はてなキーワード: 日暮とは
冬の朝、風冷たく、目覚むるもまどろみたし思いにて布団にくるまりたり。されど腹の鳴る声に負けて、ついに起き上がり、家を出でぬ。コンビニへと向かい、温かき肉まんと、甘き缶コーヒーを買い求めたり。これぞ、冬の日の小さき幸せなり。
日は進みて、友とともに電車に乗り、夢の国、ディズニーランドへと参りたり。入るやいなや、華やかなる飾り付け、そして聖夜の音楽、心を踊らせぬものなし。ミッキーの姿を見つけ、手を振りたり。子どもたちの笑顔、これまた尊く美しきかな。
昼餉には、チュロスを手に取り、歩きつつ頬張りたり。甘さ広がりて、寒き風も気にならず。アトラクションに乗らむと列に並ぶも、その待ち時間さえ楽しきものと化し、友と語らい、笑い合いぬ。
日暮れには、城に灯るイルミネーション、眩しき光を放つ。パレードの煌めきは夢の如く、現世の憂いを忘れさせぬ。打ち上がる花火は夜空を彩りて、歓声は天地を震わせたり。
かくして、帰路につく頃には足も疲れぬれど、心は満ち足りたり。電車に揺られつつ、今日の日の思い出を胸に刻みぬ。これより風呂に入り、体を温め、心地よき眠りにつかむとす。
斯く語り綴りて、ここに筆を置くなり。
『チキタ⭐︎GUGU』
孤児の少年チキタは他人の厚意に甘えつつギリギリなんとか一人暮らしをしていたが、突然人喰い妖怪ラーが家に住みつき飯を作ってくれるようになる
ラーはチキタが赤子の頃に両親と祖父母を食い殺して孤児の身に追いやった者だが、チキタだけは特異な体質を持つが故に生かし、一定期間肥育した後に食うのだという
その日暮らしのチキタは、いずれ食われるとしても当分の飯をもらえるならとゆるくラーを受け入れる
ラーの不思議な能力に影響されてチキタの成長は止まり不老不死の身となった
一定期間とは100年だ
チキタの支援をしてくれていた一家の娘はチキタと同い年であったが、彼女は幼いままのチキタを置いて年頃に育ち、遠くへ嫁いで行く
「同い年なのにいつもお姉さんぶってきてたけど、今じゃ本当に歳の離れた姉弟にしか見えないだろうな」と見送りながらチキタはつぶやく
ラーの姿は不定形で男にも女にも動物にも気まぐれに姿を変えるが、共にいるうちチキタは実の両親を食い殺したラーを家族のように思う
100年経って食われてあげることを夢見る
ラーは強力な妖怪だが、実は更に強力な術者が人間に術をかけて生み出した存在だった
その術者は不老不死だったが人生に満足しきりもうなにもいらないと悟ったことでじきに自然死するようになっていた
ラーは生まれつき両手足と皮膚がない、赤黒い奇形の赤ん坊だった
まともに生きられないので哀れまれ術をかけられたが、解けた今は本来の運命通りに死んでいくしかなかった
ラーが人喰い妖怪となったのは食わないと生きられない体というわけではなく、ただ健常者への嫉妬で貪っていただけだった
チキタはラーを愛しているので赤黒い奇形の姿に戻っても必死で介護をした
臓器もまともに形成されていないので、給餌しても吐くか下痢かで栄養を受け付けず、体は常に汁を垂らしラーは苦しみ抜いた
チキタは一日中洗濯しては清潔な白い布をラーにあてがうが、滲出液ですぐにカピカピになってしまう
今手荒れがひどいからこのくだりをすごく思い出す
もう本当に皮膚科行かないとな
分析した結果
・エロ
・酒
・旅行
・外食
・車
・趣味
この話を他人にしたら「そこまで節約して何がしたいの?FIRE?」とか言われそう。
つーかそもそもなんで皆そんなにバカバカ金を使いたがるのかが不思議だ。
貧乏に負けずに頑張ってほしい。
でも遠距離恋愛でやたら金かけてる人とか彼女に格好つけるために高い車とか買いたがる人はちょっと考えたほうがいいと思う。
風俗1回で万使うとか、飲み屋で調子に乗って万使うとかの生活は普通の人がやるべきじゃないと思う。
そういうのって高給取りの人が考えるべき選択肢であって普通の人はスルーするべきだと思う。
毎晩晩酌してるとかは金の使い方ってよりも体や人生の使い方的にヤバイと思う。
一日暮らせるぐらいのお金を一回の食事に使うとか、10日暮らせるお金を3日の旅行で使うとか、そういった行為を選択することがたまにあった方が人生は豊かになるとは思う。
アイドルの追っかけとかで全国飛び回ってる人とかは本当に人生を賭けてるんだなって感じるわ。
車やファッションについては給料相応よりも少し下ぐらいにしておかないと今の物価高だと思わぬ出費になってくと思う。
俺みたいに軽の中古車やしまむらで満足するのは流石にケチ臭いと思うんだが、ちょっと良いものをって考えると途端に値段が跳ね上がる割にはQoLへのコスパが低い気がしてならん。
金がないのに下手に上を目指すと見た目は立派だけど品質は伴ってないものを掴まされるリスクが増えるのも怖いかな。
そしてなんだかんだで金の使い道に直結するのが趣味に対しての立ち位置だよね。
俺は読書は図書館、映画はサブスク、漫画はアプリ、ゲームは無課金もしくはレゲー漁りっていう貧困層しぐさで割り切ってるけど、ここからワンランク上げるだけで途端に金が飛ぶのが怖いね。
新書や漫画をバンバン買ったら毎月金は消えるし、映画は1回2000円、ゲームも毎月新作買ったら万+本体、ガチャなんて回したらいよいよとんでもない。
一個一個は小さくてもボディーブローのように重なって年間で50万ぐらいの出費になったりするんちゃう?
まあ逆に言えば、俺は好きなものに対して年間50万ぐらい金を出し渋ってる半フリーライダーみたいなもんなのかね。
ゆーて業界全部焼け野原になった所で俺はゴッフィーや5chで時間潰すっていう最終手段が残ってるんだから自分の生活優先で貯金に回させてもらうわん。
うん。
やっぱ人に内情を話すべきじゃないな。
「親戚に大きな病気をした人がいて、その人が貯金したほうが良かった~~~と毎年正月に言ってくるからなんとなく貯金するクセがついてるんですよね~~~」みたいな感じにでもしときゃええんかな。
いやまあ事実なんだけどさ。
ぶっ倒れた時に税金払っても300万残るなら「ひとまず1年は持つからその間に立て直そう」って思えるし1000万円あったら「ひとまず3,4年」ってなるわけで、それが30万円とかだったら途端に親戚に頭下げて匿ってもらうとか考えないといけなくなるのがしんどいなーって考えちゃうのよね。
金の万能さに対して、金をジャブジャブ払った所で得られる対価が弱すぎる気がしてならん。
満点の候補者なんてそうそういないとはいえ、自分が選挙権を得てから今までずっと積極的に一票を投じたくなる候補者がいなかったので毎回「一番当選してほしくない人に勝てそうな人」に入れてる。
で、今回。
国民民主の新人(当選)…この人に入れた。本心としては最近の国民民主を見てると若者層の方を向いたポピュリズム政党っぽく見えてたのであまり入れたくなかった。ついでに選挙期間中の雨の日暮れに子供たちを連れ歩いてた映像も印象悪かった。男性だろうと女性だろうと誰かの親だろうと立候補するの全然いいと思うけど子供をアピールの道具っぽくしてるのは政党や思想に関係なく苦手。肩書から想像できる経済的、社会的ポジションを考えると預けられなくて仕方なく連れ歩くしかない環境の人にも見えなかったから余計に。ただ上記のスタンスの通り自民前職に今回は落ちて欲しかったから入れた。そんだけ。チラシとか選挙公報は読んだけど正直言ってこの人に何か期待してるわけではない。
自民党の前職(落選)…元々何やってんのか知らないし、選挙の時だけちょっと顔出してくるおじさんくらいのイメージしかなかった。今回から選挙区に含まれなくなった地元ではどうだったか知らないけど。何してんのか全く分からないから総務大臣になった時も「なんでこの人が大臣になれたんだろう?」としか思わなかった。その程度のところに裏金・文化発言・大臣更迭でなんか残念な人だなって思ったし、選挙期間中に見たチラシには自分の不祥事について全然言及しないくせに「再始動!」とかキャッチフレーズつけてて有権者のこと馬鹿にしてそうだったから票入れたくないし落ちてほしくなった。あと調べたら総裁選で高市氏支持だったから思想的にもちょっとアレな感じ?(靖国参拝とか明治〜戦前くらいまでの短い伝統とかが好きそうなタイプ?)って思うとやっぱり無いわーってなった。ちなみにガソリンの人がいた時はガソリンの方が嫌いだったからこの人に入れてた。僅差で負けてた。
共産党の新人(落選)…共産党自体が嫌いだし、落としたい候補に対抗するパワーもどうせないから興味なかった。
まあ愛知7区は子育て層に人気・子育て層を呼び込みたいベッドタウンしかない選挙区だし今の状況なら多分国民民主の人が勝つだろうと予想したし実際そうなった。しかしまあ毎回微妙な人しかいないね、この地域。
私は誰しもがそう望むように幸せになりたいと思っていた。それは我々の権利でさえある。しかしそれは法で定められなくてはならないほど、私たちに縁遠いものなのかもしれない。例えば社会的地位、経済的余裕、暖かな人との繋がり、夢や希望をこの地であくまで追求すること──。
これは生活に追われて疲れ果てたある女の手記だ。私はこんなくだらない文章を書くほど暇なのだ。それは決してゆとりではない。それに真実でもない。「何もすることがない」というのは恐怖なのだ。自分自身、もしくは人生の虚無と向き合うはめになる。それならこうやってスマホの白い画面に黒字を打ち続けるほうがよっぽどマシなのだ。
私はつねに漠然と死にたいと願っている。先に告白しておこう。私はうつ病者だ。だから歪んだ世界に生きている。そして発達障害(当事者)でもある。私の目に見えるものは本来の姿を留めていないのかもしれない。私は何重にも孤独なのだ。恋人も友人もいない。私は一人だ。いや、少なくともいま現在はと付け加えよう。
私には子どもが一人いる。
まだ幼い、母親の庇護を必要とするか弱い存在だ。私の苦悩の全般は子育てに起因するように思う。人より劣る私のような人間にはそもそも育児など不可能だったのだ。すでに夫だった(それ以前は恋人だった)男とは離別している。「孤育て」とは誰の造語かは知らないが、なんとも言いえて妙だ。
私の人生で誇れることがあるとすれば、それは離婚だ。自分で考え自分で行動し自分で決着を付けた。そして学びを得た。「私のことを粗末に扱う人間とはもう関わらない」夫はいわゆる“モラハラ”体質だった。デートDVもあった。でも私は気付けなかった。それを理解したのは最近のことだ。ということは私にもそれなりの成長があったのだ。しかし、もっと早くに気付いていれば傷は浅かったし、それから、それから、息子を産まずに済んだのだ。
私が心を病んだのは十代の頃だ。夫と出会う前だ。だから全面的に彼を非難することは出来ない。初めて行った産婦人科で、エコー写真を見た。モノクロのテレビ画面に不思議な抽象画のようなものが映し出された。そして写真を撮るカチッとした音が響いた。それで私にも分かったのだ、この腹のなかに何かが居るのだと。動揺して頬にしずくが伝ったのを覚えている。真っ白で消毒液臭い古びた院内。私にとって希死念慮は懐かしく親しみ深い欲求だ。だからこの一連の愚かで頓馬な騒動のなか、私は一つの結論に達した。つまり、子どもが産まれたあとに自殺しよう、と。私のその願い(この人生を終わりにしたい──)と胎児とはなんの関係もない。巻き込むにはしのびなかった。その程度の理性は持ち合わせていると自負している。
だが私は当初男に中絶を訴えた。私はまだ“女の子”でいたかったのだ。くたびれた子持ち女になるなんて、とんでもないことだ。子どもなんていらない、私には夢がある、そんな責任背負えない──などなど、私は空回りする言葉を口にした。男は泣いて反駁した。絶対後悔させない、幸せにする、土下座してもいい……。いずれにせよ上っ面な言葉が二人の間に投げ交わされた。その中で、男の涙も出産を決意した理由の一つになった。私たちの深刻で感情的な会話は回転寿司屋で耳目を集めた。あの人が泣くのを見たのはあれが最初で最後だ。希望のない結婚生活はすぐさま破綻し、ただの狂女と化した私を男は見切った。離婚は合意によるものだった。結婚は、結婚はといえば寄り切られただけだ。それに実家では死にたくなかった。「家」から出るための判断だったと今になって思う。
そして母親から望まれなかった子どもは今や四歳になる。つまり私は死ねなかった。ひどく臆病なのだ。だらだらした生を送り、日々は過ぎ去り、私は今日もただ生きているという苦痛に耐える。
16時半になると息子が帰って来る。彼には発達特性があり、療育と呼ばれる困りごとを抱えた子どもたちを支援する施設に通っている。青い車に乗った彼はたいていはご機嫌で帰宅する。そして「今日のご飯は? なんのおやつがある?」などと訊ねる。その都度私は答える。どうでもいいことを、どうでもいい感じで。
私たち親子をこの先待っているのはなんだろう、とふと考える。私の予想では、息子はグレるか引きこもるかのどちらかだろう。“軽度の発達遅滞”──、医者の言った言葉だ。
私が憂うのは──、また興味を惹くのは、私たち家族が年々機能不全家庭に成り下がってゆく事実だ。
曾祖母は戦争で夫を亡くしお茶お花の教室を開いては子ども二人を育て上げた、祖母は家業と家事育児を両立させ手作りの洋服を娘らに着せていた、私の父は男手一つで私を曲がりなりにも成人させた。では私はどうなのだろう。三十路の子持ち女、気ままなパート通い、充実した福祉政策にすがってその日暮らしをしている。闘病中だから仕方ないでしょ、が最大の言い訳だ。もちろん私は合理的配慮の必要を認める、国だってそう言ってる。だが私の怠惰と甘えはとどまることを知らず、日に日に心身が肥大していくのだ。もはや若くもなく、痩せてもいず、まぶたに色を添えるでもなく、唇はささくれだっている。元夫が愛した頃の可愛らしい私などとうに消失した。ミニスカートを履くことも今後この人生にはないだろう。
だがこの点において私は絶望していない。若さゆえの唯美主義とは残酷なものだ。それを脱して豚になるのだっていいだろう。“おばさん”にはセクハラも痴漢も起こり得ない、少なくとも私はそう考える。
閑話休題──と打ちかけて気付いた。この文の本論はどこにあるのだろうか。私の人生を言葉の力を借りて小説にし美化するため? それはそれで良いだろう。だが打開策にはならない。私は毎朝ダブルベットからのろのろと起き上がり息子を登園させる、夕方になれば電話が鳴り息子をアパートの外で出迎える。その間は私一人だけの時間だ。支援職の人々は「ゆっくり休んでください」と口を揃えて言う。でも物事を複雑化して自作の迷路に一人で迷い込んでゆくのは私の大得意だ。つまり安息などない。私は息子の帰宅を恐れる。逃げ出したいと思う。実際逃げ出したらどうなるか綿密に考えてみる。それもいいと時々思う。でもだいたいは「居続ける」ことを選ぶ。人生においてもそうだ。やめようか、どうしようか、でも面倒ごとは御免だ──結局私は生き続けることを選んで来た。それが正解だったのか、正しい判断なのか迷う。安易に出せる分かりやすい答えにはさほど価値がないように思う。あらゆる人間関係のなかで悩み苦しむこと、その明快な人生の定義を思い浮かべる時、もしかしたら私は幸福なのかもしれない。
2024/08/27 18:28
私はこの時をずっと待っていた。
船内は明らかに混乱していた。その証左に、私たち囚われ人の前に今朝から一度も奴らは現れていない。いつもは日が昇ると同時に私たちは奴らに鞭で追われて甲板に上がるのだが、今日はもう日が暮れようとしている。
もちろん、昨日から船がどこかの港に停泊しているということもあるのだろう。奴らの人数も、いつもが十だとしたら二か三くらいしかいない、そのような気配が感じられる。
折り重なるようにして寝ている私たちを、常に狙っていた火を吹く黒い筒も、据えられた台座の横にいるはずの者がいない。
私たちはあの黒い筒のと交換で、この船に押し込まれ、囚われの身となった。私たちとの争いに勝った部族の王は、降伏した私たちを奴らに引き渡して、あの人殺しの筒を買ったのだ。
私たちはずっと鎖で繋がれ、太陽の出ている間はろくな食い物も水も与えられず労務を課せられた。怪我人や病人は放っておかれ、その程度が重ければ海に捨てられた。そして日暮とともに船の底のほうの暗い場所に押し込まれ、繋がれたままほとんど眠れない夜を過ごした。
私も例外ではなかったが、一つだけ違うのは、足首に繋がれた鉄の輪が開くようになっていたことだ。最初に鍵をかけ忘れたらしい。
しかし私はそれに気づかないふりをし続けた。いつでも自由に走り出せると知っていながら、走り出しても撃ち殺されない時を待った。
目の前で何人も仲間が死んだ。病で。空腹で。極度の渇きで。奴らによる無意味な虐待で。犯された後に殺された男児もいた。
しかし私は足首の輪を外さなかった。歯を食いしばりながら、そこにある自由を見過ごし続けて時を待った。
そしてようやく、その時が訪れた。
奴らが「セントクリストファーネビス」と呼ぶ、この港に着いて一昼夜が経ち、明らかに奴らは何か別のことに気を取られていた。今日一日を日の当たらない船底で過ごした私は、漏れくる陽光の傾きと弱まりから日暮が近いのを知る。
完全に暗くなっては行動ができない。
奴らよりは夜目が利く私は、黄昏を待ってついに足輪を外す。まずは私と二人一組として繋がれていた男に、声を出さないように促しながら、行動開始を合図する。
そこからは今日一日かけて事前に打ち合わせしたとおりに事が運んだ。大きな物音を立てて番人をおびき寄せ、待ち構えた私たち二人で声が出ないように縊り殺し、鍵を奪って皆を自由にする。
甲板に登ったところで金網と棘の張り巡らされた壁があり、黒い筒を持った奴らが待ち構えているだけなので、私たちは船体の横腹に穴を開けて海へと直接逃げ込んだ。私たちの部族は幼い頃から泳ぎを学んでいることもあり、八十と六人全員が、雲を通す薄い月明かりの下、岸までたどり着くことができた。
その後は走った。街を離れ、ひたすら高い場所を目指して、首まである草地の中を走り続けた。船の方を振り返っても幸い気づかれた様子はなかったが、私たち皆は喜びに満ちた疾走をしばらくは止めなかった。止めたくなかった。
満月が雲から顔を出し、この島を照らし出す。私たちは島の全てが見渡せる高みにいた。遠く、忌まわしい船が見える。月が港の水面に映っている。
私たちはこの島で生きていくことになる。勝手のわからない新天地での暮らしは、簡単には安定しないだろう。しかし今私たちが成し遂げたことに比べたら大したことはないはずだ。もし奴らが私たちをもう一度捉えようと襲ってきても、今度は闘い、退けよう。
興奮が高揚に変わり、やがて静かに幸福感を噛み締め始めた頃には、私たちは自分がひどく疲れていることに気づいた。
年老いた者、幼き者から順に眠りにつく中、私はまだ立ったまま船のほうを見下ろしていた。
突然の轟音。大きな岩同士がぶつかるような音。
音のしたほうを見ても、何もない。正確には月の映った港の水面しかない。
音は一度止んだが、今度は岩と岩を擦り合わせる、悲鳴のような音が鳴り出す。大きく硬いもの同士が押し合ってお互いを破壊しようとしているような、破局的な音。
目を凝らすと、港の水面の端っこに映っている月が、岸を少しずつ削るようにして水面を拡げているように見える。ただの水面に映った影がそんなことができるはずがないのだが、そうとしか見えない。
やがて削られた岸は暗い淵のように開いていき、ある瞬間に突如港の水を飲み込み出した。
水は滑り落ちるように「淵」に落ちていき、引きずられるように港にあった船も吸い込まれていく。私たちを運んできたあの船も。
全ての水と船を飲み込むと、淵はいつの間にか消え、水面が無くなったことで月も空にしか存在しなくなった。
やがて月に変わるように太陽が空に現れた。
私たちは出口を見つけられたのだ。
「セックスってお前、あれは変な格好を女にさせるだろ?」
イズミルがまた猥談をし始めているが私はほとんど聞いていない。それどころではないのだ。
「向かい合ってするとカエルみたいな格好をさせちまう。だから俺はぶち込む時は後ろからって決めてんだ。犬の格好になるから。カエルよりは犬の方が生き物として”じょうとう“だそうじゃねぇか。そうだろセンセイ?」
ドクターは苦笑いしている。俺は「そん時はお前も腰をヘコヘコ動かしてずいぶん変な格好をしてるんだが」と思うが口にはしない。イズミルは止まらず「なぁ、こう見えてセンセイはセックスではすげぇんだぞ。俺は知ってますよ、センセイがアムステルダムのぜんぶの娼館で出入り禁止になってるってね」と言ってドクターにいやらしい笑みを浮かべる。そのネタだけで何度女を奢ってもらおうとするんだ、この男は。
しかしドクター・サイモンも実際のところかなりの好きもので、日暮れを待ちきれぬようにしてイズミルと連れ立って裏口から宿を出て行った。
船員の中で俺とギジェルモだけがかつてここに、いや、「セントクリストファーネビスに」来たことがある。
ここはそもそも双子島だったはずだ。しかし俺たちが入港した島は完全なる孤島だった。海は穏やかで空も晴れていて視界は良好だったのにだ。俺とギジェルモは入港を止めるように進言したが、先般の嵐で肉体的にも精神的にも疲れ切っている船員たちを慮って船長は入港を決めた。
そしてその港。一見ごく平和で居心地も良さそうに見え、見覚えのある景色もあるのだが、全てが少しずつおかしい。
まずは住民の目だ。元々知的とは言い難いが好意と好奇心をもって外国船に接していた彼らの目は、愛想を表現するどころか視覚が機能しているかもわからない、ただの暗い穴となっている。ここの言葉に詳しいギジェルモが話しかけても、あらかじめ教えられているかのような必要最小限の応答だけを、俺たちの言葉で返す。きれいな発音で。不便はない。むしろ諸々の交渉は楽に進んだが、障害がなさすぎて気持ちが悪い。
この宿も変だ。俺は宿に入る前に船から下ろした羊と鶏を裏手の庭に連れていった。その時に建物をぐるりと回ったのだが、中に入ってみると明らかに広すぎる。間口が35歩、奥行が25歩くらいしかなかったはずだ。長く延びた廊下の長さは50歩ではきかないだろう。しかもその両側にいくつも扉があり、それぞれの扉の奥にはここのような広い部屋が配置されている(と思われる)。廊下の様子を思い出すと、扉同士の間隔とこの部屋の広さも矛盾していたように思う。
入港時に感じた違和感、この宿の扉をくぐる時に感じた違和感、そしてこの部屋に入る際に感じた違和感。全て似ている。首筋を死んだ獣の毛皮で撫でられるような。恐怖と警戒心と、ほんの少しの陶酔を与えるような。
ドクターとイズミルは、裏庭につながるであろう廊下側とは逆の出口から出ていったが、果たしてそれは本当に外につながっていたのだろうか。俺は裏口の戸を開いてみる。
平和な風景に俺はほっと息を吐いた。さっき放した羊たちが草を喰み、鶏は久しぶりの地面を確かめるように無意味に駆け回っている。
と、一羽の鶏が卵を産み落とした。
瞬間、卵は見えない手にに拾い上げられるように宙に浮き、ペしゃりと音を立てて潰れた。空中から卵液が滴り落ち、殻がポロポロと地面に撒かれる。俺と同じようにその光景に驚いた一頭の羊が駆け出して、さっきこしらえた簡易柵を乗り越えた、と同時に前足と頭、後ろ足と尻尾が逆方向に回転し、哀れな家畜は空中で捻り殺された。
俺は咄嗟に戸を閉め、騒ぐ羊と鶏たちの声ごと締め出すようにして、戸を背に立ち尽くす。
どころか、俺が今まで知っている世界でもない。
ここにはおそらくルールがある。俺の知っている世界とは別のルールが。
それを俺は理解しないといけない。できるだけ早く。手遅れにならないうちに。
冬になれば、森の中で、うまくて冷たい空気が流れている中自由に歩き回れて、最高だった。川の表面は完全に凍ってるから、これまた自由に歩き回れる。ある程度高いところから滑っても夏より痛くないし、汚くならない。やぶも漕がず、ダニがおらず、羆が恐ろしくない。かんじきやクロスカントリースキーがあれば、苦労せず行き来できる。寝転がって、頭上の木に小さい鳥がとまる。
春になると山菜が出るから、それを取りにまた山の中に入る。崖を上って、街から出てくる半端者では取れない場所にあるうまいやつを探す。すべてが泥まみれで、土のにおいが一番強い。地面がふかふかになる。白樺が水を吸い上げ始めるから、幹に穴をあけて樹液をとる。子山羊が生まれる。
夏は山が青く見える。春の間は、すべて薄い膜がかかったように見える、もちろん空が柔らかい色合いだが、夏は深い青に戻る。すべて青みがある。川の色も美しくなる。太陽が高くなり、透明度が際立つ。泳ぎに行けば、濡れたところにだけアブがたかり不快だ。川は流れが速くて、あまり遊べない。まっすぐな道に逃げ水と陽炎が目立つ。朝の気温が過ごしやすくて、散歩が一番いい。セミや鳥がとにかくたくさんいて、たくさん鳴いている。
秋はドングリがたくさん落ちる。歩道が全部どんぐりになって、歩きにくい。日に日に冷たくなって、異常に乾燥を感じる。日暮れ時の空気が、冷たすぎて鼻の奥が痛くなる。自転車に乗ったときの手がつらくなっていく。雪が降り始めるまでが一番きつい。歩道の枯れ草が邪魔だ。イタドリが枯れ木のように立っている。なんとなく、彩度が落ちる。雪が完全に降ってしまえば、白くなり、静かになる。
例えばホームレスがリンチされて下半身不随になり、人権派の団体や人権派の弁護士がわらわら寄ってきたら「大勢寄ってきて裁判したり会見したりなんてこのホームレスは強者だ」ってなるのか?
colaboは暇空にデマを飛ばされまくり、デマを信じた男数人に女の仁藤1人が取り囲まれて四方八方から罵倒される動画も複数公開されている
そのままほっといていたら過激化して取り囲んだ男たちに仁藤がいつ殺されてもおかしくない状態だった
だから暇アノンに「弁護士なのに警備員w」と揶揄されて中傷被害を受けようとも仁藤に同行して無償で守ろうとする人権派弁護士が複数ついた
暇空の弁護士みたいに金持ちにへつらってスラップ訴訟繰り返す方がよほど儲かるのに、儲からん国選弁護人とか元々やってるような連中
被害受けたのは仁藤だけでなく、家族に虐待されて立ちんぼしてその日暮らししてたような少女が匿われてるシェルターも住所や写真が晒され、自称ジャーナリストが付近徘徊したため、廃棄して別のところに移住させたりもした
ひどい犯罪被害を受けている人に寄り添おうとする者が大量に現れるのって強権に由来するものではなく、ただの優しさや慈悲なんだよ
結局、マイナカードって日本のアレコレのシステムの中では、いうほど酷くない方なんだよな。
マイナカード批判をする奴って、現状の身分証明が何十万もかかって長い時間をかけて取得する「運転免許証」であることにはまったく何もいわないのがまずカスじゃん。
免許証の身分証明、マイナカードの何万倍も利権の塊だし、弱者に優しくないし、不合理の塊でしょ。
でもそれはどうでもいいんだよな奴らには。
弱者に優しくない現状はまだまだある。
今の世の中、いつの間にやらスマホが必須な社会になってるのがそもそも弱者の負担。
なのに、スマホがない方が大抵のサービスで高くつく場合が多い。
さらに最近気づいたけど、「格安sim」ほどクレカとか必須で、その日暮らしにはハードルが高い。
マイナカードはシステム設計が甘いにしても、このうちのひとつを簡単に取得できるようにしている分いくらか筋の通る存在だ。
そういう弱者の実感を、ツイッター(X)だので「リベラル」を自称する連中は、まったくわからないし、わかる気もない。