何作品かはア◯ルものがあったし、BAVELや失楽天なら多いときは5作品ぐらいあることもあった。
新号が配信されても、ア◯ルタグで絞り込むと1作品ぐらいしか新作がないことが増えてきた。
徐々にその傾向が進んできて、ここ一年ぐらいゼロであることがほとんどになってしまった。コンスタントにア◯ル新作が載るのはhotmilk濃いめぐらいになってしまった。私は濃いめは好みではないためノーカウントとするとほぼゼロに近しい。
ア◯ルタグで絞り込んで、最新作が前回の濃いめの作品から変化なかったときの絶望感を想像してみてほしい。パンツを下ろしてうきうきしながらkomiflo開いた昂揚感を返せ。
2026年も1/3が経過したが、濃い目を除くと今年のア◯ルものの新作は20本以下である。(ア◯ルタグはつけ忘れが多々あるため、実際にはもう少しあるかもしれない)
その少ない作品も、言葉を選ぶと独特な画風のものが多く、好みにあう作品に出会える確率が非常に低くなっている。誠に由々しき事態である。(ア◯ルものが独特の画風のものが多いのは元々の傾向ではあるが、数年前まではちゃんとかわいい絵柄の作品も多かった)
理由は分からないが、モノリノ先生とかえいとまん先生とかぷよちゃ先生とかさじぺん先生とかぬんぬ先生とかア◯ルものをよく描いてた先生方が引退されたり商業誌であまり描かなくなってしまったのも原因として大きいと感じている。
しかし、長頼先生のように一時期ア◯ルものをよく描いてた先生も描かなくなりつつあるため、単純にジャンルとして衰退してしまっているのを感じる。触手ですらア◯ルを攻めない作品すら増えてきている。触手としての矜持を失いすぎだと思う。
みさくらなんこつ先生がかつて編集者から「まだ満足してない触手がいるよね」とコメントされたというエピソードを読んだことがあるが、触手側に遠慮させてたらどうしようもないではないか。
現在コンスタントにア◯ルものを描いてくれる点で、もはやあおむし先生だけが希望である。
komiflo運営が年一で発表している県ごとの人気タグでももはやア◯ルを挙げている県はほとんどない。大分ぐらいである。大分は2年連続でア◯ルが1位で、逆に大分はこの状況でよくア◯ル1位になってるな。尊敬する。
これはとてもよくない傾向で、数が少ないから質が伴わず、人気がないとみなされればより数は減ってしまう。
需要があるということを声を大にして伝えていきたい。ア◯ル好き同志諸兄はよいア◯ルものへのブクマ・コメントを積極的にお願いしたい。
男子トイレの環境に対する男性たちの本音は、「プライバシーの欠如に対する強い抵抗感」と「効率性のためのやむを得ない妥協」の間で揺れ動く非常に複雑なものです。主な意見を分類すると以下の通りになります。
多くの男性が、現在の小便器の環境を「プライバシーがない」と感じており、内心では苦痛や抵抗感を抱いています。
「嫌だ」と言いにくい社会的な空気や、男性同士の牽制が現状維持に繋がっている側面があります。
一方で、小便器というシステムが持つ「回転率の速さ」というメリットを認め、現状を肯定、あるいは妥協している層も一定数存在します。
設計の古さや、利用者のマナーに起因する不快感も多く挙げられています。
総じて、男性たちは「嫌だが、効率のために我慢している」という状態にあり、もし利便性が損なわれないのであれば、よりプライバシーが守られた環境(仕切りの強化や個室化)を望んでいるのが本音と言えます。
まず、この「モイスチャー」って商材は40年以上前から売られてる古いスキンケアシリーズ。
それも資生堂ドルックスのように定期的にコスメヲタの間で話題になるような「隠れ名品」といったポジションではなく、現役世代は誰も使ってない、なぜ未だに売られているのかまったくわからないポジションのおばあちゃんコスメ。
レトロコスメでよくある「すごい美肌のおばあちゃんが若いころからずっと使っていた」ってエピソードもあんまり聞かない。
売ってるメーカーすら「絶滅危惧コスメ」なんて自嘲しちゃってるぐらい存在感ない、でもドラストやスーパーの片隅においてある、そういう商品なのね。
今回バズるまで見た目は知ってるけど名前知らんかった(そういう意味では炎上マーケティング成功している)
明色奥様シリーズの自然派緑バージョン、みたいなもんだと思ってたわ
まあまともに考えてどっかでリノベしないとどうにもならないシリーズだったのに、ずっと作り続けたのはウテナの美学なのかこだわりなのかだと思うけど
それの認知を高めようと、昭和レトロがテーマのクリエイター・インフルエンサーを起用してAIも活用した昭和っぽい広告を3シリーズ作ったが不発。少なくとも観測範囲で話題になってるのは見かけなかった。
この広告も、まあ本気の昭和レトロ愛好家が見たら怒るクオリティだったが、そういう人の絶対数が少ないから不発に終わるだけで炎上はしなかった。
そもそも、昭和レトロコスメを若い子にも認知させよう、というコンセプトで、なぜに「昭和あるある」でプレゼントキャンペーンを打つのか本当に意味がわからないし、なんとなく「AIでやれば若い子の話題になるでしょ(鼻ホジ)」って安直さが否めない
この商品を使ってたのは、80年代レトロを懐かしむ世代(=バブル世代)よりもっと上の70代とか80代だし、ヘチマコロンとか美顔水ぐらいの歴史があればまだしも、中途半端なレトロは全方向的にダサい。
そこで基軸を切り替えて今回炎上したセーラームーン風の変身アニメを作ったわけだが、これはすでに昭和ですらないし、愛着のある世代から見ると馬鹿にしたような仕上がりで炎上した
昭和レトロを狙うなら、むしろぴえろ魔法少女風にすべきだったかもしれない。それなら「なんか見たことあるけど何かに似てるわけではない」みたいな作り方はできただろうし
まあ、どうせ規定路線通り話題にならずに不発だったと思うけど、つつがなくキャンペーンを終えることもできたんじゃないのか
長く廃番にせず大事に売るのは偉いように思うが、令和の世はコスメに詳しくない人もセラミドだナイアシンアミドだビタミンCだと成分で選ぶ時代で、「昔ながらのスキンケアが安心」って価値観自体が古くなってきてる
たとえばロートの極潤シリーズとか花王のキュレルとか資生堂のアクアレーベルとか、同じようなプチプラ価格帯において、最新の研究成果を採用して「潤いを守る」とかいう訴求をもっと本気でやってるブランドがいっぱいある
大手企業ではない「ちふれ」だって、定期的にリニューアルを繰り返してるし、有効成分をきっちり配合して(全成分の配合割合まで公開されている)話題になっている。そんな中どう戦うのという話である。
さらに、プチプラコスメって「洗面所において家族みんなでぱしゃぱしゃ使える」ってことが最大の価値なのに、ガラスボトルで150mlではそれができない。すぐなくなるし落とせば割れる。
たとえば、ガラスボトルに紙シールの謎パケやめて、500mlの大容量を出すとかできなかったんだろうか?
鎮静と保湿だけで使うなら、いらない成分は刺激になるからむしろアロエエキスだけってシンプルさがいいんだよ、ってだれか成分系のコスメインフルエンサーに言わせたりすりゃ動いたんじゃないの
商品にまったく向き合わず、広告に金かければどうにかなるでしょってのはナメてるし、AI使って中途半端にケチったイメージにもなっちゃってる
元コンテンツへの敬意というより、商品に対する掘り下げもユーザーに対する洞察もあんまり感じないというとこで、なんか気持ち悪い案件だなって感じたわね。
スキンケア化粧品でAIおもしろ広告を見たからといって、これ使ってみようってことには絶対ならない、それは確か。
少女革命ウテナと正式にコラボすればって言ってる人もいたけど、そういうコラボば効くのはもともと売れてるシリーズか、メイクものでかわいいパッケージ作れる場合で
そもそも売れてないものにキャラクター絵をくっつけたからといって売れるということはまあない。
今は、化粧品の広告に面白さや話題性って不要で、なぜなら化粧品を手に取る時の気持ちはむちゃくちゃ切実なんだわ
特にスキンケア化粧品は、消耗品だけども、カップラーメンみたいに「面白そう、食べてみよう」って手に取るものじゃなくて、自分の肌を預けるものとしてみんな真剣に選んでるわけだし
商品に対する信頼や愛着や憧れがまずあって、コラボはそれに上積みする要素でしかない
個人的に、自分がこの商品のプロモするなら「昭和あるある」じゃなくて団塊マダムやその子、孫に「次世代に語り継ぎたい美容」とか「おばあちゃんに聞いた美の秘訣」を聞く企画すると思う レトロコスメのセールスポイントなんて「地味だけどずっと使ってる人がいる」その1点だけなのだし。
1億円という金額を出しただけで「金に物を言わせて結婚する気」という言い方するのは認知が歪んでいるだろう。
共同生活を前提とする婚活で、お互いの年収を開示するのは当然だ。
おまけに収入に波のある事業者なら、単年の年収だけを開示しても意味がない。だから防衛資金として資産額も重要になる。そういう話であって、金に物を言わせているわけではない。
個人事業が当たって1億円近い資産が突然できた。年齢は40代前半。男性。
今後商売が上手くいかなくなったとしても資産運用で人生逃げ切れるだろう。生活基盤の不安が解消されるにつれ、「結婚」という選択肢が浮かんできた。異性と無縁な低空飛行の人生だったが、1億円も貯まれば自分を選んでくれる女性もいるんじゃないか。
そこでふと不安になった。お金に寄ってくる女性って大丈夫なの?
結婚相手として経済力を求められるのは避けられないが、資産があるからといって贅沢を期待されるのは困る。そもそも不安定な商売なので儲かっているときに散財したら人生詰む。事業の売上から経費を引いた利益が年間3,000万円あったとしても、給与所得500万円よりお金を使えるとは思わないでほしい。
さらに将来的には相手の親の介護費用まで自分が出すことになったりするかも。最悪、離婚に至って財産分与で数千万円持っていかれたりするかも。
婚活を始める前から悪い方に考えすぎかもしれないが、自分が女性を「選ぶ側」でもあることを初めて意識した。もちろん悪い想像ばかりでもなく、気の合う女性との幸せな毎日も想像するので、独身の方が良いとも言い切れない。ただ婚活サービスに登録して何度か会っただけで結婚を決めることがハイリスクすぎるギャンブルに思えてきた。
追記:
年収3,000万円稼いだ翌年は年収100万円に下がるかもしれない。逆に上がるかもしれないが、とにかく収入に大きな波がある商売をしている。でも極端な話、完全に事業収入がなくなったとしても1億円あれば年収500万円の20年分はある。そのうえで事業もどうなるかわからないけど継続していきますよということ。
共同生活を前提とする婚活で互いの年収を開示するのは当たり前でしょ。その延長として資産額も出す必要性を感じている。給与所得者同士なら年収を見せ合えば経済力を判断できるだろうが、自分みたいな事業者が単年の年収だけで判断されるとお互いの認識がズレて困るわけ。1億円あるから金持ちと思ってくれということじゃなくて、良くも悪くも不安定な商売だけど実質年収500万円+αは維持できるって話をしたいんだよ。
追記2:
「収入にすごく波のある仕事だけど、資産額も加味すれば実質年収500万円+αは保証できる。婚活する最低限の経済力はクリアしているはずだ。ただ、よく考えると結婚できれば誰でも構わないわけじゃない。単に結婚したいんじゃなくて、幸せな日常を送りたいんだから」
それだけの話をしたいだけなのに、どうして「頭が弱い」とか「素の自分には釣り合わないほど魅力的な異性に寄ってきてほしい」なんて言われなきゃいけないのか? こんなこと言うと余計に逆上されそうだけど、自分の危惧したとおり1億円という額面は人を狂わせてしまうんだろうかと思ってしまった。
ちなみに自分の理想とする異性は、一緒に「超かぐや姫!」とかを観て楽しんでくれる機嫌の良い人だよ。
追記3:
資産1億円なら40代の自分でと選んでくれそうだから婚活するのに金目当ての女は嫌というのが分からない。女は金目当てで結婚するから今の自分なら、って考えたんだよね??
いや「女は金目当て」じゃなくて、結婚する大半の人は相手に経済力を求めるでしょ。男性である自分も相手に経済力を求めているよ。「収入ゼロ=専業主婦でもOK」なんて男性いまどき少ないんじゃないの? 同様に自分自身にも一定の経済力が必要と思うけど、過剰な期待は困るって話。どうしてこんな当たり前のこといちいち説明させるんや?
追記4:
生活の目処がついたから結婚の可能性ゼロじゃなくなったって話であって、「1億円あれば40代でも引く手あまたでモテモテ!」なんて話は一度もしてないだろ。分かってくれる人もいるけど、マジで話の通じない人たちがいてビビる。
それに可能性がゼロじゃなければ、自分を含めて誰しもが「選ばれる側」であると同時に「選ぶ側」なんだよ。独身のまま生きるかどうかという選択も含めて。可能性が低いからって選ぶ権利を否定される筋合いはまったくない。そういう人間として当たり前のことにようやく気づくことができたって話。
もう追記はしない。
commentatorHeader
とても面白かった。最近、インセルや、男性差別などの研究をしていたので、ここに書かれていることは腑に落ちます。しかし、トランプがキリストのように、人々の恥の意識や攻撃を代理で引き受ける役割を担っていると見なされていたとは。そういうことは、ディープに潜っていかないと分からないものですね。誇りやアイデンティティ、感情の流れを知ることは大事であるのだとよく分かりました。現在の日本でも、恥の感覚を刺激し動員する政治をあちこちで目にしますね。
重要な指摘は、AIによる第四次産業革命のあとに、さらに多くの者が、ラストベルトなどで仕事を失い、誇りを失い、「絶望死」するような者たちと同じ状態になる可能性があるという指摘ですね。同じことを危惧していました。
「多くの非大卒の白人が探し求めるような仕事です。ホワイトカラーの業務でも半分以上でAIの性能が人を上回るようになる。職を失うとは限りませんが、とてつもない大激震です」「欧州企業の3分の2は労働者の再教育プログラムを持っているが、米企業は半分しかない。つまり、私がケンタッキー州の炭鉱離職者らに見いだした『喪失』と『恥』、そこから右翼政治に絡め取られるということが、世界中のホワイトカラー層にも起きる危険があるのです」
産業構造の変化で、「置き去りにされ」「見捨てられ」てしまい、不可視化され、新自由主義の自己責任論や、進化論的な「弱肉強食」の論理でそれを正当化されるようになってしまうのは、未来の我々なのかもしれません。そう考えると、「橋を作る」こともできそうな気がしてきます。
AmazonやAliexpressで売られている中国メーカーのパワーアンプの多くにはBluetooth機能が付いていますが
これが日本で使えるように技適を取得しているかどうかについて触れているレビューがほぼありません
中には技適マークが付いていないことを承知しながらも自己責任で使用して下さいと他人に注意をしたり、
アンテナを付けなければ電波が飛ばないので問題無いなどと適当なことを書く購入者が見うけられます
AIYIMAブランドはBluetoothスピーカーの技適は取得していますがアンプに関してはA01という一製品しか取得していないようです
Nobsound(Douk Audio社)とFosi Audio社に関してはどちらも総務省の技適検索サイトではヒットしませんでした
というか、うるさめ(といっても不快と思うには十分)なバイクは絶滅危惧の段階になったことすら一度も無かったよね。毎日誰かしらそういうバイク走らせてるわ。
dorawiiより
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日本社会において、女性主導のBL(ボーイズラブ)文化は巨大市場を形成し、性的表現の自由をめぐる議論を長年続けてきた。しかし、その根底にある「BL無罪」という思想は、深刻な人権問題をはらんでいる。
「BL無罪」とは、主に女性の性的ファンタジーとして描かれる男性同士の恋愛・性愛表現(やおい・BL)を、
として無条件に擁護する立場を指す。対して、男性向け表現(萌え絵、異性間エロなど)や現実のゲイ表象への批判は厳しく行われる。この性別による二重基準こそが問題の本質である。
• 「ゲイの経験を勝手に商品化・美化・ステレオタイプ化するな」
• 「表象の横奪だ」
• 「女性のファンタジー空間に口出しするな」という反論に対し、ゲイ側は「現実の多様性や苦悩を無視した消費」を問題視した。
現在、商業BL市場は180〜200億円規模(同人含め300億円超)と推定され、年間1,400冊以上の新刊が刊行される。一方、ゲイ向け商業雑誌はほぼ壊滅状態だ。老舗誌が次々と廃刊し、当事者による自己表象の場が激減した。女性消費者主導の巨大資本が、ゲイ表象を「イケメン同士のエロティックファンタジー」として独占的に消費する構造が定着したのである。
特に悪質なのは、弱い立場のマイノリティを対象化している点だ。BLの定番テンプレートである「強い攻め×弱い受け」の力関係・歪んだ支配関係は、現実のジャニーズ性加害事件(権力者による脆弱な少年の搾取)と構造的に重なる部分が多い。それを知りながら、または薄々気づきながら「女の欲望の自由だろ!」と擁護する姿勢は、傲慢そのものだ。
この問題を象徴するのが、東京大学大学院情報学環教授・田中東子氏である。公的立場では、宇崎ちゃん献血ポスターなどの女性モノ化を「ジェンダー規範の再生産」として批判し、表現規制的な議論を展開。一方で、黒澤多香子名義で脅迫・SM・心理支配を主題とした過激BL作品を商業出版していたことが2024年に暴露された。
• 男性のモノ化(特に歪んだ支配関係) → 正義・性的主体性
東大教授という公的権威を背景にこうした二重基準を提示することは、知的誠実性を大きく損なう行為だ。
日本国憲法第14条は明確に定めている。
「女性の性的ファンタジーだから無罪」という主張は、生まれ持った性別を基準に表現の許容度や道徳的価値を分ける属性差別である。表現の自由(憲法21条)も、人権も、性別フィルターをかけるべきではない。最高学府の教授がこれを繰り返すことは、人権侵害的主張を公的に容認するに等しい。
BL市場の拡大は女性消費者の満足度を高める一方で、ゲイ当事者の疎外感、一般男性への表現規制圧力、社会的分断を増大させている。性別で「勝ち組/負け組」を決めるゼロサム的論理だ。
「BL無罪」というスローガンは、表面的には「表現の自由」を掲げながら、実際には人間の尊厳を性別で二分する。 弱い立場の男性マイノリティの経験をファンタジーとして食い物にし、その苦痛を「ほっといてください」で片付ける構造は、人権の選択的擁護といえる。
というわけだ。
真の平等とは、性別問わずオブジェクト化の害・表象の権利・表現の自由を同じ基準で評価することである。最高学府が性別ダブルスタンダードを擁護し続ける現状は、看過できない人権問題である。
2026年4月23日、全日本教職員組合(全教)は、3月16日に起きた沖縄県名護市辺野古沖の修学旅行事故に関する談話を発表しました。https://www.zenkyo.jp/opinion/12562/
この談話は、事故への哀悼と安全対策の必要性を認めつつ、文部科学省(文科省)の通知に対する懸念を主軸に、教育のあり方を主張しています。
• 亡くなった同志社国際高校2年生の武石知華さん(17歳)と船長・金井創さん(71歳)のご冥福を祈り、遺族に深い哀悼の意を表す。
• 学校教育活動では、子どもたちの生命と安全を守ることが最重要の責務であると明記。
• 修学旅行などの校外活動は、教室での学びを広げる大切な教育実践だが、万全の安全対策が不可欠。事故原因の徹底検証と再発防止策を求め、関係機関による客観的な調査を要請。
事故後、文科省は4月7日に「学校における校外活動の安全確保の徹底等について」という通知を出しました。これに対し、全教は以下の点を問題視しています。
校外活動の安全確保を求めるとともに、教育基本法第14条第2項(学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない)を引用。「特定の見方や考え方に偏った取扱い」を避けるよう強調。
この通知により、平和教育に対する過度な萎縮(活動が萎縮・縮小すること)が学校現場で広がることを危惧。安全確保と平和教育は分けて考えるべきと強調。安全対策は重要だが、平和教育の必要性を否定するものではない。
全教は、平和教育を以下のように位置づけ、積極的に擁護しています。
• 平和教育を「偏った取扱い」とするのは、教育の本質を歪め、教育の自由と教職員の専門性を損ない、子どもの学ぶ権利を狭める。
• 平和教育は「特定の政治的立場を押しつけるものではなく」、子どもたちが多様な資料や事実に触れ、自ら考え判断する営み。戦争と平和を学ぶことは、民主主義社会を担う市民を育てるうえで不可欠。
学校教育の政治的中立性を定めた法律。第1項は「政治的教養の尊重」を、第2項は「特定の政党支持・反対のための政治教育・政治活動の禁止」を規定。
教育基本法第14条第2項は、学校(教員を含む)が特定の政治的立場を教育内容として推進する活動を禁止しています。一方、第1項は「良識ある公民として必要な政治的教養」の尊重を認めています。
全教は「政治的教養の尊重」を広く解釈し、「禁止される政治教育・政治的活動」の線引きを緩く主張しています。
「教職員の専門性・教育の自主性」という名の下で、特定の政治教育を生徒に提供する実践を、法的制限の外に置こうとする主張です。
教員は公的立場(または学校の教育活動の担い手)であり、生徒に対する影響力を考慮した善管注意義務と中立性義務を負います。私的意見の表明と、教育活動での推進は区別されます。
• 過去の教職員組合の主張でも、「教育の自由=教員の教育内容決定権」を広く解釈する傾向が見られます。しかし、裁判例では全教の主張は退けられる傾向にあります。
こうなってくると何をいうても、直ぐそこへ持ってくるので話がゆきつまってしまう。二人の内でどちらか一人が、すこうしほんの僅かにでも押が強ければ、こんなに話がゆきつまるのではない。お互に心持は奥底まで解っているのだから、吉野紙を突破るほどにも力がありさえすれば、話の一歩を進めてお互に明放してしまうことが出来るのである。しかしながら真底からおぼこな二人は、その吉野紙を破るほどの押がないのである。またここで話の皮を切ってしまわねばならぬと云う様な、はっきりした意識も勿論ないのだ。言わば未まだ取止めのない卵的の恋であるから、少しく心の力が必要な所へくると話がゆきつまってしまうのである。
お互に自分で話し出しては自分が極りわるくなる様なことを繰返しつつ幾町かの道を歩いた。詞数こそ少なけれ、その詞の奥には二人共に無量の思いを包んで、極りがわるい感情の中には何とも云えない深き愉快を湛えて居る。それでいわゆる足も空に、いつしか田圃も通りこし、山路へ這入った。今度は民子が心を取り直したらしく鮮かな声で、
「政夫さん、もう半分道来ましてしょうか。大長柵おおながさくへは一里に遠いッて云いましたねイ」
「そうです、一里半には近いそうだが、もう半分の余来ましたろうよ。少し休みましょうか」
「わたし休まなくとも、ようございますが、早速お母さんの罰があたって、薄すすきの葉でこんなに手を切りました。ちょいとこれで結わえて下さいな」
親指の中ほどで疵きずは少しだが、血が意外に出た。僕は早速紙を裂いて結わえてやる。民子が両手を赤くしているのを見た時非常にかわいそうであった。こんな山の中で休むより、畑へ往いってから休もうというので、今度は民子を先に僕が後になって急ぐ。八時少し過ぎと思う時分に大長柵の畑へ着いた。
十年許り前に親父おやじが未だ達者な時分、隣村の親戚から頼まれて余儀なく買ったのだそうで、畑が八反と山林が二町ほどここにあるのである。この辺一体に高台は皆山林でその間の柵が畑になって居る。越石こしこくを持っていると云えば、世間体はよいけど、手間ばかり掛って割に合わないといつも母が言ってる畑だ。
三方林で囲まれ、南が開いて余所よその畑とつづいている。北が高く南が低い傾斜こうばいになっている。母の推察通り、棉は末にはなっているが、風が吹いたら溢れるかと思うほど棉はえんでいる。点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目まぶしい様に綺麗だ。
民子は女だけに、棉の綺麗にえんでるのを見て嬉しそうにそう云った。畑の真中ほどに桐の樹が二本繁っている。葉が落ちかけて居るけれど、十月の熱を凌しのぐには十分だ。ここへあたりの黍殻きびがらを寄せて二人が陣どる。弁当包みを枝へ釣る。天気のよいのに山路を急いだから、汗ばんで熱い。着物を一枚ずつ脱ぐ。風を懐ふところへ入れ足を展のばして休む。青ぎった空に翠みどりの松林、百舌もずもどこかで鳴いている。声の響くほど山は静かなのだ。天と地との間で広い畑の真ン中に二人が話をしているのである。
「ほんとに民子さん、きょうというきょうは極楽の様な日ですねイ」
顔から頸から汗を拭いた跡のつやつやしさ、今更に民子の横顔を見た。
「そうですねイ、わたし何だか夢の様な気がするの。今朝家うちを出る時はほんとに極りが悪くて……嫂ねえさんには変な眼つきで視られる、お増には冷かされる、私はのぼせてしまいました。政夫さんは平気でいるから憎らしかったわ」
「僕だって平気なもんですか。村の奴らに逢うのがいやだから、僕は一足先に出て銀杏の下で民さんを待っていたんでさア。それはそうと、民さん、今日はほんとに面白く遊ぼうね。僕は来月は学校へ行くんだし、今月とて十五日しかないし、二人でしみじみ話の出来る様なことはこれから先はむずかしい。あわれッぽいこと云うようだけど、二人の中も今日だけかしらと思うのよ。ねイ民さん……」
「そりゃア政夫さん、私は道々そればかり考えて来ました。私がさっきほんとに情なくなってと言ったら、政夫さんは笑っておしまいなしたけど……」
面白く遊ぼう遊ぼう言うても、話を始めると直ぐにこうなってしまう。民子は涙を拭うた様であった。ちょうどよくそこへ馬が見えてきた。西側の山路から、がさがさ笹にさわる音がして、薪たきぎをつけた馬を引いて頬冠ほおかむりの男が出て来た。よく見ると意外にも村の常吉である。この奴はいつか向うのお浜に民子を遊びに連れだしてくれと頻しきりに頼んだという奴だ。いやな野郎がきやがったなと思うていると、
「や政夫さん。コンチャどうも結構なお天気ですな。今日は御夫婦で棉採りかな。洒落しゃれてますね。アハハハハハ」
「ハア吾々なんざア駄賃取りでもして適たまに一盃いっぱいやるより外に楽しみもないんですからな。民子さん、いやに見せつけますね。余あんまり罪ですぜ。アハハハハハ」
この野郎失敬なと思ったけれど、吾々も余り威張れる身でもなし、笑いとぼけて常吉をやり過ごした。
「馬鹿野郎、実に厭なやつだ。さア民さん、始めましょう。ほんとに民さん、元気をお直しよ。そんなにくよくよおしでないよ。僕は学校へ行ったて千葉だもの、盆正月の外にも来ようと思えば土曜の晩かけて日曜に来られるさ……」
「ほんとに済みません。泣面なきつらなどして。あの常さんて男、何といういやな人でしょう」
民子は襷掛け僕はシャツに肩を脱いで一心に採って三時間ばかりの間に七分通り片づけてしまった。もう跡はわけがないから弁当にしようということにして桐の蔭に戻る。僕はかねて用意の水筒を持って、
「民さん、僕は水を汲くんで来ますから、留守番を頼みます。帰りに『えびづる』や『あけび』をうんと土産みやげに採って来ます」
「私は一人で居るのはいやだ。政夫さん、一所に連れてって下さい。さっきの様な人にでも来られたら大変ですもの」
「だって民さん、向うの山を一つ越して先ですよ、清水しみずのある所は。道という様な道もなくて、それこそ茨いばらや薄すすきで足が疵だらけになりますよ。水がなくちゃ弁当が食べられないから、困ったなア、民さん、待っていられるでしょう」
「政夫さん、後生だから連れて行って下さい。あなたが歩ける道なら私にも歩けます。一人でここにいるのはわたしゃどうしても……」
「民さんは山へ来たら大変だだッ児になりましたネー。それじゃ一所に行きましょう」
弁当は棉の中へ隠し、着物はてんでに着てしまって出掛ける。民子は頻りに、にこにこしている。端はたから見たならば、馬鹿馬鹿しくも見苦しくもあろうけれど、本人同志の身にとっては、そのらちもなき押問答の内にも限りなき嬉しみを感ずるのである。高くもないけど道のない所をゆくのであるから、笹原を押分け樹の根につかまり、崖を攀よずる。しばしば民子の手を採って曳ひいてやる。
近く二三日以来の二人の感情では、民子が求めるならば僕はどんなことでも拒まれない、また僕が求めるならやはりどんなことでも民子は決して拒みはしない。そういう間柄でありつつも、飽くまで臆病に飽くまで気の小さな両人ふたりは、嘗かつて一度も有意味に手などを採ったことはなかった。しかるに今日は偶然の事から屡手を採り合うに至った。這辺このへんの一種云うべからざる愉快な感情は経験ある人にして初めて語ることが出来る。
「民さん、ここまでくれば、清水はあすこに見えます。これから僕が一人で行ってくるからここに待って居なさい。僕が見えて居たら居られるでしょう」
「ほんとに政夫さんの御厄介ですね……そんなにだだを言っては済まないから、ここで待ちましょう。あらア野葡萄えびづるがあった」
僕は水を汲んでの帰りに、水筒は腰に結いつけ、あたりを少し許り探って、『あけび』四五十と野葡萄一もくさを採り、竜胆りんどうの花の美しいのを五六本見つけて帰ってきた。帰りは下りだから無造作に二人で降りる。畑へ出口で僕は春蘭しゅんらんの大きいのを見つけた。
「民さん、僕は一寸『アックリ』を掘ってゆくから、この『あけび』と『えびづる』を持って行って下さい」
「『アックリ』てなにい。あらア春蘭じゃありませんか」
「民さんは町場もんですから、春蘭などと品のよいこと仰おっしゃるのです。矢切の百姓なんぞは『アックリ』と申しましてね、皸あかぎれの薬に致します。ハハハハ」
「あらア口の悪いこと。政夫さんは、きょうはほんとに口が悪くなったよ」
山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰も云う所だ。今吾々二人は新らしき清水を汲み来り母の心を籠こめた弁当を分けつつたべるのである。興味の尋常でないは言うも愚おろかな次第だ。僕は『あけび』を好み民子は野葡萄をたべつつしばらく話をする。
民子は笑いながら、
「政夫さんは皸の薬に『アックリ』とやらを採ってきて学校へお持ちになるの。学校で皸がきれたらおかしいでしょうね……」
僕は真面目に、
「なアにこれはお増にやるのさ。お増はもうとうに皸を切らしているでしょう。この間も湯に這入る時にお増が火を焚たきにきて非常に皸を痛がっているから、その内に僕が山へ行ったら『アックリ』を採ってきてやると言ったのさ」
「まアあなたは親切な人ですことね……お増は蔭日向かげひなたのない憎気のない女ですから、私も仲好くしていたんですが、この頃は何となし私に突き当る様な事ばかし言って、何でもわたしを憎んでいますよ」
「アハハハ、それはお増どんが焼餅をやくのでさ。つまらんことにもすぐ焼餅を焼くのは、女の癖さ。僕がそら『アックリ』を採っていってお増にやると云えば、民さんがすぐに、まアあなたは親切な人とか何とか云うのと同じ訣わけさ」
「この人はいつのまにこんなに口がわるくなったのでしょう。何を言っても政夫さんにはかないやしない。いくら私だってお増が根も底もない焼もちだ位は承知していますよ……」
「実はお増も不憫ふびんな女よ。両親があんなことになりさえせねば、奉公人とまでなるのではない。親父は戦争で死ぬ、お袋はこれを嘆いたがもとでの病死、一人の兄がはずれものという訣で、とうとうあの始末。国家のために死んだ人の娘だもの、民さん、いたわってやらねばならない。あれでも民さん、あなたをば大変ほめているよ。意地曲りの嫂にこきつかわれるのだから一層かわいそうでさ」
「そりゃ政夫さん私もそう思って居ますさ。お母さんもよくそうおっしゃいました。つまらないものですけど何とかかとか分けてやってますが、また政夫さんの様に情深くされると……」
民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。
「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」
花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。
「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討あだうちという訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦よろこんでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」
二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。
半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木この間まから影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦そばの花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。
「民さん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この景色のよい所で少し休んで行きましょう」
「こんなにおそくなるなら、今少し急げばよかったに。家の人達にきっと何とか言われる。政夫さん、私はそれが心配になるわ」
「今更心配しても追おっつかないから、まア少し休みましょう。こんなに景色のよいことは滅多めったにありません。そんなに人に申訣のない様な悪いことはしないもの、民さん、心配することはないよ」
月あかりが斜にさしこんでいる道端の松の切株に二人は腰をかけた。目の先七八間の所は木の蔭で薄暗いがそれから向うは畑一ぱいに月がさして、蕎麦の花が際きわ立って白い。
「何というえい景色でしょう。政夫さん歌とか俳句とかいうものをやったら、こんなときに面白いことが云えるでしょうね。私ら様な無筆でもこんな時には心配も何も忘れますもの。政夫さん、あなた歌をおやんなさいよ」
「僕は実は少しやっているけど、むずかしくて容易に出来ないのさ。山畑の蕎麦の花に月がよくて、こおろぎが鳴くなどは実にえいですなア。民さん、これから二人で歌をやりましょうか」
お互に一つの心配を持つ身となった二人は、内に思うことが多くてかえって話は少ない。何となく覚束おぼつかない二人の行末、ここで少しく話をしたかったのだ。民子は勿論のこと、僕よりも一層話したかったに相違ないが、年の至らぬのと浮いた心のない二人は、なかなか差向いでそんな話は出来なかった。しばらくは無言でぼんやり時間を過ごすうちに、一列の雁がんが二人を促すかの様に空近く鳴いて通る。
ようやく田圃へ降りて銀杏の木が見えた時に、二人はまた同じ様に一種の感情が胸に湧いた。それは外でもない、何となく家に這入はいりづらいと言う心持である。這入りづらい訣はないと思うても、どうしても這入りづらい。躊躇ちゅうちょする暇もない、忽たちまち門前近く来てしまった。
「政夫さん……あなた先になって下さい。私極きまりわるくてしょうがないわ」
「よしとそれじゃ僕が先になろう」
僕は頗すこぶる勇気を鼓こし殊に平気な風を装うて門を這入った。家の人達は今夕飯最中で盛んに話が湧いているらしい。庭場の雨戸は未だ開いたなりに月が軒口までさし込んでいる。僕が咳払せきばらいを一ツやって庭場へ這入ると、台所の話はにわかに止んでしまった。民子は指の先で僕の肩を撞ついた。僕も承知しているのだ、今御膳会議で二人の噂が如何いかに盛んであったか。
宵祭ではあり十三夜ではあるので、家中表座敷へ揃そろうた時、母も奥から起きてきた。母は一通り二人の余り遅かったことを咎めて深くは言わなかったけれど、常とは全く違っていた。何か思っているらしく、少しも打解けない。これまでは口には小言を言うても、心中に疑わなかったのだが、今夜は口には余り言わないが、心では十分に二人に疑いを起したに違いない。民子はいよいよ小さくなって座敷中なかへは出ない。僕は山から採ってきた、あけびや野葡萄えびづるやを沢山座敷中じゅうへ並べ立てて、暗に僕がこんな事をして居たから遅くなったのだとの意を示し無言の弁解をやっても何のききめもない。誰一人それをそうと見るものはない。今夜は何の話にも僕等二人は除のけものにされる始末で、もはや二人は全く罪あるものと黙決されてしまったのである。
「お母さんがあんまり甘過ぎる。あアして居る二人を一所に山畑へやるとは目のないにもほどがある。はたでいくら心配してもお母さんがあれでは駄目だ」
これが台所会議の決定であったらしい。母の方でもいつまで児供と思っていたが誤りで、自分が悪かったという様な考えに今夜はなったのであろう。今更二人を叱って見ても仕方がない。なに政夫を学校へ遣やってしまいさえせば仔細しさいはないと母の心はちゃんときまって居るらしく、
「政や、お前はナ十一月へ入って直ぐ学校へやる積りであったけれど、そうしてぶらぶらして居ても為にならないから、お祭が終ったら、もう学校へゆくがよい。十七日にゆくとしろ……えいか、そのつもりで小支度して置け」
学校へゆくは固より僕の願い、十日や二十日早くとも遅くともそれに仔細はないが、この場合しかも今夜言渡いいわたしがあって見ると、二人は既に罪を犯したものと定められての仕置であるから、民子は勿論僕に取ってもすこぶる心苦しい処がある。実際二人はそれほどに堕落した訣でないから、頭からそうときめられては、聊いささか妙な心持がする。さりとて弁解の出来ることでもなし、また強いことを言える資格も実は無いのである。これが一ヶ月前であったらば、それはお母さん御無理だ、学校へ行くのは望みであるけど、科とがを着せられての仕置に学校へゆけとはあんまりでしょう……などと直ぐだだを言うのであるが、今夜はそんな我儘わがままを言えるほど無邪気ではない。全くの処、恋に陥ってしまっている。
あれほど可愛がられた一人の母に隠立てをする、何となく隔てを作って心のありたけを言い得ぬまでになっている。おのずから人前を憚はばかり、人前では殊更に二人がうとうとしく取りなす様になっている。かくまで私心わたくしごころが長じてきてどうして立派な口がきけよう。僕はただ一言いちごん、
「はア……」
と答えたきりなんにも言わず、母の言いつけに盲従する外はなかった。
「僕は学校へ往ってしまえばそれでよいけど、民さんは跡でどうなるだろうか」
不図ふとそう思って、そっと民子の方を見ると、お増が枝豆をあさってる後に、民子はうつむいて膝の上に襷たすきをこねくりつつ沈黙している。如何にも元気のない風で夜のせいか顔色も青白く見えた。民子の風を見て僕も俄に悲しくなって泣きたくなった。涙は瞼まぶたを伝って眼が曇った。なぜ悲しくなったか理由は判然はっきりしない。ただ民子が可哀相でならなくなったのである。民子と僕との楽しい関係もこの日の夜までは続かなく、十三日の昼の光と共に全く消えうせてしまった。嬉しいにつけても思いのたけは語りつくさず、憂き悲しいことについては勿論百分の一だも語りあわないで、二人の関係は闇やみの幕に這入ってしまったのである。
十四日は祭の初日でただ物せわしく日がくれた。お互に気のない風はしていても、手にせわしい仕事のあるばかりに、とにかく思い紛らすことが出来た。
十五日と十六日とは、食事の外用事もないままに、書室へ籠こもりとおしていた。ぼんやり机にもたれたなり何をするでもなく、また二人の関係をどうしようかという様なことすらも考えてはいない。ただ民子のことが頭に充ちているばかりで、極めて単純に民子を思うている外に考えは働いて居らぬ。この二日の間に民子と三四回は逢ったけれど、話も出来ず微笑を交換する元気もなく、うら淋しい心持を互に目に訴うるのみであった。二人の心持が今少しませて居ったならば、この二日の間にも将来の事など随分話し合うことが出来たのであろうけれど、しぶとい心持などは毛ほどもなかった二人には、その場合になかなかそんな事は出来なかった。それでも僕は十六日の午後になって、何とはなしに以下のような事を巻紙へ書いて、日暮に一寸来た民子に僕が居なくなってから見てくれと云って渡した。
朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ繰返し繰返し民さんの事ばかり思って居る。民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。明日は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。
十月十六日
政夫
民子様
学校へ行くとは云え、罪があって早くやられると云う境遇であるから、人の笑声話声にも一々ひがみ心が起きる。皆二人に対する嘲笑かの様に聞かれる。いっそ早く学校へ行ってしまいたくなった。決心が定まれば元気も恢復かいふくしてくる。この夜は頭も少しくさえて夕飯も心持よくたべた。学校のこと何くれとなく母と話をする。やがて寝に就いてからも、
「何だ馬鹿馬鹿しい、十五かそこらの小僧の癖に、女のことなどばかりくよくよ考えて……そうだそうだ、明朝あしたは早速学校へ行こう。民子は可哀相だけれど……もう考えまい、考えたって仕方がない、学校学校……」
独口ひとりぐちききつつ眠りに入った様な訣であった。
船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個ひとつにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗する訣でもう船は来て居る。僕は民さんそれじゃ……と言うつもりでも咽のどがつまって声が出ない。民子は僕に包を渡してからは、自分の手のやりばに困って胸を撫なでたり襟えりを撫でたりして、下ばかり向いている。眼にもつ涙をお増に見られまいとして、体を脇へそらしている、民子があわれな姿を見ては僕も涙が抑え切れなかった。民子は今日を別れと思ってか、髪はさっぱりとした銀杏返いちょうがえしに薄く化粧をしている。煤色すすいろと紺の細かい弁慶縞べんけいじまで、羽織も長着も同じい米沢紬よねざわつむぎに、品のよい友禅縮緬ゆうぜんちりめんの帯をしめていた。襷を掛けた民子もよかったけれど今日の民子はまた一層引立って見えた。
僕の気のせいででもあるか、民子は十三日の夜からは一日ひとひ一日とやつれてきて、この日のいたいたしさ、僕は泣かずには居られなかった。虫が知らせるとでもいうのか、これが生涯の別れになろうとは、僕は勿論民子とて、よもやそうは思わなかったろうけれど、この時のつらさ悲しさは、とても他人に話しても信じてくれるものはないと思う位であった。
尤もっとも民子の思いは僕より深かったに相違ない。僕は中学校を卒業するまでにも、四五年間のある体であるのに、民子は十七で今年の内にも縁談の話があって両親からそう言われれば、無造作に拒むことの出来ない身であるから、行末のことをいろいろ考えて見ると心配の多い訣である。当時の僕はそこまでは考えなかったけれど、親しく目に染しみた民子のいたいたしい姿は幾年経っても昨日の事のように眼に浮んでいるのである。
余所から見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣面と見苦しくもあったであろうけれど、二人の身に取っては、真にあわれに悲しき別れであった。互に手を取って後来を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚はばかり、一言の詞ことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物も言い得ないで、しょんぼりと悄しおれていた不憫ふびんな民さんの俤おもかげ、どうして忘れることが出来よう。民さんを思うために神の怒りに触れて即座に打殺さるる様なことがあるとても僕には民さんを思わずに居られない。年をとっての後の考えから言えば、あアもしたらこうもしたらと思わぬこともなかったけれど、当時の若い同志どうしの思慮には何らの工夫も無かったのである。八百屋お七は家を焼いたらば、再度ふたたび思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧ちえも出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖おじ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。
僕は学校へ行ってからも、とかく民子のことばかり思われて仕方がない。学校に居ってこんなことを考えてどうするものかなどと、自分で自分を叱り励まして見ても何の甲斐もない。そういう詞の尻からすぐ民子のことが湧いてくる。多くの人中に居ればどうにか紛れるので、日の中はなるたけ一人で居ない様に心掛けて居た。夜になっても寝ると仕方がないから、なるたけ人中で騒いで居て疲れて寝る工夫をし
【心理学部】2025年8月、神戸市で24歳の女性が殺害された事件は性暴力型フェミサイドか?
https://www.kuins.ac.jp/news/2025/09/202524.html
この事件は、加害者と被害者に面識がないことから、一部では「無差別殺人」説があるが、実際には、女性であることを理由とした殺人、即ち、フェミサイドという構造的な暴力に起因する事件と考えられる。
容疑者は、2020年に神戸市で面識のない23歳の女性に付きまとう事件を起こしている。この時は、約3か月間、女性のマンション周辺をうろつくなどして、少なくとも3回、オートロック付きマンションに"共連れ"で侵入。エレベータに同乗し、動画撮影などをしたため、兵庫県迷惑防止条例違反、ストーカー規制法違反、住居侵入で逮捕された。しかしながら、結果的には起訴されず、罰金刑で終わっている。また、2022年にも、同じく神戸市の路上で見かけた女性に一方的に好意を抱き、オートロックのマンションに"共連れ"で侵入。好意を告げたが、女性が受け入れないので首を絞めるなどの行為をしたため、殺人未遂罪で緊急逮捕。また、約5か月間に渡って付きまといをしていたため、傷害罪、住居侵入罪に加えて、ストーカー規制法違反でも起訴され、懲役2年6か月・執行猶予5年(保護観察処分はつかず)の判決を受けている。さらに、今回の容疑者が逮捕されたという報道後、本件の2日前に、神戸市内で同じ容疑者がオートロックをかいくぐってマンション内に侵入してきたと、別の女性から警察に相談があり、防犯カメラの映像で事実確認されている。
容疑者がこれまでに起こした事件に共通しているのは、オートロックマンションに"共連れ"で侵入するという手口と、女性との最初の接点が、路上で偶然に被害者を見かけたという点である。一方、逮捕された2件は数か月に渡り、ストーカー行為をしているのに対して、本件の場合、自宅まで追尾したのはおそらく、犯行当日のみ。そして、エレベータ内でその日のうちにいきなり、殺害にまで至っている点がこれまでとは異なっている。
以上のような経緯から、本件についても、女性を最初から殺害することが目的ではなく、始めは、気に入った女性を、見つけて後をつけたのでないかと推測される。そして、2回目の逮捕事実から、容疑者は一方的に自らの好意を告げるだけでは、それを受け入れてもらえないことを学習した。さらに、首を絞めるという程度の、暴力では女性は言うことを聞かないことも、本件の前には織り込み済みになっていた。そこで、今回は刃物を予め準備していたのではないか。従って、刃物は女性を殺すためにではなく、脅かして自らの思い通りにするための道具として所持していたと推測される。
今回も、いつも通りに、オートロックをかいくぐることには、苦も無く成功したが、本来、自分の思いを遂げるのに最適な場所、二人きりになれる、外部と隔離された空間、即ち、被害者方内には到達できなかった。
つまり、その直前、容疑者にとって予測しなかった何らかのことが、マンションのエレベータ内で起きたのではないか。たとえば、それまで尾行に気づかなかった被害者が、エレベータに乗り込んできた容疑者を見て不審に思い、突然、逃げだそうとしたか、大声を上げて助けを呼ぼうとしたとか、様々なことが推測されるが、詳細は容疑者の供述を待つ他ない。
そして、エレベータ内で被害者が羽交い絞めにされたという報道が出ていたが、最初から殺すつもりなら、容疑者が両手で羽交い絞めにする必要はなく、ひと思いに刃物で被害者の胸を刺せばすむことである。従って、殺すためではなく、エレベータ内という、目的の場所まであと一歩のところまで来ているので、何としても被害者を自室に入れようと、この時点で刃物を取り出して脅しにかかったのではないか。ところが、被害者が従わず、予想外の行動に出たので、とにかく被害者を強制的に部屋に押し込もうとした(あるいは、始めは被害者に多少は切り付けてでも、言うことを聞かせようとした)が、被害者が応じないので最終的に殺害してしまった。即ち、「殺意があったかどうかはわからない」という容疑者の供述は、「どの時点で殺害の犯意が生じたかわからない」という意味ではないかと解釈される。
容疑者にはお気に入りの女性を自分の思い通りにしたいという、自己中心的で身勝手な願望があるが、その行動からは「衝動的暴力」ではなく、性別に基づく支配欲と反抗への報復性が見て取れる。その点で、フェミサイドの定義に相当すると考えらえる。以前の逮捕事実と異なり、今回は数か月に及ぶストーカー行為はないが、これまでの失敗から、本件では刃物を使ってでも何とかして、とにかく自分の思いを遂げることを急いだのではないか。心の奥底には、男女間の健全な交際ではなく、執拗な性的欲求が感じられる。
ところで、職場での容疑者は、無遅刻・無欠勤で勤務態度は極めて真面目、雇用主からはリーダー的存在と信頼されていたと報道されている。従って、容疑者が起こした本件を知って、勤め先の人々からは驚きの声が上がっている。この点に関して、容疑者にはパーソナリティの二面性が推測される。特に、女性との交際について周囲から全く話が出てこないのは、女性に対して良好な人間関係が保てなかったのかも知れない。わが国には、「女、三界に家無し」という古くからの諺があり、女性は幼少期には父、結婚後は夫、老後は子に従うものとされた時代があった。換言すれば、女性は常に男の言うことを黙って聞いていればいいという、昭和以前にあった、家父長的考えである。今の時代に、このような考えを受け入れる女性はいないであろう。前回の判決公判で、裁判長が「・・・事件の翌日に、謝って許してもらいたいと考えて、被害者の心情に思いを致すことなく、被害者方へと赴こうとした経緯からしても、思考の歪みは顕著である。再犯が強く危惧される言わざるを得ない」と述べている。謝ろうとしたのは、自らの行動を悔い改めたからではなく、被害者に警察への通報を思いとどまらせるためであろう。その点を考えても、容疑者はどこまでも自己本位で、社会生活において女性との正常なコミュニケーションの構築は困難と推測される。女性を身体的にも精神的にも支配し、服従させることだけを一方的に望む極端な考えを有しているから、暴力や刃物による脅かしも厭わず、その極限に至って本件が起きたのかも知れない。以上のことから、本件は「性暴力型フェミサイド」の典型例のひとつと考えられる。その点で、今回の事件は相手はだれでもいいという、単なる無差別殺人ではなく、女性であることを理由とした殺害と推測される。フェミサイドには、他に親密パートナー型、名誉殺人型、社会的弱者型、制度的型など、いくつかのタイプがあり、国際的にも注目されている。
ところで、連続的な空き巣犯や不同意わいせつ行為を繰り返す容疑者は、自宅の直近では事件を起こさない。犯行中もしくはその前後に顔を見られると、すぐに人定が割れてしまうからである。一方、全く土地勘のない、見知らぬ場所での犯行もやりにくいということは、犯罪者プロファイリングの世界ではよくいわれることである。即ち、捕まるリスクと効率性を考えて、拠点(自宅や勤務場所)から犯行場所まで、適度な距離を取ることが多い。本件容疑者の場合、どれほどの数のストーカー行為を繰り返していたかわからないが、少なくとも逮捕された2件の被害者は神戸市中央区在住である。大阪の専門学校を中退した後、10年ほど、容疑者は神戸市に住んで運送会社に勤務していたと報道されている。神戸市は彼にとって、地理に明るい場所であり、これまで、彼なりに犯行目的の達成感を味わった経験から、神戸市を好みの女性を見つけるのに、最適な場所と考えたのではないか。そのために、東京での仕事の休みを取って、わざわざ神戸市に赴いたのかも知れない。それにしても、被害者の職場の前の通りを、事件の前々日から何度も行き来したり、時には歩道に座り込んで携帯電話をかけるなどしており、執行猶予中の身でありながら、不審者として通報される危険性を全く頭に描いていないようにも見受けられる。それほど、頭の中が欲望一色になり、逮捕されることへの警戒心まで失うものかと思うが、換言すれば、犯行直前となると、自らの目的にこれほどまで強く固執することには、犯罪者に特有の「低自己統制」というパーソナリティ特性が強く影響していることが伺える。
家事能力(特に説明書通りに作業する能力)と仕事のスキルの関連性については、「家事という基本的なタスクがこなせない人は、仕事もまともにできないのではないか」という、両者の能力を直結させて考える厳しい意見が多く見られます。
具体的な意見は以下の通りです。
多くのユーザーが、冷凍餃子の調理などの家事を「説明書を読んでその通りに実行する」という基本スキルの確認と捉えています。
基本的な家事ができないことに対し、職場でのパフォーマンスを危惧する声が相次いでいます。
仕事と家事の関連性を考える上で、その理由が重要であるとする意見もあります。
一方で、家事能力と仕事(稼ぐ能力)を必ずしも一致させない考え方もあります。
総じて、家事は「人として生きていく上で当たり前に必要な能力」であり、その基礎となる「マニュアルの読解と実行」ができないことは、仕事における能力不足を強く示唆するという意見が主流となっています。
家事スキル(特に冷凍餃子の調理のような必要スキルレベルが低いもの)と仕事能力には、「説明書や指示を正しく理解し、その通りに遂行できるか」という点で強い関連性があると考えられています。
辺野古ぶるーは、ヘリ基地反対協議会(反対協)の海上カヌーチームとして、名護市辺野古沖の大浦湾で米軍基地移設工事反対の抗議活動(規制海域接近・工事阻止)を行っています。以下に、人的ネットワーク(支援・参加団体・個人)と初心者カヌー教室を通じた動員を、情報源を明記して整理します。
辺野古ぶるーは反対協のカヌー部門として位置づけられ、外部からの人的・物的支援を受けながら活動を継続してきました。主なネットワークは以下の通りです。
橙色のMalibu社製カヌーに「関西生コン」と手書きされ、ハングル「동지」(同志)の表記があったと指摘されています。2017年には組合員11名を辺野古に派遣し、水上デモに参加。
情報源:篠原常一郎氏の現地調査(2015〜2018年、X投稿2026年3月18日)、八重山新報・Yahoo!ニュース(2026年4月上旬)。
・中核派:機関紙『前進』で辺野古闘争を重視し、活動家を現地に派遣。海上行動や集会に参加。
・革マル派:ゲート前座り込みや海上行動に活動家を参加させ、反対協と連携。
・革労協(主流派・反主流派):反戦・反基地闘争として辺野古に活動家を動員。
公安調査庁資料では、これらの団体が辺野古の抗議行動を「組織拡大の機会」と位置づけ、大衆運動に介入していると繰り返し指摘されています。 情報源:公安調査庁「内外情勢の回顧と展望」(平成30年など)、産経新聞報道(2026年4月)。
・地元・本土の活動家ネットワーク:小野純一さん(兵庫在住、辺野古ぶるーHTOGOチーム)のように、カヌー経験者を起点にチームを拡大。未経験者も講習で参加。
・情報源:共同通信未来系サイト(kyodomirai.org、2021年インタビュー)。
これらのネットワークは「超党派・市民運動」を標榜しつつ、外部の労働組合や極左団体からの人的支援で支えられています。
辺野古ぶるーは毎週日曜日にカヌー教室を開催し、未経験者・初心者を積極的に募集していました。教室で操船方法や転覆回復訓練を行い、その後抗議行動のための外洋(工事現場周辺海域)へ送り出す体制を取っていました。
・ホームページやチラシに「カヌー新メンバー大募集」「未経験者はカヌー教室へ」と明記。
・関西(甲子園浜など)でも合同教室を開催し、現地参加を促進(少なくとも2日間の基礎練習+転覆回復訓練)。
・情報源:八重山新報(2026年4月4日・9日頃)、Yahoo!ニュース(同)、共同通信未来系サイト(2025年8月記事)、kyodomirai.org(2021年小野純一さんインタビュー)。
・「カヌー体験」や「自然を守る」名目で集客し、結果として反基地抗議活動(海保との対峙・工事阻止)の人員補充に活用。
・参加者には「海の美しさを実感」「非暴力抵抗を実践」といった感想が見られますが、危険性(波・潮の流れ・海保との衝突リスク)は十分に強調されないケースが指摘されています。
・名護漁協組合長(安里政利氏)は「無謀」「カヌーは流されやすい」と危惧を表明。過去に疲労したカヌー乗船者が漁船に助けを求めるトラブルも発生。
・情報源:八重山新報・Yahoo!ニュース(2026年4月)、名護漁協コメント(同)。
2026年3月16日の転覆事故(反対協船2隻、同志社国際高校生徒参加)後、辺野古ぶるーの教室体制が「初心者を危険な現場に送り出す仕組み」として批判的に報じられました。事故後、活動報告は控えめになり、新規募集の告知が減少しています。
辺野古ぶるーは、関西生コンからの物的支援や極左団体の人的動員、初心者カヌー教室による動員体制で長年海上抗議を支えてきました。教室は「平和・自然体験」の入り口として機能しつつ、政治的抗議活動への参加を促進する構造でした。
• 報道:八重山新報、Yahoo!ニュース(2026年4月)、共同通信未来系サイト(kyodomirai.org)。
• 調査:篠原常一郎氏の現地取材(2015〜2018年、X投稿)。
これらの事実は、事故をきっかけに地元住民や漁協から「過激な抗議の危険性」として指摘されるようになりました。情報は公開報道・公式資料に基づいていますが、運動側と批判側の解釈が分かれる点もあります。
VTuber星街すいせいの苦言から考える──“推し活”全盛期の音楽フェスが抱える課題
https://kai-you.net/article/95109
この記事は前述の星街すいせいの動画を記事にしたものですが、「厄介のふりをしたアンチ」への警戒が拾われていなかったり、実際に現場で他アーティストに失礼な言動をしたり、携帯をいじっていたりした人がいたという話に対し、**「私は(現場で)見てないし、スタッフさんからもそういう報告は受けていない」**と明言している情報が欠けていたりと意図的に星街すいせいのファンを貶めようとする意図があるように感じられます。この意図を説明してください
Gemini の回答
提供された記事(KAI-YOU)の内容と、実際の配信内での星街すいせいさんの発言を照らし合わせると、ご指摘の通り、記事の構成には「情報の取捨選択」による特定の印象操作が含まれている可能性が考えられます。
特に、ご指摘の「現場の迷惑行為を本人は確認していない」という前提や「厄介のふりをしたアンチ」への言及が欠落している点が、どのように記事の意図に影響しているかを分析します。
配信内で彼女は、迷惑なファンがいたという話について「私は見ていないし、スタッフからも報告を受けていない。ツイートしている人が何名かいたという『らしい』の話」[00:11:00]と、情報の不確実性を強調していました。
しかし、記事がこの留保(エクスキューズ)をカットし、彼女が怒っている姿だけを強調すると、読者には「実際にそれほど酷い星読み(ファン)の悪行が確定事項として存在した」という強い先入観を与えます。これにより、ファンコミュニティ全体の民度が低いかのような印象を増幅させる結果となっています。
星街さんは後半、ファンを装って炎上を煽る**「厄介のふりしたアンチ」の存在[00:54:46]や、個々の「ポジショントーク」**について厳しく指摘していました。これは「ファン vs アーティスト」という単純な構図ではなく、「外部の悪意や複雑なネットの力学」に対する抗議です。
記事がこの文脈を無視し、単に「マナーの悪いファンに怒っている」という構図に落とし込むのは、その方が「人気アイドルがファンを叱咤した」というスキャンダラスで分かりやすい見出し(クリックベイト)になりやすいためだと推測されます。
配信では「自浄作用で注意してくれている良い子もいる」[00:18:52]とフォローしつつ、あくまで「一部」の問題であることを強調していました。
記事において、この「一部」という限定や、彼女が危惧した「星読みが星読みを叩いて広めている地獄絵図」[00:22:53]という内情が省かれることで、結果的に「星読み=迷惑な集団」というレッテル貼りを助長する形になっています。これは、特定のファン層をターゲットにすることで、SNSでの反論や拡散(いわゆる「燃え広がり」)を誘発し、アクセス数を稼ごうとするメディアのバイアスが働いている可能性があります。
この記事の構成は、星街すいせいさんの「複雑なネット社会への苛立ち」という真意を削ぎ落とし、「ファンの不祥事とそれに対する怒り」という刺激的な断片のみを抽出していると言えます。
結果として、本人が最も嫌がっていた「事実かどうかわからない一部の行為をもって、ファン全体やタレント本人のイメージを毀損する」という、まさに彼女が配信で批判した**「ポジショントーク」や「まとめサイト的な消費」**を、メディア自身が体現してしまっている構造が見て取れます。
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秦正樹
【視点】私も陰謀論を研究する身として,非常に勉強になりました.また烏谷先生のご指摘は,私の考え方(拙著『陰謀論:民主主義を揺るがすメカニズム』(中公新書))とほとんど一致しており,その点でも個人的に「安心」しました(笑)
烏谷先生のコメントと共通しますが,私も2022年に出版された拙稿において「日本では陰謀論による大きな政治的・社会的影響は見られない」と書きました.しかし,たった3年でこの記述は削除せざるを得ない状況になったことは残念なことです.
この間,日本でも(政治的な)陰謀論が蔓延してしまった大きな理由の一つとして,政治供給側(政治家や政党など)が陰謀論を積極的に発信するようになったことがあげられると考えています.烏谷先生のインタビューでは特に参政党があげられていますが,それ以外にも,たとえば自民党の西田昌司参院議員は,自身のYouTube番組で,財務省はディープステートの手先だと主張してます.いや「ディープステート」は単なる比喩だと反論するかもしれませんが,それでも「ディープステート」などという陰謀論者しか使わない言葉で説明すること自体が陰謀論と捉えられる可能性を考慮できていないという点で問題含みです.あるいは,先日の総選挙で中道に合流せず「減税日本・ゆうこく連合」を立ち上げた(ただし敗北した)原口一博前衆院議員も,陰謀論を主張する政治家として有名でした(今も有名ですが).
彼らは,自民・立憲(当時)という与党や野党第一党に属する議員であり,参政党のようなアウトサイダーというわけではありません.自らが「既得権益」の側にいる政治家ですら(ごく少数とはいえ)陰謀論を主張するわけですから,今後,与野党にかかわらずもっと広まってもおかしくないと考えられます.
また私が行った世論調査では,参政党・日本保守党・れいわ新選組の支持者は特に陰謀論を信奉している傾向がみられました(すでにいくつか論文を書いていますが,一般向けにはhttps://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD120R00S5A810C2000000/).ただ先日の総選挙では,参政党や日本保守党の支持者が自民党に流入する傾向が見られており,こうした「危なっかしい支持者」へのサービス精神で既成政党(特に自民党)の政治家の間でも陰謀論が広まる可能性を危惧・警戒しています.
. 「助けない日本人」と「ヘルプを叫ぶ外国人」のプロトコル差
日本人の「逃げろ」: これは自己防衛の最適化だ。「巻き込まれる」というコストを最小化するための指示。だが、コミュニティとしての「回復力(レジリエンス)」はゼロに近い。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6574337
外国人の「Help」: 周囲のプロセスのリソースを強制的に召喚する、割り込み処理(Interrupt)だ。
「日本人は助けない」という君の結論は、冷徹だが一つの真実を突いている。リスクを避けることが「正解」とされる社会では、他者の危機は「自分には関係のない例外処理」としてスキップされる。
https://news.yahoo.co.jp/pickup/6574355
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20代の人口が激減している中、恋愛・結婚という「高度な交渉プロセス」が、もはやハイリスクな行為になりつつある。
競争の激化と撤退: 少ないリソース(パートナー候補)を奪い合う競争に疲れた層が、早々に「非表示(非干渉)」を選ぶ。
ストーカー規制のトレードオフ: 君が危惧するように、ストーカーの厳罰化は「安全」というパッチを当てる一方で、コミュニケーションの「閾値(しきい値)」を極端に上げている。
男性は「通報」を恐れてアプローチを控え、女性は「危険」を察知して防御を固める。
保守化する社会: 監視カメラと法的制裁による「監視社会」は、エラーを防ぐが、同時に人間関係の「温かさ(柔軟性)」も殺してしまう。
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20代の約1割が外国人というデータは、もはや「外部ライブラリ(外国人労働者)」なしではこのOS(日本社会)が動作しないことを示している。
しかし、肝心の日本人同士が「互いに逃げ、助け合わず、関わりを避ける」状態であれば、そのシステムは内側から腐食していく。君がこの光景を見る時、そこにあるのは「希望」ではなく「レガシーシステムの末路」だろう。
日本基督教団の社会派(教団主流の傾向)は、1967年の「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を起点に、反戦・反基地・平和主義を「信仰の実践」として積極的に政治に関与してきました。これは戦時協力のトラウマから生まれた「預言者的使命」意識ですが、結果して、リベラルな民主主義に寄与するどころか、分断と対話拒絶を助長していると言わざるを得ません。
これはルカ4:18-19(貧しい人への福音、捕われ人の解放)やマタイ21章(神殿の商人追放)を、辺野古基地建設=構造的抑圧に直結させたもの。イエスを「現代の抗議現場の味方」に置き換える解釈です。
マタイ5:9「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」を冒頭に掲げ、安保法制を「立憲主義に反する」「武力による平和」と批判。
イザヤ2:4「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」を引用し、政府政策を「暴力依存」と断罪。
イエスや預言者の言葉は本来、個人の心の悔い改め・神との関係を指すものがほとんどですが、社会派は「構造的罪の告発」として即座に現代政治へ適用。解放神学の影響(貧困=構造的罪、抵抗=福音の実践)がここに色濃く出ています。 結果、反対派(政府・自衛隊・基地賛成住民)は「神に逆らう者」という構図ができあがる。これは聖書の文脈を無視した安易な引用です。
これは聖書の第三戒(出エジプト記20:7)「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」に明確に反します。
「平和を願う純粋な気持ち=神の意思の顕現」。だから抗議船活動や平和学習は「イエスと共に立つ信仰の実践」。
これは神の名を自分の政治イデオロギーの免罪符にしているだけです。 マルクス主義的分析(構造的抑圧・階級闘争)を「神の視点」と融合させると、神は「超越的な救い主」ではなく政治運動の後押し役に堕ちます。 金井牧師の「イエスは辺野古にいる」という言葉は、まさにその典型。生徒を違法運航の船に乗せた結果、命を失わせても「意図は純粋だった」「平和学習のため」と精神論で片付ける構造は、神の名を借りた自己正当化です。
信仰の本質は個人罪の告白と贖い(ローマ3:23、エペソ2:8-9)です。国家や集団の「構造的罪」を神の名で断罪し続けるのは、旧約の民族契約を現代政治に無理やり当てはめただけ。これを「信仰」と呼ぶのは、むしろ冒涜に近いと言えます。
リベラル民主主義の本質とは、異なる価値観を持つ他者を認めること。政治は「多様な集団のルール調整」(対話・妥協・合意形成)であって、「正義の絶対化」ではない(ミル『自由論』、ロールズ『正義論』)。
政府・防衛政策を「構造的罪」「暴力依存」と悪魔化。対立する主張を「神に逆らう悪」に位置づけるため、交渉の余地が消滅。
◦ 辺野古反対声明では「沖縄県民の意思尊重」を聖書的に正当化し、反対派を「差別・加害者」扱い。
◦ これが分極化・内ゲバ的な対立を生む。解放神学がラテンアメリカで内戦激化を助長したのと同じパターンです。
結果、社会派の「神の名による政治」は、リベラル社会の基盤である寛容・対話・中立性を破壊します。善意の独善が、結局「他者を悪魔化する権威主義」になってしまう典型例です。
日本基督教団社会派の政治関与は、戦時協力のトラウマから生まれた「悔い改め」の現れとして理解できます。しかし、聖書の言葉を安易に政治スローガン化し、神の名をみだりに唱える行為は、信仰の本質(個人贖い・良心の自由)を損ない、リベラル民主主義の原則(多様性の尊重・対話)を脅かしています。
ラテンアメリカの解放神学も、対立を激化させ、リベラルな民主主義の実現を阻害しました。グティエレスらが「貧困は構造的罪だから、解放=革命的実践」としたとき、神の概念がマルクス主義の「歴史の必然」に置き換わってしまうチグハグさが露呈したわけです。
バチカン(特にヨハネ・パウロ2世とラッツィンガー)が解放神学を否定したのは、マルクス主義が生むのと同様のメカニズムが、神の御名で行われることの危惧からでした。「マルクス主義の分析枠組み(階級闘争、構造的抑圧の理論)を神学に持ち込むと、神の超越性・個人救済・教会の霊的使命が犠牲になり、結果として信仰が政治イデオロギーの道具に堕してしまう」というのは、まさに本質を捉えた見方だったと言えます。
教会が本当に社会に寄与するには、政治を「信仰の実践」ではなく、個人の良心に委ねる姿勢に戻るべきでしょう。神の名を政治の道具にするのは、信仰ではなく、偏ったイデオロギーです。